【目 次】

・富士山延暦の噴火、足柄道が噴石のためにふさがり新たに箱根道開通(1220年前)[再録]

・大宝令完成し公布、天皇中心の中央集権国家体制が法的に整備される(1320年前)[改訂]

・康応から明徳へ改元、兵革:北朝方の悲願2年後になる(630年前)[再録]

・京都、豊臣家残党?による放火で大火相次ぐ-町掟で消防ルールつくる(400年前)[改訂]

・米沢寛永17年の大火、1か月の間に10か所から出火-藩士に火事の際の役割分担させる(380年前)[再録]

・久保田(秋田)慶安3年の大火、2000軒余焼失(370年前)[再録]

・幕府、頻発する火災についに腰を上げ、初の町家防火対策を示達-かき殻葺き屋根が広く普及(360年前)[再録]

・幕府、水害防止のため山城、大和、伊賀3か国あて初の治山法令発令(360年前)[改訂]

・米沢万治3年の大火、二日連続の大火(360年前)[再録]

・金沢元禄3年の大火、二か所から出火し丸二日間6600余戸に延焼した史上屈指の大火災(330年前)[改訂]

・幕府、一般庶民向けの家庭用救急医療書を出版、無医村対策の面も(290年前)[改訂]

・安政から万延へ改元、本丸炎上と桜田門外での大老暗殺で(160年前)[再録]

・区町村会法布告により各町村内に水利土功会結成、水害予防(水防)を担う(140年前)[追補]

・日本地震学会、横浜地震を契機に誕生、近代地震学の父ミルンの功績(140年前)[改訂]

・福井明治33年「橋南大火」大店が軒を並べる道筋が灰に(120年前)[再録]

・神戸港外でだるま船満載のダイナマイト爆発、ガスタンク、電車、小学校、家々に大損害(110年前)[改訂]

・第六潜水艇沈没事故。佐久間艇長、日本国民の鑑として小学校の道徳教科書に載る(100年前)[改訂]

・石川県輪島明治43年河井町の大火、ぼんぼろ風吹き渡り1000余戸を失う(110年前)[改訂]

・婦人火防組(現・消防団)初めて結成される。山形県飛島村で、越前市と沼津市の事例(110年前)[追補]

・国産初の公衆用火災(盗難)報知機設置、東京報知機(株)の誕生(100年前)[再録]

・汽船第一わかと丸転覆事件-若戸大橋建設へ(90年前)[再録]

・熱海市大火、温泉旅館47軒焼損、市の4分の1壊滅し中枢機能喪失(70年前)[改訂]

四日市ぜんそくで住民が市役所に陳情、顧みられず7年後、公害訴訟始まる(60年前)[改訂]

・大阪天六地下鉄工事現場ガス爆発事故、群衆499人死傷(50年前)[改訂]

・口蹄疫、宮崎県で流行。県有種雄牛にPCR検査を行い避難、県で非常事態宣言後、県民不要不急の外出自粛、
 イベント、大会の延期など7月末まで続く。殺処分約30万頭、県内経済影響額約2350億円(10年前)


【本 文】

○富士山延暦の噴火、足柄道が噴石のためにふさがり新たに箱根道開通(1220年前)[再録]
 800年4月15日~5月19日(延暦19年3月14日~4月1日)

 わが国の正史「日本後記・巻9」延暦十九年六月癸酉(六日)の条に“駿河國言。自去三月十四日、迄四月十八日、富士山巓自燒。昼則烟氣暗瞑、夜則火光照天。其聲若雷、灰下如雨。山下川水、皆紅色也”とある。
 つまり、駿河国の国司(現・静岡県知事)からの報告によれば、去る3月14日から4月18日迄の間、富士山の噴火が続いた。昼は烟気(噴煙)によって暗瞑(暗く)なり、夜は火光が天を照らし、雷のような声(鳴動)とともに、火山灰が雨のように降り、山下(山麓)の川の水が、皆紅色(真っ赤)に変わった”という。
 さらに巻10、延暦廿一年正月乙丑(八日)の条に“駿河・相摸國言。駿河國富士山、昼夜恒燎、砂礫如霰者”とある。つまり“駿河国と相模国(神奈川県)国司からの報告によると、駿河国の富士山は昼夜を問わず恒燎(燃え続け)、砂礫(火山灰と小石)が霰(あられ)のように降ってくる”と、その後の様子を伝え、その結果、同年五月甲戌(十九日)の条には“廃相摸國足柄路、開筥荷途、以富士燒砕石塞道也”と、富士山から噴出した焼砕石(焼けた火山灰や小石)のため道が塞(ふさ)がり、相模国の足柄路(道)が廃止されて、新たに筥荷(箱根)途(道)が開かれることになったと報告している。
 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション「国史大系 第5巻>日本紀略 前編13 桓武天皇>日本後記巻第九 383頁(200コマ):庚辰19年6月葵酉」[改訂]、同コレクション「同書巻第十 386頁:壬午21年正月乙丑、巻第十387頁5月甲戌(202コマ)」[改訂]、つじよしのぶ著「富士山の噴火 万葉集から現代まで>第11話 古代の火山学者 都良香の証言 61頁」)


大宝令完成し公布、天皇中心の中央集権国家体制が法的に整備される(1320年前)[改訂]
 700年4月18日(文武4年3月21日)

一般的に「大宝令」と「大宝律」をまとめて「大宝律令」と呼んでいるが、「令」はいわゆる行政法集で「律」は刑法典であり、「令」の方が1年半ほど先に公布された。
 この日公布された「大宝令」は、行政法つまり国家の体制や官職(役人:官僚の役職)について定めた法律であり、天皇を中心とする中央集権的な法治国家を目指し、数々の改革を行った天智天皇が、668年(天智7年)に制定された「近江令」が原型といわれ、後に官僚制度の整備を目指した天武天皇が、681年3月(天武10年2月)に律令制定を命ずる詔(天皇の命令)を発し、その皇后の鸕野讃良皇女(うのささらのひめみこ)が次に即位して持統天皇となり、689年7月(持統3年6月)「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」を公布して行政制度を整備し、それらの集大成としてこの日の「大宝令」11巻があるといわれている。
 大宝令によれば、都の中央官庁には、天と地の神々を祀る“神祇官”と、行政の最高機関である“太政官”の二つがあり、その下に実際の行政を行う八つの省のほか“弾正台”と警備を行う五つの“衛府”が置かれた。地方は国とその下の郡、最小単位の里(市町村)の行政単位に分けられ、中央から国司が派遣されるが、実質的な支配は、地方豪族で終身制の郡司が行ったという。それまでの地域支配が認められたのであろう。
 なかでも軍事、警備、防災、防犯に関係する行政機関は次の通りとなっていた。まず八省内では、軍政一般をつかさどる“兵部省”があり、その中に軍馬や交通往来の駅制等を扱う兵馬司、武器の生産を扱う造兵司、軍楽を教習する鼓吹司、公私の船や船具を管理する主船司、軍事教練になる鷹狩の鷹や犬を調教する主鷹司があった。次に裁判や刑罰をつかさどる“刑部省”には、贓物(盗難品)や過料(罰金)を扱う贓贖司(ぞうしょくし)、現代の刑務所に相当する囚獄司があった。
 省のほかの“弾正台”は風俗の粛正と役人の非違を糾弾したという検察行政をつかさどり、五つの“衛府”のうち衛門府は宮城各門の守備担当、左衛士府(さえじふ)と右衛士府は宮城正門の脇にある小門の警備を担当し儀仗兵として天皇行幸の際の共をする。左兵衛府と右兵衛府は天皇の警備を担当した。
 (出典:日本全史編集委員会編「日本全史>飛鳥時代 700-709(文武4-和銅2) 110頁:大宝律令が完成、中央集権的な支配の基礎固まる」、国立国会図書館デジタルコレクション・窪美昌保著「大宝令新解(2コマ)」[追加]、同コレクション・国史大系 第12巻「令義解(14コマ)」[追加]。参照:9月の周年災害・追補版(1)「大宝律完成、わが国初の刑法典なる」)


○康応から明徳へ改元、兵革:北朝方の悲願2年後になる(630年前)[再録]
 1390年4月20日(康応2年3月26日)

