○読者の皆様へ

「周年災害」は2005年1月から掲載を開始し、10年単位で過去の大災害や特異災害、防災関連の施策 などを記事化してご紹介しております。

そこで、① 記事化して各10年後に再度ご紹介する場合、見出しの変更程度か内容に大きな変更のない 場合は、訂正のないものも含め[再録]と表示します。

② 内容が新しい情報に基づき訂正された場合は、目次と本文見出しの後に[改訂]、出典資料が改訂ま たは変更になった場合は、資料紹介の後に[改訂]、追加の場合は[追加]と表示します。

③ 新規に追加した記事は、掲載月より10年前の災害などを除き[追補]と表示します。
また、書き残されている大災害や防災施策などについては“追補版”として掲載月と同じ月のものを選 び、基本的には発生の古い災害等の順に補足記事化しております。

 なお、各記事末に参照として、記事に関係ある最新の「周年災害」がリンクされ読めるようになっています。

【2020年2月の周年災害】

・平治から永暦に改元、武家政治の時代へ変革のとき(860年前)[再録]

・対馬厳原万治2年の大火「一番火事」(360年前)[再録]

・江戸湯島万治3年天神前の大火(360年前)[再録]

・名古屋万治3年の大火-広小路できる(350年前)[再録]

・鹿児島延宝8年の大火「田尻殿火事」、諸士不在時の大火(340年前)[再録]

・大坂寛政元年「上町大火:東横堀焼」(230年前)[再録]

・東京日本橋明治13年橘町の大火(140年前)[再録]

・東京浅草明治23年三軒町の大火、瓦葺き(ぶき)、銅板葺き(ぶき)3土蔵造り住家多し、 蒸気ポンプ大活躍(130年前)[再録]

・この年全国的に流行し、初めてインフルエンザとして一般に紹介される
 -病名が時代とともに、咳病、風邪、○○かぜ、流行性感冒と様々に変わる(130年前)[再録]

・川俣事件、足尾銅山鉱毒被害民が警官隊と衝突、田中正造政府を追求(120年前)[改訂]

・かりふぉるにあ丸遭難事件-緊急時の船長最後退船義務なくなる(50年前)[再録]

○平治から永暦に改元、武家政治の時代へ変革のとき(860年前)[再録]

 1160年2月25日(平治2年1月10日)

 平治の乱が起きたことにより改元という。

時代はそれまでの藤原氏を中心とした貴族政治の時代から、平家、源氏を中心とした武家政治の時代へと変わる変革の時期にあった。1156年8月(保元元年7月)、当時、天皇家と藤原摂関家の両家はともに家督争いを繰り広げており、力をつけ中央政界に名をあげてきた平家、源氏を中心とする武士たちをそれぞれの陣営に引きいれ京都市内で戦った。保元の乱である。

その僅か3年半後の60年1月(平治元年12月)、今度は平清盛を背景に藤原信西を中心とする院政派に対し、天皇親政派が保元の乱での恩賞に不満を持つ源義朝を引き入れクーデターを起こすという平治の乱が起きた。改元は引き続く京都市中での戦いに対し、戦乱を収める時代を目指して元号を永暦としたもの。

二つの乱を引き起こした藤原摂関家と院政の起こりとは、まず794年(延暦13年)平安京遷都後の9世紀初頭、藤原冬嗣がその権力の基礎をつくり、その子良房が857年3月(斉衡4年2月)太政大臣に任じられて以来、その子孫が、摂政や関白などに就任し天皇に代わり実権を振るったので、この家の流れを後世、藤原摂関家と呼び、その政治を摂関政治と呼んだ。

ところが250年の時を経て摂関政治が衰退、1087年1月(応徳3年11月)、白河天皇が位を実子善仁親王に譲って上皇となり、幼い天皇に代わり政治の実権を握った。上皇は○○院と呼ばれたので上皇による政治が“院政”と呼ばれた。

