○読者の皆様へ

「周年災害」は2005年1月から掲載を開始し、10年単位で過去の大災害や特異災害、防災関連の施策などを記事化してご紹介しております。

そこで、① 記事化して各10年後に再度ご紹介する場合、見出しの変更程度か内容に大きな変更のない場合は、訂正のないものも含め[再録]と表示します。

② 内容が新しい情報に基づき訂正された場合は、目次と本文見出しの後に[改訂]、出典資料が改訂または変更になった場合は、資料紹介の後に[改訂]、追加の場合は[追加]と表示します。

③ 新規に追加した記事は、掲載月より10年前の災害などを除き[追補]と表示します。

また、書き残されている大災害や防災施策などについては“追補版”として掲載月と同じ月のものを選び、基本的には発生の古い災害等の順に補足記事化しております。

なお、各記事末に参照として、記事に関係ある最新の「周年災害」がリンクされ読めるようになっています。

【2019年1月の周年災害】

・天武筑紫地震、地震による地すべりで家屋損傷なく下へ移動、夜が明け家人驚く(1340年前)[改訂]

・嘉禎から歴仁へ改元、鎌倉で水損、京都で天変、流星空を舞う(780年前)[改訂]

・大坂町奉行所、自身番当番免除及び代理を出す人々を指示、代行の風潮に歯止め期待、

江戸より早い自身番の記録(370年前)[改訂]

・江戸町奉行、左毬杖(さぎちょう:左義長)行事に“薪を沢山積み重ねるな”と制限令

-最後は左義長禁止令までに発展(370年前)[改訂]

・江戸日本橋元禄11年石町の大火、江戸の中心街焼く日本橋下に犠牲者が、

将軍御成りの柳沢吉保邸が臨時の防火指揮所か?(320年前)[改訂]

・川越享保3年の大火、1000軒余を失う古来まれな大火、のち城下の防災化進む(300年前)[改訂]

・市原喞筒(そくとう)製作所、蒸気式消防ポンプ国産化に成功

時代は“破壊消防”の時代から“放水消防”の時代へ(120年前)[改訂]

・自動車の広域利用広まり、内務省、全国統一の交通法規、自動車取締令制定(100年前)[再録]

・昭和14年筑豊炭田貝島大之浦炭鉱東三坑炭塵(たんじん)爆発事故、産業報国のかけ声の下、

 保安設備、要員の不足を精神力で補わせた無謀な採炭の果てに(80年前)[改訂]

・警防団発足、防護団、消防組と統一した住民による自衛防空・防火組織、滅私奉公の教えの下、

住民を戦争に協力するよう教育、劣悪な装備で空襲に立ち向かい殉職者多数出す(80年前)[改訂]

・国宝法隆寺金堂壁画焼失、その後、松山城も-この日、後に文化財防火デーとなる(70年前)[改訂]

・ぼりばあ丸遭難事件「新鋭大型貨物船謎の沈没事件」(50年前)[再録]

・東京電力福島第2原子力発電所3号炉、再循環ポンプ大破損事故、運転を強行再開し非難浴びる

(30年前)[改訂]

・国土庁(現・内閣府防災担当)、地震被害支援ツール公開-地方自治体の地域防災計画作成に活用、

 10年後に南海トラフ地震対応支援ツールも公開(20年前)[追補]

○天武筑紫地震、地震による地すべりで家屋損傷なく下へ移動、夜が明け家人驚く(1340年前)[改訂]

679年1月(天武7年12月)

わが国最古の正史、日本書紀・天武天皇七年十二月の条に“是月、筑紫國大地動(大地震)之、地裂廣二丈(6m)長三千餘丈(約10km余)、百姓舍屋(農家)毎村多仆壤(倒壊)“とある。

筑紫国(福岡県)に大地震が起きて、大地に幅6m、長さ10kmに及ぶ地割れが走った。村々の農家の多くが倒壊した。という記録だが、マグニチュード6.5~7.5の大地震と推定されている。

それに続き“是時、百姓一家有岡上、當于地動(地震)夕以岡崩處遷(所在が移る)、然家既全而無破壞、家人不知岡崩家避、但會明(夜明け)後知以大い驚焉”と結んでいる。つまり、ある農家では、岡が崩れて地すべりとともに移動したが、家屋に異常がなかったので家人はまったく気づかず、夜が明けてそのことを知って大いに驚いた、という。地震によって地滑りが起きたが、その上の家屋は何事もなく大地と共に滑り降りたというエピソードを紹介している訳だが、奇跡と思い編集者が歷史に書き残したのであろう。 

この地震は、近年行われた活断層の発掘調査から、現在の久留米市付近を東西に走る水縄(みのう)断層系の活動によるものだということが明らかにされたという。

(出典:「日本書紀>巻 第29>天武天皇 下 七年・十二月癸丑朔己卯」、伊藤和明著「災害史探訪:地域の地震・津波編>第1章 古代史に見る巨大地震と津波>1 『日本書紀』に載る白鳳大地震 13頁~14頁:地すべり地震の記録」[改訂]、寒川旭著「地震の日本史>第2章 飛鳥~平安時代中期 31頁:筑紫地震」、宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧>4 被害地震各論 43頁:002」)

○嘉禎から暦仁(りゃくにん)へ改元 、鎌倉で水損、京都で天変、流星空を舞う(780年前)[改訂]

 1239年1月6日(嘉禎4年11月23日) 、
 天変水損により改元とある。
 改元の年の前年1237年(嘉禎3年)、幕府の首都鎌倉では「吾妻鑑」によると、4月12日(旧暦・3月9日)“甚雨如秡、終日不休止、亥刻洪水(大雨が洗うように降っている、一日中降り止まず、ついに午後10時ごろになり洪水となった)”とある。また同年12月2日(旧・11月7日)には“丑刻甚雨洪水、稻瀬河邊民屋十餘宇流失、下女二人漂没云々(午前2時ごろ大雨が降り洪水となった、稲瀬川沿いの民家10余軒が流失し、女性2人が流されたという)”とある。
 改元の年の38年(嘉禎4年)には、まず5月15日(旧・3月23日)“雨降、未三點寅方大風、人屋皆破損、庭樹悉吹折(雨が降っている、午後2時ごろ東南東の大風が吹いて、住家がみな損壊し、庭の木がことごとく吹き折られた)”とあり、同年8月13日(旧・6月25日)には“雨降、終日不休、丑刻、大風霹靂洪水、人屋多破損(終日雨が降り続いた、午前2時ごろになると大風が吹き、雷が鳴り洪水となった。住家が多く破損された)”とある。
 一方、天皇の御座(おわ)す京都では、この年、都を守る仏閣などで災害が続いた。