 天変、兵革により改元である。前元号の康応は1389年3月(嘉慶3年2月)に嘉慶から改元されたので、わずか1年間の元号だったことになる。
 いずれにしても改元の理由の天変については、特に記録が見あたらないが、兵革については、50余年にわたった南北朝の動乱で、すでに南朝の勢力は衰え、北朝:室町幕府の全国制覇は完了していた。しかし正式な動乱の終結は、2年半後の1392年11月(明徳3年閏10月)、南朝の後亀山天皇から皇位継承の証である“神器”が北朝の後小松天皇の里内裏である土御門東洞院(現・京都御所)に渡されることで完結する。改元するほどまでも抱いた北朝方の動乱終結の悲願は、ここに達成することになる。
 (出典:池田正一郎著「日本災変通志>中世 南北朝時代 262頁~263頁:康応元年、明徳元年」)


○京都、豊臣家残党?による放火で大火相次ぐ-町掟で消防ルールつくる(400年前)[改訂]
 1620年4月2日、6日(元和6年2月30日、3月4日)

日本災異誌志よれば、元和6年2月30日の条に「京都大火、焼亡数千家」とあり、同年3月4日には「京都又火、延焼千余家」とある。
 僅か5日の内に1000家以上が焼けた大火が相次いでいる。異常というほかはない。別の資料によれば、このころ放火による大火が頻発し京都五山の第二位で足利義満が開基(創建)した相国寺も焼けたと記録されている。
 実は、1611年5月(慶長16年3月)後水尾天皇が即位するや、翌12年(同17年)徳川家康は孫娘和子を同天皇に入内(嫁入り)させることを申し入れ、2年後の14年5月(慶長19年4月)に入内宣旨(許可)が幕府にもたらされた。また同年8月(同7月)、幕府は、豊臣家が再建していた京都方広寺の大仏殿の梵鐘の銘文に問題あるとし、大仏の開眼供養と大仏殿の上棟及び供養を当日になって延期することを命じていた(方広寺鐘銘事件)。
 これらにより、幕府と豊臣家の対立は決定的となり、いつ戦端が開かれても不思議ではない情勢になり、同年12月(旧暦・11月)大坂冬の陣の戦端が開かれ、翌15年6月(同20年5月)大坂城は落城し豊臣家は滅びる。
 京都や大坂で放火事件が起き出したのは、落城翌年の16年(元和2年)からで、犯人をかくまったとして一町人が処刑されたが、犯人は豊臣家の残党だったという。その4年後のこの年20年(同6年)、いよいよ徳川和子の入内が7月(旧・6月)と決まったが、上記のように、その年の4月(旧暦・2月)から京都で大規模な放火が始まり、和子の入内に反対する豊臣家残党による仕業と推測されている。その理由の一つに方広寺鐘銘事件の際、豊臣家の弁明に唯一不利な証言をした相国寺が放火されていることがある。
 一方、放火された京都は、そこに幕府(室町幕府)があっても町人の自衛力が強かった町である。大火に対し「町掟」をつくり火災からも自衛した。
 たとえば、これら放火による大火が相次いだその月に、冷泉町の町役人8名が連署して決めた「町掟」があるが、それによると、火事が起きたときの消火の義務、町内に類焼の危険が迫ったとき及び町内で火災が起きたときの破壊消防の方法と家屋の建て直しについて決めている。
 中でも注目すべきは、掟の最後に「道を挟んだ東西の隔てなく寄り合って消火をする。消防に必要であれば家屋は協働して壊すが、建て直すときも一緒に行う」としていることで、共同体としての町の意識が非常に高いことがうかがえる。
 (出典:立命館大学 歴史都市防災研究所編「京都歴史災害研究第6号・京都歴史災害年表>1601~1700 205頁」、国立国会図書館デジタルコレクション・小鹿島 界編「日本災異志>第3巻 火災の部64頁(130コマ):元和六年二月晦日、三月四日」[追加]、日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1620(元和6) 491頁:年表 2.30」、丸山俊明著「京都の町家と火消衆>序章 江戸時代の京都の火事>京都の火事の状況 2頁」、冷泉為人著「公家町の災害と防災>3 江戸時代の京都及び内裏の防災 26頁」、京都市上京区編「徳川和子の入内」。参照:2015年6月の周年災害〈上巻〉「大坂夏の陣で大坂城落城」)


米沢寛永17年の大火、1か月の間に10か所から出火-藩士に火事の際の役割分担させる(380年前)[再録]
 1640年4月14日(寛永17年2月23日)

 家老・千坂高治の屋敷から出火し大火となった。
 炎は城内三の丸から大身の武士の住む主水町下郭外へと城の北部を東へ延焼、大町、川井小路、柳町を経て免許町へと延び、最上川沿岸の東寺町をひとなめにして川を越えて花沢まで灰とした。焼失した戸数は記録されていないが、米沢城下の中心部を焼いた損失は大きい。
 ところが火災はこれで終わらず、5月14日(旧暦・3月24日)までの1か月間に10か所で火災が起こる。
 まず四日後の18日(旧・27日)御守町、その三日後の21日(旧・3月1日)鷹匠町、またその二日後の23日(旧3月3日)には舘山通、またまたその五日後の28日(旧・8日)は谷地小路と舘山下町の2か所から火を出すという騒ぎとなった。
 ところがこれで収まらず、5月1日(旧・3月11日)には再び谷地小路から炎が上がった。これで少しは収まったかに見えたが、八日後の9日(旧・19日)中間町、その三日後の12日(旧・22日)東町と来て、とどめはその僅か二日後の14日(旧・24日)には平林内蔵助の屋敷が灰となってしまった。
 これでは藩としても放ってはおけず、防火のため、次の条書をもって取りあえず指示をした。“一.御城近キ火事之時、四組之侍衆頭共ニ、東北之御門江相詰、火ヲ消サセ可申事”“一.三組之御馬廻三十人頭、足軽頭組を召連、東北之御門江相詰ムサトシタル者、一人モ入立不申能々見分候テ、火ヲ消サセ可申事”と、城近くで火事が起きた時は、上士である四組の侍衆組の面々は東北御門に集結し消火に当たること。三手組の一つ馬廻三十人組には足軽組を引きつれて、同じく東北御門に集結し消火に当たるよう指示している。
 そして5月19日(旧・3月29日)になると、火災の時の防火の役割について執事から家老の松本内匠頭秀貞、廣居出雲守忠佳、竹俣三河守房綱の各諸隊頭を通して諸士に指示されている。なかでも四組の侍衆には各1組に纒(まとい)を持たせ、手桶を百石当たり一つ用意させ、火元が城の惣構(外郭)より内側の場合(城中)は、四組の中から消火に当たり、惣構より外(城外)の火事の場合は、火元へ二組が出て消火に当たるよう指示している。その外の侍衆にはそれぞれの役目に応じて出動する人数を定め、城内各所の消火に当たるよう役割分担を行った。
 (出典:米沢温故会編「上杉家御年譜 第4巻 定勝公>定勝公御年譜 巻16 545頁~547頁」)


久保田(秋田)慶安3年の大火、2000軒余焼失(370年前)[再録]
 1650年4月23日(慶安3年3月23日)

 秋田藩城下久保田の外町五丁目から出火した。
 上は隣接する四丁目から茶町、通町、保戸野足軽町まで延焼。下はこれも隣接する六丁目から十人衆町、鉄砲町まで延焼し2000軒余を焼失している。
 (出典:内閣府篇「中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会報告書「1976 酒田大火>第2編 前近代における北部日本海域の大火>第2章 秋田県域>2 久保田、土崎湊における大火の実態と特徴>(1) 慶安・延宝年間の久保田大火>慶安3年の大火」[改訂])


幕府、頻発する火災についに腰を上げ、初の町家防火対策を示達-かき殻葺き屋根が広く普及(360年前)[改訂]
 1660年4月3日(万治3年2月23日)

