読者の皆様へ

「周年災害」は2005年1月から掲載を開始し、10年単位で過去の大災害や特異災害、防災関連の施策などを記事化してご紹介しております。

そこで、① 記事化して各10年後に再度ご紹介する場合、見出しの変更程度か内容に大きな変更のない場合は、訂正のないものも含め[再録]と表示します。

② 内容が新しい情報に基づき訂正された場合は、目次と本文見出しの後に[改訂]、出典資料が改訂又は変更になった場合は資料紹介の後に[改訂]、追加の場合は[追加]と表示します。

③ 新規に追加した記事は、掲載月より10年前の災害などを除き[追補]と表示します。

また、書き残されている大災害や防災施策などについては“追補版”として掲載月と同じ月のものを選び、基本的には発生の古い災害等の順に補足記事化しております。

なお、各記事末に参照として、記事に関係ある最新の「周年災害」がリンクされ読めるようになっています。

【2018年10月の周年災害】   

・下総国、毛野川(鬼怒川)の新河道の開削の陳情ふたたび、ついに治水工事始まる(1250年前)[改訂]

・幕府、江戸の街を守る常設火消「定火消」を新設-明治維新後消防署へ(360年前)[再録]

・江戸元禄11年の大火「勅額火事」-上野広小路の設置(320年前)[再録]

・幕府、火事場目付を任命、定火消などの消火活動を監察。使番について(320年前)[再録]

・はしか全国的流行、将軍綱吉も感染し死去(310年前)[再録]

・江戸町奉行、防火方法について町名主に諮問しこの日答申、答申を受け町民の自衛防火力を確認

-“町火消組合”編成なる(300年前)[追補]

・享保13年秋雨前線豪雨、江戸大洪水、関東、東北諸国も大被害(290年前)[改訂]

・若狭小浜安政5年の大火(160年前)[再録]

・戊辰戦争、会津若松城下兵火で多くの犠牲者が、掠奪・暴行も横行(150年前)[改訂]

・犯人指紋検挙法制定-指紋による個人識別法発見は日本の拇印の習慣から(110年前)[改訂]

・貨客船平野丸、ドイツ潜水艦の攻撃を受け沈没、戦禍喪失船5隻に(100年前)[改訂]

・昭和13年北海道炭礦汽船夕張炭鉱第二鉱、炭じん爆発(80年前)[改訂]

・昭和13年10月台風「低気圧番号11」南九州各地で山津波(80年前)[再録]

・8大都市の警察で警察通報用電話(110番)スタート、ただし最初は番号がバラバラ(70年前)[改訂]

・第一回全国消防操法大会開催、消防団員の技術の向上を図る(50年前)[改訂]

・カネミ油症事件、食用油摂取によるPCB-ダイオキシン体内汚染

-50年経った今、被害実態不明のまま、被害に気づき多くの人の名乗りに期待が(50年前)[改訂]

・感染症予防法公布、101年ぶりに伝染病予防法を時代の要請に即して根本的に見直し(20年前)[追補]

・地球温暖化対策の推進に関する法律公布-推進大綱で具体的に進め、原発停止も乗り切る(20年前)

[再録]

・東京消防庁、わが国初の高度救急処置対応ヘリコプター運用開始

-次いでドクターヘリの時代へ(20年前)[改訂]

・大阪個室ビデオ店放火事件-防災管理上の不備を消防法施行規則の改正でおぎなう(10年前)[追補]

下総国、毛野川(鬼怒川)の新河道の開削の陳情ふたたび、ついに治水工事始まる(1250年前)[改訂]

768年10月8日(神護景雲2年8月19日)

光明皇后の後ろ盾を得て政敵を倒し、位人臣を極めた恵美押勝(藤原仲麻呂)は、信奉する儒教思想から唐(現・中国)の進んだ国内政策を採用した。

そしてまず“巡問民苦(民の苦しみを問う)”ことを目的とした“問民苦使(臨時の地方監察官)”制度を採用、758年2月(天平宝字2年1月)には、国内各地へ派遣し民情を視察させ、要望を聞かせたが、その中に、東海道と東山道に派遣された藤原淨弁が下総国で陳情を受けた、毛野川(鬼怒川)の治水工事があった。

当時毛野川は、下総国(毛野川右岸西側、現在茨城県)と常陸国(毛野川左岸:東側、茨城県)との境界を流れており、淨弁が派遣された当時、関本(現・筑西市)と鎌庭(現・下妻市)の間の流れが変わったという大洪水があったばかりだった。

しかし治水のため新しい河道を掘削するとなると、東の常陸国側に掘削する必要があったが、“百姓宅所損不少(農民たちの家を少なからず壊すことになる)”などの理由で、常陸国側から大反対され、着工すること自体が難航していたという。

ところがこの日、最初の陳情を受けてから“其後已経七年(その後7年も経ち)”その上、たびたび洪水が起こるのは流路が蛇行して湾曲しているからで、このまま放っておいたならば“此頻年洪水。損決日益。若不早掘防。恐渠川崩埋。一郡口分二千余田。長為荒廃(毎年のように洪水が起きて、損害は日々益すであろう。もし速やかに新しい河道を掘削して洪水を防ぐようにしなければ、恐らく毛野川が崩壊して、農民に与えられた口分田の2000余田(町)(20平方km余)は長く荒廃したままになるであろう)”と、“下総国言(下総国側から意見が上がってきた)”。

そこで朝廷では“仰両国掘(両国に新河道の掘削工事を命じ)”“下総国結城郡少塩郷少嶋村(現・結城市)”から“常陸国新治郡川曲郷受津村(現・下妻市)”にいたる“一千余丈(3km余)”の新河道が完成し、“其両国郡堺(その流れを新しい両国の境とした)”。その後“不得随水移改(流れを変えることも無く)”現在の流路とほぼ同じという。

(出典:朝日新聞本「続日本紀>巻第廿九>神護景雲二年八月庚申」、利根川百年史編集委員会+国土開発技術センター編「利根川百年史>第3章 利根川の洪水と河道の変遷>3. 2 河道の変遷 78頁:3)鬼怒川」。参照:6月の周年災害・追補版(2)「藤原仲麻呂、飢饉対策として米価を調節する常平倉を設ける」)

幕府、江戸の街を守る常設火消「定火消」を新設-明治維新後消防署へ(360年前)[再録]

1658年10月4日(万治元年9月8日)

幕府による最初の火消制度は、三代将軍家光の治世にそれまで火災の際、老中が将軍の命令書「奉書」によって、在府(江戸に残る)大名に消火を命じていたのを、1639年10月(寛永16年9月)、前月の江戸城本丸の全焼を機に専任化した“奉書火消”といわれる。

ところがその僅か1年半後の41年3月(同18年1月)、江戸開府以来の“桶町の大火”が起きた。大火後、将軍家光は直ちに防火対策の検討を命じ、こうして43年11月(同20年9月)初の組織的な“大名火消”へと変革したが、その守備範囲はそれまでとさほど変わらず、あくまでも江戸城及び幕府の重要施設に限られており、町方(町家地区)までには伸びていなかった。ところが57年3月(明暦3年1月)、史上最大の火災といわれる“明暦の大火(振袖火事)”が発生したのである。この大火で江戸の街の約6割が焦土と化し、10万8000人が犠牲になったという。

この大火で江戸城の本丸と天守閣も焼け落ち、肝心な江戸城を守るためには、まず周辺の江戸の街並みを守らなければならない。大名火消だけでは大火から守りきれないと悟った幕府は、大火翌年のこの日、今日の常備消防に通じる常設火消として、江戸の街を守る“定火消”制度を新設した。最初に任命されたのは近藤彦九郎、内藤甚之丞、秋山十右衛門、町野助左衛門の4名で歴代の旗本である。 

定火消の編成は、若年寄支配下、4家の旗本それぞれに麹町半蔵門外、飯田町、御茶ノ水上、市谷左内町と火消屋敷(現在の消防署)を与え、与力6騎、同心30名、それに110名ほどの火消人足を配置し、1日おきに2組で、江戸市中全域の防火と消火に当たらせた。

火消役旗本の役料は300人扶持(米540石=7万5600kg分)、年間3000万円ほどの収入なので、役料だけでは110人ほどの火消人足の衣食住費や防火資機材の費用などをとてもまかないきれず、3000~5000石の大旗本が選ばれたという。

火消屋敷内には火の見櫓(やぐら)が建てられ、櫓には大太鼓と半鐘が吊されていた。火消人足は“臥煙(がえん)”と呼ばれ、火消屋敷内の大部屋に起居し、夜は長い丸太棒を枕に十数人が並んで寝た。出火ともなると寝ずの番役が丸太棒の端を木槌で叩いて起こした。“叩き起こす”の語源である。

ちなみに、毎年1月上旬に行われている“出初式”の始まりは、定火消発足の翌万治2年1月4日(新暦59年2月25日)、この定火消隊を時の老中稲葉伊与守正則が率い、上野東照宮前で江戸市民を前にお披露目のパレード「出初式」を行い、以降、毎年1月4日、同宮前で行ったのが始まりとされている。 

