【目 次】

・天武天皇、老いた僧尼が利用できる療養所の開設を指示(1340年前)[再録]

・幕府、大番、書院番、小姓組番の番衆に初の夜廻り(市中巡回)仰せつけ、市中警備(防火)体制を整備、
 
のちに昼間も巡回し、その職務は火災後の対応から江戸城の防火役まで次々と拡大(390年前)[改訂]

・幕府、本丸殿舎全焼を受け、奥方火之番を任命し表火之番と分ける、大奥防火体制強化(380年前)[改訂]

・幕府、奉書火消を専任化し初めて組織的な消火体制に、ただし町方対策は10年後(380年前)[改訂]

・江戸町奉行、市中町方の夜番(火の番見廻り)に対する管理を強め防災体制強化
-後に増番、中番、屋根番、火の見やぐら番へと火の番役を増やす(370年前)[改訂]

・桜島、安永8年の大噴火。山上の噴火から海底噴火へと続き5つの火山島を形成(240年前)[改訂]

・越中国新川郡、大凶作で農民一揆“ばんどり騒動”起こる(150年前)[再録]

・明治32年、ペスト国内で初の大流行、防疫で北里、野口、緒方3博士が成果(120年前)[再録]

・明治42年筑豊炭田貝島炭坑大之浦坑桐野二坑、炭じんガス爆発、炭じんの浮遊見落としか(110年前)[再録]

東京市衛生試験所、初の空気の衛生展覧会開く。東京の大気汚染指摘、生活環境改善打ち出す(90年前)[追補]

・水俣病に抗議する地元漁師、新日窒の誠意のない態度に怒りが爆発し水俣工場に乱入(60年前)[改訂]

・初の公害被害者全国大会開催、加害企業、政府に徹底した被害者対策、公害防止対策を要求(50年前)[再録]

・ニュージーランド航空DC10旅客機、南極で山腹に衝突、邦人24人死亡(40年前)[再録]

・道路交通法改正され、自動車運転中の携帯電話使用禁止、スマホも同罪(20年前)[再録]

・東名高速飲酒運転事件起きる。署名運動など世論の高まりを受け危険運転致死傷罪成立へ(20年前)[追補]

【本 文】

○天武天皇、老いた僧尼が利用できる療養所の開設を指示(1340年前)[再録]
 679年11月(天武8年10月)

 6世紀後半あたりから仏教への信仰を深めていた朝廷では、老いた僧侶や尼僧を救援する施策を実行することになった。
 天皇はその勅語(お言葉)の中で“凡諸僧尼者常住寺内、以護三宝(僧侶や尼僧たちは、長年寺院で常に仏像、教典を護り、出家者を守り育ててきた)”が、“然或及老、或患病、其永臥狭房、久苦老疾者、進止不便、淨地亦穢(しかし老いたり病に倒れ、ひどく狭い僧房(住居)に臥している。老いて長い間、病に苦しんでいる者は、日常の動作が不便で、清潔であるべき所も汚れてくる)”と、老いた僧尼たちの苦境を述べ、次の救援策を指示した。
 “今以後、各就親族及篤信者、而立一二舎屋于間処、老者養身、病者服薬(今後は、それぞれの親族や信仰の篤い者たちを頼り、一つや二つの舎屋(療養所)を空いた土地に建てて、老いた者は養生し、病気の者は薬を飲みなさい)”と諭した。
 この朝廷の救援策は、言うなれば互助策で、国が費用を賄うわけではないが、長年、仏教興隆に尽くした人たちの苦境を把握し、救援しようとした点は、次の世代の光明皇后などに受け継がれ、そこでは救援の対象は僧尼だけでなく広く国民全体にひろがり、療養施設の費用は国の税で賄われるようになっていく。
 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション「国史大系、1巻 日本書紀>巻第二十九 天武天皇 518頁(267コマ):冬十月・是月」。参照:2020年5月の周年災害「光明皇后が施薬院を置く」[改訂])

幕府、大番、書院番、小姓組番の番衆に初の夜廻り(市中巡回)仰せつけ、市中警備(防火)体制を整備
 のちに昼間も巡回し、その職務は火災後の対応から江戸城の防火役まで次々と拡大(390年前)[改訂]

