【目 次】

・天徳から応和へ改元、前年の平安遷都初の内裏火災による(1060年前)[再録]

・大治から天承へ改元。去夏以来、炎旱殊甚による凶作を避ける(890年前)[再録]

・応永の大飢饉で幕府施がゆを行う、京の都に“諸国貧民上洛、乞食充満”(600年前)[再録]

・寛正の大飢饉、幕府無策、後花園天皇、幕府を叱ったが無視され改元で厄払い(560年前)[再録]

・高野山、永承18年の大火で全焼。焼失を免れていた開祖を祀る御影堂も(500年前)[改訂]

・江戸最初の広域大火「桶町の大火」-大名火消と木場の誕生(380年前)[改訂]

・各自火消・加賀鳶(かがとび)公式に誕生、国元での成果を江戸藩邸で活かす(340年)[再録]

・延宝の第二次飢饉、米価急騰。磔茂左衛門など農民運動のエピソード残す(340年前)[再録]

・桑名元禄14年の大火、町民たち梅見で留守中の惨禍-復興後、野村騒動起きる(320年前)[再録]

・江戸享保春の連続火災、1か月間に6回も続く(300年前)[再録]

・江戸市ヶ谷文化8年谷町の大火、四谷御門外堀端の家々全焼(210年前)[再録]

・インフルエンザ(長州病)大流行で、御家人たちに施薬とフリーター町人に御救銭(200年前)[再録]

・天保2年神奈川宿(現・横浜市)の大火、1200軒余焼失し伝馬業務5日間ストップ(190年前)[再録]

・東京府消防局所属の町火消10番組、はじめてイギリス製椀用ポンプを使い浅草で大奮闘(150年前)
[追補]

・浅野セメント降灰事件。住民側、青年団を結成し工場撤廃要求、最終回答で拒否される
ー6年後、電気集塵装置の導入で工場撤廃要求を撤回させ移転先にした川崎工場も完成(110年前)
[追補]

・昭和16年北海道三菱美唄炭鉱ガス爆発事故、53人の遺体収容不可能と判断、消火注水され埋没
(80年前)[再録]

・2011年東北地方太平洋沖地震「東日本大震災」
―津波・殉職・絆-貞観+昭和三陸地震津波の再来か(10年前)[改訂]

・東京電力福島第一発電所原子炉水素爆発。東北地方太平洋沖地震の津波による大事故。
津波による事故の危険を把握しながら予測であるとし放置した東電と経産省原子力保安院の怠慢
(10年前)[改訂]

【本 文】

天徳から応和へ改元、前年の平安遷都初の内裏火災による(1060年前)[再録]
 961年3月10日(天徳5年2月16日)

 皇居の火災と辛酉(しんゆう)革命のお慎みによる改元とある。
 皇居の火災というのは、前年の960年10月21日(天徳4年9月23日)に起きた内裏が全焼した火災を指し、この火災は794年(延暦13年)の平安遷都以来はじめての内裏火災であり、この時、温明殿の内侍所に納めてあった天皇家三種の神器の一つ神鏡(八咫鏡:やたのかがみ)も焼けている。
 次の辛酉革命というのは、中国から伝来した予言の説によると、干支(えと)の十干が“辛(かのと)”で、十二支が“酉(とり)”の組み合わせの年、つまり60年に一回現れる辛酉の年は、王朝が交代する革命の年と言われているのに由来し、天徳5年がちょうどそれに当たっているので、天皇がその行動を慎み王朝の交代が起こらないようにと改元の運びとなったもの。ちなみに、わが国最初の災異改元である901年9月(昌泰4年7月)の改元は、昌泰4年が辛酉の年に当たったので、漢学者・三善清行が改元を進言したことによる。
 (出典:池田正一郎編著「日本災変通志>平安時代後期 121頁:天徳四年、応和元年」。参照:2020年10月の周年災害「天徳4年9月、平安京内裏初めて全焼」[改訂]、9月の周年災害・追補版(1)「昌泰から延喜へ改元、三善清行の進言により災異改元始まる」)

○大治から天承へ改元。去夏以来、炎旱殊甚による凶作を避ける(890年前)[再録]
 1131年3月7日(大治6年1月29日)
 日照りなどにより改元、とある。
 前年の1130年7月16日(大治5年6月3日)から8月24日(7月12日)までの記録を見ると、梅雨の時期も雨が少なかったらしく、7月16日に“有祈雨奉幣”とあり、以下8月の上旬(6月下旬)から下旬(7月中旬)にかけて、連日のように降雨祈願が行われている。
 なかでも、8月22日(7月10日)には“去夏以来、炎旱殊甚”とあり、去年の夏以来、日照りが殊更甚だしいと記録されているほどである。日照りによる凶作を避けるため改元された。
 (出典:池田正一郎編著「日本災変通志>平安時代後期 161頁:天承元年」[追加]、京都歴史災害研究会編「京都歴史災害年表>1101年~1200年 102頁:1130年」)

○応永の大飢饉で幕府施がゆを行う、京の都に“諸国貧民上洛、乞食充満”(600年前)[再録]
 1421年3月5日(応永28年1月22日)

 前年の1420年(応永27年)の夏は日照りが続き、四国から奥羽地方に至る全域が“天下大旱魃(干ばつ)”となり、特に畿内では琵琶湖の水が減って淀川が干上がった。ところが秋になると一転して大雨が続き、僅かに成長した稲穂などに大打撃を与え大凶作となった。
 その上、室町幕府と鎌倉公方との対立など戦乱の影響もあって収穫は一層激減し、諸国で飢饉や疫病が流行して多くの死者が出ていた。
 この年の春になると“諸国貧民上洛、乞食充満”と京の都に飢えた人びとが流れ込んで来たので、この日幕府は鴨川の五条橋の下に仮設小屋を建てて収容しおかゆを与えた。しかし、餓死者が増え続けたばかりではなく、顔が栄養失調などのため腫れ上がりやがて死亡するという病気が猛威を振るい、公家や庶民の別なく多くの人が倒れた。
 また、前年に続きこの年も飢饉となり疫病もますます広がり“洛中人家衰微”と京の人びとも食べるものが無く餓死したという。
 ようやく落ち着いた翌1422年10月1日(応永29年9月7日)、五条河原では死者を追善供養する大施餓鬼が行われた。死体で埋め尽くされていた鴨川の河原には、死骸の骨で作られた6体の地蔵と大石塔が建てられ、多くの人びとの霊が弔われたという。
 (出典:日本全史編集委員会編「日本全史>室町時代>1420-24(応永27-応永31)335頁:五条河原で大施餓鬼、飢饉・疫病の犠牲者安らかに」、小倉一徳編、力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>Ⅱ 記録に見る自然災害の歴史>1 上代・中世の災害>南北朝・室町時代の主要災害一覧 63頁:応永27~28 全国的第干ばつ・飢饉」、池田正一郎編著「日本災変通志>中世・室町時代 270頁~271頁:応永27年~29年」[追加]、京都歴史災害研究会編「京都歴史災害年表>1401年~1500年 159頁:1420年~1424年」。参照:2020年6月の周年災害「全国的大干ばつ、やがて応永の大飢饉へ。戦乱が拍車をかけ、疫病も流行」[追加])

○寛正の大飢饉、幕府無策、後花園天皇、幕府を叱ったが無視され改元で厄払い(560年前)[再録]
 1461年3月~4月(寛正2年2月~3月)

 応永の大飢饉が過ぎた約40年後の長禄年間(1457年~59年)も全国的な干ばつに加え戦乱が絶えず、凶作が続いて飢饉が発生していた。
 なかでも前年1460年(長禄4年-寛正元年)の夏は全国的に長雨で異常低温となり、秋にはイナゴが大量発生して作物を食い荒らした。特に山陽、山陰地方では食糧不足から“人民相食”という状態となり、飢えた人びとはまたも京都を目指した。
 この年、大量の人びとが流れ込んだ京都では、飢えと疫病によって寛正2年の最初の2ヵ月だけで8万2000人が死亡したという。うち捨てられた死体は市中に山のように重なり合い、鴨川の水も死体で埋まって流れず死臭が立ちこめ、疫病がまん延した。
 このような事態にもかかわらず、幕府は救済にほとんど手を打たず、将軍足利義政は自邸の造園に夢中、管領も家督争いに目を奪われ、管轄する京都五山の禅僧たちに、わずかな資金で施餓鬼(食物などの施しと死者の供養)を任せただけだった。事態を見かねた後花園天皇は詩を幕府に送りその無策を叱ったが、無視され変化は見られなかったので、やむなく“災異改元”で飢饉の厄払いを図らざるを得なかった。
 4月(旧暦3月)になり飢饉はやや衰えるが、疫病はますます流行り毎日300人から700人が死亡し、四条や五条の橋の下には1000人から2000人の死体が埋められたという。
 (出典:池田正一郎編著「日本災変通志>中世・室町時代 286頁:寛正元年」[追加]、京都歴史災害研究会編「京都歴史災害年表>1401年~1500年 172頁:1460年~1461年」、小倉一徳編、力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>Ⅱ 記録に見る自然災害の歴史>1 上代・中世の災害>南北朝・室町時代の主要災害一覧 64頁:寛正1~2 京都ほか近畿諸国等飢饉(寛正の大飢饉)」、日本全史編集委員会編「日本全史>室町時代>1460-64(寛正1-寛正5)・352頁:寛正の大飢饉で餓死8万人、後花園天皇、幕府の無策を非難」。参照:2021年2月の周年災害「長禄から寛正へ改元。天皇、大飢饉に対する幕府の無策を非難したが無視され改元策をとる」[追加])

○高野山、永承18年の大火で全焼。焼失を免れていた開祖を祀る御影堂も(500年前)[改訂]
 1521年3月30日(永正18年2月12日)
 唐(中国)で真言密教を学び帰国した空海(弘法大師)が、816年7月(弘仁7年6月)、時の嵯峨天皇に上奏して開山した高野山がこの日全焼した。
 午の刻(昼ごろ)、炎は西院の福智院からあがり、またたく間に次々と延焼、わずか奥の院を残したのみで、過去2回の大火で焼失を免れていた開祖を祀る御影堂をはじめ金堂(本堂)、真言密教根本道場の中心である大塔、往生院など堂塔、伽藍のすべて300宇余、衆徒(僧兵など)行人(修行僧)などの宿坊や居宅など3900宇(軒)を焼失し、仏像から顕密の聖経をはじめ多くの経巻、宝物が焼き尽くされた。
 ちなみに高野山の再建は65年後、豊臣秀吉がその母大政所の病気平癒のために立願し始められ、1586年(天正14年)金堂が再建されたが、その後も幾たびかの火難に遭っている。
 (出典:池上裕子ほか編「クロニック戦国全史>戦国大名登場>1521・220頁:高野山、372年ぶりの大火で炎上」、塙保己一編「群書類従 第24輯 釈家部>巻第四百四十二 628頁~630頁:高野山焼失記」、池田正一郎編著「日本災変通志>中世 戦国時代 305頁:大永元年」)

