【目 次】

・藤原仲麻呂、飢饉対策として米価を調節する常平倉を設ける-後世実施され高い評価が(1260年前)[改訂]

・建保から承久へ改元、激しいひでりと鎌倉、京都の火災による(800年前)[改訂]

・応仁から文明へ改元、応仁の乱起きる(550年前)[再録]

・京都長享3年上京の大火、公卿屋敷多く焼ける(530年前)[再録]

・寛政11年加賀地震、7600軒余が全、半壊(220年前)[再録]

・山形文政2年の大火「和右衛門火事」城下の約3分の1が焼失か(200年前)[改訂]

・青森安政6年の大火、町の9割以上が焼ける“前代未聞之大変”(160年前)[再録]

・明治2年東日本など冷害で凶作が3年も続き、新政府の備荒米も枯渇、各地で農民一揆起こる(150年前)[再録]

・内務省、急きょ初の感染症予防法規:虎列刺(コレラ)病予防仮規則を布告
-しかし、防疫対策の限界がコレラ一揆起こす(140年前)[改訂]

・明治32年筑豊炭田豊国炭坑で筑豊初のガス爆発事故、乳児も犠牲に(120年前)[改訂]

・警視庁、制札例文例で統一道路標識を管内に通達、交通関係統一法令の原典に、後に法的裏付けも(120年前)[改訂]

・昭和4年北海道駒ヶ岳噴火、20世紀国内での最大級の大噴火(90年前)[改訂]

・昭和14年西日本大干ばつ-水稲の直播栽培始まる(80年前)[再録]

・水防法公布、水害予防制度に統一性与え役割分担明確化-近年、関係者個人への役割期待崩壊(70年前)[追補]

・昭和24年台風第2号「デラ台風」定期旅客船青葉丸沈没など多数の船舶が犠牲、無線装備なき悲劇(70年前)[改訂]

・沖縄、宮森小学校ジェット戦闘機墜落事件、今もなお危険なくならず(60年前)[改訂]

・昭和44年梅雨前線豪雨、特に南九州シラス地域に被害(50年前)[改訂]

・北陸電力志賀原子力発電所、事故隠し事件。安全性神話の崩壊をおそれ逆に不信感増大(20年前)[改訂]

・平成11年梅雨前線豪雨、博多駅前地下街浸水事故-「水防法」改正へ(20年前)[改訂]

【本 文】

○藤原仲麻呂、飢饉対策として米価を調節する常平倉を設ける-後世実施され高い評価が(1260年前)[改訂]
 759年6月12日(天平宝字3年5月9日)
 737年5月から9月(天平9年3月~8月)にかけて、平城京(現・奈良市)に侵入した天然痘によって、時の政治権力を掌握していた藤原家の武智麻呂(むちまろ)以下、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂の4兄弟が死亡した。
 兄たちを全員失った光明皇后は、その7年前に怪我や病気で苦しむ人たちを救う官営の施薬院を開設するなど、聖武天皇の皇后として仏教の教えに従った“大仏建立”など数々の事業を進めていたが、4兄弟の政治的な後継者として長兄武智麻呂の子、仲麻呂の後ろ盾となった。
 749年8月19日(天平感宝元年7月2日:天平勝宝と改元)、息女の阿倍内親王(孝謙天皇)が即位されると、その後見をになう光明皇太后は、紫微中台(しびちゅうだい)を設け、その長官(紫微令)に仲麻呂を就任させると共に大納言に昇進もさせた。これにより仲麻呂は政治と軍事の実権を握り、藤原4兄弟の後、政権の中枢をになった橘諸兄(たちばなのもろえ)を圧倒、757年7月(天平勝宝9年6月)には諸兄の子、奈良麻呂のクーデターを潰し、758年10月(天平宝字2年8月)には、藤原恵美朝臣の名を賜り恵美押勝と名乗るなど、位人臣を極めた。
 その間、仲麻呂はその儒教思想から唐(現・中国)の進んだ国内政策を採用、758年2月(天平宝字2年1月)には“巡問民苦(民の苦しみを問う)”ことを目的とした臨時の地方監察官「問民苦使」を置き国内八道各地へ派遣した。
 そして同年10月(旧暦・9月)には、西海道(九州とその周辺の島々)に派遣された藤原楓麻呂が、視察先で聴取した29件に及ぶ住民の疾苦(困っていること)を採り上げ、当地の統治組織である太宰府で解決させた。また、東海道及び東山道など東国に派遣された藤原浄弁が聴取した毛野川(鬼怒川)の治水工事は、7年後の768年10月(神護景雲2年8月)着工している。
 本題の常平倉の設置は、この日の次の詔(天皇の命令)によって実施された。
 “頃聞。至于三冬間。市辺多餓人(昨年冬の10月以来、都のマーケット街の辺りで飢えている人が多いとの報告を受けた)。尋問其由。皆云。諸国調脚不得還郷。或因病憂苦。或無糧飢寒(その理由を問うと、諸国から税物を運び収めにきた人々が、上京時の旅費の負担は出来たが、帰国時の旅費までは不可能なので郷里に帰ることが出来ず、病気になり憂い苦しんでいるか、あるいは食べ物がなく飢えて凍えているかです。と、皆が報告している)。朕窃念茲(私はこのことについて考え)(中略)宜随国大小。割出公廨。以為常平倉。逐時貴賤。糴糶取利。普救還脚飢苦(国の大小に従って貯蔵稲を割り当てて拠出させ、常平倉を設け、穀物の価格の変動に従って売買して利益を出し、帰国する人々の飢えの苦しみを救いなさい)。(中略)其東海。東山。北陸三道。左平凖署掌之(左平準署は東海、東山、北陸三道の東国地方を管轄し)。山陰。山陽。南海。西海四道。右平凖署掌之(右平準署は山陰、山陽、南海、西海四道の西国地方を管轄しなさい)。
 この詔書は時の淳仁天皇が下したものだが、企画し実際に推進したのは仲麻呂(恵美押勝)で、常平倉の目的と機能は、供給をコントロールして米価を調節することににあった。つまり、米が豊富に出回っているときは官(朝廷)で安く買い入れ、逆にとぼしい時には、仕入れ値よりも高いが市場価格より安い価格で売り払い、官が利益を得ると同時に、市場価格を下げ、米価の急激な変動、特に値上げを抑えようとするところあり、そのための米の貯蔵庫が常平倉で実務を行う役所が平準署であった。
 光明皇太后崩御後の764年10月(天平宝字8年9月)、仲麻呂は僧・道鏡との政争からクーデターを起こそうとして露見し敗死したが、常平倉設置後14年経った773年4月(宝亀4年3月)“天下穀価騰貴。百姓飢急(米価が急騰し人々が買うことが出来ず飢餓が始まる危険)”とされた時、“常平之義。古之善政。養民救急(常平倉は古きからある善き政策である。これにて民の危急を救おう)と朝廷で決定され、貧しい人々に米を安く売ることが出来たという。
 また江戸時代になり、儒学者・貝原益軒は“米、甚だ安ければ士農のため悪しく、甚だ貴(高)ければ工商苦しむ、貴(高)きと賎(安)きとは其の害同じ、この故に、常平倉の法を行えば、この害なくして、四民(すべての人々)とも困窮に至らず”とし、同じく太宰春台は、常平倉を領地に設置して米を貯蔵しておけば米価の変動を少なくできると同時に、干ばつや洪水などによる飢饉など不慮の災変に対処できると、高く評価している。
 ただし、実際に常平倉を設置した藩が少なかったのは、ばく大な財力が必要なこと、ほかに米価調節の政策をとっていたこと、飢餓対策としては社倉、義倉などで米を貯蔵するなど別の飢饉対策を行っていたことなどがあったからとされている。
 (出典:国史大辞典編集委員会編「国史大辞典第7巻・463頁:平準署」、同編「同書同巻・610頁~611頁:常平倉」、国立国会図書館デジタルコレクション「国史大系,第2巻・続日本記>巻17・286頁~288頁(149コマ):秋七月甲午。皇太子即位と仲麻呂大納言就任」[追加]、同コレクション「同書>巻21・356頁(184コマ):天平宝于二年八月甲子。恵美押勝の名を賜う」[追加]、同コレクション「同書>巻20・343頁(177コマ):天平宝字二年春正月戊寅詔曰:巡問民苦」[改訂]、同コレクション「同書>巻21・358頁(185コマ):天平宝于二年九月壬申。藤原楓麻呂等採訪民之疾苦廿九件」[改訂]、同コレクション「同書>巻29・495頁~496頁(253コマ):神後景雲二年八月庚申(中略)藤原浄弁等。具注応堀防毛野川之状申官」[改訂]、同コレクション「同書>巻22・365頁~366頁(188コマ):天平宝字三年五月甲戌。勅曰:頃聞。至于三冬間。市辺多飢人(中略)以為常平倉」[改訂]、同コレクション「同書>巻32・568頁(290コマ):宝亀四年三月己丑。天下穀價(価)騰貴」[改訂]、日本全史編集委員会編「日本全史>奈良時代>750-759(天平勝宝2-天平宝字3)130頁:橘奈良麻呂らのクーデター計画が発覚、拷問による死者続出」、同編「同書、同時代>760-769(天平宝字4-神護景雲3)131頁:藤原仲麻呂が太師に就任、唐の制度を直輸入」、同編「同書、同時代>132頁:道鏡の排除に失敗、藤原仲麻呂が反乱起こす」。参照:2017年5月の周年災害「天然痘、平城京のみならず全国的に大流行、遣新羅使帰国に関係か-藤原政権倒れ、租税免除、防人制度も停止に」[改訂]、2020年5月の周年災害「光明皇后が施薬院を置く、怪我や病気で苦しむ貧しい人々のために」[改訂]、2018年10月の周年災害「下総国、毛野川(鬼怒川)の新河道の開削の陳情ふたたび、ついに治水工事始まる」[追加]、4月の周年災害・追補版(4)「太政官、長年の干ばつや台風などの気象災害によって米価高騰し常平法(倉)制定」[追加])