それ以降、町人による町火消と火事場で競い合っていたが、幕末になり、その組織力を見込まれ多くの隊が幕府陸軍に編成替えされ、最後は1隊のみになったという。明治維新後、東京警視庁の下、消防本署と分署による東京の常備消防組織に編成替えされた。

(出典:日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1658(万治元) 555頁:定火消を新設、大名火消に代わって江戸消防の主役に」、東京都編「東京市史稿>No.4>市街篇 第7>602頁~632頁:火消役設置」、東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の消防百年の歩み 631頁~632頁:江戸時代の消防制度」、山本純美著「江戸の火事と火消>幕府の火消 30頁~39頁:地味な官営消防隊・定火消、定火消のがさつ」。参照:2009年11月の周年災害「幕府、奉書火消を専任化し初めて組織的な消火体制に」、2011年3月の周年災害「江戸最初の広域大火・桶町の大火」、2013年11月の周年災害「幕府、初の組織的な火消制度“大名火消”創設」、2017年3月の周年災害〈上巻〉「1657明暦江戸大火:振袖火事」、2009年2月の周年災害「定火消、初の出初式挙行」、2018年11月の周年災害「江戸町奉行、町火消組合編成を命じる、町人自身による消火活動で江戸を守る体制へ」[追加]、2018年7月の周年災害「明治新政府、旧幕府定火消を解体し火災防御隊編成」)

江戸元禄11年の大火「勅額火事」-上野広小路の設置(320年前)[再録]

1698年10月9日(元禄11年9月6日)

幕府の公式日記「柳営日次記」に“南鍋町火有リ、南風烈シク四方ニ延焼シ、遠ク千住ニ及フ、大名八十三戸、旗本二百廿五戸、寺院二百三十二宇、町家一万八千七百三戸、寺院・代官地四百八十八所、町数三百廿六町ヲ焼ク。東叡山厳有院廟・本坊・僧院等亦此災ニ罹ル”とある。江戸時代屈指の大火だ。

当時の5代将軍綱吉の事績をまとめた「常憲院実紀」によると、出火したのは巳の上刻(午前10時ごろ)、火元は数寄屋橋あたりの商家・生薬屋九兵衛という。そこから炎は南の烈風にあおられて、大名小路の諸大名の邸宅を焼き尽くし、日本橋の中心街の通町筋、神田から上野へと延び、戌の刻(午後8時ごろ)には東叡山寛永寺へ延焼、4代将軍家綱の墓所・厳有院廟から同寺の本坊、僧院すべてを焼き、新築の根本中堂(本堂)は、必死の消火活動で辛くも延焼を免れた。ついで炎が千住の町並みを焼いていた子の刻(午前0時ごろ)になり、豪雨が降り鎮火したという。

この日は、その寛永寺根本中堂が新しく造られ、それに架けられる東山天皇下賜の『瑠璃殿』という“勅額”を掲げる行事の日だった。そこから勅額火事とよばれたという。

寛永寺は1625年(寛永2年)に創建されたが、寺の中心になる根本中堂がなく、ようやく70年後余のこの月に完成、大火の4日前に落慶供養を済ませたばかり、それだけに天皇の勅額到着の日は重要だった。  

幕府はこれに懲り、復興事業として、寛永寺門前の町家を立ち退かせ“火除け地”として今に続く上野広小路を設けた。

(出典:日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1698(元禄11)  616頁:勅額火事で、江戸300余町が焼失。寛永寺根本中堂危機一髪」、東京都編「東京市史稿>No.2>変災篇 第4>462頁~488頁:元禄十一年火災、九月六日大火」、池田正一郎著「日本災変通志>近世 江戸時代前期>元禄十一年 403頁」)

幕府、火事場目付を任命、定火消などの消火活動を監察。使番について(320年前)[再録]

1698年10月21日(元禄11年9月18日)

江戸幕府の職制の中には、○○目付と称する職制があるが、現代で言えば行政監察官がそれに当たるか。

目付には、大名の行政や行跡を監察する大目付。幕府役人の業績や勤怠などの監察、旗本、御家人の行跡などを監察する徒(かち)目付などがあったが、火事場目付は文字通り火事場に派遣され火消部隊の消火活動を監察する役割を担い“火の口番”とも呼ばれた。

この日新たに任命されたのは、将軍の親衛隊である小姓組と書院番からなる各15名の合計30名で、半数ずつの交代勤務だが、大火事の場合は非番の火事場目付も城へ出勤し、若年寄の指図を待つとされていた。

同目付の業務は、まず江戸市中で火事が起きた場合、あらかじめ定められた場所におもむき、大名火消や定火消が出動するに際して一部隊に必ず一人が随行、火災現場に着けば随行した火消部隊の消火活動の手際や様子などを監察記録、あわせ現場での町火消の活動の様子も記録した。鎮火後は当番の若年寄に書類で報告したが、その際、火消活動抜群だった諸部隊については特別褒章の推薦を行ったという。 

また、目付よりやや下役だが、火事現場で状況に応じて臨機応変の活躍をした“火事場使番”がいた。 

使番はまず江戸市中で火事が起きた場合、その出火場所、火勢の強さ、延焼方向などを視察して当番の若年寄に報告、その後若年寄の指示に基づいて火災現場に派遣された。現場へは馬で駆け付け、火消諸部隊の連絡や調整を行い、火事の状況を見て緊急な場合は臨機に指揮をしたという。また延焼方向、火勢の強さなどを判断し、手薄な場所があれば増火消(大名火消による支援隊)の増援を求めた。

電話やスマートフォンなど通信手段のない時代である。馬を飛ばして火災現場を駆けめぐる様は、まさに戦国時代の戦場における働きを彷彿とさせたという。ちなみに使番が江戸幕府において平時の定役になったのが1617年(元和3年)というから火事場での働きもそのころからであろうか。

(出典:東京都編「東京市史稿>No.4>市街篇第13>818頁~822頁:火事場目付」。参照:11月の周年災害・追補版(3)「幕府、初の組織的な火消制度“大名火消”創設」、上記「幕府、江戸の街を守る常設火消“定火消”を新設」、5月の周年災害・追補版(2)「幕府、増火消を6大名家に初めて命じる」、同年同月周年災害「幕府、火事場見廻役を置く、大名火消、各自火消の指揮と調整役」)

はしか全国的流行、将軍綱吉も感染し死去(310年前)[再録]

1708年10月~09年5月ごろ(宝永5年9月~6年4月ごろ)

麻疹または痘瘡ともいうが、一般的には“はしか”と呼ばれている。

この感染症は日本古来よりまん延し、日本書紀にもそれらしき記述があるというが、確証ある最初の流行は、998年(長徳4年)の夏から冬にかけて流行した“赤斑瘡”だという。

わが国では“はしか”特に小児はしかは誰もが一度は感染する病気とされており、成人になりこの病気にかかると不思議がられるものだ。ところがこの年の流行は全国に波及し、成人も含め多くの死亡者を出したという。その中に5代将軍綱吉もいた。

当時の医師香月牛山が著した医学書「牛山活套」によると“秋より冬に至り、明くる己丑の歳の春まで、日本六十余州おしなめて、麻疹流行して男女老少を問はず、一般の疫麻なり、貴となく、賤となく、此患いにて死するもの多し”と当時の状況を述べている。また金沢藩の津田政隣が著した「政隣記」によると“諸州麻疹流行、別して東都病人おびただし”とあり“江戸麻疹発行(中村雑記)”とあるところから、江戸から全国に流行したらしい。

時の将軍綱吉もこの麻疹に感染した。いつ感染したか定かではないが、死去したのは1709年2月19日(宝永6年1月10日)、当日の朝五つ時前(午前8時ごろ)重体となり死去した。公表されたのは八つ時(午後2時ごろ)という(宝永日記)。

(出典:富士川游著「日本疫病史>麻疹 182頁:宝永五年」、東京都編「東京市史稿>No.2>変災篇

第3>915頁~919頁:宝永五、六年麻疹、痘瘡事績」)

江戸町奉行、防火方法について町名主に諮問しこの日答申、答申を受け町民の自衛防火能力を確認

 -町火消組合編成なる(300年前)[追補]

1718年10月22日(享保3年9月30日)

江戸幕府第八代将軍・徳川吉宗が就任直後の1716年(享保元年)から開始した“享保の改革”。それの中心的存在であった江戸南町奉行・大岡忠相は、翌17年3月(同2年2月)吉宗の抜擢に応え、19年半に及ぶ長期在任中、数々の改革を実施している。

その業績は江戸の町政全般にわたっているが、中でも、就任の翌18年11月(同3年10月)、町人自身の手により江戸の町を守る自主防災組織“町火消組合”編成命令をはじめとした数々の防災面での業績がある。その中であの封建時代において民主的であり、前代未聞と評されているのが、街の防火方法を町人へ諮問したことである。

