【目 次】

・元和7年伊豆、房総半島沖船舶集団遭難-春の嵐か(400年前)[改訂]

・金沢享保16年の大火「小立野火事」武士屋敷街焼く(290年前)[改訂]

・会津若松享保16年の大火、7時間余燃え続ける(290年前)[改訂]

・酒田寛延4年の大火「宝暦の大火:豊後火事」大火で焼失した陣屋(幕府御米置場)の事(270年前)[改訂]

・八重山地震津波「明和の大津波」石垣島では人口の約半数を喪う(250年前)[改訂]

・阿波(徳島県)撫養、堂の浦(鳴門市)の漁船紀州沖で集団遭難「かどや日記」より(200年前)[追補]

・明治政府「治水条目」を定め初めて洪水防御を法的に規定用語「治水」の登場(150年前)[追補]

・福島明治14年の大火「甚兵衛火事」-近代的な道路建設へ(140年前)[改訂]

・警視庁初めて危険物を法的に規制、石油精製品(主に灯油)の貯蔵運搬を対象[追補]

・警視庁鑑識係設置、指紋鑑定による犯人捜査へ、誤認逮捕なくなる(110年前)[改訂]

・東京吉原明治44年の大火、遊郭全焼さらに郭外6000戸余を焼く(110年前)[改訂]

・東京浅草大正10年の大火、消防ポンプ効果なく破壊消防でとどめ(100年前)[再録]

・函館大正10年の大火、1万人余の被災者を出す(100年前)[再録]

・千葉県銚子沿岸で漂流毒ガス弾を引き揚げ22人死傷、約50年間で重軽傷者130人
事件20年後も事故が続き、ようやく全国的調査と被災補償の道開く(70年前)[追補]

・桜木町事件「六三型電車炎上事件」、戦時中の資材不足を反映した人命無視車両の悲劇(70年前)[改訂]

・呉市林野火災で消防職員殉職-広島県・呉市、政府に抜本的近代化求め消防ヘリ活用へ道開く
予防・消火体制は地域ごとに対応したものに成長(50年前)[改訂]

・敦賀原発放射能漏れ事故隠し発覚、安全性への欠如、稼働以来点検も補修もせず原子炉運転(40年前)[改訂]

・救急救命士法公布-救急業務の発展へ(30年前)[再録]

【本 文】

○元和7年伊豆、房総半島沖船舶集団遭難-春の嵐か(400年前)[改訂]
 1621年4月28日(元和7年3月7日)
 江戸幕府の公式記録「柳営日次(ひなみ)記」この日の記事に「大雨降雷大ニ鳴。晩方晴、又大風吹いて終夜不止。房州・豆州より渡海之船、悉以破滅。人数百人死」とある。
 この災害の46年後の1667年4月(寛文7年閏2月)に、幕府が「浦方条目(浦高札)」で難破船の救助制度を定めたように、4月は強風による船舶の遭難事故などが多く記録されている。
 日次記の内容は、この日の大雨と雷は夜になって止んだが、大風は一晩中吹いて房州(千葉県)から豆州(静岡県伊豆)沖の海上が大荒れとなり、航行中の船のことごとくを転覆させ数百人が死亡したとある。
 この暴風雨は、3月から5月にかけて日本付近で急速に発達する低気圧によってもたらされる、台風並みの勢力を持つ「春の嵐」と思われる。
 (出典:東京都編「東京市史稿>No.2>変災篇第2・41頁:元和七年三月風災」、政府広報オンライン「台風並みの暴風となる春の嵐」[追加]。参照:2017年4月の周年災害〈上巻〉「幕府、難破船に対する浦方条目(浦高札)定める」[追加])

金沢享保16年の大火「小立野火事」武士屋敷街焼く(290年前)[改訂]
 1731年4月7日(享保16年3月1日)
 巳の刻(午前10時ごろ)、金沢城の南東に当たる小立野(こだつの)一本松崖下にある前田大炊の家来、足軽・平田十兵衛宅より出火した。
 折から強風吹きすさび炎は段々に大きくなり、足軽弓組の宅地・弓町から藩家老・横山蔵人家中の宅地、旧・松下町など、小立野一帯に焼け広がり7、8町(760~870m)四方を焼き尽くした。鎮火したのは7つ半時(午後5時ごろ)という。
 被害は100石以上の人持組・永原式部宅、同永原大学宅、頭分者の永原勘左衛門宅、同永原治左衛門宅、同永原権左衛門宅、同松尾縫宅など9軒、平士(平ざむらい)の家81軒、与力の家14軒、御歩(お徒士侍)の家236軒。足軽、坊主、小者、外陪臣、町家など合計1311軒。土蔵216棟、山伏等の家21軒。そのほか天徳院下馬左右腰懸、如来寺並びに番所、経王寺門番所・鐘堂、波着寺は御預の八幡宮共、寺院11か所、百々女鬼(どどめき)橋、焼失。男女各2名が逃げ遅れて死亡している(被災数は「政隣記」による)。
 (出典:前田家編輯部著「加賀藩史料 第6編>享保16年 735頁~737頁:三月朔日。」)

○会津若松享保16年の大火、7時間余燃え続ける(290年前)[改訂]
 1731年4月24日(享保16年3月18日)
 夜の九つ半(午前1時ごろ)、城下南町西横町の紺屋(染物屋)から出火、折からの激しい東南の風にあおられて晒屋町や花畑に飛び火した。
 炎の一方は米代四ノ丁桂林寺町通下から三ノ丁、二ノ丁と焼き、融通寺町北之方を少し残し半兵衛町烏橋通まで焼失。また一方は河原町の橋を焼き、新町北之方を3分の2ほど、村木町北之方のほとんどを焼いて同心町、片原町を全焼し柳原村から幕内村など一円を焼き尽くした。数日来うち続く乾いた天気のため、鎮火したのは翌朝の五つ(8時ごろ)だった。
 侍屋敷は土手内57軒、土手外175軒、足軽家396軒。町家は南町19軒、材木町96軒、河原町75軒、融通寺町81軒、東黒川52軒、西黒川63軒。年貢地の村の家は柳原村38軒、幕内村18軒の合計1070軒。そのほか寺院6か所、花畑口と河原町口の二つの御門や、河原町口と融通寺町口の二つの番所などを焼失した。
 (出典:家世実紀刊本編纂委員会編「会津藩家世実記 第7巻>家世実紀巻之百二十五>徳翁様之六十九(享保16年3月)340頁:三月十八日、若松大火」)
 