建保から承久へ改元、激しいひでりと鎌倉、京都の火災による(800年前)[再録]
 1219年6月3日(建保7年4月12日)
 
炎旱(激しいひでり)、火災により改元とある。
 炎旱に対する対策の記録に、改元前の建保7年5月30日(旧暦4月8日)、前権僧正(前の僧正第4位)成實が、朝廷が雨乞いを行う神泉苑で、請雨経法の祈祷を行ったところ、雨が降った“於神泉苑修請雨経法、修中雨降「仁和寺御日次記」”という記事と、改元後の6月7日(旧・4月16日)早朝、心地よく雨が降り、万人が喜んだ“自今暁雨脚快澤(沢)。万人悦豫(予)「百錬抄」”という記事があり、ひでりが続いていたことは間違いなさそうだ。
 火災の方はというと、京都では改元前の4月8日(旧・閏2月15日)長谷寺が全焼、5月23日(旧・4月1日)早朝、尊勝寺堂塔焼失との話あり、翌24日(旧・4月2日)午刻(午前12時ごろ)近衛町辺りから出火して鷹司室町邸、関白土御門邸以下公卿の邸宅の多くが全焼。法成寺、円勝寺、金剛勝院などの寺々が全焼するなど大火災が起きた。
 一方、武家政権(幕府)の首都鎌倉では、年が明けた1月31日(旧・1月7日)、将軍の御所近くに住む前大膳大夫・大江広元邸など40余軒が焼け、2月8日(旧・1月15日)には、大倉周辺の火災で、相州・北条時房の室(妻)の邸宅など数十軒が焼失した。また、3月9日(旧・2月14日)には、こともあろうに将軍の政所(幕府の政庁)が全焼し、その上、17日前の2月20日(旧・1月27日)には、将軍源実朝が八幡宮の社頭で同宮の別当阿闍梨・公暁(実朝の甥)に暗殺されている。不吉なり。
 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション・塙保己一編・続群書類従.第29緝ノ下 雑部「仁和寺御日次記 341頁(174コマ):承久元年四月八日」[追加]、同コレクション・国史大系.第14巻「百練抄 第12>順徳天皇 202頁(109コマ):承久元年閏二月十五日癸巳、四月一日丙寅、二日丁卯」[追加]、「同書>順徳天皇 202頁~203頁(109コマ):承久元年四月十六日辛巳」[追加]、同コレクション・吾妻鏡:吉川本 第1-3吉川本 中巻「吾妻鏡 巻22>承久元年正月 134頁(74コマ):建保七年正月七日甲戊、十五日丙子」[追加]、「同書>承久元年正月 140頁(77コマ):建保七年二月十四日丑刻」[追加]、「同書>承久元年正月 136頁(74コマ):建保七年正月廿七日甲午、及夜陰神拝事終、………」[追加]、池田正一郎著「日本災変通志>中世 鎌倉時代 205頁:承久元年」)

○応仁から文明へ改元、応仁の乱起きる(550年前)[再録]
 1469年6月17日(応仁3年4月28日)
 戦乱により改元。
 足利将軍家と有力守護大名の家督争いを直接のきっかけに、1467年7月(応仁元年5月)以降、国内の諸勢力を東西に二分して戦乱に巻き込んだ応仁の乱。その戦禍から逃れるため改元したが、乱そのものもその後10年ほど続き、以後、100年間に及ぶ戦国時代に突入する。
 (出典:池田正一郎著「日本災変通志>中世 戦国時代 293頁:文明元年」、日本全史編集委員会編「日本全史>室町・戦国時代>1465-69(寛正6-文明1)355頁:畠山義就、上御霊社に政長を攻撃、応仁の乱はじまる。参照:2017年7月の周年災害「応仁の乱はじまる。11年にわたる戦乱で京市中灰燼(じん)に帰す」[改訂])

○京都長享3年上京の大火、公卿屋敷多く焼ける(530年前)[再録]
 1489年6月15日(長享3年5月8日)
 夜半、皇居、行政機関、公家屋敷などが集中している京都の上京が大火となった。
 出火したのは子の刻(午前0時ごろ)で、暁天(明け方)には鎮火した。焼失したのは西大路から南、室町から西、北小路から北で、西は白雲之西小路までの範囲。2000戸余りの家が焼失したが、公家屋敷では権大納言(松木)宗綱卿邸、権中納言入道飛鳥井宗世邸、右兵衛督(西洞院)時顕邸が全焼。冷泉前大納言為富邸、姉小路宰相邸、伯三位邸、大外記師富朝臣邸などが半焼した。そのほか近衛邸、左府(左大臣)(徳大寺)實淳邸、勧修寺大納言邸も焼けている。
 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション「史料大成.続編 第42>宣胤卿記 1>(長享)三年春>五月242頁:八日乙丑」[改訂])