○江戸最初の広域大火・桶町の大火-大名火消と木場の誕生(380年前)[改訂]
 1641年3月10日(寛永18年1月29日)

 29日の子刻(ねのこく)の少し前(午前0時ごろ)、京橋桶町一丁目の医師宅から出火し折からの烈風にあおられて南は芝宇田川橋(増上寺の東方)から東は木挽町海岸(築地あたり)、北は御成橋、西は麻布に至るまで延焼し翌日午後8時ごろようやく鎮火した。八官町の堀と御成橋周辺の堀が死体388人に埋め尽くされるなど数百人が死亡。町家は97町1924軒、侍屋敷121軒、同心屋敷56軒が焼失するという開府以来初めての江戸市中広域に渡る大火だった。
 この大火で消火の総指揮に当たった大目付の加々爪忠澄は煙に巻かれて死亡、火消役の相馬義胤は消火作業中に落馬して重傷を負った。
 火消体制は、大火の2年前の10月(寛永16年9月)に大名家6家を“奉書火消”として専任させたばかりで、訓練も装備も不十分だった。将軍家光は直ちに江戸の防火対策の検討を命じ、担当する奉書火消役は協議の結果、本格的で常設の火消部隊の編成を上申、2年後の1643年11月(寛永20年9月)6万石以下の大名16家から火消担当者を出して4隊に編成した常備消防“大名火消”を創設した。
 また現場検証の結果、日本橋材木町など堀割周辺の材木置場(木場)に火がつき広い範囲への延焼を助けたことがわかったので、幕府は江戸府内35か所に散在する材木問屋の木置場を、隅田川河口の永代島の地を下賜してこの地に集約させた。この地は“木場”と呼ばれたが、幕府は1699年(元禄12年)御用地とするため本所猿江に移転を命じ、またその後この地も御用地となるため、材木商15名が2年後の1701年(元禄14年)深川の埋立地の払い下げを受け自力で造成、後の深川木場24か町を誕生させた。また永代島の地は幕府代官の手により造成されたのち、同じころ町民たちが買い受け22か町の町人地(町屋)として発展させ元木場と呼ばれるようになった。
 (出典:東京大学所蔵史料目録データベース・東京都編「東京市史稿>No.2>変災篇 第4・65頁~81頁:寛永十八年火>9正月晦日大火」、日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1641(寛永18)525頁:桶町の大火おこる、大目付可加々爪忠澄、張り切りすぎて殉職」、小沢利雄著「江戸の埋め立て造成と木場の移転」[追加]、東京木材問屋協同組合編「木場と問屋組合の歴史>江戸時代年表」、江戸町巡り管理人編「江戸町巡り>【深川②】元木場町」[追加]。2019年7月の周年災害「諸大名帰国に際し、在府大名たちに火の番仰せつける、奉書火消の文献初出」2019年11月の周年災害「幕府、奉書火消を専任化し初めて組織的な消火体制に」、11月の周年災害・追補版(3)「幕府、初の組織的な大名火消制度創設」)

各自火消・加賀鳶(かがとび)公式に誕生、国元での成果を江戸藩邸で活かす(340年前)[再録]
 1681年3月2日(延宝9年1月12日)

 加賀鳶というと、その伝統を引き継いだ金沢市消防団の団員たちが、同市の出初式でいなせで華麗な“はしご乗り”などの妙技を披露しているが、その源は江戸の加賀藩邸を守る百万石前田氏のお抱え自衛消防隊である。
 この日前田家では、徳川将軍家分家の徳川御三家と一緒に、各家がそれぞれに自衛消防隊を結成することを許可された。つまり“各自火消”の公式な誕生で、加賀鳶も公式に認めれたことになる。
 実はここで公式の……というのは、江戸に藩邸を持つ各大名家が、それまでに自衛の消防隊を持っていなかったという事が考えられないからである。
 1600年10月(慶長5年9月)関ヶ原の戦いで徳川家康を盟主とした東軍が勝利し、徳川氏の覇権が明確になると、翌1601年10月下旬(同6年10月上旬)に入府の伊達政宗をはじめ、外様の有力大名たちが続々と江戸に集まり、幕府から屋敷地の指定を受け邸宅を建造している。その流れは1603年2月(同8年2月)家康が征夷大将軍に宣下(天皇から任命)された後の翌1604年(同6年)まで続き、その頃には全国の諸大名の邸宅が江戸市中に建造されたという。
 諸大名が自衛の消防隊を持つようになったのがいつ頃からかは記録がなくわからないが、火事と喧嘩は江戸の華の江戸である。そのきっかけとなったであろう大火が1601年12月26日(同6年閏11月2日)に起きている。江戸慶長6年の大火である。火元は駿河町(現在の三越本店の場所)で当時の江戸の町が“全市焼亡す”となった。竣工したばかりの加藤清正邸など豪壮な桃山造りの邸宅が次々と灰となったという。
 次の傍証は、1629年6月(寛永6年5月)に三代将軍家光が、領地に帰国せず江戸に残っている在府大名10数家に命じた“火の番(大名火の番)”で、後世“奉書火消”と呼ばれたが、この命に応じるためには、各大名家とも火消担当役(自衛消防隊)がいなければ“火の番”としての消防勤務は出来ない。幕府側も諸大名家に自衛の消防隊があることを見越して“火の番”を任命したのであろう。
 特に前田家加賀藩では、江戸で定火消が新設された17世紀中頃、他家に先駆け藩都・金沢では、在住の千石以上の藩士10人を常備の火消役に任命、火消担当を屋敷内に定住させていたという。また城下町対策は三代藩主前田利常時代から手がけ、火の見櫓の建設、各家の屋根に天水(雨水)桶の設置、消火専用の梯子や水桶の設置、夜廻り番による巡回、強風の日の鍛冶屋の仕事停止、出火の場合の飛び火対策などを進めていた。
 このような藩による対策やその成果が江戸藩邸に持ち込まれ、相当強固な自衛消防隊があったと思われ、それと最多石高の大名ということもあり、他家より早く徳川御三家と一緒に各自火消結成を許可されたのであろう。
 この各自火消こと加賀鳶として当初雇われた火消人足は、町火消人足の場合と同じく、お得意先の加賀藩邸に出入りし藩邸などの建築や修理に携わっていた鳶職の人たちが中心で、そこから加賀藩邸お抱えの鳶人足、“加賀鳶”と呼ばれるようになったようだ。
 鳶職というと、今でも超高層建築物の骨組みの上で作業している姿を見かけるが、当時は延焼を防ぐため、焼き進む炎の先にある家屋を破壊して空地を作る消防方式(破壊消防)が主力である。火消人足には家の造りを熟知し、それを壊したり、また屋根の上などの高い所で火消作業をする必要性がある。そこから鳶職の人が優先的に採用されたのではないか。
 各大名家の自衛消防隊の特徴は、私設であるところから、その組織体制やユニホームも幕府の指図を受けない独自のもので、なかでも加賀鳶はその最先端を行き、威勢の良さと共にその名を馳せたという。
 特に消防隊のシンボル“纏(まとい)”の太鼓は幕府の敵、太閤秀吉からの拝領のものと噂され、髪型から歩き方まで“粋”を演出し、イベントの華、はしご乗りを最初に披露した。
 加賀鳶は藩邸のほかに増上寺や湯島の聖堂など幕府の主要な建築物の火消役を命じられているが、そのほか他家の場合でも、幕府はこの消防隊を利用し藩邸近隣の火事の時に出動させたので“近所火消”と呼ばれたが、1719年3月(享保4年1月)には、「武家防火の制」として“屋敷周辺2~3町(約2~300m)の火事であれば家来を派遣し、小火(ボヤ)の内に消すこととされ、小人数でも良いから早々に駆け付け消火に当たるように”との示達をし、各自火消はその活動範囲で“三町火消(約330m四方)”とも“五町火消(約550m四方)”“八町火消(約880m四方)”とも呼ばれた。ちなみに親類筋や菩提寺などの火災の際に駆け付けるときは“見舞火消”と称したという。
 これらの時、示達では“火消衆(定火消)が駆け付けたら家来を引揚よ”とあるが、これは本来各自火消はあくまでも、みずからの藩邸の防火・消火を目的にしているからだが、加賀鳶などは藩邸近くの町人地での消火活動に出動した際、加賀百万石の意地を見せ、幕府直属の定火消のがえんたちや町火消人足たちと消し口争いなどで大げんかをして、河竹黙阿弥の歌舞伎狂言“盲長屋梅加賀鳶”の背景になった。
 (出典:ワンダフルかなざわ「イベント>加賀鳶」、東京大学所蔵史料目録データベース・東京都編「東京市史稿>No.4>市街編第2 ・973頁~988頁(962コマ):諸大名賜邸」、東京都編「東京市史稿>No.4>市街編 第19.363頁~364頁:武家防火制」、山本純美著「江戸の火事と火消>大名火消 50頁~56頁:加賀藩自慢の加賀鳶」、黒木喬著「江戸の火事>第二章 武家火消の発達>大名火消の成立 39頁~41頁」、衛星劇場編「盲長屋梅加賀鳶」[追加]、YouTube「盲長屋梅加賀鳶 本郷通町木戸前の場」[追加]。参照:2011年12月の周年災害「家康入府後初の江戸慶長6年の大火」、2019年11月の周年災害「幕府、奉書火消を専任化し初めて組織的な消火体制に」、11月の周年災害・追補版(2)「幕府、在府諸藩の各自火消を制度化、藩邸と周辺の消火に専念」)

○延宝の第二次飢饉、米価急騰。磔茂左衛門など農民運動のエピソード残す(340年前)[再録]
 1681年春(延宝9年春)~1682年(天和2年)

