【目 次】
・江戸町奉行所、正月の松飾りを焼く“左義長(さぎちょう)行事”を禁止、その取り外しも7日に、
 防火のためとはいえ花火の禁止に次ぎ庶民の楽しみなくなる(360年前)[再録]

・江戸町奉行、町名主に常備消火用具の点検実施指示、現在も生きている御指示の主旨(330年前)[追補]

・名古屋天明2年の大火、西北の強風に乗って名古屋城下東側焼け野原に(240年前)[再録]

・雲仙普賢岳噴火「島原大変」始まる、3か月後「肥後迷惑」へ(230年前)[再録]

・寛政の改革で定火消の担当区域を拡大、町火消の管轄内進入で消し口争いの危険(230年前)[追補]

・鹿児島文政5年の大火、城下の武家屋敷ことごとく焼失(200年前)[再録]

・幕府、堤防外河川敷への家屋建築を禁止、関東地方河川沿岸の村々に(190年前)[再録]

・大坂嘉永5年2月の大火「中船場焼け」同年最初の1000軒以上の大火(170年前)[再録]

・東京府、ランプ使用注意方布告、文明開化の明かり不注意からの火災続発に対処(150年前)[再録]

・大正11年北陸本線列車親不知付近で雪崩遭難、線路除雪作業員が犠牲に(100年前)[再録]

・大正11年東日本南東部を中心とした冬台風、被害は関東地方東部に集中(100年前)[再録]

・白鳩号、吹雪に巻き込まれ墜落事故-初の事故調査委員会発足(90年前)[再録]

・宇部長生炭坑浸水事故「水非常」強制連行の朝鮮人炭鉱夫(徴用工)80数名犠牲に(80年前)[再録]

・国立がん研究センター開設、病院と研究所と運営部が三位一帯、看護師の役割強化も(60年前)[再録]

・地震学会有志「ブループリント(地震予知 現状とその推進計画)」提言、地震予知計画国家的プロジェクトへ
 地震予知連絡会設置、地震学・測地学の基礎研究すすむ、その反面短絡的な非難が(60年前)[追補]

・ホテルニュージャパン火災、原因は建築構造、防炎・消防設備および防火管理体制の不備(40年前)[再録]

・日航機逆噴射事件。機長の異常な操縦操作は病気による幻聴などの影響か、
日本航空(株)の乗務員健康管理と安全管理責任が問われる(40年前)[再録]

・沖縄で米軍機夜間飛行差し止め訴訟起きる、嘉手納基地の軍事的重要性が原因(40年前)[追補]