酒田寛延4年の大火「宝暦の大火:豊後火事」、大火で焼失した陣屋(幕府御米置場)の事(270年前)[改訂]
 1751年4月24日(寛延4年3月29日)
 この日、新井田川(にいだがわ)沿岸で川船業者や丁持(俵担ぎ人足)が多く住んでいる荒瀬町の甚九郎宅から出火、 炎は折からの東南の風にあおられて広がりを見せ瞬く間に延焼、西北の日和山にある幕府の陣屋(江戸、大阪へ送る廻米の御米置場)まで焼き尽くした。
 80人死亡、住家2405軒と町家・寺院のほとんどを失い、湊停泊中の船舶10隻のほか、酒田の命というべき陣屋や商家の蔵170棟が焼け、米と麦10万2667俵、たばこ1万箱を焼失。米を中心とした農作物の一大集散地で東北有数の港町が大きな痛手を被った。
 ちなみにこの年の10月27日に寛延から宝暦に年号が改元されたので大火には「宝暦の火事」と名前がついている。
 なおこの大火で焼失した御米置場は、大火79年前の1672年(寛文12年)、治水家の豪商・河村瑞賢が幕府から委託され、酒田→日本海→瀬戸内海→紀伊半島→江戸を目指す、新しい西廻海運開拓のため来訪し、大庄屋・伊東家に立ち寄った際、起点となる酒田にある幕府の御米置場についても検討「町中の米蔵では類焼する恐れがあるから、日和山西側が米倉庫を建てる良い場所と見立てた(伊東家文書)」と述べ、同年、河村家手代の監督の下、庄内藩が普請したものだった。
 なお大火後の翌5月ごろ(旧暦4月ごろ)幕府御米置場は再建されたが、それまで宿泊して夜間の警備にあたっていた出役(出張中)の手代(代官の下役:管理役)や名主(代官支配の郡中村々の村役人:御米の出し入れ役)たちは、江戸にいる各代官(幕府直轄領支配役人)たちからの指示で、御米置場構内での宿泊は廃止となった。
 また大火4年後の記述では、御米置場の規模は、最上川、新井田川をのぞむ南向きで、東西83間(約150m)、南北の奥行き53間(約96m)の広さを持ち、周囲に空堀をうがち土居(土塁)の上に木柵をめぐらし、門は南方に4か所、西方に1か所あり、柵の内側には地上に材木を置いて台木とし、各幕府直轄領の庄内、最上村山その他からの年貢収納米、数万俵の米俵を積み、その上をむしろや薦(こも)で覆い風雨除けとしていた。
 なお、各門際に名主たちが詰める管理用の番所5か所とそのほか柵内に綱や碇を入れる小屋と台木小屋2か所があり、門から川岸まで43間(約78m)であったという。
 (出典:酒田市史編纂委員会編「酒田市史 上巻(改訂版)>第4編 災害との苦闘>第2章 火災と火防>第3節 続発する大火の記録690頁~691頁:宝暦元年(1751)3月」、白崎良弥編「酒田港誌>宝暦 78頁:三月二十九日」、阿部正己著「酒田火災史綴>酒田町火災予防並消防沿革>4宝暦の大火と火防設備」、本間勝喜著「河村瑞賢建設当時の酒田湊・御米置場>1.歴史書に記された御米置場(NET検索可能)」[追加]。参照:2017年6月の周年災害「河村瑞賢、淀川治水完成-商都大坂へ発展」[追加])

○明和8年八重山地震津波「明和の大津波」石垣島では人口の約半数を喪う(250年前)[改訂]
 1771年4月24日(明和8年3月10日)
 辰の刻(午前8時ごろ)、石垣島南東沖合約40kmを震源とするマグニチュード7.4の地震が、八重山(先島)諸島(沖縄県石垣島:石垣市、西表島ほか:竹富町)と宮古諸島、与那国島を襲った。
 この地震の揺れはそれほど大きなものではなく被害も少なかったようだ。ところが、住民が安心しているととつぜん津波が三度にわたって人びとを襲った。
 当時の記録に、石垣島宮良村(石垣市宮良地区)を襲った津波の高さを28丈2尺(85.4m)としているが、実際は波が陸に押し上がった時の高さではないかと言われている。
 いずれにしても10~30mもする高さの津波が島々を襲い、中でも石垣島では、同島の約40%が波に洗われ、東海岸の大浜、宮良、白保、中与銘、伊原間、安良の各村がほぼ全滅するなど、同島だけで人口の48.6%の8439人が犠牲となり、被災地全域で32.2%、9393人が犠牲となっている。
 住家全壊は石垣島1891戸、全域で2176戸、同浸水は全域で1003戸、船の流失98隻のほか16.3平方kmという広大な田畑が流されて耕作が出来なくなり飢饉と疫病が広がり、津波後の100年間で更に人口が7000人も減少したという。
 (出典:宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧>4.被害地震各論114頁~115頁:202八重山地震津波」、気象庁石垣島地方気象台編「明和の大津波―巨大な岩を動かす津波の力!―」、山村武彦著「1771年・八重山地震・明和の大津波(津波跡現地調査)」[追加])

〇阿波(徳島県)撫養、堂の浦(鳴門市)の漁船紀州沖で集団遭難-「かどや日記」より(200年前)[追補]
 1821年4月21日(文政4年3月19日)記録
 
四国徳島沖の紀伊水道、特に鳴門海峡は狭い海域で、瀬戸内海と太平洋との潮の干満の差が激しく、海域で発生する“鳴門の渦潮”は観光名所となっているが、当然、潮流が激しい上、風の通り道にもなっているので、江戸時代までは、そこを航行する船舶が暴風雨に遭遇すればひとたまりもなく犠牲になったという。中でも沿岸漁業の漁船は木造の小型船なので、平常時の操業でも常に危険と隣り合わせであったであろう。
 阿波の国高原村(徳島県石井町)で、藍染の原材料などを商う“藍商”加登屋を営む元木家が、1805年(文化5年)から1860年(安政5年)まで書き続けた「かどや日記」の文政4年3月19日の日記に次の記録が残っている。
 “丑寅(北東)の風激しく、海辺では難船(難破)や船の破損により死人数知れず、中でも撫養、堂の浦(鳴門市)の漁船24、25艘が釣りに出ていたが、2艘だけが助かりそれ以外の船は全て行方不明となり、100人以上が戻ってこなかった”と、当時の海難事故の様子を伝えている。
 (出典:徳島市史編さん室編「徳島市史 第6巻 戦争編・治安編・災害編>第2章 徳島藩と災害>第4節 火災・海難>4 海難事故 654頁」)

〇明治政府「治水条目」を定め洪水防御を法的に規定、用語「治水」の登場(150年前)[追補]
 1871年4月11日(明治4年2月22日)
 
この日明治新政府は、太政官布告第88号「治水条目ヲ定ム」の前文で、太政官(政府)の土木司(現・国土交通省水管理・国土保全局など)内に検査掛を置くこと。検査掛は“川筋ヲ巡視シ”府県藩の“地方官ト力ヲ戮(勠:力を合わせるの誤字)セ、治水ノ方法(を)実地点検”するので“自今(今後)水理(流水路)関係ノ事件(事故や災害)ハ勿論(もちろん)別紙条目ノ件総テ土木司ト合議シ可否ヲ極メ”るようにと、各府県藩に指示した。
 その別紙条目は9条からなっているが、そこでは堤防の修築や維持に関する事項が中心で、それと河川区域の設定や堤防外の流水が滞りなく流れるようにすることが定められており、ここでいう「治水」とは堤防などにより流水を制御し洪水を防ぐことを指している。
 明治新政府は、その創設の年の1868年7月(慶応4年5月)に、淀川、大和川を襲った”戊辰の大洪水”と呼ばれた大災害に直面、同年11月(明治元年10月)には「治河使」が設置され、翌12月19日(同年11月6日)付の行政官布告第939号で、治河使は「水利」を担当するが、特に“差掛リ(差し迫っている)近畿ノ地ニ於テハ澱河(淀川)堤防等十分ニ修復致シ”と、差し迫った7月の大洪水からの復興を目指すとして、「水利」は堤防を修築し水害を防ぐとともに船舶の水路の整備を図ることと定めており、「水利」には2年半後の「治水条目を定ム」における「治水」とほぼ同じ意味を持たせていた。
 ここでいう「水利」とは文字通り「水を巧みに使う」との意味だが、この「治水条目ヲ定ム」の登場で、「水利」は方法、政策としての用語「治水」に転じ、現在では「治水・利水」と並べ、水の利用を示す「利水」という用語と分けて用いるようになっている。
 ちなみに1958年(昭和33年)策定の「建設省(現・国土交通省)河川砂防技術基準」によると、「治水計画」は「洪水処理計画」と「砂防計画」からなり「治水計画」の目的は、1871年(明治4年)の定義そのまま“洪水防御”にあると規定されている。
 (出典:松浦茂樹著「明治期における用語“治水”の確立について」、国立国会図書館デジタルコレクション「明治四年辛未年二月 太政官布告 90頁~92頁:第88号(治水条目)」。参照:2018年7月の周年災害「慶応4年梅雨前線豪雨、淀川、大和川流域大水害・戊辰の大洪水」)

