仙台市荒浜地区荒浜小学校

【目 次】

・2011年東北地方太平洋沖地震「東日本大震災」ー津波・殉職・絆-貞観+昭和三陸地震津波の再来か
東京電力福島第一発電所原子炉水素爆発。東北地方太平洋沖地震の津波による大事故、廃炉の道も難航

【本 文】

〇2011年東北地方太平洋沖地震「東日本大震災」
 ―津波・殉職・絆-貞観+昭和三陸地震津波の再来か

 2011年(平成23年)3月11日14時46分ごろ、三陸沖、牡鹿半島東南東130km付近、深さ24kmを震源とするマグニチュード(M)9.0の超巨大地震が発生した。東北地方太平洋沖地震と名付けられ、東日本大震災を引き起こす。
 この地震は、これまで国内史上最大規模と記録されている1896年(明治29年)6月、明治三陸地震の8.5を遙かにしのぐかつてない規模の地震で、宮城県栗原市の震度7をはじめ宮城県、福島県、茨城県の各地に震度6強の揺れをもたらし、青森、岩手、宮城、福島、茨城、千葉各県太平洋沿岸部、長さ約500kmにわたり巨大津波が襲いかかった。
 その遡上高は、岩手県宮古市田老地区39.7m、大槌町19m、大船渡市三陸町31.8m、陸前高田市22.2m、宮城県南三陸町16m、女川町35m、仙台市宮城野区5.6m、福島県相馬市21.3m、いわき市15.8mで、千葉県旭市でも8.7mを記録。伝承している1933年(昭和8年)3月に発生した昭和三陸地震津波で、岩手県綾里村(現・大船渡市三陸町)に記録した28.7mを遙かに超えていた。またその規模、震源地、津波などの被災状況から約1100年前の“貞観三陸地震津波”と115年前の“明治三陸地震津波”のメカニズムを併せ持つ可能性があると東京大学地震研究所で分析された。
 津波発生域は震源から約150km北東の岩手県沖で、震源の約70km沖の海底で、陸側のプレート(岩盤)の先端に当たる幅約55km、長さ約160kmの部分が、跳ね上がりながら南東方向に約55mも激しくずれ、海底が約5m隆起したことが大津波を引き起こした原因と分析された。実は地震調査委員会における海溝型地震の長期評価では、この年の1月より30年以内に三陸沖南部海溝寄りでM7.7前後の地震が80~90%の確率で発生すると予測していていたのだが、このように国の専門機関や地震学者たちが想定外だったM9の超巨大地震の突然の発生は、太平洋側東日本各地に激しい爪痕を残す。特に東京電力福島第一原子力発電所では、津波による電源喪失により原子炉の冷却機能が喪失、水素爆発を起こすという国際原子力事象評価尺度最悪のレベル7(深刻な事故)の大事故を引き起こした(別項参照)。

 ちなみに大震災ほぼ10年後の2021年2月13日23時7分ごろ、福島県沖を震源とするM7.1の大地震が発生、宮城県蔵王町、福島県国見町、相馬市、新地町で震度8強を観測したが、気象庁の発表によると、この地震は2011年3月11日に起きた東北地方太平洋沖地震の余震とされている。超巨大地震にとっては、10年の月日はごくわずかな時間でしかない。

●”想定外”の悲劇、各地・各所で

 この日3月11日、東北地方太平洋側各地では、昼ごろから小雪混じりの天気となったが金曜日である。明日からの休日を控えてややのんびりとした空気が流れ、各市町村役場でもゆったりとした気分の中にいた。そこへ震度6強~弱の地震が発生、津波が襲ってきた。専門機関や学者に“想定外”と言わせた超巨大地震による大津波を、町長も町役場の防災担当職員も予想できなかったのは当然であろう。