【本 文】

江戸町奉行所、正月の松飾りを焼く“左義長(さぎちょう)行事”を禁止、その取り外しも7日に、
 防火のためとはいえ花火の禁止に次ぎ庶民の楽しみなくなる
(360年前)[再録]
 1662年2月24日(寛文2年1月6日)
 江戸っ子の象徴の様な花火も、八代将軍吉宗の代に打ち上げを許可されるまで70年もの長い間、大川端(隅田川河畔)などの特定の場所以外は、製造・販売も含め禁止されていた。
 これは明らかな防火対策であったが、江戸っ子の楽しみを奪ったもので大不評であった。その上これも楽しみの一つ“左義長(さぎちょう)”の禁止である。防火のためとわかっていても、納得できなかったと思われる。
 左義長とは、どんど焼きとも呼ばれている正月の民間行事で、その起源は平安時代にあるという。当時、公家たちの遊びに、毬杖(ぎっちょう)と呼ばれたホッケーのような遊びがあり、例年、小正月(旧暦・1月15日)になると、宮中の清涼殿の東庭に青竹を束ねて立て、これに毬杖の杖3本を結び、その上に扇子や短冊などを結びつけ、暦や吉兆をつかさどる陰陽師(おんみょうじ)たちが面をかぶり謡い囃しながら焼いたという。
 後にこの行事が民間にも広がり、1月15日になると、正月に使われた門松やしめ縄など松飾りを焼いて煙とともに年神様(としがみさま)を“天”にお送りし、その火であぶった餅などを食べると風邪をひかないとか、煙や炎が空に高く上がれば上がるほど善いこと(吉兆)があるとされ全国に広まった。
 左義長の語源も“ぎっちょう”の杖三本を使用するところから“さんぎっちょう→左義長”となったという。 確かに花火にくらべるとささやかではあるが、その年の吉兆を占う行事であり、禁止となると不満は大きかったであろう。だからこの左義長禁止のお触れも、同じ楽しみの花火禁止のお触れと同じように、その後何回も出ているが、この日の禁止のお触れは次の通り。
 “町中ニテ左義長前々ヨリ堅御法度ニ候間(堅く禁じているので)、一切仕間敷候(いっさいしないこと)。若相背(もし違反し)、左義長致候ハバ、共可之者共(一緒に行った者たちは)御穿鑿之上(取り調べて)急度可披仰付候間(必ず処罰する)”。
 お触れのなかで“前々ヨリ”と書いてあるのは、以前も禁じた事があるともとれるが、資料的には確認できない。ただし、禁止ではなく方法を制限しているお触れがあり、その最初のものと確認出来るのは、1649年1月31日(慶安元年12月19日)のもので“正月ノ左毬杖(左義長)ニ薪沢山ニ積重ネ、タキ申間敷事(炊かないこと)”となっている。
 これは明らかに、人々が煙や炎を高く空に上げようとして、薪を高く積んでいたことに対する制限で、左義長行事そのものの禁止ではない。燃えさしが空に舞い上がり飛び火となって延焼すると大事になるから、“薪沢山ニ積重ネタキ申間敷事”とのお触れになったもので、左義長行事が火災の原因にならないようにとの配慮であり、また実際に火事を起こしたことがあったのだと思われる。
 特にこの慶安元年は、防火に関するお触れが系統的に出されている。まず年号が正保であった4月10日(新暦・1648年6月)、将軍の日光社参に際し町人に対する最初の防火・警備に関するお触れがあり、次いで慶安となった6月27日(新・8月15日)には、初めて花火禁止令が出され、暮れの12月21日(新歴・1649年2月)には町方に対する最初のまとまった警火(防火・消火)のお触れが出ており、左義長制限のお触れはこれらのお触れ類の一環と思われる。
 なお、時を寛文2年に進めると、それまでに数回出ている“左義長制限令”が、かならず12月に出ていたのに対し、寛文2年以降何回も出ている“左義長禁止令”が必ず1月になって出ているところに興味がある。これは江戸っ子たちがその年の吉兆を占う大事な行事を禁止する指示に対して反発し、なかなか行事を中止しないだろうと考え、行事当日の小正月の日、15日近くに出して、“忘れました”などと言わせないためだったのかも知れない。
 一方、この日のお触れで、7日の朝、松飾りを取り外すように指示したのは、左義長を禁止する代わりに旧来の風習である7日取り外しを認めたのか、“禁止たあ縁起がわりいや”と、気短な江戸っ子気質を見越して、禁止されたので左義長まで松飾りを保管しておかず処分するだろうと見たのか、それらの両方かもしれない。
 禁止令から19年後の1681年2月(延宝9年1月)のお触れになると、江戸っ子たちが昔のように外した松飾りを残しておかずに適当に処分するので、処分する場合、松飾りなどを屋敷のうちや道路端で焼かずにゴミとして収集船に積むか薪にするよう指示している。
 (出典:宮田満著「年中行事消滅の契機について」、近世史研究会編「江戸町触集成 第1巻>寛文二壬寅年127頁:三三四・覚・寅正月六日(松飾り撤去、左義長禁止令)」、同編「同集成 同巻>正保五戊子年(二月十五日慶安と改元)9頁:一九・子極月十九日(初の左義長制限令)」、同編「同集成 同巻>正保五年戊子 6~7頁:一〇・子卯月・四月十日御触(初の防火・警備令)」、同編「同集成 同巻>慶安元年戊子年8 頁:一五・覚・子六月二十七日(花火禁止令)。参照:2013年7月の周年災害「江戸大川(隅田川)で花火大会はじまる」、2018年6月の周年災害「将軍日光社参に際し、町人たちに町の防火・警備について初のお触れ」、2018年6月の周年災害「江戸町奉行、防火対策で華美禁止にかこつけ花火禁止」、2019年2月の周年災害「江戸町奉行、火災シーズンを前に、町方に一連の「警火の町触」出す」、12月の周年災害・追補版(3)「江戸町奉行、近世世界初ゴミ投棄場所指定」、2019年1月の周年災害「江戸町奉行、三毬杖(さぎちょう左義長)行事に“薪を沢山積み重ねるな”と制限令」)

江戸町奉行、町名主に防火用水設備の点検実施指示、現在も生きている御指示の主旨(330年前)[追補]
 1692年2月4日(元禄4年12月18日)
 
この日、町奉行より次の御触れがでた。
 “覚”“一、町中ニ而(にて)火事之節水之手悪敷(あしき)所有之候ハゞ(使い勝手の悪い所にあるのであれば)、海道ハ不及申(大通り沿いは言うまでもなく)裏々(裏道)迄名主見廻り、水溜桶仕置(置いてあるか確認し)、水の手能様ニ可仕候(使いやすいようにする)、幷(また)火消衆(定火消)被出候はゞ(出動したときは)、井戸水溜桶之有所早々為知可(早々と知らせるように)申候事”。
 火事が起きないととかく忘れがちなのが防火用水関係の整備で、井戸はともかく、水溜め桶は乾きその上に積んである筈の手桶などは、誰かが借りてそのままになっているかもしれない。ということで、町奉行が細かく確認の指示を町々に出したもの。
 現在でも、各家庭で小型消火器を購入設置しても、置き場所を忘れたり、消火器の点検を行うことなくそのままにしていることが多いので、町奉行のこの指示は参考になる。
 読者の皆様、各家庭にある消火器の確認・点検・買い替えをしましょう。出典資料中の消防庁のパフレットをご確認ください。多分、失礼ながら“目からうろこ”状態になるでしょう。
 (出典:東京都編「東京市史稿>産業篇 第8・316頁~317頁:防火用水及薪高積制」、総務省消防庁編「自ら行う消火器の点検報告」)

○名古屋天明の大火、西北の強風に乗って名古屋城下東側焼け野原に(240年前)[再録]
 1782年2月25日(天明2年1月14日)