 前年の1680年(延宝8年)は越中(富山県)や津軽(青森県)が風水害に見舞われた上に、特に9月(旧・閏8月)には東海と関東地方が大風雨に見舞われ大水害となった。また冬になると厳寒で大雪が降り、全国的に農作物の収穫量が減少して諸国の庶民は窮乏していた。
 特に江戸では米の価格が急騰、幕府は年が明けたこの正月(1681年2月)、京都や大阪の米商人の倉庫を調べ隠匿米があれば没収したという。ところがその効もなく米価は騰貴し庶民は飢餓状態に陥った。
 さらにこの年も台風を始め天候不順で凶作となり、飢饉が一層進み翌1682年(天和2年)にかけて全国的な大飢饉となった。特に北陸では餓死者2500人を数えたというが、江戸や京都を始めとした畿内、中国でもひどく畿内では疫病も蔓延。また長崎では3,4年以来米穀の貯蔵が減った上、前年は外国船の入港が少なかったので収入も減り飢饉が進み福済寺や崇福寺では施がゆを行った。
 このころ、駿河国今泉村(現・静岡県富士市)の農民五郎右衛門が、前年の台風に襲われて収穫皆無となり、困窮し飢饉に苦しんでいる農民たちに、不足している米や種籾、資材を与えるなど復旧支援を行ったので、幕府がこれを取り上げ表彰している。一方、上野国沼田藩領(現・群馬県沼田市)では夏の大雨と冬の厳寒により、米の収穫が平年の3分の1以下しかなかった。そこで月夜野村(現・みなかみ町)の農民杉木茂左衛門は、増税が続く沼田藩が今まで以上に過酷な米の取り立てを行うのではないかと憂い、時の大老酒井雅楽守に直訴を試みるが失敗、磔(はりつけ)の刑にされた。
 ところが明治維新以降、戯曲や小学校の修身(現・道徳)教科書に取り上げられるなど義民磔茂左衛門の名を残す。方や沼田藩は夏の大雨による水害で流された両国橋の再建を命じられたが、過酷な税に疲弊しきっていた領民の協力を得ることができず、責任をとらされて改易(藩領没収、お家断絶)となる。実は、茂左衛門の直訴がどこかで効いて、幕府が密かに調査したのかもしれない。
 (出典:池田正一郎著「日本災変通志>江戸時代前期 393頁~395頁:天和元年~天和2年」、小倉一徳編、力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>2.近世の災害 87頁~88頁:延宝8~天和2 諸国凶作・飢饉」、東京大学所蔵史料目録データベース・東京都編「東京市史稿>N0.2>変災編 2 108頁~111頁(96コマ):延宝8年大風水災」、同編「同市史稿>NO.2>変災編3 703頁~704頁:延宝8年飢饉、704頁~707頁:延宝9年飢饉、707頁~708頁:天和2年飢饉」、西村真琴+吉川一郎編「日本凶荒史考>延宝・天和 286頁~289頁:日本農民一揆録」。参照:9月の周年災害・追補版(5)「停滞した梅雨前線と台風により西国を中心に大水害-延宝の第一次大飢饉まねく」[追加]、7月の周年災害・追補版(4)「延宝の第一次飢饉、棄民は非人となるか餓死か」、2020年9月の周年災害「延宝8年閏8月台風、東海道筋、江戸、強風と高潮に襲われる」[改訂])

桑名元禄14年の大火、町民たち梅見で留守中の惨禍-復興後、野村騒動起きる(320年前)[再録]
 1701年3月15日(元禄14年2月6日)

 当日は前日の雪もやみ、朝から快晴で侍も町民も揃って近郊へ梅見などに出かけた者が多かったという。
 その留守中の未刻(午後2時ごろ)になると、天候は激変し空は曇り大風が吹き荒れた。その時、今一色町から出火、烈風にあおられて延焼、城下町から城内へ、本丸の天守閣を始め、二の丸、三の丸から外曲輪に至るまで焼失した。
 町家1456軒と全体の8割近くが焼失、侍屋敷70軒、寺社6か所が焼失している。
 桑名藩では直ちに幕府に願い出て金一万両を拝借し復興に着手、城下町は3年がかり城郭は1年半で修築したが、天守閣は再建されなかったという。
 藩主の命によりこの復興を成し遂げ、また復興資金で悪化した藩財政の改革を目指したのは、親の代に取り立てられた新参の野村増右衛門だったが、城下復興後、750石の郡代(藩直轄地の代官)に出世した。ところが藩政改革に反対していた保守層の家老たちが、1710年6月(宝永7年5月)僅かなミスをとがめ野村を失脚させ一族と共に死罪にし改革派370人余を一掃した。
 しかし幕府はこの騒動を重視して藩主松平(久松)定重に対し同年9月(閏8月)越後高田への国替えを命じている。(野村騒動)
 (出典:近藤杢+平岡潤編「桑名市史 補編>第3章 災異>第2節 火災と防火56頁」、三重県県史編さんグループ編「歴史の情報蔵・藩内の反発で失脚か-桑名藩郡代・野村増右衛門の取り立て」)

○江戸享保春の連続火災、1か月間に6回も続く(300年前)[再録]
 1721年2月8日~3月31日(享保6年1月8日~3月4日)

 1721年(享保6年)の春、2月(旧1月)から3月にかけて、江戸の町は6回にわたる連続火災に見舞われた。
 2月6日(旧1月8日)巳中刻(午前10時ごろ)日本橋呉服町一丁目から出火し北風にのって延焼、大工町、新数寄屋町、京橋から築地浜まで燃えて鎮火。
 2月24日(旧1月28日)子下刻(午前1時頃)麻布善福寺門前の家から出火し芝愛宕下裏町まで延焼。
 3月4日(旧2月7日)巳上刻(午前9時頃)四谷中殿町から出火し六本木、麻布一本松辺りまで焼く。
 3月6日(旧2月9日)午下刻(午後1時頃)四谷忍町から出火し左衛門町、麻布谷町、狸穴脇、三田筋より芝、品川あたりまで焼失。
 3月30日(旧3月3日)巳下刻(午前11時頃)神田三河町四丁目から出火し強い南風にあおられて須田町、神田旅籠町、湯島天神社地、下谷筋まで残らず焼失、そこから上野池端から東叡山の仁王門を焼き、広小路も越えて下谷、浅草観音寺内あたりから坂本、千住まで焼く大火となった。
 翌31日(旧3月4日)は前日に続き南の烈風が吹き荒れた。辰下刻(午前9時頃)牛込木津屋町から出火、同若宮、同御門外を経て小日向から小石川伝通院も全焼し境内に避難していた360人余が死亡したという。その後、火は本郷、駒込、千駄木、谷中と進み氷川あたりでようやく鎮火した。
 この6回の火災で江戸市中の三分の二が焼け2107人が死亡、百石以上武家屋敷と医師屋敷7415軒、陪臣(大名の家来)屋敷と町家13万3720軒、その他225軒、寺社560か所が焼失した。焼失した伝通院では後にこの時の死者を弔い無縁塚を建立している。
 (出典:東京大学所蔵史料目録データベース・東京都編「東京市史稿>No.2>変災篇 第4・697頁~723頁:享保六年火災」)

○江戸市ヶ谷文化8年谷町の大火、四谷御門外堀端の家々全焼(210年前)[再録]
 1811年3月5日~6日(文化8年2月11日~12日
)
 江戸の町中に西北西の風が激しく吹いていた申上刻(午後3時ごろ)市ヶ谷谷町から出火した。
 この火事で四谷御門外の堀端の家々が一面全焼し、青山から赤坂溜池、麻布谷町、同市兵衛町、芝から赤羽橋あたりまで焼け、増上寺境内の宿坊を焼いて鎮火した。500人死亡し負傷者は数知れずという、2万軒焼失。
 (出典:東京大学所蔵史料目録データベース・東京都編「東京市史稿>No.2>変災篇 第5・242頁~246頁:文化八年火災>1.二月十一日火災」)

インフルエンザ(長州病)大流行で、御家人たちに施薬とフリーター町人に御救銭(200年前)[再録]
 1821年3月29日~4月8日(文政4年2月26日~3月6日)

 インフルエンザが江戸時代でも流行っていた。
 この年は3月中旬ごろ(旧2月中旬ごろ)から江戸中で流行し、江戸城中の3月24日(旧2月21日)の廻状(連絡事項の文書)には“長髪罷出、共廻格別減少不苦(髪が長くなり月代を剃らずに上司の前に出ても、供廻りの家来の数が少なくてもかまわない)”とある。
 若年寄の堀田摂津守はあまりの病人の多さにとうとう29日(旧26日)、御目見え以下の御家人などに薬を与え、当番で出勤している者たちも一通り用事が済んだら帰宅しても良いと御目付に指示を出している。
 その薬は“漢方薬でショウガを入れて煎じて飲め”となっている。薬を与えた人数は3月29日(旧2月26日)から最終日の4月8日(旧3月6日)まで、延べ3万5444人。
 また、その日稼ぎの町人(職人や商家などに常勤していないフリーターの町人)などには御救銭を町会所を通じて与えている。その金額は独身者1万5765人には200文づつ、一家に二人暮らし以上の者28万1222人には一人あたり250文とある。
 なおこの流行病は、毛利公が参勤交代で下向の時から流行ったとして“長州病”なる名前がつけられたり、また外国との玄関口、長崎から流行って来たとの説もあり、どうやら外来のインフルエンザが西国から下って来たもののようだ。
 (出典:東京大学所蔵史料目録データベース・東京都編「東京市史稿>No.2>変災篇 第3・980頁~987頁:文政四年風邪」)

天保2年神奈川宿(現・横浜市)の大火、1200軒余焼失し伝馬業務5日間ストップ(190年前)[再録]
 1831 年3月13日(天保2年1月29日)
 
朝のうち晴れていた天気は、その後東風が強くなり、寒くなってきた。
 夜の四つ時(午後10時ごろ)、農家・捨五郎の家から出火。火勢は滝之川(現・中央卸売市場近く)を越えて青木町まで延焼、炎は街道を挟んで上下に広がり、翌朝七つ時(午前4時ごろ)ようやく鎮まる。石井本陣を始め問屋、助郷会所、東光寺、宗興寺、吉祥寺などが焼失。神奈川宿の歩行(かち)役53軒、馬役112軒など、幕府御用の書状や荷物を乗り継いで運ぶ(伝馬)ための人(歩行役)や、馬を提供する宿(営業所)が焼失したほか、旅籠屋(旅館)31軒も焼失し伝馬の業務がストップしたので、隣の保土ケ谷宿や川崎宿で5日間代行した。そのほかお茶屋、商家、農家など1000軒余、合計1200軒余が焼失した。なお伝馬制度維持のため、幕府から借入金をしたが、かなり高額で長く返済に苦しんだという。
 (出典:横浜市神奈川区編「神奈川区誌>第3章 神奈川宿のころ>4災害と普請>地震火事 169頁:神奈川宿の大火>天保2年(1831)」)

東京府消防局所属町火消10番組、初めてイギリス製椀用ポンプを使い浅草で大奮闘(150年前)[追補]
 1871年3月28日(明治4年2月8日)
 
