【目 次】

・正中から嘉暦へ改元、近江北部地震とインフルエンザ流行による[改訂]

・江戸町奉行、二階で火を使うこと、消し炭の処理について飽きずに具体的な禁止指示[改訂]

・1662寛文近江・若狭地震。若狭湾沿岸と琵琶湖西岸地震が連動した双子地震、琵琶湖岸三ツ矢千軒沈む[改訂]

・虎列刺(コレラ)病流行地方ヨリ来ル船舶検査規則公布、検疫官の職務内容を規定するなど内部規定的検疫法規

・消防本署に輸入の第1号蒸気ポンプ、年末には同分署に国産腕用ポンプを配置し龍吐水廃止される[改訂]

・消防本署、消防水防規則制定、東京府内に消防組員6消防分署40組2000人、水防組員5組150人が配置される
 ー消防組は10年後、全国統一の消防組規則に組み込まれる

・政府、赤十字条約に調印、博愛社は社名を日本赤十字社に改称し国際赤十字へ加盟[改訂]

・北里柴三郎、ペスト病原菌を発見、消毒とネズミの駆除が有効なことも見つける

・明治27年東京地震、東京湾沿岸の低地に被害集中、煙突の倒壊多く「煙突地震」の異名が

・明治35年コレラ、九州・関西地方を3系統から侵入し席巻

【本 文】

○正中から嘉暦へ改元、近江北部地震とインフルエンザ流行による[改訂]
 1326年6月5日(正中3年4月26日)
 前年の地震と疫病(感染症)のため改元とある。
 日本被害地震総覧によれば、前年の12月5日(正中2年10月21日)の亥の刻(午後10時ごろ)、京都から比叡山のかなた、近江国(滋賀県)の北部を震源とするマグニチュード6.5±1/4の強い地震が発生している。この地震によって、竹生島の一部が崩れて琵琶湖に没し、若狭国(福井県)気比神宮が倒壊、比叡山延暦寺の十二輪灯がことごとく消え、常灯もほとんど消えたとある。これは近江北部地震と呼ばれている大地震で、この時、琵琶湖沿岸にあり尚江(なおえ)千軒と呼ばれ、湖水を利用し東国と京都、畿内を結び栄華を誇った湊町が水没したと最近の調査でわかった。
 当時の記録、花園天皇宸記によれば、京都では“今夜亥剋(刻)大地震”と、亥の刻に最初の強い揺れを感じ、大きな余震が“子剋許又大震、及丑終又大震”と、子の刻(午前0時ごろ)と丑の刻(午前2時ごろ)にあり、その間小さな余震は“其後連々不知数(その後数え切れないほど)“あったという。その後は“廿九日(中略)今夜地震、都此間毎日事也。十一月一日、地震頗(すこぶる)大”と、12月13日(旧暦・10月29日)までの間、毎日余震が続き、翌14日(旧・11月1日)にも大きな揺れがあって、この日の地震以降、年末まで毎日のように揺れていたと記録されている。
 一方疫病の方は、同じ花園天皇宸記の12月22日(旧11月9日)から12月25日(旧・11月12日)の間、天皇が“御風気(風邪ぎみ)”だったと記録されている。22日“午剋許有還御(12時には奥の方へ戻られ)”翌23日は“猶御風気不快、無出御(ご気分が悪いと御殿にお出にならず)”、24日も“今日猶無出御、醫(医)師等申御風気之由也(今日もお出にならないので医師に聞くとお風邪気味とのこと)”、25日には“今日有咳気、頭痛尤甚、謹慎不出簾外、永福門院又御咳云々(咳が出て頭痛がひどいので、部屋の外には出ておられない。永福門院も咳がひどいとのこと)”と、天皇をはじめ父君の伏見天皇の中宮(夫人)永福門院も風邪気味になるなど“近日諸人病悩不擇(択)貴賤(賎)(ここのところ数日は、宮中の貴人も貧しい庶民も選ぶことなく病気に悩まされていた)”という。インフルエンザであろう。
 地震と疫病のダブルパンチで人々の不安が増しており、改元で災厄を祓うことになった。
 (出典:池田正一郎編著「日本災変通志>中世 鎌倉時代 246頁:嘉暦元年」[追加]、宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧>4 被害地震各論 50頁:051 1325ⅩⅡ(正中2 Ⅹ 5)」、京都歴史災害研究会編「京都歴史災害年表>1301年~1400年148頁~149頁」、国立国会図書館デジタルコレクション「史料大成.続編 第34>花園天皇宸記 二>正中二年・148頁~150頁(85コマ):十月廿一日、廿九日、十一月一日、九日、十日、十一日、十二日」[追加]。参照:12月の周年災害・追補版(4)「正中2年近江北部地震、尚江(なおえ)千軒の大半が地すべりで水没」)