〈 岩手県大槌町 〉

 大槌町の2階建て庁舎では、2階の副町長室などでパソコンが倒れ、天井の蛍光灯が落ちるほどの強い揺れに襲われた。東梅副町長はいったん外に飛び出したが、すぐ隣接する東棟2階の町長室に駆け込み災害対策本部の設置について打ち合わせ、津波が押し寄せることよりも、築50年以上の庁舎が崩れることを懸念して、屋外の正面玄関横に本部を置くことにし、防災担当の澤舘総務課長など幹部たちが準備を始め出す。そのころ、総務課や地域整備課の職員たちは被害情報の収集に追われていたが、役場に隣接する消防署では、15時直前から町民に防災行政無線で、3mの大津波警報が発令されたとし高台への避難を呼びかけていた。
 町役場は被害を受けた町の中心部にあり、大槌川の河口から直線距離で250mほどの場所にあった。津波は6.4mの防潮堤を越え川沿いを一気に押し寄せてきた。庁舎前で幹部たちから“避難した方が良いのでは”という声が出始めたとき“津波だ!”という声が響いたという。副町長は屋上にすぐさま避難したが、津波は屋上のすぐ下まで達し、15時20分ごろには2階建ての庁舎はほぼ水没した。加藤町長、澤舘総務課長をはじめ28人の職員が災害対策本部設営のさなか犠牲となるなど避難しきれず、全職員の3割近い39人が殉職して行政機能は麻痺、その後の火災によりさらに被害は広がり、町は数日の間、外部から孤立した状態になってしまった。
 大槌町の地域防災計画では、高台にある中央公民館を災害対策本部の設置場所にしていた。しかし災害時までの避難訓練では町役場に本部を置いていたので、津波が襲来した当日も高台への避難を思いつかなかったという。それは市街地を覆い守るように築かれていた防潮堤の存在と、警報が出てもこれまで大きな津波が来なかったという事実が、町役場側の危機意識を薄れさせていたという。ところが大槌町を襲った津波の波高は12.6mであった。

〈 岩手県陸前高田市 〉

 陸前高田市では市職員の4分の1に当たる111人が、多くの市民も犠牲となった第一次避難所とされていた市民会館や市民体育館で集中して死亡した。
 当時、市職員の災害時の行動マニュアルはなかったという。ただ強い地震の後には安全が確認されるまで屋外に退避することになっていたので、職員たちが庁舎前の公園や駐車場に避難すると、市の幹部が拡声機で隣接する3階建ての市民会館への避難を呼びかけ、その声に促されて歩き始めた。しかしここで建物を完全に水没させた津波に遭遇、避難した市民たちと共に61人もの市職員が犠牲となった。津波に備えたルールもなかったのである。
 一方、市民会館から約500m東に離れた市民体育館に避難した職員もいた。同市の津波ハザードマップでは、市庁舎周辺の浸水は50cm以上1m未満とされていた。ところが実際は波高15mの津波が一気に押し寄せ2階の観客席どころか天井まで水没した。ここに避難した市職員23人が犠牲となっている。
 また4階建ての市庁舎も屋上付近まで浸水、中で情報収集などに当たっていた11人が殉職した。しかしここでは77人が屋上へ避難し救助されているので、避難所に指定しておれば良かったが、災害対策本部設置場所としていたので、指定はされていなかった。だがその災害対策本部も度重なる余震と情報収集に追われ開かれることはなかった。また市庁舎も市民会館も、市民体育館も海岸から1km余りしか離れておらず平地に建てられていた。そこが第一次避難所であり、市防災の中枢だった。防潮堤の存在と浸水予測があまりにも低かったので高台に避難所を設定することもなく、災害時のマニュアルもないことが市民を初めとした職員の犠牲を増やしてしまった。

