【目 次】

2011年東北地方太平洋沖地震「東日本大震災」―津波・殉職・絆-貞観+昭和三陸地震津波の再来か
・東京電力福島第一発電所原子炉水素爆発。東北地方太平洋沖地震の津波による大事故。津波による事故の危険を把握しながら、予測であるとして放置した東電と経産省原子力保安院の怠慢

〇東京電力福島第一発電所原子炉水素爆発。東北地方太平洋沖地震の津波による大事故。津波による事故の危険を把握しながら、予測であるとして放置した東電と経産省原子力保安院の怠慢
 2011年(平成23年)3月13日


 14時46分ごろ、マグニチュード9.0という国内史上最大規模の超巨大地震“東北地方太平洋沖地震”が、牡鹿半島東南東130km付近の三陸沖深さ24kmを震源として発生した。
 東京電力福島第一原子力発電所の1号機から4号機原子炉が建ち並んでいる大熊町には震度6強の強い揺れが襲ったが、揺れと同時に1号機から3号機各原子炉は自動的に緊急停止、外部からの電源は停電で失われたが非常用発電機が直ちに起動、それぞれの原子炉内では冷却装置が動き出した。しかし1号機では、高圧の蒸気を冷やして水に戻す非常用復水器が起動と停止を繰り返すという不安定さを示していたが、4号機と隣接する双葉町に建つ5、6号機は当時定期検査で稼働停止中だったので何事もなく、その程度の軽い事故で済むと思われていた。
 ところが岩手県から茨城県にいたる太平洋沿岸部の約500kmにわたり未曾有の津波が押し寄せた。大熊町、双葉町には15時37分ごろ高さ14mの波が14mから15mも遡上したとされる。
 大津波は防波堤を乗り越えて発電所敷地内に侵入、配電盤や非常用発電機までも水没させ、同37分から41分にかけて1号機から3号機原子炉の順に全電源が喪失、冷却装置が停止して圧力容器内に注水することが不可能になった。それにより高温となった燃料棒が大量に発生する水蒸気と反応して水素を発生させ、最後には原子炉建屋内で水素が爆発し建屋を粉砕、屋外へ水素や放射性物質の放出に至るという大事故に発展することが予測された。また津波の進入で地震の被害を調査中だった2名の社員が水にのまれて犠牲となっている。

 津波による電源の喪失という非常事態を起こしたことが、水素爆発による屋外への大量の放射能放出と汚染という大事故の原因となったが、東京電力はそのあたりの対策を立てていなかったのか、確かにこの超巨大地震の発生は国の専門機関も学者も“想定外”としたほどのものだったが、津波に関してはどうだったのか。検証の結果、大津波の襲来は少なくとも5年前から起こり得ることが想定されていたという。ところが、国による地震や津波防災に関する再審査には、コスト高を懸念する電力会社の反対で進んでいなかった。
 福島第一原子力発電所を襲った津波の高さは14mだったが。東京電力が想定していた高さは4.5mであった。一方北に約120kmも震源に近い東北電力女川原子力発電所には最大17.6mの波が押し寄せたが、敷地の海沿いの斜面と平均海面より14.8m高い場所に原子炉建屋を設けた上、津波の高さを9.1mと想定していたので大きな被害はなかった。東京電力では、水素爆発事故を起こした夜の社長会見で“想定を大きく超える津波だった”と釈明したが、果たして想定外だったのかどうか検証された。