 木造の人家が密集している江戸は名だたる火災都市だが、それにしてもこの年は火事が多く、2月12日(旧歴・1月2日)から5月3日(旧・3月24日)の約3か月間に105回と、ほぼ平均1日に1回以上も火事があったと記録されている。中でも2月24日(旧・1月14日)に起きた湯島天神前の火災では、武家屋敷、町家ともあわせ2402軒、町数で119町を類焼させた大火であった。
 頻発する火災に幕府もついに、1603年(慶長9年)の江戸開府以来、初めての町家防火対策を具体的に命じた。
 その内容とは、新しく火災で焼け出された人びとが家を再建する際に、燃えやすいわら葺きや茅葺きの屋根には土をぬり、こけら葺き(板葺き)の屋根には蛎殻(かきがら)か芝または土をぬるようにとし、江戸で多い強い北ないし北西の風による飛び火から屋根への延焼を守ることを主眼としている。
 江戸時代初期、寺院や城郭、高禄の武士、富裕な町人の屋敷には瓦葺き屋根が普及していたが、幕府は1657年3月(明暦3年1月)の明暦の大火で、瓦が焼け落ちて多数の死傷者を出したことから、大火の翌月の4月13日、飛び火に強い瓦葺き屋根ではあるが倉庫以外は厳禁にしていた。この禁制は1720年5月(享保5年4月)に防火対策として瓦葺きが奨励されるまで続き、今回の示達ののち、町家の耐火屋根にはかき殻葺き屋根が広く普及したという。
 (出典:日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1660(万治3)558頁:屋根に土や蠣殻、江戸の防火対策に町屋の建築規則を発令」、東京都編「東京市史稿>No.4>市街編第7・941頁~942頁(937コマ):建築制」、同編「同書>同編第7・153頁~156頁(153コマ):瓦葺禁制」[追加]。参照:2020年2月の周年災害「江戸湯島万治3年天神前の大火」[追加]、2017年3月の周年災害〈上巻〉「1657明暦江戸大火“振袖火事”世界三大大火の一つ起きる」[追加]、2010年5月の周年災害:欠号追補版「幕府、土蔵造りや瓦屋根を許可」[追加])

○幕府、水害防止のため山城、大和、伊賀3か国あて初の治山法令発令(360年前)[改訂]
 1660年4月23日(万治3年3月14日)

 幕府は1666年3月(寛文6年2月)、水害を防止する目的で全国を対象にした「覚・山川掟」を発令しているが、その6年前、古代から氾らんをくり返し畿内地方を悩ましてきた、淀川及び大和川水系の上流地帯諸国に対し、老中の連名で、次の内容の法令を発令した。
 “山城(京都府)、大和(奈良県)、伊賀(三重県西部)三ヶ国の山々木の根掘候ニ付、洪水の節淀川・大和川ヘ砂押流埋候間、向後不掘木根様(今後、木の根を掘らないこと)、其上以連々植苗木候様(それよりも毎年苗木を植えること)ニ急度可被相触之者也(必ず触れ回すこと)”というもので、差出人は稲葉美濃守(正則)、阿部豊後守(忠秋)、松平伊豆守(信綱)の連名で、あて先はそれぞれ関係地域を管轄する伏見、京都及び奈良の3奉行である。そして、京都奉行から山城国内の幕府管轄地代官と諸藩主へ、奈良奉行から大和及び伊賀国の幕府管轄地代官と諸藩主へ通達したものと思われる。
 幕府としては諸国に発令する前に、畿内を選んだ理由は、1年半ほど前の1658年8月(万治元年8月)に畿内を中心に宮中にも浸水したという大水害が起きたこと、また有数の大都市、京都、大坂を有するからであろうか。そこでまず地域対象の水害対策をたて、その有効性を確認したのかも知れない。
 いずれにしても、わが国における“治山”に関する最初の法令であり、また内容的には、6年後の“寛文・諸国山川掟”にくらべ簡略ではあるが、その一、二条と基本的には同じ主旨のものであるので、6年後の諸国山川掟は、これを強化し全国展開したものであろう。
 (出典:塚本学著「諸国山川掟について>二 13 頁~14頁」[改訂]。参照:2016年3月の周年災害「幕府、諸国山川掟発令、淀川水系の水害防止で」[改訂]、2018年8月の周年災害「万治元年洛中近畿水害」[改訂])


米沢万治3年の大火、二日連続の大火(360年前)[再録]
 1660年4月29日、30日(万治3年3月20日、21日)

 上杉藩の城下町米沢が二日続いての大火に見舞われた。
 4月29日(旧暦・3月20日)午後2時ごろ、粡町(あらまち)から出火、烈しい西北の風にあおられて炎がたちまち燃え上がり、同町の51軒、立町の207軒、鍛冶町の70軒、川井小路の109軒、地番匠町の53軒、新桶屋町の33軒、北寺町の2寺など合計531軒を焼失させ、同じ町内ではわずか92軒が焼け残っただけだった(焼失率85%)。
 そして翌日、再び魔の手が立ち上がり、前日無事だった町々を炎が包んだ。出火は午後4時ごろ、御馬廻町の門番吉田作兵衛の納屋からで、馬口労町、南町、紺屋町、黒川町まで延焼し、556軒が焼失した。二日間で1087軒の焼失である。(出典:中村清治著「米沢消防史>No.1660 万治三年三月二十日、二十一日両度の大火」)


金沢元禄3年の大火、二か所から出火し丸二日間6600余戸に延焼した史上屈指の大火災(330年前)[改訂]
 1690年4月24日~26日(元録3年3月16~18日)

 30年後、金沢でも連日の大火が起きた。
まず4月24日午前2時ごろ(旧歴・3月16日丑の刻:八つ時)、犀川竪町(たてまち)の徒士(かち:下級武士)高橋義兵衛宅から出火し翌25日午前6時ごろ(旧・17日卯の刻)には鎮火したが、この火災で900軒余りが焼けた。
 ところが同じ25日午前8時ごろ(旧・17日辰の刻:五つ時)、今度は図書橋向町に住む堀宗叔という医師宅から出火し、町の北端、大樋まで延焼、この日の火災は翌26日午前2時ごろ(旧・18日丑の刻:八つ時)には鎮火したが、確認できた死者6人のほかできなかった死者が多くあったという。また焼失した家屋や寺社が合計6639軒に達したという金沢史上屈指の大火災となってしまった。
 その内訳は侍屋敷411軒、下級武士の家951軒、町家4809軒、社家や門前の家106軒、百姓家291軒、寺院68、神社3。そのほか橋が56か所、城門1か所と続く塀が58間(105m)、土蔵3棟などが焼失している。
 (出典:前田家編集部編「加賀藩史料>第5篇>元禄3年 34頁~45頁」)


幕府、一般庶民向けの家庭用救急医療書を出版、無医村対策の面も(290年前)[改訂]
 1730年4月3日(享保15年2月16日)

 第八代将軍徳川吉宗が指示した享保の改革一連の施策の一つである。この日幕府は“普救類方”という家庭用の救急医療書をみずから出版し全国で販売するとのお触れを出した。
 幕府は7年前の1723年1月(享保7年12月)、町医師の投書提案から江戸市民の医療施設として“小石川養生所”を開設する一方、“東医宝鑑”という朝鮮医書に解説をつけて出版していた。しかし一般庶民にはこのような本格的な医書は必要としなかったので、このたび出版した書物は、医官の丹羽正伯と林良適に命じ、一般庶民用に山野で求めやすい薬草などをしらべさせ、救急医療法や薬の調合法などをやさしい平仮名文で著したもの。無医村対策の面もあり全国各地で安く販売することにした。
 (出典:日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1730(享保15)669頁:家庭医学書「普救類方」発売、無医村対策の一助に」。参照:2013年1月の周年災害「幕府、小石川養生所を開設」[追加])


安政から万延へ改元、本丸炎上と桜田門外での大老暗殺で(160年前)[再録]
 1860年4月8日(安政7年3月18日)

