【目 次】
・大坂石山本願寺寺内町大火、そのほとんどを焼失(460年前)[改訂]

・慶安5年新宮湊停泊中の大型貨物船遭難、洪水で48艘転覆(370年前)[改訂]

・江戸町奉行、大風の際、道路を掘って家財を埋め類焼を防ぐのを禁じる(350年前)[改訂]

・仙台宝暦2年の大火、町人の家を中心に1500戸余焼く(270年前)[改訂]

・奈良宝暦12年の大火、町家3000余軒、興福寺、東大寺の子院など焼く(260年前)[再録]

・有珠山文政5年の噴火、大火砕流と熱煙が山麓の役所や牧場、集落を襲った。
噴火史上最大の犠牲者出す(200年前)[再録]

・明治5年浜田地震、奇勝・石見畳ヶ浦出現(150年前)[再録]

・文部省に医務課設置-内務省衛生局から厚生省、そして厚生労働省へと変遷(150年前)[再録]

・福井明治35年「橋北の大火」-商業機能駅近くの福井城東側に移転する契機に(120年前)[改訂]

・東京深川明治45年州崎の大火、まともに歩けない程の強風下遊郭等1160戸焼く(110年前)[再録]

・日本赤十字社大阪支部、国内初救急自動車運用による国際的な救急搬送システム実施(90年前)
[追補]

・浜名湖アサリ貝中毒事件、新居町民は呉羽紡績排水に疑惑を抱くも学界は無視、いまだ原因不明
(80年前)[改訂]

・昭和27年十勝沖地震、十勝地方の泥炭地に被害が集中(70年前)[再録]

・富士登山大量遭難死、雨に対する装備不備でぬれた身体の体感温度下がり不眠と疲労で凍死へ
 (50年前)[改訂]

・PCB(ポリ塩化ビフェニール)生産・使用中止、廃棄物処理進まず32年後専門会社設立(50年前)
[追補]

・総武本線船橋駅ラッシュ時構内追突、鉄道事故最多の負傷者、信号機消灯時の規定曖昧のまま
(50年前)[追補]

・昭和47年“春三番”船舶連続遭難起きる、海難史上4番目の記録に(50年前)[再録]

・川崎大気汚染公害訴訟、解決まで17年もの歳月が流れる(40年前)[再録]

・世界初の早期地震検知警報システム“ユレダス”稼働、後継システム0.1秒後警報発信に成長
 (30年前)[追補]

・道央自動車道史上最大多重衝突事故、ドクターヘリ高速道路上初の着陸、救急救命の新時代へ
(30年前)[改訂]

【本 文】

○大坂石山本願寺寺内町大火、そのほとんどを焼失(460年前)[改訂]
 1562年3月8日(永禄5年1月23日)
 大坂石山本願寺の地は上町台地の北端にあり、眼下には京都と結ぶ淀川が流れ、その河口に古来から“難波津”“渡辺津”と呼ばれて栄えた港があり、瀬戸内海から中国、九州方面へとつながる交通の要衝の地である。
 この地に着目した浄土真宗本願寺派中興の祖・第8代宗主(同派の最高権威者)蓮如が、布教の中心地として1496年10月(明応5年9月)から寺院や坊舎(僧侶の住居)の建設を始め、翌1697年12月(同6年11月)には大坂石山御坊と呼ばれた寺院や坊舎が完成した。それと同時に建築関係の工匠たちの家、仏像、家具調度品などの製造、修理を始め、寺の衣食住を担う商工業者らが住む“寺内町”が寺院を三方から包むようにできあがった。これが現在の大阪市の原型となる。
 その後1532年 10月(天文元年8月)、法華宗(日蓮宗)徒らに本拠地の山科本願寺(現・京都市)を焼き討ちされた第10代宗主・証如が大坂石山御坊に移り石山本願寺と改め、寺院と町は布教の中心としてまた“一向一揆”の最大の根拠地として発展する。
 その石山本願寺の寺内町が大火となった。原因は不明である。
 醍醐寺の僧侶、理性院厳助が残した歴史記録「厳助往年記」によれば“夜、小(大)坂本願寺之内火事、本坊不苦(苦難なし:火災を受けず)、二千軒余焼失云々 ”とあり、これは聞き書きだが、当時の繁栄を推測すれば、その焼失軒数に大きな誤りなかろう。本願寺は幸いにも焼失を免れたが、2000軒余といえば、当時1万人の人口を擁していたというこの寺内町のほとんどを焼失したことになる。
 (出典:新修大阪市史編纂員会編「新修大阪市史 第2巻>第5章 戦国・安土時代の大阪>第2節 石山本願寺と一向一揆>2 石山本願寺と寺内町630頁~635頁:寺内町の形成、町の規模、寺内町の商工業者」、同編「新修大阪市史 史料編 第5巻 大阪城編>第1章 大阪本願寺と寺内町>第3節 町と町人たち>23 寺内町の火災 101頁:厳助往年記」[追加]。参照:2010年9月の周年災害 「大坂石山本願寺城落城、寺内町兵火-跡地に秀吉が大坂城築城」)

○慶安5年新宮湊停泊中の大型貨物船遭難、洪水で48艘転覆(370年前)[改訂]
 1652年3月18日(慶安5年2月9日)
 和歌山県新宮に生まれ、生涯その地で教育家、郷土史家として活躍した小野芳彦の著書「熊野史」に“二月九日熊野川大水川口へ大船四十八艘流れ二百余人水死す”とある。
 この“熊野川(中略)川口”とあるのは、同川の川口(河口)にあった新宮湊を指し、古来から開けた港町で、被災当時、物資を運ぶ“大船(大型の船舶)”が停泊し、思わぬ“大水(洪水)”に遭難したのであろう。
 新宮湊(現・新宮市)は、熊野川中流に位置する熊野本宮大社への舟運の入り口として、また熊野速玉大社(新宮)の門前町として栄えた。著名な熊野信仰とは、この両大社に新宮湊の南に隣接する熊野那智大社(那智大滝)を入れた熊野三山に対する信仰のことで、この三山巡りは現在に引き継がれている。
  一方、新宮湊のある紀伊国(現・和歌山県)は“木の国”の転義とされ、熊野で産する杉は“熊野杉”として知られており我が国有数の木材産地である。
 その木材の大がかりな初期の需要は、1583年10月(天正13年9月)から始まった羽柴(豊臣)秀吉の大坂城築城と伝えられており、秀吉政権による大がかりな建築事業およびそれに続く徳川幕府による1606年4月(慶長11年3月)から始まった江戸城天下普請など、当時の大建築事業の木材に次々と熊野材が用いられ、木材業とともに木材を集結し各地へ運送する港として新宮湊は大いに繁栄した。
 慶安5年の大災害はこのさなかに起きた。
 洪水は、水源や上流の山岳地帯に降った大雨により増水した支流の川水が本流に注ぎ込み発生するので、大雨後の数日後に起こることが多い。現在のように気象観測による洪水注意報がない時代である。天気は快晴、船出の時とばかりに檜垣廻船など当時の大型貨物船が、京、大坂の上方下りの商品や、地元の木材などを積んで港に集結していたのであろう。その新宮湊に停泊していた大船48艘が転覆し2、300人の船乗りたちが死亡したのは事実と思われる。
 (出典:小野芳彦先生遺稿刊行会編「熊野史 第10巻 熊野年譜708頁:承応1」、新宮市史編さん委員会編「新宮市史>第3章 藩政下の新宮三百年>第2節 産業・交通の発展と熊野参詣の大衆化>1 近世木材業の動静」)