 巳上刻(午前9時半頃)、名古屋城の東側にあたる白壁町(現・東区白壁)の永井藤左ェ門方から出火、たちまち隣接する主税町、橦木町、片端筋の武家屋敷を焼き払った。この月は雨が少なく晴れの日が続いており、ことにこの日は西北の風が強く大火となった。
 炎の勢いは強風に乗って東西に広がり、鍋屋町裏から萱屋(かや)町、御下(おした)屋敷(葵一丁目、代官町)へと延び法華寺町の各寺院も焼失した。また東は御添地(添地町)から出放れの松原までが焼け野原となった。
 なお炎は広がって奥田町、白山横へと延び、古井村では宝珠寺や村の家々数10軒を焼き七つ時(午後4時頃)ようやく鎮火した。
 侍屋敷107軒、町家1万300軒、寺院14か所が焼失、37人死亡。
 (出典:名古屋市消防局編「名古屋の火災記録集成>名古屋の火災概況>名古屋の火災-明治前の火災-30頁~31頁:天明二年正月十四日」)

○雲仙普賢岳噴火「島原大変」始まる、3か月後「肥後迷惑」へ(230年前)[再録]
 1792年2月10日(寛政4年1月18日)

 噴火前年の11月3日(寛政3年10月8日)から、島原半島西部を中心に地鳴りを伴った火山性地震が1日に3~4回の頻度で起きるようになった。
 地震は10日(旧暦・10月15日)過ぎから次第に強くなり、12月5日(旧・11月10日)には雲仙岳南西の鬢串(びんぐし:現・雲仙市小浜町南本町内)では山の斜面が崩れ、番小屋にいた老夫婦が落石に打たれ死亡したという。
 このあと地震は次第に収まっていったが、新しい年を迎えると火山の鳴動はますます激しくなり、この日、役所に出仕した前山奉行が郡奉行に“奥山普賢岳近辺の山が強く焼け、常の山火事とは見えない”と報告、これを受け同奉行は手代(下役の役人)2人を現地調査に向かわせた。
 昼過ぎ同手代と杉谷村(現・島原市)の番人(集落の治安を預かる下役)が戻り過“山頂近くの普賢神社前のくぼみ(火口)2か所から噴煙が上がっており、その周辺からは泥土が吹き上げられている。山鳴りがすごく石などが近くへ噴出している”と報告した。
 この噴火が、約3か月後の5月21日(寛政4年4月1日)に起こる普賢岳の前山(眉山)の崩壊(島原大変終章)と、それによって引き起こされた大津波により、島原城下と有明海沿岸一帯から天草諸島、対岸の肥後国(熊本県)沿岸部をも襲った大災害「肥後迷惑」の始まりを告げる異変だった。
 (出典:砂防フロンティア整備推進機構編「島原大変記」、伊藤和明著「災害史探訪(火山編)>第5章 火砕流災害>3 雲仙普賢岳の火砕流災害110頁~112頁:島原大変」)

寛政の改革で定火消の担当区域を拡大、町火消の管轄内進入で消し口争いの危険(230年前)[追補]
 1792年2月15日(寛政4年1月23日)
 
この日、松平定信が主導した“寛政の改革”一環の防火対策は、前途多難が予測された。
 それは江戸城の防火体制強化策として「定火消担当区域拡大」を指示したもので、今まで江戸城周辺で出火の知らせが入ってきたとき、所定の場所に集合待機していた定火消の6割を城の外へ出動させ、江戸城を防火しようとする政策なのだが、今までも火災現場で繰り返していた定火消と町火消による、消し口争いを一層助長することを予測させるものであった。
 寛政の改革には江戸の防火関係の改革がいくつかあり、その一つの1791年5月(寛政3年4月)に実施された「町火消費用削減」は火消たちの不評を買い、改革失敗原因の一つとなった。しかしその後は単なる経費削減でなく、防災上効果のある政策を検討し展開していく。
 たとえば、この年の9月(寛政4年7月)に起きた“麻布笄橋の火事”の復興策として、翌10月(旧暦・9月)に打ち出した焼け跡の空き地を“火除地”として活用する政策は、江戸の町の防火対策であり、江戸っ子の避難対策でもある。
 また、翌1793年1月(寛政4年11月及び12月)の「江戸城周辺火災の際の防火命令」「火事場目印制定」は、幕府の各防火担当職制が無駄な動きをしないように重点的、効率的に人の配置をし、役割分担を明確化することで江戸城の防火体制を強化したものであった。
 さらに最後の政策として実施した「町火消に龍吐水支給」は町火消の防火戦力をアップさせ、江戸の町を守る力となっている。
 ところでこの問題の「定火消担当区域拡大」だが、次のように申渡しされた。
 “これまで火災が起きたときは、最寄りの城門へ五組が集合していたが、追って指示がある迄は、今後五組の内三組は、城郭外の火災現場に駆け付け、消火に励むこと。ただし出動する現場は、火事場見廻の指示に従うこと”とあり、城外の火災現場へ出動させ、江戸城防火体制を拡大させたのだが。
 この場合、江戸市中の消火活動の指示監督をする“火事場見廻”の指示に従うようにと決めているが、城外は町火消の管轄範囲であり、1718年11月(享保3年10月)に町人に町火消組合(のちの町火消組)の編成を命じたとき、当時の町奉行名で“消火活動の際、定火消が駆け付けてきても、そのまま活動を続け、両者ともども協力して大火にならないようにする(火消参候は、右人数上げさせ、町人も其のまま罷り在り、ともども消し、大火に不成仕候)と、両者の消し口争いを禁じ協力することを指示していた。
 しかし定火消の第一線の消火担当は例の“がえん”で、定火消役の旗本が雇った火消人足である。無頼漢(ならず者)の異名をつけられるほどの命知らずである。その面々が喧嘩っ早いことで鳴らしている生粋の江戸っ子の町火消の管轄区域に出動し、ただでも気分が高揚する火災現場で鉢合わせするのだから大変だ。
  定火消のがえんには、江戸の町の防火役として60年も早い先輩としての意地があり、旗本直属であるうえ、幕府の命令で出動しているという意識が強い。一方、町火消の鳶人足は自分たちの町を護る意気込みと、鳶職人として破壊消防のプロ意識が強く、両者は(良い意味で)それぞれ組の名前を汚すまいと功名を競い消火場所(消し口)をめぐる争いが絶えなかったという。
 (出典:山本純美著「江戸の火事と火消>江戸の町づくりと防火対策>寛政改革と江戸城の防火175頁~176頁」、東京大学所蔵目録データベース「東京都編>東京市史稿>No.3>市街篇 第31・266頁~270頁:火消役防火区域」。参照:5月の周年災害・追補版(5)「老中・松平定信、寛政の改革で町火消の費用削減を指示」、2012年9月の周年災害「江戸麻布寛政笄橋の火事」、1月の周年災害・追補版(5)「松平定信、江戸城周辺火災の際の“防火命令”出す」、同月・同版「江戸町奉行所、町火消各組に釣瓶(つるべ)と龍吐水を支給」、2018年11月の周年災害「江戸町奉行、町火消組合編成を命じる」、2018年10月の周年災害「幕府、江戸の街を守る常設火消“定火消”を新設」。)