夜の戌の下刻(午後9時ごろ)、浅草本願寺(東本願寺)と道を隔てて北側にある田島町(現・西浅草二丁目)から出火した。
 炎は北風を背負って南に延び、田原町まであたり一帯を灰にしたが、この時大奮闘したのが、三日前に東京府消防掛から昇格設置されたばかりの消防局(現・東京消防庁)に所属する浅草10番組の町火消(現・消防団)の面々で、これも配備されたばかりのイギリス製最新鋭・腕用ポンプをはじめて操作し猛火を消し止めた。
 この時使用された輸入腕用ポンプは江戸時代から続く“龍吐水”と同じように、漕ぎ手が左右に分かれて交互に腕木を上下させ、水槽から水を噴出させる仕組みのものだが、はるかに性能が良く、大量の水を火元に吹きかけ消し止めて見せたという。当時の年代記「武江年表」はこの火事の記事の後に“消防器械ポンプ始て用ひ便利を知る”と記している。
 ちなみに、この夜大活躍した町火消10番組は新門辰五郎が率いた“を組”が中心の火消組で、幕末、江戸幕府が薩長など反幕府軍と対峙した際、15代将軍・徳川慶喜に従い活躍したとされ、辰五郎の人柄とともに小説や芝居、映画によく描かれている。
 (出典:消防防災科学センター編「消防防災博物館>消防の世界>消防の歴史>2.明治期の消防>(3)消防資機材等>腕用ポンプと蒸気ポンプの普及」、国立国会図書館デジタルコレクション「江戸叢書 巻の12・武江年表>巻の12>明治四年辛末 188頁(200コマ)」、東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の消防百年の歩み>明治初期4 頁~6頁:蒸気ポンプの輸入と腕用ポンプの試作」。参照:2014年1月の周年災害「内務省、東京警視庁創設次いで消防章程を制定」、6月の周年災害・追補版(5)「消防本署に輸入の第1号蒸気ポンプ、年末には同分署に国産腕用ポンプを配置し龍吐水廃止される」)

浅野セメント降灰事件。住民側、青年団を結成し工場撤廃要求、最終回答で拒否される
 ー6年後、電気集塵装置導入で工場撤廃要求を撤回させ、移転先にした川崎工場も完成(110年前)
[追補]

 1911年(明治44年)3月13日
 
浅野セメント(現・太平洋セメント)深川工場は、1875年(明治8年)5月、現在の江東区清澄一丁目の地に官営深川セメント製造所として創業して以来、工場の煙突から粉塵をまき散らす“降灰問題”を起こし、工場の立ち退きを要求する付近の住民と対立していたが、この日、要求を拒否、抗議行動は頂点に達する。
 日本のセメント産業は、その生産工程上、最初から“粉塵公害”を拡散していたが、19世紀中葉、フランスで創始された鉄筋コンクリート構造物の将来性を見越した、浅野財閥の創始者・浅野総一郎の手によって一大産業に発展する。
 総一郎は1883年(明治16年)官営深川セメント製造所の貸与を受けることに成功、翌1884年(同17年)払い下げを受け、浅野工場と命名、操業を開始したが、その時点ですでにその生産高は国内第一位だったという。
 官営から浅野工場に移行する時期における、深川での粉塵公害に対する住民の苦情は、当時の警視庁の鎮撫によって何とか収まっていたが、セメント生産量の増加に比例する粉塵の増加と深川の住宅地化の進展が相まって、住民の苦情から進んで反対運動“工場立ち退き要求”として高まっていく。その背景にあるのが、セメント生産過程に於ける最新鋭の“ロータリー・キルン”の採用であった。
 ロータリー・キルン(回転窯)は、乾燥させた粉末状のセメント原料(生石灰)を円筒形の窯の中で焼成し、大量生産を可能にするものだが、その際、集塵装置を設置しない限り、生産量に比例した従来よりはるかに多量の粉塵を空中にまき散らす恐れが予測された。ところが1898年(明治31年)多額の出資を得て浅野セメント合資会社となっても、何ら対策を講じようともせずそのまま導入、住民の反対運動を醸成させていく。
 この公害発生パターンは、明治の富国強兵政策のもと、1890年~1900年代(明治20年~30年代)に各基幹鉱工業で一斉におきた一連の発生パターンであった。すなわち、設備の近代化→大量生産→公害発生→地域住民との紛争→「事件」として政治・社会問題化、と同じ流れであり、唯一、日立鉱山が巨大な煙突を建て煙害を最小限に抑えたのが成功例と伝えられている。これは日立の久原房之介と浅野総一郎、足尾の古河市兵衛との見識の差なのか、それぞれ事件発生当時30代の久原と60歳前後の浅野、古河との年の差が対応の速度に出たのであろうか。共に巨大企業グループ、財閥の創始者であるが。
 実際、浅野セメントでは、深川工場でのロータリ-・キルンの稼働により生産高は大幅に増えコストダウンに成功したが、大量な粉塵が空中へ放出され、1907年(明治40年)ごろから、住民と工場側との対立は表面化、工場付近の住民の中から「深川青年団」が結成され“工場移転”を主な要求として、東京府当局への陳情、会社側との交渉など、公害反対闘争の中心を担っていく。
 しかし、浅野セメント側では、移転要求への回答はもとより集塵設備の設置もしなかったので、反対世論は沸き上がり、当時の新聞も「浅野セメント降灰事件」として取り上げ、住民の要求を支持した。
 世論を背景にした深川青年団の抗議行動も頂点に達し、工場側はやむなく、セメント製造機器の一部改造と変更、防塵装置の設置などを計画したが住民側を納得させることはできなかった。
  この日3月13日、会社側は“移転の必要性は認めるが期日は断言できない、除害工事は行う”と回答。9時間におよぶ押し問答の末、10日後に再回答することになる。3月24日、会社側から除害工事の詳細な発表があったが、3年以内に工場移転という要求については敷地難、セメント供給続行が絶対だとし拒否し、交渉は決裂。
 交渉の翌25日以降、実力行使を主張する青年団員の動きが活発となり、緊張した空気の中で、衆議院でこの問題を討議をすることに賛成した河野広中が仲介し、6年後の明治50年(1917年:大正6年)が大日本博覧会の開催予定日なので、その前年の1916年(大正5年)末までに深川工場を撤廃することとなった。浅野本社では実は3年前にすでに計画を完成していた対岸の鶴見・川崎海岸への移転を決め、2年後の1913年(大正2年)埋め立て工事開始、翌1914年(大正3年)には、川崎工場の敷地が完成している。
 ところが、1914年から始まった世界大戦(第一次)により、工場建設材料の入手難と注文したセメント製造機械が延納し、約束した1916年(大正5年)末の深川工場の撤廃が不可能になったとし、1年間の延期が認められる。
 しかし、高性能の電気集塵装置が浅野セメントに紹介されたので、工場撤廃を避けたい同社では、1916年(大正5年)7月には導入を決定、翌1917年(大正6年)12月には試運転、通煙試験を行い、その月の24日と25日の住民説明会で、ついに工場撤廃要求を撤回させた。  
 一方、川崎工場も1917年(大正6年)には竣工の運びとなり、期せずして浅野セメントは、ここに二つの工場を持つこととなった。住民の工場撤廃運動が皮肉にも同社の事業拡大の機会となり、その後、株式会社化し大浅野セメントに成長発展するが、川崎工場には電気集塵装置を設置せず操業を始めたので、1923年(大正12年)川崎工場降灰事件を起こす。住民がだまっていれば、“公害”をまき散らしても平気なのであろうか。
 (出典:加藤邦興著「公害と技術の近代史>第3章 公害地帯の形成>第1節 先駆例として川崎工場地帯>1.浅野セメント降灰事件」。参照:12月の周年災害・追補版(3)「田中正造、足尾鉱毒問題で政府に初の質問書提出し議会でも追及」、2013年9月の周年災害「別子銅山惣開(そうびらき)製錬所煙害問題起きる」、2016年2月の周年災害「大阪府、製造場取締規則制定し公害規制」、2017年3月の周年災害〈上巻〉「日立鉱山煙害問題発生-巨大煙突、高層気象観測の実施、被害者側と情報を共有化し問題解決へ」)

○昭和16年北海道三菱美唄炭鉱ガス爆発事故、53人の遺体収容不可能と判断、消火注水され埋没
(80年前)[再録]

 1941年(昭和16年)3月18日 中国と戦争中であり対米関係が悪化し、石炭増産強調期間中のこの日午前2時40分ごろ、三菱美唄鉱業所の炭鉱通洞坑下六番層で突然大爆発が起きた。
 このガス爆発により竪入坑道の圧縮機室に引火した火災は、下六番層の本片坑道に延焼し通洞坑ののど元が火でふさがれた形になった。
 当時、下六番層を中心に七番層、九番層などの坑内には二番方坑夫370人が入坑していたが、そのうち177人は自力で脱出し残り193人が猛火の中に取り残された。
 同鉱業所では直ちに救助に着手したが救出は困難を極め、同日中に17人を救出し6人の遺体を収容するだけだった。そして救出された17人の内重傷の2人は死亡し、死者及び行方不明者は177人となった。
 爆発当日の18日から坑道内の途中密閉作業開始。19日遺体1人収容。20日コンクリートによる坑道密閉作業開始。残りの168人は絶望と断定され、4月5日、下六番層の水準下へ消火のための注水が開始され、同層水準下の53人の遺体は完全に埋没されたままとなった。
 (出典:美唄市編「美唄市百年史>第3章 経済不況から戦時・戦争体制へ>第3節 不況と戦時下の石炭産業>5 続発する大型炭鉱事故 782頁~784頁:三菱美唄通洞抗大ガス爆発」、三菱美唄炭鉱労働組合編「炭鉱に生きる 炭鉱労働者の生活史>Ⅳ 戦争と炭鉱労働者>太平洋戦争>うちつづく災害 116頁~119頁」注:同爆発事故を北海道美幌炭鉱としている資料があるが誤植、と思われる。)

〇2011年東北地方太平洋沖地震「東日本大震災」
 ―津波・殉職・絆-貞観+昭和三陸地震津波の再来か(10年前)[改訂]