享保の改革の主な目的は、破綻の危機にあった幕府財政の再建にあり、自身番のように幕府が企画し町人に費用のかかる実施面をゆだねた政策はあるが、最初から政策の内容を町人に諮問するという方法は前例がなく、忠相には恥を忍んでという面もなく、堂々とおおらかに、店火消以来の町人による自衛消防が受け継いできた方法や自身番で築き上げた方法など、防火についての良い方法を知っているのではないか、聞いてみよう、というところあった。

この日、町奉行の諮問に対し、町人の代表者である町名主(町政を預かっている町人)たちからの答申が次のように12項目にまとめられて出された。

その内容を意訳すると、まず火之用心のための夜中の見廻りや、風が強いときに常に気をつけている点、夜の四つ時(10時ごろ)以降の心得などを述べた上で、以下の答申をしている。

  • 10月1日より、夜10時以降は、町々の辻番人や木戸番人が拍子木を片手に通行人を木戸より見送り

町内は通行禁止とする。② 小屋の壁や入口に使うむしろ、こも(藁で編んだもの)などはしっかりと止める。③ 店舗には、四斗樽(水桶)に水を入れて置き、火事の時は家主から渡された手桶で町内外を問わず消火にあたる。④ 失火した場合に備えて町内の人数で防ぐよう準備し、火事を知らせる鳴り物も用意して、直ぐ駆け付けられるようおよそ四、五町の町内間で申し合わせ、火之用心に心がける。

⑤ 失火した時、駆け付ける人数については、消火当番の札をそれぞれ廻し、一つの町内で昼夜5人と決めて、直ぐ駆け付けられるようにする。また風の強い時は、当番の5人の者に月行事(町名主の下で月当番として事務処理などにあたっていた町人)が付き添って町内を巡回、火の元の見廻りをする。⑥ 出火場所へ定火消が到着した時は、消火の邪魔にならないよう町人は持ち場を離れその後の消火を託す。

⑦ 5人組(5戸単位の町内組織)ごとに一人の寝ずの番(夜間当直者)を決めて巡回をし、また町内の自身番所に詰めて巡回し火の元見廻りをする。⑧ 自身番所に5、6人詰めて町内を巡回するが、夜間はほとんどの家が熟睡しているので、自身番所に一人留守番を置き、残りの人数で町内を巡回する。また消火が必要な時は、消火道具を所持して駆け付ける。

⑨ 家のかまどの近くにこもを張らない。壁の木舞(下地の竹や木)には土を塗り込め、屋根裏には板を張って置く。⑩ 火が移りやすい薪などをかまどの側に取り散らかさず、四斗樽や空き箱へ入れて置くようにする。もし入れ物を用意することが出来ない者には家主が用意して渡し、風が強い時、火が移りやすい薪などを取り散らかして置くことがないようにする。⑪ 持仏棚(仏壇)は二階には一切置かないようにし、階下にある持仏棚も極力しまって、灯明を消し、香炉は念を入れて火を消し、その上にふたをしておく。特に屋根に近いところにある持仏棚は周囲を見回し火の気のないことを確認する。⑫ 独身者が自宅を出るときは、家中の火の気を確認、かまどや瓦の類まで点検する。また同居の者に火元を見せて置き外出するようにする。もちろん3、4軒続いて、独身者が外出する折には、家主がめいめいに断って火の元を見られるように、入口の鍵は家主が預り、留守のうちでも度々確認できるようにする。また独身者は路地の方の窓をあけて置き、家の中が見通せるようにする。

現代では、独身者たちにプライバシーの侵害だと言われそうだが、火之用心を中心としたきめの細かい防火方法で、町を守る当事者としての町人たちの日常生活の体験を基にした答申であったと言えよう。

町奉行はこの答申を受け、町人たちの防火自衛力を認め、18日後の翌11月10日(旧暦・10月18日)、町火消組合の編成を命じ、バラバラで訓練不足だった店火消を、江戸の街全体を守る組織に変貌させ、2年後には名高い“いろは48組”に整備、江戸独特の町人文化を生むことになる。また、その答申内容は、町奉行所の防火の町触れに活かされていく。

余談だが、この町名主への諮問は、武士社会において、部下を新しい任務に就かせるとき、諮問していたのと同じ手法で、破天荒でも何でもないが、江戸時代中期のこの頃には、武士社会では職務の世襲化が進み、能力による抜擢は少なくなっていたのかもしれない。しかし、大岡忠相自体が、そうして吉宗から抜擢されたわけで、諮問した相手が町人ということで、近年、民主的と評価されたのであろう。

(出典:山本純美著「江戸の火事と火消>江戸の町づくりと防火対策>触書による江戸の警火 159頁~160頁」、東京都編「東京市史稿>No.4>市街篇 第19>253頁~256頁:防火方法復申」。参照:2018年11月の周年災害「町内に町奉行与力指揮下の官製・町火消(店火消)“火消組”編成へ」、2012年1月の周年災害「江戸町奉行、家持町人に自身番設置を命じ……」、2018年11月の周年災害「江戸町奉行、町火消組合編成を命じる、町人自身による消火活動で江戸を守る体制へ」、2010年9月の周年災害「江戸町奉行、町火消を“いろは48組”に再編成」)

享保13年秋雨前線豪雨、江戸大洪水、関東、東北諸国も大被害(290年前)[改訂]

1728年10月2日~5日(享保13年8月29日~9月3日)

季節外れの台風が停滞し、大雨を降らしていた秋雨前線を刺激しより過激化させたのか、江戸を始め関東各地及び東北地方に大災害をもたらした。

まずこの時代の記録を編集した「東京市史稿」の編者のまとめによれば、江戸では“八月廿九日ヨリノ大雨、九月朔日(1日)ヲ経テ、二日ニ至リ、北風之ニ加リテ雨量益増大シ、遂ニ此ノ出水ヲ見ルニ至リト云フ”と、大雨のため大洪水が起きたことを述べている。また同「市史稿」で引用した幕府の公式日記「柳営日次記」は“享保度ノ洪水ハ、九月二日ノ者ヲ以テ最モ大ナリト為ス。実ニ宝永元年(1704年)以来ノ洪水ニシテ、之ガ損害ハ遙ニ其上ニ出テ、殊ニ其惨害ヲ被リタル所、大川(隅田川)筋ヨリハ、却テ江戸川筋ヲ甚シカリトスルカ如キ”と、隅田川よりも市内を流れる中小河川の氾らんが被害を出したという。 

また出水の概況については“二日、羊刻(午後2時ごろ)大風雨、小日向、小石川、下谷、浅草辺水出ル丈上(身の丈を越す)、武士屋敷、町屋流潰(流失し崩潰)。関東辺大水。翌三日暁水落ル(明け方には水が引いた)”また「東京市史稿」の編者はやや詳しくまとめ“江戸川沿岸ノ小日向、小石川低地被害最モ甚シク、隅田川沿岸ノ浅草・本所・深川及下谷等之ニ次グ。江戸川・神田川ノ諸橋多ク流失シ、隅田川ニ在リテハ両国橋・新大橋大部分壊流ス(崩潰して流失)。此外市内ノ低地ハ、大抵浸水ヲ見ザルナク、高地ノ懸崖多ク崩壊シ、家屋人畜ノ損害亦尠(少)カラズ”とある。

最後に幕府の公式日記「柳営日録」は、死亡者について死体を受け取った数字を、江戸市内各地域の男女、子どもごとにあげ、川から引き上げたものや房総半島の浦々に漂着したものも含めて、都合7988人ほどとしている。いわゆる死体の上がっていない行方不明者は調べようもなく載せていないが、すべて含めるとこの大洪水で、1万人以上の犠牲者が出たようだ。

また古今の自然災害を記録した「日本の自然災害」では“関東各地での被害も大きく、奥州では北上川の堤防が決壊して下流域に大水害が発生”とまとめている。これに対応すると見られる記録は石川清秋がまとめた水戸藩の史料「水戸紀年」で、そこには“九月三日、那珂、久慈、里川など水溢る。藤柄、一ノ町、竹隈(ともに現・水戸市内)往来を絶つ。山崩れ水湧く。多くの田野没しことごとく秋稼をやぶる”と、藩領内の主な河川が氾らんしたこと、水戸城下が浸水し交通が途絶したこと、がけ崩れと洪水が起き多くの田畑に浸水、せっかくの収穫が無になったことを記録している。

また仙台藩の儒者作並清亮がまとめた仙台藩(宮城県)の歴史書「東藩史稿」には“八月洪水アリ、二十三万三千二百石余(表高の38%)損害。男六人、女九人溺死”と被害を伝えており、また仙台より北部の「八戸藩(青森県)史稿」には“八月廿四日より同廿九日朝迄大雨歇(止)まず諸川洪水甚しく常水より高一丈六尺(4.8m)に至り田畑の水損夥(おびただ)しく橋梁其他の被害之に准じて多く其損耗報告すること左の如し”として被災状況を記録した上で、藩領各地の被害高をまとめいている。それによると、大きいのは田畑の水損でその量は一万四百五十二石に及び同藩表高の50%を越えている。これらは台風襲来以前に停滞していた秋雨前線と台風により刺激され降り続いた大雨及び台風による被害を集約したものと思われる。