鹿児島文政5年の大火、城下の武家屋敷ことごとく焼失(200年前)[再録]
 1822年2月21日~22日(文政5年1月30日~2月1日)
 夕方の六つ半(午後7時ごろ)、下町菩薩堂通りから出火した。炎をは直ちに燃え上がり、四方八方へ延焼、大火となった。
 城下の武士屋敷は山之口地蔵堂周辺の屋敷が焼失。日置屋敷は残ったが、周辺の屋敷はことごとく焼けた。前通りにある町家は広小路まで灰となった。また下は南林寺門前の浜手まで焼失、炎は明け方になり下火となる。
 (出典:鹿児島県歷史資料センター黎明館編「鹿児島県資料 新納久仰雑譜 1>文化4~文政8年 21頁:一月晦日」)

幕府、堤防外河川敷への家屋建築を禁止、関東地方河川沿岸の村々に(190年前)[再録]
 1832年2月7日(天保3年正月6日)

 河川敷への家屋などの建築は現在では許可がいるが、江戸時代当時、農民たちは収穫を上げるために肥沃な土地を求めて大河の河川敷に農地を広げ住家も建てたのであろう。当然、河川が氾らんすればひとたまりもなく流される。
 幕府が禁止する4年前の1828年(文政11年)には、6月(新暦・8月)の晦日(みそか:31日)、台風が梅雨前線に刺激されて九州東部から東海道、信州、出羽諸国に至るまで荒らし回り、8月(新・9月)には江戸時代最大級のシーボルト台風が北九州から西中国を襲っている。
 禁止令が出た2年前の1830年(同13年)は、宇治川が氾濫し京都では土砂災害がひん発した。
 幕府は、年々続く大水害からの防災処置として、この日、今まで洪水災害を多く残している関八州(関東地方)の大河川沿岸部で、堤防の外の河川敷に家屋を建築することを禁止したのである。
 特に今回禁止された河川は、関東の利根川、江戸川、小貝川、荒川など、代表的な大河川で次のように触れ出された。“堤外百姓家建候儀、御停止之処、段々屋敷を築立、百姓居住之所々有之、出水之障に成候間、取崩され候儀も可有之候、自今新屋敷拵候儀は勿論、小家に□も作り候儀、并(ならびに)破損修復等も堅く仕間敷候”、つまり、堤防の外に住家を建てることを禁じていたのにもかかわらず、だんだんに住家が増え住むようになっているので、河川が氾濫した際は崩壊されている。だから今後、新築はもちろん破損した際の修復も行わないように。とし、関八州(関東地方)の河川沿岸の村々へ、中でも幕府御料地の場合は代官から、大名、旗本領の場合は領主あるいは地頭より申しつけるとした。
 付属書類によると、最初に禁じたのは、八代将軍吉宗が進めていた享保の改革の時代、1727年(享保12年)とされている。
  (出典:東京都編「東京市史稿>産業編 第5>506頁~507頁:堤外家屋申禁」)

○大坂嘉永5年2月の大火「中船場焼け」同年最初の1000軒以上の大火(170年前)[再録]
 1852年2月22日(嘉永5年2月3日)

 幕末の嘉永5年は大坂城下の人々にとって厄年で、1000軒以上も焼けた大火が4回も起きており、その最初の大火がこの日起きた。
 夜九つ時(午前0時頃)大坂の中心街、中船場の堺筋唐物町(現・大阪市中央区南本町)の南へ3軒目の木綿問屋から出火、烈風に乗って炎は東南へと延焼、次第に大火となった。
 延焼した町は唐物町の南側から北久太郎町一丁目、久太郎丁、久宝寺町、南久宝寺町、ほうきや丁、東堀伝馬町まで焼失し朝四つ時(10時頃)鎮火した。
 およそ町家1030軒、土蔵5か所、空き家58軒が焼失。
 (出典:大阪市立中央図書館市史編集室編「大阪編年史 第22巻>嘉永五年>嘉永五年正月3頁:鐘奇齋日々雑記」、玉置豊次郎著「大坂建設史夜話>第17話 大阪の災害記録>幕政時代後期の大火の記録 177頁:嘉永五年二月三日 中船場焼」)