〈 宮城県南三陸町 〉

 地震後、記者のインタビューに「われわれ年寄りは生き残り、若い職員が流されてしまった」と、宮城県南三陸町の遠藤副町長は悔しさをにじませたという。
 同町では町民の大多数が“地震の後には必ず津波が来る”という意識が高かった地域でありながら、なぜ831人もの犠牲者を出したのか。気象庁が地震発生3分後の14時49分に発令した大津波警報“1分後に岩手県に高さ3mの津波が到達する”との予測について、同庁では15時14分には6m、同31分には10m以上と切り替えていた。宮城県内では最初から6mの大津波警報が出ており、南三陸町防災対策庁舎からは、繰り返し“6mの津波が来ます。高台へ避難してください”と防災無線の呼びかけが途切れることなく最後まで続いていた。その声に促されて多くの町民が高台に避難したが、津波で3階建ての防災庁舎がのまれてしまった。なぜだったのか。
 防災無線のマイクを握っていたのは、入庁4年目で前年春、新設の危機管理課に移り、この年の9月に結婚式を控えていた遠藤未希さんだった。気象庁による津波の予測波高は6mである、防潮水門は8mほどあり“6mなら大丈夫、万一波が水門を越えても、屋上に逃げれば良い”というのが防災担当職員の共通認識だったという。
 15時20分過ぎ、庁舎屋上で津波を見張っていた職員から“津波が来たぞ”と声が上がった。佐藤町長が屋上に上がると、防潮水門を乗り越えて波が町中になだれ込んでいた。15時31分に気象庁が10mとした予測が届く前である。及川企画課長が放送室に“逃げたらいいっちゃ(逃げよう)”と声をかけ屋上に続く外階段を駆け上がったが、すでに水が近くまで来ていた。15時34分、防災庁舎に波がぶつかり屋上を越えていった。屋上にいた30人ほどの内10人が救助されたが、遠藤さんほか危機管理課職員など約20人が殉職した。実際の津波の波高は津波警報の6mを遙かに超える15.87mだった。しかし南三陸町の町民1万5000人の内半数近くが高台に避難し助かっている。後に多くの町民たちから“あの放送のおかげで背中を押され助かった”との感謝の言葉が町役場に寄せられたという。

〈 岩手県宮古市田老地区 〉

 一方、“万里の長城”と呼ばれた大防潮堤を信じ犠牲者を増やした地区がある。岩手県宮古市田老地区では、昭和三陸地震津波による全村壊滅後、総延長2433m、基底部最大幅25m、海面高さ10mというX字型の大防潮堤を完成させ、地区の人々に鉄壁の守りと思わせていたが、地震発生の約40分後、時速115kmの津波が襲い、波の高さ19mの大波はやすやすと防潮堤を乗り越えて進み39.7mの高さまで達し家屋や人々をのみ込んだ。
 大津波は市町村の防災担当課職員だけではなく、防災機関や介護および障害者、医療関係施設、学校などに勤務し、あるいは地域で職務を遂行するなど、地域住民、要介護者、障害者、患者、生徒たちなどの避難誘導に当たった多くの人々を殉職させている。
 なかでも消防・警察関係では消防団員254人、消防職員27人、警察官30人の多くの人々が殉職した。消防団は、わずかな出動手当のみで職務を遂行するボランティア組織で、江戸時代、城下町では“町火消”として、農村地帯では村の“若者組”がそれぞれ地域の防火、消防を担い、明治時代以降“消防組”として活躍し、その後幾多の変遷を経て第二次大戦後(1945年~)“消防団”として復活、特に常備消防の消防職員が少ない地域では、地域防災の柱としてその存在は大きく、住民の信頼も厚く、各消防団員は誇りを持って活動している。
 この日、地震の揺れと大津波の襲来を受け各地の消防団では、団員が手分けをして防潮水門を閉鎖し、ポンプ車などで各地区を巡回して避難を呼びかけたり、逃げ遅れた住民の調査確認、避難誘導などに取り組んだが、役場の消防局や課との無線や携帯電話も途絶え、団員間の連絡も取れなくなり、救援も呼べず孤立した活動になったという。なかでも水門の閉鎖に駆けつけ、津波の犠牲になった団員が多い。また、防災無線が途絶えた中で、若い団員を避難させた後、古い半鐘を持ち出し、津波が庁舎に来るまで鳴らし続けて住民に避難を呼びかけ殉職したベテラン団員のエピソードは、この日のすべての消防団員の活動を象徴しているという。