江戸町奉行、二階で火を使うこと、消し炭の処理について飽きずに具体的な禁止指示[改訂]
 1651年6月27日(慶安4年5月10日)

 都知事であり、東京消防庁+警視庁長官の江戸町奉行は、1649年1月(慶安元年12月)に総括的な防火指示令(警火令)を出して以来、ピンポイント的にさまざまな状況での、防火のお触れを出している。これもその一つだが二階での“火”の使い方や消し炭に関する指示だ。
 その総括的な警火令のお触れの最後にあったのは“二階にて火をたき申間敷事(火を焚かないように)”という単純なものだったが、一律禁止に苦情が殺到したのだろうか。2年半ほど過ぎた今回のお触れでは、はじめに一応“二階に而(て)火をたき申間敷事”と原則を述べた上で、“附”として“用所たし(足し)候は、二階にとほし(灯し)候火、早々けし(消し)可申事”と、火を使う用事が済んだら早く消すように、と使うことについては基本的に容認。また“棚(店)かり(借り)借屋之者に至迄、朝夕之用たし候は、是又火を消可申候、むさと用なくして(必要がないのに)火をたき申間敷事”となった。つまり、店を借りている者や部屋を借りている者は“朝夕之用”とは、朝夕の食事の支度であろうか。それが済んだら、火を消して、必要がないのに火を使わないようにと、町人たちの生活実態に合わせた具体的なお触れに変化した。
 さらにその後のこの手のお触れは、より具体的になっていく。9年後の1660年7月(万治3年6月)になると“二階ニて紙燭(こよりに油を浸した灯火)勿論(もちろん)、油火(灯し油に灯芯を浸した灯火)蝋燭(ろうそく)、自今以来、立申間敷候(今後、使用しないように)”と、二階での紙燭、油火、ろうそくの使用を禁じている。
 その後、1696年3月(元禄9年2月)になると、照明具だけで無く二階で使う火鉢などの消し炭に対し“町中にて消炭を致置候共(使っていても)、二階え堅上ケ置申間敷事(二階には上げないように)、尤随分念を入れ消(充分に念を入れて消して)物陰ニて無之(物陰では無く)、火之用心能所指置可申候(火の用心の良いところに置く)。勿論俵筵桶抔(たわら、むしろ、おけなど)えも入置候儀無用可仕候、若致不沙汰”、炭などをくるんでいる俵や筵も、入れて持ち運びする桶(炭桶)にも消し炭を入れてはならない。と、かなり神経質と思えるほど“消し炭”の処理に気を遣って禁止している。
 また1706年11月(宝永3年10月)、10年ぶりの消し炭についての触れでは“町中ニて消炭を四斗樽俵等に入置、度々出火有之(中略)尤消炭二階物乾なと(ど)に一切差置申間敷候”とあり、消し炭を四斗樽(清酒を入れた樽)や俵に入れて置いたことから、たびたび出火したことがあったので、消し炭を二階や屋根上の物干し場に置くなという指示になっており、江戸っ子が炭火起こしに便利な“消し炭”を町奉行所からの再三の禁止令にも関わらず重宝し、狭い一階を避けて、二階や物干し場にそれも大量に置いていたことが禁止となった。
 さらに2年後の1708年(宝永5年)になると9月(旧歴8月)と10月(旧歴11月)に立て続けに消し炭や火鉢などの灰の処理について“消炭又は灰なと溜メ置候儀、俵箱并(ならびに)さる(ざる)なと(ど)に入れ、家之内ニ差置候儀、堅仕間敷候、致消炭候節は、火消壺ニ入置可申候”。ここにくると、現代でも使われている“火消壺”という、消し炭や火鉢などの残り灰を入れておく陶器製などの便利な物が登場し“火消壺ニ入置可申候”と、奉行所も安心して指示を出し防火に一役買うことになる。さらに1712年12月(正徳2年12)月)には“若(もし)けしつほ(ぼ)調(ととのえ)候事不成輕(軽)き店借體(体)之ものは、家主方より消壺調可申候”と、火消壺を買うことができない借家人がいたら、家主が用意してやるようにとまで指示をしている。
 このようにまず二階での火気を禁じたのは、要はボヤなどが起きたとき直ぐ消せる“水”が手元にないか、手桶程度では少ないからであろう。次に現代でもバーベキューで火をおこし、消したあとに残る“消し炭”は、次に火をおこすときにすぐつくので重宝するが、それだけに火を呼びやすい。そこで何回も具体的にその処理について指示をすることになる。この手のお触れをひんぱんにかつ具体的に出すことは、防火のための必要性が充分にあったからと言えよう。現代でも、水利のない所での火気や火を呼びやすい灯油などの処理に、消防署は飽きずに防火の注意をしている。
 (出典:黒木喬著「江戸の火事>第4章 江戸の防火対策>3.警火令と住民 137頁」、高柳真三+石井良助編「御触書寛保集成>二十六>火事并火之元等之部 761頁:一四二五 慶安元子十二月」[改訂]、近世史料研究会編「江戸町触集成 第1巻>慶安四辛卯年 19頁:五四」[追加]、高柳真三+石井良助編「御触書寛保集成>二十六>火事并火之元等之部 766 頁:一四三九 萬治三子年六月」[追加]、同編「同集成>同部776頁:一四七九 元禄九子年二月」[追加]、同編「同集成>二十七>火事并日之元之部 793頁:一五三一 寶永五子年八月、一五三三 寶永五子年十月」[追加]、同編「同集成>同部 796頁:一五四二 正徳二辰年十二月」[追加]。参照:2019年2月の周年災害「江戸町奉行、火災シーズンを前に、町方に一連の“警火の町触”出す」[改訂]、7月の周年災害・追補版(1)「江戸町奉行、建物二階での紙燭、油火、ローソク使用禁止」)