○東京府、ランプ使用注意方布告、文明開化の明かり不注意からの火災続発に対処(150年前)[再録]
 1872年2月28日(明治5年1月20日)

 江戸幕府の時代から御一新により明治新政府の時代へ。文明開化の明かりは、菜種油の薄暗い“あんどん”から“石油ランプ”へだった。
 石油ランプが一般の庶民の家々の明かりとして使用されだしたのは、ようやくこの「注意方」が布告された明治5年ごろで、当時国産化が始まり店頭で販売されると、裏長屋まで急速に普及したという。
 ところが、石油ランプの欠点は“あんどん”よりも倒れやすい事で、“石油ランプ”による火災は、はじめは東京随一の歓楽街・吉原でたびたび起こっていたが、普及と同時に一般家庭でも起こるようになった。
 特にこの月の16日(明治5年1月8日)神田旅籠町の料理店からの出火で90余戸が類焼し、これを受け東京府は、この日急遽「注意方」を各区の戸長(戸籍法に基づき東京を行政区分した区の責任者)を通じて一般市民へ布告したもの。
 その内容は、1.不良品の油を使用しない。1.ランプの掃除は昼間行い夜になって火のそばではしない。1.ランプや油の壺を火の近くに置かない。1.細い灯心は使わない。1.石油を誤って衣服などにかけたり、ランプを落としたり、転んで油で畳や敷物を汚すと火災の危険がある。1.もし火が出た場合決して水をかけてはいけない。などで、誰にでもわかりやすい内容で正しい使い方をPRし防火を促している。
 (出典:東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の消防百年の歩み>明治初期 7頁~9頁:ランプ使用注意方の布告」)

○大正11年北陸本線列車親不知付近で雪崩遭難、線路除雪作業員が犠牲に(100年前)[再録]
 1922年(大正11年)2月3日

 2月1日朝、台湾東部太平洋岸の花蓮港付近に現れた低気圧が、3日朝には紀州沖まで進み勢いを増して北東に転進、房総半島の外側を通過して4日には千島列島方面に去った。
 この影響で、日本海側北越方面では2日夜から季節外れの大雨となり、降り積もった雪をゆるませ各所で雪崩を起こした。特に国鉄(現・JR)北陸本線の市振(いちぶり)駅-親不知駅(糸魚川市)間で、長さ16m、高さ9mに及ぶ雪崩が発生し線路を埋没させ、泊駅(富山県朝日町)-親不知駅間が不通となり、糸魚川駅に2000人の除雪作業員が集められた。
 作業員の募集は鉄道省(現・JR)と陸軍省(現・陸上自衛隊)の要請で行われたので、沿線の集落から青年団の団員など若手が応募したという。集まった作業員は200人ずつ交代で除雪に当たる事になり、立ち往生していた上野発京都行きの第771列車が、親不知駅から糸魚川駅へいったん戻り、臨時の第65列車として作業員を乗せて現地へ向かうことになった。
 ところが糸魚川駅を出発し青海駅を過ぎた午後8時7分頃、勝山トンネル西口で大雪崩に遭遇、客車4両の内3両が全車両埋没、1両は3分の1が埋没した。89人死亡、35人負傷その内4人が危篤(2月7日現在)。
 事故後働き手を失った沿線集落は大打撃を受け、弔慰金は鉄道省が、遭難した作業員は“奉仕(ボランティア)隊”であったとし支払ったという。
 (出典:気象庁編「気象要覧・大正11年、12年>大正11年2月全国気象概況>暴風雨 34頁~35頁:一、二月一日ヨリ四日ニ至ル低気圧」、神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ・新聞記事文庫「大阪朝日新聞1922.2.5:大雪崩で列車埋没し即死者百余名を出す」「大阪毎日新聞1922.2.8:北陸線の大雪崩は世界で二番目の惨事」)

○大正11年東日本南東部を中心とした冬台風、被害は関東地方東部に集中(100年前)[再録]
 1922年(大正11年)2月16日~18日

 14日、台湾付近に現れた熱帯性低気圧が、16日紀州灘へ進み冬としてはまれな強烈なものに成長し潮岬で風速20.4m/秒を記録、同夜半房総半島に上陸したときは銚子で38.7m/秒、筑波で38.3m/秒を記録している。
 それにより、15日未明、壱岐付近で汽船1隻が遭難し乗員5人行方不明。16日午後4時には宇治川が増水して宇治川水力発電の千郷谷発電所の堰が崩壊、6人死亡。
 また特に被害は関東地方東部に集中し、千葉、茨城、福島各県下の鉄道23か所が土砂崩れなどで不通となり、山崩れや道路、堤防の決壊、家屋の倒壊や浸水が甚だしかった。東京府下でも浸水家屋約3000戸の被害を出している。
 茨城県下の被害、18人死亡、2人行方不明、家屋全壊35戸、同流失51戸、同半壊90戸、同浸水3425戸。福島県下の被害、83人死亡、43人行方不明、家屋流失217戸。
 (出典:気象庁編「気象要覧・大正11年、12年>大正11年2月全国気象概況>暴風雨36頁~38頁:四 二月十日ヨリ十ニ日ニ至ル颱風」)