○福島明治14年の大火「甚兵衛火事」-近代的な道路建設へ(140年前)[改訂]
 1881年(明治14年)4月25日
 午後4時10分ごろ、福島一丁目(現・柳町)の二階堂甚兵衛が経営する銭湯“みどり湯”で、たばこの吸い殻が縁の下にあった燃料の木屑に燃え移り出火した。
 折からの強い南風にあおられて炎は北側に延び、西側五丁目までを10分ほどで焼き尽くし、更に七丁目付近に飛び火、東は表通十丁目より御山通り裁判所前(現・新浜公園)あたりまで1.4kmほどを3時間ほどで灰燼と化した。その後、風向きが北風に変わり南の方へと炎が延び、置賜(おきたま)通から東西裏通、南北裏通などを残らず焼き払い、午後9時ごろようやく下火となり11時過ぎ鎮火、
 7人死亡、住家1785戸、土蔵359棟、寺院8宇、神社1宇、銀行6棟が焼失するなど福島町の8割を失った。
 みどり湯は、料理業・運天楼の貸し家を二階堂氏が借り、同町西郊に位置する火山・吾妻山から採れる“湯の花”を溶かし「温泉銭湯」として開業していたもの。
 福島県では、大火後の翌82年、三島道庸が県令(県知事)として山形県から赴任し、大火の教訓として近代的道路の建設に乗り出した。まず当時としては画期的な町の区画整理を行い、県都としての骨格はこの事業で作られたという。
 次に町の中心部を核として東西南北に走る陸羽街道(国道4号線)を整備、同町から米沢に達する万世大路(国道13号)を開削して山形県との交通を容易にするなど道路建設に力を注いだという。
 (出典:明治ニュース事典編纂委員会+毎日コミュニケーションズ出版部編集「明治ニュース事典 第2巻(明治11年~明治15年)>火災 135頁:福島県福島町の大火、千四百戸が全焼(東京曙)」[追加]、高野作次郎編「甚兵衛火事の記録>被害状況詳細」、福島市教育委員会編「ふくしまの歴史4近世>甚兵衛火事と道路建設」)

警視庁初めて危険物を法的に規制、石油精製品(主に灯油)の貯蔵運搬を対象(130年前)[追補]
 1891年(明治24年)4月20日
  この日、警視庁及び東京府は「石油精製場貯蔵場及運搬取締規則」を制定、公布したが、これが国内における初めての危険物規制法(規則)とされており、それには石油ランプの普及が大いにかかわっていた。
 石油ランプは、江戸幕府の時代から“御一新”による“文明開化”の明治へと切り替わった時代を象徴する灯火で、それまでの菜種油を灯した薄暗い行灯(あんどん)から、新時代を象徴する“灯油”を灯す明るい時代へと転換を示した。
 石油ランプは、江戸幕府が1858年(安政5年)、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ロシアの5か国との間で「修好通商条約」を締結、それにより長崎(肥前→長崎県)、横浜(武蔵→神奈川県)、箱館(函館:蝦夷地→北海道)、兵庫(神戸:播磨→兵庫県、新潟(越後→新潟県)の5港が次々と開港、江戸(東京)と大坂(大阪)は開市(貿易取引地域)とされて駐在領事館がおかれ、日本との貿易を求める各国の貿易商が来港し居留地へ商館を構えると、それぞれ好みの石油ランプ(洋灯)を持ち込み、その明るさだけでなく、さまざまにデザインを凝らした美しさに、当時の日本人は驚嘆したという。そして、これら貿易商人らと商談を交わした問屋など豪商たちは、競ってこの洋灯を輸入したが非常に高価なもので一般には普及しなかった。
 時は流れ1872年(明治5年)ごろになると石油ランプの国産化が始まり、安価なランプも生産されると、その便利さ明るさなどから都会を中心に瞬く間に一般庶民の間にも普及、2年後の1874年(同7年)の東京日日新聞は“紙張の行燈益々衰えて、瑠璃(ガラス)燈日々盛んなり”と報道、1877年(同10年)ごろには全国に普及していたという。
 しかし、石油ランプ(スタンド型)は行灯より倒れやすい面があるので、倒したり取扱いを誤ったりすると、灯芯を保護するガラス製の火屋(ほや)が割れ火災となる危険性があり、特に1872年2月16日(同5年1月8日)東京神田旅籠町(現・千代田区外神田一丁目1番)で発生した火災は、料理店から出火し住居や屋など90余戸を焼失している。この事態を受け、東京府は火災の4日後「ランプ使用注意方」を府下に布告、ランプの正しい使用法を呼びかけ火災防止に努めた。
 その後天井から吊り下げる形のランプも現れ、室内全体が明るくなり火災の危険も少ないと普及、明治時代の灯火の王者として君臨、現在でも電線の引かれていない山間部や小屋などで利用されている。また石油ランプに欠かせない灯油(精製石油)だが、当初はランプと同じく輸入品で、そのほとんどがアメリカから横浜港や神戸港に到着し、外国商館から引取商人の手を経て問屋にわたり、庶民は小売商による店頭や行商人が荷車に積んで街中を流す引き売りから購入した。
 一方国内では、越後国(新潟県)では古来より“燃ゆる水”として自然に湧出している“石油”を“くそうず(臭水、草生水)”と呼び、土瓶(どびん)などに入れ灯し灯火として使用していたが、石油ランプの普及により生産者は灯油に精製し販売に乗り出した。しかし手掘りのため生産量に限度があり零細業者のため多くは失敗したという。
 しかし1888年(同21年)新潟県石地(現・柏崎市)に有限責任日本石油会社が設立され、県内の尼瀬海底油田(出雲崎町)に於いて機械掘りに成功、5年後の1893年(同26年)には同県長岡町(市)に宝田石油(株)(ともに現・ENEOS)が設立され、明治時代の国内における石油採掘、同精製部門を二分、灯油の国内生産も急激に増大、灯油の価格も安くなり、1905年(同38年)9月以降の日露戦争後の好況時代には石油ランプの全国、全世帯への普及に一役を買う。
 以上のような背景の中で登場したこの「規則」の主な内容は以下の通りで、これに違反した場合は罰則規定により拘留(身柄の拘束)されるか科料(罰金刑)に処せられた。
 1.石油精製場及び貯蔵場が建設可能な地域(第2条)
  ・浅草区山谷川筋及日本堤(現・台東区北東部)以北
  ・本所、深川区源森川及大横川筋(現・江東区、墨田区中央部の大横川親水公園、北十間川源森橋付近)以東
 2.石油精製場及び貯蔵場の建設及び改築は、警視庁へ願出免許し落成時に届出、検査を受ける(第3条~第7条)
 3.石油小売店の販売用容器は所轄警察署へ届出、検査を受ける(第8条)
 4.点灯用石油(灯油)は警視庁へ届出、監査を受ける(第9条)
 5.卸売店、小売店の置場で蔵置(貯蔵)する石油の数量の制限(第13条)
 6.精製場、貯蔵場、置場での裸火の使用、喫煙禁止(第15条)
 7.精製場、貯蔵場における夜間の出、入荷の禁止(第16条)
 8.石油の運搬容器及び販売容器を金属製に制限(第18条)
 9.精製場、貯蔵場及び卸売店、小売店の石油置場の構造上の指定及び制限(第21条、第22条)
 (出典:東京消防庁編「消防雑学事典>53:危険物安全週間とは」、瀧澤商店編「日本の洋燈(石油ランプ)の歴史」、東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の消防百年の歩み>明治初期7頁~9頁:ランプ使用注意方の布告」、ENEOS編「石油産業の歴史 第2章>第1節 近代石油産業の誕生>1.日本の石油産業の発生」、明治24年4月20日内閣官報局刊「官報第338号付録・警視庁、東京府公報第513号:警視庁令第7号 石油精製場貯蔵場及運搬取締規則」。参照:2022年2月の周年災害「東京府、ランプ使用注意方布告、文明開化の明かり不注意からの火災続発に対処」)