1662寛文近江・若狭地震。若狭湾沿岸と琵琶湖西岸地震が連動した双子地震、琵琶湖岸三ツ矢千軒沈む[改訂]
 1662年6月16日(寛文2年5月1日)
 巳の刻(午前9時ごろ)から午の刻(午後1時ごろ)にかけて、近畿、東海地方から信濃国に及ぶ広範囲な地域にマグニチュード7.25~7.6にわたる大地震が襲った。
 最近の研究ではこの地震は、巳の刻に若狭湾沿岸の日向断層の活動によって発生した地震と、それに連動して午の刻に琵琶湖西岸の花折断層北部の活動によって発生した双子地震だと考えられている。
 巳の刻発生地震では小浜や三方五湖周辺地域に被害が出たが、特に日向断層を挟んだ東側の地盤が、はば数キロメートルの範囲で隆起しその西側の地盤を沈ませた。これにより三方湖からの唯一の排水河川・気山川の河道がふさがれ、同湖南西岸の村々の田畑を冠水させた。
 この地を支配する小浜藩では、五湖の内の水月湖と久々子湖の間に横たわる浦見坂を開削し湖水を流す事業を大地震の発生の1年前から着工していたが難工事のため中断していた。ところが今回、河道がふさがれたことにより開削工事を再開、翌1663年6月(寛文3年5月)初めには完工させ、新たに出来た浦見川によって水月湖の水は久々子湖に流れるようになり、冠水した田畑がよみがえっただけでなく、新たに干上がった土地が出現、翌年より新田開発に着工するという復興の成功エピソードも生まれている。
 一方、午の刻発生の地震は葛川谷(朽木谷とも:高島市域)や琵琶湖沿岸地域に被害を与えたが、特に西岸の比良岳付近の被害が甚大で、唐崎、志賀両郡(現・大津市)では田畑85町歩(0.85平方Km)が湖中に水没、家屋倒壊1570軒。安曇(あど)川河口の南東沿岸に位置する大溝(現・高島市)では家屋倒壊1020軒余、37人死亡。同川上流域の葛川谷では“町居崩れ”と称された史上屈指の大規模な土砂崩れが起き、560人余が死亡し37人生存、家屋はすべて埋没したという。また、対岸の彦根でも家屋倒壊1000軒、30人余が死亡と記録されている。
 なかでも近年の遺跡調査により、琵琶湖西岸大溝の北東沿岸にあったという伝承の“三ツ矢千軒”と呼ばれた、湖水を利用して北陸と京都、畿内を結び繁栄を築いた湊町が、大地震による地すべりで水没したのではないかと推定されている。
 そして、両断層の南部に位置する当時約40万人の大都市京都では、盆地南部の伏見や淀など軟弱地盤地域に被害が集中し、家屋倒壊1000軒余、200人余死亡という被害を生じている。全体の被害は現存する史料によると、家屋倒壊4000軒~4800軒、700~900人余死亡となるが、後世、被害を記録した史料が散逸したと思われる点もあり実際の被害はそれ以上多かったのではないかと考えられているという(内閣府報告書)。
 (出典:内閣府編「広報ぼうさい32号14頁:過去の災害に学ぶ(第6回)寛文2年(1662)近江・若狭地震」、中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会報告書「1662寛文近江・若狭地震」、歴史地震第18号・今村隆正+井上公夫+西山昭仁著「琵琶湖西岸地震と町居崩れによる天然ダムの形成と決壊」、宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧4.被害地震各論 63頁~64頁:115 1662 Ⅵ 16(寛文2 Ⅴ 1)、池田正一郎編著「日本災変通志>近世・江戸時代前期 371頁~372頁:寛文二年五月朔」、小倉一徳編、力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歷史>2.近世の災害>江戸時代の主要災害一覧 85頁:寛文2.5.1 近畿・東海地方地震」)