寛政11年加賀地震、7600軒余が全、半壊(220年前)[再録]
 1799年6月29日(寛政11年5月26日)
 申刻(午後4時)過ぎ、加賀国北部(石川県)一帯にマグニチュード6.0以上の地震が起こり、金沢城下の野田山、卯辰山を中心に近郊に被害が起きた。
 被害は金沢城下で多く、家屋の倒潰26軒、同損潰4169軒、土蔵全潰3棟、同損潰989棟、城の石垣のはらみ22か所、同崩壊6か所。当時の能美、石川、河北郡では、家屋の倒潰964軒、同損潰1003軒、土蔵倒潰1棟、同損潰7棟、21人死亡。河北潟と日本海に挟まれた宮坂(現・内灘町)で家屋11軒のうち9軒が倒潰、同潟南西端の粟崎で家屋の全潰3軒、土蔵半潰16棟、犀川河口の港、宮腰で家屋全潰28軒、同半潰61軒、損潰(大損)325軒など。合計して家屋倒潰(含む全潰)1030軒、同損潰(含半潰)5558軒、土蔵倒潰4棟、同損潰(含む半潰)1012棟。21人死亡の被害が出た。
 (出典:宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧>4 被害地震各論 126頁:218・1799 Ⅵ 29」)

○山形文政2年の大火「和右衛門火事」城下の約3分の1が焼失か(200年前)[改訂]
 1819年6月19日(文政2年閏4月27日)

 夜、四つ時(午後10時ごろ)、山形城下七日町の足利屋和右衛門宅から出火した。
 七日町、旅篭町から六日町、鍛治町、宮町まで延焼した。各町の被害で全焼したのは、火元の七日町から旅篭町、六日町をはじめ、長源寺町、圓応寺町、新鍛冶町、鍛冶町、四日町、百姓町の9か町、半焼で済んだのは檜物町、横町、薬師町、宮町、小橋町、一卜町、歩町の7か町で、合計1000軒余が焼失した。類焼した寺院は、長源寺、極楽寺、行蔵院、天然寺、柏山寺、浄興寺、圓照寺、石泉寺の8か寺。
 180年ほど前の正保元年(1644年)の城下の戸数が3008軒と記録されており、江戸時代、人口がほとんど変動していないので、城下の約3分の1が焼失したとみられる。出火元をとって和右衛門火事という。
 (出典:山形市編「山形市史 史料編 3 事林日記 下>文政2年 9頁:23 卯閏4月廿七日夜四つ時出火」、山形市編「山形市史>1.年表 95頁~96頁:一八一九」)

青森安政6年の大火、町の9割以上が焼ける“前代未聞之大変”(160年前)[再録]
 1859年6月21日(安政6年5月21日)
 中浜町の鎌田屋佐次兵衛方から出火した。この日は激しい東風が吹いており、吹き上げた炎はそれに乗って勢いを増し、その後の乱風は各所へ飛び火を散らし延焼範囲を広げた。
 焼失した地域は大町、米町、浜町、新町、安方町、寺町、柳町から鍛冶町までに及び、青森町奉行所をはじめ湊役所、町名主が詰め町政事務を執った名主会所、住民に掟や条令などを知らせる制札場など行政の中心的な建物などが焼けている。そのほか寺では正覚寺、願昌寺など焼失。
 町奉行所の公式な調査によると、家屋焼失932軒余、その内、家持(自家)712軒、借家220軒余、土蔵28棟、新町にある弘前藩の御蔵9棟となっているが、そのほかに隠れ借家(無届けの貸家)の焼失が900軒ほどあり、それらを加え1800軒余が焼失したという。これは5年後の1864年(元治元年)の戸数が1985軒であるところから、町の9割以上が灰となったと推定されている。
 (出典:内閣府編・中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会報告書「1976酒田大火>第2編 前近代における北部日本海域の大火>第1章 青森県域>2 青森町における主な大火の実態と特徴 31頁~33頁:(4) 安政6(1859)年の大火」)

○明治2年東日本など冷害で凶作が3年も続き、新政府の備荒米も枯渇、各地で農民一揆起こる(150年前)[再録]
 1869年6月~9月(明治2年5月~8月)
 3年前の1866年(慶応2年)、東国の冷害や全国的な風水害などから始まった凶作は、翌67年(同3年)の干ばつ、この年前年の長雨などで回復せず、慶応大凶作と呼ばれる状況となり、特に東国の飢饉と都市部の米価暴騰などにより、江戸時代最大件数の全国的な民衆の蜂起を招き、ついに江戸幕府264年の幕は閉じた。
 ところが明治維新なって2年目のこの年も、昨年の長雨に続く夏期の寒さと長雨で、北海道、東北地方のほか、茨城、石川、福井、長野、島根、愛媛、福岡、佐賀などの各地も不作となった。特にまたもやというか、秋になると東北から関東にかけて飢饉となり餓死者が多く出た。
 ところが、打ち続く凶作によって、新政府も含めて全国的に凶作に備える備荒米は底をつき、6月(旧歴・5月)には飛騨(岐阜県)高山で農民一揆が起こった。やむを得ず、9月30日(旧・8月25日)、新政府は明治天皇の“節倹救恤(節約して困窮者の救助に当てる)”の詔書(天皇からの公的指示)を下し、10月23日(旧・9月19日)には米穀の藩外(県外)持ち出しを禁止した。しかしその後も、10月(旧・9月)には信州(長野県)上田と美濃(岐阜県)で、11月(旧・10月)には上州(群馬県)、12月(旧・11月)には伊勢(三重県)で農民一揆が頻発した。
 (出典:小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>2 近世の災害>江戸時代の主要災害一覧 112頁:慶応2~4 全国的飢饉」、同編「同書>同章>3 明治・大正時代の災害>明治時代の主要災害一覧 121頁:明治2.5~8 北海道・東北・九州等凶作」、奥田穣編「日本の冷害>第2章 凶作史の教えるもの>第2節 明治以降の凶例とその影響 24頁~25頁:A 明治初年の大凶冷とその影響」。参照:2016年12月の周年災害「物価騰貴と慶応大凶作」)

○内務省、急きょ初の感染症予防法規:虎列刺(コレラ)病予防仮規則を布告
 -しかし、防疫対策の限界がコレラ一揆起こす(140年前)[改訂]