まず、3月31日(旧暦・閏2月7日)東洞院大路と左女牛小路を結ぶ周辺南北二町余(約2万平方m)が焼けたのを皮切りに、4月9日(旧・閏2月16日)、平家追討の英雄・源義経が幼少期学んだという京都北山で草創400年余の名代の古刹・鞍馬寺が焼亡。同月23日(旧・同月30日)には、天皇に変わり摂政や関白として政治の実権を把握した、いわゆる“摂関政治”を担った藤原氏北家、その全盛期を築いた藤原道長が創建した京極御堂、道長が御堂関白と呼ばれたゆかりの寺、当時の最大級の寺院・法成寺(ほっしょうじ)の歩廊が大風により倒潰した。

また5月20日(旧・3月28日)、天皇が平安を祈るために奈良の春日大社へ行幸した留守の間、その翌日、大内裏の木工寮(宮廷の建築、土木担当機関)の建物があろうことか忽然と倒壊。8月11日(旧・6月23日)には都の北の方で再び火災。9月29日(旧・8月11日)になると、再びあの法成寺の法花堂(修行道場)までも倒潰した。

とどめは文字どおりの天変か。10月25日(旧・9月9日)金星、火星、月が立て続けに他の星の軌道に入り“流星或七八尺、三四尺、知其員、色白赤(長さ2m前後や1m前後の白や赤色をした無数の流星が空を舞った)”。

(出典:池田正一郎編著「日本災変通志>中世 鎌倉時代 222頁~223頁:嘉禎三年、暦仁元年」、中央気象台編「日本の気象史料 1>第2編 洪水 300頁:嘉禎三年三月九日 鎌倉大雨、洪水。嘉禎三年十一月七日 鎌倉大雨、洪水」、同編「第1編 洪水 40頁:暦仁元年閏二月三十日 京都大風、暦仁元年三月二十三日 鎌倉大風雨」、歴散加藤塾別館・吾妻鑑入門「第31巻・嘉禎三年丁酉三月大九日庚申」、同吾妻鑑入門「同巻・嘉禎三年丁酉十一月大七日甲寅」、同吾妻鑑入門「第32巻・嘉禎四年戊戌三月大二十三日戊戌」、同吾妻鑑入門「同巻・嘉禎四年戊戌六月大二十五日戊辰」、同吾妻鏡入門「同巻・嘉禎四年戊戌九月九日辛巳」、国立国会図書館デジタルコレクション「国史大系 第14巻:百練抄 第14>四条院(暦仁):242頁(129コマ)」

○大坂町奉行所、自身番当番免除及び代理を出す人々を指示、代行の風潮に歯止め期待、

江戸より早い自身番の記録(370年前)[改訂]
 1649年1月28日(慶安元年12月16日)
 1241年1月(仁治元年11月)、鎌倉幕府が、現代で言えば交番に当たる篝屋(かがりや)を同市中に設置し住民を勤務させたので、江戸時代の自身番の先駆けかと考えられているが、その自身番も江戸で常設されたのが1652年1月(慶安4年12月)であり、“町人の街”大坂の方が自身番設置は江戸よりも早く、当時江戸にあった“辻番所”は、武家屋敷街のみにあり、周辺の治安維持に努めていた。
 実は、江戸幕府の日記の一つ「寛永日記」に“寛永十一年甲戌年七月(1634年7月)大献院様(徳川家光)京都より大坂へ御下向刻、御上洛之日より大坂町中へ自身番仕”と記されており、家光が大坂滞在中、臨時の自身番が設置されたようだが、確実なものとしてこの日、大坂町奉行所が大坂三郷町中(大坂市中)に示した「大坂式目」の「自身番之事」とする触れでその存在が実証された。
 その触れでは、町内警備などの自身番の仕事を免除される人、代理を出せる人や場合などを明示している。
 一.町役人である惣(総)年寄や所之年寄(各地域の年寄)は“自身番可致用捨事(自身番担当を免除)”。一.老人、幼少之ものや後家(やもめ)は、自身番担当も名代(代理)を出すことも免除。一.医師のほか法体之輩(僧侶、茶坊主)はみずから担当することを望む場合は別として、通常は名代を出すこと。一.居住する家以外に他の町に家を持っている者は名代を出して責任を果たすこと。一.病人や他行の輩(旅行中の者)も名代を出すこと。と、指示している。
 なお、急用などで当番を務められなくなった場合は、すみやかに年寄、五人組に連絡の上、親子兄弟そのほか親戚或いは手代(使用人)でも良いので代わりに出すようにと求めている。
 この触れは、自身番スタート当初は、みずから当番として町人(家持ち)が勤めていたのにもかかわらず、近年人を雇って当番をさせる風潮に歯止めを掛けようとした「式目(法律)」だったが、実際は逆に他人を雇って自身番の担当をさせる風潮が強まったという

この大坂の自身番だが、江戸のように常設されたのがいつなのかは明確ではない。

また、自身番が詰める“番小屋”だが、江戸時代後期に喜田川守貞が江戸・京都・大坂の風俗や事物について著した「守貞謾稿」によれば、その活用状況から、“(江戸の)自身番は京坂の会所と同意”と書いており、大坂の“町会所(会所屋敷)”も、江戸の自身番所のように、現在の町内(自治)会館のような役割を果たしており、上記「大坂式目」によって指定された自身番の担当者は、大坂市街地の表通りに設けられていた町会所に勤務し、自宅は別に裏店(裏通りの家)にあった。