 江戸城火災や桜田門外の変のため改元とある。
 江戸城火災というのは、改元前年の1859年11月11日(安政6年10月17日)に起きた火災で、本丸の中之口から出火し本丸御殿を全焼させた。
 この火事で焼失した御殿は、1844年6月(天保15年5月)の火災で焼け再建されたものだが、前の御殿は1657年3月(明暦3年1月)の明暦の大火に類焼し再建されたもので、その後188年も経っていた。それに比べ今回焼亡した御殿が再建から僅か15年しか経っていない点、何か不吉なものを感じたらしい。
 幕府にとって最大の不吉は桜田門外の変である。改元14日前の3月24日(安政7年3月3日)幕府の最高実力者・大老井伊直弼が登城の途中、桜田門外で政敵の尊皇攘夷派(天皇:朝廷の力で欧米勢力を排除する)の浪士に暗殺された。
 当時、アヘン戦争(1840~41年)で清帝国(中国)がイギリスに敗れるなど、欧米列強のアジア侵略の脅威を感じた有志が尊皇攘夷派として活動していたが、逆に、井伊直弼は1858年7月(安政5年6月)225年続いた鎖国政策を捨て、開国を迫るアメリカの要求を受け入れて日米修好通商条約を結び、同年10月(旧9月)から政敵の弾圧を始める(安政の大獄)。逮捕を逃れた水戸、薩摩両藩の浪士たちは大老暗殺の計画をたて成功する。
 改元はこれら凶事から逃れるものだが、その甲斐なく改元の7年半後の1867年11月(慶応3年10月)将軍慶喜は政権を朝廷に返し(大政奉還)幕府は崩壊した。
 (出典:東京都編「東京市史稿>No2・皇城編第3・1185頁:安政六年ノ本丸火災」、日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1860年(安政7・万延1)885頁:雪降りしきる桜田門大老井伊暗殺!水戸脱藩の浪士らが襲う[追加]」)


区町村会法布告により各町村内に水利土功会結成、水害予防(水防)を担う(140年前)[追補]
 1880年(明治13年)4月8日

日本の地勢上、台風などの気象災害は避けられないが、暴風雨による河川の氾濫(はんらん)で、水田などが洪水に見舞われることは、その年の米の収穫に影響し時には飢饉を招いた。
 特に“石高制”という米の収穫量による制度が体制原理であった江戸時代は、米の収穫そのものの良否が政治、経済に大きな影響を与えたので、水田などをまもる“水害予防(水防)”に幕府直轄地も各藩領も力を入れ、情報伝達法、資器材の活用、照明など現代の態勢と基本的には同じものをすでに作り上げていたという。
 明治時代に入っても“水防”は、江戸時代の態勢がそのまま引き継がれたが、1878年(明治11年)の郡区町村編制法により地方自治制度が打ち出されると、2年後のこの日、区町村会法が布告されて地域ごとに“町村連合会”が結成された。また同法第8条、水利土功についてのつぎの規定により“水利土功会”が組織され、同連合会が水防などに関する事務を担当することになった。これにより今までの慣行的な水利組織が、地方行政の中の各町村における公式な組織となった。
 “(この条文にいう水利土功とは)公共ノ水利土功ニシテ全町村ノ利害ニ関涉セス(かかわりなく)或ハ数町村ノ幾分ノミ其利害ニ関係スルモノ又ハ利害ニ関係ナキモ従来組合等ノ慣行アルモノヲ云”とし“(水利土功)ノ為メ町村会ノ決議ヲ以テ其関係アル人民若シクハ町村ノ集会ヲ要スルトキハ其地方ノ便宜ニ従ヒ規則ヲ設ケ府知事県令(知事)ノ裁定ヲ受クヘシ”。
 なお、それぞれの河川や湖沼に江戸時代より“水害区”が区割りされていたが、この後は各水利土功会の下に水害区に応じて水利土功組合が設けられた。その守備範囲は、狭いものではひと組合で一町村内の一部を、広いものではひと組合で数十町村を束ねた範囲のものがあったという。
 また、この水利土功の意味だが、水利は田畑に水を供給するかんがい用水利を指し、土功とは水利および水防のための水路や堤防の建設、補修など土木工事を指しているが、それらの工事費の負担は、各組合内の地価と戸数を標準として割り振られ、工事費が多額になり負担額の限度が超過した場合は、税金から支出された。
 ついで10年後の90年(同23年)6月、初の水防に関する法律“水利組合条例”が公布されると、水利土功組合とは別に“普通水利組合ハ用悪水等専ラ土地保護ニ関スル事業の為設置スルモノトス(第3条)”“水害予防組合ハ水害防禦(御)ノ為ニスル堤防浚渫(しゅんせつ)沙(砂)防等ノ工事ニシテ(第4条)”普通水利組合の事業に属さないもののために設置された。
 そしてその6年後の96年(同29年)4月“河川法”の公布などによって、同条例に実情とあわない部分が生じたため、1908年(明治41年)“水利組合法”として改正され、“水利土功会”は“水害予防組合”へと転換していく。
 ちなみに東京では、1872年(明治5年)に隅田川に架かる5つの橋のうち千住大橋を除く4橋が明治政府の直轄橋梁に指定されたので、首都の防災と治安を預かる東京警視庁(現・警視庁)が、3年後の75年(同8年)に独自の“水防規則”を制定、町火消の伝統を継ぐ“消防組(現・消防団)”の町鳶(とび)のお兄さん方の向こうを張って、材木問屋の川並鳶を組員とした“水防組”を編成、千住大橋も含む5橋の水害予防と管理を行ったという。
 (
出典風間輝雄著「江戸時代における水防の組織と態勢」、北原糸子編「日本災害史>近代の災害>③河川行政と災害>(3) 水防活動に対する住民意識の変化>近代の水防」、国立国会図書館デジタルコレクション「法令全書.明治11年 11頁~12頁(38コマ):太政官布告第17号郡区町村編制法」、同コレクション「同書.明治13年 72頁~73頁(66コマ):太政官布告第18号 区町村会法」、同コレクション「同書.明治23年134頁~144頁(387コマ):法律 第46号 水利組合条例」、同コレクション「同書.明治41年126頁~145頁(87コマ):水利組合法」。参照:2016年4月の周年災害〈上巻〉「河川法公布、森林法、砂防法と並ぶ治水三法の一つ」、2015年9月の周年災害「警視庁、東京市中五橋を守る水防規則制定し水防組を組織」)


日本地震学会、横浜地震を契機に誕生、近代地震学の父ミルンの功績(140年前)[改訂]
 1880年(明治13年)4月26日

日本地震学会がこの日誕生したが、それには横浜で起きた小さな地震が関係している。

2月22日午前0時50分ごろ、東京湾中部を震源としたマグニチュード5.5~6の小さな地震が発生した。一番揺れた横浜でも震度4~5程度でそれほど強くなく、せいぜい煙突が倒れるか家屋の壁が剥げ落ちた程度で済み、東京では揺れを感じなかった人が多かったという。
 ところが横浜では、丘陵地の山手外国人住宅の損傷が多く、煙突の約半数に被害があり、地震に慣れない欧米人を驚かせたようだ。その中に、お雇い外国人教師として日本政府から招へいされ、1876年(明治9年)3月に来日したイギリス人ジョン・ミルンがいた。
 ミルンは工部省工学寮(現・東京大学工学部)で地質学や冶金学、鉱物学などを日本の学生に教えていたが、地震のあと早速、新聞を通して12項目にわたる横浜地震についてのアンケート調査を行い、それを分析して報告書をまとめた。さらに地震国日本では総合的な地震に対する研究が必要で、それを進めるにあたり多くの専門家の協力と知識の集約が重要であるとし、地震に関する学会の設立を提唱した。
 こうしてこの日、東京在住や勤務している外国人教師、技術者、日本人有志によって世界初の地震に特化した“日本地震学会”が設立され、会長は後に東京大学副総理(現・副総長)に選ばれた服部一三で、ミルンは副会長に就任している。横浜地震発生のわずか2か月後のことである。翌81年(同14年)12月の名簿によれば、会員数117名、そのうち日本人37名、在日外国人62名、在外外国人18名と、早くも日本在住者だけでなく、外国の地震関係の専門家も参集するほどの学会になり、世界の地震研究の先端を走ることになる。
 ミルンの功績はそればかりではなく、同学会の当面の研究課題は、まず地震動を正確に記録する“地震計”をいかに作るかにあるとし、会員の同国人ジェームス・ユーイングと共に、1894年(明治27年)ごろ苦心の末、水平振子を使った地震計をそれぞれ考案し製作した。これにより日本において世界で初めての物理的な地震観測が開始されることになる。その後地震計は改良を重ね、地震観測の精度を高めるとともに世界各地に置かれたが、1895年にミルンが母国に帰国した後、後半生を過ごしたイギリス南部ワイト島に地震観測所をつくり、世界の地震観測網の構築につとめたという。また在日中、過去、日本で起きた400近い地震を年表にまとめたり、1891年(明治24年)10月に起きた濃尾地震の記録をまとめて「日本の地震」と題して刊行、被害の模様を世界に伝えている。ミルンが“近代地震学の父”と呼ばれる由縁である。
 その間、この第一次地震学会は1892年(明治25年)にいったん解散し、その研究活動は同年6月に文部省所管で発足した“震災予防調査会”に引き継がれたが、大正12年(1923年)9月に起きた関東大震災後の1929年(昭和4年)1月に、学術や研究成果の情報交換を主な目的として再建され現在に至っている。
 (出典:宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧>4.被害地震各論 208 頁:284:1880Ⅱ22横浜」、伊藤和明著「災害史は語る『横浜地震』と地震学の黎明(防災情報新聞2006年6月17日号掲載)」、日本地震学会「沿革」、同学会編ニュースレターVol.24>No.5「ジョン・ミルン特集」[追加]、国立科学博物館地震資料室編「日本で地震学を始めるのに大きな貢献をした2人の科学者 – ミルンとユーイング」[追加]、同室編「地震計資料室>光学式地震計>ミルン水平振子地震計」。参照:2011年10月の周年災害「明治24年濃尾地震“地震に遭えば身の終わり(美濃・尾張)”」[追加]、2013年9月の周年災害「大正12年関東地震「関東大震災」[追加])