(出典:小倉一德編、力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>2 近世の災害>江戸時代の主要災害一覧 92頁:関東地方諸国暴風雨」、東京都編「東京市史稿>No.2>変災篇 第2>153頁~193頁:享保十三年大水災」、池田正一郎著「日本災変通志>近世 江戸時代前期>享保十三年 467頁~469頁」、中央気象台編「日本の気象史料>第一編 暴風雨> 138頁~141頁:享保十三年九月二日 江戸並びに関東諸国 大風雨、洪水」、荒川秀俊ほか編「日本旱魃霖雨史料>霖雨之部>享保十三年 諸国大風雨、洪水 286頁~291頁」)

若狭小浜安政5年の大火(160年前)[再録]

1858年10月5日(安政5年8月29日)

5年前の1853年4月(嘉永6年3月)2424軒も焼失し、ようやく復興を遂げつつあった越前小浜が再び大火となった。

この日の真夜中、須崎町の船小屋から出火、折からの北風にあおられ、またたく間に市街をなめ尽くした。塩屋町から北本町、大津町、本町、八百屋町、川縁町と延焼、魚屋町、安良町、新町、瀬木町、市場三町と灰にし、和泉町、突抜町、松本町、川崎町、塩浜小路も炎に包み、松寺小路、材木町、今在家町、東宮前町、質屋町も見逃さず、鵜羽小路、永三小路、広小路、大蔵小路、石屋小路にも延焼、達磨小路、薬師小路、今町、風呂小路、二鳥居町から八幡小路、中西町、西宮前町、福岡町、富田町と次々と燃え広がり焼失させた。

この火事で町の東部と中部の全域、西部の一部、1805軒、蔵6~70か所を灰とした。幸いなことに、5年前の大火の教訓から、多くの家では家財道具を浜に出し難を逃れたという。

(出典:小浜市史編纂委員会編「小浜市史 通史編 上巻>第三章 近世>第八節 幕末の世情>二 開国と小浜 1041頁:安政五年の大火」。参照:2013年4月の周年災害「若狭小浜嘉永6年の大火」)

戊辰戦争、会津若松城下兵火で多くの犠牲者が、掠奪・暴行も横行(150年前)[改訂]

1868年10月8日(慶応4年8月23日)

会津藩は、藩祖の保科正之が3代将軍家光の異母弟であったこともあり、幕政では大老として活躍するなど重きをなし、徳川一門として松平の姓を名乗り、代々江戸幕府を支えてきた。 

最後の藩主となった松平容保は、1862年9月(文久2年閏8月)京都守護職に就任するや、市内で倒幕運動に動く諸藩の志士たちを取り締まった。特に幕府擁護派の浪士隊・新撰組を指令下におき、時の孝明天皇の深いご信頼の下、首都の治安を守るべく倒幕派に対する徹底的な弾圧政策を行った。

しかし、この年1月の鳥羽・伏見の戦いで、薩摩、長州藩連合軍と戦い敗北、帰国した後も、倒幕派各藩の志士たちにより成立した明治新政府軍と、奥羽列藩同盟を結成して戦い、同盟から各藩が脱落した後も1藩のみ残って、若松城へ新政府軍を迎え撃つことになる。

10月5日(旧暦・8月20日)からの新政府軍の会津藩領一斉攻撃開始以降、会津軍は次々と敗れ、この日の早朝、遂に新政府軍は若松城下に突入してきた。そのため城下の町人たちは朝食を食べる暇もなく城外へ逃れようとしたという。そのため外堀にある七日町口、柳原町口、材木町口に、避難しようとする町人がいっとき一斉に押し寄せ、炎と弾丸が降り注ぐなか、殺到した数万人による群衆なだれが各所で起きた。その混乱から逃れ、日光街道から城外を流れる大川にたどり着いた人々は、小舟で対岸に渡ろうとしたが、水かさが増していたため、小舟が次々と転覆、これらの混乱で数百人が死亡したという。

午前8時ごろ、新政府軍は市内甲賀町と大町通りに大砲を据え、城の北追手門に攻撃を開始した。城内も城下の各所からも火災が起こり、若松城は炎に包まれた。この日の市街戦で、藩士家族230余人が殉死、一般町民も多数が犠牲となり、約1000戸の家屋が焼失した。若松城はその後1か月ほど持ちこたえたが、11月6日(旧・9月22日)遂に降伏した。城下の3分の2が灰じんに帰したという。

一方、直接の戦闘ではなく、会津藩軍による新政府軍の宿舎や食糧を絶つめの民家の強制焼き討ちや徴発が行われ、城下が占領された後では、薩摩、長州をはじめとする傘下各藩兵による商家などへの掠奪が横行、藩士や農、町人たちの婦女子に対する乱暴も公然と行われたという。勤王の戦い、新時代への戦いと指導層は唱えても、一般の兵士の中には、戦いによるストレスや欲情のはけ口を占領軍意識の中で求めたと言えよう。この暴行沙汰によって、新政府に対する会津の旧藩士、農、町民の恨みや反抗意識は長らく消えなかったという。

(出典:会津若松史出版委員会編「会津若松史 第5巻 激動する会津>第三章 戊辰戦争と会津藩>第三節 会津若松の戦闘と会津落城>2 西軍の侵入 172頁~173頁:会津軍の混乱、西郷一族の自刃」、同編「同書、同節>6 民衆の動向 199頁~201頁:西軍への非難、戦乱の会津」、日本全史編集委員会編「日本全史>明治時代>1868(慶應4) 910頁:白虎隊、抗戦むなしく自刃、会津藩の敗北で東北戦争終結」。参照:2018年1月の周年災害「戊辰戦争始まる、鳥羽伏見の戦い、兵火民家に及び大火」)

犯人指紋検挙法制定-指紋による個人識別法発見は日本の拇印の習慣から(110年前)[改訂]

1908年(明治41年)10月1日

DNA鑑定が一般化する前、個人を識別する安価で最良の技術として“指紋鑑定”があり、現在でもその簡便性と鑑定の速さから活用されている。

わが国では明治政府が司法省(現・法務省)内に指紋法取調委員をおき、指紋による犯罪調査の検討を進めてきたが、この日「犯人指紋検挙法」を制定、16日には同省監獄局が、受刑者の再犯防止のため、全国の監獄(刑務所)に訓令を発し、刑期満了が近い受刑者の指紋押捺を実施させ原紙を本省に送付させている。  

警視庁がこの技術を導入したのは1911年(明治44年)4月で、刑事課に鑑識係が設けられ、指紋鑑定に関する業務を行うことになる。

ちなみに、指紋の万人不同と終生不変の特徴を見抜き、それが個人識別や個人特定に役立つとし、1880年に最初の論文を科学雑誌「ネイチャー」に発表したのはイギリスのヘンリー・フォールズである。それは日本において発見したのだという。

フォールズは1874年(明治7年)、キリスト教宣教師及び医師として来日、在日中、当時の日本人が重要な証文に拇印を押す習慣に興味を示し、大森貝塚の発掘を手伝った際、縄文土器の表面に残されていた指紋から、土器の作者を特定出来るのではないかと指紋の研究を始め、その成果として、当時勤務していた病院のアルコール盗み飲みの犯人を割り出したり、病院に侵入し窃盗したと疑われた容疑者の疑いを晴らしたというエピソードが伝えられている。

(出典:日本全史編集委員会編「日本全史>明治時代>1908(明治41)  999頁:終生かわらぬ指紋、犯罪捜査に導入。まずは受刑者の指先から」、法科学鑑定研究所編「指紋鑑定>指紋鑑定の歴史 日本文化が引き金だった!」、横浜市歴史博物館編「指紋鑑定のはなし」。参照:2010年6月の周年災害「警視庁、科学的な諸検査開始」、2011年4月の周年災害「警視庁鑑識係設置、指紋鑑定で犯人捜査へ」)

貨客船平野丸、ドイツ潜水艦の攻撃を受け沈没、戦禍喪失船5隻に(100年前)[改訂]

1918年(大正7年)10月4日

1914年(大正3年)8月23日、日本はドイツに宣戦布告し、第一次大戦における連合国の一員として参戦した。

当時連合国はイギリス、フランス及びロシアを中心に結成され、ドイツ、オーストリア=ハンガリーなど中央同盟国と8月上旬以来、戦闘を交えつつあった。日本の参戦はイギリスとの同盟(日英同盟)に基づくものであったが、アジア及びオセアニアにおけるドイツの植民地や租借地を占領すれば、日本に権益を譲るとしたイギリスとの約束が、参戦の後押しをした。1910年(明治44年)8月に韓国を併合し、朝鮮半島を手に入れた日本としては、のどから手が出る程の約束であり、10月にはマリアナ、マーシャル、パラオ、カロリンの中部太平洋ドイツ領南洋諸島を抵抗なしで占領、11月には中国の山東(シャントン)半島の青島(チンタオ)を占領した。