特に1101年3月(康和3年2月)太政大臣藤原師実が死去するにおよび、白河上皇による院政の時代を迎える。ところが白河上皇が1129年7月(大治4年7月)に亡くなると、天皇家内部での上皇と天皇を巡る権力争いが起こり、27年後の保元の乱を迎えることになり、時代は武家政治の時代へと変革する。 (出典:日本全史編集委員会編「日本全史>平安時代>1155-59  222頁:合戦ふたたび、平治の乱。源義朝らクーデターに失敗」、同編「同書>同時代>1155-59  221頁:花の都で武士が合戦、保元の乱起こる。親子兄弟が入り乱れ」、同編「同書>同時代>850-859  152頁:藤原良房、太政大臣に就任、念願の摂政まであとひと息…」、同編「同書>同時代>1080-89  196頁:白河上皇が院政を開始。新東宮(皇太子)を擁立し、ただちに譲位」)

○対馬府中(対馬市厳原)万治2年の大火「一番火事」(360年前)[再録]

 1660年2月8日(万治2年12月27日)

明け方の七つ過ぎ(午前4時ごろ)、向里之町から出火した。

炎は厳原城下一円をなめつくし、火元の向里から浜之小路、田淵、丸山、かたひら町、奥里とつぎつぎと延焼、門蔵町、横町、今屋敷まで火勢を延ばし四つ半(午前11時ごろ)鎮火するという、厳原始まって以来の未曾有の大火となった。

被害は侍屋敷、町人の家あわせ1078軒焼失、橋梁8か所、飛び火で船4艘も焼失した。16人が死亡。 (出典:厳原町誌編集委員会編「厳原町誌>第三章 近世>第二節 藩主宗義成の藩政>四 町・農村の行政と構造>(二) 城下町の商業 643頁:万治の大火」、池田正一郎著「日本災変通志>近世 江戸時代前期>万治二年 368頁」)

○江戸湯島万治3年天神前の大火(360年前)[再録]

 1660年2月24日(万治3年1月14日)

巳の下刻(午前11時ごろ)、湯島天神の大門前に住む大御番(大番:幕府の直轄部隊)に所属する森川兵左衛門宅(一書では川口左衛門宅)から出火した。このころ江戸では例年より火事が多く、2月12日(旧暦1月2日)から5月3日(旧3月24日)までの間に105回も火事があり、中でもこの日の火事が大火として記録されている。

湯島天神大門前から燃え上がった炎は、周辺の武家屋敷を焼き払った。しかし北風に乗った飛び火により、神田明神裏の門前茶屋からも出火し、湯島二丁目、三丁目から旅篭町、猿楽町、村松町、和泉橋まで焼き尽くした。筋違橋、札の辻ぎわに延びた炎は連雀町、片町から上柳原坊主衆町、須田町を残らず灰にした。また白銀町から東の武家屋敷街も燃え、箱崎橋で炎の勢いは止まった。南の方は中橋広小路まで、本町通りは常盤橋札の辻、油町まで、八丁堀周辺の武家屋敷を焼き、新堀町は一町だけ残し、茅場町も残らず灰となった。

大名屋敷23軒、与力、足軽など武家屋敷45軒、町家2358軒、町数にして119町が類焼。鉄砲町から石町の間で80人死亡、白金四丁目で15人が死亡した。ちなみに幕府はこれら頻発する火災に対し、4月(旧2月)になり屋根を中心とした初の町家防火対策を示達することになる。 (出典:東京都編「東京市史稿>No.2>変災篇第4>万治三年火災 250頁~253頁:二.正月十四日火災」。参照:2010年4月の周年災害「幕府、初の町家防火対策を示達」)

○名古屋万治3年の大火-広小路できる(360年前)[再録]

 1660年2月24日~25日(万治3年1月14日~15日)

 江戸で大火が起きた同じ日、名古屋城下でも大火があった。

申の上刻ごろ(午後4時ごろ)、名古屋城三の丸御門の南、片端伏見町の角にある吉原助太夫の屋敷から出火した。

これは左義長を焼く炎が家屋に燃え移ったと伝えられている。この火は直ちに鎮火したが、ほとんど同時刻に今度は本町二丁目の杉ノ町角にある、花井七左衛門宅からも出火した。この炎は、折から吹きすさぶ北西の烈風(伊吹おろし)にあおられて東南方向に燃え広がり、西は長者町西側と島田町東側いっぱいを灰にした。東は武平町西側から駿河町、七曲がりまでを焼き尽くした。また南は堀切筋から小林におよび、ほとんど城下一円を焦土と化した。