〈 消防・警察、消防団員、民生委員など”志”への殉職 〉

 しかし団員の殉職は地域防災力の低下を意味する。震災後、被災地各地を中心に、津波到達予測10分前での水門閉鎖および海岸周辺での避難呼びかけの中止など、団員の活動マニュアルの見直しが進んでいる。当然の動きであろう。
 消防職員の殉職者の内11人が避難誘導や救急活動中の殉職で、警察官の殉職者の多くが避難誘導や被害情報の収集に当たっている最中に津波に巻き込まれたものという。また各庁舎内で指令業務や避難の呼びかけ中、庁舎が津波に襲われ殉職した消防職員や警察官も多く、災害時の職務規程やマニュアルなどの見直しが進んでいる。
 各地域や施設、学校などで集団避難の際、殉職した人々は、地域で災害時要援護者の安否確認や避難誘導、避難介助を行いその過程で殉職した民生委員56人の人々が記録されている。しかし、自治会、町内会の役員、自主防災組織の人々など、地域で住民たちの安否確認や避難誘導を行った人々の殉職者についてエピソードは伝えられているが全体的には不明だ。しかし避難の際、同様な活動をしたことは記録しておこう。
 また、避難時動きが自由にならない患者や施設入居者たちの避難介助、重い車椅子に乗った患者たちなどを建物の最上階へ上げようとして力尽きた事例など、看護師や看護助手41人が死亡しており、ほぼ全員が殉職と思われる。また介護施設など社会福祉施設では、被害を受けた勤務先で、全体の約1割の職員が殉職しているという。

〈 災害時要援護者の避難 〉

 津波の際、集団で避難することについて、犠牲者を多く出したこともあり、この大震災後、否定的な意見が多い。1896年(明治29年)6月の明治三陸地震津波の教訓から、三陸地方では“津波てんでんこ”の教訓が伝承され、津波が襲ってきたときは、周りに構わず自分で状況を判断して“てんでんばらばらに逃げ、自分の身は自分で守る”とされている。
 しかし、幼児や身体・精神障害者、介護度の高い高齢者、重・中等症の患者など“災害時要援護者”については、集団とは言わないまでも、組織的な避難誘導や援護が必要である。これらのケースでは、やはり、日頃の防災訓練と被災時の学校や各施設でのリーダーである園長、学校長、施設長、事業所長などの判断の可否が今回も明暗を分けた。この日幼稚園児72人が津波の犠牲になっている。
 学校関係では、教職員と学生、児童生徒を含めて659人が犠牲になり、262人が負傷している。そのうち集団避難が失敗した事例として石巻市大川小学校の事例がよく挙げられているが、その真相はほかの犠牲者の事例と同じで、やはり地震調査委員会などが公表した誤った長期評価と、それらを基にした市のハザードマップにあったと言えよう。
 地震発生時は、ちょうど児童が下校の準備をしている時だった。すぐさま教務主任が校舎内にいた教職員と児童たちに校庭へ避難するように伝え、108人の児童たちは裏山側にある校庭の中央にいつものように整列して指示を待った。いま確認すれば、大川小学校は北上川河口からわずか4km、標高わずか1.5mの低地に、沿岸から狭い住宅地と県道を挟んで建っており、津波の襲撃からは危険極まりない所にある。
 なぜすぐ裏山に避難しなかったのか、証言によれば、高台に避難を呼びかける市の広報車の声を聞いた高学年の児童たちが、それを先生に進言したが退けられたという。学校ではそれまで避難場所を決めておらず、その日避難地としていた川沿いの三角地帯へ移動したのは15時25分ごろで、津波が襲来したのはその12分後であり、児童たちが裏山の裾から県道に出た途端だった。
 学校からは目の前の住宅と堤防が死角となって、直接北上川の状況が見えない弱点があったが、40分も校庭で待機していたことになる。児童74人と教職員10人が死亡、生存した34人の児童と3人の教職員の多くが、とっさに裏山をよじ登り助かった。実は大川小学校は、市のハザードマップによればこの地区にはこれまでも津波が到達した記録がなく、その点から住民たちには、大川小学校をいざというときの避難場所として指定されていたという。