1879年(明治12年)6月27日
 3月14日、愛媛県で突然発生したコレラが、前月には西日本一帯に拡大し、この月に入り東日本に波及するなど、全国的に流行しはじめていた。
 内務省衛生局(現・厚生労働省)では、1876年(明治9年)5月、わが国古来の感染症で国民病ともいうべき“天然痘”に対する予防法「天然痘予防規則」を布達し、翌77年(同10年)8月には、19年ぶりの国内大流行を察知して「虎列刺(コレラ)病予防法心得」を布告していた。しかし明治維新以降、諸外国との海運が発達し、国内の陸路も72年10月(同5年9月)の東京-横浜間の鉄道開通以来、77年(同10年)には京都-神戸間が開通するなど、人、物の交流がますます増えていた。これは政府の掲げる“富国強兵”“殖産興業(産業、資本主義の育成)”のためには、喜ぶべきことだが、反面、感染症の国内侵入、拡大の危険を増すことでもあった。
 そこで同省では、それまでの個別的な感染症対策ではなく、総合的な「伝染病(感染症)予防規則」を制定する必要を感じ、これを起草して各関係官庁の官吏を集めて検討、この年の1月には原案を作成、太政官(内閣)に上申していたが、まだその発令を見ないうちにコレラが発生、全国に広まりつつあった。そこで、急きょ同予防規則の内からコレラに関する部分を抜粋、とりあえず「虎列刺(コレラ)予防仮規則」として施行するよう太政官に上申した。同官も緊急性を認めたので、6月17日には内務省衛生局報告「虎列刺(コレラ)病予防および消毒法心得」を発表、この日、日本で始めての感染症に関する予防法規として同仮規則を、太政官布告第23号として布告し、防疫に乗り出した。
 またこの予防法規はあくまでも緊急的な仮規則であったので、この日から2か月後の8月25日に、太政官布告第32号として改正されているが、この仮規則において感染症予防上の基本項目は、次のようにすでに整理されていたので細目の修正にとどまった。1.患者の届け出、1.検疫委員の制度、1.避病院(感染者隔離の専用病院)の設備。また感染を防ぐ方法として、1.交通遮断、1.物件の移動禁止、1.清潔方法、消毒方法の施行、1.死体の処理。である。
 ところが防疫対策として当時は、対処的な消毒か患者や使用した物件などを隔離する方法しか無かったので、官憲がむりやり魚介類や青果物の販売を禁止したり、患者を避病院に収容しようとしたことがあり、庶民はこれに反抗、7月から9月にかけて新潟県、愛知県を中心に、コレラ予防反対、避病院設置反対や、流言による医師、警官への暴行など24件にのぼる“コレラ一揆”が起きた。
 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション「法令全書.明治12年>太政官布告 49頁~52頁(54コマ):第23号(別冊)虎列刺病予防仮規則」、山本俊一著「日本コレラ史>Ⅱ 防疫編>第1章 法令>第2節 コレラ病予防仮規則 258頁~269頁」、日本全史編集委員会編「日本全史>明治時代 933頁:コレラ予防に新法、対策うらめに、コレラ一揆起こる」。参照:2016年5月の周年災害〈上巻〉「内務省、天然痘予防規則布達」[改訂]、2017年8月の周年災害「内務省、虎列刺病予防法心得公布」、2019年3月の周年災害「明治12年、コレラ史上最大級の流行始まる」[改訂])

○明治32年筑豊炭田豊国炭坑で筑豊初のガス爆発事故、乳児も犠牲に(120年前)[改訂]
 1899年(明治32年)6月15日
 真夜中の午前零時15分過ぎ、福岡県糸田村(現・糸田町)の筑豊炭田豊国炭坑第二坑約670m地下でガス爆発が発生し、轟音とともに坑口や排気口から濃煙が吹き出した。
 事故原因は、鉱山監督署など当局の原因究明によると、炭鉱夫の持つカンテラの火が炭じんに引火したものとされ、以降、カンテラに代わって安全灯が使われるようになったが、当時の筑豊炭田では、災害として多く恐れられていたのは水害や坑内火災で、ガス爆発に関しては全く無防備であった。そのため救助に駆けつけた同坑事務方の役員や社員など過半数の人々が、坑口付近で次々とガスにやられて昏倒、用をなさなかったという。
 また、犠牲者が213人にも達したのは、事故が起きた時間帯が、ちょうど二番方と一番方の交替時間で、いつもであれば、とうに二番方の昇坑は終えたところであったが、この日が勘定日(給料日)であったために、少しでもこの日の勘定を増やそうと坑内で残業をし事故に遭った。助かったのは坑口近くで作業をしていた数人のみという。
 また、悲惨なのは、未成年の少年坑夫や乳幼児がいたことで、犠牲者のうち15歳以下10歳までが8人、10歳以下が6人と、深夜の坑道の中、父母とともに労働をし、傍らで寝息をたてている時に、不意のガス爆発に襲われた。これは“納屋制度”と呼ばれた当時の炭鉱の雇用制度に原因があり、炭鉱の事業主は納屋頭を雇い、同人が坑夫の募集から労務管理まで行っていた。貧しい農民たちは、納屋と呼ばれた住居もあるということで、家族ぐるみの雇用に応じ、少しでも働くことが出来る子供たちは、父母を坑内で助け、多くの乳児たちは坑道内で保育されていたからである。納屋で留守居をしていた足腰の立たない老人や幼児たちが独り残されてしまった。
 この大事故の2年前の1897年(明治30年)4月、三菱高島炭鉱では坑内の漏水防止を要求して坑夫たちがわが国初のストライキを行い、同炭鉱を経営する三菱合資会社はこの納屋制度を廃止したが、他の炭鉱会社が廃止に踏み切り、労働者の雇用と管理を直接行うようになったのは、大正から昭和初期にかけての1920年代という。
 (出典:糸田町史編集委員会編「糸田町史>第4編 郷土のくらし>第2章 災害>第2節 炭坑災害>2 豊国炭坑災害 886頁~887頁:1 明治三十二年の爆発」、永末十四雄著「筑豊/石炭の地域史>第3章 産業資本の制覇>3 災害の年譜 116頁~117頁:豊国炭坑ガス爆裂」、山本作兵衛著「炭鉱の記録画解説文>納屋組頭と人繰り・取締り」[追加]。参照:2017年4月の周年災害〈上巻〉「長崎県三菱高島炭坑瑞島坑で坑夫が坑内の漏水防止を要求しわが国初のストライキ-納屋頭請負制度廃止へ」[追加])

○警視庁、制札制文例で統一道路標識を管内に通達、交通関係統一法令の原典に、後に法的裏付けも(120年前)[改訂]
 1899年(明治32年)6月
 制札とは、寺社の境内や市場の中、繁華街の辻など多くの人が集まる場所に建てられた木製の立て札で、奈良時代末ごろから、主に行政側から民衆に禁止事項や伝達事項を知らせるため使われ、中には屋根付きで固定した場所に作られた物もあり“高札”とも呼ばれた。
 道路標識に使われた制札は、上部が三角形の屋根を模した木片をつけた簡単な立て札で、中央に墨書きで大きく太く“通行止”とか“荷車止”とか書き、交通上の禁止事項を知らせるため、明治時代初期から警察署などが使用していた。ところが郊外の警察署でも、道路の交通量や車の種類が増えると、各署管内ごとにそれぞれに作成し出したので、様式もまちまちになり、その意味も統一されておらず、かえって通行する人たちに混乱を与える結果になっていた。
 そこで警視庁ではこの傾向を改めるため、この月、8種類の様式に統一した「制札制文例(制札に記す禁止事項の文例)」を制定し、各警察署長に通達した。これは、当時の東京府下に限定されていたとはいえ、道路標識に関する最初のマニュアルで、交通関係統一法令の原典となったという。
 また9年後の1908年(明治41年)9月、内務省はこれら交通に関する制札などに対する処罰規定「警察犯処罰令」を定め、その第2条で“三十日未満の拘留マタハ二十円未満ノ科料(罰金)ニ処ス”と罰則を定め、事例としてその26号で“官公署ノ榜示(掲示)、若ハ官公署ノ指揮ニ依リ榜示セル標条(標識)ヲ犯シ又はソノ設置ニ係ル標条ヲ汚涜シ若ハ撤去シタル者”をあげ、制札は新たに“傍標”と呼ばれ、その掲示に関して法的に裏付けをした。
 (出典:道路交通問題研究会編「道路交通政策史概観 論述編>第1編 前史>第3章 道路交通事故・公害とその対策>第3 明治後期における交通事故と防止対策>(2) 交通事故防止対策>③ 制札・傍標」、道路交通問題研究会編「道路交通政策史概観 資料編>第10 交通規制・管制関係>道路標識等の沿革 541頁:2 明治期、544頁:図1 制札の様式例・明治32年6月」、国立国会図書館デジタルコレクション「法例全書 明治41年>省令 317頁~319頁(209コマ):警察犯処罰令>第2条、26号」[追加])