○飛行艇白鳩号吹雪に巻き込まれ墜落事故-初の事故調査委員会発足(90年前)[再録]
 1932年(昭和7年)2月27日

 日本航空輸送(株)の定期運航便“双発飛行艇・白鳩号(ドイツ・ドルニエワール機)”が、大阪府の木津川飛行場(現・木津川尻・大正区船町)を飛び立ち福岡市の名島水上飛行場(現・福岡市東区名島)に向かった。
 ところがこの日、航路の八幡市(現・北九州市八幡東区)上空周辺は吹雪のため視界が悪く、山中に迷い込んだ末、河内貯水池近辺に墜落、乗員5人が死亡した。
 この事故は当時の日本航空界に大きな衝撃を与え、文部省(現・文部科学省)の航空評議会に初めて事故調査委員会が設けられた。事故調査委員会の委員長には、当時最高水準の航空関連の研究機関で、1918年(大正7年)4月、東京帝国大学(現・東京大学)の付属研究所として創立された航空機研究所(航研)の所長が就任し、事故原因の解明に取り組んだという。
 事故飛行機の散乱した機体の破片は、当時の福岡名島水上飛行場長の武石喜三が丹念に拾い集めて地図上に詳細に記録し、それをそっくり東大航研に運び込んで綿密に調査した。その調査は、調査委員の一人寺田寅彦をして「シャーロック・ホームズの探偵小説を読むより遙かに興味がある」と言わしめたほどだったという。
 調査の結果、機体が吹雪に耐えきれなくなり空中分解したことがわかり、国内でのライセンス生産は以降中止されたという。
 (出典:災害情報センター、日外アソシエーツ編「鉄道・航空機事故全史>第2部 鉄道・航空機事故一覧196頁:0139 飛行機墜落」、(財)日本航空協会刊・WEB版航空と文化・酒井正子著
「東京帝大航空学科(昭和2年)5回生同期生(その1)>木村秀政」)

○宇部長生炭坑浸水事故「水非常」強制連行の朝鮮人炭鉱夫(徴用工)80数名犠牲に(80年前)[再録]
 1942年(昭和17年)2月3日

 山口県西岐波(にしきわ)村新浦(現・宇部市)の海底にある長生炭鉱で朝6時頃、異常出水の知らせが坑内事務所にあり、しばらくして足下を海水が洗い始めたので揚水ポンプを動かすとすぐ焼き切れてしまったという。
 浸水個所はいまだ特定されていないが、坑口より1010m先の坑内と伝えられている。
 当時、この日の浸水までに何回も小さな浸水があり、坑内夫たちはそのつど坑外へ避難したが、何事もなかったのでひどくしかられたという。この日もそれと思い逃げ遅れた人もいたようだ。また採鉱用の道具類は自己負担なので、それを担いで逃げ海水にのまれたとか、ちょうど昼飯どきで陸上ではろくに食べるものも無い時代だったので、食事をしていて逃げ遅れたとか、いろいろな証言がある。また坑口より坑内の奥の方が高いので逃げられなくなり亡くなった人も多いようだ。
 浸水の原因は坑道保護のために堀り残した炭層、つまり“炭柱”それも危険な断層付近での過剰採掘との説もある。また犠牲者数については、当時の大日本産業報告会が編集した殉職産業人名簿によれば180人死亡とあり、内訳を分析するに日本人47人、自分の意志で同炭坑などで働いていた朝鮮人51人、「国民徴用令」による募集という名目で実際は強制的に故郷から連れてこられた朝鮮人(徴用工)82人という。なお犠牲者183人との記録もあり3人多いうち、3人全員か2人が朝鮮人と推定されるという。
 人数が不明確なのは、当時朝鮮半島は日本の植民地で、朝鮮総督府が“創氏改名”という朝鮮の人々に日本名を名乗らせ、大日本帝国の天皇陛下の民草とする“皇国臣民化運動”政策を進めており、名前だけでは朝鮮人かどうかわからない面が判別しにくくしたようだ。
 ちなみにこの炭鉱事故で犠牲となった、強制的に連行された朝鮮人労働者いわゆる“徴用工”について、自由民主党安部政権時代その独特の歴史観から“徴用工否定論”を展開、いわゆる歴史認識問題を醸成し、日本と韓国との間の友好関係を崩していた。
 (出典:宇部地方史研究編「宇部地方史研究・第19号・山口武信著・1942年長生炭坑“水非常”ノートⅡ」、Dialogue for People編「取材レポート2021.9.7長生炭鉱水没事故――その遺骨は今も海の底に眠っている」、東京学芸大紀要・人文科学系Ⅰ・第56集・李修京、湯野優子著「宇部の長生炭坑と戦時中の朝鮮人労働者」、国立国会図書館デジタルコレクション「官報 昭和14年7月8日・321頁(1コマ)~323頁:勅令・第451号 国民徴用令」)