 2011年(平成23年)3月11日
 この日14時46分ごろ、三陸沖、牡鹿半島東南東130km付近、深さ24kmを震源とするマグニチュード(M)9.0の超巨大地震が発生した。東北地方太平洋沖地震と名付けられ、東日本大震災を引き起こす。
 この地震は、これまで国内史上最大規模と記録されている1896年(明治29年)6月、明治三陸地震の8.5を遙かにしのぐかつてない規模の地震で、宮城県栗原市の震度7をはじめ宮城県、福島県、茨城県の各地に震度6強の揺れをもたらし、青森、岩手、宮城、福島、茨城、千葉各県太平洋沿岸部、長さ約500kmにわたり巨大津波が襲いかかった。
 その遡上高は、岩手県宮古市田老地区39.7m、大槌町19m、大船渡市三陸町31.8m、陸前高田市22.2m、宮城県南三陸町16m、女川町35m、仙台市宮城野区5.6m、福島県相馬市21.3m、いわき市15.8mで、千葉県旭市でも8.7mを記録。伝承している1933年(昭和8年)3月に発生した昭和三陸地震津波で、岩手県綾里村(現・大船渡市三陸町)で記録した28.7mを遙かに超えていた。またその規模、震源地、津波などの被災状況から約1100年前の“貞観三陸地震津波”と115年前の“明治三陸地震津波”のメカニズムを併せ持つ可能性があると東京大学地震研究所で分析された。
 津波発生域は震源から約150km北東の岩手県沖で、震源の約70km沖の海底で、陸側のプレート(岩盤)の先端に当たる幅約55km、長さ約160kmの部分が、跳ね上がりながら南東方向に約55mも激しくずれ、海底が約5m隆起したことが大津波を引き起こした原因と分析された。
 実は地震調査委員会における海溝型地震の長期評価では、この年の1月より30年以内に三陸沖南部海溝寄りでM7.7前後の地震が80~90%の確率で発生すると予測していていたのだが、国の専門機関や地震学者たちが想定外だった、このようなM9の超巨大地震の突然の発生は、太平洋側東日本各地に激しい爪痕を残す。特に東京電力福島第一原子力発電所では、津波による電源喪失により原子炉の冷却機能が喪失、水素爆発を起こすという国際原子力事象評価尺度最悪のレベル7(深刻な事故)の大事故を引き起こした(次項参照)。
 ちなみに大震災ほぼ10年後の2021年2月13日23時7分ごろ、福島県沖を震源とするM7.1の大地震が発生、宮城県蔵王町、福島県国見町、相馬市、新地町で震度6強を観測したが、気象庁の発表によると、この地震は2011年3月11日に起きた東北地方太平洋沖地震の余震とされている。超巨大地震にとっては、10年の月日はごくわずかな時間でしかない。

●“想定外”の悲劇、各地・各所で
 この日3月11日、東北地方太平洋側各地では、昼ごろから小雪混じりの天気となったが金曜日である。明日からの休日を控えてややのんびりとした空気が流れ、各市町村役場でもゆったりとした気分の中にいた。そこへ震度6強~弱の地震が発生、津波が襲ってきた。専門機関や学者に“想定外”と言わせた超巨大地震による大津波を、町長も町役場の防災担当職員も予想できなかったのは当然であろう。

〈事例・岩手県大槌町〉
 大槌町の2階建て庁舎では、2階の副町長室などでパソコンが倒れ、天井の蛍光灯が落ちるほどの強い揺れに襲われた。東梅副町長はいったん外に飛び出したが、すぐ隣接する東棟2階の町長室に駆け込み災害対策本部の設置について打ち合わせ、津波が押し寄せることよりも、築50年以上の庁舎が崩れることを懸念して、屋外の正面玄関横に本部を置くこととし、防災担当の澤舘総務課長など幹部たちが準備を始め出す。そのころ、総務課や地域整備課の職員たちは被害情報の収集に追われていたが、役場に隣接する消防署では、15時直前から町民に防災行政無線で、3mの大津波警報が発令されたとし高台への避難を呼びかけていた。
 町役場は被害を受けた町の中心部にあり、大槌川の河口から直線距離で250mほどの場所にあった。津波は6.4mの防潮堤を越え川沿いを一気に押し寄せてきた。庁舎前で幹部たちから“避難した方が良いのでは”という声が出始めたとき“津波だ!”という声が響いたという。副町長は屋上にすぐさま避難したが、津波は屋上のすぐ下まで達し、15時20分ごろには2階建ての庁舎はほぼ水没した。加藤町長、澤舘総務課長をはじめ28人の職員が災害対策本部設営のさなか犠牲となるなど、避難しきれず全職員の3割近い39人が殉職して行政機能は麻痺、その後の火災によりさらに被害は広がり、町は数日の間、外部から孤立した状態になってしまった。
 大槌町の地域防災計画では、高台にある中央公民館を災害対策本部の設置場所にしていた。しかし災害時までの避難訓練では町役場に本部を置いていたので、津波が襲来した当日も高台への避難を思いつかなかったという。それは市街地を覆い守るように築かれていた防潮堤の存在と、警報が出てもこれまで大きな津波が来なかったという事実が、町役場側の危機意識を薄れさせていたという。ところが大槌町を襲った津波の波高は12.6mであった。

〈事例・岩手県陸前高田市 〉
 陸前高田市では市職員の4分の1に当たる111人が、多くの市民も犠牲となった第一次避難所とされていた市民会館や市民体育館で集中して死亡した。
 当時、市職員の災害時の行動マニュアルはなかったという。ただ強い地震の後には安全が確認されるまで屋外に退避することになっていたので、職員たちが庁舎前の公園や駐車場に避難すると、市の幹部が拡声機で隣接する3階建ての市民会館への避難を呼びかけ、その声に促されて歩き始めた。しかしここで建物を完全に水没させた津波に遭遇する。避難した市民たちと共に61人もの市職員が犠牲となった。津波に備えたルールもなかったのである。
 一方、市民会館から約500m東に離れた市民体育館に避難した職員もいた。同市の津波ハザードマップでは、市庁舎周辺の浸水は50cm以上1m未満とされていた。ところが実際は波高15mの津波が一気に押し寄せ2階の観客席どころか天井まで水没した。ここに避難した市職員23人が犠牲となっている。
 また4階建ての市庁舎も屋上付近まで浸水、中で情報収集などに当たっていた11人が殉職した。しかしここでは77人が屋上へ避難し救助されているので、避難所に指定しておれば良かったのだが、災害対策本部設置場所としていたので、指定はされていなかった。だがその災害対策本部も度重なる余震と情報収集に追われ開かれることはなかった。また市庁舎も市民会館も、市民体育館も海岸から1km余りしか離れておらず平地に建てられていた。そこが第一次避難所であり、市防災の中枢だったのだ。防潮堤の存在と浸水予測があまりにも低かったので、高台に避難所を設定することもなく、災害時のマニュアルもないことが市民を初めとした職員の犠牲を増やしてしまった。

〈事例・宮城県南三陸町〉
 地震後、記者のインタビューに「われわれ年寄りは生き残り、若い職員が流されてしまった」と、宮城県南三陸町の遠藤副町長は悔しさをにじませたという。
 同町では町民の大多数が“地震の後には必ず津波が来る”という意識が高かった地域でありながら、なぜ831人もの犠牲者を出したのか。気象庁が地震発生3分後の14時49分に発令した大津波警報“1分後に岩手県に高さ3mの津波が到達する”との予測について、同庁では15時14分には6m、同31分には10m以上と切り替えていた。宮城県内では最初から6mの大津波警報が出ており、南三陸町防災対策庁舎からは、繰り返し“6mの津波が来ます。高台へ避難してください”と防災無線の呼びかけが途切れることなく最後まで続いていた。その声に促されて多くの町民が高台に避難したが、津波で3階建ての防災庁舎がのまれてしまった。なぜだったのか。
 防災無線のマイクを握っていたのは、入庁4年目で前年春、新設の危機管理課に移り、この年の9月に結婚式を控えていた遠藤未希さんだった。気象庁による津波の予測波高は6mである、防潮水門は8mほどあり“6mなら大丈夫、万一波が水門を越えても、屋上に逃げれば良い”というのが防災担当職員の共通認識だったという。
 15時20分過ぎ、庁舎屋上で津波を見張っていた職員から“津波が来たぞ”と声が上がった。佐藤町長が屋上に上がると、防潮水門を乗り越えて波が町中になだれ込んでいた。15時31分に気象庁が10mとした予測が届く前である。及川企画課長が放送室に“逃げたらいいっちゃ(逃げよう)”と声をかけ屋上に続く外階段を駆け上がったが、すでに水が近くまで来ていた。15時34分、防災庁舎に波がぶつかり屋上を越えていった。屋上にいた30人ほどの内10人が救助されたが、遠藤さんほか危機管理課職員など約20人が殉職した。
 実際の津波の波高は津波警報の6mを遙かに超える15.87mだった。しかし南三陸町の町民1万5000人の内半数近くが高台に避難し助かっている。後に多くの町民たちから“あの放送のおかげで背中を押され助かった”との感謝の言葉が町役場に寄せられたという。

〈事例・岩手県宮古市田老地区〉
 一方、“万里の長城”と呼ばれた大防潮堤を信じ犠牲者を増やした地区がある。
 岩手県宮古市田老地区では、昭和三陸地震津波による全村壊滅後、総延長2433m、基底部最大幅25m、海面高さ10mというX字型の大防潮堤を完成させ、地区の人々に鉄壁の守りと思わせていたが、地震発生の約40分後、時速115kmの津波が襲い、波の高さ19mの大波はやすやすと防潮堤を乗り越えて進み39.7mの高さまで達し家屋や人々をのみ込んだ。

●消防・警察、消防団員、民生委員、看護、介護職員など“志”“使命”が故の殉職
 大津波は市町村の防災担当課職員だけではなく、防災機関や介護および障害者、医療関係施設、学校などに勤務し、あるいは地域で職務を遂行するなど、地域住民、要介護者、障害者、患者、生徒たちなどの避難誘導に当たった多くの人々を殉職させている。
 なかでも消防・警察関係では消防団員254人、消防職員27人、警察官30人など多くの人々が殉職した。
 消防団は、わずかな出動手当のみで職務を遂行するボランティア組織で、江戸時代、城下町では“町火消”として、農村地帯では村の“若者組”がそれぞれ地域の防火、消防を担い、明治時代以降“消防組”として活躍し、その後幾多の変遷を経て第二次大戦後(1945年~)“消防団”として復活、特に常備消防の消防職員が少ない地域では、地域防災の柱としてその存在は大きく、住民の信頼も厚く、各消防団員は誇りを持って活動している。
 この日、地震の揺れと大津波の襲来を受け各地の消防団では、団員が手分けをして防潮水門を閉鎖し、ポンプ車などで各地区を巡回して避難を呼びかけたり、逃げ遅れた住民の調査確認、避難誘導などに取り組んだが、役場の消防局や担当課との無線や携帯電話も途絶え、団員間の連絡も取れなくなり、救援も呼べず孤立した活動になったという。
 なかでも水門の閉鎖に駆けつけ、津波の犠牲になった団員が多い。また、防災無線が途絶えた中で、若い団員を避難させた後、古い半鐘を持ち出し、津波が庁舎に来るまで鳴らし続けて住民に避難を呼びかけ殉職したベテラン団員のエピソードは、この日のすべての消防団員の活動を象徴している。
 しかし団員の殉職は地域防災力の低下を意味する。震災後、被災地各地を中心に、津波到達予測10分前での水門閉鎖および海岸周辺での避難呼びかけの中止など、団員の活動マニュアルの見直しが進んだ。当然の動きであろう。
 消防職員の殉職者の内11人が避難誘導や救急活動中の殉職で、警察官の殉職者の多くが避難誘導や被害情報の収集に当たっている最中に津波に巻き込まれたものという。また各庁舎内で指令業務や避難の呼びかけ中、庁舎が津波に襲われ殉職した消防職員や警察官も多く、災害時の職務規程やマニュアルなどの見直しが進んだ。
 各地域や施設、学校などで集団避難の際、殉職した人々は、地域で災害時要援護者の安否確認や避難誘導、避難介助を行いその過程で殉職した民生委員56人の人々が記録されている。しかし、自治会、町内会の役員、自主防災組織の人々など、地域で住民たちの安否確認や避難誘導を行った人々の殉職者についてエピソードは伝えられているが全体的には不明だ。しかし避難の際、同様な活動をしたことは記録しておこう。
 また、避難時動きが自由にならない患者や施設入居者たちの避難介助、重い車椅子に乗った患者たちなどを建物の最上階へ上げようとして力尽きた事例など、看護師や看護助手41人が死亡しており、ほぼ全員が殉職と思われる。また介護施設など社会福祉施設では、被害を受けた勤務先で、全体の約1割の職員が殉職しているという。