 1629年11月29日(寛永6年10月7日)
 幕府は、将軍の親衛隊である大番、書院番や小姓組番などに属している旗本たち(番衆)に、この日、初の江戸市中定期的巡回(パトロール)役を任命、そののち防火や警備に当たらせたり、必要に応じて別隊を編成させるようになる。
 明治政府が編さんした百科事典「古事類苑」の官位の部に徳川氏職員として“昼夜廻”という職務が紹介されている。それによると“大番、書院番、小姓組番ヨリ出役シテ、各江戸市中ヲ巡廻(回)シ、非常ヲ警戒ス。並ニ称して昼夜廻(り)ト云フ。此事寛永六年(1629年)ニ始マル”とある。
 その勤務時間と人数は“当時ハ夜中ニ限リシガ、後ニハ、昼夜共ニ時ヲ定メテ巡廻(回)スルコトヽナリ、又其人数モ初メハ大番ヨリ十五人、書院番ヨリ八人、小姓組番ヨリ七人ヲ出スニ過ギザリシガ、元禄十年(1697年)ニ至リ、書院、小姓組ノ両番ヨリ各百人ヲ出シ、大番ヨリ八十人を出スコトヽナリ、宝永六年(1709年)以後ハ、両番ヨリ各七十四人ヲ出シ、大番ヨリ四十八人ヲ出スコトヽナレリ。又巡廻(回)ニ遠近ノ別アリテ、両番ハ江戸城ニ近キ内郭ノ地ヲ廻リ、大番ハ、遠キ外郭ノ地ヲ廻レリ”とある。
 江戸市中の巡回を最初に指示された月日は“寛永六己巳年十月七日(新暦・1629年11月29日)、晝(昼)夜廻り、初而被仰付候由(三番頭歴代・晝夜廻り心得覚)”で、寛文年間(1661年~1673年)頃までは、宵過(日没後)と暁(早朝日の出前)の夜間2回巡回していたいう。時の将軍は三代家光だが、内政面では1633年(寛永10年)に幕府機構を確立させ、1635年(同12年)には参勤交代制を制定するなど次々と幕府体制の基礎固めを行っており、本拠である江戸市中の警備及び防火については、それらより早いこの1629年(同6年)に、市中巡回以外にも次の対策を立てている。
 まず5月(旧暦・3月)、江戸城を囲む外堀と内堀の間、内郭にある武家屋敷街へ、現代の交番に通じる“辻番所”を、内堀から江戸湾、隅田川の間に広がる日本橋、神田など町人街には町木戸を設置させ、警備体制の整備を図った。次いで7月(旧・5月)には領地に帰国せず江戸に残っている在府大名たちに“大名火の番”つまり大名火消の始まりとなる、火事発生の際、将軍の命令書・奉書によって出動する“奉書火消”を誕生させている。将軍親衛隊による江戸市中の巡回は、これら警備、防火、消火体制整備の一環であった。
 ではその市中巡回の範囲だが、まず“近廻り”と呼ばれた城の内郭の巡回は書院番、小姓組番の両番に所属する者たち(番衆)が命じられ、飯田町一、田安もちのき坂ノ上、市ヶ谷御門の内、四谷御門の内、赤坂御門の内、永田町、麹町、牛込御門の内、土手限りで、現在のほぼJR中央線の内側に当たる地域を担当した。
 次の“遠廻り”と呼ばれた城の外堀(外郭)郊外の巡回は、戦国時代の旗本備えの先鋒を勤め屈強をうたわれた大番組に所属する者たちが命じられ、雑司ヶ谷、大塚、小石川、牛込、河田ヶ久保(現・市谷柳町)、市ヶ谷御門の外、食違(見附)、鮫が橋(現・新宿区若葉二、三丁目周辺)、権田原、千駄ヶ谷、青山、四谷大木戸の内、内藤(新)宿、中野、大久保、高田馬場限りと、現在の中央線中野以東の北側(外堀北側)と山手線に囲まれた地域で、当時の江戸の西北部一帯となりかなりの広範囲である。
 次に巡回する1組の人数とその期間だが、近廻りの書院番衆8人と小姓組番衆7人の合計15人と、遠廻りの大番衆15人を、遠近二手とも各6人ずつ2組に分け、1組が昼夜それぞれ分担して5日交代で巡回した。また遠近とも残りの各3人を予備要員とし、その内各2人を警備大事の日とした際に支援する“助廻り”とした。巡回する期間は2月(新暦・3月)から10月(新・11月)までとなっている。
 ところが、1697年12月(元禄10年11月)になると書院番衆と小姓組番衆それぞれ100人、大番衆80人の合計280人と9倍以上の大幅増員となった。これは前月11月30日(旧・10月7日)、府内大塚の日蓮宗善心寺門前町から出火し牛込から麹町、飯田町あたりの武家屋敷876軒と周辺の見附門、町家などを灰とした大火災が影響したものと思われる。その12年後の1709年4月(宝永6年3月)になり、書院番衆と小姓組番衆各74人、大番衆48人の合計196人と少なくしたのは、将軍親衛隊としての他の職務に差し支えがあったと思われるが、江戸の市街地の広がりが3割減程度にとどめているのではないか。さらに1667年7月(寛文7年6月)から当時の新開地である本所、深川にも巡回するようになり“本所昼夜廻り”といわれた職務を増やしたのも、江戸の発展を物語っている。
 今一つ、はじめて“昼夜廻”を設置した10年後の1639年11月2日(寛永16年10月7日)、同じ大番、書院番、小姓組番の番衆に別の配置の二つの警備役が命令されている。
 実はこれは2か月前の同年9月(旧・8月)天守閣を残し本丸
殿舎(御殿)が全焼、それは三代将軍・家光が内装を見て、装飾が華麗すぎるとして改装を命じたほど壮大なものであったが、1637年12月(寛永14年11月)に竣工し、わずか2年8か月ほどで焼失したものだけに、その再建工事に際した防火対策は厳重で番衆に特命が下る。
 その一つは、小姓組衆7人、書院番衆8人、大番衆15人の合計30人による編成で、昼夜を分かたぬ再建工事のため、手伝役を命じられた諸大名が派遣した手伝人足たちの仮宿舎(小屋敷)を巡回し、同年9月(旧歴8月)に禁令が出されている喧嘩、口論など争いごとが起きぬよう警備に廻った。今一つは、工事中の市中警備巡回だが、その巡回する範囲は、神田筋(方面)、山之手筋、桜田筋の三方面で、各番衆から36人を選び、各1隊2人で宵過ぎと暁の担当に分け、各方面ごとに壱番組、弐番組、三番組の番衆混成で編成された3組6隊が交代制で、翌3日(旧・10月8日)から出動した。これは従来からの昼夜廻衆の夜間の守備範囲を補強するものだった。
 そのほか警備(防火)ではなく火災後の対応を命じられたケースもあり、1649年6月(慶安2年5月)には書院番30人、花畑番(小姓組番)30人ずつが昼夜交代して武家屋敷街を見廻り、屋敷内の独身武士などが住まう長屋などで大火事があった際、その主人に注意し、近くの辻番人がその時油断して熟睡していたのであれば、よく調べて処罰して良いとした(“辻番油断大寐(寝)など仕ニ於てハ、相断可”)。この処置は、同じ年の2月(旧・慶安元年12月)に、これは武家屋敷と町屋が混在している地域に出した指示であろうが、その町方に出した「警火令」のお触れの中に“若辻番之者臥(寝)候ハヾ、からめ捕、橋之上ニさらし”という指示と似ており、辻番の職務怠慢に対する処置を番衆、町人それぞれに指示したもので興味深い。
 次いで1663年1月(寛文2年12月)、幕府は、御家人で平の下級役人である“同心”たちに、防火の心得と非番の時の火事に対する注意そしてこれは武士らしく放火犯に対する逮捕権を与え、直参の幕臣防火総動員体制をとったが、2年後の1665年1月(寛文4年12月)には、本編の主人公“番衆”たちにも江戸城周辺に火事があった場合、城内の集合場所で待機するよう指示し、江戸城の防・消火体制を強化している。
 ちなみに、かのテレビドラマで有名な泣く子も黙る“火付盗賊改役(火盗改)”が初めて設けられ、旗本水野小左衛門守正が就任したのは、その10か月後の翌寛文5年10月(1665年11月)で、警備体制は一段と厳しくなる。
 また1667年7月(寛文7年6月)から番衆による新開地の“本所昼夜廻り”が始まり、それに習ったのか、従来の番衆による江戸市中巡回の組にも夜間だけでなく、昼間も“近廻組”でも1時半(約3時間)、“遠廻組”は2時(約4時間)も巡回するようになり、文字通り“昼夜廻役”となった。
 将軍の親衛隊員とはいえ、非番の時も待機する必要があり、警備に防火に消火にと戦国時代より忙しい時代を迎えている。
 (出典:文部省ほか編「古事類苑・官位部二十一(巻)>官位部 六十八>徳川氏職員 1096頁~1103頁(81~84コマ):附・昼夜廻」、東大史料編纂所・所蔵史料目録データーベース・東京市編「東京市史稿>No.2>皇城篇 第1>本丸殿舎の営造 1178頁~1179頁:江戸中夜廻之義、……」[追加]、同編「東京市史稿>同>皇城篇 第1>本丸殿舎の営造 1174頁:御本丸御普請之時御条目」[追加]、同編「東京市史稿>No.4>市街編 第6>505頁~506頁:警火令」、高柳真三+石井良助編「御触書寛保集成>二十六>火事幷火元等の部 768頁~769頁:一四四八 寛文四辰年十二月 覚」[追加]。参照:2019年5月の周年災害「幕府、江戸武家屋敷街に辻番所設置」[改訂]、「幕府、町木戸設置させ辻番と後の自身番と共に治安強化はかる」[改訂]、2019年7月の周年災害「諸大名帰国に際し、在府大名たちに火の番仰せつける、奉書火消の文献初出」[改訂]、2017年11月の周年災害「江戸大塚-麹町元禄10年の大火」、下記「幕府、本丸殿舎全焼を受け、奥方火之番を任命し表火之番と分ける」[改訂]、2019年2月の周年災害「江戸町奉行、火災シーズンを前に、町方に一連の“警火の町触”出す」[改訂]、1月の周年災害・追補版(3)「幕府、諸同心に防火の心得を指示」、2015年11月の周年災害「幕府、火付盗賊改役を設ける」)

○幕府、本丸殿舎全焼を受け、奥方火之番を任命し表火之番と分ける、大奥防火体制強化(380年前)[改訂]
 1639年11月3日(寛永16年10月8日)
 
幕府内の事績を記録した寛永日記に、この日、江戸城の“火之番之内、奥方火之番に九人被仰付之旨、老中被申渡之”とある。
 城内を巡回し火元の注意をしたという“火之番”が、いつごろ初めて任命されたのかというと、江戸幕府の職制について研究をした松平太郎はその著作「江戸時代制度の研究」で“其創置を審にせずと雖(いえども)、慶長年間(1596年~1614年)已に之あり”“慶長九年十二月(1605年1月)柴田七九郎康長が組頭となりしは、火番の制、寛永年間に於て始て奥、表を区(わか)つが故に、是職其全般を総管せしなるべし”と記している。徳川家康が江戸に入府した1590年8月(天正18年8月)から15年後のことである。
 ところで大奥の奥女中たちによる“(御)火之番”という役職だが、1606年10月(慶長11年9月)に初めて竣工した本丸御殿はわずか10棟程度の小規模なもので、重臣が詰める表(政務の間)と将軍家族と奥女中たちが暮らす奥(大奥)とは一応は区別があったもののその境はさほど厳重なものではなく、男子禁制でもなかったので、柴田康長以降の“火之番組”も、火気を扱う台所や庭先を巡回し、火の用心を呼びかけていた。
 ところが 1618年1月(元和4年1月)、1日の元旦を期して、江戸城では「五か条の壁書」と呼ばれる大奥に対する法度(法令。指令)が出され、男子禁制となった。ちなみに、次期将軍(世子:世嗣ぎ)とされていた竹千代(家光)が西の丸に移ったのが前年の1617年(元和3年)なので、本丸御殿は将軍秀忠夫妻と奥女中のみとなり、竹千代の乳母の福(春日局)も当然竹千代と同行したと思われるが、当時、大奥を実質的取り仕切っていたので、退去時に進言したのかもしれない。この法度により、奥女中たちによる大奥専任の“火之番”が必要になり、昼夜を通して各局(高級御女中の個室)や女中部屋を巡回し、火の元の注意をして廻ることになる。
 1639年9月8日(寛永16年8月11日)天守閣を残し本丸殿舎がほとんど焼失した。幕府では火災3日後の9月11日(旧暦・8月14日)、本丸殿舎の再建を計画し総奉行と2名の奉行4名の作事奉行を決め、翌10月12日(旧・9月16日)から普請に掛かりはじめた。そして火災シーズンの11月(旧・10月)に入り、殿舎造営中の城内及び江戸城近傍の市内警邏役や、火災警戒の担当者を次々と任命する。ことが本丸内の再建工事である、城の防備の中心に見知らぬ多くの人たちが昼夜働く上、城としての防衛力が手薄になっている。警備を厳重にするのは当然であろう。
 まず11月2日(旧・10月7日)、再建工事の手伝役に命じられた諸大名が派遣した手伝人足の仮宿舎(小屋敷)の巡回警備に将軍親衛隊の小姓組番、書院番、大番の番衆が命じられ、上記番衆より別に選ばれた36人の者たちによる市中警備(防火)が命じられた。その翌11月3日(旧・10月8日、本題の奥方火之番(奥火之番)の任命がある。
 そこで奥方火之番の役割だが、江戸城大奥の玄関脇に大奥の事務と警備を取り扱う“広敷用人(男性)”等役人の詰め所(事務所)“広敷向”があり、日常はここに詰めここと大奥外郭の火元の注意をした。
 大奥には奥女中が勤める御火之番がいるのにもかかわらず、大奥に一歩入った所になぜ男性の火の番担当の者をおいたのか。それは先の本丸殿舎焼失の火元が、大奥の台所だったというのが大きな理由であろう。いうなれば防火と初期消火体制の強化である。二度と本丸御殿を焼失させないために、大奥及び周辺で出火でもすれば、“火之番”としての責任があり、男子禁制の大奥に飛び込んででも、奥女中の御火之番と協力し火元を確認する。ぼや程度であれば初期消火をしたかも知れない。
 大火事になりそうであれば、奥女中の御火之番は、早速定められたとおり早鐘を打ち鳴らし、男性の奥方火之番は直ちに上司及び夜間であれば宿直の御留守番にも報告、また消防担当の若年寄に報告する。一方、上司の指示により御留守番と協力して、広敷伊賀者や同下男に指図して消火に当たらせる。
 資料によれば、緊急の場合には近くに務める男性の役人も大奥に乗り込み、奥方や側室、姫君、奥女中などの避難誘導をしたという。事実、幕末1844年6月(天保15年5月)同じように大奥から出火し本丸殿舎が焼失した際、御広敷詰の役人が大奥内に立ち入って、奥女中たちを避難させている。
 一方、表火之番だが、その職名は奥方火之番が独立したので対照的に表火之番と呼ばれたと思われる。また火之番の上司は、表火之番が幕府の政務全般を観察した目付、定員は30名で10名づつで1組を形成し、それぞれ交代で毎夕酉の刻(午後6時ごろ)から翌朝寅の下刻(5時ごろ)まで宿直をし城内などを巡回した。一方奥方火之番(奥火之番)の上司は、大奥を管轄した御留守居で、定員は初期の9名から後に20名に増員、1792年5月3日(寛政4年3月13日)からは、広敷向のトップ広敷番之頭の指示を受けることになる。
 (出典:東大史料編纂所・所蔵史料目録データーベース・東京市編「東京市史稿>No.2>皇城編 第1>本丸殿舎の営造 1180頁:一.火之番之内、奥方火之番ニ九人被仰付之旨」、大石学編「江戸幕府大事典>第二部 職制編107頁:奥火之番、116頁~117頁:表火之番、363頁~364頁:火之番(大奥)、371頁:広敷伊賀者、広敷下男、374頁~375頁:広敷番之頭、広敷用人」、松平太郎著「江戸時代制度の研究>第十三章 宗門鉄砲改と目付所属の官制>第四節 自余の職制」、黒木喬著「江戸の火事>第二章 武家火消の発達 28頁~33頁:一.江戸城の防火」、魚谷増男著「消防の歷史四百年>江戸の消防>徳川幕府の消防諸役 77頁~78頁:江戸城大奥火の番」、井関隆子著「井関隆子日記 下巻>天保15年5月>十日 、十一日 277頁~283頁」、深沢秋男著「旗本夫人が見た江戸のたそがれ 井関隆子のエスプリ日記>第四章 江戸城大奥>五 江戸城炎上す 195頁~201頁」。参照:1月の周年災害・追補版(4)「幕府、柴田康長を史上初、首都政庁の火之番組頭に任命」、同追補版(4)「江戸城大奥男子禁制となり、奥女中による御火之番組編成される」、上記「幕府、大番、書院番、小姓組番の番衆に初の夜廻り(市中巡回)仰せつけ、市中警備(防火)体制を整備」)
 