武家屋敷120軒、町家2247軒、寺院30か所を焼失、16人死亡。燃えさかる炎は翌日朝ようやく鎮火した。名古屋城下形成以来の大火であった。

尾張藩ではその後、碁盤割りにした市街地の南端、堀切筋の道幅を3間(約5.5m)から5倍の15間(約27m)に広げて防火帯とした。この道路はのちに“広小路”と呼ばれている。

(出典:名古屋市消防局編「名古屋の火災記録集成>名古屋の火災-明治前の火災->万治三年 2頁~5 頁」、新修名古屋市史編集委員会編「新修名古屋市史 第4巻>第六章 名古屋の人々と生活>第三節 災害と施行>1 頻発する災害>名古屋城下の火事 455頁」)

○鹿児島延宝8年の大火「田尻殿火事」、諸士不在時の大火(340年前)[再録]

 1680年2月12日(延宝8年1月12日)

薩摩藩で毎年行われる伊集院の春山(現・鹿児島市)での関狩(用兵訓練)に、城下すべての諸士が参加していた隙に、申の下刻(午後5時ごろ)平の馬場にある田尻八兵衛の屋敷から出火した。

当時、鹿児島では晴天続きで乾燥していた上、この日は強い西風が吹いていた。いつもなら消火に当たる諸士がいない。炎は火元の家を半分ほど焼くと、近隣にある藩の重役の屋敷につぎつぎと延焼、そこから家々に火の粉を飛ばし、町方(町人の街)に炎が燃え移った。延焼したのは西の火元から北は城の大手之口堀まで、東は客屋から六日町、新築出海まで、南は天神之宮から樋之口、南林寺門前脇寺、屋久嶋蔵海まで、鎮火した戌の上刻(午後8時ごろ)までの3時間あまりで市中が一気に焼けた。

焼失した屋敷849か所、家数にして3308軒。内訳は客屋1か所23軒、天神宮地並びに門前1か所12軒、屋久嶋蔵1か所12軒、侍屋敷345か所2059軒、南林寺脇寺地11か所36軒、同門前地91か所172軒、仲間並びに細工人の家8か所27軒、町家391か所923軒。54人死亡、負傷者多数。

(出典:鹿児島市編「鹿児島市史 Ⅲ >第四部 近世関係資料>古記(上) 363頁~364頁」、鹿児島県編「鹿児島県史 第2巻>序説 第一編 薩摩藩の体制>第六章 鹿児島城及び城下 151頁~152頁」、鹿児島市編「鹿児島のおいたち>第一章 藩政のうつりゆきと城下町の成立>第一節 前期 271頁~272頁:田尻殿火事」)

○大坂寛政元年「上町大火:東横堀焼」(230年前)[再録]

 1790年2月5日~6日(寛政元年12月22日~23日)

卯の刻(午前6時ごろ)南本町二丁目堺筋東へ入る北側にある辰巳屋久左衛門の家守(管理人)浅田屋源七が支配する貸家、姫路屋平八(呉服商)の居宅から出火した。

炎は折からの強烈な西風にあおられて瞬く間に本町一丁目南側に延焼し東に焼け抜けた。その上、南本町浜より内本町橋詰町曲がりへ飛び火し、そこから炎は東北へと延び、松屋町から骨屋町、御祓筋、善庵筋、谷町、大手筋まで焼け抜け、城代屋敷をはじめ近辺の武家屋敷を総なめにし、南は上本町三丁目まで焼け抜けた。

ところが申の下刻(午後4時ごろ)この火勢に合するかのように、南久宝寺町一丁目の穂積屋正三郎宅の二階から出火した。新しい炎は東へと延焼、内久宝寺町から安堂寺町東へ焼け抜けようやく6日(旧23日)寅の中刻(午前4時ごろ)鎮火。

その被害、町数52町、焼失範囲は東西広いところで629間ほど(約1.1km)、南北は442間ほど(約800m)。町家、家数にして1110軒、かまど数(世帯数)にして5468。道場13か所、蔵屋敷1か所、町の惣会所1か所、空き貸家464軒、油屋69軒、土蔵36か所、穴蔵12か所。そのほか大坂城代中屋敷、御城番中屋敷、地方役人衆屋敷11軒、代官屋敷2軒ほかが焼失。