福井明治33年「橋南大火」大店が軒を並べる道筋が灰に(120年前)[再録]
 1900年(明治33年)4月18日

 11時45分ごろ、福井の中央部を流れる足羽川の南岸、当時の足羽郡木田地方から出火、寿町に延焼し九十九(つくも)町にかけて大店が軒を並べる道筋を焼き尽くした。
 次いで炎は足羽山麓から山上へと広がり、藩祖結城秀康の菩提寺や足羽神社、安養寺、心月寺も全焼した。 11人死亡、131人負傷。家屋全焼1891軒、同半焼3軒、土蔵全焼167棟、同半焼1棟、神社22、寺院29のほか小学校1、足羽公園内の福井県立物産館と公会堂・鐘秀閣が失われた。
 (出典:福井市史編さん委員会編「福井市史 通史編3 近現代>第2章 近代社会の展開>第2節 日清・日露の戦争と市域>    」)


神戸港外でだるま船満載のダイナマイト爆発、ガスタンク、電車、小学校、家々に大損害(110年前)[改訂]
 1910年(明治43年)4月7日

 明治43年4月8日の“神戸又新(ゆうしん)日報”によると、見出しに“火薬船爆発”とあり“早朝六時四十分、俄然市の東方に当りて一大爆声起り、全市の家屋を振動せしめ、海岸通は総て硝子(ガラス)戸を破り戸障子の外れたるも多かりしが、そは当港外、脇浜と敏馬(みぬめ:灘区岩屋)境界沖に碇泊せる達摩船(だるません:貨物運搬用のはしけ)(当港海岸通二、ニッケル商会所有)に積載せる火薬の爆発せるものにて、多分、水夫の炊事せる火がその原因ならんというも乗組員の死体となれる為、一切不明なり”ただし“ニッケル商会側によれば、船夫(乗組員)はタバコも吸わず、船中にて決して炊事せることなし、火薬所有者によれば原因は火薬の摩擦発火ならん”と。
 爆発しただるま船の火薬は、イギリス船シーファーナルドライズより積み替えて作日中に大阪火薬庫へ送る火薬で、ゼリグナイト2300個、ダイナマイト3904個、雷管50個を積載していたが、2人の乗組員と共に近くの3艘のだるま船を道連れに爆発焼亡した。
 爆風で2万戸の家屋に損傷を与えたとあるが、中には窓ガラスを割られた程度の損害も含まれているようだ。中でも神戸瓦斯(ガス)(現・大阪ガス)の大タンクのうち、直径70尺(21.2m)ばかりのタンクは、一方に大きく傾き1尺(30cm)ばかりの大穴が開いたため、貯蔵していたガスのほとんどを放散。今ひとつの直径100尺(30m)のタンクも上部一面に亀裂を生じたため中のガスのほとんどが放散し、一時は付近一帯にガス臭が立ちこめ顔も向けられなかったという。警察の調べによれば損害約30万円(現・約10億5000万円)。
 折から脇の浜町四丁目付近を走行中の阪神電車第18号電車は、爆風で大きく揺れ動きすべての窓硝子が粉砕して乗客が負傷したので、直ちに急行し東明病院へ負傷者を収容。砂糖商鈴木商店の脇浜三丁目の豪壮な別荘はほぼ半壊状態になり、損害約1万円(現・約3500万円)、神戸瓦斯近くの脇浜尋常小学校(現・市立春日野小学校)では、各教室の窓ガラスはすべて破砕され、2階の教室は棟木が傾斜して天井が墜落。そのほか葺合区の4小学校も窓ガラスが破砕され各校を通じての損害約6000円(現・約2100万円)とか。そのほか脇浜と敏馬付近で、本街道(国道2号線)沿いの両側の家はすべて天井が抜け壁が落ちた半壊状態だったと同紙は報じている。
 ちなみに、爆発しただるま船の大碇(いかり)が、約1km離れた葺合筒井町(現・中央区筒井町)まで吹っ飛び、新築中の家屋を破壊し地中深く埋もれていたという。
 (出典:神戸市立中央図書館蔵、神戸市文書館提供「神戸又新日報:明治43年4月8日号」、国立国会図書館デジタルコレクション・神戸瓦斯株式会社編「神戸瓦斯四十年史>第1編 沿革>第2章 明治時代 63 頁~65頁(90コマ):第12節 葺合瓦斯溜傾斜沈降事件」[追加])