○幕府、奉書火消を専任化し初めて組織的な消火体制に、ただし町方対策は10年後(380年前)[改訂]
 1639年11月10日(寛永16年10月15日)

 1639年9月8日(寛永16年8月11日)江戸城本丸殿舎が焼失した。すぐさま再建営造が始まり、その間、江戸城近傍の市中や城内の警邏を厳重にし、城内の火之番も大奥専任の奥方火之番を設け、火災への警戒体制を強めた(上記参照)。
 そして七日後のこの日、江戸城や幕府の重要施設が出火した際、消火に駆けつける役目の大名家を指定し専任化した。それまでの消火体制は、三代将軍家光の1629年6月(寛永6年5月)、諸大名が領地に帰国するに際し、帰国せず江戸に残る大名(在府大名)の内から10数家を選び、江戸城や幕府重要施設の火災の際、各1万石につき30人の割合で消火に出動するようにと、老中が将軍の命令書「奉書」をもって“火の番(大名火の番)”を指名し命じたのが最初とされており、これが後に“奉書火消”と呼ばれるようになったが、あくまでも臨時の措置で、消火出動に当たる大名家をその時の在府大名から指名しただけで特定してはなかったので、日ごろの消火訓練も消火道具の装備も不十分であったという。この間、江戸城本丸殿舎が焼失したのである。
 幕府はこれを契機に制度の強化を検討、本丸大火の翌月のこの日、常陸笠間藩5万3500石(茨城県笠間市)藩主で正保2年(1645年)に播磨赤穂藩主(兵庫県赤穂市)に任じられた浅野内匠頭長直、甲斐谷村藩1万8000石(山梨県都留市)藩主・秋元但馬守泰朝、上総久留里藩2万石(千葉県君津市)藩主・土屋民部少輔利直、常陸土浦藩2万石(茨城県土浦市)藩主・西尾丹後守忠照、常陸谷田部藩1万6200石(茨城県つくば市)藩主・細川玄蕃頭興昌、下野黒羽藩2万石(栃木県大田原市)藩主・大関土佐守高増と、少禄ながら江戸に近い関東地方の六大名に“火消”を命じ専任化した。これにより初めて消火体制が組織化されることになり、消化能力が高められる可能性が生まれた。
 ただし、これら大名の出動場所は相変わらず基本的には江戸城内、武家屋敷及び幕府の重要施設などが中心で、これらに延焼の危険がない限り、町方(町家地区)には出動せず人数も足りなかったようだ。
 では町方に対する対策はというと、この二日後の10日(旧・17日)、松平信綱、阿部忠秋、阿部重次の三老中が、江戸の市政を担当している南北両町奉行に、本丸御殿の普請中であるから江戸市中の火事に気を配るようにと申し渡してはいる(今度御普請之砌、所ゝ方ゞ火事出而、町中火事之儀、仰出之趣、両町奉行ニ伊豆守、豊後守、対馬守申渡之)が、それだけで特に対策は指示してはおらず、町奉行所が申渡しを受け特別に対策を立てたとの記録もない。
 町方に対する町奉行所からの防火、消防に関する指示は、1601年12月(慶長6年閏11月)の慶長の大火のあとの「家屋の屋根の板ぶき令」と1607年2月(同12年)タバコの火から神田で火災が起きたあとの「タバコ禁止令」など個別対策だけで、総合的な対策や指示は、1649年2月(慶安元年12月)に出されたお触れ「警火令」以前はないようだ。
 (出典:日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1639 522頁:江戸10城本丸が全焼、大奥台所から出火、ただちに復旧工事始まる」、東京都編「東京市史稿>No.2>皇城編 第1>本丸殿舎の営造>1180頁:十月十五日、十月十七日」。参照:2019年7月の周年災害「諸大名帰国に際し、在府大名たちに火の番仰せつける、奉書火消の文献初出」、2011年12月の周年災害「家康入府後初の江戸慶長の大火-半瓦弥次兵衛」、2月の周年災害・追補版(3)「江戸城内で町入能上演中、タバコの火から神田で火事-2年半後、タバコ禁止令出る」[改訂]、2019年2月の周年災害「江戸町奉行、火災シーズンを前に、町方に一連の警火の町触出す」[改訂])

○江戸町奉行、市中町方の夜番(火の番見廻り)に対する管理を強め防災体制強化
 -後に増番、中番、屋根番、火の見やぐら番へと火の番役を増やす(370年前)[改訂]