 実は大事故の5年前2006年、同社の原子力・立地本部研究チームが福島原発を襲う津波の高さを調査し、7月には原子力工学の国際会議で“設計の想定を超える高さの津波が50年以内に約10%の確率で来る”と発表していた。また国の新しい原子力発電所耐震指針が公表され、同社でも約800億円の耐震補強予算を見積もったが、一部実施したのみで大事故を起こした1号機から3号機には全く実施していなかった。
 その2年後の2008年には、有識者の意見と国の地震調査研究推進本部の見解をもとに予測される津波の高さを試算したところ15.7mと結果が出たが、防潮堤の設置には数百億円規模のコストと約4年間の建設期間が必要との報告を本社に行い、この検討に携わった当時の本社原子力立地副本部長と設備管理部長は“これは仮の試算であって実際に津波は来ない。原発を守る防潮堤の建設は社会的に受け入れられない”とも発言したという。
 ついで津波2年前翌2009年6月、経済産業省で開かれた既存原子力発電所の耐震性を再検討する専門家会議で、産業技術総合研究所活断層・地震研究センターの岡村センター長が、三陸地方で過去に大きな地震津波があり再び来る可能性のあることを指摘、“東京電力がそこに全く触れられていないのは納得できない”と何度も激しい口調で指摘、原子力安全・保安院の安全審査官は“今後、当然検討する”とし、東京電力に大地震津波の危険性に対する対応について説明を求めたが、具体的な措置は求めなかったという。また大震災4日前の3月7日には東京電力で出した15.7mという津波の試算について報告を受け、津波の再評価を口頭で促したものの、対策工事については明確に要求していない。
 岡村センター長が指摘した大津波とは869年に起きた貞観三陸地震津波を指しているが、原子力発電所の安全審査では最新の科学成果を反映することになっているので、貞観地震津波に対する研究成果を反映するべきだった。しかし当時はまだ原子力発電所の新設が続いており、電力業界から新設計画が一段落するまで、既存原発の防災力の強化は工事中運転休止なりコスト増にもなるので、地震・津波問題は検討するなとの圧力がかかったという。東京電力も原子力発電所の事故による放射能汚染を防ぐべき国の原子力安全保安院も、大津波の危険性と実際に起こる可能性を把握しておきながら放置し大事故を招いてしまっている。また同院は国の原子力安全委員会が、原発の防災指針について、2006年に国際基準に適用し改正しようとしたところ強行に反対もしている。誰のための“安全保安院”だったのか。

 事故の概要について記そう。
 最初に水素爆発を起こしたのは1号機で、津波による全電源喪失の翌12日15時36分とされる。ちょうど丸1日経っていた。1号機では全電源喪失後、同機にしか設置されていない非常用復水機も機能を失い、圧力容器内への注水もできなくなり、その上監視・計測機能も失ったため、原子炉や機器の状態を確認することも不可能となった。その後、圧力容器内の水が蒸発し続け、約4時間後、燃料が水面から露出して炉心損傷が始まる。露出した燃料棒の表面温度が崩壊熱により上昇、燃料棒の表面が圧力容器内の水蒸気と反応して、大量の水素が発生。温度上昇によって生じた格納容器の蓋接合部などの隙間から漏れ出た水素が原子炉建屋上部に溜まり、何らかの原因により引火して爆発。また溶融した炉心が圧力容器の底を貫通し、格納容器の床面のコンクリートを侵食、水素爆発に伴う周辺のがれきの散乱などが作業の大きな妨げになり、2号機、3号機への対応が遅れる原因となった。
 次に3号機では、電源設備が1号機、2号機より少し高い位置にあったので浸水を免れ、隔離時冷却系や高圧注水系の運転・制御が継続、計器類による原子炉の状態監視も続けることができた。1日半程度注水を続けた後、ディーゼル駆動消火ポンプによる低圧注水に切り替えるため高圧注水系を停止したが、この後の減圧に時間がかかり水位が低下し、水素が発生するとともに炉心損傷に至り、減圧を確認した後、消防車による注水を開始したが、格納容器から漏れ出した水素によって、14日午前11時1分に水素爆発が発生となっている。
 最後に2号機だが、高圧蒸気でポンプを動かし圧力容器内へ注水する隔離時冷却系が津波襲来前から動作しており、全電源を失った後もこれが動き続けていたので約3日間注水を続けている。この間、他の冷却系統で注水を行なおうと水没を免れた電源盤に電源車をつなぎ、電源確保の作業を進めていたが、1号機の水素爆発によりケーブルが損傷、電源車が使用不能となる。また、14日11時1分には3号機で水素爆発が発生、準備が完了していた消防車及びホースが損傷、使用不能となり同日13時25分に遂に隔離時冷却系の停止が確認され、圧力容器内の水位が低下、炉心損傷が起こり水素が発生。しかし原子炉建屋上部側面のパネルが1号機の水素爆発の衝撃で開いため、水素が外部へ排出され、原子炉建屋の爆発は回避された。

 東京電力では、津波により全電源の喪失が確認された15時41分の4分後、1,2号機の原子力緊急事態を政府に報告、19時3分には当時の民主党(現・立憲民主党ほか)の管(かん)直人政権では原子力緊急事態を宣言した。20時50分それを受けた福島県が大熊町、双葉町など原発から半径2km圏内住民を避難させるよう政府に要請、政府は3km圏内の住民に避難を指示、3~10km圏内の住民には屋内退避を指示した。後に原子炉の水素爆発による放射能汚染区域の広がりにより、4月22日には半径20km以内の圏内が警戒区域となり、半径20km以上30km以内の圏内が緊急時避難準備区域へと拡大していく。
 この大津波による原子炉の水素爆発の被害について、完全に終息していないので全貌は明らかではないが、国会事故調査委員会で次のようにとりまとめられ、2012年(平成24年)7月、両院議長に提出されている。