(出典:大阪市立中央図書館市史編集室編「大阪編年史 第13巻>寛政元年十二月 173頁~174頁:鐵拐雑録」、大阪市消防発足20年記念誌編集委員会編「大阪市消防の歴史>第一章 資料と年表 42頁:上町大火」)

○東京日本橋明治13年橘町の大火、焼けた板葺き(いたぶき)屋根未だ8割を占める(140年前)[再録]

 1880年(明治13年)2月3日~4日

前年の暮12月26日、箔屋町から出火して65町、1万613戸を焼失した大火から僅か1か月あまりで、再び日本橋で1000戸を超える火災が起きた。

午後11時30分ごろ、橘町四丁目五番地の塩せんべい屋、増田忠兵衛所有の物置付近から火が燃えだした。原因は、この日の午後、たき火をした後の燃えかすを、よく消さずに物置付近に掃き寄せておいたところ、くすぶりだし夜になって燃えだしてきたもので、炎となり、たちまち平屋の同物置をひとナメにして燃え上がり、火元の橘町四丁目から三丁目、二丁目、一丁目とつぎつぎと延焼した。燃えさかる炎は、そこからさらに若松町、村松町を経て浜町一丁目から三丁目までを灰にし、翌日午前5時ようやく鎮火した。

焼失面積5万609平方m、同家屋1776戸。この火災で久松町にあった洋風三階建ての官舎をはじめ、警視庁第一方面第五分署、久松座、久松小学校が類焼した。焼失した住家及び物置などの内訳は、瓦葺き(かわらぶき)平家住家全焼263戸、同半焼4戸、同二階建住家全焼60戸、同半焼13戸、柿(こけら:板)葺き平家住家全焼1127戸、同半焼24戸、同二階建住家全焼221戸、同半焼6戸。瓦葺き二階建土蔵3戸、同平家物置6戸、柿(板)葺き平家物置48戸、不祥1戸。

焼失家屋の合計は、瓦葺き家屋349戸、柿(板)葺き家屋1426戸、江戸から東京へかけての中心地日本橋といえども、被災地域の瓦葺き家屋は2割すら満たしていない。5年ほど前の1874年(明治7年)11月の隣町京橋川口町の火事の際、全焼した住家で板葺き屋根の家が7割を占めていたが、今回の火災でも特に改善されていないことがわかった。

(出典:東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の消防百年の歩み>明治初期>日本橋の大火31頁~32頁:明治十三年の大火」、東京都編「東京市史稿>変災篇第5>帝都時代火災>明治十三年火災 1072頁~1073頁:五.二月三日火災 左之如し」。参照:12月の周年災害・追補版(3)「東京日本橋明治12年箔屋町の大火」。参照:2014年11月の周年災害「東京京橋明治7年川口町の大火」)

○東京浅草明治23年三軒町の大火、瓦葺き、銅板葺き、土蔵造り住家多し、蒸気ポンプ大活躍

(130年前)[再録]

 1890年(明治23年)2月27日

午前0時55分ごろ、浅草三軒町の薪炭商、木村喜太郎方から出火した。

燃え上がった炎は折からの北西の強風にあおられて、火元の三軒町を始め寿町から新福富町、新猿屋町、諏訪町、黒船町、三好町、駒形町、西仲町に延焼し午後5時45分鎮火。

被害は1469戸、4万2332平方キロmを焼失、1人死亡、消防組員7人が負傷した。被災家屋の内訳は、瓦葺き二階家住家全焼367戸、同半焼17戸、同平家住家455戸、同半焼18戸、土蔵造二階家住家全焼2戸、同平家住家全焼1戸、金属(銅板)葺き二階家住家全焼6戸、同平家住家?半焼2戸、板葺き二階家住家全焼63戸、同半焼3戸、同平家住家497戸、同半焼15戸、板葺き平家物置全焼23戸。

前項日本橋の火災から10年後といえども、火災に弱い板葺き屋根の家屋が41%というのはさすが浅草というべきか、中でも珍しいのは、古来より神社、寺院で使われていた高額の銅板葺き屋根の住家(平家は御堂か?)があることで、商家で商品などを収蔵し火災に強い土蔵造の住家とともに、富商の店舗兼住宅と思われる。