同書の挿絵を見ると、屋根の上に火の見櫓があり、大阪市の“大阪くらしの今昔館”で町会所が再現されているが、そこには、玄関脇に“天水桶(雨水を溜め防火用水とする桶)”がありその上に手桶も置かれ、屋内には立派な座敷があるなど、自身番が詰める番小屋というよりは、堂々たる会所屋敷である。
 (出典:日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1648(正保3・慶安1) 537頁:大坂で自身番当番の細則きまる、老人・少年・寡婦は免除」、東京都編「東京市史稿>No.4>市街篇第4>687頁~688頁:附記一.木戸及び自身番」、大阪くらしの今昔館編「今週の今昔館(32)古地図で愉しむ大阪まち物語:○今昔館のあまり知られていない展示(その22)」、BIGLOBEウエブリブログ「落語の中の言葉93:火の番小屋」。参照:1月の周年災害・追補版(1)「幕府、鎌倉市中にも防犯のため篝屋(かがりや)を設置し住民に勤務させる。自身番の先駆けか」、1月の周年災害・追補版(4)「江戸町奉行、家持町人に自身番所設置を命じる。後の町火消制度の原動力に」)

○江戸町奉行、左毬杖(さぎちょう:左義長)行事に“薪を沢山積み重ねるな”と制限令

-最後は左義長禁止令までに発展(370年前)[改訂] 

 1649年1月31日(慶安元年12月19日)

 慶安元年の年末に江戸町奉行が出した、正月の縁起物“破魔矢”や遊具“羽子板”に対する贅沢禁止令と同じお触れの中に“正月之左毬杖二薪沢山二積重ね、たき申間敷事(焚かないように)”というのがある。

 “左毬杖(さぎちよう)”とは、現在では“どんど焼き”などと呼ばれ引き継がれている正月の民間行事で、その起源は平安時代にあるという。当時、公家たちの遊びに、毬杖(ぎっちよう)と呼ばれたホッケ一のような遊びがあり、例年、小正月(旧暦・1月15日)になると、宮中の清涼殿の東庭に青竹を束ねて立て、これに毬杖の杖3本を結び、その上に扇子や短冊などを結びつけ、暦や吉兆をつかさどる陰陽師(おんみょうじ)たちが面をかぶり謡い囃子ながら焼いたという。

後にこの行事が民間にも広がり、1月15日になると、正月に使われた門松やしめ縄など松飾りを焼いて煙と共に年神様を“天”にお送りし、その火であぶった餅など(会津地方ではスルメ)を食べると風邪をひかないとか、煙や炎、燃えさしが空に高く上がれば上がるほど善いことがあるとされ、現在では各地で薪を高く積み上げて燃やし花火を打ち上げるなど、正月のイベントとして恒例化している。

江戸時代に呼ばれていた“さぎちょう”の語源は、毬杖の杖3本を使用するところから“三毬杖:さんぎっちよう→さぎちょう”になったという。この慶安元年のお触れでは原語に近く“左毬杖”と書かれているが、5年後の1654年1月(承応2年12月)以降のお触れでは“左義長”と書かれている。読みやすく当て字にしたのだろうか。

この日のお触れのポイントは“薪沢山二積重ね”にある。これは現在でも同じだが、当時の人々も煙や炎などを空へ高く上げようとして、薪を年々高く積んでいった事に対する制限と見られる。イベントの最中に冬の江戸で特有の北西の風がひと吹きでもすれば、燃えさしは空へ高く舞い上がり、飛び火となってたちまち大火事を呼ぶ危険を町奉行所が察して止めたものと思われる。

ところが、この年の6月27日(旧暦)には、最初の“花火禁止令”も出されて夏の楽しみを奪われており、こちらは神事であるとし、反発もより強かったのだろう。その後“定式(じょうしき)町触”として同じ時期に同じ内容のお触れが、毎年または数年おきに出されるようになっても、武家も町人たちも吉兆を求めて薪をたくさん使い高く積むことを止めず、より高く積もうと各屋敷や町内で競ったのだろう。

そしてとうとう10数年間の攻防の末、1662年2月(寛文2年1月)には、“町中二而(にて)左義長前々より堅御法度二候間、一切仕間敷候(いっさい行わないこと)”と、左義長行事そのものに禁止令が出る羽目になってしまった。そして面白いことに、制限令から禁止令となった寛文2年以降、お触れは年末の12月ではなく、行事の日に近い1月に出るようになった。直前に「だめ!」とやらないと効果が無いと思ったのか、それでも以降、禁止令が毎年のように出ているところを見ると、防火上の禁止とはいえ、お上からの禁止令に江戸っ子が大いに反発している。

もともと、正月の門松など松飾りは、新年になると訪れてくるという年神様(年:歳の神)を迎え入れるための各家庭での目印、神の依代(よりしろ:宿る所)で、大正月(1日から7日)が過ぎるとそれらを外し、信仰の対象でもある神聖な“火”で燃やし年神様に感謝をしたという。その一連の行事を“歳の神祭”と呼んでいるが、宮中の行事である三毬杖と同じく火で燃やすところから、小正月の15日に行われる三毬杖と歳の神祭とが結びつき民間に広まったのであろう。そこから門松など松飾りを外すのも、多くが1月15日になり、1日から15日までの期間が“松の内”と呼ばれるようになった。

またこの日のお触れの左毬杖制限令の次に“正月之門松、十五日迄置可申事(置いておきなさい)”というのがある。“薪沢山二積み重ね”る事を制限したお触れの次である。“正月十五日”は左毬杖イベントの当日である。その日まで飾っておくようにということは、それ以前に外して燃やしていた家庭があったのだろうか。火を玄関前などで単独で燃やすことは、狭い木造の長屋が密集している当時の江戸では、火事になる危険があると町奉行所が判断し、どうせ燃すなら、全家庭が15日の朝、松飾りを一斉に外し、近所の空き地や川岸など危険の少ないところで、左毬杖行事として、衆人監視のもと消火に気をくばり燃やすようにという事かもしれない。

そこで興味があるのは、左毬杖(左義長)行事そのものを禁じた、寛文2年1月の触れの中に“町中表裏之松かざり、明七日之朝取可申事(取り片付けなさい)” という触れが最初にある事だ。その次が前記の禁止令である。これは大正月が終わる7日の朝に松飾りを早々と片付けさせる事で、15日に左義長だとして燃やせないようにしたのではないか。相手は物事をちゃんちゃんと手際よくしたがる江戸っ子である。7日から15日まで外した松飾りをしまっておかないだろうと読んだのかもしれない。