○江戸町奉行、大風の際、道路を掘って家財を埋め類焼を防ぐのを禁じる(350年前)[改訂]
 1672年3月3日(寛文12年2月4日)
 最近では、家財道具をあまり家に置かないようになったが、それでもお年寄りの一戸建てのお宅にお邪魔すると、昔ながらに家財道具(主にたんす類、衣装箱)があふれていることが多い。
 なにせ“家財道具”というものは中身も含めて一生もので、それに衣類や食器などを詰めていた。江戸時代はそれらになべ、かま、おけ、あんどんなどが暮らしの上で大事な物なので、火事が起きると、それらを背負うか、物持ちの家は大八車などに積め込んで逃げたという。
 ところが問題は火事場泥棒である。炎から逃げ切れず途中で道ばたや河岸などに家財道具を置いておくと、火事泥に持って行かれるおそれありで、と言っても、持っては逃げ出せないとなると、富裕な町人たちは土蔵を造りそこに入れることになる。ところが土蔵とてわずかな隙間から炎が入り込み、焼け落ちることもあるので、世界三大大火の一つ、1657年(明暦3年)の明暦の江戸大火以降では、屋敷の裏庭などに穴蔵(地下倉庫)を造りそこへ大事な物を納めたという。
 ところが大部分の庶民の家では、土蔵はおろか庭もなしで、台所(キッチン)の下などに床下収納するしかないが、せいぜい壺(つぼ)程度しか収まらない。となると、最後に目をつけたのが“道路”ということになったが、さっそくこの日のお達しである。
 “大風吹候節(大風が吹いて来て大火の恐れがあるとして)、町中ニ而海道(道路)ニ穴を掘、諸道具埋申候由相聞候間(埋めているということを聞いているが)、自今以後海道ニ穴を掘、諸道具埋申間敷候(埋めないように)、此度堀申所は(今回掘った所は)急度(必ず)埋候て石を敷、本のこ(ご)とくに道悪敷無之様可仕候(通りづらくないようにすること)、若(もし)相背者於有(そむくことがあれば)之は曲事ニ可被仰付候間(けしからぬこととなるので)、家持は不及申(とうぜん)、借家店かり(借)地かり(借)等迄為申聞、急度此旨相守、少も違背仕間敷候事”。
 お奉行さまも事情がわかっているので、“道路に穴を掘って家財道具を埋めないように”今回もし掘ったならば“掘ったあとは元の通りに埋め戻してちゃんとしておきなさい”という指示で済ましている。またこの指示に背いても、“やってはいけないことだと申し聞かすぞ”と念を押しているが、効果があったのかどうか。火事になると、中には家財道具類を将軍の居城江戸城内に持ち込むほどの江戸っ子である(まさか町人ではないだろうが)。
 ほかに町奉行が禁じたことでも、江戸っ子の生活や避難上、必要で手放せないことだと、なかなかご禁制の指示が徹底せず、毎年、毎年火災シーズンや、火災がいち段落する季節になるとお触れが出て“定式町触れ”と言われていた。奉行所も町の防災上必要なことだから毎年飽きもせず出すわけで、別に悪いお達しでもないので、江戸っ子も条件が揃ってくればだんだんと従っていたのであろう。
 一方、禁止していても花火のように隅田川で盛大に打ち上げを許すこともあり、江戸時代に身分制度はあったが、富裕町人の経済力は大名・武士よりも強く、時代が進むと、幕府は農村の米ばかりではなく、貨幣に依存するようになり、江戸時代が絶対権力下の管理社会であったとは必ずしも言いきれない面が多い。
 (出典:近世史料研究会編「江戸町触集成 第1巻>寛文12壬子年 296頁:952 覚」、東京都編「東京市史稿>No.4>市街篇 第9・22~23頁:防災時制規」。参照:2月の周年災害・追補(3)「江戸町奉行、火災時、車での荷物運搬、橋や道路上へ置くこと禁止-禁令効かず馬も登場、建具などを江戸城内に避難も」、2019年2月の周年災害「江戸町奉行、火災シーズンを前に、町方に一連の“警火の町触”出す,後の定式町触の基本」、2017年3月の周年災害「1657明暦江戸大火」、2013年7月の周年災害「江戸大川(隅田川)で花火大会はじまる」)

○仙台宝暦2年の大火、町人の家を中心に1500戸余焼く(270年前)[改訂]
 1752年3月21日(宝暦2年2月6日)
 戌の刻(午後8時頃)仙台城下の中心、元柳町(現・青葉区内)から出火した炎は、折からの強風にあおられて町人の家を中心に家数(世帯数)で1527戸を焼く大火となった。内訳は軒数(家屋戸数)で侍屋敷19軒、町屋敷385軒の合計404軒、死傷者は出なかった。
 被災した家数戸数が軒数より4倍近くなっているのは、仙台城下では町人地の軒数が、間口6間(約11m)で区画された一軒屋敷を単位として集計した数値だからであり、実際に町人たちが住んでいたのは、間口3間の半軒屋敷や借家が多数だったので、家数戸数にした方が実際を反映するが多くなるのだという。
 (出典:仙台市史編さん委員会編「仙台市史・通史編5・近世3>第2章 打ち続く飢饉>第3章 城下の災害>1 城下の火災>城下の火災124頁および128頁:⑦1752年(宝暦ニ)の大火」)

○奈良宝暦12年の大火、町家3000余軒、興福寺、東大寺の子院など焼く(260年前)[再録]
 1762年3月18日(宝暦12年2月23日)
 午の刻(午前12時頃)芝辻横町(芝辻町)から出火した炎は、前日からの西の強風にあおられて二条大路(現・国道369号)に沿うように東へと延焼した。
 門前町の家々を焼きながら進んだ炎は興福寺の喜多院、大喜院、別院の称名寺を焼き、北に広がって油留木町、手貝町を全焼させた。
 炎はさらに若草山の麓へと東進、ついに東大寺の戒壇院、尊光院、金蔵院、見性院、上性院など寺内15院を全焼、さらに千住院谷の6軒を焼き、二月堂前の大杉を焼いた上、東山(若草山)方面へ1里(約4km)焼け抜けて亥の刻(午後10頃)ようやく鎮火した。
 焼失町家3000余軒、町数にして46町と当時の奈良市街の半数が灰となっている。寺ではそのほかに念声寺、観音堂が焼失。昼の火事だったので7~8人の死亡で止まったと伝えられている。
 (出典:奈良市編「奈良市史 通史3>第3 章 奈良町の盛衰>第4 節 生活の動揺>うちつづく災害>奈良の火事290頁:宝暦十二年」[改訂])

