【目 次】

・幕府、将軍の親衛隊、小姓組、書院番、新番、小十人組に江戸城近辺火事の際の詰め場を指定

・幕府、インフルエンザ大流行を受け疫病救急法を刊行、諸国に頒布する、[改訂]

・松平定信、江戸城周辺火災の際の「防火命令」出す。役割分担の明確化と効率的な人員配置

・江戸町奉行所、町火消各組に釣瓶(つるべ)と龍吐水を支給、民間の消防力強化を目指す

・徳島文政7年の大火、徳島城下史上最大の大火

【本 文】                                         

幕府、将軍の親衛隊、小姓組、書院番、新番、小十人組に江戸城近辺火事の際の詰め場を指定
  1664年1月
(寛文4年12月)
 将軍の居城、政治の中心江戸城は、火災シーズンともなると防火体制の整備を目指し様々な決まり事が指示されるようになる。
 中でもいろいろ指示されて大忙しなのが将軍親衛隊の番衆(5番方)で、1629年11月(嘉永6年10月)に江戸市中の巡回を命じられたのを皮切りに、1639年11月(嘉永16年10月)には、本丸殿舎再建工事中に不祥事がないように見廻る役が舞い込み、1649年6月(慶安2年5月)には武家屋敷街火災後、屋敷の主人や辻番人の火災時の対応チェックなど、それも昼夜分かたずの勤務で、交代制とはいえ寝る間もないくらいだ。
 そして今度は江戸城内消防の仕事である。お役が回ってきたのは、小姓組、書院番、新番(1643年:寛永20年設置)、小十人組の諸士たちで、江戸城近辺で火災が起きた際、直ちに出動できるよう城内の集合場所が指定され、そこで待機するよう指示された。
 まず小姓組供番は桜田口大腰掛(待機小屋)、書院番供番は大手大腰掛、新番先番は御花畑(吹上御庭)下、小十人組共番も御花畑下、歩行之衆(徒士:かち組)供番2組は大手、持弓組・持筒組の内1組が北拮橋(きたはねばし)の前で待機することとなった。今回の役には親衛隊の番衆だけでなく、御徒士組(歩兵隊)、持弓組(弓隊)、持筒組(鉄砲隊)など、戦国時代の戦闘集団の子孫が召集されている。
 なお、非番(勤務外)の者でも遊んでいるわけにいかず“非番之面々は宿所(家)に在之て(ありて:在宅して)、頭々(組頭)え召仕之者(連絡係の家来)を付置(つけおき:派遣し)、可任差圖(指図を待つ)”と、在宅していても組頭の命令一下出動しなければならなかった。
 ちなみに小姓組、書院番の番衆の勤務は、お城に登城して初日、二日目は城内で待機、三日目は将軍が外出する際お供をする“供番”を務め、四日目は将軍跡継ぎの世子や隠居した前将軍が起居する西の丸に勤務し、五日目は大手番所に勤務、六日目が御先番として出るべく城内で待機、七日目が西の丸での供番と、ひとめぐりして1日間の非番(明番:あけばん)の日となるが、この日が消火出動待機日で、むしろ気が休まらず、出動すれば炎相手に格闘ということで大変だった。また、例の巡回警備の仕事も上記の勤務も交代制なので、お城で勤務から外れ待機中の者が選ばれている。いずれにしても番衆は遊んでいる暇はなかったようだ。 
 (出典:黒木喬著「江戸の火事>第2章 武家火消の発達>1.江戸城の防火32頁~33頁」、高柳真三+石井良助編「御触書寛保集成>二十六>火事幷火元等之部768頁:1448 寛文四辰年十二月・覚」。参照:2019年11月の周年災害「幕府、大番、書院番、小姓組番の番衆に初の夜廻り(市中巡回)仰せつけ」)
 

幕府、インフルエンザ大流行を受け疫病救急法を刊行、諸国に頒布する(280年前)[改訂]
 1734年1月(享保18年12月)
 
前年の享保大飢饉の影響によるものか、体力の弱った人々の上に、この年は世界の窓口・長崎に侵入したインフルエンザが大流行し、特に7月(旧暦・6月)から8月(旧・7月)にかけて全国的に広まった。江戸ではこの1か月間に8万人が死亡、大坂では13万7415人が患ったという。
 そこで幕府は、将軍吉宗の民生政策の一環として、お抱え医師の望月三英と本草学者(植物学者)で採薬使(薬草の調査・採集担当)として幕府に使えていた丹羽正伯に命じ、インフルエンザに限らず、疫病にかかった際の手軽な対策法のガイドブックを編集させ、町奉行所に命じて印刷、刊行させ、これを諸国に頒布した。
 この小冊子では、疫病対策として簡単に庶民や農民の手で出来る薬汁や、飢饉の時に多い食中毒の処方なども記している。なおこの処方は、半世紀後の天明の飢饉、また1世紀後の天保の飢饉の際にも、広く諸国で読まれ活用された。
 (出典:日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>享保18(1734) 674頁:飢饉後の疫病対策に、幕府が救急ガイドを出版、頒布」、コトバンク「望月三英」、同「丹羽正伯」。参照:2012年8月の周年災害「ウンカ大発生し享保の大飢饉」、7月の周年災害・追補版(5)「享保18年インフルエンザ全国的流行、世界的な大流行の一環か」[追加])

松平定信、江戸城周辺火災の際の「防火命令」出す。役割分担の明確化と効率的な人員配置
 1793年1月2日(寛政4年11月20日)
 