それでも江戸っ子は15日になると左義長を強行し、町奉行所は何回も禁止令を出すという、いたちごっこが続く。一方、7日には松飾りを片付けざるを得なくなったので、1日から7日までが“松の内”となつた。ただしこれは、江戸を中心とした関東地方の一部だけだったが、近年のマスメディアのおかげで地方にも広まっているという。

元に戻り、この左義長制限令が出た慶安元年には、防火に関するお触れが系統的に出されている。まず年号が正保であった4月10日(新暦・1648年6月)、将軍の日光社参に際し町人に対する最初の防火・警備に関するお触れがあり、次いで慶安となった6月27日(新・8月15日)には、最初の花火禁止令が出され、暮れの12月21日(新・49年2月)には町方に対する最初のまとまった警火(防火・消火)のお触れが出ており、本稿の左義長制限のお触れもこれら防火のお触れ類の一環として出されたものと思われる。

(出典:宮田満著「年中行事消滅の契機について」、近世史研究会編「江戸町触集成第1巻>正保五戊子年9頁:19 子極月十九日」、同編「同集成同巻>承応二癸巳年30~ 31頁:96 巳十二月十一日御触」、同編「同集成同巻>寛文二壬寅年127頁:324 覚・寅正月六日」、同編「同集成同巻>正保五戊子年8頁:15 覚・子六月二十七日」、同編「同集成同巻>同年6~ 7頁:10 子卯月・四月十日御触」、同編「同集成同巻9~ 10頁:20 子極月・十二月廿一日御触」。参照:2018年8月の周年災害「江戸町奉行、防火対策で華美禁止にかこつけ花火禁止」、2月の周年災害・追補版(4)「江戸町奉行所、正月の松飾りを焼く“左義長(さぎちょう)行事”を禁止、その取り外しも7日に」、2018年6月の周年災害「将軍日光社参に際し、町人たちに町の防火・警備について初のお触れ」、2019年2月の周年災害「江戸町奉行、火災シーズンを前に、町方に一連の「警火の町触」出す,後の定式町触の基本」)

○江戸日本橋元禄11年石町の大火、江戸の中心街焼く、日本橋下に犠牲者が

将軍御成りの柳沢吉保邸が臨時の防火指揮所か?(320年前)[改訂]

1699年1月10日(元禄11年12月10日)

 日本橋石町(後に本石町と改称)から出火し八丁堀から鉄砲州あたりまで、江戸の中心街を焼き尽くす大火が発生した。

未の上刻(午後1時ごろ)、日本橋石町二丁目から出火、折からの風は激しく炎は日本橋を越え、八町(丁)堀から霊厳(岸)島、鐵炮図(鉄砲州)まで(御當代記)、幅20町(約220m)長さ2里余(8km余)を灰とした。ともあれ江戸の中心街で、午後1時と言えば人出の多い時刻である。芝居小屋(劇場)の中村座、市村座も焼け、日本橋も焼け落ちた。

芝居見物、暮れの買い物、集金などで集まった人々の多くが逃げようと日本橋に殺到したのであろうか、日本橋の下から犠牲者がおよそ1200~300人上がったという。

この時、四代将軍・綱吉は寵臣の柳沢保明(吉保)邸を訪問していたが、火事の報せを受け、未の中刻(午後2時ごろ)帰城したという。僅か3か月前の10月9日(旧暦・9月6日)、3000人が死亡し、大名屋敷から町家まで2万戸近くが焼失するという大災害“勅額火事”が起きたばかりである。帰城するのは当然であろう。

ただしこの時、柳沢吉保のどこの屋敷を訪問していたのか詳細な記録はない。当時、吉保は常盤橋内に上屋敷、霊岸島に中屋敷、駒込に下屋敷(現・六義園)の土地を拝領していたが、霊岸島は風下で、現に被災地となっており、出火約1時間後の帰城はあり得ない。駒込の土地はこの時点では、まだ屋敷も六義園と名付けた庭園も完成していない。常盤橋内の上屋敷は、出火地点の石町二丁目から西へ僅か400~500mほどの近距離だが、当日の風向きを確認、炎が南下して行くのを見て、安全を見極めた後、本丸殿舎に帰ったのであろう。

この時、江戸城と将軍を守ろうと大名火消も駆け付け、火消部隊を総括する若年寄も伺候し、増火消を10家動員する奉書を出しているので(御徒方萬年記)老中も伺候するなど、1時間ほどは臨時の防火指揮所になっていたのかもしれない。出火時刻、還御(帰宅)時刻を明記していない諸書が“則還御“”にはかにかへらせ給ふ”と記録しているが、どうだろうか。 

(出典:東京都編「東京市史稿>No.2>変災篇第4>462頁~490頁:十二月十日火災」)

○川越享保の大火、1000軒余を失う古来まれな大火、のち城下の防災化進む(300年前)[改訂]

1719年1月28日(享保3年12月9日)

 暮れ六つ半時(午後7時ごろ)、行伝寺門前の鴫(しぎ:志義)町にある一郎左衛門屋敷の家守(管理人)で杉原町に住む金右衛門方から出火した。

炎は瞬く間に燃え広がり、新門前は全焼、鴫町北側の鍛冶町の角まで延焼し、南側の松郷町まで残らず灰にした。その後、猪鼻町から蓮馨寺(れんけいじ)門前、久保へと延焼、当然、蓮馨寺も助からず、大工町、六軒町、鐘打町、中原町、瀬尾町、新田町、足軽町、二番町、三番町と次々と焦土と化し、郊外の上松郷の名主甚兵衛宅より下町まで残らず灰となった。総じて家数、1000軒余りが焼失した古来まれな大火として記録されている。

大火後、城下近くにあった煙硝蔵(火薬庫)を郊外の新宿村へ移し、大工町と鐘打町の付近に杉苗を植えて火除地(防火帯)が造られるなど、市街地の防災化が図られている。

(出典:川越市市史編纂室編「川越市史 史料編(2)>町方史料編>北野家文書 276頁~277頁:1 戌十二月九日」、川越市立博物館編「川越大火百年 大火の歷史と街づくり>Ⅱ.川越の大火と街づくり>(2) 享保の川越大火と街の防災化」)