 1649年11月20日(慶安2年10月16日)
 冬の夜、火事から町を守るために町内を巡回する火の番見廻りこと“夜番”がいつ頃から始まったのかわからないが、人々が生産活動を行い集落を形成し始めてから、人の目が少なくなる夜間、防火や警備のために担当を決めて、集落内を巡回する事は、集落形成時から行われたと思われる。
 また夜番などがよく持ち歩く、注意をうながすための道具“拍子木”や上部に輪状の環をつけた“金棒”などは、古来より宗教儀礼や祭礼、相撲、演芸の世界でよく使われており、夜番が巡回するとき金棒を突き鳴らして“火の用心!”などと、声を張り上げるところから、ちょっとした噂を大げさにあちらこちらに言いふらして廻る人のことを“金棒引”と呼ぶことがあるほどだ。
 ところで江戸では、1649年2月(慶安元年12月)町奉行が出した、町人たちに防火をうながす初のお触れ(警火令)で、“町中夜番之儀”として“一時替ニ可仕候(いっとき替え:2時間交替とし)““月行事(その月の当番の町役人)ハ時々夜番之所へ見廻リ可申付候(訪れること)”と指示している。これによると、このお触れが出たときには、各町内にはすでに複数の夜番担当者がおり、巡回の間に待機する夜番之所(夜番詰所)があったことがわかる。
 その夜番之所だが、当時、江戸の町には町ごとに町木戸があり、外部からの不審な者の侵入を防いでいたが、その木戸の側に複数の番太郎(番太)こと番人が居住する番小屋(番所)があった。まだ自身番小屋(番屋)も火の見櫓も各町内にない時代なので、富裕な町は別としてほとんどの町では、この日より20年ほど前からあるこの木戸番小屋を夜番之所として活用していたのではないかと思われる。
 ところで、先の初の防火のお触れが出た9か月後のこの日、江戸町奉行はその夜番の勤務体制の変更を町触れで指示した。すなわち“町中夜番之儀、九ツ(午前0時)迄ハ唯今のごとく相勤(今まで通りに勤め)九ツより已(以)後ハ、一時代りニ番可仕候(2時間交替で夜番を行うように)”という指示である。
 つまり前の町触れでは、一律に2時間交替を指示していたのが、午前0時以前は今までどうりで良しとし、2時間交替は午前0時以降と変更している。これは町内によって、夜番の担当者が少ないのか町の状況によって、放火などの危険性は少ないと判断し一人で夜番を勤める町があったのか、町奉行としては、各町内の状況に合わせた指示であろうか。
 しかしそれだけでなく、指示の中心は町内の月行事(その月の町政担当者)を担う家持町人に対する夜番の管理強化であった。すなわち“月行事とまり(まわリの誤り:月行事担当の者は夜番所を巡視して)無油断可申付候(油断をするなと申し付けなさい)、若(もし)番之者臥候はゝ(寝ているようであれば)搦捕(捕らえて)月行事より急度可申上候(必ず言い聞かせなさい)、自然見遁(逃)しニ仕候ニおゐてハ(もし見逃すようであれば)月行事ニ御掛可披成候事(月行事の過失となるぞ)”と申し渡している。
 この熟睡監視指示は、1649年2月(慶安元年12月)の町方に対する「警火令」で、辻番人に対する監視指示をした9か月後のことで、その対象は町内の夜番にも及び、さきに将軍の親衛隊員・番衆の記事で紹介したように、同年6月(同慶安2年5月)には番衆にも辻番人の熟睡監視指示をしており、当時、番人が寝ていて大事に至った事例があったのか、同じ年の7月(旧暦・6月)に起きた下野・武蔵地震の教訓からであろうか。
 ついで2年後の1651年9月(慶安4年7月)には“火之用心之儀、風吹候時ハ取分心懸、増番を置”と、風が吹く夜は夜番の増員を指示した。この指示は前年1650年5月(同3年4月)、六大名家に風が激しく大火になるおそれがあるときの“増火消”こと、増援の大名火消を命じたのと同じ発想からであろう。
 翌1652年1月(慶安4年12月)には、町奉行は武家屋敷街の辻番所と同じように、町人居住地にも治安維持のための番小屋の設置を家持町人たちに命じた(今日より町中家持自身番可仕事)。“自身番”の誕生である。
 以降、手狭な木戸番小屋から出動していた夜番たちは、新設の自身番小屋に夜警の道具や消防器具などを置いて出動することになる。また昼間は月行事の家持町人が出勤し行政事務を執るなど、現代で言えば町内(自治)会館+消防団詰め所であろうか。その設けた場所は、たとえば日本橋通りのように町のほぼ東西を大通が走っている町では、町木戸で大通を仕切っているその北側角に木戸番小屋を南側角に自身番小屋を設けたという。
 このように夜番体制が強化される中、その4年後の1656年2月11日(明暦2年1月16日)、“明後十八日より自身番可仕候、但し昼之内は中番計(らい)、尤(もっとも:とはいえ)夜ハ自身番可仕事”とするお触れが出た。1649年5月(慶安2年4月)当時の将軍世子(世継)家綱の日光社参に際して各町の中ほどに番小屋を設けさせた臨時の処置の“中番”を、昼間の内の防火要員として取り計らうよう指示している。1661年11月(寛文元年9月)の「覚」では、はっきりと“中番之者”を“町中為火之用心、来る十月より来春二月中迄(中略)夜中斗(のみ)差置可申候”と夜間防火の季節要員として配置するよう位置づけている。
 一方、明暦3年1月(1657年3月)の明暦の大火の教訓を受けて、幕府が翌1658年10月(万治元年9月)に新設した“定火消”4家の火消屋敷に、戦国時代の物見やぐらを模して造られたという“火の見やぐら”は、4基しかなくそれも近所に集中していたので、町奉行所は1683年2月8日(天和3年1月12)日)、まず“風烈之時分は(風の激しいときは)、壹(一)町之内に壹貳(二)ヶ所宛(各町ごとに1、2か所ずつ)、晝(昼)夜屋根え人を立置(昼夜、屋根に上がり監視する番人を置くことを指示)した。
 また4年後の1687年12月(貞享4年11月)には、その監視について具体的に“少煙立候共、早速知らせ可申候、見そこなひ(い)候分は不苦候、少之儀にても町中知らせ申候”と、わずかな煙が立ちのぼって見えたときでも、見損ないでもかまわないから早く知らせること、少々の事でも町内中に知らせるように、と監視→報告→通報のクイックレスポンスを徹底させている。またこの屋根番には“尤(もっとも)日用取候もの屋根番に差置申間敷候”と、屋根番には日雇いではなく常勤者を使えと、その監視の目の習熟を重視している。
 また屋根の上からの監視は不便で危険だとして、火消屋敷の火の見やぐらを模して町内で任意に建てられた火の見やぐらについても、それを十分生かそうと、1686年10月(貞享3年9月)“火之見やぐらに番置候儀”と火の見やぐら専任の番人を置く事が指示され、その勤務は“来月(11月:旧・10月)中は風吹候日計差置可申候”と、風が吹く日だけの勤務でよいが、“十一月よりハ昼夜差置可申候事”と11月(新暦・12月)からは昼夜別なく勤務するように指示された。
 さらに八代将軍吉宗による享保の改革の一環として江戸の町の防火体制の強化が取り上げられ、その一つとして、1723年9月(享保8年8月)火の見やぐらの設置基準が決まると、各町の町木戸の側に番小屋付きで建てられたり、自身番小屋の上などに次々と建てられ、自身番が管理した。 
 そこでこの町木戸近くの“木戸番”“自身番”と“火の見やぐら番”の番小屋3点セットだが、それらの費用はすべて“町入用”というその町の負担なので、富裕な町は別として実際の多くは、町の規模や財政状況、地形によって、それぞれの番小屋が兼用されたり、複数の町で兼用したようだ。
 (出典:黒木喬著「江戸の火事>第四章 江戸の防火対策 123頁~130頁:一 自身番と木戸番、137頁~144頁:三 警火令と住民」、山本純美著「江戸の火事と火消>火消の道具 124頁~129頁:火の見櫓、火の見櫓再建」同著「同>江戸の町づくりと防火対策 163頁~166頁:火の番勤務」、東京都編「東京市史稿>No.4>市街編 第6>505頁~506頁:警火令」、同編「同>No.4>市街編 第6>570頁~571頁:附記二 夜番町觸(触)」、近世史料研究会編「江戸町触集成 第1巻>慶安4年22頁:五九」、同編「同町触集成 第1巻>慶安4年23頁:六七」、東京都編「東京市史稿>No.4>市街編 第6>1095頁:附記 町触(二)」、同編「同>No.4>同編 第7>1192頁:警火町触れ 覚」、東京都編「東京市史稿>産業篇 第7・693頁:家根番初置」 、高柳真三+石井良助編「御触書寛保集成 二十六>火事并火之元等之部 773頁:一四六六 貞享三寅年九月、774頁:一四六七 貞享四卯年十一月」東京都編「東京市史稿>No.4>市街篇 第20>839頁~845頁:火見所建設」。参照:2019年2月の周年災害「江戸町奉行、火災シーズンを前に、町方に一連の警火の町触(警火令)出す」[改訂]、上記「幕府、大番、書院番、小姓組番の番衆に初の夜廻り(市中巡回)仰せつけ、市中警備(防火)体制を整備」、2019年5月の周年災害「幕府、町木戸設置させ辻番と後の自身番と共に治安強化はかる」[改訂]、2019年7月の周年災害「慶安2年武蔵、下野地震」、2020年5月の周年災害「幕府“増火消”を6大名家に初めて命じる」[改訂]、1月の周年災害・追補版(4)「江戸町奉行、家持町人に自身番所設置を命じる」[改訂]、2019年5月の周年災害「江戸町奉行、将軍世子(世継)家綱日光社参に際し、治安強化策として中番を置く」[改訂]、2017年3月の周年災害〈上巻〉「1657明暦江戸大火」[改訂]2018年10月の周年災害「幕府、江戸の街を守る常設火消「定火消」を新設」、2013年9月の周年災害「幕府、火の見やぐら設置基準定め建設を推進させる」)

桜島、安永8年の大噴火。山上の噴火から海底噴火へと続き5つの火山島を形成(240年前)[改訂]
 1779年11月8日~9日(安永8年10月1日~2日)