○有珠山文政5年の噴火、大火砕流と熱煙が山麓の役所や牧場、集落を襲った。
 噴火史上最大の犠牲者出す(200年前)[再録]
 1822年3月9日~23日(文政5年閏1月16日~2月1日)
 
2000年(平成12年)3月の噴火は、ひとりの犠牲者も出すことなく終わったが、この180年ほど前の噴火では、史上最大の犠牲者を出している。
 3月9日(旧歴・閏1月16日)深夜、丑刻(午前2時ごろ)火山性地震があり、夜明けまでに3回ほど揺れる。翌10日(旧・閏17日)朝14、5回、夜に入って30回ほどと、だんだんに揺れる回数が増えてくる。それから1日おいた12日(旧・閏19日)昼までに約100回の地震があったのち、翌日の深夜2時ごろ突然、山が鳴動したかと思うと噴火が始まる。
 山麓のアブタ集落に住むアイヌの人々は、男は太刀を抜き放って山に向かって祈り、女や子どもたちと山麓の善光寺の僧侶たちは、10kmほど離れたベンベ集落へと避難し、残りの和人たちの多くも責任者の指示にしたがい同集落へと避難した。
 山はしばらく小休止をしたあと20日(旧・閏27日)再び噴火を始めたが、翌21日(旧・閏28日)夜、大雨となったので、避難していたアイヌの人々がなぜか我が家に戻ったという。このときの人々の行動について、後に、有珠山を噴火させている悪い神に対し、それを鎮める善い神に対する噴火の時の祈りが、噴火の小休止と大雨をもって通じたと思い、人々が帰宅したのではないかと考察されている。
 ところが23日朝6時ごろ(旧・2月1日卯刻)、山が今までになく百千の雷が一度に落ちたように鳴り響き、焼き石、焼き灰に猛火が入り交じった一大火砕流(文政火砕流)となってあふれ、有珠山の南東側を流れる長流(おさる)川に流れ込み、南東から西の麓にかけての森林が一面焼き尽くされた。
 一方、噴煙は北東の強風にあおられて地上に渦巻き、長流川河口から虻田方面までの沿岸を熱煙となって急襲、一瞬にして立ち並ぶ松前藩の虻田御詰合(出仕先:役所)、会所(函館奉行の役人詰所)、御用武器庫、御囲い米蔵、牧士(ぼくし:牧場管理者)の家も厩(うまや)もアイヌの人々の家々など、海岸(内浦湾)にある90棟ほどの集落を押し倒し焼き払い広々とした野原にしてしまった。
 72人のアイヌ人と6人の和人が死亡(遠藤)、50人死亡、53人負傷、馬1437頭が死亡(内閣府)とする記録が残った。有珠山噴火史上、最大の犠牲を出している。
 この噴火のころの内浦湾沿岸は、松前藩によって開拓され、特に西南側山麓にある有珠湾を中心に海上交通が便利なため、和人も多く移り住み藩の牧場が作られ、役人の詰め所が設置されるほどまでに栄えていたという。
 (出典:内閣府編「TEAM防災ジャパン>防災資料室>歴史・教訓>⓽>有珠山噴火災害教訓情報資料集>報告書ダウンロード>第1期 有珠山の歴史・1.有珠山について>1.有珠山の概要4頁~6頁;04 1822年噴火では、火砕流で南西麓の1集落が全焼し、50名が死亡、53名が負傷した」[改訂]、有珠山ガイドの会編「【2】有珠山噴火の歴史>4 1822年(文政5) 大臼山焼崩日記『日鑑ノ写』から一部抜粋)」、遠藤匡俊著「1822(文政5年の有珠山噴火に対するアイヌの人々の状況判断と主体的行動」、伊藤和明著「災害史探訪・火山編>第4章 有珠山の噴火史>1 寛文から明治までの噴火>文政の大噴火」[追加]。参照:2020年3月の周年災害「北海道有珠山平成12年の噴火、学者と行政・住民の連携による事前避難準備で犠牲者ゼロ」)

○明治5年浜田地震、奇勝・石見畳ヶ浦出現(150年前)[再録]
 1872年3月14日(明治5年2月6日)

 石見東部や出雲西部(現・島根県中央部)では約1週間前から鳴動があり、当日の午前11 時頃と午後4時頃にはかなり激しい前震があった。
 本震は午後4時40分頃、マグニチュード 7.1、震源域は浜田付近の沿岸から日本海沖合にかけてで、震央は東経132.1度、北緯35度 15分の浜田沖と推定されている。
 被害は555人死亡、585人負傷。家屋全壊4527 棟、同焼失230棟、同半壊6101棟、同損壊6787棟、土蔵損壊792棟、特に浜田(現・市)では全町の8割以上が全壊したという。
 また浜田県邇摩郡(現・島根県大田市)で33戸が埋没するなど山崩れ6653個所、道路、橋梁の破損4441個所、海岸は川波村(現・江津市)から唐鐘(現・浜田市)にかけて90cm~1.8m隆起し、唐鐘に石見畳ヶ浦の奇勝を生んだ 。その西側(現・浜田市)の後生湯から浜田浦にかけていったん1mから50cmほど沈降し、笠柄海岸から東北方面の陸地にかけてふたたび1.5mほど隆起した。
 (出典:宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧>4.被害地震各論 202頁~207頁:282 浜田地震(註:同書は版により掲載頁及び内容が改訂されています)」)

○文部省に医務課設置-内務省衛生局から厚生省、そして厚生労働省へと変遷(150年前)
 1872年3月19日(明治5年2月11日)[再録]
 1871年9月2日(明治4年7月18日)学術や教育を担当する官庁として文部省が設立され、 翌1872年(同5年)のこの日、国の医療業務を担当する職制として初めて同省内に医務課が置かれた。
 文部省医務課は翌1873年(同6年)3月23日医務局に昇格したが、同年6月22日には国政の内務全般を担当する内務省に移管され、いったん同月27日、同省第七局と名称を変え同年7月25日衛生局と改称、長与専斎が文部省医務局長についで内務省衛生局の初代局長となっている。
 長与は文部省医務局長時代に東京医学校(現・東京大学医学部)校長を兼務、東京司薬場(現・国立医薬品食品衛生研究所)を創設。内務省衛生局長として医療制度の制定、防疫・検疫制度の導入などを行い、我が国医療、衛生行政の基礎を築いている。
 1938年(昭和13年)1月11日、当時の寺内陸軍大臣の提唱により、日中戦争(1937年7月~45年8月)下の戦時体制を強化すべく、国民の体力向上、青年たちの結核など伝染病への感染防止、傷痍軍人や戦死者遺族に関する行政を担当する専任行政機関として、内務省から厚生省が分離独立した。
 太平洋戦争(1941年12月~45年8月)後の1947年(昭和22年)9月、内務省から労働行政部門が労働省として分離したが、2001年(平成13年)1月5日には、中央省庁の再編に伴い、労働省は厚生省と統合し厚生労働省となり現在に至っている。
 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション「法規分類大全[第16]・官職門第14・官制・文部省62頁(43コマ):文部省達・本省中自今医務課ヲ設置候事」[改訂]、同「法規分類大全[第16]・官職門第14・官制・文部省97頁(60コマ)~98頁:医務局衛生掛庶務規則」[追加]、国立国会図書館編・近代日本人の肖像「長与専斎」。参照:2018年1月の周年災害「厚生省、軍部の強い提唱で内務省から分離独立」[追加])