○市原喞筒(そくとう)製作所、蒸気式消防ポンプ国産化に成功、蒸気動力時代の先駆、

 時代は“破壊消防”の時代から“放水消防”の時代へ(120年前)[改訂]

1899年(明治32年)1月  

 1870年11月(明治3年)10月)東京府消防掛では、イギリスのシャンドメーソンから腕用ポンプ(水槽上部のピストンを腕でこぎ放水)4台、蒸気ポンプ(ボイラーを炊き水蒸気の圧力で吸・放水する)1代を輸入したが、蒸気ポンプは当時、東京の道路が狭く、また運用技術の未熟なこともあって十分威力を発揮することができず、翌年運用は中止され、76年(同9年)函館に売却されている。

 しかし、79年(同12年)川路大警視一行が消防制度視察のために渡欧、帰国後、随行した小野田、林両少警視は“消防は一に器械にあり”と消防の器械化の推進を進言した。この提言を受けた川畑消防本署長(現・東京消防庁長官)は、84年(同17年)、消防本署が所属する警視庁管轄下の石川島監獄署(現・刑務所)工作所にドイツ製腕用ポンプをモデルとした消防ポンプ40台の製作を依頼、試作は成功して量産化に入り、同年末には各消防署に配置され、江戸時代からの腕こぎポンプの龍吐水は廃止される。

 それと並行して同本署では、14年前と同じシャンドメーソンから蒸気ポンプを輸入、6月30日にはポンプにホースと消防隊員を乗せ、繋引し輸送する国産の駆走馬車とともに同本署へ配置した。この蒸気ポンプは“第一号蒸気喞筒(ポンプ)”と呼ばれた。

 90年(同23年)2月27日、浅草で1469戸が消失する大火が起きた。当時、消防本署管内では8台の蒸気喞筒を配置していたが、そのうち3台が火災現場に駆けつけ猛火を食い止めて見せた。

この蒸気喞筒の強力な消火能力を体験した消防本署内では増強計画が検討されたが、輸入機種は1台6000円(現代で約2500万円)もしたので、国産化の可能性について検討され、14年前、当時、製作技師だった市原求にフランスから輸入したイギリス製腕用ポンプの模作品を試作させたところ、輸入品に劣らない性能だったことを思い出し、市原が経営する市原喞筒製作所に蒸気ポンプの国産化を依頼したのである。

浅草の大火で蒸気ポンプの威力を目の当たりにし、国産化を検討して9年後のこの月、警視庁消防署では史上初めて、国産蒸気式消防ポンプ試作機の性能試験を行い有効証明書が発行され、価格も輸入品の半額となる見通しがついて量産化が進められた。

 ちなみに、国産蒸気ポンプには手引きのものと、馬引きのものとの2種類があった。手引きの蒸気ポンプは、ポンプ車の梶に綱をつけて消防隊員が引っ張り火災現場へ向かった。一方、馬引蒸気ポンプは、馬を1~3頭立てにし消防隊員を乗せ、ラッパ(後に大鈴)を鳴らしながら現場に急行した。各地への配備は、翌1900年(明治33年)神戸市と函館市、08年(同41年)には横浜市、10年(同43年)には名古屋市などに配置され消防設備近代化の第一歩を記している。

 (出典:東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の消防百年の歩み>明治初期 4 頁~6頁:蒸気ポンプの輸入と腕用ポンプの試作」、同編「同書>明治中期 55頁~56頁:腕用ポンプの国産化と蒸気ポンプの輸入、66頁~67頁:浅草の大火」同編「同書>明治後期 95頁~96頁:蒸気ポンプの国産化と性能認定」、東京消防庁編「消防雑学事典>蒸気ポンプから消防ロボットまで」、消防防災博物館編「消防の世界>消防の歷史>2 明治期の消防 (3)消防資機材等>腕用ポンプと蒸気ポンプの普及」。参照:2020年2月の周年災害「東京浅草明治23年三軒町の大火(中略)、蒸気ポンプ大活躍」)

○自動車の広域利用広まり、内務省、全国統一の交通法規、自動車取締令制定(100年前)[再録]

1919年(大正8年)1月11日

 わが国へ自動車が始めて紹介されたのは1898年(明治31年)1月で、フランスから輸入した車が東京築地-上野間で試運転されたという。

 明治政府は、1877年(明治10年)8月から11月にかけて、68年(明治元年)以降の殖産興業(新産業の育成と振興)政策の成果を、一同に展示する第1回内国勧業博覧会を東京上野で開催したが、その第5回となる同博覧会を、1903年(明治36年)3月から7月にかけて大阪で開催し、海外諸国も出展した初めての国内における万国博覧会というべき内容だった。そこにはアメリカ製の8台の自動車が展示され、大反響を呼んだ。

 20世紀早々の日本の自動車は、もちろんアメリカ製が中心の輸入車で、皇族か華族などの身分の高い家かごく一部の富裕層しか所有していなかった。ところが、その利便性、速さが注目を浴び、車体は2~4人乗りだが、この大阪での博覧会前後、個人が利用するのではなく、現在のバス(オムニバス:乗合馬車の意味)のように“乗合自動車”として営業しようとする動きが広まり、各地で出願の機運が高まっていた。

 これらの出願に対して、関係各府県がそれぞれ自動車取締規則を制定して許可することになるが、博覧会閉会直後の、03年(同36年)8月、愛知県が制定した「乗合自動車営業取締規則」が、わが国最初の自動車取締規則とされている。

 大正期に入ると、自動車は急速に普及した。12年(大正元年)全国でわずか535台だった自動車が、6年後の18年(大正7年)には7倍強の3869台となり、同年11月には三菱造船(現・三菱重工業、三菱自動車工業)が初の量産型乗用車“三菱A型”の試作車を完成させるなど、わが国も国産自動車の生産に取りかかろうとする萌芽期を迎えていたほどであった。

 一方、自動車の利用も乗合自動車や12年(大正元年)9月に登場したタクシーなど、走行範囲が他府県にまたがる場合が多くなって来ると、府県単位で制定した自動車取締規則には既定がまちまちの部分があり、自動車の広域的な利用を妨げる結果が生じてきた。そこで、全国統一の交通法規の必要性が生まれ、この日、内務省令の自動車取締令が生まれることになる。