この火災の時、時の警視総監(消防は警視庁の一部)が自ら陣頭指揮をとったと伝えられているが、もっとも活躍したのは馬に引かせて火災現場に登場した輸入の蒸気ポンプで、蒸気を動力として機関を動かし放水するものだった。

発火当初、消防組(隊)は椀用ポンプ(手押しの放水ポンプ)で火勢に応戦したが、屋根が銅板や瓦の家が多いといえども、本体は木造の家屋が密集する繁華街の上、強風で飛び火し手の施しようがなかったところ、蒸気ポンプ登場となった。東京日日新聞はその情景を活写する。

“(消防組が)鋭き風火の勢いには勝つ由もなくて、各々はあぐみ果てて見えたるところ、汽笛の響きに先を払わせて三台の蒸気ポンプは馳せ来たり、駒形堂の河岸に陣を取りて(中略)川水を滝の如くに注ぎかくる”“殊に風下なる厩橋際に二台の蒸気ポンプありて、力の限り食い止めんと働きたれば火先は此処にて止まりたる”と。

 (出典:東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の消防百年の歩み>明治中期>浅草の大火 66頁~67頁:蒸気ポンプ大活躍」、東京都編「東京市史稿>変災篇第5>帝都時代火災>明治廿三年火災 1189頁~1190頁:二、二月廿七日火災ハ」)

○この年全国的に流行し、初めてインフルエンザとして一般に紹介される

 -病名が時代とともに、咳病、風邪、○○かぜ、流行性感冒と様々に変わる(130年前)[再録]

 1890年(明治23年)2月

明治23年2月14日付東京日日新聞に“昨年来欧米諸国に於いて猖獗(しょうけつ:はびこる)を逞しうせしインフルエンザ病は、過日神戸に於いて発生せしやの噂ありしが、いよいよ横浜まで侵入来たりて、……”とある。

欧米との通行が盛んになった明治時代、インフルエンザが港町から侵入し、それも西国から東へと広まったことが報じられている。感染症の流行ルートは天然痘の古来よりと同じパターンで変わらないようだ。ちなみにこの年の流行期間は、記録によると4月初旬ごろから始まり、5、6月に最盛期を迎え、7月中旬には収まったと伝えている。新聞紙上でも、同年5月11日付け毎日新聞は“いよいよ日本でも本格的流行”とし、東京での流行の状況を報じている。

インフルエンザの症状などの知識については、すでに幕末の蘭方医(西洋医学者)の間では知られており、それを“流行性感冒”と翻訳していた。つまり流行する風邪(感冒)という意味で、この名称は医学界から政府関係機関で使用され、明治時代になると新聞紙上でも使用され、一般には略して“流感”と呼ばれた。

また、インフルエンザについてその根源や徴候などに関する紹介は、この年の1月16日付け東京日日新聞が、記事上で紹介したのが始めてで、その後各紙では記事中“流行性感冒”とした横にインフルエンザとふりがなを振って、読者に紹介した。

インフルエンザは古代から“咳病(咳の病)”と名付けられ、天然痘(痘瘡)と並び大流行をくり返してきた。ところが、天然痘や幕末1822年(文政5年)以来猛威を振るったコレラなどが、1920年(大正9年)ごろを最後にほぼ姿を消したのに対し、インフルエンザは21世紀の現代になってもその姿を変え、時には鳥類由来の鳥インフルエンザなどが新たに参加するなど、感染症の王座を占め続けている。

咳病という表現が“風邪”的な表現に変わったのは江戸時代に入ってからのようで、享保から元文年間(1716年~40年)の世相を記した「享保世説」の享保十五年(1730年)の項に“八月下旬より風気流行致し候”とあり、幕末に編集された年代記「泰平年表」や「武江年表」には“風邪”という表現で、享保18年(1733年)以降の流行の状況が記されている。また一般の市井では、インフルエンザが流行すると“○○かぜ”と当時の世相や流行などを名称に入れ呼んでいる。例えば1821年(文政4年)に流行した際“長州病(かぜ)”と呼ばれたのは、長州藩毛利公の参勤交代による江戸上りとほぼ同時に西国から流行してきたからという。