第六潜水艇沈没事故。佐久間艇長、日本国民の鑑として小学校の道徳教科書に載る(110年前)[改訂]
 1910年(明治43年)4月15日

第六潜水艇は潜航実験の訓練を行うため、山口県岩国港を出港、同新湊沖で9時38分、潜水艇母船歴山丸から離れ、10時10分から潜航作業を開始したが、浮力過大で適切に潜航できなかったため、10時45分徐々に浮力を減らしながら潜航を再開した。
 その時、潜航に必要なガソリン機関を使用中であったため、換気をする通風筒は開けたままだった。ところが、本来なら海面上に出ていなければならない通風筒から多量の海水が侵入、急いで通風筒の急速閉鎖用バルブを操作しようとしたがチェーンが外れて閉鎖出来ず、直ちに手動に切り替え閉鎖した。しかし予備浮量を上回る海水の侵入により配電盤などが冠水して上昇のための動力を失い、水深約18mの海底に沈没したという。
 沈没後、配電盤の冠水による電力の喪失は、艇体の上昇だけでなく、あらゆる生還への試みを奪っていく。
 まず艇内の電灯が消え暗黒状態になったため、手動ポンプによる排水作業が思うように進まず、そのうち換気も行われていないので、一酸化炭素など有毒ガスが徐々に艇内に充満、艇員を襲い作業力を奪っていく。さらに浮力回復を目的に行った空気圧によるガソリン排出の際、パイプが破損して艇内に揮発ガソリンも充満するとともに、メインタンク排水に使用した高圧空気が、暗闇で行った艇員の弁操作の誤りにより艇内に逆流し、異常な高気圧の下ガソリンガスによる中毒で、12時40分、佐久間艇長の事故報告記述を最後に、艇長以下乗組員14人全員が殉職した。
 この事故は報告書で明らかなように、潜水艇建造の技術的な欠陥が主な原因とみられるが、そこから派生した事故を招いた背景があったという。
 実は、事故にあった第六潜水艇は国産第1号艇で、基本設計は先に購入したアメリカ製の第一~第五艇の設計図に頼りつつ詳細設計を初めて日本人技師が行い、1906年(明治30年)4月に竣工したが、第一~第五艇が基準排水量106トンに対しわずか57トンしかなく、通常の航海も心許ない状態であったとともに、手探りで建造したため技術的なトラブルに悩まされていたという。
 そのため、事故の背景となった単独潜航実験を行うことになる。
 当時の潜水艇は、兵器としては未だ実験段階にあり信頼性に問題があったため、潜水艇隊単位での行動が普通だった。そこで事故4日前の11日より始まる潜水艇隊の瀬戸内海西部巡航に、国産の第六艇だけが“耐波力に問題あり”としてひとり取り残されることになった。それに対し佐久間艇長は短期間の単独訓練を願い出、当初、艇隊訓練の指揮を執る潜水艇隊母艦艦長は反対したが、潜水艇隊司令が、再三の願い出でもあるとし情状を汲み、潜水艇母艦をつけ十分注意をするよう訓令を与えて許可をしている。
 また事故の時、不幸なことに潜水艇母艦には士官(将校)が不在だった。訓練監視員の母艦乗組員によれば、それまでも訓練が終わるのが遅かったので不審に思わなかったこと、帰艦が遅い程度で司令部に異変の電報を打つと、艇長からあとで叱られるのではないかと思い、報告が遅れたという。
 佐久間艇長をはじめとする殉職した艇員の姿については、以前、イタリア海軍で似たような事故があり、乗組員の遺体が脱出用ハッチに折り重なっていて、先を争って乱闘をしたと見られる状況だったという。それとの比較から、日本の第六号潜水艇の場合は、全員が所定の部署についたままの殉職だったということと、艇長の具体的で冷静な最後の遺書(報告書)などから、軍人の最後の模範として列強各国から称賛されたという。またそれは太平洋戦争終戦(1945年:昭和20年)以前の長い間、日本国民の鑑(かがみ)として、小学校で道徳を学ぶ修身教科書などに掲載されており、小説家がそれぞれ創造し偶像視されていったという。戦争への国民総動員の時代である。
 (出典:防衛省防衛研究所紀要・山本政雄著「第六潜水艇沈没事故と海軍の対応」)


石川県輪島明治43年河井町の大火、ぼんぼろ風吹き渡り1000余戸を失う(110年前)[改訂]
 1910年(明治43年)4月16日

 石川県輪島町ではフェーン現象による春の嵐を“ぼんぼろ風が吹く”という。この日は数日前から晴天が続いて“ぼんぼろ風”が吹きわたり町はすっかり乾いていた。
 午後4時を数分過ぎたとき、河井町の女児尋常高等小学校(女子児童を対象にした義務教育6年の尋常小学校に2年間の高等小学校を併設:現・市立河井小学校)付近の民家のわら屋根に子どもたちの遊んでいた火が燃え移った。
 この火は西南のぼんぼろ風にあおられて三方に広がり、浄願寺から妙相寺、円龍寺へと延焼、5時半には重蔵神社へ飛び火した。その後火の向きが変わり、河井町第一の建物を擁す正覚寺へと延焼、天をも焦がす火炎は付近の人家を総なめにし、浜通りから中場丁通りと西へ西へと進み、途中で円龍寺方面から来た炎と一緒になって、町の中心本町通りへ、能登実業銀行(1924年:大正13年営業停止)、郵便局など主な建物をなめ、郡公会堂、輪島劇場も焼失、一時は鳳至町まで火の粉が飛び、危うく見えたが、風向きが変わり翌日午前4時半ようやく鎮火。
 家屋全焼1055軒、同半焼15軒、土蔵全焼320棟、同半焼41棟、神社1、寺院5が全焼など。
 (出典:図解輪島編さん専門委員会編「図解輪島の歴史>近代12・河井町炎上」)


婦人火防組(現・消防団)初めて結成される。山形県飛島村で、越前市と沼津市の事例(110年前)[追補]
 1910年(明治43年)4月

 江戸時代の江戸(現・東京)や金沢など城下町の町火消、村々の若者組(若衆組:現・青年団)が、明治時代以降、消防組から現在の消防団へと変遷したが、この月、全国に先駆けて初めて女性の消防団が誕生している。
 現在、消防団は非常勤ながら常備消防の各自治体消防と協力し、2019年(昭和31年/令和元年)現在、全国の消防職員16万5438名に対し消防団員は83万1982名と圧倒的に多く、特に地方の町村では防災活動の主力をなしている。しかし現実は厳しく、市町村における自治体消防の編成が進み、常備化率が98%を超えた現在、その団員数は1958年(昭和33年)の半数に満たない。反面、女性の団員はまだまだ全体の3%程度に過ぎないが年々増加し2万6625人になっている。
  先駆けとなった女性消防団は、日本海に浮かぶ山形県の離島、2.75平方kmの小島、飛島(現・酒田市飛島)で誕生する。その名は婦人火防(かんぼ)組で、3年後に公認の消防組として編成された。飛島勝浦地区にある碑文には“明治四十三年四月本島ハ漁村ノタメ男子は出漁不在ガチニツキ婦人火防組ガ設立サレ以来七年トナリ日本最初ノ婦人ノ消防デアル”と刻まれ、その結成された理由は、男性が漁師として漁に出て不在がちで、その留守をまもるため、という。この婦人火防組は、現在では男性団員を含め、酒田市消防団第5分団として活動している。
 その後、1914年(大正3年)福井県城崎村(しろさきむら、現・越前市)では、多くの男性が伏見など京都方面へ酒造り、丹後半島沿岸のブリ定置網漁出漁へと、出稼ぎが多かったので、女子消防組を編成している。
 また1920年(大正9年、同8年説あり)3月になると、静岡県内浦村(現・沼津市)では、ここも同じく男性は出漁して出払っているとし、16歳以上の女子75人による内浦村婦人消防隊を編成、現在は沼津市消防団内浦方面隊となり、ただし男子団員のみという。ちなみに同市には女性消防団、紫明隊が1992年(平成4年)7月に編成され、原則、火災現場には出場しないが、防火指導や応急手当講習、火災予防週間などでの広報活動を行っている。
 (出典:日本消防協会編「消防団120年史>消防団120年の歩みとその活躍>第3章 勅令「消防組規則」の制定と近代消防の発展>3.消防組と消防組員>(3) 消防組の充実と発展 85 頁~86頁:(注1) 2、3」、静岡県消防学校編「静岡県消防のあゆみ>第3章 静岡県消防の歴史>3.大正時代、一般情勢>(22)婦人消防隊の結成」,総務省消防庁編「消防団HOME>消防団データ集>消防団に関する数値データ」[追加]、沼津市危機管理課広域消防連携室編「沼津市女性消防団・紫明隊(しめいたい)」[追加])


国産初の公衆用火災(盗難)報知機設置、東京報知機(株)の誕生(100年前)[再録]
 1920年(大正9年)4月16日

 火災報知機は、1837年(天保8年)アメリカのモールスが発明した有線電信機を火災報知用に活用したもので、欧米では幕末の19世紀半ばから実用化されていた。
 わが国では1888年(明治21年)東京府が火災報知機設置を予算化、1891年(同24年)12月、警視庁と傘下の消防分署(消防署)、警察署及び派出所間の内部連絡用に輸入機を設置した。また、一般市民の火災や犯罪通報用の公衆用火災報知機は、1915年(大正4年)11月、大阪府警察部消防課が市内に45基設置したのが最初だがこれも輸入機である。
 公衆用火災報知機の国産化は明治末ごろから検討されていたが、開発コストがかかる割には予算がつかないので見送られていたという。
 1913年(大正2年)警視総監がフィリッピンのマニラ市に設置された火災報知機の資料を入手、部下の原田技師に開発を命じた。原田技師は沖電気(株)に協力を依頼、沖電気では三好盛晴技師が担当、従来の報知機を参考に独自な公衆用火災報知機の開発に取り組んだ。
 翌1914年(同3年)同技師の頭文字をとったMM式火災報知機を開発したが、企業化資金の獲得に難渋、そこで火災保険会社に協力を求めた。1917年(大正6年)3月、関係各社幹部など11人が発起人となり、警視庁に同火災報知機の製造、販売、設置、保守をする新会社の設立と同報知機の設置について請願した。
 警視庁は同年5月、30年後に設備を無償で東京府に寄付することを条件に建設を許可。翌1918年(同7年)4月、ようやく東京報知機(株)(現ホーチキ)が設立され製造に乗りだした。
 翌1919年(同8年)11月24日、第一期工事として日本橋区(中央区日本橋)内に24基設置する工事を開始、翌1920年(同9年)4月1日竣工し、この16日午後2時から使用開始となった。なお、報知機の名称は、火災だけでなく盗難犯罪の通報も行うとして“公衆用火災盗難報知機”と呼ばれた。
 (出典:東京の消防百年記念行事推進員会編「東京の消防百年の歩み>大正期 138 頁:火災報知機の設置」、東京消防庁編「消防雑学事典:街頭から姿を消した火災報知機」、ホーチキ(株)編「ホーチキの70年>Ⅰ.東京報知機の誕生」)