昭和4年北海道駒ヶ岳噴火、20世紀国内での最大級の大噴火(90年前)[改訂]
 1929年(昭和4年)6月17日
 この日の噴火は、1914年(大正3年)1月に起きた桜島の大正噴火とならぶ、20世紀に国内で起きた噴火の中では最大級のもので、安政3年(1856年)以来73年ぶりの大噴火だった。
 駒ヶ岳では、大噴火が起きる41年前から5年前まで、小さな水蒸気爆発が5回ほどくり返し起きていた。また、当時の函館測候所が大噴火前日、前兆のような無感の火山性地震を2回観測しており、二日前には鳴動を発していたが、誰も大噴火になるとは予想していなかったという。
 夜中の午前0時30分ごろ、小規模な噴火がとつぜん始まりやがて降灰が盛んになった。午前9時53分、鳴動をともない大噴火がはじまる。11時には噴煙の高さは1万4000mに達し、鹿部村(現・町)を中心に南東方向に大規模な軽石や火山灰を降り注ぎ、12時半ごろになると噴火はますます激しくなり、小規模な火砕流の流下が始まった。14時半ごろから降灰とともに、火口から四方の山麓に火砕流が大規模に流れはじめ、その面積は22.5平方kmに達し、10kmも離れた海岸に達したものもあった。
 噴火は18日の午前3時に終わったが、翌19日の雨のため噴出物が泥流となり、沼尻(森町)方面の農耕地や牧場に大きな被害を与えた。山頂に新しく大火口が生じ、山腹には多数の割れ目とまゆ型やひさご型の火口が生成され、総噴出物の量は0.38立方キロメートルになっている。
 降下した噴石、軽石、火山灰及び火砕流による被害や、火山ガス及び二次災害ともいうべき泥流などによる被害は8町村に及んだ。家屋の焼失、全・半壊及び埋没など1915余棟。2人死亡、4人負傷。山林や耕地の被害12平方km、牛馬の死亡136頭など地域の農林、牧畜業に大打撃を与えた(気象庁)。
 (出典:気象庁編「全国の活火山の活動履歴>北海道地方>北海道駒ヶ岳」[改訂]、地質調査総合センター編「日本の活火山>北海道駒ヶ岳>火山地質図>3:駒ヶ岳火山の歴史時代の噴火>1929年(昭和4年)の噴火」[追加]、 防災情報新聞WEB版2009年6月号・伊藤和明のインサイト・アウト「災害史は語るNo.145 北海道駒ヶ岳・大噴火から80年」、小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>Ⅱ 記録に見る自然災害の歷史>4 昭和時代前期の災害>昭和時代前期の主要災害一覧 162頁:昭和4.6.17 北海道駒ヶ岳噴火」)

○昭和14年西日本大干ばつ-水稲の直播栽培始まる(80年前)[再録]
 1939年(昭和14年)6月下旬~9月
 この年の干ばつは記録的のもので、全国的にも“空梅雨”気味だったが、特に前年1938年(昭和13年)の11月からこの年の9月まで、長期にわたり雨が少なかった。
 中でも6月から9月にかけて、西日本では降水量が非常に少なく、6月下旬になると、太平洋高気圧が張り出して日本上空に長期間居座り、西日本の大半で6月、7月の雨量が平年の50%以下、ところによっては25%以下の地方もあった。続く8月も雨量が少なく、1か月の降水量が20%以下のため、宮崎県を除いてほぼ全域が記録的な干ばつとなった。
 この干ばつの被害は、瀬戸内海沿岸及び山口県、鳥取県、佐賀県で最も激しく、兵庫県では約29.8平方kmの田んぼで田植えが出来なくなるなど、水稲生産量は西日本全体で60%に落ち、この年度の米の全国収穫高は6899万7134石となり、過去5年の平均収穫高と比べても723万1991石(9.5%)の減収となった。また水稲以外にも被害は農作物、果樹全般に及び、有明海では養殖貝が大量死するなど、養殖業にも被害が及んでいる。
 干ばつのため河川流量も激減、都市部を中心に飲料水が不足し、長崎市が6月11日、佐世保市が同月16日、神戸市が7月22日、西宮市が8月1日から、それぞれ時間給水を実施した。
 また水力発電にも影響を与え、8月30日、日本発送電(株)は、京阪神地区の一部で送電を中止、9月に入っても送電時間、同区域、送電量の制限を継続せざるを得なくなった。当時、中国との全面戦争が2年前の1937年(同12年)7月から始まり、軍事色が強まりつつあった時勢で、軍需産業で増産に努めていただけに、電力不足の影響は深刻だった。政府は一般家庭に節電を促し、大阪市では繁華街の戎橋筋や道頓堀界隈で、夜間の消灯、減灯が実施された。このように西日本全地域で被害が出た、昭和時代最大の干ばつだった。
 ただし一方、この干ばつを機に、苗代を使わないで田んぼへ直接種をまく、水稲の直播栽培が行われるようになり、近年では、省力化、低コスト、作業の平準化農法として推奨され普及している。
 (出典:気象庁編「気象百年史>Ⅱ 部門別史>第18章 災害>5.昭和前期-第2次世界大戦以前-515頁:5.4 干害」、小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅵ章 豪雪災害・冷害・干害>4.冷害・干害・飢饉の事例 577頁~579頁:昭和14年西日本の干ばつ」、宮澤清治+日外アソシエーツ編集部編「台風・気象災害全史>第Ⅱ部 気象災害一覧 199頁:0548 干ばつ 1939年6月~10月」)