インフルエンザが流行性感冒と翻訳されたのは、上記のように幕末だが、流行性感冒がインフルエンザと名を変え、公式に使用されるようになったのは、太平洋戦争終戦後(1945年:昭和20年8月~)の48年(同23年)6月「予防接種法」が公布された際“個人の発病又はその重症化を防止し、併せてこれによりそのまん延の予防に資するため特に予防接種を行う必要があると認められた疾病”として“B類疾病”というのが定められたが、それにインフルエンザが同名で指定されている。一方、前年の47年(同22年)3月「伝染病届出規則」が厚生省(現・厚生労働省)令で制定されたときインフルエンザは、結核や狂犬病などとともに届出伝染病の一つに指定されたが、ここでは流行性感冒と名乗っている。

ちなみに“伝染病”という名称が“感染症”と呼ばれるようになったのは、98年(平成10年)10月それまでの「伝染病予防法」が、「性病予防法」「エイズ予防法」と統合され、「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(感染症予防法)」に改正されたときからである。

 (出典:明治ニュース事典編纂委員会+毎日コミュニケーション出版部編「明治ニュース事典 第4巻 40

頁~42頁:インフルエンザ」、東京都編「東京市史稿>変災篇第3>帝都時代の疫癘>明治廿三年腸窒扶斯 1157頁:是年流行性感冒亦大ニ行ハル……」。富士川游著「日本疫病史>流行性感冒>疫史 254頁~262頁」、電子政府の総合窓口「予防接種法」、厚生省医務局編「医制百年史 資料編>一 法令関係 305頁~306頁:国立国会図書館デジタルコレクション「官報 第6040号 21頁(1コマ):伝染病届出規則」、電子政府の総合窓口「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(感染症予防法)」。参照:2011年3月の周年災害「長州病(インフルエンザ)大流行」)

○川俣事件、足尾銅山鉱毒被害民が警官隊と衝突、田中正造政府を追求(120年前)[改訂]

 1900年(明治33年)2月13日、15日、17日

足尾銅山がまき散らし、流し放題にしている鉱毒によって、長年被害を受けている渡良瀬川中流域を中心とした2500余名の農民など被害民が、政府に請願のため大挙上京の途上、この日佐貫村川俣地内(現・明和町)の上宿橋付近で、それを阻止しようとする警官隊と遭遇、乱闘の末、数百余名が逮捕され、51名が兇徒聚衆罪(集団的暴行罪)、治安警察法違反、官吏抗拒罪(公務執行妨害罪)で起訴されたが、1902年(明治35年)12月、宮城控訴院で無罪が確定している。

足尾銅山鉱毒問題は、古河(ふるかわ)財閥の創始者古河市兵衛が、1877年(明治10年)2月、足尾銅山の経営に乗りだし設備をつぎつぎと近代化、洋式の製錬法を導入し飛躍的に生産額を増やしていく課程で起きた。

足尾の鉱石は硫化鉱で、銅のほかに硫黄と鉄を含み、製錬で大量の鉱石を溶かすと、大量の亜硫酸ガスが鉱石中のヒ素とともに大気中に放出され、鉱山の廃水とあいまって土地も山林も川も汚染した。これにより、特に操業7年後の84年(同17年)晩秋以来、山の樹木の多くが枯れ果て、稲は数年間収穫不能に陥り、翌85年(同18年)夏には、数年前から減っていた渡良瀬川の鮎など数万匹が浮き上がって死亡し激減するなど、農漁民に大打撃を与え、当時の朝野新聞や下野新聞もこの事実を報じたことにより問題が衆知のものになった。特に96年(同29年)9月の大水害によって、足尾銅山の鉱毒に汚染された土砂が次々と渡良瀬川に流れ、大洪水によって利根川の中、下流域沿岸から関東一円に拡がり耕地を汚染した。