虎列刺(コレラ)病流行地方ヨリ来ル船舶検査規則公布、検疫官の職務内容を規定するなど内部規定的検疫法規。
 1882年(明治15年)6月23日

 
わが国において大流行を起こす感染症は、国民の衛生概念と国内の医療の発達によって、インフルエンザのように国内に根付きぶり返すものもあるが、そのほとんどは海外から押し寄せる外来種だと言って良い。そこで国内での流行を抑えるのに重要なポイントが水際作戦の“検疫”となる。
 特に安政5年(1858年)欧米諸国と“修好条約”を結び、いわゆる鎖国が解かれ諸外国との交流が盛んになった幕末から明治時代(1868年~1912年)にかけて、修好条約を縦に、検疫拒否を繰り返す欧米諸国と攻防が絶えなかった。その決着がつくのは、1899年(明治32年)2月公布の海港検疫法以降だが、その間、さまざまな検疫法規が登場している。今回の虎列刺(コレラ)病流行地方ヨリ来ル船舶検査規則はその一つとなる。
 この検査規則は、その表題の通り“虎列刺病流行地方ヨリ来ル船舶”に対する検疫法で、大流行を起こした3年前の1879年(同12年)に公布した検疫停船規則に比べわずか条文は5条しかないが、それだけに検疫等の手続きをつぎのように簡潔に絞り込んでいる。その要旨はー-、
 第1条(許可証):検疫済みであること示す許可証を得たあとでなければ、他港へ航行すること、陸地または他の船と通信すること、乗組員、船客の上陸、積荷の陸揚げをすることは出来ない。
 第2条(許可):検疫官は船中にコレラ患者またはコレラによる死亡者がいないときは、第1条で禁止している行為について許可を与えなければならない。ただし検疫官が必要と認めるときは、その船舶を48時間以内に指定する場所に停泊させ十分な消毒を実施することができる。
 第3条(停泊):コレラ患者またはコレラによる死亡者がいるときは、陸地および他の船に伝染の恐れがないと認める距離をおいた指定する場所に停泊させなければならない。以下、コレラ患者の避病院(感染症専門病院)、住居、検疫官が適当と認める場所への送致。死亡者の定めた場所での火葬、消毒後の埋葬。などの手続きを終えた後、検疫官は乗組員、船客に十分な消毒を実施した後、上陸の許可を与え、船舶、積荷にも十分な消毒を実施した後、他港への航海、陸地や他の船との通信及び積荷の陸揚げを許可する。

 第4条(罰則規定),第5条(実施の指定)。

というもので、実質的な内容は3条で言い尽くしている。中でも第1条で“許可証”の必要なことを確認させる以外は、第2、3条とも検疫官の職務内容を決めており、検疫停船規則が被検疫対象の船舶に対するものであったのに比べむしろ内部規定的なものになっている。

 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション「法令全書.明治15年>太政官布告 20頁(41コマ):明治15年太政官布告第31号 虎列刺病流行地方ヨリ来ル船舶検査規則」山本俊一著「日本コレラ史>Ⅲ 検疫編>第3章 検疫関係諸規則>第3節 虎列刺病流行地方より来る船舶検査規則 573頁~574頁:(a)条文」。参照:2019年3月の周年災害「明治12年、コレラ史上最大級の流行始まる、死亡者10万5786人」、2019年2月の周年災害「海港検疫法公布、感染症の侵入を水際で防ぐ」)