水防法公布、水害予防制度に統一性与え役割分担明確化-近年、関係者個人への役割期待崩壊(70年前)[追補]
 1949年(昭和24年)6月4日
1945年(昭和20年)以前、いわゆる戦前の“水防”に関する法体系は、河川管理責任は“河川法”に基づき都道府県知事が負い、水防を担う組織については“水害予防組合法”に基づき同組合が“消防組規則”に基づき水防団員が組織化され活動するなど統一されておらず、法制度上の矛盾もあり、水防制度に統一性を与える必要性が生じていた。
 戦後、一連の改革がなされる中でこの問題点にもメスが入り、新法の制定へと準備が進むことになる。中でも当時続いた枕崎台風、カスリーン台風、アイオン台風といった一連の大型台風が、国土に甚大な被害を与えて去って行ったことも、水防法制定への動きを推進した。
 この日制定公布された同法は第1条で“この法律は、洪水又は高潮に際し、水災を警戒し、防ぎよし、及びこれに因る被害を軽減し、もつて公共の安全を保持することを目的とする”とされ、これにより昭和23年7月制定の消防法第1条“水火災又は地震等の災害に因る被害を軽減し”の条文から“水災”の部分が削除された。
 ただし消防および消防団との関係については、都道府県知事が指定する“水防管理団体(水害予防組合、市町村組合、市町村)”の下“消防機関は、水防に関しては水防管理者(水防管理団体の長)の所轄の下に行動する(第5条3項)”とされ、消防組織法においても第1条で“消防は(中略) 水火災又は地震等の災害を防除し”とあり、同法第9条で市町村長が設けることが定められている“消防団”が水防業務を兼ねることが出来るとされた。
 また第3条で水防の責任を負う組織として“水害予防組合”が“その区域における水防を十分に果すべき責任を有する”とされ、第5条1項で“水防事務を処理するため、水防団を置くことができる”とされて、水防に関する責任組織である水害予防組合と実際に水防事務(業務)をになう水防団及び消防団という役割分担が明確にされた。
 しかしその後、1958年(昭和33年の)3月“市町村が単独で”その水防の“責任を果たすことが著しく困難な場合(中略)関係市町村は(中略)共同して水防を行う地域を定め、水防事務組合を設けなければならない(第3条の2)”。また“水害予防組合にかわるべき水防管理団体として引き続き水防事務組合が設けられるときは(中略)当該水害予防組合を廃止することが出来る(第3条の3)”と改正された。これは当時から著しくなった農村地帯での過疎化、地方中小都市での新住民の増加などにより、地域住民の水害から田畑を守るという共通の利害によって結びついていた、市町村を越えた地域の水害予防組合の結束が崩れ、関係者個人を組合員とする同組合の存立が危うくなり、それを行政組織である市町村が救済し、水防事務組合として業務を引き継ごうとする法的改正であった。
 またさらに2000年代の現在では、専任の水防団員が極度に減少し、兼任水防団と呼ばれる消防団が9割を越えて地域防災力の低下も懸念されており、水害予防組合の存立問題と共通する、関係者たち共通のニーズと連帯によって成立していた“水防”の崩壊をしめしている。
 (出典:衆議院制定法律「昭和24年・法律第193号 水防法」、同制定法律「昭和33年・法律第8号 水防法の一部を改正する法律」、菊池静香著「川にかかわる伝統的地域組織の成立と変遷に関わる一考察>4.水防組織の成立と変遷>4.4.戦後から現在までにおける変遷」。国土交通省編「水防団、水防活動とは」。参照:2016年4月の周年災害〈上巻〉「河川法公布、森林法、砂防法と並ぶ治水三法の一つ最初の誕生」、2020年6月の周年災害「水利組合条例公布され水利土功会を発展的解消、水利と水害予防の2組合制となる」、2014年2月の周年災害「内務省、消防組規則を制定し全国的統一を図り、府県知事管轄下、警察の指揮下に置く」、2015年9月の周年災害「昭和20年台風第16号“枕崎台風”」、2017年9月の周年災害「昭和22年秋雨前線+台風第9号“1947カスリーン台風”」、2018年9月の周年災害〈下巻〉「昭和23年台風第21号“アイオン台風”」)

○昭和24年台風第2号「デラ台風」定期旅客船青葉丸沈没など多数の船舶が犠牲、無線装備なき悲劇(70年前)[改訂]
 1949年(昭和24年)6月18日~22日

 フィリッピン東方海上に発生したデラ台風は、南西諸島に沿って北北東に進み、6月20日夜、鹿児島県に上陸、進路を北に変え、時速60km以上の猛スピードで23時過ぎ鹿児島市付近から九州を縦断して北上、翌21日朝、日本海に抜けた。
 同台風接近前の15日ごろから、梅雨前線による雨が太平洋沿岸で降っていたが、この台風の接近に刺激されて活発化し、西日本を中心に各地で降水量200mm/日以上の大雨となり、鹿児島と宮崎両県で109か所のがけ崩れなどで96人が死亡、長野県では犀川の堤防が決壊して氾らんするなど、台風が通過した九州、四国地方から中部、関東地方にかけて、死亡者をふくめ住家全・半壊、床上・床下浸水の被害が発生した。
 なかでもこの駆け足台風によって、漁船を中心に多数の船舶が被害を受けた。特に愛媛県では1655隻の漁船が遭難し849隻が沈没、234人の死亡・行方不明者を出したが、なかでも宇和海漁場付近で、日振島や戸島など5か村(現在・宇和島市)の漁民約1000人が操業中に遭難、漁船315隻が沈没・流失し、211人の死亡・行方不明者を出している。
 多数の船舶が遭難した原因は、暴風警報が20日16時過ぎに発表されていたのにもかかわらず、それまでの不漁を取り返すべく出漁、台風通過時すでに漁船の多くは操業中で、20時過ぎにようやく連絡がついたが時はすでに遅かった。無線機などほとんど装備していない時代であり、梅雨時に台風は来ないという伝承が災いしたという。
 また暴風警報は出ていたが、定期船の欠航や遅延は乗客も含め、多大な損失になるとの判断なのか、20日21時、川崎汽船門司-高浜(松山市)航路の定期旅客船青葉丸は、ラジオ受信機が故障のまま気象情報を当然聞くこともなく、乗客97人、乗組員44人をのせて高浜港を出港、翌21日3時ごろ、大分県姫島東方18.5kmの洋上で激浪を受けて転覆沈没、乗客・乗組員88人死亡、53人が行方不明と全員が犠牲となった。
 全体の被害、東北地方南部以西23府県合計、死亡252人、行方不明216人、負傷367人、住家全壊・流失1410棟「消防白書」、同半壊4005棟、同床上浸水4627棟、同床下浸水5万2926棟、道路損壊2258か所、橋梁流失・損壊627か所、堤防損壊928か所、桟橋流失・損壊62か所、山崩れ614か所、鉄道被災117か所、通信施設被災10か所、船舶沈没・流失1114隻「気象庁・日本気象災害年表」、船舶破損3128隻「同」。
 (註)全体の被害については、書名注記以外、他資料にない被害が掲載されている「台風・気象災害全史」から引用したが、同書ではデラ台風と青葉丸沈没について別記事としており、デラ台風の死亡・行方不明者数が「昭和46年版・消防白書」の数と同じなので、それぞれ別ととらえると青葉丸の数だけ多くなる。また犠牲者の詳細を見ると、同書は鹿児島県での死亡者95人、行方不明31人としているが、一次資料に近いと思われる「九州の災害履歴情報」の鹿児島・宮崎両県で死亡者96人とする記録を採用、それと各資料が一致している愛媛県での海の犠牲者234人を採用、青葉丸の犠牲者は2年後の神戸海難審判庁の「事件裁決書」の141人を正確とみて採用。これらを合計すると471人となり、消防白書の468人より3人多いが、全体的にほぼ間違いないとし本文に記述した。
 (出典:気象庁編「気象百年史>Ⅱ 部門別史>第18章 災害>6.昭和後期-第2次大戦後->6.1 風水害・水害 516頁:(4) デラ台風」、気象庁編・災害をもたらした気象事例「デラ台風」、小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>Ⅴ 台風・豪雨災害>2 台風・豪雨災害の事例 478頁~479頁:デラ台風」、宮澤清治+日外アソシエーツ編集部編「台風・気象災害全史>第Ⅱ部 気象災害一覧 211頁:0668 デラ台風、0669 青葉丸沈没」、国立国会図書館デジタルコレクション・自治省消防庁編「昭和46年版消防白書>付属資料 253頁(136コマ):付属資料12 昭和21年以降の風水害の記録>3 デラ台風」[追加]、九州地域づくり協会編「九州の災害履歴情報>年表から探す>19490618・昭和24年・デラ台風」[追加]、愛媛県史編さん委員会編「愛媛県史 県政>第3章 現代愛媛の発展>第1節 終戦から講和まで>4 知事公選と第二次青木県政>6 災害多発」[追加]、神戸地方海難審判庁裁決「汽船青葉丸遭難事件」[追加])