○警視庁鑑識係設置、指紋鑑定による犯人捜査へ、誤認逮捕なくなる(110年前)[改訂]
 1911年(明治44年)4月1日
 個体の遺伝子・DNA型鑑定が一般化する前の個人を識別する最良の技術として“指紋鑑定”があった。
 その技術を使い犯人を検挙する法律「犯人指紋検挙法」はすでに2年半前の1908年(明治41年)10月には制定されていた。警視庁は翌1909年(同42年)7月、第一部長の太田政弘を指紋制度研究のため欧米に出張させ、その翌1910年(同43年)4月帰国、相応の準備を経てこの日、同部刑事課に鑑識係を新設「指紋取扱規程」も決め、指紋鑑定による犯人捜査が始まることになる。
 この技術による最初の犯人捜査は、鑑識係発足5日後の4月6日夜に起きた強盗殺人事件で、現場から採取した指紋と警視庁で保管していた前科者の指紋とを照合鑑定した結果、完全に一致し、犯人は8月14日逮捕された。
 この成果に勢いを得た警視庁は、司法省(現・法務省)が「犯人指紋検挙法」制定後の翌11月から作成している18万枚の受刑者の指紋原紙の副本を、犯人検挙の翌1912年(明治45年)6月受領し、その後の犯人捜査で誤認逮捕することがほとんどないという大きなc効果を上げることになる。
 (出典:警視庁史編さん委員会編「警視庁史(明治編)>第8節 明治の末期>第2 諸制度の制定と改廃>6 指紋法の採用」。参照:2018年10月の周年災害「犯人指紋検挙法制定-指紋による個人識別法発見は日本の拇印の習慣から」[改訂])

○東京吉原明治44年の大火、遊郭全焼さらに郭外6000戸余を焼く(110年前)[改訂]
 1911年(明治44年)4月9日
 “吉原遊郭”は、明暦の大火(1657年3月)後の7月に日本橋からこの地に移転し“新吉原”と呼ばれていたが、それ以来250年余たびたび大火を重ねていた。しかしこの日は壊滅的な大火災となった。
 大火当時、都心に近い新橋や神楽坂などの花街に賑わいを奪われていたが、それでも東北に傾いた四角な土地の周囲に堀(おはぐろどぶ)をめぐらせ、東西(実測・東~北)二町(218m)、南北(実測・北~東)三町(327m)の郭内約7万平方mの街並みに碁盤の目のように通りが刻まれ、南北を平行に見立てて、中央を貫く仲之町通りの左右、まず北から西側に江戸町一丁目、東側に同二丁目、中央の西側に揚屋町、東側に角町、一番南の西側に京町一丁目、その東に同二丁目とあり、それぞれの大通りの両側に3階、4階建ての広壮な妓楼が立ち並び、貸座敷300余戸、引手茶屋123戸、数千人の遊女がいたという。
 午前11時25分ごろ、郭内東側に位置する江戸町二丁目“美華登楼”2階から出火、炎は早朝からの秒速12mに及ぶ西南の烈風に乗ってたちまち拡大、隣接する“新花井楼”をひとなめにしたのち、両隣の妓楼を焼失させさらに向かい側“おはぐろどぶ”沿いの伏見町へと延焼、建ち並ぶ引手茶屋を焼き尽くした。
 さらなる業火は遊郭西側の京町一丁目へと飛び火、同丁目から三方に分かれさらに拡大、一丁目と仲之町通りとの角にある“角海老楼”など代表的な妓楼の数々を焼け落としたのち、一方は西側の揚屋町から東北へ江戸町一丁目へと延焼、一方の炎は仲之町通りを東北へ、通り両側の引手茶屋をすべて灰にし、江戸町二丁目、伏見町を全焼した炎を伴い勢いをさらに強め、遊郭最北東中央の大門から外郭へと進む。曲がりくねった五十間道、衣紋坂左右の茶屋も総なめにしたのち、東北側を北から東へと貫く山谷掘の土手、日本堤に沿って日本堤警察署も焼失させた。
 警察署を焼失させ山谷堀を飛び越えた炎は、土手下に広がる地方今戸町(現・日本堤一丁目、東浅草二丁目)に延焼、その勢いを強めて北上、田中町(現・日本堤一丁目、二丁目)へと流れ、東は元吉町(現・東浅草二丁目)の一部を焼き払ったのち、炎はさらに北へ東へと進み、北は南千住方面へと次々と拡大、東は田中町東隣の浅草町(現・日本堤一丁目、清川二丁目)、元吉町東隣りの山谷町(現・東浅草二丁目、清川一丁目)に燃え移り、そこからさらに東の玉姫町(現・清川一丁目、二丁目)に襲い掛かる。
 一方、郭内の京町二丁目から東北の角町方面へと向かった炎は南東に転じて、角町河岸から“おはぐろどぶ”を超え郭外へと進み、東町(現・浅草五丁目)から、田町二丁目より千束町三丁目(ともに現・浅草五丁目)に延焼、午後零時過ぎにはこの一帯も猛火に包まれ、午後2時には千束町通り(現・浅草四丁目)へと次第に南方へ燃え広がった。
 玉姫町方面では、玉姫神社と隣接する玉姫小学校(のちの正徳小学校)を焼失させた炎は、同町の日本護謨会社を燃え上がらせ、北上し東京瓦斯千住瓦斯製造所(現・東京ガス千住テクノステーション)の倉庫群へと燃え移り、北側の地方橋場町(現・南千住三丁目)の山崎染工会社を含む同町を全焼させさらに北へと進み、常磐線隅田川貨物停車場(現・JR東日本隅田川駅:貨物専用)を炎で包み南千住(現・南千住七丁目)へと延焼した。
 それより20分ほど前、烈風は西風に変わり、地方橋場町より火の粉が隅田川を超え向島寺島村(現・墨田区堤通一丁目)に降り注ぎ、墨田堤で火事見物の野次馬たちは大急ぎで近辺の家に降り注ぐ火の粉を消したという。 
 ところが炎はこれで納まらず、一時に2、3か所から飛び火を挙げ、午後0時10分頃、遊郭から西へ約500mほど離れた樋口一葉ゆかりの龍泉寺町(現・竜泉三丁目)に飛び火し、周辺に延焼しこの付近一帯を焼き払った。
 鎮火したのは午後8時40分である。
 もとより遊郭の被害は、東京電灯会社吉原出張所(現・東京電力)、陸軍憲兵駐屯所などを残して貸座敷300余戸、引手茶屋123戸など郭内は全焼。郭外への延焼は特に東北方向へと著しく約23か町、合計6189戸を全焼、69戸半焼と約23万平方mを焦土と化した。遊女たちはいったん解放され非常口から脱出したので死者はなく、消防職員1人を含む5人死亡にとどまり、負傷者は109人(内消防職員5人)だった。
 この大火に当時の警視庁消防本部(現・東京消防庁)は、消防本部を始め消防署(現・消防方面本部に相当)全署の蒸気ポンプを投入し必死の消防活動を行ったが、当時の消防力では悪戦苦闘を強いられ、その件について、消防本部から出動し、橋場町方面の消防隊の消火指揮に当たった額賀庶務課長が新聞記者に次のように語っている。
 “第一消防署(現・日本橋消防署)の喞筒(そくとう・手引き消防ポンプ)一台は日本堤警察裏土手下の細路次(地)を入り、泥川(山谷堀)の水を利用し盛に消防中、猛火は迂回運動をなして消防隊の背後を襲ひ、消防夫は皆火の粉を浴せられ、中には衣(消防衣)を焼かるゝものさへありて身を水中に投じて火焦を免れ、以てポンプを救ひ出さんとせしも遂に能はず、一台のポンプを焼失せしむるの已むなきに至れり、本署の大蒸気ポンプ(馬けん引型)は最も奏功し、山谷付近にて数ケ所に於て延焼を防御せしも猛火の迂回に依りて後退の已なきに至れり”。
 ちなみに大火災後、吉原遊郭は男が女と遊ぶ歓楽街としてしぶとく復興した。
 しかし1923年(大正12年)9月1日の関東大震災では、約500人もの遊女たちが、火災から逃れようと仲之町通りを南へと郭外に逃れたが、炎に巻き込まれ吉原弁財天の花園池(弁天池)に飛び込み犠牲となっており“おはぐろどぶ”は大震災後埋め立てられるか暗渠となっている。
 その後、1945年(昭和20年)3月10日のアメリカ空軍による東京大空襲で全焼し、復興後街の景観は変わったが、1957年(昭和32年)4月1日の「売春防止法」施行まで営業は続けられ、近年では“吉原ソープランド”と呼ばれ、国内屈指の風俗街として夜の浅草を彩っており、町名は京町通りを境として千束四丁目と千束三丁目の一部(区立台東病院の北東側一帯で吉原神社以北)と変更されたが、その町割りは110年前とほぼ変わらず通りの名前も同じである。
 (出典:東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の消防百年の歩み>明治後期 102頁~107頁:吉原の大火」、明治ニュース事典編纂委員会+毎日コミュニケーションズ出版部編集「明治ニュース事典 第8巻(明治41年~明治45年)>火災 98頁~99頁:吉原から出火、浅草方面に燃え広がる(時事)。100頁~101頁:吉原全滅、死者8人、損害は500万円(時事)」、YOU TUBE「140年前の吉原遊郭」[追加]、Ameba編・記事一覧>テーマ「吉原歴史地図(1)明治27年、昭和33年 吉原遊郭地図」[追加]、同編・記事一覧>テーマ「浅草区東北部地図」[追加]、ヤフージャパン編「YAHOOマップ・台東区千束四丁目」[追加]。参照:2019年1月の周年災害「市原喞筒(そくとう)作所、蒸気式消防ポンプ国産化に成功時代は“破壊消防”の時代から“放水消防”の時代へ」[追加]。)