1792年9月7日~8日(寛政4年7月21日~22日)、麻布笄(こうがい)橋(現・港区)の御家人の家から出火し、南の強風に乗って江戸城を北から西へぐるりと取り巻く侍屋敷街の大半を焼き、小石川御門(現・文京区)の内側で焼け止まった大火は、珍しく江戸城周辺から起きた火災であったうえ、御門まで全焼した。一方消火隊は、お城近くの火事だ!ということで、いろいろな火消組が殺到、指揮、命令系統が乱れ、江戸城の防火体制が混乱したようだ。
 老中・松平定信は“寛政の改革”の一環としてそれまでさまざまな手を打ってきたが、この大火時の状況を受け、今後そのような混乱を起こさないために、まず大火後、さほど日をまたずに9月(旧暦・7月)焼け跡を整理し火除地(防火用の空き地)を設けた。ついでこの日、江戸城周辺で火災が起きた場合、旗本、御家人の防火対策などを監視する目付と大名火消や定火消の監督を行う御使番に、火災の状況によって防火体制を考慮する。また狭い所へ人数を繰り出しすぎて混乱を起こさないようにと具体的に次の「防火令」を指示した。
 “出火の際は、江戸城大手門酒井雅楽守(うたのかみ)上屋敷辻番所へ留守居役が出向いて待機し、定火消の出動を待つことにしているが、ボヤと遠火の場合はそこまでしなくてよい。”
 “大手門と桜田門方面で防火をする火消の人数と担当の侍が率いる下人の数は、総人数3~400人ほど、馬上(指揮を執る者)6,7騎、目印のまとい2本”。また“人数数多差出され候得は、火事場込(混)合候故、右之通に候間”と、出動人数を制限した理由をのべている。
 また1月15日(同年12月4日)には、将軍家からの火災偵察役である小姓、御小納戸など将軍の身の回りに勤務している者が、火災時にほかと紛れずお役目が全うできるよう、服装や持ち物も定めている。

全体に前政権の田沼時代の経済膨張政策の改革を目指した定信らしい緊縮政策だが、防火対策ではただ減らすのではなく、重点的、効率的に人の配置を考え、各自の任務、位置づけを明確化している。
 (出典:東京大学所蔵資料目録データベース「東京都編・東京市史稿>No.3>市街篇 第31・374頁~376頁:火除明地設定、467頁~468頁:[付記]防火命令、477頁~478頁:〔付記1〕火事場目印」山本純美著「江戸の火事と火消>江戸の町づくりと防火対策>寛政改革と江戸城の防火175頁~178頁」。参照:2012年9月の周年災害「江戸麻布寛政笄橋の火事」)

江戸町奉行所、町火消各組に釣瓶(つるべ)と龍吐水を支給、民間の消防力強化を目指す
 1796年1月27日(寛政7年12月18日)
 
松平定信の寛政の改革の一環としての消防制度改革は、1791年5月(寛政3年4月)に行った町火消の費用削減のように失敗したものもあったが、実施されたのは失脚後であったが、この日の釣瓶(つるべ)と当時の消防ポンプ龍吐水の町火消各組への配布は、民間の消防力の強化を目指したものだった。
 江戸町奉行からの龍吐水の配布は、1765年2月(明和元年閏12月)初めて行われていたが、配布先は江戸城周辺の13組だけで、江戸中の町火消組全体には配布されていなかった。これは明和当時、町奉行でも民間の町火消といえども、江戸城を火災から守る戦力の一つとしか評価していなかったせいで、この日、全火消組に配布しようというのは、定信の町政改革の一つの成果であろう。ただし龍吐水そのものの消火力の低かったのは、当時の技術力の問題で仕方がなかろう。
 この日、町火消各組全体に釣瓶が配布され、深川、本所など郊外の火消組には龍吐水が配布された。市中の町火消組はすでに龍吐水を所持していたからであろう。
 
(出典:東京大学所蔵資料目録データベース「東京都編・東京市史稿>No.3>市街篇 第31・964頁~973頁:[付記、1]釣瓶及龍吐水」、山本純美著「江戸の火事と火消>江戸の町づくりと防火対策>寛政改革と江戸城の防火178頁」。参照:5月の周年災害・追補版(5)「老中・松平定信、寛政の改革で町火消の費用削減を指示」、2月の周年災害・追補版(2)「江戸町奉行、江戸城周辺の消防力強化のため、竜吐水を町火消組に支給」)

徳島文政7年の大火、徳島城下史上最大の大火
 1825年1月30日(文政7年12月12日)
 
城下がまだ熟睡中の朝の8つ半(午前3時)ごろ、新町橋筋のそば屋と畳屋から同時に出火、強い西北の風によってみるみるうちに延焼、気が付いてボヤのうちに消す人も少なく大火となった。
 類焼範囲は、西は西二軒屋通り、北は新町橋筋では2,3軒を残して全焼、東は一円焼け野原となり、南は大工町の片側だけ焼けずに残り、紺屋町も1軒だけ残し全焼。昼八つ時(午後2時ごろ)鎮火した。
 「阿波年表秘録」は城下かまど数932、納屋204か所、土倉24か所被災と記録し、幕府への御届けでは、町家1398軒、破壊消防での取り崩し13軒、納屋77軒、土倉24か所被災としており、被災数が異なるが、江戸時代徳島城下史上最大の大火となった。放火説もある。
 (出典:徳島市編「徳島市史>第6章 戦争編・治安編・災害編>第4節 火災・海難>2.史料に見る城下町の火災649頁~651頁」)

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(2023年1月・更新)

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