〈事例・災害時要援護者の避難、大川小学校の悲劇〉
 津波の際、集団で避難することについて、犠牲者を多く出したこともあり、この大震災後、否定的な意見が多い。1896年(明治29年)6月の明治三陸地震津波の教訓から、三陸地方では“津波てんでんこ”の教訓が伝承され、津波が襲ってきたときは、周りに構わず自分で状況を判断して“てんでんばらばらに逃げ、自分の身は自分で守る”とされている。
 しかし、幼児や身体・精神障害者、介護度の高い高齢者、重・中等症の患者など“災害時要援護者”については、集団とは言わないまでも、組織的な避難誘導や援護が必要である。これらのケースでは、やはり、日頃の防災訓練と被災時の学校や各施設でのリーダーである園長、学校長、施設長、事業所長などの判断の可否が今回も明暗を分けた。この日幼稚園児72人が津波の犠牲になっている。
 学校関係では、教職員と学生、児童生徒を含めて659人が犠牲になり、262人が負傷している。そのうち集団避難が失敗した事例として石巻市大川小学校の事例がよく挙げられているが、その真相はほかの犠牲者の事例と同じで、やはり地震調査委員会などが公表した誤った長期評価と、それらを基にした市のハザードマップにあったと言えよう。
 地震発生時は、ちょうど児童が下校の準備をしている時だった。すぐさま教務主任が校舎内にいた教職員と児童たちに校庭へ避難するように伝え、108人の児童たちは裏山側にある校庭の中央にいつものように整列して指示を待った。いま確認すれば、大川小学校は北上川河口からわずか4km、標高わずか1.5mの低地に、沿岸から狭い住宅地と県道を挟んで建っており、津波の襲撃からは危険極まりない所にある。
 なぜすぐ裏山に避難しなかったのか、証言によれば、高台に避難を呼びかける市の広報車の声を聞いた高学年の児童たちが、それを先生に進言したが退けられたという。学校ではそれまで避難場所を決めておらず、その日避難地としていた川沿いの三角地帯へ移動したのは15時25分ごろで、津波が襲来したのはその12分後であり、児童たちが裏山の裾から県道に出た途端だった。
 学校からは目の前の住宅と堤防が死角となって、直接北上川の状況が見えない弱点があったが、40分も校庭で待機していたことになる。児童74人と教職員10人が死亡、生存した34人の児童と3人の教職員の多くが、とっさに裏山をよじ登り助かった。実は大川小学校は、市のハザードマップによればこの地区にはこれまでも津波が到達した記録がなく、その点から住民たちには、大川小学校をいざというときの避難場所として指定されていたという。

〈事例・“釜石の奇跡”中学生のリーダーシップ〉
 集団避難の成功例として良く言われているのは、“釜石の奇跡”と呼ばれている事例で、釜石東中学校生徒が、隣接する鵜住居(うのすまい)小学校の児童たちを誘い、一緒に避難することで当時両校にいた約570人が全員無事で避難することが出来た事例である。
 地震発生直後、鵜住居小学校では校舎の非常扉が閉まり停電したので、教務主任が津波に備えていったん全校生徒を校舎3階へ避難させる。一方、釜石東中学校ではすでに生徒たちが教職員と一緒に“てんでんこ”に避難し始めており、隣接する鵜住居小学校の児童たちが3階へ集まっているのを見て、生徒たちは口々に一緒に避難することを呼びかけ、防災訓練時に避難場所として決まっていた約500m先の認知症介護施設めがけて走り出す。近隣の住民たちも生徒が避難し始めたのを見て一緒に避難行動開始。
 第一次避難先裏の崖が崩れ落ちるのを見た生徒が、教師にもっと高台の介護施設へ避難することを進言、すぐさま生徒・児童全員が第二次避難先を目指して駆け出す。その後、津波が堤防乗り越えたとの情報を消防団員や住民から聞いて、生徒たちはすぐさま反応、より高い第三次避難場所としていた石材店目指して山道を駆け上り、第三次避難場所で自主的に点呼をとり全員無事を確認、それまで居た自分たちの中学校と小学校や釜石の市街が波にのまれるのを目撃したが、無事避難を終えている。
 これは日頃の防災訓練で、両校の生徒と児童がともに避難先と避難方法を承知して実行していたことが成功につながったと評価されているが、そこには“てんでんこ”的な自主避難と、幼い小学生の手を中学生が握り、励ましあいながら避難をするといった協力の姿勢が両立していた点も評価されて良いのではないだろうか。これは次の“絆”の原点であろう。

●絆(きずな)・生きたボランティアの心
 この年“絆(きずな)”という文字が2011年を表す漢字に決まり、流行語大賞のトップテン入りをしている。
 本来この文字は家畜を立木などに縛り付ける綱を指し、しがらみ、呪縛、束縛の意味に使われていたが、人と人との結びつき、支え合い、助け合いを意味するようになったのは、この日の東日本大震災に対する支援活動からである。
 そのくらい、被災者を直接支援した現地の防災や福祉、医療関係者以外に、国際的支援も含めて全国的に幅広く、スポーツ、芸能関係も含めた各方面からの支援や慰問活動、それもボランティアでの活動が広まったのは前例がなかったという。
 ボランティア元年と呼ばれた1995年(平成7年)1月の阪神・淡路大震災の支援活動以来、災害のたびに積み重ねてきた経験や教訓が、この日の大災害からの復興に生きていた。有り余るくらい心温まるエピソードが生まれたが、この記事は災害を記録する記事であるのでこの程度でとどめよう。しかし女子サッカーの日本代表チーム“なでしこジャパン”が、7月18日(日本時間)男女を通じてはじめてワールドカップを制し世界一なったのは、大震災後の国民とりわけ被災地の人々に励みと希望を与え絆を深めた大きなエピソードである。