○東京浅草大正10年の大火、消防ポンプ効果なく破壊消防でとどめ(100年前)[再録]
 1921年(大正10年)4月6日
 吉原遊郭のすぐ南にあり、競って江戸時代からの繁華街“浅草”も火災の多いところで、明治に入ってからも1890年(明治23年)2月には1469戸を焼き、1896年(同29年)4月にも火災があったが、観音様のご利益もありで、たちまちのうちに復興していた。しかし吉原大火の10年後、またもや大火となった。
 この日午前7時34分ごろ、浅草区田町一丁目(現・浅草六丁目)に住む宮戸座の俳優の家から出火、折からの秒速13mの北西の風に乗ってたちまち風下に延焼した。
 管轄する第五消防署(現・上野消防署)とその近辺の消防署からポンプ車が出動したが猛火を防ぎきれず、11時過ぎまでに21台のポンプ車が投入されたが、道路が狭く消防車両の走行がままならない間に火勢は広がった。
 消防隊は鎮火の見込みが立たないと判断、警察と軍隊の応援を得て浅草公園を最終防御線として、ポンプ車による放水消火から家屋の破壊を消防の中心に据え、午後2時40分ようやく鎮火させた。
 住家や店舗1227戸を全焼、同73戸半焼、象潟警察署(現・浅草警察署)、富士、馬道(廃校)両小学校も全焼している。負傷者は市民が494人、消防隊50人といかに苦戦したかがわかる。
 (出典:東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の消防百年の歩み>大正期>新宿と浅草の大火 141頁:浅草の大火」)

○函館大正10年の大火、1万人余の被災者を出す(100年前)[再録]
 1921年(大正10年)4月14日
 かつての函館は、1871年10月(明治4年9月)の大火以来、1934年(昭和9年)3月の歴史に残る大火まで1000戸以上を焼失した火災が10指にのぼる。大正10年の火災もその一つだ。
 この日夜中の午前1時15分ごろ、東川町の菓子製造所から出火、上水道が断水中という悪条件と秒速8~11mの東風が吹きすさぶ中つぎつぎと延焼した。
 病院5、学校3、銀行4、劇場5と市の中心街を焼き、1309棟、戸数(世帯数)で2141戸を焼失して午前8時ようやく鎮火。被災人口1万996人を出している。
 (出典:函館市消防本部編「沿革史>大火誌106頁:大正十年四月十四日」)