○福井明治35年「橋北の大火」-商業機能駅近くの福井城東側に移転する契機に(120年前)[改訂]
 1902年(明治35年)3月30日
 福井では、2年前に足羽川南岸で起き1891軒を全焼させた「橋南の大火」に続き、今度は同川の北部福井城の西側に当たる市の中心部が焼けた。福井っ子はこれを「橋北の大火」と呼んだ。
 午前3時半、佐佳枝中町(さかえなかちょう:現・順化一丁目)の民家から出火、折からの強烈な南の風にあおられてたちまち四方に延焼、市の枢要な建物を多く焼失させた。
 すなわち郵便電信局、警察署、巡査派出所2、銀行5、小学校2 、劇場1、勧工場(ショッピングセンター)2、生糸関係会社6、新聞社1、寺院33、神社6など。被害は29町に及び民家3309戸が焼失。このほか炎は市の郊外にも飛び火し吉田郡西藤島村(以下現・福井市)、河合村と足羽川南岸の足羽郡東安居村の家々90戸ほどが焼失している。
 火災の直接の原因は、吊してあった石油ランプが落ち、ガラスの油壺が割れて畳に引火、天井から板葺きの屋根に燃え移ったという。広範囲に延焼したのは、強烈な南風すなわち北陸特有のフェーン現象によるものであると同時に、家々の屋根が板葺きだったためで、田んぼを越えて村の民家も焼いた。
 1900年(明治33年)4月の「橋南」、この日の「橋北」と続いた2回の大火によって、6年前の1896年(明治9年)官設鉄道(現JR)北陸線福井駅が開業し東京、名古屋、京都、大阪と結ぶ東海道線とつながり、乗客の乗降が順調に増えいく駅に近い城の東側に商業機能が移るきっかけになった。
 (出典:福井市編「福井市史・資料編11・近現代ニ>Ⅱ 社会・生活>1 衛生・災害 347頁~350頁:85 明治三十五年橋北大火の模様」。参照:2020年4月の周年災害「福井明治33年“橋南大火”大店が軒を並べる道筋が灰に」[改訂])

○東京深川明治45年州崎の大火、まともに歩けない程の強風下遊郭等1160戸焼く(110年前)[再録]
 1912年(明治45年)3月21日
 この日、東京市内は朝から激しい南の風が吹き、火災が起きた深川州崎弁天町の州崎遊郭でも砂ぼこりが舞い上がりまともに歩けない状態だったという。その中で午後12時半頃 、中村楼から炎が吹いた。
 深川州崎は江戸時代の寛永年間(1748年~51年)江戸湾を埋め立てて誕生し、養魚場、潮干狩りの名所として発展していた。
 1886年(明治19年)3月、帝国大学令が公布され本郷富坂(現・文京区)の地が東京帝国大学(現・東京大学)の敷地として整備されることが決まると、根津権現(神社)の門前町、根津八重垣町(現・文京区根津二丁目)にある遊郭が、大学の敷地に隣接し風紀上問題があるとされ同年6 月移転することが決まった。根津遊郭では名勝地の州崎に移転することを東京府(都)に願い出、1888年(同21年)1月許可が下り、同年9月州崎遊郭が誕生している。
 この日大火の出火元となった中村楼は、州崎の大門をくぐった通りの右側、州崎海岸を背にした吹きさらしの場所に建っていたので、炎はたちまち隣の亀井楼へと移り、火の手はそこから強風にあおられ一気に北西に向かって延焼した。
 その後、風向きが転々と変わり火勢が広がる一方で、駆けつけた消防隊も手のつけようがなかったという。午後2時過ぎ次々と延焼する中、もはやこれまでと見切りをつけ遊郭の入り口の木戸を開けたので、解放された数千人の遊女たちが炎の中を一斉に郭外目指して逃げまどった。付近一帯は大混乱となりけが人が多数出たという。
 午後4時半、この地にあった宮内省(庁)御材料置き場も類焼しようやく鎮火した。遊女屋、引手茶屋(遊客を遊女屋へ案内する茶屋)など家屋全焼1149戸、同半焼11戸、焼損面積5万9318平方m。
 (出典:東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の消防百年の歩み>明治後期 108頁~109頁:洲崎の大火」、東京市史稿・市街篇 第73・228~238ページ「州崎弁天町差配人任命遊郭地指定」、同市街編第75・93~94ページ「州崎遊郭開業式」)

○日本赤十字社大阪支部、国内初救急自動車運用による国際的な救急搬送システム実施(90年前)
[追補]