消防本署に輸入の第1号蒸気ポンプ、年末には同分署に国産腕用ポンプを配置し龍吐水廃止される[改訂]
 1884年(明治17年)6月30日
 明治初頭の東京の消防署の消火機器は、1870年(明治3年)10月、東京府常務局消防掛がイギリスから輸入した、腕用ポンプ(水槽に取り付けたピストンを左右のこぎ手が交互にこいで放水)4台と蒸気ポンプ1台があったが、蒸気ポンプの方は、大型の台車に搭載する必要があったので市内の道路が狭く効果的に移動できないこと、エンジンを始動させる蒸気機関の運用に複雑で高度な技術が必要なこと等があり威力を十分に発揮できず、1876年(同9年)には北海道支庁に売却されていた。また、創設された東京警視庁が1875年(同8年)5月にフランスから輸入したイギリス製腕用ポンプ(甲号ポンプ)9台があり、主要な消防分署に配置されていたが、まだまだ、江戸時代に配備された大形の水鉄砲ともいうべき“龍吐水”が多く使用されていた。
 1879年(明治12年)1月、消防制度視察のため、内務省警視局の川路利良大警視に随行し、ヨーロッパ各国を歴訪した小野田、林の両少警視らは、帰国後“消防は一に器械にあり”と報告、消防機械化の推進を提言した。この提言を受けた川畑消防本署長(現・東京消防庁長官)は、この年1884年(同17年)腕用ポンプ40台の増設に際し国産化を計画、前年、横須賀の人がドイツから取り寄せた腕用ポンプを譲り受けて解体し、構造、性能などを調査研究させた後、石川島監獄署(現・刑務所)工作場に試作品の製作を依頼した。数か月を経て完成、その性能が満足のいくものであったので正式に量産を依頼し40台が完成、年末には乙号ポンプと名付け各消防分署に配置、龍吐水の使用は廃止された。
 また消防本署では、腕用ポンプの国産化と平行して、イギリスから蒸気ポンプを1台輸入、性能試験後、火災現場へ蒸気ポンプと消防隊員を輸送する国産の駆送馬車を製作、この日、第1号蒸気ポンプと名付け同署へ配置した。さらに運用には消防司令が当たり、馬車を動かす馭者と馬の世話をする馬丁(ばてい:厩務員)を採用している。ただし放水するまでに蒸気を沸騰させる必要があるので、火災現場が消防本署に近い場合などは、現場に到着しても蒸気が出るまで周辺を一周したという。
 (出典:東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の消防百年の歩み>明治初期 4頁~6頁:蒸気ポンプの輸入と腕用ポンプの試作、同編「同書>明治中期 55頁~56頁:腕用ポンプの国産化と蒸気ポンプの輸入」、東京消防庁編「消防雑学事典・蒸気ポンプから消防ロボットまで」[追加])

消防本署、消防水防規則制定、東京府内に消防組員6消防分署40組2000人、水防組員5組150人が配置される
 ー消防組は10年後、全国統一の消防組規則に組み込まれる

 1884年(明治17年)6月30日
 
1880年(明治13年)6月、国の内務省警視局(現・警視庁)内に、首都を火災から守る消防本部(現・東京消防庁)が創設され、現在につながる公設(常備)消防組織が誕生したが、皮肉なことに同年の12月に神田鍛冶町、続いて翌1881年(同14年)1月同じ神田の松枝町、翌月2月にも同じ神田の柳町と四谷箪笥町で大火が発生、東京府(現・都)では同月25日、防火路線及屋上制限令を公布、不燃化都市を目指した。また内務省は1月、警視庁を再配置して消防本部を消防本署と改称、同年6月には消防本署の下、消防分署を都心の日本橋、芝、麹町、本郷、浅草、深川の6か所に設置して防火体制を固めた。
 また東京の水防組は、1875年(明治8年)9月水防規則が制定され、主要な橋梁の災害防止を目的に組織化されていたが、この年の2年前の1882年(明治15年)には規則を改正、消防組と同じく消防本署の管轄下に入っていた。
 そしてこの日、消防本署では1874年(同7年)1月制定の“消防章程”に追加改正し、それまで別々にあった“消防”と洪水対応の“水防”の規則を一つにまとめた“消防水防規則”を制定、消防本署に輸入の第1号蒸気ポンプを年末には同分署に国産腕用ポンプを配置する(上記)など、消防組織と消防機器の整備強化をはかった。
 この消防水防規則は10章83条からなり、職員の職務の執行方法、消防組・水防組員の配置、器械の配置、勤務の方法、賞罰、制服、日当、出場(動)手当、退職手当、遺族扶助料など、現代の職務規則などに通じる内容となっている。なかでもかつての町火消し消防組員(現・消防団員)と、東京の橋を守る水防組員の配置については、日本橋の第1分署に消防組10組と水防組(永代橋組)1組、芝の第2分署に消防組6組、麹町の第3分署に消防組7組、本郷の第4分署に消防組5組、浅草の第5分署に消防組6組と水防組(吾妻橋組と千住大橋組)2組、深川の第6分署に消防組6組と水防組(新大橋組、両国橋組)2組、消防組は各組50人定員の合計40組2000人、水防組は各組30人定員の合計5組150人が配置された。また消防職員が6分署に合計司令13人、司令補24人が配置され消防組員および水防組員の指揮をする体制が組まれた。
ちなみに全国の江戸時代の町火消、若者組などは、明治維新後、消防組、消防社などに改称または新たに結成し独自に活動していたが、内務省が1894年(明治29年)2月“消防組規則”を制定、全国的な統一規則で活動させることにするにおよび、東京の消防組もその規則に基づき活動することとなる。
 