〈 “釜石の奇跡” 〉

 集団避難の成功例として良く言われているのは、“釜石の奇跡”と呼ばれている事例で、釜石東中学校生徒が、隣接する鵜住居(うのすまい)小学校の児童たちを誘い、一緒に避難することで当時両校にいた約570人が全員無事で避難することが出来た事例である。
 地震発生直後、鵜住居小学校では校舎の非常扉が閉まり停電したので、教務主任が津波に備えていったん全校生徒を校舎3階へ避難させる。一方、釜石東中学校ではすでに生徒たちが教職員と一緒に“てんでんこ”に避難し始めており、隣接する鵜住居小学校の児童たちが3階へ集まっているのを見て、生徒たちは口々に一緒に避難することを呼びかけ、防災訓練時に避難場所として決まっていた約500m先の認知症介護施設めがけて走り出す。近隣の住民たちも生徒が避難し始めたのを見て一緒に避難行動開始。
 第一次避難先裏の崖が崩れ落ちるのを見た生徒が、教師にもっと高台の介護施設へ避難することを進言、すぐさま生徒・児童全員が第二次避難先を目指して駆け出す。その後、津波が堤防乗り越えたとの情報を消防団員や住民から聞いて、生徒たちはすぐさま反応、より高い第三次避難場所としていた石材店目指して山道を駆け上り、第三次避難場所で自主的に点呼をとり全員無事を確認、自分たちの中学校と小学校や釜石の市街は波にのまれたが全員無事避難を終えている。これは日頃の防災訓練で、両校の生徒と児童がともに避難先と避難方法を承知して実行していたことが成功につながったと評価されているが、そこには“てんでんこ”的な自主避難と、幼い小学生の手を中学生が握り、励ましあいながら避難をするといった協力の姿勢が両立していた点も評価されて良いのではないだろうか。これは次の“絆”の原点であろう。

 この年“絆(きずな)”という文字が2011年を表す漢字に決まり、流行語大賞のトップテン入りをしている。本来この文字は家畜を立木などに縛り付ける綱を指し、しがらみ、呪縛、束縛の意味に使われていたが、人と人との結びつき、支え合い、助け合いを意味するようになったのは、この日の東日本大震災に対する支援活動からである。
 そのくらい、被災者を直接支援した現地の防災や福祉、医療関係者以外に、国際的支援も含めて全国的に幅広く、スポーツ、芸能関係も含めた各方面からの支援や慰問活動、それもボランティアでの活動が広まったのは前例がなかったという。ボランティア元年と呼ばれた1995年(平成7年)1月の阪神・淡路大震災の支援活動以来、災害のたびに積み重ねてきた経験や教訓が、この日の大災害からの復興に生きていた。有り余るくらい心温まるエピソードが生まれたが、この記事は災害を記録する記事であるのでこの程度でとどめよう。しかし女子サッカーの日本代表チーム“なでしこジャパン”が、7月18日(日本時間)男女を通じてはじめてワールドカップを制し世界一なったのは、大震災後の国民とりわけ被災地の人々に励みと希望を与え絆を深めた大きなエピソードである。

【 被害概要のまとめ 】
 (余震域外の地震による区別不能な被害を含む)

 東日本大震災被災地全体の膨大な被害は次の通りとなっている(余震域外の地震による区別不可能な被害を含める)。

▼施設・建物
 岩手、宮城、福島3県の防潮堤約300kmのうち約190km全・半壊(2011年4月10日報道)。震度5強以上の面積3万4843平方km、津波浸水面積507平方km(2011年4月8日現在・以下略)。住家全壊12万1996棟、その内津波による全壊約12万棟(2011年8月4日調査)、同半壊28万2941棟(その内津波による被害約7万6000棟:同調査)、同一部損壊74万8461棟、同床上浸水1628棟、同床下浸水1万75棟、公共建物被害1万4527棟、その他非住家被害9万2059棟。