当時、海運会社をはじめ、日本の各企業は大戦景気に沸いていた。戦争によるヨーロッパ諸国のアジア市場からの撤退の穴埋めと、同盟国への武器など軍需品の輸出が主なものであった。それにより輸出が急増、海運会社も乱立したという。そのさなか、日本郵船はそれまでに計画していた大型貨物船の建造に着手、次々と就航させた。中でも焦点は交戦中のヨーロッパ航路の維持にあった。

しかし、ドイツ潜水艦(Uボート)がこれを見逃すはずもなく、参戦した年の12月21日、まず貨客船八坂丸がエジプトのポートサイド沖で犠牲になった。無警告の魚雷攻撃に約50分で沈没したが、その間に乗客120人と乗組員162人の全員を救命ボートに移乗させることに成功、各艇を連結して避難航行中、幸にもフランス駆逐艦と遭遇し全員無事に救助された。 

16年(同6年)になり、ドイツは無制限の商船攻撃を宣言、それに対し、各船は武装したり迷彩を施した上、連合国軍艦の護衛を付けた船団を編成し航海した。それでもUボートが封鎖している危険海域での航海である、同年5月31日、貨客船宮崎丸が英仏海峡で魚雷2発を受けて1時間ほどで沈没、その間、乗客72人、乗組員127人が救命ボートに移乗、海峡を哨戒中のイギリス哨戒艦2隻に発見されほぼ全員が救助されたが、当時、海が時化で大荒れしており、ボートに移乗する際の7人の乗組員と救助艦に移乗する際に乗客1人が死亡した。

次いで9月、貨客船常陸丸がセイロン島コロンボから南アフリカのダーバンへ向け出向したまま消息を絶った。日本郵船で捜索したところ次の事実がわかった。同船は9月26日、インド洋においてドイツ仮装巡洋艦ウォルフの砲撃を受けて13人が即死、火災を起こして同艦に拿捕された。残りの乗客42人と乗組員117人はウォルフに収容されたが、11月7日、同船は爆沈させられ、富永船長は苦悶の末翌年2月7日、入水自殺を遂げたという。

貨物船徳山丸は翌7年8月2日、イギリスのプリマウス港からニューヨークへ向け航行中、魚雷攻撃を受け沈没、乗組員85人は直ちに救命ボートへ移乗、陸地へ向かい漕行中、アメリカの帆船に全員救助されている。

中でも多くの犠牲者を生んだのは貨客船平野丸だった。7月10日イギリスのリバプールを出港、アメリカ駆逐艦の護衛の下に16隻の船団を組み、南アフリカのケープタウンに向け航行中、この日、アイルランド南方洋上で魚雷攻撃を受けた。暗夜の上強風下、救命ボートを降ろす余裕もなく、僅か7分間で沈没した。船客97人の内86人、乗組員143人の内124人が犠牲となり、残り30人が護衛駆逐艦に救助されている。

(出典:日本郵船株式会社編「二引の旗のもとに>第3章 世界の日本郵船へ 123頁~126頁:戦禍のなかで」、日本郵船株式会社編「日本郵船株式会社百年史>第4章 第一次世界大戦と日本郵船>第2節 航路の新設と整備>1.遠洋航路の維持・強化 212頁~213頁:欧州航路の維持」、日本郵船株式会社編「日本郵船株式会社五十年史>第二編 業務>第五章 世界大戦時に於ける社業の大躍進 267頁~275頁:第四節 大戦中当社船の犠牲」)

昭和13年北海道炭礦汽船夕張炭鉱第二鉱、炭じん爆発(80年前)[改訂]

1938年(昭和13年)10月6日

北海道炭礦汽船が経営する、夕張炭鉱第二鉱天竜坑の第二・六尺ロングでガス炭じん爆発があり、161人が死亡、21人が負傷した。

この事故は発破(ダイナマイトの爆発による掘削)により炭じん爆発が誘発され、第二・六尺ロングの切羽(採掘場)だけでなく、ロング周辺の坑道から幹線坑道にまで及ぶ大災害となった。

この時期、切羽面内やゲート坑道における運搬機の発達は、採炭の規模をますます大型化させ、さまざまな採炭方法を生み出していたが、第二鉱で採用されていた運搬方式は、上下二つの切羽からの出炭を一本の坑道で運ぶ方式で、岩盤下の坑道に循環機を設置し、ロープによって運搬機を運転する方法であった。しかし一方、保安上の通気対策や炭じん防止対策を無視していたため、爆発事故を引き起こしたものとわかり、以後この方式は中止されている。

(出典:夕張市史編さん委員会編「夕張市史 下巻>第8編 産業と経済>第4章 炭坑災害・炭鉱用語>第1節 炭坑災害 138頁:天竜坑のガス炭じん爆発」)

昭和13年10月台風「低気圧番号11」南九州各地で山津波(80年前)[再録]

1938年(昭和13年)10月14日~15日

中部太平洋グアム島からフィリッピンにかけて気圧の谷が張り出し、本台風はこの谷に沿って西北西に進んだ。

しかし日本海及び東北地方をおおっていた移動性高気圧が東に移動するにつれて北に向かい、10日正午、同高気圧が千島列島の南海上に去るにつれ針路を北西やや北に取り、11日午後3時ごろには、宮古島の東方30kmの海上を通過、東シナ海に入りその後針路を北に転じ、優勢なシベリア高気圧の南下ととともに東に方向を転じた。その後、14日夜半には730.2ミリバール、最大風速33.3m/秒の勢いで屋久島の北部を過ぎ、大隅半島近海を経て、15日正午、南海道(四国)沖に出た。その後は次第に衰弱し17日夕刻、八丈島の東南東約1000km海上で消滅した。

この影響で、15日には最大風速が鹿児島県枕崎で26.4m/秒、温泉岳(雲仙岳)で41.4m/秒観測された。期間中降水量は、沖縄で150.1mm、屋久島で157mm、鹿児島で215.1mm、霧島で106mm、宮崎で153.5mm、和歌山県潮岬で109.4mmとなっている。

このため鹿児島県下では、同県の山岳部で14日正午から午後9時に至る僅か10時間の間に420mmの豪雨に見舞われ、各地で山腹が崩壊して山津波(土石流)が発生、277人死亡、177人行方不明、594人負傷。住家全潰454棟、同流失509棟、同半潰1077棟、同床上浸水2290棟、同床下浸水2903棟の未曾有の災害となった。また県下の堤防の決壊546か所延べ722m、同破損271か所延べ約71m、道路埋没及び流失856か所延べ133m、同破損2244か所延べ1294m、橋梁流失128か所、同破損247か所の被害が出ている。

一方宮崎県下では、特に都井村、本城村、市木村(現・串間市)に被害が集中し、急傾斜のがけが崩れ、大小の河川が増水氾らんした。同県下で12人死亡、1人行方不明。住家全潰42棟、同流失8棟、同半潰71棟、同床上浸水381棟、同床下浸水1323棟。漁船流失17隻、堤防決壊55か所、同破損37か所、橋梁流失破損37か所の被害となった。

 (出典:気象庁編「気象要覧 昭和13年7月~12月(467号~472号)>気象要覧 10月(470号)>暴風雨>Ⅰ 低気圧>6日より17日に至る颱風 1140頁~1143頁」)

八大都市の警察で警察通報用電話(110番)スタート、ただし最初は番号がバラバラ(70年前)[改訂]

1948年(昭和23年)10月1日

緊急事態が発生した時、警察に通報する110番の正式名称を警察通報用電話という。

この専用番号を持つ緊急通報電話は、太平洋戦争後の1948年(昭和23年)、わが国を占領していた連合軍総司令部(GHQ)からの申し入れを受け、当時の国家地方警察(現・警察庁)と逓信省(現・NTT)が協議して、この日から使用を開始した。

しかし当初開始したのは、東京都区部、大阪、京都、横浜、川崎、名古屋、神戸、福岡の八大都市だけで、それも最初から110番に統一されておらず、東京の警視庁が110番、大阪、京都、神戸は1110番、名古屋は118番だった。これでは別の都市に行くたびに緊急通報の電話番号を確認しなければならず、緊急通報にならないと、54年(昭和29年)7月の新警察法施行をもって110番に統一された。

この際、110番に統一された理由は、① 覚えやすい番号にすること。② 誤報が少ないように番号を3桁にすること。③ 電話器のダイヤルのストッパーまでの距離が短い“1”を多用すること。などを基本に検討されたという。

ちなみに、消防では、すでに1926年(大正15年)1月、東京警視庁消防部が、世界で初めての電話自動交換システムによる火災通報専用電話を採用し、当初112番だったが、誤った接続が多いので、翌27年(昭和2年)10月から、現在の119番を採用している。

警視庁が、後に全国統一番号に採用された110番を、最初から採用していたのは、消防が自治体消防として警察から分離する際、警察として緊急通報専用電話が必要となることを考慮し、同じ東京警視庁にある消防部の緊急通報専用番号“119”を参考に検討、当時の固定電話機のダイヤル“9”の一つ前にあり、かつ覚えやすく、識別しやすい“0”を採用したものとおもわれる。