(出典:東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の消防百年の歩み>明治中期 52頁~55頁:消防水防規則の制定」、村山茂直著「明治大正の消防>第1章 明治大正の消防組織>第6節 警視庁の再設置 71頁~81頁:二 消防水防規則」。参照:2010年6月の周年災害「内務省警視局に消防本部創設され公設(常備)消防組織誕生」、2010年12月の周年災害「明治13年東京神田鍛冶町大火」、2011年1月の周年災害「明治14年東京神田松枝町の大火」、2011年2月の周年災害「東京神田柳町の大火」「東京四谷箪笥町の大火」)「東京府が初の防火地域指定“防火線路及屋上制限令”公布」、2014年1月の周年災害「内務省、東京警視庁創設次いで消防章程を制定」、2014年2月の周年災害「内務省、消防組規則を制定し全国的統一を図り、府県知事管轄下、警察の指揮下に置く」)

○政府、赤十字条約に調印、博愛社は社名を日本赤十字社に改称し国際赤十字へ加盟[改訂]
 1886年(明治19年)6月5日
 
この日、明治維新以降、積極的に近代化、国際化を進めていた明治政府は、万国赤十字条約(ジュネーブ条約)に調印して同条約加盟国となり、11月15日にはその旨を公布する。
 この条約は、1863年2月、アンリー・デュナンを中心とした5人の市民によって結成された負傷軍人救護国際常置委員会(5人委員会:現・赤十字国際委員会)が、戦争時の捕虜に対する扱いを人道的にする必要があるとして提唱、翌1864年8月22日、スイスのジュネーブで、戦場における傷病者の状態改善に関する赤十字条約としてヨーロッパ12か国の代表が参加し調印したもの。この条約により各国はそれぞれ自国に“赤十字社”を創設、3年後の1867年には、パリで加盟11か国が参加して第1回赤十字国際会議が開かれ、“国際赤十字運動”が始まる。
 日本では佐賀藩出身の佐野常民が、1867年(慶応3年)に開催されたパリ万国博覧会を見学、その際、会場に展示されていた、デュナンの提唱する国際赤十字運動に共鳴していた。明治維新後の1870年(明治3年)3月、常民は新政府に出仕、1872年(同5年)2月には博覧会御用掛に任命され、翌1873年5月から10月にかけて開催されたウィーン万国博覧会日本館の事務副総裁に就任、同年6月、岩倉使節団が博覧会見学に訪れた際、国際赤十字運動の展示を紹介した。同使節団はその足でスイスを訪問、大統領に謁見後、ジュネーブで5人委員会のモアニエ委員長と会談している。
 その後常民は、1877年(同10年)2月、西南戦争が勃発するや、国内でも赤十字精神に基づいた活動を起こそうと、直ちに親交のあった大給恒(おぎゅう・ゆずる)とともに、同年5月、直接戦場におもむき、政府軍征討総督(総司令官)有栖川宮に嘆願、救護所・博愛社を設立した。その後、博愛社では1882年(同15年)6月に開かれた社員総会で、国際赤十字に加入すること及び日本政府のジュネーブ条約加盟促進に関する決議が行われ、加盟2年前の1884年(同17年)12月には、同条約加盟に関する建議書を政府に提出するなど、加盟への働きを強めていた。
 この日政府は条約調印後、同年11月、加入について公布、博愛社はこれを機に翌1887年(同20年)5月の社員総会で、世界共通の名称とマークを採用することとし、社名を“日本赤十字社”と改称、直ちに万国中央社(赤十字国際委員会)へ国際的な公認を嘆願、同年9月には国際赤十字の一員とし公認されることになる。
 (出典:日本赤十字社編「人道-その歩み 日本赤十字社百年史・国際赤十字への加盟・ジュネーブ条約加入:76~79頁」、日本赤十字社編「赤十字について」、赤十字国際委員会編「赤十字国際委員会(ICRC)ニュースレター・第10号:2010年夏号 6頁:日本とICRCの関わり」、佐野常民記念館編「年表 常民の時代・五、近代国家への胎動」。参照:2017年5月の周年災害「佐野常民、博愛社設立-後年、日本赤十字社へ」)
 