 1932年(昭和7年)3月1日
 救急自動車の運用は現在では各市町村の消防機関が担っており、1933年(昭和8年)3月、当時の神奈川県警察部消防課が横浜市山下町消防署(後の中消防署日本大通消防出張所)に配備したのが最初だが、わが国での最初となると、神奈川県警より1年早い1932年(昭和7年)3月、日本赤十字社大阪支部が市内2か所に“救急所”を開設、そこに救急自動車を配備し運用を始めている。
 1930年(昭和5年)10月、第14回赤十字国際会議がベルギーの首都ブリュッセルで開かれ、電話および患者を医療機関に搬送する自動車を配置し、赤十字を表示した“救護所”の設置が決議された。これは当時、世界の主要国における電話、自動車の普及が決議の背景となっている。
 実は日本赤十字社における救護所の設置はかなり古く、ブリュッセル決議の22年前1908年(明治41年)11月、常設救護所を東京に開設しているが、その必要性について当時の千家東京支部長は次のように述べている。
 “首都ニ於ケル百般ノ事物益繁劇ヲ極メ交通機関ハ新規ヲ競ヒ殊ニ各種機器ヲ利用セル事業ノ増加スルト共ニ往々ニシテ不測ノ異変発生スルヲ見ルハ数ノ免レサル所而シテ日常ニ於テモ救護ヲ要スヘキ事件尠カラサルヲ以テ”とし、交通機関と機器を利用する事業(工場)の発展により救護が必要な事件が少なくないと指摘、11月21日、京橋区南紺屋町21番地(現・中央区西銀座一丁目)に開設した。その後、福井支部が1911年(明44年)11月、京都支部が翌1912年(明治45年)1月と各支部で常設救護所の開設が進んだ。
 また大正時代後期(1920年代前半)になると、東京支部では救護自動車を配備して一定区域を巡回、救急救護の必要な人を見つけしだい救護所に搬送し処置をするシステムをとった。
 一方、大阪では明治時代より、工業都市として東京に並ぶ発展を遂げていたが、昭和を迎えた1930年代になると自動車が急増、東京のように救急救護の必要な患者が増大していた。そこで同支部では、赤十字国際会議ブリュッセル決議の趣旨に基づく方式、救急所を開設して救急自動車を配備し、救護要請に応じて現場へ急行、そこから直接病院へ搬送するシステムを計画した。
 そこで前年の1931年(昭和6年)ごろから、大阪府及び同市の医療関係者と外科設置の病院長に、搬送先病院の必要性を説き協力を求めた。その努力が結び、大阪市内の外科的設備が完備している39病院が搬送先の後方病院となり、統一名称を救急連盟病院とした。また、交通及び災害や事件・事故に対応する警察署署長会を開き了承を得て実施にこぎつける。
 この日あらたに開設した救急所は、西区江之子島上之町(現・江之子島一丁目)の日赤大阪支部診療所内と南区長堀橋北詰東入浜(旧・南区末吉橋二丁目、現・中央区南船場二丁目、一丁目とする資料もある)の2か所で、それぞれに救急自動車を配備、通報連絡係、看護人、運転手、助手各2名の合計8名を配置、交代制で勤務し、いつでも出動できる態勢をとった。救急通報受けの電話番号は990番、配備した救急自動車は、市に隣接する堺市の梅鉢工場(旧・帝国車両工業→東急車両製造→現・総合車両、事業面は東邦車両)でアメリカ製のホワイト、インディアナ、フォード、シボレーを救急自動車に改造、その内の各1台づつを救急所に配備した。
 大阪支部が当初、救急救護の対象とした患者は、災害や事故などによる外傷患者だが、火災など災害の場合、警察署、消防署及び関係官庁からの要請に応じて出動した。日常の出動は➀ 事故現場などで外傷患者を発見→② 発見者は近くの公衆電話か商店などの電話を借りて架電→③ 電話局の交換手に救急所へつなぐことを依頼→④ 交換手が最寄りの救急所にダイアル990を回しつなぐ→⑤ 発見者は患者の所在地、架電している場所の電話番号などを知らせ、救護要請を行う→⑥ 要請をうけた救急所では直ちに救急自動車を現場に派遣→⑦ 現場及び車内で応急処置を施し最寄りの連盟病院へ搬送する。
 このシステムは現在と架電方法が異なるだけで、救護要請から搬送までの流れは全く同じで、救急所は基本的に現在でいえば災害救急情報センターであり、この救急搬送システムは大阪支所で初めて実行された。990番は現在の119番であった。
 このシステムの主役はなんといっても救急自動車だが、その大きさは全長16尺5寸(5m)、室内の幅5尺3寸(1.6m)奥行き7尺5寸(2.3m)高さ5尺(1.5m)で、外観は純白ラッカー塗装、左右両側に赤十字のマークを後部扉に救急自動車と記入、また夜間の識別のため、四方の白色地のガラスに赤十字マークを配した高さ22cm、幅11cm四方の赤十字灯を車の前後に装備した。
 室内の装備はまず、大阪支部考案の搬送用特殊担架(ストレッチャー)、上段担架は巻揚げ式で昇降自在、下段にレールを取り付けスプリング付きの四輪車に載せ、布団には羽毛を用いて微細な振動をも患者に与えないようした。そのほか折畳式の腰掛と座れる座床を用意して、2ないし4,5名の軽症患者も同時に収容できるようになっている。
 医療設備は、応急手当て用の医療器械、薬品、包帯材料のほか酸素吸入装置、氷のう吊り、氷箱。作業台、手洗い装置、消毒装置、副木(そえぎ)入れ、作業着・毛布入れ棚、不潔物入れ、便器入れ、移動携帯電灯(懐中電灯)などを用意したまさに走る応急処置室である。
 救急自動車の出動の際、看護人、助手が同乗し現場に駆け付けたが、患者が比較的軽傷で入院治療を必要としない場合は看護人が応急処置を施し、特別重傷で急を要する場合は、事前に現場付近の医師に連絡して応急処置を受けるようにし救急連盟病院へ搬送した。
 その実績は、開設の翌1933年(昭和8年)327回出動、病院搬送297人、現地治療131人、合計428人。1934年(昭和9年)817回出動(前年の2.5倍)、病院搬送843人(同2.8倍)、現地治療419人(同3.2倍)、合計1262人(同2.9倍)となっており、1出動当たりの患者数は1.3人から前年比1.5人へと増加している。
 ちなみに日赤東京支部がこの大阪支部方式を採用したのは、2年後の1934年(昭和9年)、当時最も交通事故が多発した下谷区竹町(現・台東区台東)と京橋区槙町(現・中央区八重洲)の2か所に新たに開設した救護所に救急自動車各1台を配備し、救急搬送を開始している。
 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション・日本赤十字社編「第十四回赤十字国際会議派遣委員報告>第2編 決議及希望>第1章 第十四回赤十字国際会議ニ依リテ可決セラレタル決議及希望 82頁:第十六 路上救護」、日本赤十字社編「日本赤十字社社史続稿>第4編>第3章>第1 診療事業>其2 常設救護所733頁~734頁:東京支部常設救護所」、厚生省(現・厚生労働省)広報誌「厚生1996年9月号>歴史散策 第28回 救急車の登場 5頁」、日本病院会編「日本病院会雑誌2009年8月号>特集・銷夏随筆>宮下正弘著・日本の救急車事始め 93頁~95頁:救急車第1号は日赤大阪支部で」、日本赤十字社機関誌「博愛 昭和7年5月10日号>大阪支部に於ける外傷患者救急運搬事業」、東邦車両(株)編「歴史・沿革」、東京消防庁編「災害救急情報センター」、江戸東京博物館蔵「赤十字灯」、日本赤十字社編「日本赤十字社社史稿 第4巻>事業編>第1章 救護計画と準備>路上救護 263頁:路上救護年次表」。参照:2013年3月の周年災害「神奈川県警察部、横浜市に消防機関初の救急自動車配置」、2019年3月の周年災害「東京消防庁、通信指令室設置」)

○浜名湖アサリ貝中毒事件、新居町民は呉羽紡績排水に疑惑を抱くも学界は無視、いまだ原因不明
(80年前)[改訂]