なおこの110番は、現在では親しまれて一般用語となり、子ども110番、くらしのダイヤル110番、なぜなぜ110番などと使われているが、110は本来緊急通報の番号で、これらのような解決したいことを問い合わせる“警察相談ダイヤル”は、110ではなく“♯9110”であり、警視庁では間違わないようにとPRしている。

(出典:MACHI LOG編「京都府「大阪・京都・神戸は「110番」ではなく「1110番」!? 110番の歴史」[変更]、警察庁編「警察の装備・施設の歴史-警察の情報通信システム>110番の誕生」[追加]。参照:2016年1月の周年災害「警視庁消防部、電話自動交換システム導入で世界初、火災通報専用番号採用」、2017年10月の周年災害「東京で消防緊急通報ナンバー“119番”誕生、横浜市でも同年に誕生」)

第一回全国消防操法大会開催、消防団員の技術の向上を図る(50年前)[改訂]

1968年(昭和43年)10月15日

全国の地域消防を担う消防団員が日ごろの腕を競う“全国消防操法大会”第一回大会が、日本消防協会(消防団員と消防本部、各消防署勤務の消防職員が会員)主催で、東京世田谷駒沢オリンピック公園で開催された。

大会は、消防団員の士気高揚と技術の向上を目的に開催されたもので、ポンプ自動車操法の部27隊と小型ポンプ操法の部19隊で争われ、参加各都道府県では、それぞれの部に各地域から選抜した消防団を代表として参加させた。

各隊の熱演後、栄えある初の優勝チームは、ポンプ自動車操法の部では愛知県代表の岡崎市消防団が、小型ポンプ操法の部では鳥取県代表の佐治村(現・鳥取市)消防団がそれぞれ栄冠に輝いた。

大会はその後、1年おきに開催されていたが、1985年(昭和60年)10月には、女性消防団員の増加を反映して“全国女性消防操法大会”の第一回大会が、横浜市の同協会中央消防訓練場で開催され、全国47都道府県から選抜された各隊が小型可搬動力ポンプ操法で腕を競い、福井県代表の丸岡町(現・坂井市)婦人消防隊が栄えある優勝に輝いている。17年前の操法大会に、秋田、兵庫、長崎各県の婦人消防隊が特別参加して以来、独立して初めて開かれた大会だった。

同大会は97年(平成9年)まで毎年開催されていたが、翌第14回大会以降、男性隊員による操法大会と女性隊員による操法大会が、1年おきに開催されるようになり、現在に至っている。

(出典:日本消防協会編「消防団120年史>消防団120年の歩みとその活躍>第6章 自治体消防の発展と消防団>7 日本消防協会の役割と活動 256頁~257頁:(5)全国消防操法大会の開催、教育訓練等の実施」、日本消防協会編「第21回全国消防操法大会プログラム>全国消防操法大会出場記録(第1回~第21回) 22頁:第1回」、同協会編「第1回全国婦人消防操法大会プログラム 17頁:第1回出場記録」)

カネミ油症事件、食用油摂取によるPCB-ダイオキシン体内汚染

 -50年経った今、被害実態は不明のまま、被害に気づき多くの人の名乗りに期待が(50年前)[改訂]

1968年(昭和43年)10月16日

この日福岡県は、北九州市のカネミ倉庫株式会社が製造した“ライスオイル”を出荷停止処分にした。

実は、この年の2月下旬から3月にかけて、同社がライスオイルを製造する過程で副産物として製造したダーク油を使った配合飼料により、西日本一帯の養鶏場で、鶏が呼吸困難になるなど奇病が発生、40万羽にのぼる大量死が出るなど、油症事件の前兆現象があった。

この状況を受け同社では、ダーク油の出荷を3月に停止したが、原因を調査せず、ライスオイルの方は、その後も製造と販売を続けていた。ところが6月から8月にかけて、福岡県を中心とした西日本一帯で、黒いニキビ状の吹き出物や爪や歯肉の黒ずみ、手足のしびれ、肝機能や腎機能障害などを訴える患者が大量に発生、それらの病気が家族単位で発生していたので、原因物質としてまず食品に疑いが持たれた。 

この情報を基に、朝日新聞が奇病発生の家族を取材、カネミ倉庫製造のライスオイルを毎日使用していた家庭に奇病が発生していることを突き止め、10月10日付の新聞でスクープ報道をした。

一方、ライスオイルを使用するようになってから、体の異変を感じたある家族が、同油を保健所に持参し調査を依頼していた。その結果、当の油から“PCB(ポリ塩化ビフェニール)”が検出され、県による出荷停止処分になった。またその症状から、カネミ油症ではないかと、全国1都2府8県、1万4320人が保健所へ被害を訴えていたことが明らかになった。

事件の原因は、九州大学医学部と福岡県衛生部の合同研究班の立入調査と研究によって、ライスオイルの製造工程で、脱臭装置に使用したPCBが、装置のステンレス管の工作ミスにより穴があき、そこから誤ってライスオイルに混入したものとわかった。

ところがカネミ倉庫は、同年1月末から2月の間に、脱臭装置のPCBが異常に減少したことを把握しておきながら、原因を調査せず、漫然と280kgも補充していた。さらに、この事実がわかった後も、PCB入りのライスオイルを破棄することをせず、正常油と混ぜて再脱臭し、販売していたこともわかった。

これに対し、まず福岡地区の被害者たちが被害者の会を結成、翌1969年(昭和44年)2月1日、原告団として、カネミ倉庫と同社社長およびPCBの製造者・鐘淵化学を被告とし、福岡地方裁判所に損害賠償を求める提訴を行った。その後各地で続々と被害者の会を原告とする訴訟が行われ、最終的には87年(同62年)12月に、カネミ倉庫との和解が行われているが、補償の対象となると国が認定した患者は、49年経った2017年(平成29年)12月末現在でも、死亡者も含み僅か2318人である。

さらに最近の研究では、カネミ油症の患者の健康被害は、PCBそのものよりもこれから変質して現れたダイオキシンによる部分が大きいとの説もあり、認定基準により未認定のままの多くの被害者や認定されないまま補償もなしに死亡した被害者、親が被害者になったときに胎内にいて汚染され誕生した人の問題など、事件後半世紀経ったがいまだ問題は未解決のままである。

2018年(平成30年)6月、朝日新聞デジタル版は、発生から50年経った今、当時の症状から“私はカネミ油症だったの?”と被害を気づいた人の事例を報道している。

それによると、油症の症状は一様ではなく病気のデパートと呼ばれたほど多岐にわたり、特に事件が起きた68年10月から約1年間で保健所に被害を届けたのは1万4000人を越え、西日本のほぼ全県にわたっていたが、汚染された油の流通経路や購入先の調査は徹底されず、被害の広がりの実態は今日まで不明のままだという。

また当時、10歳だった女性の場合は、顔やからだに黒い吹き出ものというカネミ油症独特の症状が現れ、成人後も体の脂肪腫、手足の硬直、倦怠感や抑うつに悩まされ、流産、死産をくり返して子どもをあきらめたが、病院では“原因不明”と言われ続け、同様な症状が出た家族の誰もが、医師から油症の疑いを指摘されなかったという。

しかし、この報道された女性は、最近になり当時の記憶などから油症との関連を疑い、首都圏の患者が集まる「カネミ油症関東連絡会」に相談し、多くの人が“油症患者”だと名乗り出れば、国による認定や救済のあり方も変わるのではないかと考えているという。

(出典:失敗学会編・失敗知識データベース「食品>脱臭缶加熱コイルの穴あきによる食用油へのPCB混入」、昭和史研究会編「昭和史事典>昭和43年 642頁:カネミ油症事件」、厚生労働省編「カネミ油症について-正しく知る。暖かく支える-」[追加]、朝日新聞デジタル・2018年6月16日付け奥村智司記者「私はカネミ油症だったの?発生50年、被害気づく人も」[追加] )

感染症予防法公布、101年ぶりに伝染病予防法を時代の要請に即して根本的に見直し(20年前)[追補]

 1998年(平成10年)10月2日

1897年(明治30年)4月以来、わが国の感染症対策をになってきた「伝染病予防法」が、101年ぶりに「感染症予防法」として、新しく生まれ変わった。 

わが国の感染症対策における近代法による法的指示は、74年(同7年)8月、近代的医事制度を法制化した「医制」の第46条において、当時はびこっていた“悪性の流行病(疫病)”チフス、コレラ、天然痘、麻疹類の発症者が出た場合、地域行政の医務担当官か行政の長に届け出すること及びこれら流行病の予防法を定めたのを初めとする。

なかでも天然痘は、古来より国民病と呼んで良いほどに、明治に入っても流行を極めていたが、「医制」が施行された年の4月から翌75年(同8年)春にかけても大流行していた。それを受けて翌76年(同9年)5月「天然痘予防規則」が、はじめての感染症予防対策法として布達され、全国的な法的な裏付けによる予防、医療活動が始まる。

その後、80年(同13年)7月、感染症のうち、人との接触や空気、飲食物、昆虫などの媒介によって人から人へと広まる(伝染する)いわゆる“伝染病”総体についての総合的な予防対策法「伝染病予防規則」が布告され、97年(同30年)4月の「伝染病予防法」へと法的に整備される。