この間、90年(同23年)8月の渡良瀬川の大洪水で被害を受けた栃木、群馬両県の県会(現・県議会)は、被害の年と翌91年(同24年)にかけて、それぞれに鉱毒問題について論議、県知事に対し鉱毒除去、被害救済に関する建議を行った。一方、被害を受けた両県の被害民1000余名は、連署をもって時の農商務(現・農水+経産)大臣・陸奥宗光に「足尾銅山鉱業停止」の請願書を提出、この事態を知った栃木県選出衆議院議員・田中正造は、同年12月17日「足尾銅山鉱毒加害の儀につき質問書」を政府に提出、返答がないので25日、衆議院議場に登壇し、政府の怠慢を追求した。以降、被害農民たちと田中正造の政府に対する闘いは始まる。

被害民たちの政府に対する請願行動は、96年(同29年)9月の秋雨前線豪雨による関東平野一円の大洪水で、足尾の鉱毒水が関東一円に拡散されたのを受け一層の盛り上がりを見せる。翌97年(同30年)3月、被害民2000人は、反対運動本部の群馬県渡瀬村(現・館林市)の雲龍寺を出発、東京日比谷練兵場(現・日比谷公園)に夜の闇に紛れて集合、夜明けとともに足尾銅山操業停止を求める大挙押し出し(集団請願行動)を開始、農商務大臣をはじめ貴族院、衆議院各議長、また田中正造が所属する進歩党の重鎮・大隈重信外務大臣などに面会を求めた。この日は目的を達成できなかったが、その後も大挙押し出しは続けられ、川俣事件は第4回目の大挙押し出しの際に起きたものだった。

第4回目の大挙押し出しを行う前の2月8日、被害民たちは“流毒の根源を絶つ能わず、水を清むる能わず、土地を復する能わず、権利を保全する能わず、生命を救う能わずば、むしろ、我等臣民を殺害せよ”との激しい請願書を貴族院、衆議院両議長、総理大臣、農商務大臣に提出していた。政府はこれにより被害民からの厳しい弾劾を恐れ、事前に警官隊を途上に派遣し、上京を阻止しようと警戒を強めていたのである。

事件の翌14日、田中正造は政府に怒りに満ちた次の二つの質問書を提出した「院議を無視し、被害民を毒殺し、その請願者を撲殺する儀に付き質問」「政府自ら多年憲法を破毀(はき)し、囊(ふくろ)には毒を以てし、今は官吏を以てし、以て人民を殺傷せし儀に付き質問」。そして翌15日、第14回帝国議会の衆議院議場において登壇し質問演説を行い、二日後の17日「亡国に至るを知らざればこれ即ち亡国の儀に付き質問」と再び政府に質問書を提出して登壇し追求した。

ところが、当時の総理大臣・山県有朋は21日“質問の趣旨その要領を得ず。以て答弁せず”と、これらの質問書を完全に無視する。

これにより田中正造は、政府の誠意のなさに議員としての闘いに限界を感じ、所属する憲政本党(進歩党の後身)を脱党、衆議院議員も辞職して、天皇に直訴を試みたのちは、政府が立案していた谷村への遊水池建設反対闘争へ被害民とともに生涯をかけることになる。

(出典:明和町編「川俣事件記念碑碑文」、東海林吉郎著「足尾銅山鉱毒事件 4 頁~11頁:Ⅱ 魚類の絶滅と農地被害の顕在化過程」、23 頁~30頁:Ⅴ 鉱毒反対闘争と第1次調査会、35頁~42頁:Ⅶ 鉱毒反対闘争の高揚[追加]」、飯島伸子編著「公害・労災・職業病年表 30頁~36頁:1900(明治33年)~1902(明治35年)」、日本全史編集委員会編「日本全史>明治時代>1901 981頁:田中正造、天皇に直訴状。足尾鉱毒の惨状みかね」、国立国会図書館編「帝国議会会議録検索システム>52:第14回帝国議会 衆議院本会議・明治33年02月15日>015:田中正造 6頁~10頁:官報 衆議院議事速記録第二十七号・明治三十三年二月十五日 542頁~546頁:質問の理由に付き田中正造君の演説」、同編「同会議録検索システム>50:第14回帝国議会 衆議院本会議・明治33年2月17日>028:田中正造 6頁~18頁:官報 衆議院議事速記録第二十九号・明治三十三年二月十七日 582頁~594頁:質問の理由に付き田中正造君の演説」。参照:12月の周年災害・追補版(3)「田中正造、足尾鉱毒問題で政府に質問書提出し議会でも追及」、7月の周年災害・追補版(3)「明治29年梅雨前線豪雨、東日本大水害、足尾鉱毒土砂流れ稲に被害-田中正造反対運動の組織化に着手」(註:9月の秋雨前線豪雨によるとの説があるので7月に調整します)、2017年3月の周年災害〈上巻〉「足尾銅山鉱毒被害者、初の大挙押し出し」)