 1942年(昭和17年)3月8日~4月9日
 
静岡県の浜名湖はアサリ貝の名所で、特に海水と淡水が混じり合う今切口周辺の東側の弁天島(浜松市西区)と、西側の八兵衛瀬(湖西市新居町)は、潮干狩りの名所としてにぎわっている。その名所で採れたアサリ貝による中毒事件が、1942年(昭和17年)から1950年(同25年)にかけて断続的に起きた。
 1942年(昭和17年)3月8日と15日、新居町船町(現・湖西市新居町新居船町)で8歳の弟と14歳の姉が、身体全身に紫色の斑点ができたうえ脈が急迫して弱くなり、顔色に元気がなくなった。そのうち激烈な苦悶を始めついにはコーヒー色の吐血を繰り返し相次いで死亡した。
 その後数日中に町内各所で同じ症状の病人が続出、3月25日までに新たに9人が死亡、翌日さらに6人死亡。事が重大化した翌27日、地元の二人の医師が共に患者を診察した結果、とりあえず伝染性の出血紫斑病として警察署へ報告するとともに、静岡県当局に応援を要請した。同日直ちに浜松保健所長ら調査団が来町、農家10戸と患者18人に対する診察が行われ、保健所長の記者会見では、強い毒性の悪質な伝染病と思われるが、今まで接したこともない不明の病気だとし、14名の患者は隔離病者に収容された。 ところが前から発病した患者がいずれもアサリ貝を食べていたという噂があったので、新居警察署が浜名湖畔の入出村(現・湖西市入出)の患者について調査を行い、全員が新居で採れたアサリ貝を食べていたことが報告された。翌28日、調査団が現地を訪ね調査を行い、加藤所長によって原因はアサリ貝による食中毒であると判定される。
 新居町では県衛生課と協議し伝染病説を公式に否定、翌29日にはアサリ貝の食用禁止を発表するとともに、被害者が浜名湖の新居町寄りの八兵衛瀬で採取したアサリ貝を食べた人に限定していたことを確かめ、直ちに八兵衛瀬での採取を禁止した。しかし時すでに遅く、4月9日までの集計で中毒患者334人、内死亡者112人を数え、死亡率は33.5%と非常に高い。 実は、それまでアサリ貝による中毒事件というのは全国的に例がなく、当時の著名な学者たちが次々と来町し調査を行ったが、多くの説が肝心の毒素発生の原因よりも、その物質がなんであるのかということに集中していた。
 しかし厚生省の芝山技官は、患者たちがアサリ貝を加熱調理して食べていた点から、貝自身の腐敗中毒ではなく、ヒ素ないしリンなどの化学毒の混入ではないかとする説を唱えた。また小島博士は、中毒が突発的に出たよそからのもので、八兵衛瀬の海水の流れが緩慢で沼地化しているため、ある方面から流されてきた毒物が瀬付近に沈殿し、それが貝に付着したのではないかとし、それぞれ外部からのアサリ貝への毒物混入説を述べているのは、きわめて示唆的であった。
 また現地の新居町民が疑惑の目を向けたのは、新居町柏原にあった呉羽紡績(現・東洋紡)新居工場から廃棄された毒物ではないかということだった。
 疑惑の理由は、アサリ中毒発生直前に工場西側を流れ排水路にあたり八兵衛瀬に流れ込む運河・水門川(浜名川の分流)で、大量のフナやウナギが死んで浮き上がっているのを町民たちに目撃され、それらを食べた猫や犬が死んだとことからであり、町民たちの間では工場排水がアサリ中毒の原因であることを疑わない者はいないほどだった。
 また4月2日付東京朝日新聞と同5日付静岡新聞がこの疑惑を取り上げ報道したが、同5日付の新愛知(現・中日新聞)は、来町中の博士・技師一行も、町民たちの疑惑から一応疑念をいだき、3、4日の両日工場を訪れ調査を行ったところ、薬品や汚物は工場内で浄化処理をしていることが分かったので、今回の事件とはなんら関係がないと報道した。
 それでも町民たちが呉羽紡績工場廃水毒の疑惑を捨てなかったのは、同工場で軍需の人造絹糸(人絹:化学繊維)の試験生産に特殊な薬品を用いたのではないかという点、軍関係の調査団が来町したが説明なしに帰京した点、博士・技師一行のひとりが工場排水説を唱えたが、直ちに帰京させられた点などからである。しかし、かんじんな博士・技師調査団一行は、何らこれらの疑惑を科学的に解明しようともせず、工場の説明をうのみにして帰京していた。当時、太平洋戦争(1941年:昭和16年~45年:同20年)中である、これらの問題は軍の機密事項にかかわるとして公式には何ら問題されなかった。
 この町民たちの疑惑をよそに、学界挙げての論争となった中毒事件はこれで終息したわけではなかった。翌1943年(同18年)3月、同じ八兵衛瀬で採った牡蠣(かき)の中毒で20人が発症し5人死亡した。この牡蠣を調査してみると、肝臓に毒素が存在していることがわかり、市場への出荷が停止されて新居町にとって大きな損失となった。
 この時も学者たちの見解はアサリ中毒の時と同じだったが、5月26日付東京朝日新聞は、社会面で学者の意見を紹介しながらも“流れる薬と湖の仕業”という見出しを掲げ、牡蠣中毒は工場の流水成分の影響であることを指摘し、さらに新居工場に対するインタビューを行っているが、工場側は浄化装置が完璧であるとして廃水毒説を完全に否定している。しかし同日の新聞論調では“八兵衛瀬の浅蜊ならびに牡蠣中毒事件の真因は科学研究の結果、同町呉羽紡績新居工場から流出する工場の酸性汚水と決定し牡蠣ならびに浅蜊の体内に発生した猛毒素はこの悪水によって培養されたことが、明かとなった”とし“今こそこの真因究明によって汚水処置ならびに適正な予防対策が根本から樹立される”と主張した。
 この記事中、新居町鮮魚介出荷統制組合と同町民団長から、真相を突き止めたことに対する感謝の言葉と今後の対策が紹介されていたが、その後何ら解決されることなく終わり、呉羽紡績新居工場は中島飛行機に接収され、同浜松製作所新居工場として陸軍の軍用機エンジンを生産することになる。廃水浄化装置はどうなったのか、排水路は残りそれが清掃されたのかどうかは定かではない。
 太平洋戦争後の1948年(昭和23年)3月、弁天島を有する舞阪町で60余人のアサリ中毒患者が発生し2人が死亡した。次いで、翌1949年(同 24年)3月にも新居町で今度は牡蠣中毒が発生、30人ほどが発病し3人が死亡しているが、浜松保健所と水産試験所の見解では、原因はともにアサリおよび牡蠣内部における生成毒素とされた。この間、呉羽紡績工場廃水毒原因説は、工場が退去したせいか忘れ去られている。
 翌1950年(同25年)2月から3月にかけてまた12人の中毒患者が出たが、この時、静岡県は食品衛生法に基づいて県知事名でアサリ貝などの採取の一時禁止及び貝類の販売、授受、移動の時停止などの措置を取っている。この措置について、2003年(平成15年)12月に水俣病裁判で最高裁判所に提出された「付帯上告理由書」では、熊本県知事の水俣病事件の際の措置と比較して人命尊重の見地から“適切な措置”であると賞賛されているが、当時の静岡県知事は、原因究明に向けて特に動いたわけではなく、同県水酸試験場に指示してもいない。
 事件当時朝日新聞で紹介され、現地の新居町民が等しく指摘した、呉羽紡績の化学繊維生産過程における工場廃水毒の疑惑については、水俣病をはじめ工場廃水による数々の公害事件を経験したのにもかかわらず、工場がすでに退去したとはいえ、当時のデータだけでは不可能なのか、関係学界は消極的で現在に至るも解明されていない。
 (出典:新居町史編さん委員会編「新居町史 第2巻 通史編下>第4編 近・現代>第4章 戦時下の新居>第3節 アサリ中毒事件 375頁~382頁:昭和17年のアサリ中毒」、新居町史編さん委員会編「新居町史 第9巻 近代・現代資料1>第4編 昭和前期 746頁~761頁:第3章 浅蜊中毒事件」、チッソ水俣病関西訴訟団編「国・熊本県への付帯上告理由書(補充書2)・第2食品衛生行政の基本 原則と実態-浜名湖の貝中毒事件について」。参照:2016年5月の周年災害〈下巻〉「水俣病公式確認-原因は新日窒水俣工場の工場排水とわかる」[追加]、2016年12月の周年災害「広島県産酢ガキ食中毒事件-加工・保存基準設定される。原因ウイルス“ノロ”も解明」[追加])