千葉県銚子沿岸で漂流毒ガス弾を引き揚げ22人死傷、約50年間で重軽傷者130人
 
事件20年後も事故が続き、ようやく全国的調査と被災補償の道開く(70年前)[追補]
 1951年(昭和26年)4月2日
 1931年(昭和6年)9月の満州事変から始まり、1945年(昭和20年)8月に終わる14年に及ぶ戦時状態から、ようやく平和を取り戻して6年ほど、戦時中の負の遺産:毒ガスにより22人が死傷するという事件が起きた。
 この日、千葉県銚子海岸で鉄製の容器を拾った男性が、それを自宅に持ち帰り、当時貴重だった鉄スクラップにし販売しようとし解体中、毒ガスが噴出、当の男性と近くにいたその母親と長男の3名が即死、6名が重体となり4名が失明、9名が中毒症状を起こした。
 調査の結果、終戦直後アメリカ占領軍が指揮して、銚子沖に海洋投棄させた旧日本軍の毒ガス弾であることがわかった。
 終戦2か月後の1945年(昭和20年)10月15日、日本占領のために進駐したアメリカ第8軍第24火砲中隊は、旧日本軍の残存弾薬や砲弾、毒ガスなどを銚子沖に投棄するため、同市内に本部を設置した。
 設置後作業は進み、銚子に福島、長野、静岡方面から鉄道で輸送されてきた旧日本軍の砲弾などは、貨車4800両に上がり、そのうち毒ガス弾は約30両とも320両であったともいわれ、正確な記録は残っていない。
 集結された弾薬、砲弾、毒ガスなどの処理は、10月の本部設置後ただちに行われたが、アメリカ軍が指揮し漁船を使い、銚子一の島灯台北東15海里(約28km)沖周辺の海域、水深約200mに投棄されたという。
 この日、海岸で拾われた毒ガス弾はそのなかの一つが流れ着いたものであろう。
 男性が拾った鉄製容器の中身は明確ではないが、銚子では、この日の事例を含めて2002年(平成14年)3月までに13件もの毒ガスによる被災事例がある。そのうち10件が史上最悪と呼ばれたイペリット(マスタード)ガスによるもので、3個のガス弾と74個のガス容器が、漁師たちの網にかかって誤って引き上げられ、85人が重軽傷を負い、不明な毒ガスも含め3人死亡130人が重軽傷を負っている。
 問題は誤って引き上げられた後の処置だが、被災した漁師たちによってほとんどはその場で再び海へ投棄されている。
 不幸なことに、アメリカ軍の指揮によって投棄された海域は、好漁場で操業する漁船が多く、二次、三次の被害が懸念されたが、投棄された毒ガス容器などがすでに海流に流され散在した模様で、1957年(昭和32年)9月に操業中の漁船が毒ガス容器を引き上げたことにより、1959年(同34年)6月に行われた掃海作業は成果を上げることができず、その後も被害者である漁業関係者への恒久的な医療や生活保障はほとんど行われなかった。
 国がようやく重い腰を上げ、はじめて旧陸軍の毒ガス製造工場跡地の大久野島の調査を行ったのは、1969年(同44年)8月、同島で毒ガス容器が発見されたことによる。
 また銚子沖では、同年11月と翌1970年(同45年)1月、立て続けに3件も漁網に毒ガス容器が引っかかり、50人の乗組員が重軽傷を負うという事故が起きた。そこで同年3月、9月から10月にかけて13年ぶりの掃海作業が行われたが、従事した漁師15人が負傷している。これはここ1年間で、銚子での50年間に及ぶ重軽傷者の半数65人に及ぶという惨禍を招いたことになり、毒ガス事故は完全に撤去されない限りいつまでも続くという恐ろしさを全国的に知らしめた。
 翌1971年(同46年)6月、自民党佐藤内閣は「大久野島毒ガス問題関係省庁連絡会議」を設置、初めて全国的な「旧軍毒ガス弾等の全国調査」が開始される。
 それらの動きに同調し、毒ガス事故が続いた銚子地区では、1971年度(同46年度)から毒ガス容器が漁網に入った場合、銚子海上保安部の巡視船にそのまま引き渡し、その際に生じた損失に対して国及び千葉県において一定額を補助することとなった。また関係省庁連絡会議は1973年(同48年)3月、「全国調査結果報告(案)」を取りまとめ公表され、全国的な対策が始まる。
 なお29年後の2002年(平成14年)3月、神奈川県寒川町、翌2003年(同15年)9月茨城県神栖町(現・市)において毒ガス事故と疑われる被災事例が相次いだことにより、当時の自民党小泉内閣は環境省に調査を指示、同省は11月に「昭和48年の『旧軍毒ガス弾等の全国調査』のフォローアップ調査報告書」(下記出典資料)を取りまとめ、翌12月、同内閣は「国内における毒ガス弾等に関する今後の対応方針について」として“政府全体が一体となって、関係地方公共団体(自治体など)や国民の協力を得て、毒ガス弾等による被害の未然防止のために施策を実施することとする”と、閣議決定している。
 (出典:環境省編「昭和48年の『旧軍毒ガス弾等の全国調査』のフォローアップ調査報告書>4.5個別事案(各地域ごとの毒ガス弾等に関する状況)>12千葉県>12‐1銚子沖の事案」、同編「同報告書>別紙2 銚子・銚子沖における毒ガス被災事例」、大久野島毒ガス問題関係省庁連絡会議編(昭和48年3月22日)「旧軍毒ガス弾等の全国調査の実施について」、内閣府編「国内における毒ガス弾等に関する今後の対応方針について」
 

○桜木町事件「六三型電車炎上事件、戦時中の資材不足を反映した人命無視車両の悲劇(70年前)[改訂]
 1951年(昭和26年)4月24日
 戦争を反映した負の遺産による悲劇が、千葉県の隣県、神奈川県横浜市で毒ガス事故の22日後に起きた。桜木町事件である。それは戦時中の資機材や車両などがまだ使用されていた終戦6年目、その時代の状況を代表するような大惨事だった。
 午後1時過ぎ、5両編成の列車が横浜市の国鉄(JR)京浜東北線桜木町駅に進入しようとしていた。ところが同駅の200mほど手前で、同列車最前部車両の屋根にあるパンタグラフ(集電装置)に、工事中の切れた架線がからまり破損し車体と接触、架線を流れていた1500ボルトの電流が車体にショートして発火、わずか10分間で1両目が全焼、2両目が半焼した。逃げ場を失った乗客106人が死亡、92人が負傷した。
 この大事故の経緯は次の通り。
 1.架線工事の作業員が誤ってスパナを落としたことで架線が鉄塔と接触してショートして断線、上り線の線路上に電流が流れたままの状態で垂れ下がった。
 2.作業員は上り線の事故で列車通過の危険性を知らせたが、下り線については特に行わなかった。
 3.ところが、桜木町駅は当時、京浜東北線の終点だったので、上り線から折り返し運転をするため、悲劇の列車が下り線からポイントを渡って同線に進入してきた。信号も進行表示(青)だった。
 4.運転士は信号の指示通り上り線を進行、桜木町駅を目指したが、垂れ下がった架線に気づきとっさにブレーキを踏んだ。しかし列車はすぐ止まらず徐行となったが、車両1両目先頭のパンタグラフに絡みついた。
 5.驚いた運転士がパンタグラフを下ろしたので、車両両側にある乗客乗降の自動ドアーが開かなくなった。
 6.事故現場に最も近い横浜変電区では、事故電流を検知して送電を自動停止したが、鶴見変電区では検知することができず、横浜変電区からの電話連絡で送電を停止したのは事故発生の5分後だった。
 7.一方、事故が起きた先頭車両では、架線に引きずられてパンタグラフが横倒しになり車両と接触、電流が流れショート(電流短絡事故)を起こし、火花が散り車両に燃え移り炎上させた。
 8.運転士や車掌が自動ドアーを車体の下にあるDコックで開けることを知らなかったが、2両目の後尾ドアーは殺到する乗客をかろうじて制止して開けて逃がし、3両目以下は規定通り2両目から切り離し後退させた。
 被害を拡大させた原因として次の事項が指摘されている。
 1.車両自体が鋼材不足のため、外板だけは鋼板で覆われていたがそれも損傷しやすい薄板であった。
  2.費用を省くため、天井をべニア板で覆い可燃性の塗料(ペンキ)で塗装していたので火の回りが早かった。
 3.パンタグラフが下ろされたため、乗客乗降の自動ドアーが開かなかった。
 4.ドアーを開く非常用コックの位置が明示されていなかったので、乗客は窓から脱出を試みた。
 5.ところがその窓は三段になっており、上・下段は開閉するが中段は固定され、その上ガラス破損防止のため木枠がはめ込まれていた。
 6.車両の前と後尾にあるドアーは転落事故を防ぐため内側開きであったので、殺到した乗客の重みで開かなかった。
 7.京浜東北線の乗客は短時間利用ということで、長距離列車のように車両間の往来ができる構造になっておらず、焼けた1両目の乗客を2両目に誘導することができなかった。
 8.乗務員が自動ドアーを手で開けるDコックが車体の下にあることを知らず、開放することができなかった。
 9.事故現場が高架線路上のため、乗客の逃避、救援活動が遅れ、消火活動も思うままにできなかった。
 また、列車運行の安全面から当時の国鉄の事故対応について次の疑問もある。
 1.桜木町駅の信号掛は、危険な上り線断線事故の連絡を受けていたのか。
 2.列車の運転士に事故の際、乗客を避難させるため、パンタグラフを降ろさず自動ドアーの開閉を可能にしておくよう教育をしていたのか。
 3.ドアー手動開閉を可能とするDコックの位置教育も含め、事故の際の規定や教育が不十分ではなかったか。
 悲劇を生んだこの車輌は“モハ六三型”といい、車両に極力多くの乗客を詰め込もうとする戦時中の発想で製造されていた。窓の三段式は人いきれによる換気を良くするため中段を固定し、上下を開ける発想からだったという。
 この車両の背景にある資材不足、列車運転に習熟した運転士、列車の構造を知っている車掌の不足は、軍需資材の調達増、青壮年の戦場への招集によって、中国との戦争がはじまった翌1938年(昭和13年)ごろから明らかになっていた。しかし当時の政府は、不足を指摘する声に対し「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ(戦時標語)」と、現場の声を無視、人命を軽視することになる体裁だけを繕った、大量生産が可能な車両を製造させていた。
 またかんじんな国鉄は、車両など設備の脆弱化、熟練した要員などの不足により、事故が起こる可能性が高いことを把握し、それに対する対応策をとっていたのかどうか、事実、1945年~54年(昭和20年)代は、信号の見落とし、居眠り運転などが原因で、列車衝突、脱線などの事故が相次いでいたという。それにも関わらず事故防止対策をおろそかにしていたつけがこの大惨事を生むことになった。
 (出典:失敗学会編「失敗知識データベース>鉄道>桜木町の列車火災」、近代消防臨時増刊号「日本の消防1948~2003>年表1災害編>昭和26年60頁:京浜東北線桜木町駅電車火災」、ウィキペディア掲載「桜木町事故」[追加])