この日公布され翌99年(平成11年)4月1日から施行された「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(感染症予防法)」は、今までの「伝染病予防法」とくらべ、次のように全面的な改定を行った。

まず、改定したニーズとして厚生省(現・厚生労働省)は、① エボラ出血熱、エイズ、C型肝炎など30以上の新興感染症の出現、② 結核、マラリアなどすでに克服されたと考えられていた再興感染症の存在、③ 医学・医療の進歩、公衆衛生水準や国民の健康に関する意識の向上、④ 人権の尊重や行政の公正透明化に対する要請、⑤ 国際交流の活発化、迅速大量輸送時代の到来、など感染症を取り巻く状況の変化をあげ、またそれまで個別対策法で対応していた性病、後天性免疫不全症候群(エイズ)なども取込み、新法で総合的に感染症対策を推進するとした。

感染症対策の基本的な考え方については、それまでの集団的感染症予防に重点をおいた考え方から、国民一人一人の予防及び早期治療の積み重ねによる社会全体の感染症予防の推進へと、基本的な考え方を転換するとした。

行政処置としては、それまでの感染症が発生してから対策を講じる“事後対応型行政”から、日常的に感染症の発生、拡大を防止するための施策を講ずる“事前対応型行政”への転換。その一環として、① 感染症発生動向調査体制の充実による、国民や医療関係者に対する感染症予防のために必要な情報の提供。② 計画的な感染症対策が講じられるように、国において感染症予防についての基本的な指針を示し、都道府県おいてこれに即した予防計画を策定する。③ さらにエイズや性感染症、インフルエンザについては、国において総合的な対策を講ずるため特定感染症予防指針を策定する、とした。

個別的改定では、① 感染症の類型を四分類し、類型に応じた入院、就業制限などの対応、② 感染症医療について、それまで市町村が設置していた伝染病院(避病院)や隔離病棟(舎)による施療から、必要な感染防御を行った一般医療の延長線上での実施へ転換するため、都道府県知事が最適切な医療機関を指定する感染症指定医療機関制度の導入、③ 医療負担を全額公費負担から公費と社会保険併用制度への改定、④ 患者の入院手続きを保障するために、a.説明と同意に基づいた入院をうながす入院勧告、b.72時間を上限とする応急的な入院、c.入院の必要性を確認するための協議会による審査や審査請求の特例制度の実施、など患者の人権保障のための制度を設けた。

また新興・再興感染症の多くが動物由来感染症であり、近年の国際交流の活発化によりわが国に常住しなかった感染症が侵入するおそれが生じている点から、海外から輸入される動物検疫の規定を新たに設け、さらに狂犬病予防法を改正し、狂犬病を媒介する危険性のあるネコ、アライグマ、キツネ、スカンクも輸入検疫の対象にした。

最後に感染症の問題が一国だけで解決出来るものではなくなっている現状に対応し、国の責務として、感染症の情報収集、研究推進に関する国際的な連携の規定を明記。検疫法を改正し検疫の対象疾病(検疫感染症)にウイルス性出血熱を追加している。

ちなみに、それまで使用されていた悪性の流行病こと“伝染病”という用語は、新法において、病原体が体内に侵入して(感染)繁殖し引き起こされる(発症)病気、すべてを指す“感染症”を採用したことによって使用されなくなっている。

(出典:国立国会図書館・日本法令索引・衆議院制定法律「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(感染症予防法)」、厚生省編「厚生白書・平成11年版>第1編>第2部>第6章 健康と安全を守る取組みと生活環境の整備>第2節 新たな感染症対策>1 感染症新法の成立と実施」。参照:2017年4月の周年災害〈上巻〉「伝染病予防法制定」、2014年8月の周年災害「医制発布され近代的医事衛生制度発足、初の法定伝染病の指定と届出及び予防法の公的指示」、2016年5月の周年災害〈上巻〉「内務省、天然痘予防規則布達」、2010年7月の周年災害「伝染病(感染症)予防規則公布」)

地球温暖化対策の推進に関する法律公布-推進大綱で具体的に進め、

地震による原発停止の事態も各界の自主的な節電対策で乗り切る(20年前)[再録]

 1998年(平成10年)10月9日

前年の1997年(平成9年)12月、わが国が議長国となり京都において、第3回地球温暖化防止京都会議(COP3)が開催され、温室効果ガス排出量の多い先進国の削減目標を決めるという画期的な「京都議定書」を採択したが、それを受けて、国内での地球温暖化対策を推進する目的の法律「地球温暖化対策の推進に関する法律(地球温暖化対策推進法)」が、この日公布された。

この法律が審議、公布された背景は、京都議定書を採択した議長国として、防止対策に消極的な各先進国の先陣を切って国内対策を強化し、他の先進国での国内対策強化に影響を与えたいという面もあるが、わが国自身の二酸化炭素排出量が、ヨーロッパの主要国とくらべ、高い伸びを示しているといった、人のことは言えない事情があった。

このため、京都議定書で決められた、規準年の1990年(平成2年)の排出量よりも6%削減するという、わが国の目標の達成のためにも、早い段階から防止行動を開始する必要があった。

また93年(同5年)11月に設置された旧中央環境審議会による、98年(同10年)3月の環境庁長官(国務大臣)への「今後の地球温暖化防止対策の在り方について(中間答申)」によれば、早急な法制度化の必要性とともに“地球温暖化対策は、省エネ・省資源を一層進めるものであり、地球温暖化対策への投資は需要拡大に効果を持つだけでなく、効率的な経済づくりにも役立ち、長期的な生産性や競争力の改善につながる。世界に先駆けて行動を起こすことが、わが国の繁栄につながる(Ⅳ.おわりに)”と、地球温暖化対策は、環境浄化と気象災害等の防止に止まらず、積極的に経済効果のあるものであると明らかにしていた。

また同法においても、その第一条(目的)の中で“この法律は、地球温暖化が地球全体の環境に深刻な影響を及ぼすものであり、(中略)大気中の温室効果ガスの濃度を安定化させ地球温暖化を防止することが人類共通の課題であり、全ての者が自主的かつ積極的にこの課題に取り組むことが重要であることに鑑み(中略)現在及び将来の国民の健康で文化的な生活の確保に寄与するとともに人類の福祉に貢献することを目的とする。”としている。

また、同法のポイントとして“もっぱら温暖化防止を目的とする我が国初めての法制度”であること、今後“「排出自由」の考え方を改め、国、地方公共団体(地方自治体等)、事業者、国民の全ての主体の役割を明らかにする”ものであり“6%削減目標を達成するための将来の対策にとって欠かせない「土台」を用意”したことであると指摘した。

また今一つのポイントとして“6つの温室効果ガス(二酸化炭素、メタン、一酸化二窒素、三つのフロン類)の全てを対象にした取組を促進”し、“二酸化炭素の対策としても、省エネ以外の取組も含めて広く対策を促進。特に、事業者については、製品開発等をも促す”ものであるとした。

同法公布後、2002年(平成14年)3月、地球温暖化対策を具体的に推進するものとして「地球温暖化対策推進大綱」が決定され、行政、産業界、国民それぞれの立場で、地球温暖化を防止するそれぞれの取組がなされ、再生可能の自然エネルギー、省エネ家電、電気自動車、省エネ住宅など各製品が開発されている。

その成果として、73年(同48年)10月の“石油ショック”以降、79年(同54年)10月「省エネ対策法」を施行し、今回の「地球温暖化対策推進法」などの法的な裏付けをもち、わが国のエネルギー効率を高める努力を官民一体となって行った結果、2012年のエネルギー効率(エネルー供給量÷実質GDP推移)は、1973年から2012年までの約40年間で、約40%もエネルギー効率を改善するなど、世界最高水準の同効率を実現している。まさに当初のエネルギー節約のスタートから、地球温暖化防止対策へと高まっている。 

また最近の例として、11年(同23年)3月の東日本大震災後、日本の電力の約3分の1を供給しているとされていた原子力発電所がほぼ停止し、電力供給が心配された中で、各界で自主的な節電対策を行い、見事乗り切ることもできたのであった。

(出典:環境省編「審議会・委員会等>平成13年1月5日以前の情報>答申一覧>H10.03.06答申>Ⅲ 今日の段階から取り組まなければならない事項」、同「Ⅳ.おわりに」、同省編「地球温暖化対策>地球温暖化対策の国内の取り組み>地球温暖化対策推進法と地球温暖化対策計画>地球温暖化対策推進法の成立・改正の経緯>平成10年成立>地球温暖化対策推進法について」、同「地球温暖化対策推進法の提案の背景・地球温暖化対策推進法の構造、国立国会図書館日本法令索引・衆議院制定法律「地球温暖化対策の推進に関する法律」[改訂]、経済産業省編「審議会・研究会>名称一覧>総合資源エネルギー調査会>省エネルギー小委員会>2014年6月24日 第2回>開催資料>資料3 省エネルギーに関する情勢及び取組の状況について」。参照:2010年10月の周年災害「初の地球温暖化防止行動計画を策定」、2017年12月の周年災害「京都でCOP3開催、京都議定書採択」、2009年10月の周年災害「省エネ対策法施行-地球温暖化対策の主要な柱に」)