 自動車取締令の主な内容は、自動車の定義、最高速度、構造装置、車体検査、自動車事業の免許、運転免許、車両番号、交通事故の処置及び罰則など、自動車を運転走行及び営業する上で必要な内容が規定されており、各府県はこの取締令に基づいて自動車取締施行細則を公布施行した。

(出典:道路交通問題研究会編「道路交通政策史概観 論述編>第1編 前史>第1章 道路交通の変化と発展>第2節 輸送手段の変化と発展>第3 自動車交通の発展>(1)自動車」、同編「同書>第1編 前史>

第2章 道路交通法の制定とその実施の状況>第2節 大正・昭和戦前期」、国立国会図書館編「博覧会・近代技術の展示場>第5回内国勧業博覧会」、自動車技術会編「日本の自動車技術330選>乗用車 part 1>三菱A型」、国立国会図書館デジタルコレクション「官報 大正8年1月11日・97頁(1コマ):省令>自動車取締令」)

昭和14年筑豊炭田貝島大之浦炭鉱東三坑炭塵(たんじん)爆発事故、産業報国のかけ声の下、

 保安設備、要員の不足を精神力で補わせた無謀な採炭の果てに(80年前)[改訂]

 1939年(昭和14年)1月21日

 この日の夕方、貝島大之浦炭鉱の東三坑でガス爆発が起こり、坑内で作業中の92人が死亡した。

 原因は高圧電気ケーブルがショートし、その火花が炭塵(たんじん)に引火したことによるが、事故が起きたのは、午後5時からの夜勤者と交代をする間近な時だったという。

 事故当時は1937年(昭和12年)7月の北京郊外廬溝橋に響いた銃声をきっかけに、日本が中国と戦争状態に入った2年目で、前年の38年(同13年)4月には、陸軍の主導で戦争遂行のために、物資、資金、設備、労働力を、国が集中して運用することができる国家総動員法が成立し、特に炭鉱は、当時の主力エネルギー資源である、石炭生産の第一線の現場として増産計画が計られ、現場に命令されていた。

ところが、中国戦線の拡大とともに、坑夫はあいついで出征(戦場におもむく)し、熟練した先山(採炭夫)は少なくなり労働力は低下した上、保安要員も減らされていた。しかし出炭量だけは一方的に強制されていたため坑内は乱掘されたが、保安に必要な資材は、軍需(軍用需要)が優先されて、坑内の鉄枠の補充さえつかなくなっていた。

当時、坑夫たちは軍隊式に“中隊”と称していた各組に編成されており、その中隊長(班長)が集まる保安会議があるたびに、各中隊長から各坑内の危険性が訴え続けられていた。しかし会社側は「戦争だからやむを得ない。一人や二人死んでも、石炭を出さないことには戦争には勝てない。(中略)前線で戦っていると思えば戦死者は出る。」と保安の重大性が一蹴された上、犠牲者は戦死者とされ、死者の出るのは当然のこととされたという。その上「少数精鋭主義で、ガス爆発だけは注意するようにしてくれ」と一方的に要求された。

確かにいつ事故が起きてもおかしくない上、わずかな事故が大惨事になりうる状況だった。そこでの炭塵(たんじん)爆発である。犠牲者もその家族もかえりみられる事はなかったという。

特にこの貝島炭鉱を一代で築きあげた貝島太助社長は徹底した精神主義者で、その伝統は代々受け継がれ、事故当時の太一社長にいたっては幾分神がかり的なところがあり、下関市内の本邸に明治天皇を祭神とする神社を建て、炭鉱の従業員に対しては次の社訓を掲げ、忠臣愛国思想を教育しようとしたという。

つまり“敬神崇祖(神を敬い、祖先を崇拝する)”“感恩報謝(恩を感じてそれに報いる)”特にこの社訓には、会社に対して恩を感じお礼の気持ちで働き恩に報いよ、という面があった。そして最後の“産業報国”という社訓に至っては、国家総動員法の成立により、法的な裏付けを得たとさえいえる。

1931年(昭和6年)9月の満州事変から始まり、45年(昭和20年)8月の太平洋戦争で終わる15年戦争の時代、日本国民は多かれ少なかれ貝島炭鉱の従業員と同じの境遇の中にいた。

(出典:林えいだい著「筑豊坑夫塚>地底の呻き 14頁~24頁:貝島炭鉱、東三坑爆発」、筑豊石炭鉱業史年表編纂委員会編「筑豊石炭鉱業史年表1939年 401頁:1.21」、日本全史編集委員会編「日本全史>昭和時代>昭和13年 1070頁:人も物も国家統制下に、国家総動員法公布」、国立国会図書館デジタルコレクション「官報 昭和13年4月1日・1頁(1コマ):法律>国家総動員法」)

○警防団発足、防護団、消防組と統一した住民による自衛防空・防火組織。滅私奉公の教えの下

住民を戦争に協力するよう指導、劣悪な装備で空襲に立ち向かい殉職者多数出す(80年前)[改訂]

1939年(昭和14年)1月25日

 1930年(昭和5年)7月、東京で警察と消防を所管していた警視庁は、23年(大正12年)9月の関東大震災の教訓を受け、非常時火災警防規定を制定した。

 一方陸軍は、28年(昭和3年)6月に中国奉天で、同国軍閥張作霖を爆殺した満州(現、中国東北地方にかつて存在した日本軍が建てた国)駐在の関東軍を中心に、中国侵略計画を密かに進めていたが、戦争の際の日本本土空襲を警戒していた。そこで陸軍東京警備司令部は、関東大震災を引き合いに出し“関東大震災惨害の一因が、当時市民の団体的訓練の不足に在り”として、東京府、同市、警視庁に働きかけ、東京市民を災害警備や防護のために組織化することを呼びかけた。これを受けた府、市、警視庁は、同警備司令部及び陸軍東京憲兵隊と合同で、東京非常変災要務規約を同じ7月に制定し、市民の自衛防空組織の準備を進めた。