呉市林野火災で消防職員殉職-広島県・呉市、政府に抜本的近代化求め消防ヘリ活用へ道開く
 
予防・消火体制は地域ごとに対応したものに成長(50年前)[改訂]
 1971年(昭和46年)4月27日~28日
 
11時10分ごろ、広島県呉市広町の大張矢民有林で、水路の災害復旧工事に当たっていた作業員が、湯沸かし用につけた焚火の火が、風にあおられて周囲の枯れ草に燃え移った。
 当時、前日から異常乾燥注意報と火災警報が発令されており、平均で秒速5mから14mもの東南東の風が吹いているといった悪条件の中で、炎は一挙に燃え広がり山野を覆った。
 11時18分、火災の知らせを受けた呉市消防局東消防署では、まず地元消防団員16人を派遣、直ちに消火活動に入ったが、火災規模が更に広がりを見せたので、同署では増援隊の派遣を同市消防局に要請、消防ポンプ車109台に消防職員84人と消防団員400人あまりが現地に派遣された。
 しかしそれでも炎は全山を覆い尽くす勢いを見せたので同局は、呉市長と広島県知事に報告し自衛隊の出動を要請、最終的には陸・海自衛隊員も含めた延べ1900人あまりが消火活動にあたり、翌28日午前11時10分ごろ雨の助けもあり24時間ぶりにようやく鎮火した。
 この火災で民家や市街地への延焼は食い止めたが、林野火災では最大にあたる18人の消防職員が殉職した。
 原因は東側への延焼を食い止めようと、東消防署の第二小隊が北の峰の稜線から谷口に入っていった。しかしそこは風下で、強い東南東の風に乗り休耕中の農地に飛び火した炎が火勢を増し、急速に斜面を走り谷の一帯を猛煙で包んだものと見られている。(以上ウィキペディア)
 この殉職を受け、広島県消防防災課と呉市消防局は以下の林野火災対策の抜本的な改善を政府に求めた。
 1.消防機器の積極的な研究開発と装備の近代化及び林野火災における近代的な消火戦術の確立。
 2.民有林の損害額が国有林にくらべはるかに多い。延焼の拡大を防止し被害の軽減を図るため、稜線に防火線、防火樹帯の造成、区画整理した防火帯を兼ねた林道の増設とその維持管理の方策をたてる。
 3.早急な航空機による科学的な消火体制の確立と消火剤の開発。
 4.今後、農山村地帯の労働力は減少する傾向にあり従来の人海戦術は不可能である。
 要請を受けた自治省(総務省)消防庁は、前年の1970年度(昭和45年度)より林野庁と共同で「林野火災特別地域対策事業」を推進してきたので、今回の事例から教訓を導き出し消防体制を改正、ヘリコプターによる立体的な消防活動体制の確立、戦術、消防機器の近代化、科学化の推進を図ることとなった。
 その後消防庁では、2021年(令和3年)2月におきた栃木県足利市における大規模な林野火災をきっかけに、翌々4月からの新年度より「より効果的な林野火災の消火に関する検討会」を設置、応援要請のタイミング、指揮体制の早期確立、陸上部隊・航空部隊との情報共有方法、消火活動時間・場所の区分けによる連携方法などの検討を行い、次の事項について、各都道府県消防防災主管部長に対する「通知」の内容を以下のように拡充または新設した。
 1.現地指揮本部において指揮系統の明確化をし、関係機関間で調整会議を行う(拡充)。
 2.地図の活用により各部隊間の情報共有を行う(拡充)。
 3.市町村長は林野火災を覚知した場合、速やかに相互応援協定に基づく出動要請、緊急消防援助隊の出動要請を行い応援を求める(新設)。
 4.活動時期に応じた効率的な消火活動を行う(新設)。
 5.地上消火とヘリコプターによる空中消火、それぞれの役割分担と連携が重要である(新設)。
 6.一つの都道府県で発生している場合は該当知事が、またがって発生している場合は消防庁長官が、被災地の市町村長、知事の意見を聞きヘリコプターの活動調整を行う(新設)。
 7.各ヘリコプターの大きさ・性能、搭載水量、給水方法、消火活動時間等を考慮して連携方法を検討する(新設)。
 ちなみに呉市林野火災の前年より推進されてきた「林野火災特別地域対策事業」は、林野面積が広く林野火災の危険度が高い地域において、関係市町村が共同で対策事業計画を策定するもので、2022年(令和4年)4月現在、ほぼ全国に及ぶ38都道府県511市町村、235地域において実施されている。
 以上のように、林野火災に対する消防体制は、全国的に打ち立てられているが、日本の国土は3分の2が山林で占められている。地球温暖化により世界各地で林野火災が多発している現在、よそ事としてはいられない。
 (出典:近代消防臨時増刊号「日本の消防1948~2003>年表1災害編>昭和46年111頁:呉市林野火災」、ウィキペディア掲載「呉市山林火災」[追加]、消防庁編「参考資料1、平成15年通知“林野火災の予防及び消火活動について”の改正の概要について」[追加]、 総務省消防庁編「消防白書・令和4年版>第1章 災害の概況と課題>第4節 林野火災対策」[追加]。参照:2017年4月の周年災害〈下巻〉「東京消防庁、全国に先駆け消防ヘリコプター1号機運用開始し航空消防始まる」、2011年5月の周年災害「大規模林野火災・三陸大火」[追加]、2015年6月の周年災害〈下巻〉「自治省消防庁、緊急消防援助隊創設」[追加])