○昭和27年十勝沖地震、十勝地方の泥炭地に被害が集中(70年前)[再録]
 1952年(昭和27年)3月4日
 午前10時22分、北海道襟裳岬東方沖約50kmを震央とするマグニチュード8.2の大地震が十勝地方を襲った。震度は池田町、浦幌村(町)で6、浦河町、帯広市、釧路市で5。
 地震による被害は震源に近い広尾町よりも十勝地方特に泥炭地で多く、特に十勝川、大津川下流域の大津、豊頃(豊頃町)、浦幌村では全半壊家屋が半数以上に達した。また、この地震よる津波は北海道だけでなく本州太平洋岸も襲っている。
 全体の被害は28人死亡、5人行方不明、287人負傷。家屋全壊815棟、同流失91棟、同半壊1324棟、一部破損6395棟、同浸水328棟、同全半焼20棟。非住家の被害1621棟、船舶の沈没3隻、同流失47隻、同破損401隻。道路破損31個所、橋梁破損13個所。
 そのほか釧路で炭坑のズリ山(ボタ山と同じ)が崩れ8人が死亡、7人が負傷、家屋2棟が埋没している。またサイロの被害が多く池田町付近では58基のうち52基に被害があり2割が倒壊するなど、全道で全壊90基、中壊155基、亀裂104基に達した。
 十勝沖地震は2003年(平成15年)9月にもほぼ同じ震源で起きているが、国の地震調査研究推進本部の海溝型地震長期評価によれば、2011年(平成23年)以降、50年以内に20~30%の確率でマグニチュード 8.1前後の地震が起こるという。
 (出典:宇佐美龍夫著「新日本被害地震総覧>4 被害地震各論 358頁~360頁:525 十勝沖地震(註:同書は版により掲載頁及び内容が改訂されています)」)

○富士登山大量遭難死、雨に対する装備不備でぬれた身体の体感温度下がり不眠と疲労で凍死

(50年前)[改訂]
 1972年(昭和47年)3月20日
 日本山岳史上、最大の大量遭難がそれも日本のシンボル富士山で起きた。
 その日山陰沖で、午前3時頃から台風並みに急速に発達した低気圧が、日本海を北東方向に進み、この低気圧に向かって強い南風が吹き込むという典型的な“春一番”が全国的に吹き荒れた。特に富士山では19日夜半から横殴りの冷たい雨が降り、遭難者を出した翌20日も、前夜からの雨が降り止まず、午後になると風速31~35m/秒の猛烈な風雨となり、瞬間 風速50m/秒という突風が吹いたという。
 それにより雨に対する装備がほとんど無かった遭難者の濡れた身体の体感温度は、マイナス30~40度になったと推定され、睡眠不足もあり体力を急速に奪われ倒れていった。
 遭難した静岡頂山山岳会の9人は、ヒマラヤ遠征訓練のために参加した経験豊富な登山者たちで、当然、雪山テントや寝袋を用意し前夜はビバーク(野宿)したが、防水の装備のないテントも寝袋もびしょ濡れになり、寒さで眠れずに午前3時には全員が起き上がったという。
 結局、訓練を中止し一睡もできぬまま午前7時半に下山したが、一人15~20kgの荷物を背負い、ひざまである雪にまみれ激しい雨に打たれての下山で疲労が積み重なり、歩き始めて25分後わずか300mしか進んでいないのに、一人ひとりと体力を消耗して倒れ7人が凍死した。
 清水勤労者山岳会の女性を含む11人は、五合目の山小屋で一夜を過ごし、午前10時ごろ、風雨の合間を見てほかの単独登山者とともに下山したが、正午ごろになり強い風雨のため、衰弱した7人が次々と倒れ昏睡状態のまま死亡する。残る5人は濃いガスのため視界がさえぎられるなか、雪崩に襲われてばらばらになり1人がようやく御殿場署にたどり着いた。はぐれた4人は行方不明となって遺体で見つかり、雪崩による死亡と断定されている。
 当時55人が登山中でそのうち半数近い24人が死亡・行方不明になるという最悪の遭難事故となってしまった。
 富士山には外国からの登山客が多い。中には軽装備で登ろうとする客もいるが、4000m近い高山である、天候も急変する。この遭難の事実を忘れずに広める必要があろう。
 (出典:宮澤清治著「近・現代日本気象災害史>冬>“春一番”による富士山の大量遭難」、山と渓谷社編・大矢康裕提供「1972年3月の富士山大量遭難事故―。日本海低気圧の発達による春一番の暴風雨が引き起こした日本山岳史上最悪の大惨事」[追加])