 薩摩藩領(鹿児島県)桜島では、11月7日(旧暦・9月29日)夕方ごろより地震が頻発、翌8日午前11時ごろ(旧・10月1日巳の下刻ごろ)には海岸の民家の井戸が煮えたぎり海水が紫色になるなど異変が続いた。
 午前12時ごろ(午の刻ごろ)南岳山頂火口から白煙が立ちのぼり、 午後2時ごろ(未の刻ごろ)には南岳南側中腹700m付近から大音響とともに黒煙を上げて大噴火が始まり、まもなく北岳北東斜面600m付近からも爆発を起こし、辺り一帯は噴煙と降灰で闇夜のようになり無数の電光が走った。
  午後5時頃(申の下刻)になると、火砕流が南側火口から流れ出し海まで流下、翌9日(旧・2日)には早朝から大量の噴石が降り注ぎ溶岩(安永溶岩)が火口から流出、翌10日(旧・3日)までには北東海岸を埋め尽くし、この夜から翌11日(旧・4日)朝にかけて南海岸も溶岩に埋め尽くされた。これにより多くの民家が焼かれ、火山灰や軽石が2~3mも田畑に積もったという。
 さらに9日(旧・2日)夜には、北東沖で海底噴火が始まる。12日(旧・5日)には最初の島が出現。翌1780年8月6日(安永9年7月6日)には海底噴火にともう津波が発生、以降、同月15日(旧・同月15日)、翌9月9日及び10月31日と11月9日(旧・同年8月11日と10月4日、13日)と海底噴火による津波が発生し、翌1781年4月11日午後4時ごろ(旧・安永10年3月18日申の刻)には最大級の海底噴火が起こり、津波が桜島北岸の村々を襲い、海水を巻き上げた泥交じりの雨が降る中、船が転覆し犠牲者が出るなど被害が多発した。
 一方、海底の隆起により出現した8つの小島は、その後、両島が繋がったり水没して5島となり、桜島が大隅半島と陸続きとなった1914年(大正3年)11月の大正大噴火の後1島が水没、現在は4島が鹿児島湾に浮かんでいる。
 桜島の噴火は、この年より300年前の室町時代では、文明大噴火が1471年~76年(文明3年~8年)まで5年間も続いたが、今回の噴火は文明3年の噴火に続く大規模なもので、火山灰は遠く土佐(高知県)から大坂、紀州(和歌山県)、伊勢(三重県)、尾張(愛知県)さらに関東、江戸まで達したという。
 薩摩島津藩領の被害は幕府への報告によると、153人死亡、家屋全・半潰500軒、船舶沈没12隻、米及び雑穀類の被害7万石余となっている。
 (出典:日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1779・743頁:桜島、300年ぶりの大噴火。降灰は大坂まで」、気象庁編「桜島>噴火活動史>桜島 有史以降の火山活動>1779~82(安永8~天明元)」、小倉一徳編、力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅳ章 火山噴火災害>2 噴火災害の事例 397頁~399頁:桜島安永噴火」、井村隆介著「史料からみた桜島火山安永噴火の推移」[追加]。参照:11月の周年災害・追補版(1)「桜島文明3年の噴火」[追加]、2014年1月の周年災害「桜島大正大噴火、桜島と大隅半島が陸続きに」[追加])

○越中国新川郡、大凶作で農民一揆“ばんどり騒動”起こる(150年前)[再録]
 1869年11月15日~12月5日(明治2年10月12日~11月3日)

 加賀藩領、越中国新川郡(富山県富山市・舟橋村ほか)では、6月から9月(旧暦・5月から8月)にかけての全国的な天候不順のため稲の作柄が例年に比べ悪かった上、いもち病が発生し同郡一体は大凶作となった。
 ところが、村役人(村政を預かった名主:庄屋など)たちは適切な処置をとらないばかりか、凶作の時は年貢を減免するという慣例を無視したうえ、明治新政府の方針で、納米を計る枡(ます)が新しくなったのにもかかわらず、旧来の枡で計り、その差で私腹を肥やそうとした。これに対し農民の怒りが爆発、11月15日(旧暦・10月12日)に東加積組の印田新村(現・魚津市)で7、80人の農民が集まったのを皮切りに、同月27日(旧・24日)までに延べ6000人の農民が、各村や組ごとに集会を持ち要求をまとめ、中には一部の農民が日ごろ何かと圧迫を加える、村役人の家を打ちこわしながらも、統一して郡治局(郡の行政機関)に嘆願をすることにした。翌28日(旧・翌25日)、鎮撫のために駆けつけた郡治局の役人は、嘆願に対し金沢表(加賀藩の行政当局)に伺いを立てると回答したが、約束の12月2日(旧・10月29日)になっても音沙汰がなく、怒った農民たちは“ばんどり”という雨具(みの)を着て集合、5万人の勢力で新川郡一体の村役人たちの家々を襲撃した。
 騒動は12月4日(旧・11月2日)から5日(旧・3日)にかけて続き、郡治局が金沢に派遣を要請した銃卒隊の銃撃にあい、農民軍は鎮圧されるが、騒動の結末は、一揆の中心人物宮崎忠次郎が死罪となったのみで、逆に村役人は藩当局の手でほぼ更迭され、農民の諸要求の基になった凶作と飢饉に対する対策が講じられた。
 この農民側の勝利は、村役人たちの慣例を破った対応や私腹を肥やそうとしたところにあるが、大きくは当時の明治維新が影響しているという。すなわち、前年1868年7月(旧・慶応4年5月)の越後長岡が戦火にまみれた北越戦争で、越中の農民たちも役夫として同戦争に動員され、それまで領内的な意識にとどまっていた感覚に“世の中を見た”という新しい意識に変わっていったという。何よりも、自分たちの上に君臨していた藩や武士たちが、節操もなく雪崩をうって新政府側につくか、あるいは抵抗するが手もなく敗走していくのを見た。
 また加賀藩自体も、同年7月(旧暦・6月)版籍を朝廷に奉還(返還)し、主君は県知事となり、従来の藩政に対し人事など、新政府の方向にそった改革を進め出したばかりであり、自藩領とはいえ隣国の騒動に対し、一時的な鎮圧は行ってもすべてを強権で押さえ込める状況ではなかった。
 なおこの騒動は“会津の世直し”と並ぶ農民一揆として名高く、一揆の中心地となった舟橋村では、現在、この歴史を伝えようと村のホームページの子ども向けコーナーで紹介し、村の太鼓グループは“越中舟橋ばんどり太鼓”を創作、“ふなはしまつり”などで演奏している。
 (出典:富山県編「富山県史 通史編 5>第一章 明治維新と富山県>第一節 維新政局と加賀藩・富山藩 37頁~60頁:二 民衆の動揺とばんどり騒動」、舟橋村編「村の歴史>年貢を減らすよう求めた農民一揆・ばんどり騒動」、NHK編(新日本風土記アーカイブス)動画で見るニッポンみちしる「越中舟橋ばんどり太鼓」[追加]、舟橋村編「ようこそ日本一小さな舟橋村へ」[追加])