【被害概要のまとめ 】(余震域外の地震による区別不能な被害を含む)
 東日本大震災被災地全体の膨大な被害は次の通りとなっている。
▼施設・建物
 岩手、宮城、福島3県の防潮堤約300kmのうち約190km全・半壊(2011年4月10日報道)。震度5強以上の面積3万4843平方km、津波浸水面積507平方km(2011年4月8日現在・以下略)。住家全壊12万1996棟、その内津波による全壊約12万棟(2011年8月4日調査)、同半壊28万2941棟(その内津波による被害約7万6000棟:同調査)、同一部損壊74万8461棟、同床上浸水1628棟、同床下浸水1万75棟、公共建物被害1万4527棟、その他非住家被害9万2059棟。
▼人的被害
 被災死亡者1万9729人、行方不明者2559人、重傷者700人、軽傷者5346人、程度不明187人、火災発生330件(津波被害以外は消防庁2020年3月10日)。救出者2万6707人(2011年6月20日)、避難所2182か所(2011年7月22日)、避難所生活者約46万8600人(2011年3月14日)、援助が必要な孤立者約2万人(2011年3月13日報道)、震災関連死亡者:1都6県3767人(2020年9月30日)。
▼インフラ
 液状化による地盤沈下被害地域(青森県から神奈川県まで160市区町村)南北約650kmの範囲、同住家沈下被害2万6914棟(関東学院大学若松加寿江教授調査)、上水道断水千葉県の3万7000世帯(3月15日報道)。
 道路被害3559か所、東北新幹線鉄道被害約1200か所、在来線36線区鉄道被害約4400か所(2011年4月17日)、被害の大きかった私鉄:三陸鉄道317か所、同阿武隈急行366か所。空港閉鎖14:58成田空港、15:06仙台空港、15:15山形空港、17:42奄美・喜界空港。
▼ほか、主な被害
 首都圏における帰宅困難者推計約200~300万人(東京大学廣井悠助教)、その内一時滞在施設と収容者数1039施設約9万4000人(2011年3月11日)、同主要駅における滞留状況約2万人(同日)。
 上水道断水約229万軒(2011年7月19日17時)、停電850万軒、復旧日数99日(2011年3月11日15時30分)、ガス供給停止約208万軒、復旧日数55日(2011年5月5日)、固定電話不通約190万回線(2011年3月30日)、携帯電話基地局停波1万3000局以上、同発信規制ドコモ最大90%、au同95%、ソフトバンク同70%(2011年3月25日報道)。
 被災病院全壊10か所、同半壊581か所、被災診療所全壊169か所、同半壊3398か所(2011年7月11日)。被災児童福祉施設752か所、被災老人福祉施設547か所、被災障害福祉施設319か所、被災その他社会福祉施設8か所(2011年5月13日)。勤務先被災による東北3県の看護職員の移動:死亡行方不明41人、同退職381人、同休職361人(2011年9月2日)。被災後の看護職員勤務施設の稼働状況:通常通り284か所、一部稼働45か所、休業中15か所、閉鎖9か所、無回答24か所(2011年度)。
▼経済
 被害を受けた株式上場企業1135社、その内営業・操業停止472社、同営業・操業一部停止481社、同建物損壊529社、同ライフライン・インフラ被害208社、同生産ライン被害194社(2011年3月24日現在)。農林水産物被害総額2兆4432億円、その内、流失および冠水被害農地推定面積2.6万ヘクタール(260平方km)4288億円、農業用施設被害1万8143か所4717億円、農作物・家畜等の損害142億円、農業・畜産関係施設被害493億円、林野関係森林荒廃など被害2155億円、漁船流失など被害2万8612隻1822億円(既存の約9割が被害を受け、その内約2万2000隻が廃棄)、漁港施設被害319漁港8230億円、養殖施設被害738億円、養殖物被害597億円、市場・加工施設など共同利用施設被害1725施設1249億円(2012年7月5日現在)、岸壁被害373か所(2011年)。
 がれき発生量約2263万3000トン(2011年8月9日現在)、自動車破棄約27万台(2011年4月16日報道)、津波堆積物1319~2802万トン(2011年7月5日現在)。
 (主な出典:朝日新聞2021年2月14日付「福島・宮城で震度6強」、海洋研究開発機構編「2月13日夜に発生した福島県沖の地震―東北地方太平洋沖地震から約10年後に発生した“余震”」。総務省消防庁編「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)について・第160報」、内閣府編「特集・東日本大震災」、朝日新聞2011年3月29日付「東日本大震災・地図で見る津波の被害、浸水の範囲500平方キロ:国土地理院発表」、同紙2011年9月6日付「東日本を襲った巨大津波、常識覆したM9(津波遡上高):東北地方太平洋沖地震津波合同調査グループ編「東北地方太平洋沖地震津波情報」[改訂]、同紙2011年4月20日付「大津波は明治+貞観型:東京大学地震研究所発表」、同紙2013年10月8日付「津波発生源は岩手沖:海洋研究開発機構・市原寛技術研究副主任グループ発表」、同紙2011年4月8日付「宮城県沖、海底のずれ最大55メートル、津波を増幅:東京大学地震研究所古村孝志教授+前田拓人東大特任助教ら解析による」、地震調査研究推進本部編「2.海溝型地震の長期評価の概要>三陸沖から房総沖にかけての地震>三陸沖南部海溝寄り(算定基準日 平成23年(2011年)1月1日)」。大槌町編「東日本大震災記録誌“生きる証”>第11章 忘れず、伝える」、朝日新聞2011年4月21日付「大槌役場玄関横本部に津波、高台避難訓練せず・防潮堤を過信」、陸前高田市編「陸前高田市東日本大震災検証報告書>第4章 災害対策本部の震災当日の検証」、朝日新聞2021年1月12日付「伝える・東日本大震災10年目、待避基準なく待機続けた市職員、岩手陸前高田市」、河北新報社編「防災対策庁舎の悲劇・宮城南三陸」、朝日新聞2011年4月11日付「“津波が来ます”と娘の声。やがて防災無線が途切れた」、同紙2011年4月10日「津波防災見直し急務」、同紙2011年4月22日付「津波到達時速115キロ:岩手県立博物館大石雅之首席専門学芸員分析発表」。総務省消防庁編「東日本大震災記録集>第4章 消防庁・消防機関等の活動>3.5消防職団員・消防施設等の被害」、警察庁編「回顧と展望 東日本大震災と警察>第3章 被災地での警察を取り巻く状況>1.警察官の被害」、全国民生委員児童委員連合会編「災害に備える民生委員・児童委員活動に関する指針>第1部 災害に備える民生委員・児童委員活動>1.災害に関する民生委員・児童委員活動を取り巻く状況>(2)被災地から明らかになった課題」、日本看護協会編「被災地域における看護職員実態調査 報告書」、同協会編「東日本大震災報告書>第Ⅲ章 復旧・復興支援事業>1.会員の被災状況調査」、藤野好美+三上邦彦+岩渕由美+鈴木聖子+細田重憲著「東日本大震災における社会福祉施設が果たした役割について」、文部科学省編「東日本大震災による被害情報について(第208報)>3.文部科学省関係の被害状況>(1)人的被害」。河北新報社編「大川小学校を襲った津波の悲劇・石巻」、朝日新聞2011年9月10日付「津波からの避難・大川小学校の避難状況」、総務省消防庁編「東日本大震災>3.釜石の奇跡」[改訂]、内閣府編「特集 東日本大震災から学ぶ-いかに生き延びたか->釜石東中学校のみなさんの報告」。朝日新聞2011年4月10日付「東日本大震災の被害・各地の津波の高さ」、内閣府編「東北地方太平洋沖地震を教訓とした地震・津波対策に関する専門調査会第8回会合>参考資料2東日本大震災を踏まえた今後の被害想定の主な課題・海溝型地震に伴う広域災害への対応」、復興庁編「東日本大震災における震災関連死の死者数」、厚生労働省編「東日本大震災における被害状況(医療機関・社会福祉施設)」、国土交通省地方運輸局編「第2編 各鉄道の被災と復旧>第3章 三陸鉄道>第1項、被害状況」、同編「第2編>第6章 阿武隈急行>第1項 被害状況」、農林水産省編「東日本大震災からの農林水産業の復興支援のための取組(令和4年1月版)>①地震・津波災害からの復旧・復興>東日本大震災による農林水産関係の被害状況」[改訂]。参照:2019年7月の周年災害「貞観三陸地震、M8の巨大地震、東北地方太平洋沖地震は再来か」[改訂]、2013年3月の周年災害「昭和三陸地震津波。東北地方太平洋沖地震と比較されて語られた大津波」)

東京電力福島第一発電所原子炉水素爆発。東北地方太平洋沖地震の津波による大事故。
 津波による事故の危険を把握しながら予測であるとし放置した東電と経産省原子力保安院の怠慢(10年前)[改訂]
 2011年(平成23年)3月13日

 2日前の11日14時46分ごろ、マグニチュード9.0という国内史上最大規模の超巨大地震“東北地方太平洋沖地震”が、牡鹿半島東南東130km付近の三陸沖深さ24kmを震源として発生した。
 東京電力福島第一原子力発電所の1号機から4号機原子炉が建ち並んでいる福島県大熊町には、震度6強の強い揺れが襲ったが、揺れと同時に1号機から3号機各原子炉は自動的に緊急停止、外部からの電源は停電で失われたが非常用発電機が直ちに起動、それぞれの原子炉内では冷却装置が動き出した。
 しかし1号機では、高圧の蒸気を冷やして水に戻す非常用復水器が起動と停止を繰り返すという不安定さを示していたが、4号機と隣接する双葉町に建つ5、6号機は当時定期検査で稼働停止中だったので何事もなく、その程度の軽い事故で済むと思われていた。
 ところが地震発生から約50分後、岩手県から茨城県にいたる太平洋沿岸部の約500kmにわたり未曾有の津波が押し寄せた。大熊町、双葉町には15時37分ごろ高さ14mの波が14mから15mも遡上したとされる。
 大津波は防波堤を乗り越えて発電所敷地内に侵入、配電盤や非常用発電機までも水没させ、同37分から41分にかけて1号機から3号機原子炉の順に全電源が喪失、冷却装置が停止して圧力容器内に注水することが不可能になった。
 それにより、燃料棒の温度上昇→水蒸気の大量発生→燃料棒の表面が水蒸気と反応→水素が発生し原子炉建屋内に充満→建屋内で水素が爆発して建屋を粉砕→屋外へ放射性物質を放出という、大事故に発展する最悪の事態が想定され、そして実際に起こり、また津波の進入で地震の被害を調査中だった2名の社員が水にのまれて犠牲となっている。
 この事故について原子力安全・保安院は4月12日、原子力災害の国際原子力・放射線事象評価尺度(異常事象・事故深刻度)を最高レベル7(広範囲な影響を伴う事故)と評価し国際原子力機関に報告した。これは1986年旧ソビエト連邦時代のウクライナ・チェルノブイリ原子力発電所の事故に次ぐ事例である。

●大事故の遠因:コスト高を懸念し津波の危険性を無視
 津波による電源の喪失という非常事態を起こしたことが、水素爆発による屋外への大量の放射能放出による汚染という大事故の原因となったのだが、東京電力はそのあたりの対策を立てていなかったのか、確かにこの超巨大地震の発生は国の専門機関も学者も“想定外”としたほどのものだったが、津波に関してはどうだったのか。検証の結果、大津波の襲来は少なくとも5年前から起こり得ることが想定されていたという。ところが、国による地震や津波防災に関する再審査には、コスト高を懸念する電力会社の反対で進んでいなかった。
 福島第一原子力発電所を襲った津波の高さは14mだったが。東京電力が想定していた高さは4.5mであった。一方北に約120kmも震源に近い東北電力女川原子力発電所には最大17.6mの波が押し寄せたが、敷地の海沿いの斜面と平均海面より14.8m高い場所に原子炉建屋を設けた上、津波の高さを9.1mと想定していたので大きな被害はなかった。東京電力では、水素爆発事故を起こした夜の社長会見で“想定を大きく超える津波だった”と釈明したが、果たして想定外だったのかどうか検証された。

〈数々の津波対策の機会を意識的に見逃す〉
 実は大事故の5年前の2006年、同社の原子力・立地本部研究チームが福島原発を襲う津波の高さを調査、7月には原子力工学の国際会議で“設計の想定を超える高さの津波が50年以内に約10%の確率で来る”と発表していた。また国の新しい原子力発電所耐震指針が公表され、同社でも約800億円の耐震補強予算を見積もったが、一部実施したのみで大事故を起こした1号機から3号機には全く実施していなかった。
 その2年後の2008年には、有識者の意見と国の地震調査研究推進本部の見解をもとに、予測される津波の高さを試算したところ15.7mと結果が出たが、防潮堤の設置には数百億円規模のコストと約4年間の建設期間が必要との報告を本社に行い、この検討に携わった当時の本社原子力立地副本部長と設備管理部長は“これは仮の試算であって実際に津波は来ない。原発を守る防潮堤の建設は社会的に受け入れられない”とも発言したという。
 ついで津波2年前翌2009年6月、経済産業省で開かれた既存原子力発電所の耐震性を再検討する専門家会議で、産業技術総合研究所活断層・地震研究センターの岡村センター長が、三陸地方で過去に大きな地震津波があり再び来る可能性のあることを指摘、“東京電力がそこに全く触れられていないのは納得できない”と何度も激しい口調で指摘、原子力安全・保安院の安全審査官は“今後、当然検討する”とし、東京電力に大地震津波の危険性に対する対応について説明を求めたが、具体的な措置は求めなかったという。また大震災4日前の3月7日には東京電力で出した15.7mという津波の試算について報告を受け、津波の再評価を口頭で促したものの、対策工事については明確に要求していなかった。
 岡村センター長が指摘した大津波とは、869年に起きた貞観三陸地震津波を指しているが、原子力発電所の安全審査では最新の科学成果を反映することになっているので、貞観地震津波に対する研究成果を反映するべきだった。しかし当時はまだ原子力発電所の新設が続いており、電力業界から新設計画が一段落するまで、既存原発の防災力の強化は工事中運転休止なりコスト増にもなるので、地震・津波問題は検討するなとの圧力がかかったという。東京電力も原子力発電所の事故による放射能汚染を防ぐべき国の原子力安全保安院も、大津波の危険性と実際に起こる可能性を把握しておきながら放置し大事故を招いてしまっている。また同院は国の原子力安全委員会が、原発の防災指針について、2006年に国際基準に適用し改正しようとしたところ強行に反対もしている。誰のための“安全保安院”だったのか。