○国立がん研究センター開設、病院と研究所と運営部が三位一帯、看護師の役割強化も(60年前)[再録]
 1962年(昭和37年)2月1日

 日本人が死亡する原因(死因)を見ると、1953年(昭和28年)にがん(悪性新生物:悪性腫瘍)がそれまでの結核を抑えて第2位となり、1981年(昭和56年)には脳血管疾患も抑えて第1位となって以降一貫して上昇を続けており、特に最近では、男性の65.5%、女性の51.2%が、一生のうちにがんと診断され(2019年)、また男性の26.2%、女性の17.7%が、がんで死亡する(2021年)という不名誉な記録を打ち立てている。
 身体の細胞の一部ががん(癌)化する原因については、遺伝子、生活習慣、化学物質汚染、放射能汚染などによるものがあるが、ヘリコバクター・ピロリ菌による胃潰瘍→胃がんなど感染症によるものも明らかになっている。
 そのような状況の中で、日本のがん研究の最高峰である“国立がん研究センター”がこの日開設されている。
 同センターの設立は、1981年にがんが死因の第2位になったことで、その翌年から全国の国立大学に一斉にがん診療施設が設けられ、やがて各地のがん診療施設の拠点となる国立機関の必要性が検討され設立の運びとなった。
 同センターの組織的な特徴は、病院と研究所と両者を有機的につなぐ運営部が三位一帯となっていることで、これに当初からの目標である高レベル看護体制という看護師の役割の強化も含め、それまでの日本の病院経営から脱皮した進んだ体制にあるという。
 (出典:厚生労働省編「平成21年(2009年)人口動態統計(確定数)の概況>人口動態統計年表(最新データ、年次推移)>死亡・第7表・死因順位(第5位まで)別に見た死亡数・死亡率(人口10万対)の年次推移」、厚生労働省編「令和3年(2021年)人口動態統計(確定数)の概況>統計表>第6表性別にみた死因順位(第10位まで)別死亡数・死亡率(人口10万対)・構成割合」[追加]、国立がん研究センター編「最新がん統計>1.最新がん統計のまとめ」[追加]、同研究センター編「国立がん研究センターの理念と使命」)

地震学会有志「ブループリント(地震予知 現状とその推進計画)」提言、地震予知計画国家的プロジェクトへ、
 地震予知連絡会設置、地震学・測地学の基礎研究すすむ、その反面短絡的な非難が(60年前)[追補]

 1962年(昭和37年)2月
 地震学会員有志による地震予知計画研究グループが「地震予知 現状とその推進計画(通称・ブループリント)」を取りまとめ、この月公表された。
 これにより、文部省測地学審議会(現・文部科学省 科学技術・学術審議会 測地学分科会)が「地震予知研究計画」として建議した。この研究計画は1968年度(昭和43年度)から国家的プロジェクトとして推進され、翌1969年度(昭和44年度)から「地震予知計画」と改名、7次に及ぶ5か年計画として34年間継続される。 また同年4月、国土地理院に事務局を置いた“地震予知連絡会”が設置され、地震予知に関する調査・観測・研究結果等の情報の交換とそれらに基づく学術的な検討を行っている。
 さらにその成果は、地震予知の研究と実用化に限らず、我が国の地震学・測地学など関連する地球科学の推進に大きな影響を与え、気象庁の地震・津波業務体制の整備など防災面の強化にもつながっている。
 一方その“地震予知”という名称から、基礎的な研究面や成果を評価せず、2011年(平成23年)3月に東日本大震災など巨大地震が起きると、その予知の有無が問題視されたり、予測されている東海地震が発生しないと短絡的に“地震予知が当たっていないのではないか”とする非難が起こり、今後ともまだまだ「予知計画」への理解は欠かせない。
 (出典:日本地震学会編「日本の地震予知・予測研究の歴史(1962年のブループリント以降)>過去の地震予知研究計画>地震予知―現状とその推進計画(1962年)」、日本地震学会編「ブループリント50周年-地震研究の歩みと今後->招待論文 5頁~8頁:津村健四朗著「ブループリントと地震予知計画-成果と問題点再考-)、 地震予知連絡会編「地震予知連絡会について」。参照:2011年3月の周年災害(10年前の大災害特集)「2011年 東北地方太平洋沖地震:東日本大震災」、2016年8月の周年災害〈下巻〉「東大理学部石橋助手、東海地震説発表」

○ホテルニュージャパン火災、原因は建築構造、防炎・消防設備および防火管理体制の不備(40年前)[再録]
 1982年(昭和57年)2月8日

 深夜の午前3時半頃、当日宿直のフロント係が仮眠するため9階までエレベーターで行き、エレベーターを降りる時、煙のにおいを感じ、983号室のドアの隙間から煙が吹き出しているのを発見。すぐさま1階に降りて同僚に指示、3時39分、指示を受けた1人が消防機関に119番通報。
 ルームサービス係がエレベーターで9階まで行き、エレベーターホールに設置の消火器を持って983号室に入り消火しようとしたが失敗する。火事を発見したフロント係は9階に戻りエレベーター前の屋内消火栓設備の機動ボタンを押しホースを延長したがこれも放水に失敗。
 指示されたスタッフがホテル内の自動火災報知機のスイッチを押すもオフになっていたので作動せず、睡眠中の315人の宿泊客のほとんどの人が火事に気がつかなかった。焼失した火元の9階に76人、延焼した10階に27人宿泊していたが、不審な事態に気がついて廊下に出た数名の客をスタッフが避難誘導したのみで室内までに誘導が及んでいない。宿泊客33人死亡そのうち13人が飛び降りて死亡、34人負傷、消防隊による救助者63人。9時間後の午後12時36分鎮火。
 出火の原因は、983号室に宿泊した客のたばこの不始末と推定されているが、大火災となった原因はホテルの建築構造、防炎設備、消防設備などの不備、防火管理体制の不備などがあげられ、また東京消防庁から再三に渡りそれらに対する改善命令を受けていたがそれをことごとく無視していたという。そのためホテル側の管理問題が問われ、同ホテルの横井英樹社長は業務上過失致死傷罪で起訴され、1987年(昭和62年)5月、東京地裁はホテル火災ではもっとも重い禁固3年の実刑判決を言い渡している。
 (出典:消防科学総合センター編「WEB消防防災博物館>消防防災関係者向け>火災・事故>特異火災事例>昭和50年~59年>(株)ホテルニュージャパン」、近代消防臨時増刊号「日本の消防1948~2003>年表 1.災害編>昭和57年・ホテルニューパン火災」)