○沖縄、宮森小学校ジェット戦闘機墜落事件、今もなお危険なくならず(60年前)[改訂]
 1959年(昭和34年)6月30日
 午前10時半ごろ、アメリカ空軍嘉手納(かでな)基地所在、第313空軍師団所属のF-100Dジェット戦闘機が、訓練飛行中、高度約300mに達した地点でエンジン火災を起こした。
 急きょパイロットは、搭載していた25ポンド爆弾4発を同基地南西沖の海上に投棄、同基地やコザ市街地(現・沖縄市)、石川市(現・うるま市)内を避け、同市より南西約2kmの人家の少ない丘に機首を向け着陸態勢に入ったが、制御不能に陥った。パイロットのJ・シュミットはパラシュートで脱出し無事だったが、無人になった機体は石川市内の民家35棟をなぎ倒し、ちょうど2時限目の授業が終わりミルク給食の時間だった市立宮森小学校の校舎に墜落、炎上した。
 2年生の教室が直撃を受け、火だるまになった児童たちは水飲み場に走ったがそこで倒れたという。児童11人と住民6人死亡。児童156人、職員2人、住民54人重軽傷。小学校3教室、住居17棟、公民館1棟が全焼。小学校2教室、住居8棟が半焼。近くの幼稚園は爆発のため破壊されて使用不能となった。墜落の原因は、整備不良によるエンジントラブルとわかった。
 事故の2日後、アメリカ軍は正式発表として事故を不可抗力と言明。一方、沖縄立法院(現・県議会)は、当時アメリカ軍の統治下にあったが、事故当日、異例の本会議を休憩して緊急各派交渉会を開き、アメリカ軍に対する厳重な抗議を全会一致で決議、7月6日には石川事件対策特別委員会を設置して補償請求をすることとした。また同日、被災者の沖縄教職委員会、沖縄こどもを守る会、沖縄社会福祉協議会などの関係団体が、石川市ジェット機事件対策協議会を結成し、被害者への救援活動に加え、アメリカ軍に対して被災者に対する救援と今後の防止対策を強く要求した。
 しかしその後、補償問題は遅々として進まなかったが、3年にわたる交渉の結果、被害者側の要求の僅か1割程度の総額11万9066ドルが渡された。
 事件から61年経った今、嘉手納基地のすぐ周囲が市街地で、危険な基地であることは、当時以上である。また現在、市街地への墜落事故が特に憂慮されているのは、機体の左右の翼についている回転翼(ローター)の角度を動かすことで、ヘリコプターの様に垂直飛行も、通常の飛行機の様に水平飛行も出来る“オスプレイ”だ。アメリカ空軍に正式に配備された後も、人命に関わった大事故を4回も起こしており、アメリカ国内でも配備反対の市民運動が起きたという。しかしすでに沖縄に配備され、本土では2020年7月に千葉県の陸自木更津駐屯地に配備された。事件から61年経っても、似たような危険は少しも解決されてはいない。
 (出典:沖縄県公文書館編「あの日の沖縄>1959年6月30日 宮森小学校ジェット機墜落事故」[変更]、映画「ひまわり」製作委員会編「ひまわり>宮森事件とは」[変更])

○昭和44年梅雨前線豪雨、特に南九州シラス地域に被害(50年前)[改訂]
 1969年(昭和44年)6月24日~7月11日
 まず6月24日から26日にかけて、日本海からオホーツク海へ抜けた強い低気圧が、梅雨前線を刺激し四国から近畿、東海地方にかけて、200mm/日から300mm/日前後の局地的な大雨を降らした。26日8時30分ごろには、東京都心では最大瞬間風速34m/秒の強風が吹き、高層ビル建築現場の鉄の骨組みや家屋が倒壊した。
 続いて、28日から30日にかけて
と7月4日から5日にかけて、強い低気圧が日本海を北東に進み、九州に11日到達したのち九州中部を東西に横断し居座っていた梅雨前線を刺激、九州各地、特に南九州の熊本、宮崎、鹿児島各県に300mmから500mmの大雨を降らした。
 当時、南九州では6月24日まで雨らしい雨が降らず、干ばつ気味であったが、25日になり集中豪雨があった。これは文字通りの“干天の慈雨”で、農家では一斉に田植えを行ったという。ところが二日おいた28日の午後から再び豪雨となり、翌29日から30日と豪雨は続き、大災害をもたらした。
 豪雨はその後7月8日まで断続的に続いたが、その間の雨量は、鹿児島で約600mm、都城で約700mm、宮崎で462mm、えびの高原(宮崎県)では1910mmに達している。この大雨により、特に鹿児島県や宮崎県南西部のシラス地域(火山の軽石等噴出物の堆積地)で6月29日~30日にかけて、652か所のがけ崩れが発生、河川の氾らんなどにより住宅の床上浸水5585棟、46人が死亡・行方不明、73人が負傷(木野)、特殊な地質地帯の災害として問題となった。
 一方、梅雨前線の半ばに当たる関東地方以西の各地にも断続的に大雨が降り、特に長野県飯山市で国鉄(現・JR)飯山線の飯山-蓮駅間で鉄橋の流失や線路冠水があり不通となるなど長野県全域で住宅に対する被害が起きている。
 34都府県被災地全体の被害は、81人死亡、8人行方不明、184人負傷。住家全壊237棟、同流失9棟、同半壊275棟、同破損455棟。同床上浸水1万1229棟、同床下浸水5万3161棟。船舶沈没・流失8隻。
 (出典:宮澤清治+日外アソシエーツ編集編「台風・気象災害全史>第Ⅱ部 気象災害一覧 314頁:1446 豪雨 1969年6月24日~7月11日」、木野義人著「シラス地域の豪雨災害-44年梅雨前線豪雨に関連して-」)