○明治32年、ペスト国内で初の大流行、防疫で北里、野口、緒方3博士が成果(120年前)[再録]
 1899年(明治32年)11月~1901年(明治34年)6月

 14世紀ヨーロッパで大流行し“黒死病”と呼ばれて恐れられ、全人口の3分の1から2が死亡したと伝えられている“ペスト”が、この年以降、約1年半の間、国内で初めて大流行した。
 わが国における最初のペスト患者の初見は、1896年(明治29年)3月、横浜に入港したイギリス船ゲーリックの中国人乗客で、当時流行していた香港で感染し航海中発症、横浜港に入港後、翌日、同国人の紹介で清国人病院へ入院2日後死亡した。幸にもそこから市内へは侵入しなかったが、翌1897年(同30年)7月、ペスト流行地の台湾を出港し横浜に入港した東洋丸でペストで死亡した死体を発見、更に同船が消毒停泊中ペスト患者1人が発生し死亡しており、同年の「法定伝染病統計」に記録されている。
 ペスト患者を初見した1896年(同29年)より2年前の1894年(同27年)当時、ペストが清国(現・中国)南部広東省で大流行し、隣接する香港へ侵入していた。幕末から明治へかけてコレラの大流行を体験した明治政府は、同じ轍を踏むまいと、同年5月25日、勅令(天皇の命令)第56号で「清国及び香港に於いて目下流行する伝染病(感染症)「ペスト」予防のため必要と認むるときは、明治十五年布告第三十一号虎列刺(コレラ)病流行地方より来る船舶検査規則を適用して船舶検疫を施行することを得」とし、翌26日官報で公布、水際での防除作戦を行った。
 また翌6月には疫学調査団を香港に派遣した。現地へ到着した調査団は早速、病理学上、臨床上、ばい菌(人体に有害な細菌)学上の3項目について研究を始め、ばい菌学上の調査・研究を担当した北里柴三郎が、ついにペスト菌を発見するという成果を収めたが、調査団長と団員1名及び助手を務めた現地在住の日本人医師がペストにかかりその医師が死亡するという過酷な調査だった。
 その後、1898年(同31年)は感染者は出なかったが、その翌年のこの年、ペストが横浜、神戸に押し寄せた。6月、横浜では、当時横浜港の検疫所に勤務していた野口英世が、香港を出港し横浜港に入港した、亜米利加丸船内で、検疫によりペスト患者2人を発見、ただちに船内隔離し、患者は回復したので、横浜からの侵入を未然に防いだ。
 しかし11月8日、神戸港に入港した船員からの感染により、同市葺合区(現・中央区東部)で初めて日本人の患者が発見され、その感染源として、同港に陸揚げされた流行地インドからの積荷、特に綿花や穀類に疑いがもたれた。そこで内務省は、10日後の18日、清国、インドからのぼろ布や古綿の輸入を禁じた。同市ではその2日後の20日、ペスト菌に感染したネズミを発見し、葺合区や神戸区(現・中央区)など海岸沿いの地区で、翌年10月までに散発的に患者が発生した。
 この内務省が輸入を禁じたその日、大阪市で最初の患者が発見された。実は患者がよく行く家の横に屑綿倉庫があり、12月2日にはペスト菌を持ったネズミの死骸も発見された。同市では輸入綿花取扱業者の近くで初期の患者が多発、当初は西区、翌1900年(同33年)9月以降は南区(現・中央区南部)に拡大、医師3名が犠牲になっている。
 流行はこのように関西で11月に発生、1年半後の1901年(同34年)6月まで続いたが、患者が出たのは山梨、静岡両県から西の7府県で、3年間に大阪府の161人を筆頭に234人が発症し201人が死亡、死亡率86%と猛威を振るった。
 実はこの流行が始まった3年前の1896年(同29年)、ペストの流行は香港から台湾へと広がっていた。当時、帝国大学医科大学の衛生学教授であった緒方正規も、横浜港でペスト患者が初見されたこともあり、台湾へ調査団の一員として派遣されていたが、現地でペスト菌に感染したネズミにたかっているノミが媒介して人に感染することを発見した。
 東京市ではそれを受け、関西で大流行中の1900年(同33年)から、予防のためネズミを1匹5銭で買い上げ、その結果、患者を一人も出さないという成果を上げている。
 (出典:春日忠善著「日本のペスト流行史>第五章 日本国内に於けるペスト流行の概況 33頁~39頁:第1節 神戸、大阪を中心とした流行」、同著「同書>同章>第4節 予防、防疫上とられた措置 48頁:日本の海港検疫」、国立国会図書館デジタルコレクション・内務省衛生局編「法定伝染病統計・大正十三年 68頁~69頁:第二十二表 ペスト累年地方別」[改訂]、同コレクション・神奈川県警察部編「神奈川県ペスト流行史>第一章 「ペスト」侵入ノ起源及其ノ播布>第二項 市内流行ノ概況及其ノ病系 30頁~32頁(29コマ):横浜市「ペスト」流行前記」[改訂]、同コレクション・同編「同書>第七章 諸表編>過去十三年世界各港船舶に流行せる「ペスト」病の状況(其の一) 654頁(340コマ):三十二年 亜米利加丸 六月」、同コレクション・法令全書.明治27年「勅令第56号・清国及香港に於いて流行する伝染病に対し船舶検疫施行の件」、横浜市長浜ホール編「旧細菌検査室について>野口英世と横浜検疫所」、新修大阪市史編纂委員会編「新修大阪市史 第6巻>第四章 社会生活と文化の諸相>第三節 市民生活の諸相>2 大災害の発生>ペストの流行 808頁」、竹田美文著「明治・大正・昭和の細菌学者達3>北里柴三郎-その2>Ⅱ.ペスト菌発見、Ⅲ.明治27年7月31日官報」、野村茂著「北里柴三郎と緒方正規>ペスト菌-北里菌かエルザン菌か 108頁~109頁」。参照:6月の周年災害・追補版(5)「北里柴三郎、ペスト病原菌を発見」[追加]、2017年5月の周年災害「緒方正紀、ノミがペストを媒介することを証明」[改訂])

○明治42年筑豊炭田貝島炭坑大之浦坑桐野二坑、炭じんガス爆発、炭じんの浮遊見落としか(110年前)[再録]
 1909年(明治42年)11月24日

 この日、貝島炭鉱大之浦坑桐野二坑で、同炭坑最大の爆発事故が起きた。
 午前9時50分、ドーンという異様な音とともに坑口から白煙が吹きだした。ただちに坑内へ電話したが答えはなく、事務員は汽笛を鳴らして非常事態を知らせ、救援隊を組織して坑内へ急行した。
 当時、坑内には、多賀神社の祭礼の前であり、少しでも稼ごうと、ふだんより多い290人が入坑していた。
 入坑者のうち34人は生きて救援隊によって坑外へ助け出されたが、その中でも3人は間もなくガス中毒により死亡、4人は知覚精神を喪失し回復の見込みがなくなり、救出後ただちに勤務することが出来たのは僅か26人だけであった。残り256人は坑内で即死。翌1910年(明治43年)1月8日、坑内に残されていた遺体は、4遺体を残しすべて昇坑し荼毘に付された。
 この爆発の原因については明らかになっていないが、爆発個所は、坑道約1080mのうち、坑口から約990mの深さの所とわかった。爆発した桐野二坑は、もともと発火ガスが多かったが、坑道主要部をレンガアーチにし、通気その他の設備も整えており、大爆発までの2年間はガスの小爆発も起こしたことはなかった。爆発の前々日から、福岡鉱山監督署員2名が二日間坑内を巡視しても、通気は完全で著しいガスの発生個所を認めていなかった。しかし見落としていた点として、炭じんの浮遊問題があったという。
 (出典:宮田町誌編纂委員会編「宮田町誌 下巻>第九編 炭坑>第三章 貝島炭坑の発展>四 災害と保安>三 ガス爆発 1044頁~1048頁:桐野二坑ガス炭塵爆発」)

○東京市衛生試験所、初の空気の衛生展覧会開く。東京の大気汚染指摘、生活環境改善打ち出す(90年前)[追補]
 1929年(昭和4年)11月18日~22日
 現在の都立東京都健康安全研究センターの前身の一つである東京市衛生試験所が、市民への「衛生思想の普及徹底を図ること」を目的として、五日間にわたる展覧会を所内で開催した。
 それは「空気」が中心テーマの研究成果などを発表した展覧会で、写真や図表のみか空気に関係した扇風機、ストーブ、酸素吸入器、など最新の生活改善器具を展示、名付けて「空気の衛生展覧会」と銘を打った。
 その展示内容は空気中に含まれる「酸素」や有害物の「亜硫酸(ガス)」「塵埃及び微生体(細菌、花粉)」にはじまり、空気に関連した「水蒸気」に発して「気温」「気圧」「風」「降水」「日照と雲量」と気象関係にテーマは進み、「季節」「気候」までに発展させている。
 特に展覧会の目的である都会生活での“空気衛生”の課題として「室温の調節」「照明」「換気」を取り上げ、中でも当時主な燃料であり、家庭の主婦が取り扱っていた“炭”について注意をうながす「炭化中毒と婦人の生活」というテーマも用意している。
 また力を注いでいるのは、1923年(大正12年)9月の関東大震災後の復興で、工場の生産活動が盛んになり、道路の拡張で自動車が当時世界で第2位という急激な普及を示していた点から、大気汚染が拡大することへの問題提起「都会と健康」「自動車の脅威」「東京市の空気」「東京市内各公園其他の空気」などのテーマを展示した。また具体的に「東京市内外空気中煤煙塵埃含量比較標本」や「同空気飛塵ノ比較写真」などで市街地の生活環境汚染に対する警告を行い、1960年代の高度成長期に問題となった課題をすでに30年前に指摘、最新式の「室内空気ろ過器」や「空気清浄器」を展示するなど先駆的な展覧会となっている。
 入場者は5日間で1万1820名が来場し、専門的な内容であったが成功を収めたといえよう。
 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション・東京市衛生試験所編「空気の衛生展覧会抄録」。参照:2016年8月の周年災害(下巻)「自動車による大気汚染の時代を迎え、新車の排煙規制具体化」)
○水俣病に抗議する地元漁師、新日窒の誠意のない態度に怒りが爆発し水俣工場に乱入(60年前)[改訂]
 1959年(昭和34年)11月2日