○日航機逆噴射事件。機長の異常な操縦操作は病気による幻聴などの影響か、
 日本航空(株)の乗務員健康管理と安全管理責任が問われる
(40年前)
 1982年(昭和57年)2月9日

 日本航空DC8・350便は、午前7時34分福岡空港を離陸、その後順調に飛行し8時35分には羽田空港への着陸許可を受け準備態勢に入った。
 ところが8時44分1秒、機長は自動操縦装置を切ると、とつぜん操縦輪を前に倒して機首を下げながらエンジンの水力を絞る操作と、エンジン4基のうち2基の逆噴射装置を作動させたため、機体は前のめりになって降下し始めた。
 エンジンの回転数が減少して行くのに気づいた航空機関士が注意をうながし、機長の操作に抗して、副操縦士が操縦輪を引き起こしたので機首の下げ角度は浅くなったが、8時44分7秒、機体は滑走路510m手前の海面に前脚からつっこみ、機首がもぎ取られて約4分の1が海中に沈んだ。
 乗客166人の内24人死亡、87人重傷、54人軽傷、1人が奇跡的に無傷。乗務員8人全員重傷。当時の機長の行動が異常とされたが、後に統合失調症とわかり、異常な操作は病気による幻聴などの影響による行動とされ、日本航空(株)の乗務員健康管理と安全管理責任が問われた。
 (出典:運輸安全委員会編「航空>報告書検索>事故(発生年月日表示順>1982年2月9日・報告書番号58-3(概要)」、日本全史編集委員会編「日本全史>昭和時代>1982(昭和57)1168頁:日航機、羽田沖に墜落、心身症の機長着陸直前に逆噴射」)

沖縄で嘉手納空軍米軍機夜間飛行差し止め訴訟起きる、嘉手納基地の軍事的重要性が原因(40年前)[追補]
 1982年(昭和57年)2月26日
 
アメリカ軍は1945年(昭和20年)3月23日、太平洋艦隊による“鉄の暴風”と呼ばれた猛烈な艦砲射撃を皮切りに4月1日、沖縄本島中部西海岸へ上陸開始、嘉手納(かでな)飛行場(当時・中飛行場)は、日本軍守備隊の水際抵抗作戦放棄によりやすやすと占領された。
  飛行場を占領したアメリカ軍は「銃剣とブルトーザー」と呼ばれた軍事力によって地元住民を追い出し周辺の田畑や集落を接収、飛行場面積の9割以上を占めるそれらすべてをつぶし、広大な現在の嘉手納飛行場を建設する。田畑や住家を奪われた住民たちは、やむを得ず飛行場周辺の狭い土地に住みつくことになる。これがアメリカ軍用機の発する爆音による“睡眠妨害”や“騒音性聴力被害”を生む原因となった。
 周辺の住民に被害を及ぼしている嘉手納空軍基地は、沖縄本島中部地域にあり、嘉手納町の82%東京都品川区に匹敵する面積の1985万5000平方mを占め、全長約3700mの滑走路2本を有する東アジア最大かつ在日アメリカ空軍最大の基地で、戦闘機を始め輸送機、ヘリコプターなど約100機の戦闘用航空機を常駐させているだけでなく、日本国内外からも戦闘機、攻撃用ヘリコプター、オスプレイなどが昼夜を問わず飛来、常駐機とともに実戦さながらの飛行訓練や演習を繰り返しており、日米合同委員会で合意された「航空機騒音規制措置(騒音防止協定)」は守られておらず、日本政府は黙認状態のままという。
 嘉手納空軍基地周辺に居住する住民の被害は、まず深夜早朝の時間帯に頻発する爆音による睡眠妨害をはじめとして、長年居住していることによる騒音性聴力損失や絶たない墜落、落下事故による損害であった。
 耐えかねた被災住民たちは、訴訟前年の1981年(昭和56年)9月、嘉手納米軍基地爆音防止住民共闘会議(爆音共闘会議)を結成、同年11月には沖縄市、具志川市および石川市(現・うるま市)、嘉手納町、北谷(ほくたん)町、読谷(よみたん)村の住民601名による原告団を結団。そしてこの日、夜間飛行差し止めおよび過去将来の損害賠償等を国に求め那覇地方裁判沖縄支部に提訴した。
 2023年2月19日、嘉手納基地爆音訴訟第4次訴訟の第1回口頭弁論が、那覇地方裁判所沖縄支部で開かれたが、中国・習近平政権による台湾解放政策はアメリカとの対立を深めており、それにより嘉手納アメリカ空軍基地、ひいては沖縄諸島各アメリカ軍基地の重要性は今まで以上に増しており、“夜間飛行差し止め”という基地能力を落とす訴訟の行方は予断を許さない。
 (出典:嘉手納基地爆音訴訟団編「静かな夜を返せ>被害について>爆音被害・嘉手納飛行場周辺の航空機騒音の状況、嘉手納飛行場周辺の爆音被害の特徴」同訴訟団編「裁判について>裁判の足跡」。参照:2015年4月の周年災害「アメリカ軍、無抵抗に乗じ沖縄本島にやすやすと上陸」)

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(2023年2月・更新)

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