 翌31年(同6年)9月、関東軍は柳条湖で線路爆破事件を起こし、中国軍の仕業としてこれを攻撃、満州事変となって中国と全面的な戦争状態に入った。これにより陸軍東京警備司令部は、防空のための市民自衛組織結成を急ぎ、翌32年(同7年)4月から区単位の自衛組織の編成を行い“防護団”と名付け、9月には東京市連合防護団を結成、全国に波及させた。

 しかし、今ひとつ江戸時代から住民の自衛防火組織として町火消があり、1872年(明治5年)5月に東京では消防組に編成替えし、94年(同27年)2月制定の消防組規則によって、全国的な統一が図られていた。特に地方では、この消防組員のほとんどが防護団団員を兼務したので、37年(同12年)の防空法制定を機に、両者は統一することとなり、この日の勅令(天皇の命令)によって“警防団”として再発足することになった。

 この警防団は、同団令第一条でその目的を“防空、水火消防その他の警防に従事す”と規定され、その組織は警護部、交通整理部、灯火管理部、消防部、防毒部、救護部、工作配給部の7部が設けられていたが、特に敵機空襲時の灯火管制、つまり灯火・消灯の有無の管理を行う灯火管理部や、毒ガス弾投下に対応する防毒部があるように、空襲に対応することを中心とした市民自衛組織だった。

 その活動は警察の指揮下にあり、政府、特に軍部の意向に沿ったもので“警防精神は令旨(皇太子時代の昭和天皇が下した命令)に示されるごとく忠君愛国、滅私奉公(私事を捨て政府の命令に服す)の至誠を基とす”とされ、行政機関、特に警察の下部組織として住民を指導し戦争への協力を強制、それを渋る住民を“非国民”“スパイ”あるいは“国賊”と罵倒した団員が多かったという。

 また空襲の際、住民は居住地からの避難を禁じられ防火に努めることになっていた(改正防空法第8条ノ3、5)、しかし実際は、警防団員は住民を避難させても、自らは職務上、初期消火用の軽可搬ポンプ消火器で消火に勤め、戦時後半期には燃料のガソリンの供給が途絶えたので、火叩き(竹の棒先に縄などを集めて結んだもの)とバケツの水でもって、強力な焼夷弾(放火し広範囲を焼き尽くす油性の投下弾、ナパーム弾も同じ)の猛火に立ち向かい、東京では1327人が殉職している。  

 太平洋戦争終戦後(45年8月~)の47年4月、同団は戦時色が強いとして廃止され、本来の住民による防火・消防組織、現在の“消防団”として復活した。

 (出典:東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の消防百年の歩み>戦時期 266頁~269頁:警防団の配置」、昭和史研究会編「昭和史事典>1939年 239頁:警防団公布令」、国立国会図書館デジタルコレクション「官報 昭和14年1月25日・621頁(1コマ):勅令>警防団令」、同コレクション「官報 昭和16年11月26日 757頁(1コマ):法律>11月25日改正防空法」。参照:2012年9月の周年災害「東京市連合防護団が結団され防空消防の時代へ」、2017年4月の周年災害〈下巻〉「防空法公布;家庭防空群設置で民間の戦時防空体制整備―避難を禁じられ無差別爆撃に遭う」)

○国宝法隆寺金堂の壁画焼失、その後、松山城もーこの日、文化財防火デーとなる(70年前)[改訂]

 1949年(昭和24年)1月26日

 朝7時頃、奈良県斑鳩(いかるが)町の法隆寺の国宝建築物、金堂から出火、7世紀末に描かれたと推定される壁画が焼失した。しかし屋根部分は解体修理中で、取り外されていた屋根瓦や講師天井と内陣(本堂の内側)小壁の飛天図、およびその他の建物への延焼は免れた。

 しかし本尊を安置している金堂内陣の外側、外陣(げじん)の土壁に描かれていた12面の壁画の劣化・剥落は明治時代から問題視され、1940年(昭和15年)から文部省(現・文部科学省)の事業として模写作業が進められており、戦争で一時中断したが、戦後の47年(同22年)から再び模写が行われていた。出火原因は、その作業に当たっていた画家の暖房用電気座布団の消し忘れによる過熱ではないかと疑われた。

消失した壁画は、描かれた当時の資料がなく作者不明とされていたが、インド・アジャンター石窟群の壁画、中国・敦煌莫高窟(とんこうばっこうくつ)の壁画などとともに、アジア古代仏教壁画を代表する作品の一つであった。その歴史的、文化的な価値は計り知れなかった。

火災当時、法隆寺には91基の消火栓があり、裏山の大貯水池との落差200mを活用して水圧が強く、境内の五重塔の屋根などに飛んだ火の粉は消し止められ、延焼は免れたという。

この火災から1か月後の2月27日には、愛媛県松山市の国宝松山城本丸で、放火による火災が発生した。相次ぐ国宝の火災を重視した文部省では、翌1950年(昭和25年)5月、文化財保護法を制定、55年(同30年)からは金堂火災が起きた1月26日を文化財防火デーと定め、毎年、全国の消防機関が、所管する各地の文化財に対して防火訓練を行うこととした。また、66年(同41年)12月には、消防法施行令の一部を改正し、重要文化財建造物への自動火災報知設備の設置を義務づけた。

(出典:近代消防「日本の消防1948-2003>年表1.災害編>昭和24年 54頁:法隆寺金堂火災」、昭和史研究会編「昭和史事典>1948年 401頁:法隆寺と松山城の火災」、衆議院制定法律「文化財保護法」、文化庁編「文化財防火デー」)

○ぼりばあ丸遭難事件「新鋭大型貨物船、謎の沈没事件」(50年前)[再録]

 1969年(昭和44年)1月5日

 午前11時30分ごろ、ジャパンライン所属大型鉱石運搬船ぼりばあ丸(総トン数3万3768トン)は、千葉県野島崎南東約500kmの太平洋上で、突然、船体が2番船倉付近から二つに折れ、船首部分が脱落して航行不能となり、救命艇降下中、11時27分船首を下にして沈没した。

 同船は、ペルーから鉄鉱石5万トンを積み、川崎港に入港することになっていた。遭難当時、現場一帯は、20m前後の風が吹き荒れる大しけで、同船は沈没する約1時間前に、2番船倉付近に割れ目が出来たと救難信号を発していた。