敦賀原発放射能漏れ事故隠し発覚、安全性への欠如、稼働以来点検も補修もせず原子炉運転(40年前)[改訂]
 1981年(昭和56年)4月18日
 この日の福井県による定期モニタリング調査で、日本原子力発電(株)敦賀発電所の一般排水路先にある海草から異常に高い放射能が検出された。そこで調査を続けると、この一般排水路及び同排水路出口に積もった土砂からかなりの量の放射性物質が検出された。
 放射性を帯びた廃液が一般排水路から流出することは通常あり得ないし重大事故である。
 そこで県からの報告を受けた国の原子力安全委員会(現・原子力規制委員会)が立ち入り検査をしたところ、問題が発覚した前月の3月、係員の操作ミスで放射性廃棄物処理施設から約15立方mの廃液があふれ、その一部が建物の床のひび割れから漏れ、一般排水路を通じて海に流れ出たこと。またこの処理施設の建物自体の工事に欠陥があったこと。などがわかった。
 これら一連の問題が隠され、県や国に報告されていないので更に追求したところ、1月以来、同所原子炉の給水加熱器にひび割れを生じ、放射能を帯びた冷却水が漏れる事故をたびたび起こしていたが、そのつどハンマーで叩き隙間を埋めるなど応急処置をして運転を強行していたこともわかった。
 また7年ほど前から、放射性廃液が流れ出す事故を頻発していたが、これらすべてを隠していたことも明らかになったのである。こうした一連の“事故隠し”は大問題となり、地元に上がった魚が売れなくなるという風評被害にまで発展した。
 その後、敦賀発電所ではこの教訓を生かすことなく、国内最多ともいうべき事故を重ねている。
 ・1996年(平成8年)12月、2号機の化学体積制御系配管からの一次冷却水漏洩。
 ・1997年(同9年)10月、1号機における動作不良制御棒の点検に伴う原子炉の停止(国際原子力事象評価レベル1)。
 ・1999年(同11年)7月、2号機の再生熱交換器連絡配管からの一次冷却水大量漏洩(同評価レベル1)。
 ・ 〃  ( 〃  )12月、1号機原子炉内構造物で300か所に及ぶひび割れ。
 ・2003年(平成15年)9月、2号機加圧器逃し弁の溶接部からの漏洩。
 ・2010年(同22年)7月、1号機の再循環ポンプなどの溶接部分について、点検を一度も行わなかったと発表。
 ・2011年(同23年)1月、1号機の緊急炉心冷却システムの一つが機能していない状態で約1か月間運転。
 ・ 〃  ( 〃 )5月2日、2号機の一次冷却水放射能濃度急上昇。五日後の7日同2号機原子炉は手動停止。さ らに二日後の9日同機の放射性ガス漏洩。2号機は1週間で3回も事故を繰り返している。
 ・2011年(平成23年)5月、2号機排気塔の放射性ガスが通る配管に33か所の孔が開き、放射性ガス漏洩。
  6月、会社側は1987年(昭和62年)の運転開始以来、24年間も配管の点検をしていなかったことを公表。
 (註:出典:2003年まで「失敗知識データベース」、2010年以降「ウィキペディア」)
 日本の原子力発電所は、地元住民の強い反対を抑え利益誘導で建設を強行する事例がほとんどで、反対運動を起こさないために、“事故隠し”と異常なまでの“安全神話”の広報が体質化しているが、敦賀発電所のように原子炉の建物から配管に至るまで、点検もせず補修もおろそかにしていた原子力発電所はあまり例がないだろう。
 同発電所では、2011年(平成23年)3月の東北地方太平洋沖地震による東京電力福島第一原子力発電所の事故を機に運転を停止し、1号機は廃止措置中、2号機は再稼働に向け審査中だが、敦賀発電所だけでなく経営責任を負う日本原子力発電(株)の“安全”への体質改善がなされない限り、原子力規制委員会の厳しい対応が求められるところだ。
 (出典:昭和史研究会編「昭和史事典>1981(昭和46年)817頁:敦賀原発放射能漏れ」、三省堂刊「地球環境の事典258頁:敦賀原発事故」、NHKアーカイブス「敦賀原子力発電所の事故隠しが明るみに」[追加]、失敗学会編「失敗知識データベース>原子力」より[追加]。参照:2021年3月の周年災害「東京電力福島第一発電所原子炉水素爆発」[追加])

○救急救命士法公布-救急業務の発展へ(30年前)[再録]
 1991年(平成3年)4月23日
 わが国で初めて傷病者の救急業務が始まったのは、1933年(昭和8年)2月、横浜市の山下消防署に救急車が配備されてからだが、この日公布された「救急救命士法」によって、“救急救命処置”が資格を持つ隊員によって可能になるまで、残念な思いをした現場隊員が多いという。
 法で定めた救急救命処置とは「症状が著しく悪化するおそれがあり、又はその生命が危険な状態にある重度傷病者が病院又は診療所に搬送されるまでの間に行われる気道の確保、心拍の回復その他の処置で、当重度傷病者の症状の著しい悪化を防止し、又はその生命の危険を回避するために緊急に必要なもの(同法第二条より)」である。
 この画期的な同法は同年8月5日に施行されたが、それまで目の前で苦しんでいる人を、搬送するだけで助けられないでいるだけでなく、家族に後に責められていた現場の声を、当時の東京消防庁救急担当主幹が雑誌に投稿、それによって世論がわき上がり同法の制定になったという。
 その後、救急救命士を養成する機関が充実するだけでなくその処置の内容も常に見直されて高度化している。
 ちなみに東京消防庁では、同法制定2年後の1993年(平成5年)12月すべての救急隊が救急救命士の乗車する“高度処置救急隊”となり、翌1994年10月には、地震や航空機事故など多数の傷病者が発生した際に支援が可能な“特殊救急車”の運用を開始している。
 また女性の救急隊員は、埼玉県入間東部地区消防組合消防本部が、同法が施行された翌月の9月1日に看護婦(師)を2名採用し、隊員として救急車に乗務させたのが最初である。
 ところが医療行為に必要として看護婦に認められた深夜勤務が、消防職員であるがために不可能になるという矛盾が生まれた。そこで自治省(現・総務省)消防庁は、翌1992年(同4年)3月、労働省(現・厚生労働省)に深夜勤務について要望、5月の参議院地方行政委員会での検討を経て、労働省が「女子労働基準規則第4条」の例外規定に消防業務を加え、1992年(同6年)4月1日から施行となりこの矛盾はやっと解消されている。
 (出典:G—GOV法令検索「平成3年法律第36号 救急救命士法」、東京消防庁編「消防雑学事典:救急業務のはじまりと救急救命士の誕生」)

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