 1956年(昭和31年)5月1日、水俣病が、皮肉にも原因企業の新日本窒素肥料(株)(新日窒:現・チッソ(株))水俣工場附属病院長・細川一(はじめ)の手によって、水俣市内での原因不明の中枢神経疾患集団発生が明らかにされ、初めて水俣市保健所に報告された。
 次いで同年11月3日、水俣病の原因解明について、熊本県より依頼を受けた熊本大学研究班が、原因はある種の重金属中毒で、人体への侵入は魚介類の摂取による。汚染源は新日窒水俣工場の排水がもっとも疑わしいと発表。
 これにより水俣漁業協同組合は、翌1957年(同32年)1月、同工場に対し、工場排水の中止と浄化装置設置を申し入れている。また翌1958年(同33年)6月24日には、厚生省も参議院社会労働委員会で、前年10月の同省科学研究班の報告に基づき、水俣病の原因は新日窒の工場排水が原因との見解を発表。これを受けた形で、熊本県は同年8月18日、水俣湾での漁業操業禁止を通達した。
 ところが同工場では、国からも工場排水が原因との見解を突きつけられ、漁協からの要請もあり、熊本県の湾内漁業操業禁止通達が出ているのにも関わらず、同年9月、工場排水の経路を百間港から八幡プールで貯留し水俣川河口から水俣湾に放流する流れに変更した。そのため水俣病を発症する患者が不知火湾沿岸各地に広がった。
 翌1959年7月22日、熊本大学医学部水俣奇病研究班は報告会で“魚介類を汚染した毒物として水銀が注目される”と結論。翌8月1日、水俣市鮮魚小売商組合は地元産魚介類の不買を決議した。次いで同月6日、水俣漁協は鮮魚小売商組合とともに新日窒水俣工場へ抗議デモをかけ、漁業補償交渉を申し入れる。同月26日、水俣市斡旋委員会は両者に「補償金の支払いと浄化装置設置」を内容とする斡旋案を提示、8月29日、両者とも同案を受諾する。
 ところが、工場側は斡旋案を受諾したのにも関わらず、握りつぶしているので、2か月後の10月17日、不知火海沿岸漁民及び熊本県漁民総決起大会が開催され「浄化装置完成まで工場の操業停止、漁業補償要求」を決議、工場側に交渉を求めたが拒否されていた。
 この日、不知火海沿岸の漁師約1500人は、朝から20数隻の漁船を連ねて雨の中を新日窒の工場がある水俣湾百間港へ上陸、待っていた地元漁師約300人と合流し、同工場の排水中止を叫んで水俣市内をデモ行進、正午ごろ水俣入りをした衆議院水俣病調査団に陳情した後、水俣駅前で大会を開き、同工場へ押し寄せ再度交渉を申し入れた[1] [2] 。
 ところがまたもや交渉拒否を言い渡されたので、今までたまっていた怒りが爆発、工場へ突入。工場からの要請で駆けつけた警官隊と衝突し、100人以上の負傷者を出した。
 国がようやく水俣病について「新日窒水俣工場アセトアルデヒト酢酸設備内で生成されたメチル水銀化合物が原因」であるとする統一見解を出したのは、その9年後の1968年(昭和43年)9月である。
 翌1969年(同44年)6月、(水俣病)患者家庭互助会28世帯112人は、チッソを相手取り、総額6億4000万円余の慰謝料請求の民事訴訟を熊本地方裁判所に提訴(第一次訴訟)し、1973年(同48年)3月の一審判決で患者側が勝訴したが、同年1月には患者認定訴訟(第二次訴訟)が行われ、1974年(同49年)12月には、熊本県に対して「認定の遅れは行政の怠慢」とする訴訟など、国、県の行政責任を問う訴訟が続き、2022年(令和4年)6月現在7件がいまだ係争中である。
 (出典:朝日新聞社編「朝日新聞縮刷版・昭和34年11月>11月3日朝刊:水俣病(熊本県)で漁民騒ぐ」、水俣市立水俣資料館編「水俣病 その歴史と教訓」[追加]、水俣病センター相思社編「水俣市の35年>5.水俣病事件の中の水俣市を見る>原因究明期>(4)不知火海漁民闘争」[追加]、同編「水俣病関連 詳細年表」[改訂]、同編「水俣病事件主な訴訟」[追加]。参照:2016年5月の周年災害〈下巻〉「水俣病公式確認-原因は新日窒水俣工場の工場排水とわかる」[改訂]、2019年7月の周年災害「熊本大学研究班、水俣病原因物質は有機水銀と発表」[改訂]、2018年9月の周年災害〈下巻〉「政府統一見解で水俣病を公害病に認定」[改訂])

○初の公害被害者全国大会開催、加害企業、政府に徹底した被害者対策、公害防止対策を要求(50年前)[再録]
 1969年(昭和44年)11月26日
 1950年代後半(昭和30年以降)から始まり、その後、約20年間続いた“高度経済成長期”、規制もほとんどない中で、工場からの垂れ流しの汚水や、煙突や自動車から出るばい煙などによって大気や土壌が汚染され、水質も汚濁し、その上、騒音や震動、地盤沈下などによって生活環境が劣化、健康が阻害されていた。いわゆる“公害”である。
 その中で、被害者を中心に健康と生活を守る闘いが長い間続けられてきたが、公害による健康被害の救済に関する法案「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法案」が衆議院で審議入りする6日前のこの日、初の公害被害者全国大会が、東京千代田区の全日通会館で開かれた。
 当日、参加したのは、大気汚染された都市のぜん息患者や水俣病、イタイイタイ病、三池三川鉱の一酸化中毒、森永ヒ素ミルク中毒、カネミ米ぬか油中毒など企業公害被害者代表百数十人。
 大会は、被害者たちが体験を報告し、今後、加害企業や政府に対し、徹底した被害者対策や公害防止対策をとることを求め、今後、運動をどう進めるかを巡って討論を行った。
 (出典:朝日新聞社縮刷版「昭和44年11月号>11月26日夕刊」。参照:2020年4月の周年災害「四日市ぜんそくで住民が市役所に陳情」[改訂]、2016年5月の周年災害〈下巻〉「水俣病公式確認-原因は新日窒水俣工場の工場排水とわかる」[改訂]、2011年6月の周年災害「イタイイタイ病はカドミウムが原因と発表」、2013年11月の周年災害「大牟田三井三池鉱業所三川鉱炭じん爆発事故」、 2015年8月の周年災害〈下巻〉「森永ヒ素ミルク中毒事件」回、2018年10月の周年災害「カネミ油症事件、食用油摂取によるPCB-ダイオキシン体内汚染」[改訂])

○ニュージーランド航空DC10旅客機、南極で山腹に衝突、邦人24人死亡(40年前)[改訂]
 1979年(昭和54年)11月28日
 
この日は偶然にも、アメリカのリチャード・バードが初めて南極点上空飛行に成功した50周年の記念日だったが、この記念すべき日に、同じ南極で悲劇が起きた。
 当日午後2時半ごろ、午前8時に南極観光のためニュージーランドのオークランド空港を飛び立った、ニュージランド航空ダグラスDC10旅客機が消息を絶った。
 捜索の結果、翌29日午前0時56分、南極大陸ロス島の3794mエレバス火山中腹に墜落しているのが発見されたが、日本人24人を含む乗員・乗客257人全員が死亡していた。
 事故の原因は、極地に特有な気象の急激な変化により、視界が白一色となり、方向や高度あるいは地形の起伏などが識別不能となる“ホワイトアウト現象”によるものか、高山に特有の乱気流に巻き込まれた可能性も指摘され、フルスピードのまま、同火山の中腹へ激突した模様であった。また同機は極地を良く見られるようにと“低空旋回飛行”が売り物だったが、当日は規定よりも高度を下げて飛行し、飛行会社側も飛行経路を誤って入力指示をしていたことなど人的ミスが重なっていたという。
  また、この年9月から10月にかけて開かれた、南極で科学的調査を行っている諸国による南極条約協議国会議で、“南極地域での観光飛行は救助態勢などが整っていないので注意をするように”と、事実上の中止勧告を採択し、各国に通知した直後の遭難だった。
 遭難した日本人客24人の内、1組の新婚カップルを除けば、あとは海外旅行の経験が豊かな年配の方たちで“ヨーロッパやハワイはもう十分、南極とあわせてオーストラリアやニュージーランドの旅を10日ほどで楽しもう”とされた余裕のある人たちだったという。当時、このツアーには現地のニュージーランド人を除けば、日本人客がアメリカ人やオーストラリア人をしのいで最も多かった。この10年ほど前、日本が世界第2位の経済大国に成長した時代を築き上げた人たちの最後の飛行であった。
 (出典:日外アソシエーツ編集部編「世界災害事典>1979・157頁~158頁:11.28 南極ツアー機遭難」、朝日新聞11月29日朝刊「南極遊覧いま悪夢、日本人ラッシュ暗転」、同夕刊「注意勧告を出した直後」)

○道路交通法改正され、自動車運転中の携帯電話使用禁止、スマホも同罪(20年前)[再録]
 1999年(平成11年)11月1日

 2010年代に入り、急激に普及したスマートフォン(スマホ)。携帯型ミニパソコンといわれるほどに進化したが、近年、歩きながら使用する“歩きスマホ”が接触事故を起こすとして問題となっている。
 1990年代に入りこれも急速に普及し、現在はスマホに取って代わられた、携帯電話も同じように“歩き携帯”と呼ばれ、歩きながら電話をかけている人がいたが、こちらの方は画面を見ていないので事故率は少なかった。しかし自動車の運転中は、片手ハンドル操作になったり、神経が電話の方に集中し、進行方向や周囲に対する注意が散漫になり、交通事故を起こしやすいとして、それを禁止する法案がこの日から施行された。
 禁じられたのは、自動車、スクーターやミニバイクの運転中に、携帯電話を手で持って使うこと。画面の画像を見ることとなっている。
 その条文は、第71条(運転者の遵守事項)の1号で、その五の五に“当該自動車等が停止しているときを除き、携帯電話用装置、自動車電話用装置その他の無線通話装置(その全部又は一部を手で保持しなければ送信及び受信のいずれをも行うことができないものに限る。)を通話(傷病者の救護又は公共の安全の維持のため当該自動車等の走行中に緊急やむを得ずに行うものを除く。)のために使用し、又は当該自動車等に取り付けられ若しくは持ち込まれた画像表示用装置(中略)に表示された画像を注視しないこと”となっている。
 当然、(車内に)持ち込まれた画像表示用装置を注視するスマホの使用もこれに準じて禁止されている。
 (出典:衆議院制定法律「平成11年法律第40号:道路交通法の一部を改正する法律」[改訂])