○北陸電力志賀原子力発電所、臨海事故隠し事件。安全性神話の崩壊をおそれ逆に不信感増大(20年前)[改訂]
 1999年(平成11年)6月18日
 
北陸電力(株)が、この日起きた志賀原子力発電所での臨界事故(核分裂を制御できなくなった事故)を、地元の志賀町や石川県及び国に報告せず8年間も隠ぺいし、それが発覚したのが2007年(平成19年)3月15日のことである。
 1986年4月、当時のソビエト連邦ウクライナ共和国チェルノブイリ原子力発電所での、評価レベル7という大事故以来、通商産業省(現・経済産業省)原子力安全・保安院の各原子力発電所に対する指導は厳しくなったという。特に2000年(平成12年)7月、東京電力福島原子力発電所に1号機を納入設置し、点検作業を行っていたアメリカ、ゼネラル・エレクトリック(GE)の元社員が、実名で当時の通産省資源エネルギー庁へ、東電の不正事実を告発した。これに対して2002年(同14年)8月になり、ようやく東電が隠しきれずに、原子力安全・保安院の調査に当時の資料を提出した。その後、次々と他社の原子力発電所からもデータのねつ造や事故隠しが明らかになり、原子力発電に対する信頼性は急速に失われていった。
 その状況の中、2006年(同18年)11月、経済産業省は大臣名をもって、原子力発電所を運営している全電力会社に対し、これまでのデータのねつ造や事故隠しについて明らかにするよう指導した。北陸電力も大臣指導に基づき委員会を設置して調査を開始、この動きに元社員から事故隠しについての告発があり発覚し、翌2007年3月、ようやく経済産業省原子力安全・保安院に報告したという。
 この日、志賀原子力発電所第1号機は、定期検査期間中で、原子炉停止機能確認テストを行う準備をするため、オペレーターが制御棒操作に関係するバルブの操作を行った。ところが操作手順を間違えたため、3本の制御棒が部分的に原子炉から引き抜かれた状態となり、原子炉が臨界状態となった。
 それにより原子炉自動停止信号が動き、制御棒の引き抜かれ状態は止まったが、緊急挿入処置をしなかった。しかし作業のため閉めたバルブを元に戻すことによって、引き抜かれ状態の3本の制御棒は完全に挿入され元に戻ったが、その間約15分かかった。つまりコントロールされない核分裂反応が15分続いたのである。
 事故そのものはマニュアル通りに作業しなかった作業ミスとされたが、問題はその先の対応にあった。
 事故収束後、所長以下が集まり対策を検討、所長が本事故について、国といえども社外には報告してはならないと指示。本店に対しては単なるノイズ(誤信号)が起きたと虚偽の報告をした。また事故隠しのため、引き継ぎ日誌に事故について記載せず、また事故を隠すため、中性子記録チャートには点検とだけ記載した。
 この事故は発覚後、国際原子力事象評価尺度でレベル2(異常事態)と評価され、特に現場の作業員や地域住民への放射線被爆はなかったとされているが、発電所の事故後の処置は、明らかに「原子炉等規制法」に違反ではないが抵触するとされ、原子力安全・保安院では、北陸電力社長を呼んで厳重注意をするとともに、事故が起きた事実と根本原因の究明、根本的な再発防止策を指示、同社ではこの指示を受け、1号機の運転を停止して安全総点検を行った。
 なぜ、事故隠しを行うのか。それは原子力発電の“安全性神話”が崩れ、事業の進捗に支障が生じると考えるからである。それが発覚することによって、逆にもっと信頼性が失われることを考えていない。その場を取り繕うだけで、根本的な解決にならず、安全技術の発展もない。このようなわが国の原子力発電所の脆弱性は、2011年(同23年)3月11日の東北地方大平洋沖地震(東日本大震災)による東京電力福島第1原子力発電所の事故によっていっそう明確になったが、電力会社では、長年国民に広めていたこの“安全性神話”に自らもしばられ、企業倫理の衰退化を招いていたのではなかろうか。
 (出典:経済産業省原子力安全・保安院編「志賀原子力発電所1号機の臨界事故」、失敗学会編「失敗知識デターベース>原子力>志賀原発、臨界事故発覚」、「石川県編「志賀原子力発電所1号機 第五回定期検査中に発生した臨界事故について」[追加])

○平成11年梅雨前線豪雨、博多駅前地下街浸水事故-「水防法」改正へ(20年前)[改訂]
 1999年(平成11年)6月23日~7月3日
 6月23日から7月3日にかけて、九州から東北に延びた梅雨前線の活動が活発となり、西日本から北日本にかけて、断続的な大雨となった。この期間中の総降水量は、九州地方から中部地方の山沿いにかけて600mmを越えたほか、平野部でも広島県呉市で446.5mmを観測するなど、各地で400~500mmの大雨となり、土砂災害や浸水被害が多発した。
 特に23日ごろから雨が続き、地盤が緩んでいたところへ、28日から29日にかけて九州地方北部、中国地方、中部地方などで、1時間に100mm近い激しい雨が降り被害が集中した。
 これにより広島県内では、呉市と広島市の山沿いの住宅地で、29日15時~17時ごろ集中的に186か所でがけ崩れが、139か所で土石流が同時多発的に発生した。そのため24人が死亡、住家全壊64棟、同半壊(一部損壊含む)74棟の被害となり、新興住宅地の開発地の選択、地盤強化などが問題となった。同県全体の被害は31人死亡、1人行方不明、54人負傷。住家全壊152棟、同半壊101棟、同一部損壊273棟,同床上浸水1397棟、同床下浸水2813棟(消防庁調べ)などで、呉、広島両市に被害が集中している。
 梅雨前線豪雨による被災県は沖縄、北海道を除くほぼ全国の29府県に上り、39人死亡、1人行方不明、69人負傷。住家全壊173棟、同半壊122棟、同一部損壊435棟、同床上浸水3844棟、同床下浸水1万47416棟(消防庁調べ)となった。
 また29日、九州北部を襲った記録的豪雨により、福岡市では午前7時43分から1時間の雨量が79.5mmと6月の記録としては、福岡管区気象台が観測をはじめて以来の最高を記録したが、午前9時過ぎには雨は小降りとなった。しかしJR博多駅の東側を通り博多湾に抜ける御笠川では、上、中流域で降った大雨が一気に押し寄せて、午前10時過ぎから11時までの間に水位が急上昇してあふれだし、約800m離れたすり鉢状に低くなっている駅側に向かって流れ込み、駅周辺ビル街では、行き場を無くした雨水が道にあふれて、市営地下鉄空港線博多駅や駅周辺の182棟のビルの内71棟に侵入、3棟は地下3階まで浸水、10棟は地下空間が完全に水没、地下街の総浸水面積は5万平方mに達し、水没死亡事故を起こしてしまった。
 これを契機に、翌2000年(同12年)12月、河川審議会が「今後の水災防止の在り方について」を答申、翌年6月「水防法」が改正され、地下空間における浸水対策に関する事項が追加された。
 (出典:気象庁編・災害をもたらした気象事例「平成11年6月23日~7月3日:梅雨前線・低気圧」、宮澤清治+日外アソシエーツ編集部編「台風・気象災害全史>第1章 大災害の系譜 128頁~129頁:CASE47 梅雨前線豪雨による都市型災害「福岡・広島・呉市の豪雨」、建設省河川編「災害列島1999>1999年に発生した全国の災害>6月末梅雨前線豪雨>6月29日>【REPORT1】福岡県福岡市:大都市の無防備な地下空間を襲った集中豪雨」、総務省消防庁編「平成11年災害情報一覧>平成11年6月23日から7月3日までの大雨による被害状況について」[追加]、国土交通省編「平成12年12月22日 河川審議会 水災防止小委員会答申」)

▼以下の「日本の災害・防災年表 各編」に進む

地震・津波・火山噴火編

気象災害(中世・江戸時代編)

気象災害(戦前・戦中編)

気象災害(戦後編)

広域汚染

火災・戦災・爆発事故(中世編)

火災・戦災・爆発事故(江戸時代編)

火災・戦災・爆発事故(戦前・戦中編)

火災・戦災・爆発事故(戦後編)

感染症流行・飲食中毒・防疫・災害時医療編

人為事故・防犯・その他編

災異改元編

以下の「周年災害 各年月編」に戻る

防災情報新聞:2018年9月の周年災害より以前

WEB防災情報新聞「周年災害」トップに戻る

(2021.1.5.更新)

コメントを残す