▼人的被害
 被災死亡者1万9729人、行方不明者2559人、重傷者700人、軽傷者5346人、程度不明187人、火災発生330件(津波被害以外は消防庁2020年3月10日)。救出者2万6707人(2011年6月20日)、避難所2182か所(2011年7月22日)、避難所生活者約46万8600人(2011年3月14日)、援助が必要な孤立者約2万人(2011年3月13日報道)、震災関連死亡者:1都6県3767人(2020年9月30日)。

▼インフラ
 液状化による地盤沈下被害地域(青森県から神奈川県まで160市区町村)南北約650kmの範囲、同住家沈下被害2万6914棟(関東学院大学若松加寿江教授調査)、上水道断水千葉県の3万7000世帯(3月15日報道)。
 道路被害3559か所、東北新幹線鉄道被害約1200か所、在来線36線区鉄道被害約4400か所(2011年4月17日)、被害の大きかった私鉄:三陸鉄道317か所、同阿武隈急行366か所。空港閉鎖14:58成田空港、15:06仙台空港、15:15山形空港、17:42奄美・喜界空港。

▼ほか、主な被害
 首都圏における帰宅困難者推計約200~300万人(東京大学廣井悠助教)、その内一時滞在施設と収容者数1039施設約9万4000人(2011年3月11日)、同主要駅における滞留状況約2万人(同日)。
 上水道断水約229万軒(2011年7月19日17時)、停電850万軒、復旧日数99日(2011年3月11日15時30分)、ガス供給停止約208万軒、復旧日数55日(2011年5月5日)、固定電話不通約190万回線(2011年3月30日)、携帯電話基地局停波1万3000局以上、同発信規制ドコモ最大90%、au同95%、ソフトバンク同70%(2011年3月25日報道)。
 被災病院全壊10か所、同半壊581か所、被災診療所全壊169か所、同半壊3398か所(2011年7月11日)。被災児童福祉施設752か所、被災老人福祉施設547か所、被災障害福祉施設319か所、被災その他社会福祉施設8か所(2011年5月13日)。勤務先被災による東北3県の看護職員の移動:死亡行方不明41人、同退職381人、同休職361人(2011年9月2日)。被災後の看護職員勤務施設の稼働状況:通常通り284か所、一部稼働45か所、休業中15か所、閉鎖9か所、無回答24か所(2011年度)。

▼経済
 被害を受けた株式上場企業1135社、その内営業・操業停止472社、同営業・操業一部停止481社、同建物損壊529社、同ライフライン・インフラ被害208社、同生産ライン被害194社(2011年3月24日)。流失および冠水被害農地推定面積2万3600ヘクタール(236平方km)、農林水産物被害総額2兆4268億円、その内農地・農業用施設3万5676か所8841億円、同農作物・家畜および農業・畜産関係施設635億円、同林野関係施設および森林荒廃など2155億円、同漁船流失など被害2万8612隻1822億円(既存の約9割が被害を受け、その内約2万2000隻が廃棄)、同漁港施設319漁港8230億円、同養殖施設738億円、同養殖物597億円、同市場・加工施設など1725施設1249億円(2012年3月5日)、同岸壁被害373か所(2011年)。
 がれき発生量約2263万3000トン(2011年8月9日)、自動車破棄約27万台(2011年4月16日報道)、津波堆積物1319~2802万トン(2011年7月5日)。