○汽船第一わかと丸転覆事件-若戸大橋建設へ(90年前)[再録]
 1930年(昭和5年)4月2日

 第一わかと丸は、若松市(現・北九州市若松区)のえびす祭りに訪れた参拝客などで定員を超過していたが、船体を左舷に傾斜させたまま出港した。
 ところが戸畑港に向けて洞海湾内を航行中、波浪の影響で動揺して転覆し復元できなかった。乗客72人が死亡。
 この事故をきっかけに若戸海底トンネル建設案が浮上したが、前年10月、ニューヨーク・ウォール街を襲った史上最大の株の暴落から起きた世界大恐慌に日本も巻き込まれ構想は頓挫した。その後、翌1931年(昭和6年)9月、中国での柳条湖事件を契機に1945年(昭和20年)8月まで続く長い戦争期間を経て、終戦後この事故は思いだされた。
 悲惨な事故を2度と起こさないため、戦後の復興期を経た1958年(昭和33年)若戸大橋の建設が着工され、1962年(昭和37年)9月、すべて日本独自の技術による全長2.1km(橋の部分680m)の長大橋、若戸大橋が開通、その後の海峡をまたぐ長大橋建設の先駆けとなった。
 (出典:海難審判・船舶事故調査委員会編「昭和前期(元年~22年)時代>昭和5年>主な海難等の動き:汽船第一わかと丸転覆事件」[改訂]、システム工房編「九州の橋>若戸大橋」ほか)


○熱海市大火、温泉旅館47軒焼損、市の4分の1壊滅し中枢機能喪失(70年前)[改訂]
 1950年(昭和25年)4月13日

 午後5時23分ごろ、渚海岸埋立地工事現場に建てられた榎本組土建事務所内で、作業員がガソリンの入れ替え作業中たばこに火をつけ、捨てたマッチの残り火が床に漏れていたガソリンに引火した。
 火は折から海から吹いてくる秒速30mの東の強風にあおられて、事務所をひとなめにしたと思うと、海岸道路を飛び越え市内中心部に広がった。また飛び火が8か所にものぼり、それが同時に燃え上がる大きな炎となった。
 勢いを得た炎は、海岸道路反対側の繁華街熱海銀座通り、隣接する糸川沿いの芸者屋や遊女がたむろする花柳街(かりゅうがい)を存分になめつくし、ほぼ北へ北へと坂道をさかのぼり市役所、警察署、郵便局や公会堂のある中心部を焦土と化した。7時間燃え続け午前0時半頃ようやく鎮火。
 市内には水源はあったが、火災当時は二車線通行できる道路がなく、海岸からすぐ山が迫っている地形のため、曲折と坂道の多い道路も消火活動に制限を加えた。熱海温泉の顔、旅館47軒を損傷、家屋焼失979棟、1461世帯5004人が被災、3277人が負傷するなど、市の4分の1が壊滅、中枢機能がほとんど失われた。
 (出典:熱海市消防本部提供資料、近代消防臨時増刊号「日本の消防1948~2003>昭和25年 57 頁:熱海市大火」)


四日市ぜんそくで住民が市役所に陳情、顧みられず7年後、公害訴訟始まる(60年前)[改訂]
  1960年(昭和35年)4月

 この月、四日市市塩浜地区連合自治会の代表が、工場のばい煙と騒音、悪臭などについて市役所に状況を訴え善処方を陳情。このころからぜんそく患者が多発“四日市ぜんそく”と呼ばれる公害が始まっていた。
 太平洋戦争(1941年~45年)までの四日市市は、紡績の町として有名であったが、戦後の復興期を過ぎ「もはや戦後ではない(昭和31年度経済白書)」という時代を迎えて、当時の三重県知事と四日市市長は、同市に日本で最初の石油化学コンビナートの誘致を始めた。“公害”という言葉がまだない時代である。
 四日市港に隣接するという立地条件の良いところに広大な旧海軍燃料廠の跡地があった。その西側の背後に塩浜の住宅地が隣接していたが、そのことはさほど考慮に入れず関係企業を誘致、1958年(昭和33年)4月には昭和四日市石油が竣工式を行いコンビナートの建設が始まった。
 すると早くもその年には四日市沖合で穫れる魚に異臭がするようになり、翌59年(同34年)4月、塩浜地区の第1コンビナートが本格稼働を開始すると、翌60年(同35年)には異臭魚は四日市沖合4kmまで広がり、同年3月、東京築地中央卸売市場で「伊勢湾の魚は油臭いので、厳重な検査が必要」との通告が市場関係者に出回る状況になった。塩浜地区連合自治会が市役所へ陳情したのは、その翌月のことである。
 当時、58年(同33年)6月に起きた“本州製紙江戸川工場汚水放流事件”に端を発して、工場排水による海水の水質の悪化問題に対して「公共用水域の水質保全に関する法律(水質保全法)」と、「工場排水等の規制に関する法律(工場排水規制法)」がすでに施行されていたのにもかかわらず、四日市市当局は、同年8月に公害防止対策委員会を発足させるなど状況改善への姿勢を見せたものの、午起地区での第2コンビナート建設予定地の造成は中止せず、公害をさらに広めていった。
 市民の間で問題になっている、大気汚染や海洋汚染について、特に改善されないまま、63年(同38年)11月、午起地区のコンビナートが本格的に稼働し始めると、四日市市は北の午起、南の塩浜と南北に挟まれる形で大気汚染が広がり、海洋汚染地域も広がってゆき、翌64年(同39年)を迎える。この時点での年間硫黄酸化物の排出量は、二酸化硫黄換算で13~14万トンに達し、同濃度は塩浜コンビナート地区と鈴鹿川を挟んで南岸に位置する磯津地区で、1時間値の環境基準値0.1ppmの5倍から10倍を超える数値を記録していた。
 一方、海水汚染も進み、海上保安庁四日市海上保安部の報告によると、巡視艇でパトロール中、午起地区と塩浜地区の中ほどに位置する四日市港の南部で、コンクリートの護岸がボロボロに溶け、海水をくみ取ろうと手を海水に入れると、“痛っ!”というほど酸性が強くなっていたという。
 その3年後の67年(同42年)9月、ついに磯津地区のぜんそく患者9名がいたたまれずコンビナート進出企業6社に対する慰謝料請求の訴訟を、津地裁四日市支部に提起し、5年にわたる四日市公害訴訟が始まる。67年(同42年)海水油濁防止法が公布され、3年後には海洋汚染防止法に改正、大気汚染防止法もようやく翌68年(同43年)6月に公布、71年(同46年)10月に四日市市は、同法に基づく指定地域に指定されて、ばい煙の排出が規制されることになったが、第3のコンビナート霞ヶ浦地区が本格的な稼働を迎えたのは、その翌年の72年(同47年)2月からである。
 (出典:四日市公害と環境未来館編「四日市公害について」、環境再生保全機構編「大気環境の情報館>高度経済成長前半の大気汚染>四日市の大気汚染」、衆議院制定法律「昭和33年法律第181号 公共用水域の水質保全に関する法律(水質保全法)」[追加]、同法律「昭和33年法律第182号 工場排水等の規制に関する法律(工場排水規制法)」[追加]、同法律「昭和43年法律第97号 大気汚染防止法」[追加]、同法律「昭和45年法律第136号 海洋汚染防止法」[追加]。参照:2018年6月の周年災害「本州製紙江戸川工場汚水放流事件-最初の本格的水質汚染防止2法制定へ」[追加]、2017年8月の周年災害「海水油濁防止法公布、3年後海洋汚染防止法と改正」[追加]、2018年6月の周年災害「大気汚染防止法制定」[追加])