○東名高速飲酒運転事件起きる。署名運動など世論の高まりを受け危険運転致死傷罪成立へ(20年前)[追補]
 1999年(平成11年)11月28日
 
午後3時半ごろ、千葉市の会社員親子4人が乗用車で箱根から帰宅途中、東京都世田谷区の東名高速道路・用賀料金所付近の上り本線を走行、料金所通過のため減速していたところ、背後から飲酒運転の大型12トントラックに追突された。
 乗用車は大破炎上、運転していた母親は窓から自力で脱出、助手席の父親も救出されたが全身25%に達する大やけどを負い、後部座席の3歳と1歳の姉妹二人は猛火の中取り残されたまま死亡した。
 逮捕されたトラックの運転手は飲酒運転の常習者で、事故当日も高知から大阪へ行くフェリー内や東名高速海老名サービスエリアなどで飲酒し1時間ほど仮眠しただけで運転に戻っていた。
  実は事故が起きる前、不自然な蛇行運転をしている加害トラックに対応をうながす通報が、後続車から日本道路公団(現・NEXCO東日本)に次々と寄せられており、用賀料金所のひとつ前の川崎市・東京料金所の係員がハイウエイカードの提出を促した際、時間がかかったので路肩に車を寄せて降車させ、足のふらつきを見とがめたが、係員には交通警察官のように“危険防止の措置 (道路交通法第67条) ”権限がないので、疑いながらも運転手の“風邪気味で薬を飲んだから“との言い分をそのまま呑み通過させている。
  問われるのは、飲酒運転車の後続車から対応を促す危険通報を複数受けながら、自社の交通管理隊に追跡させ、危険性を確認させて警察に通報するなどの指示をしなかった道路公団の怠慢であろう。いち早い通報で警察官が駆け付けてさえいれば、事件は防げ尊い幼い命は奪われずに済んだはずである。
 裁判で被告となった加害運転手は“長距離運転手のほとんどがフェリー内や休憩中に寝酒と称して酒を飲んでいる”と証言、長時間運転の疲労をまぎらわす飲酒が常習化していることが明らかになった。
 ところが、当時の刑法ではわずか最高懲役5年の「業務上過失致死傷罪」でしか裁かれず、被告は1年減刑された4年で刑に服している。
 一方、事件の報道から量刑の軽さを知った世論は、業務上の意図しないミスで“致死傷”になった場合と、飲酒すれば運転がおぼつかなくなることを承知の上で“致死傷”になった場合は故意犯で、明らかに違うのではないかと論議した。翌2000年(平成12年)4月、造形作家の鈴木共子さんが、飲酒・無免許で無車検の暴走車によって一人息子の命を奪われ、人の命の重さに対してあまりにも量刑が軽いことに憤りを覚え、法改正を求める署名運動を始めた。この運動は大きく発展し、翌2001年(平成13年)10月に法務大臣へ署名簿を提出した時には、37万4339名の署名が集まっていた。
 この世論の動きに押され、2か月後の同年12月、ようやく「刑法」に「危険運転致死傷」が追加され「アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態で四輪以上の自動車を走行させ、よって、人を負傷させた者は十年以下の懲役に処し、人を死亡させた者は一年以上の有期懲役に処する(208条の2)」と規定された。有期刑は当時の「刑法第12条」により最高15年であった。
 この法改正により、飲酒運転による死亡事故は、2001年(平成13年)当時年間1200件前後を推移していたが、6年後の2007年(平成19年)には500件を割り、2009年(平成21年)以降は200件台で推移し、2020年代は150件程度に減少している。
 次いで、2007年(平成19年)5月「刑法」がふたたび改正され、「第208条の2」中の「四輪以上の」が削除されて、原動機付自転車や自動二輪車(バイク)の場合でも「危険運転致死傷」が適用されることになり、自動車全体の事故に対象が拡大された。
  また同年6月には「道路交通法」も改正され、第65条で昭和45年の改正で追加された“酒気帯び運転者”に対する助長(幇助)行為「酒類の提供(第3項)」に、新たに「車両等の提供(第2項)」「運送依頼及び同乗(第4項)」が飲酒運転の助長行為として追加され罰せられることになった。また「刑法208条の2」の規定に合わせ量刑を「十年以下の懲役または百万円以下の罰金(117条2項)」と改正された。
 そして、2013年(平成25年)11月「刑法208条の2危険運転致死傷」の規定が「自動車運転死傷行為処罰法」として独立、その第2条で「酒気帯び運転」のみならず「制御困難運転」「未熟運転(無免許など)」「妨害運転(直前進入、異常接近など)」「信号無視運転」「通行禁止道路運転」による致死傷も「危険運転致死傷」となり、逃げ得を防ぐ「過失運転致死傷アルコール等影響発覚免脱(第4条)」も加えられた。
 東名高速での不幸な事件から14年、鈴木共子さんたちが署名簿を法務大臣に提出してから12年、ようやく暴走車から“命”を守る法律が成立した。
 さらに2017年(平成29年)6月、神奈川県大井町の東名高速道路下り線で、加害者の乗用車が執拗なあおり運転を仕掛けて被害者の乗用車を強引に停車させ、暴行の際、後続のトラックが被害者の車に追突、二人が死亡し二人が重軽傷を負った。この悪質な行為に2020年(令和2年)6月の同法改正で「妨害運転(あおり運転・前方停止)」 「高速道路等妨害運転」が「危険運転致死傷」に追加されている。
 ちなみに“飲酒運転”に対する2001年(平成13年)以前の法律的な規定と罰則の推移をみると、1960年(昭和35年)「道路交通法」が誕生した際は、第65条で「酒気帯び運転の禁止」をしているが、その罰則を規定した第118条に「酒に酔い車両等を運転したもの」のみを対象にしていた上、「六月以下の懲役又は五万円以下の罰金」でしかなかった。
 ところが、1959年(昭和34年)に年間1万人をこえた交通事故による死亡者が、その後、減少することなく増加するのに対し、飲酒運転が特に危険だとして取締強化を要求する世論の声に押され、1964年(昭和39年)6月、「道路交通法」を改正し、罰則の「六月以下の懲役」を「一年以下の懲役」と若干強化したが、世論はそれではおさまらず、6年後の1970年(昭和45年)5月「道路交通法第65条」を改正「何人も、酒気を帯びて車両等を運転してはならない」とし、“酒酔い運転”だけでなく“酒気帯び運転”に対してもそれぞれ量刑が設けられることになった。
 おなじみの警察官による運転手のアルコール度検査(呼気検査)は、この時「第67条・危険防止の措置」の1項として追加されたもので、呼気検査により“飲酒運転”を呼気中のアルコール濃度から“酒酔い運転”と“酒気帯び運転”とにわける必要性があり登場した。
 その結果、この年の死亡者1万6766人をピークにその後は減少に転じ、2021年(令和3年)の死亡者は2636人と最低数を記録、そのうち飲酒運転による死亡者は152人(5.8%)となっている。
 (出典:特定非営利活動法人ASK編「飲酒運転事故遺族・井上保孝・郁美さんご夫妻の手記」、保良光彦著「わが国における飲酒運転取締り・罰則の考え方と推移>2.飲酒運転に関する法制の沿革」、G-GOV法令検索「刑法・第28章 過失傷害の罪>第211条 業務上過失致死傷等」、衆議院制定法律「平成13年法律第138号:刑法の一部を改正する法律(第208条の2・危険運転致死傷の追加)」、国立国会図書館デジタルコレクション・日本法令全書.明治40年「法律第45号・刑法>第2章 刑 74 頁(71コマ):第12条」警察庁編「飲酒運転による死亡事故件数の推移(平成10年~30年)」、同編「飲酒運転による死亡事故件数の推移(平成23年~令和3年)」、衆議院制定法律「平成19年法律第54号・刑法の一部を改正する法律>第208条の2中」、同制定法律「平成19年法律第90号・道路交通法の一部を改正する法律>第65条2、4、第117条の2、2の2、3の2」、同制定法律「平成25年法律第86号・自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律(自動車運転死傷処罰法)」、朝日新聞2017年6月9日号、衆議院制定法律「令和2年法律第47号・自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律の一部を改正する法律」、同制定法律「昭和35年法律第105号・道路交通法>第65条、第67条、第118条」、同制定法律「昭和39年法律第91号・道路交通法の一部を改正する法律>第117条の2」、同制定法律「昭和45年法律第86号・道路交通法の一部を改正する法律>第65条の見出し中……、2項、第117条の2、一 第65条、二 第75条」、 同制定法律「平成13年法律第51号・道路交通法の一部を改正する法律・117条の4」、政府統計の総合窓口・警察庁調査「道路の交通に関する統計>交通事故死者数について1.交通事故発生状況の推移(2021年)」。参照:2010年12月の周年災害「交通戦争始まる-新・道路交通法施行」)

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(2022.10.5.更新)


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