●事故の概要
 最初に水素爆発を起こしたのは1号機で、津波による全電源喪失の翌12日15時36分とされる。それよりちょうど丸1日経って大事故が発生した。

〈1号機の事故〉
 1号機では全電源喪失後、同機にしか設置されていない非常用復水機も機能を失い、圧力容器内への注水もできなくなり、その上監視・計測機能も失ったため、原子炉や機器の状態を確認することも不可能となった。
 その後、圧力容器内の水が蒸発し続け、約4時間後、燃料が水面から露出して炉心損傷が始まる。露出した燃料棒の表面温度が崩壊熱により上昇、燃料棒の表面が圧力容器内の水蒸気と反応して、大量の水素が発生。温度上昇によって生じた格納容器の蓋接合部などの隙間から漏れ出た水素が原子炉建屋上部に溜まり、何らかの原因により引火して爆発した。
 また炉心が溶融して(メルトダウン)圧力容器の底を貫通(メルトスルー)、格納容器の床面に落下して溶融した核燃料や原子炉構造物が混ざりコンクリートを侵食し燃料デブリ化、水素爆発に伴う周辺のがれきの散乱とともに復旧作業の大きな妨げとなり、2号機、3号機への対応が遅れる原因となった。

〈3号機の事故〉
 次に3号機では、電源設備が1号機、2号機より少し高い位置にあったので浸水を免れ、隔離時冷却系や高圧注水系の運転・制御が継続、計器類による原子炉の状態監視も続けることができた。
 1日半程度注水を続けた後、ディーゼル駆動消火ポンプによる低圧注水に切り替えるため高圧注水系を停止したが、その後の減圧に時間がかかり水位が低下、水素が発生するとともに炉心損傷に至り、減圧を確認した後、消防車による注水を開始したが、格納容器から漏れ出した水素によって、14日午前11時1分に水素爆発が発生となっている。

〈2号機の事故〉
 最後に2号機だが、高圧蒸気でポンプを動かし圧力容器内へ注水する隔離時冷却系が津波襲来前から動作しており、全電源を失った後もこれが動き続けていたので約3日間注水を続けている。
 この間、他の冷却系統で注水を行なおうと水没を免れた電源盤に電源車をつなぎ、電源確保の作業を進めていたが、1号機の水素爆発によりケーブルが損傷、電源車が使用不能となる。また、14日11時1分には3号機で水素爆発が発生、準備が完了していた消防車及びホースが損傷、使用不能となり同日13時25分に遂に隔離時冷却系の停止が確認され、圧力容器内の水位が低下、炉心損傷が起こり水素が発生。しかし原子炉建屋上部側面のパネルが1号機の水素爆発の衝撃で開いため、水素が外部へ排出され、原子炉建屋の爆発は回避された。

●事故後の対応と犠牲者、放射能汚染問題
 東京電力では、津波により全電源の喪失が確認された15時41分の4分後、1,2号機の原子力緊急事態を政府に報告、19時3分には当時の民主党(現・立憲民主党ほか)の管(かん)直人政権では原子力緊急事態を宣言した。

〈警戒区域→緊急時避難準備区域の設定〉
 20時50分それを受けた福島県が大熊町、双葉町など原発から半径2km圏内住民を避難させるよう政府に要請、政府は3km圏内の住民に避難を指示、3~10km圏内の住民には屋内退避を指示した。後に原子炉の水素爆発による放射能汚染区域の広がりにより、4月22日には半径20km以内の圏内が警戒区域となり、半径20km以上30km以内の圏内が緊急時避難準備区域へと拡大していく。

〈放出された放射線量と避難区域指定〉
 この大津波による原子炉の水素爆発の被害について、国会事故調査委員会で次のようにとりまとめられ、2012年(平成24年)7月、両院議長に提出されている。
 その報告によると、ヨウ素換算で約900ペタベクレル(PBq)の放射性物質が大気中に放出され、福島県内の1800平方kmの土地が、年間5mmシーベルト以上の空間線量を発する可能性のある地域となった。これは国際放射線防護委員会(ICRP)が2007年に勧告した、一般人の年間放射線量限度1mmシーベルト以下の5倍以上に上る。
 また国会事故調の発表ではないが、事故発生の年の8月2日現在、放射線量が原発より半径30km圏外近くの福島県浪江町赤宇木で15.5マイクロ(ミリの0.001倍)シーベルト/時、60km圏内の飯館村伊丹沢で2.48、いわき市で0.18、郡山市で0.87、60km圏外近くの福島市で0.98放射されていることがわかった(2011年9月11日報道)。
 これらにより本事故による避難区域指定は福島県内の11市町村に及び、避難した人数は、8月29日現在、福島第一原発から半径20km圏内の“警戒区域”で約7万8000人、20km以遠で年間積算線量が20ミリシーベルトに達するおそれがある“地域計画的避難区域”で約1万10人、半径20~30km圏内で計画的避難区域及び屋内避難指示が解除された地域を除く“地域緊急時避難準備区域”5万8510人、合計では約14万6520人に達した。また大事故の翌2012年(同24年)6月現在、原発から放出された放射性物質を原因とする重篤な健康被害者は幸いにも確認されていない。
 ちなみに2022年(令和4年)8月現在、田村市都路地区、川内村、楢葉町、川俣町山木屋地区は避難指示が全面解除され、葛尾村、南相馬市、飯舘村、浪江町、富岡町、大熊村、双葉町は一部地域を除き解除されている。しかし住民の復帰は25%程度にとどまっており、避難者支援事業も縮小する傾向にあるという。

〈入院患者、老人介護施設入所者の死亡〉
 しかし一方、福島第一原発から20km圏内に7つの病院があり、事故当時この7つの病院に合計約850人の患者が入院していた。そのうち約400人が人工透析や痰の吸引を定期的に必要とするなどの重篤な症状を持つかいわゆる寝たきりの状態にある患者であった。
 ところが本事故によって避難指示が発令された際、これらの病院の入院患者は近隣の住民や自治体から取り残され、それぞれの病院が独力で避難手段や受け入れ先の確保を行わなくてはならなかった。
 そのためもあり、3月末までの死亡者数は7つの病院及び介護老人保健施設の合計で少なくとも60人に上り、別の病院への移送完了までに死亡した入院患者数は、双葉病院の38人をはじめとして合計で48人に上った。また、双葉病院の系列の介護老人保健施設の入所者は同病院の患者と一緒に避難したが、そのうち10人が死亡している。なお、死亡者の半数以上が65歳以上の高齢者である。
 なかでも3月末までに40人の死亡者が発生した双葉病院をはじめ今村病院、西病院、小高赤坂病院では、医療設備のある避難先や避難手段の確保が比較的遅かった上に入院患者数も多く、避難先の医療機関と避難手段の確保が難航し、近隣住民や自治体よりも避難が遅れ過酷な状況に追い込まれた。また医療関係者の避難による病院の人手不足や、重篤患者のバスによる避難、医療設備がない避難先への移送をとらざるを得ず、多くの患者の容態の悪化を招き、死亡者が発生するという被害の拡大につながった。

〈事故終息作業員の放射線被ばく〉
 さらに事故発生の3月から翌年4月までの間、本事故の収束作業に従事した東京電力の作業員が3417人、協力会社の作業員は1万8217人だが、このうち、緊急作業における線量上限の250ミリシーベルトを超える外部被ばく及び内部被ばくの積算線量を被ばくした東電作業員は6人であり、健康被害の発生の目安とされる100ミリシーベルトを超える積算線量を被ばくした東電作業員は146人、協力会社の作業員は21人となっている。

〈土壌、山林汚染問題、農作物、飲料水の残留放射能、汚染水の処理〉
 このほかこの原発事故による放射能汚染は、被災地福島県の住宅地、農地など生活圏や山林など面積の7割におよびその内の7割が山林という。そのため県民を始め、国民生活にさまざまな影響を与えた。
 ひとつは土壌に強く吸着し半減期が長期に及ぶため10年後の今日でも続いている汚染地域での環境除染作業であり、今ひとつは農地から収穫する米や野菜など農作物、および飲料水に対する残留放射能検査であり、汚染された原子炉から出ている汚染水の海への放出問題から生じた福島県沿岸漁獲物に対する風評被害である。
 また事故後10年以上経過した現在でも、いまだ廃墟と化した福島原子力第一発電所各原子炉の廃炉作業は、放射能を帯びたデブリの除去作業などのスタート段階でも、終息のめどが立っておらず難航している。また増え続ける放射性汚染水や汚泥の保管場所も余地がなくなり、残留放射能の除去作業とそれに関わる問題なども解決の道は長く続くと認識されている。

〈自民党岸田政権、原子力発電推進政策発表・2022年(令和4年)11月〉
 しかし自由民主党は大事故後も原子力発電を廃止の方向ではなく、主要な発電事業として位置付けており、公明党と連立を組む同党岸田政権は、原発推進政策として2022年(令和4年)11月「原子力政策大綱(案)」を発表した。その主な点は……
 ➀ 基本的考え方:2030年以後も総発電電力量の30~40%程度という現在の水準程度か、それ以上の供給割合を原
   子力発電が担うことを目指すことが適切である。
 ② 原子力発電の推進についての指針:
  1.既設の原子力発電施設を(中略)最大限活用(40年間で廃炉を60年間に延長)するとともに、(中略)新規の発電
   所の立地に着実に取り組む。
    2. 略
    3. 高速増殖炉については(中略)2050年頃から商業ベースでの導入を目指す。
  これらの方針は今後それぞれ具体的な政策として提案されるが、すでに原子力発電所の再稼働申請は各所で進んでおり、新設については前の安倍政権さえ封じていた計画で、高レベル放射性廃棄物の国内での最終処理場も確定しておらず、廃炉作業も難航しており、何よりも(本稿の)東電福島第一原発大事故の総括による原発の安全性も保障されていない現在、あまりにも無謀だとし論議が進んでいる。
 また「政策大綱(案)」では“「もんじゅ」等の成果に基づいた実用化への取り組みを踏まえつつ”としているが、1995年(平成7年)12月に2次主冷却系ナトリウム漏洩事故を起こし、その後再開のめどが立たないまま2016年(平成28年)12月に廃炉が決定した「もんじゅ」の成果とは、疑問があるのではないかと、これも問題点であり、岸田政権の原子力発電推進政策には賛成できる根拠は見いだせない。
 (主な出典:電気事業連合会編「原子力発電」[追加]、内閣府編「東京電力福島第一原子力発電所の事故等」[追加]、東京電力福島原子力発電所事故調査委員会報告書(国会事故調)>第4部 被害状況と被害拡大の要因(その1)、環境省編「原子力災害・国際原子力事象評価尺度」、ふくしま復興情報ポータルサイト編「避難区域の変遷について」[追加]、NHK解説委員室編「2023年03月10日 松本浩司解説委員・原発事故発生から12年~福島の復興と避難者は」[追加]。内閣府編「原子力政策大綱(案)30頁~42頁>第3章 原子力利用の着実な推進」。参照:2015年12月の周年災害「高速増殖炉もんじゅナトリウム漏えい事故」)

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(2023年4月・更新)

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