○北里柴三郎、ペスト病原菌を発見、消毒とネズミの駆除が有効なことも見つける
1894年(明治27年)6月14日
日本細菌学の父と謳われている、北里柴三郎の数々の業績の内、世界的に最も著名なのがペスト菌の発見であろう。
 ペスト、14世紀中葉から末にかけてヨーロッパ全土で流行し、当時の人口の3分の1から2、およそ2000万人から3000万人が死亡し“黒死病”と怖れられ、大パンデミックを引き起こした感染症である。
 
1894年(明治27年)の初夏、当時、満州族の清王朝が支配していた中国南部の広州一円で、100年ぶりにペストが流行し始め、やがてイギリス統治下の香港にも広がり大流行し“病院から中国人の医科大学生さえ逃亡するほど”混乱を極めていたという。日本政府は日清貿易の中継点で交流の盛んな香港での大流行の状況から、神戸や横浜からペスト菌が侵入することを警戒し、当地へ北里以下6人の調査団を派遣した。一行は6月5日横浜港を出港、12日香港に到着した。
 調査団を迎えた香港政庁の医官が、香港を“混乱の極み”と評したJ.ブラウンだったが、協力的で感染症専門病院の片隅の小屋を解剖室に提供した。しかし環境が劣悪なうえ、中国人にとって死体の切断は死亡者への冒涜ととらえていたので極秘に行われたという。そしてこの日病理解剖が行われ、内臓や組織などの病理標本は別室の北里のもとへ運ばれたが、死後11時間も経って腐敗が進行しさまざまな微生物が分布していたという。
 しかし北里は、ペストが炭疽症と病理所見が類似している点に着目、炭疽菌診断と同じ方法で、患者の血液を顕微鏡でのぞくことにし特徴的な形の細菌を見つけたという。この成果は恩師である細菌学の父ロベルト・コッホが確立した四原則の方法で6月18日にペスト菌と確定され、翌19日には所管の内務省へ報告、その内容は7月31日と8月1日付官報に掲載された。また7月7日にはかつて在籍したコッホ研究所へ論文と発見した菌株を発送、同所ではその菌株を培養しペスト菌と確認。また、論文の内容は速報としてイギリスの医学専門誌の8月11日号に掲載され、世界中に知れ渡った。
 ところが調査団員の中から2名がペストに感染し、北里を後援している福沢諭吉から直接帰国要請の電報が届いたが、北里はそれに応じることなくペスト対策に活用するため病原菌の性質を調べ、一般的な消毒法でも容易に死滅することも発見。また患者の家から大量のネズミの死骸が見つかったので、死にかかっているネズミを捕獲して採血、調べてみると血液中から同じペスト菌が発見された。そこでこの結果を香港政庁に伝えると、さっそくネズミの駆除と家屋や土壌の消毒が実施され、香港のペストは急速に終息へと向かい、6月に115人だった新患者が10月には1人となり終わった。北里ら調査団の活躍は病原菌を発見するだけでなく流行も終息させることに成功した。しかし調査団の助手を務めていた現地の日本人中原医師が感染死亡している。
 北里のペスト菌発見の報道は世界中に広まったが、果たして最初なのかどうか論争が起きた。フランス政府とパスツール研究所の要請を受けたフランスの細菌学者エルサンが、同じ香港で北里に遅れること約1週間後おなじペスト菌を発見していたのだ。3年後の1897年に開催された万国衛生会議ではそれぞれ報告がなされ、2人が共に発見者とされ“キタサト・エルサン菌”と呼ばれたが、1967年発行の国際微生物学協会連合の機関誌には、学名として“エルシニア・ペスティス”とエルサンの名前だけが残っていた。これは北里がペスト病原菌をグラム陽性菌としたのに対しエルサンがグラム陰性菌としたことに原因があり、後に北里の教え子の緒方正規が陰性菌であることを証明、北里もそれを確認したからという。といっても北里が最初にペスト病原菌を最初に発見したことには変わりがないとして、論争が続いた。
 このいきさつを知ったアメリカ・カリフォルニアの2人の研究者が、関係する論文や記録などを当時の研究環境も含めて調査、その結果を1976年アメリカ微生物学会の機関誌に発表、北里にも発見者としての栄誉を与えるべきだと主張。永年の論争に終始符を打っている。
 ちなみに北里がペスト菌を発見し媒介者としてネズミを指摘した3年後、緒方正紀が、ネズミにたかった“ノミ”からペスト菌を確認し、ネズミは宿主でノミがペストを媒介することを証明した。一方その2年後の1899年(明治32年)日本国内でペストが初めて大流行し234人発症201人が死亡しているが、翌1900年(同33年)より東京市では防疫のためネズミを1匹5銭で買い上げる作戦を実行、感染者を出さないことに成功した。その後1905年(同38年)から1909年(同42年)の5年間、最大の流行期を迎えたが、行政機関によるネズミ駆除作戦が功を奏し、全国発症者を5年間で2162人と年間500人以下に押さえ込むことに成功、1931年(昭和6年)以降、国内でのペスト菌による発症者はおらず根絶された。現代ではワクチンの接種や抗生物質による治療が有効とされている。
(出典:国立国会図書館デジタルコレクション・官報「明治27年7月31日・3326号>衛生 367頁~368頁(コマ番号4):ペスト病調査復命書 北里柴三郎」、同コレクション・官報「同年8月1日・3327号>衛生 5頁~7頁(コマ番号3):ペスト病調査復命書(続き)」、TERUMO編「医療の挑戦者たち32>ペスト菌の発見① 一億人以上の命を奪った、ペストの恐怖」、同編「同33>ペスト菌の発見② 一八九四年六月一四日、世界の運命が変わった」、同編「同34>ペスト菌の発見③ ペスト菌発見者は、日本人か、フランス人か」、同編「同35>ペスト菌の発見④ 日本人の歴史的偉業、知られざる真実」、竹田美文著「明治・大正・昭和の細菌学者達[3]北里柴三郎-その2」、モダンメヂア2010年2月号・加藤茂孝著「人類と感染症との闘い・第4回「ペスト」-中世ヨーロッパを揺るがせた大災禍」。参照:2017年10月の周年災害「ペスト、侵入以来最大の流行年」。参照:2017年5月の周年災害「緒方正紀ノミがペストを媒介することを証明」、2017年10月の周年災害「ペスト、侵入以来最大の流行年、阪神地区に患者集中」)