○かりふぉるにあ丸遭難事件-緊急時の船長最後退船義務なくなる(50年前)[再録]

 1970年(昭和45年)2月9日

2014年(平成26年)4月に起きた韓国の大型フェリー船セウオル転覆事故の際、同船の船長が肝心な旅客より先に避難をして問題になったが、かつてわが国では、緊急時の“船長最後退船義務”が「船員法」で規定されており、その規定をなくすきっかけになった遭難事故があった。

1970年(昭和45年)1月22日、第一中央汽船所属鉱石運搬船かりふぉるにあ丸は、アメリカ・ロスアンゼルス港で、カイザーペレット鉱石6万157トンを6か所の船倉全部に満載し、翌23日同港を出

港し荒天の太平洋を越え和歌山港へと向かった。

ところが2月9日午後10時30分(船内時間)、野島崎東方沖合海上で、異常な大波を受けて左舷船首部の外板に亀裂が生じ浸水した。両舷にある救命艇の降下を試みたが失敗。しかし同船の救助信号を捉えて救援に駆けつけた、ニュージランド船籍冷凍貨物船オーテアロアが救命艇を接舷させ乗組員22人を救出した。その際、かりふぉるにあ丸の住村船長は“みんな行ってくれ、わしゃ残るわ”と退船を断りブリッジに残留、20分後船体とともに行方不明となった。

また救命艇降下の際、急に同艇が落下して水中に投げ飛ばされた6人の内2人は、救援に駆けつけていた川崎汽船所属冷凍貨物船えくあどる丸に救助されており、結果として船長を始め5人が殉職した。

この遭難は前年69年1月に起きた、ぼりばあ丸に次ぐ大型貨物船の遭難事件で、沈まないはずの大型船の遭難が続いたことと、なによりも船舶の最高責任者である船長が、退船を拒否し船と運命をともにしたことで、大きな論議を呼び「船員法」改正の契機となった。

実は1899年(明治32年)3月に初めて制定された「船員法」では、第十九条に“船舶ニ急迫ノ危険アルトキハ船長ハ人命、船舶及ヒ積荷ノ保護ニ必要ナル手段ヲ尽シ且旅客、海員其他船中ニ在ル者ヲ去ラシメタル後ニ非サレハ其指揮スル船舶ヲ去ルコトヲ得ス”と規定されていた。いわゆる“船長最後退船義務”である。

太平洋戦争後(1945年:昭和20年8月~)新憲法が46年(同21年)11月公布され、「船員法」も翌47年(同22年)9月全面的に改定されたが、この規定に関しては、条が第十二条に変更し、条文が口語体に変わっただけで内容的にはすべて踏襲された。つまり、かりふぉるにあ丸が遭難したとき、住村船長は条文通り船長の職務を全うしたと言えるわけである。

しかし、これは緊急事態の状況のいかに問わず、船長に義務を押しつけるもので、道義的にはそうあるべきとしても、船長の生命も保護されねばならず人権上いかなるものか、と議論が沸いた。この世論を受け、この年の5月15日「船員法」は次ぎのように改正されている“船長は、自己の指揮する船舶に急迫した危険があるときは、人命の救助並びに船舶及び積荷の救助に必要な手段を尽くさなければならない”と、この時点で最後退船義務は除かれた。

(出典:海難審判所編「日本の重大海難>昭和40年代>5 機船かりふおるにあ丸遭難事件」、国立国会図書館デジタルコレクション「法令全書。明治32年124頁~138頁:(明治)船員法(71コマ)」、同コレクション「総務省・電子政府の総合窓口:(昭和)船員法」、同編「衆議院制定法律:船員法の一部を改正する法律」。参照:2019年1月の周年災害「ぼりばあ丸遭難事件」)

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(2020.2.5.更新)

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