東京消防庁、わが国初の高度救急処置対応ヘリコプター運用開始

-次いでドクターヘリの時代へ(20年前)[改訂]

1998年(平成10年)10月30日

東京消防庁は、この年の3月に消防法施行令が改正されたことから、この日、わが国初の高度救急応急処置対応ヘリコプターの運用を開始した。

同施行令では、第44条(救急隊の編成及び装備の基準)で“航空機一機及び救急隊員二人以上をもって編成”2項“航空機には、傷病者を搬送するに適した設備をするとともに、救急業務を実施するために必要な器具及び材料を備えなければならない”と、救急自動車だけでなくヘリコプターによる救急隊の編成及び装備などについて明確に位置づけた。また第44条の2において、都道府県が区域内市町村長の要請に応じて同市町村消防を支援する場合の救急隊を“航空機(ヘリコプター)”をもって実施することも定められ、ここに救急(防災)ヘリ時代が到来、後に救急医療機関などで救急救命医が同乗した“ドクターヘリ”を準備し、緊急事態に対応する時代へと進んで行くことになった。

同施行令改正に基づき、東京消防庁ではヘリコプターに搭乗する隊員を救急救命士1名、操縦及び救急活動隊員1名の合計2名とし、装備としては、心電図モニター付きの除細動器、呼吸管理装置、吸引器、輸液ポンプ、酸素ボンベなどの高規格救急用担架装置及び航空救急活動資機材を搭載した。

ちなみに同庁による最初の傷病者搬送は、運用開始翌31日、八丈島から脳出血の男性と腸閉塞の女性2名の搬送と記録されている。

歷史をさかのぼると、同庁が、消防ヘリコプターを全国に先駆けて、1967年(昭和42年)4月に配置した半年後の10月、伊豆大島から交通事故で重傷を負った負傷者を都立墨東病院まで搬送したのが、最初の出場(動)であった。その後、92年(平成4年)3月、今度は北海道の道央自動車道路で、車両186台が巻き込まれた、わが国最大の玉突き多重衝突事故発生の際、北海道警察の救急ヘリコプターが、札幌医科大学から医師を乗せ、わが国ではじめて事故現場に着陸して救急処置をしており、消防法改正以前から、緊急事態という必要に応じて救急119番の消防を中心に、警察のヘリコプターも含め、傷病者の手当、搬送に活躍していた。

さらに救急ヘリコプターを一歩進めた“飛ぶ救命救急室”と呼ばれているドクターヘリコプターの必要性が痛感され、導入が進んだきっかけは、95年(同7年)1月の阪神・淡路大震災であった。

わが国でドクターヘリの導入をいち早く考えたのは、岡山県倉敷市にある川崎医科大学付属病院である。同医院での本格的な実用化研究は92年(同4年)からだが、当時、行政機関に必要性の認識がなかったという。ところが、大震災における救急活動の実状からそれが急変、当時の社会、自民、さきがけ3党連立村山内閣において、まず内閣官房で検討が始められ、99年(同14年)10月から厚生省(現・厚生労働省)が、先の川崎医科大学付属病院と神奈川県伊勢原市の東海大学医学部付属病院の協力を得てドクターヘリの試行的事業を展開、その結果、成果が実証され、2001年(同13年)4月、川崎医科大学付属病院で最初の本格運用が始まった。

ちなみに、東京消防庁の17年(同29年)のヘリコプター災害出場件数は495件だが、その内の85%の423件が救急出場である。また全国的に見ても、16年(同28年)の消防防災ヘリコプターによる救急出場件数は3664件で、消防法施行令が改正され、全国的に救急ヘリコプターが運用開始された翌99年(同11年)の975件の3.8倍、搬送人員でみると2816人に対し同764人と3.7倍に達している。また全国のドクターヘリ出動件数は、16年度(同28年度)2万5115件、診療人数は2万2545人となっており、ドクターヘリの存在感が急激に増している。

(出典:東京消防庁編「消防雑学事典>日本初、高度救急処置対応の救急ヘリコプター誕生」、国立国会図書館・日本法令索引>電子政府の総合窓口「消防法施行令」、東京消防庁編「組織・施設>航空隊>装備・資器材」、同「東京消防庁航空隊>活動状況」、総務省消防庁編「平成29年版消防白書>第2章 消防防災の組織と活動>第5節 救急体制>1.救急業務の実施状況>(1) 救急出動の状況」、西川渉著「ドクターヘリ“飛ぶ救命救急室”>第5章 フライトドクター>1 日本で最初にドクターヘリを導入-川崎医科大学付属病院  169頁~170頁:一九九九年から試行的に運航」、国土交通省編「2016年度ドクターヘリ出動実績」。参照:2017年4月の周年災害〈下巻〉「東京消防庁、全国に先駆け消防ヘリコプター1号機運用開始し航空消防始まる」、2012年3月の周年災害「道央高速自動車道玉突き衝突事故、医師を乗せたドクターヘリが事故現場へ初の着陸」)

大阪個室ビデオ店放火事件-防災管理上の不備を消防法施行規則の改正でおぎなう(10年前)

[追補]

2008年(平成20年)10月1日

狭い店内をまたそれぞれ狭く個室化して迷路のようなこれまた狭い通路でつなぎ、火災時の危険性が高い施設で25人が死傷するという惨事が起きた。個室ビデオ店の火災である。

僅か2年弱前の2007年(平成18年)1月に、直線距離で20kmほどしか離れていない宝塚市でカラオケボックスの火災があったばかりである。原因は客の放火だという。店にとって災害だったととらえる向きもあるだろうが、問題は火災時の危険性が予測できる店内の防火管理が適正であったかどうかであろう。 

事件は午前2時50分ごろ発生したとされる。個室ビデオとはいえ、室内で観賞していた客は少なく、ほとんどはそこを宿代わりにして睡眠中だったと思われ、寝込みを火事により発生した一酸化炭素に襲われ中毒死している。死亡者16人。

事件のあったビデオ店キャッツは、大阪市浪速区難波中三丁目の7階建ての雑居ビル桧ビルの1階にあり、付近はエディオンアリーナ大阪、浪速スポーツセンターと阪神高速1号環状線に囲まれ、中小ビルが建ち並ぶ一角にある。店の出入口から入店して左手が受付で、その付近は広い通路だが右手の一個所しかない入口から店内に入ると曲がりくねった狭い通路の両側に個室が並び行き止まりとなっている。

その結果、死亡者の遺体はすべて奥まった店内から見つかっており、自力で避難した客はすべて入口付近の個室にいた人たちで、入口にもっとも近い5室が空いていたところを見ると、客は奥の個室から案内されたようだ。また、当夜は全32室のうち26室がふさがっており、客4人が負傷し、犯人と犯人を誘った男を除くと4人は自力で避難し無事だったと思われる。なお従業員3人のうち2人が負傷し1人が無事だったという。  

火災発生時、一応、火災報知器のベルは鳴ったようだが、桧ビルの管理人がタバコの煙による誤作動と思い込んでベルを止めてしまったという。従業員による消火や避難誘導が一切なかったと当夜の客が証言しており、せっかくの消火器も使われないままに終わっている。通路の誘導灯はあったが、通路にはジュースの段ボールが積まれていて明るくても通りづらかったとこれも客の証言にある。火事発生時に効力の強いスプリンクラーは、店内の面積が消防法の規制以下ということで設置されていなかった。

事件後、これら防災管理上の不備を受け翌09年(同21年)9月、個室ビデオ店などを対象にして消防法施行規則の一部が次のように改正された。① 個室に煙感知器を設置する。② 火災報知器のベルがいったん止められても2分~8分後に異常を察知してふたたび鳴り出す再鳴動機能付きの報知機を設置する。③ 個室でヘッドホンを着けていても、非常警報音が確実に聞き取れるようにする。④ 通路誘導灯、蓄光式誘導標識などを通路の床またはその付近の避難上有効な場所に設置する。

(出典:総務省消防庁資料より「大阪府浪速区個室ビデオ店火災の概要」。参照:2017年1月の周年災害「宝塚市カラオケボックス火災事件」)

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・地震・津波・火山噴火

・気象災害(中世・江戸時代編)

・気象災害(戦前・戦中編)

・気象災害(戦後編)

・広域汚染

・火災・戦災・爆発事故(中世編)

・火災・戦災・爆発事故(江戸時代編)

・火災・戦災・爆発事故(戦前・戦中編)

・火災・戦災・爆発事故(戦後編)

・感染症流行・飲食中毒・防疫・災害時医療

・人為事故・防犯・その他

・災異改元 

以下の「周年災害 各年月編」に進む

10月の周年災害・追補版(4)

2018年11月の周年災害

11月の周年災害・追補版(4)

防災情報新聞:2018年9月の周年災害より以前

(2018.10.5.更新)

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