 その報告によると、ヨウ素換算で約900ペタベクレル(PBq)の放射性物質が大気中に放出され、福島県内の1800平方kmの土地が年間5mmシーベルト以上の空間線量を発する可能性のある地域となった(註:一般人の年間の放射線量限度は1ミリシーベルト以下と法律で定められている)。また国会事故調の発表ではないが、この年の8月2日現在、放射線量が原発より半径30km圏外近くの福島県浪江町赤宇木で15.5マイクロ(ミリの0.001倍)シーベルト/時、60km圏内の飯館村伊丹沢で2.48、いわき市で0.18、郡山市で0.87、60km圏外近くの福島市で0.98放射されていることがわかった(2011年9月11日報道)。
 これらにより本事故による避難区域指定は福島県内の12市町村に及び、避難した人数は、8月29日現在、福島第一原発から半径20km圏内の“警戒区域”で約7万8000人、20km以遠で年間積算線量が20ミリシーベルトに達するおそれがある“地域計画的避難区域”で約1万10人、半径20~30km圏内で計画的避難区域及び屋内避難指示が解除された地域を除く“地域緊急時避難準備区域”5万8510人、合計では約14万6520人に達した。また大事故の翌2012年(同24年)6月現在、原発から放出された放射性物質を原因とする重篤な健康被害者は幸いにも確認されていない。

 しかし一方、福島第一原発から20km圏内に7つの病院があり、事故当時この7つの病院に合計約850人の患者が入院していた。そのうち約400人が人工透析や痰の吸引を定期的に必要とするなどの重篤な症状を持つかいわゆる寝たきりの状態にある患者であった。ところが本事故によって避難指示が発令された際、これらの病院の入院患者は近隣の住民や自治体から取り残され、それぞれの病院が独力で避難手段や受け入れ先の確保を行わなくてはならなかった。
 そのためもあり、3月末までの死亡者数は7つの病院及び介護老人保健施設の合計で少なくとも60人に上り、別の病院への移送完了までに死亡した入院患者数は、双葉病院の38人をはじめとして合計で48人に上った。また、双葉病院の系列の介護老人保健施設の入所者は同病院の患者と一緒に避難したが、そのうち10人が死亡している。なお、死亡者の半数以上が65歳以上の高齢者である。
 なかでも3月末までに40人の死亡者が発生した双葉病院をはじめ今村病院、西病院、小高赤坂病院では、医療設備のある避難先や避難手段の確保が比較的遅かった上に入院患者数も多く、避難先の医療機関と避難手段の確保が難航し、近隣住民や自治体よりも避難が遅れ過酷な状況に追い込まれた。また医療関係者の避難による病院の人手不足や、重篤患者のバスによる避難、医療設備がない避難先への移送をとらざるを得ず、多くの患者の容態の悪化を招き、死亡者が発生するという被害の拡大につながった。
 さらに事故発生の3月から翌年4月までの間、本事故の収束作業に従事した東京電力の作業員が3417人、協力会社の作業員は1万8217人だが、このうち、緊急作業における線量上限の250ミリシーベルトを超える外部被ばく及び内部被ばくの積算線量を被ばくした東電作業員は6人であり、健康被害の発生の目安とされる100ミリシーベルトを超える積算線量を被ばくした東電作業員は146人、協力会社の作業員は21人となっている。

 このほかこの原発事故による放射能汚染は、被災地福島県の住宅地、農地など生活圏や山林など面積の7割におよびその内の7割が山林という。そのため県民を始め、国民生活にさまざまな影響を与えている。ひとつは土壌に強く吸着し半減期が長期に及ぶため10年後の今日でも続いている汚染地域での環境除染作業であり、今ひとつは農地から収穫する米や野菜など農作物、および飲料水に対する残留放射能検査であり、汚染された原子炉から出ている汚染水の海への放出問題から生じた福島県沿岸漁獲物に対する風評被害である。また廃墟と化した福島原子力第一発電所各原子炉の廃炉作業も難航しており、まだまだ残留放射能の除去作業とそれに関わる問題は今後も長く続きそうだ。
 (主な出典:東京電力福島原子力発電所事故調査委員会報告書(国会事故調)>第4部 被害状況と被害拡大の要因(その1))

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