 (主な出典:総務省消防庁編「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)について・第160報」、内閣府編「特集・東日本大震災」、朝日新聞2011年3月29日付「東日本大震災・地図で見る津波の被害、浸水の範囲500平方キロ:国土地理院発表」、同紙2011年9月6日付「東日本を襲った巨大津波、常識覆したM9(津波遡上高):東北地方太平洋沖地震津波合同調査グループ調査結果より」)、同紙2011年4月20日付「大津波は明治+貞観型:東京大学地震研究所発表」、同紙2013年10月8日付「津波発生源は岩手沖:海洋研究開発機構・市原寛技術研究副主任グループ発表」、同紙2011年4月8日付「宮城県沖、海底のずれ最大55メートル、津波を増幅:東京大学地震研究所古村孝志教授+前田拓人東大特任助教ら解析による」、地震調査研究推進本部編「2.海溝型地震の長期評価の概要>三陸沖から房総沖にかけての地震>三陸沖南部海溝寄り(算定基準日 平成23年(2011年)1月1日)」、朝日新聞2021年2月14日付「福島・宮城で震度6強」。大槌町編「東日本大震災記録誌“生きる証”>第11章 忘れず、伝える」、朝日新聞2011年4月21日付「大槌役場玄関横本部に津波、高台避難訓練せず・防潮堤を過信」、陸前高田市編「陸前高田市東日本大震災検証報告書>第4章 災害対策本部の震災当日の検証」、朝日新聞2021年1月12日付「伝える・東日本大震災10年目、待避基準なく待機続けた市職員、岩手陸前高田市」、河北新報「防災対策庁舎の悲劇・宮城南三陸」、朝日新聞2011年4月11日付「“津波が来ます”と娘の声。やがて防災無線が途切れた。」同紙2011年4月10日「津波防災見直し急務」、同紙2011年4月22日付「津波到達時速115キロ:岩手県立博物館大石雅之首席専門学芸員分析発表」。総務省消防庁編「東日本大震災記録集>第4章 消防庁・消防機関等の活動>3.5消防職団員・消防施設等の被害」、警察庁編「回顧と展望 東日本大震災と警察>第3章 被災地での警察を取り巻く状況>1.警察官の被害」、全国民生委員児童委員連合会編「災害に備える民生委員・児童委員活動に関する指針>第1部 災害に備える民生委員・児童委員活動>1.災害に関する民生委員・児童委員活動を取り巻く状況>(2)被災地から明らかになった課題」、日本看護協会編「被災地域における看護職員実態調査 報告書」、同協会編「東日本大震災報告書>第Ⅲ章 復旧・復興支援事業>1.会員の被災状況調査」、藤野好美+三上邦彦+岩渕由美+鈴木聖子+細田重憲著「東日本大震災における社会福祉施設が果たした役割について」、文部科学省編「東日本大震災による被害情報について(第208報)>3.文部科学省関係の被害状況>(1)人的被害」。河北新報「大川小学校を襲った津波の悲劇・石巻」、朝日新聞2011年9月10日付「津波からの避難・大川小学校の避難状況」、総務省消防庁編「防災危機管理eカレッジ>一般コース>過去の災害から学ぶコース>東日本大震災に学ぶ>3.釜石の奇跡」、内閣府編「特集 東日本大震災から学ぶ-いかに生き延びたか->釜石東中学校のみなさんの報告」。朝日新聞2011年4月10日付「東日本大震災の被害・各地の津波の高さ:東北地方太平洋沖地震津波合同調査グループ調査結果より」、内閣府編「東北地方太平洋沖地震を教訓とした地震・津波対策に関する専門調査会第8回会合>参考資料2東日本大震災を踏まえた今後の被害想定の主な課題・海溝型地震に伴う広域災害への対応」、復興庁編「東日本大震災における震災関連死の死者数」、厚生労働省編「東日本大震災における被害状況(医療機関・社会福祉施設)」、国土交通省地方鵜運輸局編「第2編 各鉄道の被災と復旧>第3章 三陸鉄道>第1項、被害状況」、同編「同編>第6章 阿武隈急行>第1項 被害状況」、農林水産省編「第1章 地震・津波による被害と復旧・復興に向けた取組>表2 農林水産関係被害状況、表3 津波により流失や冠水等の被害を受けた農地の推定面積」。参照:2009年7月の周年災害「貞観三陸地震、M8の巨大地震、東北地方太平洋沖地震は再来か」、2013年3月の周年災害「昭和三陸地震津波。東北地方太平洋沖地震と比較されて語られた大津波」)

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