 乗組員30人が行方不明、2人は近くを航行中の船に救助された。しかし、造船王国日本で建造された建造後わずか3年3か月余りの大型貨物船が、船体を折損して沈没したという事実に、海運、造船界はもちろん世間を大いに驚かせた。

 本事件は、横浜地方海難審判庁において、事件発生の8か月後の9月5日に審判開始の申し立てが行われ、第1回審判が同年12月17日開廷されたが、多岐にわたる関係各方面の膨大な資料と、23回にもあがる証人尋問と3回の実地検査を行うなど、多方面にわたった2年9か月の長い審理を行ったが、結局、本件発生の原因を断定できず、沈没の原因は永遠の謎となっている。

 (出典:海難審判所編「日本の重大海難>昭和40年代>機船ぼりばあ丸遭難事件」、昭和史研究会編「昭和史事典>1969年 649頁:ぼりばあ丸沈没」)

○東京電力福島第2原子力発電所3号炉、再循環ポンプ大破損事故、運転を強行再開し非難浴びる

(30年前)[再録]

 1989年(平成元年)1月1日

 東京電力福島第2原子力発電所の3号炉において、出力103万キロワットで運転中、原子炉に冷却水を送り込む再循環ポンプに異常振動が発生したため、ポンプを停止するともに原子炉を停止した。

 原因調査のため、同ポンプを分解点検したところ、設計ミスにより直径1m、100kgある水中軸受けリング部分が、軸受け本体との接触部分で大きく破損、脱落し、ポンプ内部の羽根車の一部を欠損させ、摩耗していたとわかった。また、羽根車等の摩耗によって生じた30kg以上の金属粉が流出して原子炉容器内に流れ込み、1年10か月の間、運転を停止した。 

ポンプが大破する寸前で原子炉を停止したから良かったが、もし大破していれば、冷却材喪失による炉心溶融の危険もあったと大問題になった。しかし東京電力は、ポンプが破損した原因を推定したものの設計変更することなく、水中軸受けに強度上十分な余裕があること、溶接不良を検知できるものか溶接部分を有しないものに取り替えるとして、ポンプ内部の傷を削り取り、問題の流入した金属粉を完全に回収せず、一部を未回収のままで、翌年11月に運転を強行再開し非難を浴びた。

(出典:地球環境の事典編集委員会編「地球環境の事典>本項目> 317頁:福島原発事故」、日本原子力研究開発機構編「福島第二原子力発電所3号炉の原子炉再循環ポンンプ損傷事象について」)

○国土庁(現・内閣府防災担当)地震被害想定支援ツール公開-地方自治体の地域防災計画作成に活用、

 10年後には南海トラフ地震対応支援ツールも公開(20年前)[追補]

 1999年(平成11年)1月

 1995年(平成7年)1月17日に起きた阪神・淡路大震災は、防災情報のIT化に拍車をかけ、内閣府など国の防災機関においてさまざまなシステムが公開された。

 阪神・淡路大震災が発生する2年半ほど前の92年(同4年)8月、23年(大正12年)9月の関東大震災から70年を迎えるに当たり、南関東に起きる大地震が周期的に起きているとする学説から、その防災対策

として政府は「南関東地域直下の地震対策に関する大綱」を制定した。その大綱に基づき設置された同地震被害手法検討委員会において調査された成果が、阪神・淡路大震災後の96年(平成8年)4月より運用が開始された「地震被害早期評価システム(ESS)」に生かされ、地震直後の被害を推定するための手法としてまとめられた。

 翌97年(同9年)8月、この手法を全国の自治体などで被害地支援活動に利用できるように開発・公開されたのが「地震被害想定支援マニュアル」で、そのマニュアルに改良を重ね、震源の位置や規模から地震動の分布(震度分布)による被災地ごとの地震被害の規模、各地における建物の被害数、死傷者数などを推計し、大規模被災地へ救援力を重点的に投入することが可能になるという、的確な救援活動を行えるようにしたのが、この日公開された「地震被害想定支援ツール」である。

 地震被害を推定するシステムから、その推定された被害に基づく救援活動へ結びつけるまでに2年9か月の日程を必要とした。

 また同支援ツールは、平常時には地方自治体の地域防災計画など各種防災計画の作成、見直しのための被害想定の算出にも活用され、地域住民の防災意識の啓発にも役立てられている。

 支援ツール公開後10年がたち、南海トラフを震源地とする近年の巨大地震、すなわち44年(昭和19年)12月7日の昭和東南海地震、それに誘発され37日後の翌45年(同20年)1月13日に起きた三河地震、昭和東南海地震に連動して2年後の46年(同21年)12月21日に発生した昭和南海地震、などから65年たった2009年(平成21年)8月、内閣府は南海トラフ地震に対応する新たな「地震被害想定支援ツール」を公開している。

 (内閣府編「南関東地域直下の地震対策に関する大綱」、「平成13年版防災白書>第1部>第2章>4>4-2 地震に関する調査研究・観測の推進>(4) 地震被害想定」、同編「同書>図2-4-13:地震被害早期評価システム(EES)」、内閣府(防災担当)編「京阪神都市圏における被害概略の把握>地震被害想定支援ツールの概要(平成11年版)」、同編「地震被害想定支援ツールの公開について(平成21年版)」、気象庁編「南海トラフ地震で想定される震度や津波の高さ」。参照:2015年1月の周年災害「平成7年兵庫県南部地震“阪神・淡路大震災”」「1945年三河地震、昭和東南海地震に誘発されて起こる」、2013年9月の周年災害「大正12年関東地震“関東大震災”」、2014年12月の周年災害「昭和東南海地震」、2016年12月の周年災害「昭和南海地震(南海道地震)、2年前の昭和東南海地震と連動」) 

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・気象災害(中世・江戸時代編)

・気象災害(戦前・戦中編)

・気象災害(戦後編)

・広域汚染編

・火災・戦災・爆発事故(中世編)

・火災・戦災・爆発事故(江戸時代編)

・火災・戦災・爆発事故(戦前・戦中編)

・火災・戦災・爆発事故(戦後編)

・感染症流行・飲食中毒・防疫・災害時医療編

・人為事故・防犯・その他編

・災異改元編 

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