○大阪天六地下鉄工事現場ガス爆発事故、群衆499人死傷(50年前)[改訂]
 1970年(昭和45年)4月8日

 淀区国分寺町の大阪市営地下鉄2号線(谷町線)延長工事現場で、地下に露出した都市ガス管の懸吊作業をしていたところ、管の水取器の継手部分が抜け出し、ガスが噴出したので作業員は脱出した。連絡を受け調査中の大阪ガス緊急事故処理車が、車を方向転換しようとしたとき、いったんエンジンが停止したので、再始動したところ車の下が燃え上がり、噴出していたガスに引火し火勢が強くなった。それを見て制止を無視して野次馬が群がったという。
 5時47分、突然地下に充満していたガスが大爆発を起こし、工事現場を覆っていた重さ400kgの鉄板が200mにわたって吹き飛んだ。群衆は吹き飛ばされ、なぎ倒され、地下へ落ち押しつぶされた。また地下からガスの炎が噴出しあたりが火災となった。
 即死者64人を含む79人死亡、420人が負傷。爆発とそれに伴う火災による住家の損害は、爆風による一部損壊65棟、火災罹災31棟(合計495棟:失敗知識)となった。
 都市ガスの噴出事故の約30分後に大爆発があったと推定されたが、その間、野次馬や通行人に対する避難措置が適切であったかどうか大問題となった。都市型災害の典型例である。

(出典:失敗学会編「失敗知識データベース>地下鉄工事現場で都市ガス爆発」、近代消防臨時増刊号「日本の消防1948~2003>昭和45年 109頁:大阪地下鉄工事現場都市ガス爆発火災」)


口蹄疫、宮崎県で流行。県有種雄牛にPCR検査を行い避難、県で非常事態宣言後、県民不要不急の外出自粛、
 イベント、大会の延期など7月末まで続く。殺処分約30万頭、県内経済影響額約2350億円(10年前)

 2010年(平成22年)4月9日

宮崎県中部沿岸部の都農(つの)町で口蹄疫の感染が、牛16頭を飼育する和牛繁殖農家(子牛を成牛に飼育する農家)で発見された。

口蹄疫とは家畜伝染病(感染症)のひとつで、足の蹄(ひづめ)が偶数に割れている偶蹄目の牛、豚、山羊、鹿、イノシシなどや象が感染する。病原体は口蹄疫ウイルスで、人への感染例は19世紀以降の事例では報告されていない。
 口蹄疫の怖さは、まず家畜や野生にしても食肉の対象になっている動物が偶蹄目であるという点にある。その上、感染力が非常に強く、発育障害や運動障害および泌乳(乳を出す)障害に犯されるので、家畜としての価値が失われる。それが故に、いったん口蹄疫が流行すると、感染を防ぐため家畜の場合、地域単位で畜産物も含め厳しい移動制限が課せられ、その社会的、経済的な損害は直接、間接を問わず計り知れないものがあり、結局、感染した家畜やそれと同じ舎屋で飼育されている家畜をともに殺処分せざるを得なくなる。
 口蹄疫の歴史は古いと言われているが、最初に記録されたのは16世紀半ばのイタリアで、それ以降ほぼ全世界で発生が報告されており、1898年ドイツの二人の医学者によって病原体がウイルスであることが発見された。近年では2001年イギリスで約2000件におよぶ感染が確認され、1100万頭の家畜が殺処分された。被害額約80億ポンド(約1兆4000億円)。翌02年5月から6月の間に韓国京畿道、中清北道で16件の発生が確認され、約16万頭の牛を殺処分。05年4月中国山東省と江蘇省で報告され、河北省からウイグル自治区まで拡大したという。07年8月にはイングランドの農場で感染が確認されている。
 また海を越えた感染例とされているものに、67年と68年にフランスからドーバー海峡を越えてウイルスがイギリスに渡ったという報告があり、2000年に宮崎県で3月25日から4月9日にかけて3戸の飼育農家で,5月11日に北海道の1戸の飼育農家で感染が確認されている。

今回の宮崎県で感染が、1月から3月にかけて韓国京畿道で、4月に同国仁川(インチョン)広域市・江華島(カンファド)と京畿道金浦(キンポ)市ほかで感染が見つかり、また3月末に中国で豚への感染が見つかっているが、宮崎県での飼育牛の感染に、それぞれ隣国だが、ウイルスが海を渡って宮崎県に侵入したのかどうかはわかっていない。
 4月9日午後5時、都農町の和牛繁殖農家から診察を依頼された獣医師が、病性診断を行ったが、症状が口腔内の潰瘍のみで、水疱(水ぶくれ)がないこと、他の牛に症状が見られないことから、口蹄疫ではないと判断し、経過観察とした。
 しかし1週間後の4月16日、同牧場で先に診断をした獣医師から、同様の症状を示す牛がいるとの報告を受け、翌17日、宮崎家畜保健衛生所の獣医師が、臨床目視検査で口蹄疫をいったん否定した上で、類似疾病について検査をしたところ、いずれも陰性であったので、残るは口蹄疫の疑いもあるとし、検体を動物衛生研究所に送付した。その結果、4月20日午前4時43分、口蹄疫に感染していることがわかった。
 感染牛を出した都農の繁殖農家では、飼養規模が118頭と小規模だったこともあり、感染確認から二日以内に全頭を殺処分して完了したが、実は感染が確認された20日の時点ですでに10以上の農場にウイルスが侵入、25日には牛725頭、28日には牛1019頭の大規模畜産農場へ感染は拡大、同日、わが国初めてとなる豚への感染が確認され、それ以降、殺処分、埋却に遅れが生じ始めたため、ウイルス量が爆発的に増加し、同時多発的かつ面的な感染拡大が続く。
 感染地域は当初、都農町、川南町だったが4月28日には、えびの市に飛び火し、5月16日には高鍋町、新富町に、21日には木城町、西都市に拡大した。この間、宮崎県家畜改良事業団におよぶ可能性のある状況となったので、県有種雄牛のうちエース級6頭について、出発前のPCR検査と抗体検査、避難先でPCRを行う条件付きで5月13日に移動制限区域外の西都市尾八重へ緊急避難を行ったが、1頭がPCR検査で陽性を示したので殺処分となっている。
 5月18日、農林水産省牛豚疾病小委員会では、ワクチン使用に言及、21日、宮崎県では接種を実行。6月4日、口蹄疫対策特別措置法が公布・施行された。
 また5月18日時点で宮崎県内の殺処分対象家畜が128万頭を超え、同県では国内初の非常事態宣言を発令、口蹄疫発生地域の畜産農家に対して、消毒の徹底と不急不要の外出の自粛、さらに他の畜産農家との接触禁止を要請、一方、一般県民に対してはイベントや大会、集会の延期や不急不要の外出の自粛をお願いし、県内すべての制限区域が解除されたのは7月27日であった。
 7月4日、宮崎市で確認された口蹄疫292例目が最後の発生事例となり、その殺処分が終了した日から21日を経過した27日午前0時を以て、県内すべての制限区域を解除、これを受け非常事態宣言も全面解除される。県内経済への影響額2350億円と見込まれた。

ちなみに、口蹄疫に人は感染しないか、感染してもほとんどが無症状のうちに快癒するが、人の皮膚や衣服、靴、持ち物、車両などにウイルスが付着して伝播させる危険性があること。その対応策が10年後の人への感染症、新型コロナに対するのと全く同じであったことに注目したい。
 (出典:内閣府食品衛生委員会編「第1 編 口蹄疫の概要」、宮崎県編「平成22年に宮崎県で発生した口蹄疫に関する防疫と再生・復興の記録“わすれないそして前へ”>第1章 概要 口蹄疫の発生から再生・復興への道のり」、農林水産省動物検疫所編「家畜伝染病予防法の解説」)


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(2020.9.5.更新)

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