明治27年東京地震、東京湾沿岸の低地に被害集中、煙突の倒壊多く「煙突地震」の異名が
 1894年(明治27年)6月20日
 午後2時4分ごろ、東京府(現・都)東京湾北部湾岸地域を震源とするマゴニチュード7の地震が発生した。
 有感地震の地域は、北が青森県から中国、四国地方に及ぶ広いもので、東京市(現23区)の下町および横浜市、橘樹郡(現・川崎市及び横浜市の一部)で被害が大きく、東京では家屋の全半壊が神田、本所、深川に多く、破損家屋は日本橋、京橋、深川、麹町、芝に多かった。被災地全体で31人死亡、197人負傷、家屋・土蔵全半壊143棟、同破損8411棟、地盤亀裂557か所。特にレンガ造建築物の被害が多く、官公署や政府高官の邸宅、工場などの倒壊が多発、中でも煙突の倒壊が570本それも麹町の中央官庁などでは149本倒壊206本が亀裂したので“煙突地震”の異名がつけられたという。
(出典:宇佐美龍夫著「最新版日本被害地震総覧>4.被害地震各論 220頁~221頁:308 1894 Ⅵ 20(明治27)」、小倉一徳編、力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歷史>3.明治・大正時代の災害>明治時代の主要災害一覧 130頁:明治27.6.20・東京地方地震」)

明治35年コレラ、九州・関西地方を3系統から侵入し席巻
 1902年(明治35年)6月5日

 
6月5日、突然佐賀県唐津港にコレラ菌侵入、長崎、門司からも侵入し九州から関西地方を席巻した。
 流行は当初、佐賀県と福岡県、長崎県で拡大、ついで九州全域から四国、中国、近畿地方に拡大した。ところが中部地方より東では大きな発生はなく、コレラ菌に汚染された定期船が佐渡島小木港に入港し、同町で15人が発症し内5人が死亡したという。そのほか東京府、神奈川県、北海道で少数発生している。
 この年の特徴は海外からのコレラ菌の侵入が一つではなく大きく四系統あることで、唐津系統は香港及び上海から侵入し6月5日に初の患者を発生させて佐賀県と福岡県に拡大、長崎系統は旅順(中国東北地方遼東半島)から侵入し7月7日に初の患者を発生させて九州各地に拡大、門司系統は先方不明だが6月中に初の患者を発生させて関西各地に拡大、第4系統の沖縄県は台湾、北海道はロシアからと推定されている。東京府と神奈川県は不明だが検疫を逃れた海外からのビジネスマンか。この年の全国患者数1万3362人、死亡者9226人、死亡率69 %。
 
(出典:山本俊一著「日本コレラ史>Ⅰ 発生および対策編>第6章 条約改正前後 109頁~115頁:第2節 明治三五年、内務省衛生局編「法定伝染病統計 6頁~7頁:第3表「コレラ」月別累年比較」)

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(2021.1.5.更新)

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