PCB(ポリ塩化ビフェニール)生産・使用中止、廃棄物処理進まず32年後専門会社設立(50年前)
[追補]
 1972年(昭和47年)3月21日
 
厚生省(現・厚生労働省)はこの日、PCB(ポリ塩化ビフェニル)の生産と使用の中止及び回収について通達した。
 PCBは1929年(昭和4年)アメリカのスワン社(後にモンサント社と合併)が工業生産を開始した合成化合物で、国内では1954年(同29年)から生産が始まり、変圧器やコンデンサなど電気製品絶縁油、潤滑油、加熱・冷却の熱媒体、可塑剤、塗料・印刷インキ、ノーカーボン紙(感圧複写紙)の溶剤として広く使われていた。
 ところが1968年(同43年)カネミ油の使用者から、黒い吹き出ものや手足のしびれ、症状が進んで肝機能、腎機能障害などを訴える患者が福岡県をはじめ西日本一帯で発生した。
 この異変を朝日新聞が取材、被害者がカネミ倉庫製造のライスオイルを使用していたことがわかり、ある被害家族が同オイルを保健所に持参、分析した結果そのオイルから“PCB”が検出され、県による出荷停止処分となったが、原因を調査したところ、ライスオイルの製造過程で、脱臭装置で使用されていたPCBが同装置の配管ミスから誤って同オイルに混入したものとわかった。
 その後PCBの調査・分析を進めた結果、自然環境中では分解されにくいこと、食物連鎖などで生物の体内に濃縮しやすいこと、大気中で揮発し拡散することなどの特徴がわかり、特に水中に残留しやすい点から魚介類への汚染が憂慮された。
 事実、1966年以降、スエーデン各地に上がるイワシなど魚類をはじめ世界各地の魚類や鳥類の体内からPCBが検出され、地球全体を汚染していることが次々と報道され、一般国民にもその危険性が広く知られてくる。
 カネミ油PCB汚染事件の3年後の1971年(同46年)、東京湾で漁獲されたセゴから、内湾魚介類規制値の400倍にあたる最高1200ppmものPCBが検出されたほか、瀬戸内海や琵琶湖でも汚染が報告された。憂慮されたPCB汚染が国内に広がっていることが明らかになり、ついにこの日、通商産業省(現・経済産業省)は行政指導という緊急避難的な措置で、PCBの生産と輸入及び使用の中止、また製品の回収について関係企業あて通知することになる。
 また、厚生省(現・厚生労働省)食品衛生調査会は、生産中止後も汚染された食料品が消費者に届くことを憂慮し、暫定的に1日一人当たりの摂取許容量を250マイクロgとし、魚介類、牛乳、乳製品、肉類の7品目の規制値を決め、各都道府県知事・政令指定都市市長会あて同年8月24日付で通知をする。
 翌1973年(同48年)9月「化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律(化審法)」が成立され、翌1974年(同49年)6月、同法施行とともにPCBを特定化学物質第1類に指定し使用禁止に近い規制を行う(第5章)とした。
 ちなみに、PCBの1954年(昭和29年)から生産中止の年1972年までに、国内で生産された量は1962年、63年(同37,38年)に一時下がったほか右肩上がりで増え続け、1970年には1万1110トンと最高値を築き、その数量は合計で5万8787トンに達していた。
 この大量の生産はそれだけの需要があったわけで、PCBを法的に規制し廃棄を進めたが、廃棄登録したコンデンサなど1100台が行方不明になるなど、民間事業者による廃棄処理施設の計画はすべて失敗に終わった。
 しかし、PCB、DDT、ダイオキシン等が環境中での残留性が高く、環境汚染を広げていることについて、世界的に製造、使用の原則禁止を求める声が広がり、2001年(平成13年)5月「ストックホルム条約」が締結され、2028年(平成40年:令和10年)までにPCB廃棄物の完全処理が求められた。それに呼応し同年翌6月「ポリ塩化ビフェニル廃棄物の適正な処理の推進に関する特別措置法(PCB特別措置法)」が制定され、同特措法の2003年(同15年)12月施行に合わせて、同年5月には「中間貯蔵・日本環境安全事業株式会社法」が制定、翌2004年(同16年)4月同社が発足、現在、処理を進めている。
 (出典:昭和史研究会編「昭和史事典>1972年(昭和47年)>4月 893頁:PCB生産中止」、環境省編「環境白書 昭和48年版>公害の現況および公害の防止に関して講じた施策>第4章 その他の公害の現況と対策>第7節 PCB汚染の現況と対策>1 PCB汚染の現況、環境省編「PCB廃棄物に関する経緯と現状」、渡辺洋子編「PCB問題の概要」、厚生省衛生局長通知「食品中に残留するPCBの規制について」、経済産業省編「化審法とは」、環境省編「ストックホルム条約 |POPs」、衆議院制定法律・平成13年法律第65号「ポリ塩化ビフェニル廃棄物の適正な処理の推進に関する特別措置法」、中間貯蔵・日本環境安全事業株式会社編「会社概要」。参照:2018年10月の周年災害「カネミ油症事件、食用油摂取によるPCB-ダイオキシン体内汚染」[改訂])

総武本線船橋駅ラッシュ時構内追突、鉄道事故最多の負傷者、信号機消灯時の規定曖昧のまま
 (50年前)[追補]
 1972年(昭和47年)3月28日
 
総武本線船橋駅構内で午前7時21分ごろ、停車中の上り列車に後続の列車が追突脱線し758人が負傷するという、我が国、鉄道事故史上最多の被害者を出した。直接の原因は停電で信号機が消灯していたが、よく確認できず、列車の遅延を恐れそのまま進行を続けたことにある。
 事故当時、船橋駅構内の緩行線(総武本線各駅停車)には、信号機のトラブルのため、御茶ノ水駅で中央線と直結し進行する中野駅行き上り列車が停車していた。そこへ同じ上り三鷹駅行き10両編成の列車が追突、その6両目が脱線し同車両の乗客758人が負傷した。ちょうど朝のラッシュ時である。乗車定員140人のところその6倍近い乗客が詰め込まれていた。超満員で身動きが取れない状態で列車が追突し脱線、強い衝撃を受け負傷した。
 事故発生の直前、埼玉県の国鉄(現・JR東日本)蕨変電所の送電線が断線し信号系統が停電した。それにより先行の中野駅行き列車は船橋駅でやむなく停車していた。
 この信号系統の停電で、船橋駅構内入り口の場内信号機も、同駅緩行線内に列車が停止している(閉鎖線)ことを知らせる閉鎖信号機も消灯していており、通常であれば後続列車はこれを確認、進行停止の赤信号であれば直ちに停止しなければならなかった。
 また国鉄では、運転士は信号機が万が一消灯していた場合、停止指示とみなし直ちに停止するよう規定していたというが、列車の進行方向が朝の時間帯で東から西だった。信号機に直射している太陽のため消灯しているかどうか判断がつかず、ラッシュ時の超過密ダイヤである。運転士は駅への到着の遅れとそれによるダイヤの乱れを恐れ、そのまま停止させることなく進行を続けた。
 この時、ATS(自動列車停止装置)の警報が鳴っていたので、運転士は教育された通り確認ボタンを押し見込み運転(大丈夫と思う運転)に切り替えようとしたが鳴りやまず、その音に気を取られて前方確認を怠り、故障ではないかとスイッチ操作をしているうちにブレーキ操作が遅れ、追突してしまったという。
 この事故で疑問なのは、当時、信号機が消灯していても運転士が判断つかない場合があるとした規定があったのか。信号機は消灯してもATSは危険を察知して警報を鳴らすので、その場合は必ず停車すべきとした教育はしていたのか。中でも問題は非常停車による列車の遅延とダイヤの乱れであろう。該当の運転指令所が運転士に“遅延しても良し”とし、停電で信号機が消灯していることを運転指令電話で知らせ、停車の確認・指示をしたのだろうか。かならずしも事故の責任を運転士に負わせることはできないと思われる。
 (出典:ウイキペディア編「日本の鉄道事故 (1950年から1999年)>船橋駅構内追突事故」、+日外アソシエート編集部編「昭和災害史事典 4(昭和46年~昭和55年)>昭和47年 61頁:3.28 総武線電車追突(千葉県船橋市)」、国鉄千葉動力車労働組合編「船橋事故と反合・運転保安闘争論の確立>③ 事故原因の全貌が明らかに」)

昭和47年“春三番”船舶連続遭難起きる、海難史上4番目の記録に(50年前)[再録]
 1972年(昭和47年)3月31日~4月1日
 春一番が富士山で大量の遭難死を引き起こした同じ3月、今度は月末の30日から31日にかけて発達した低気圧が日本海を通過し、それによる風速20~40m/秒の強い南からの季 節風“春三番”が、日本近海で航行中の船舶50隻を沈め、乗員113人が死亡、行方不明という大量遭難を引き起こした。
 事例1:31日、福島県いわき市小名浜漁業協同組合 の底引網漁船第八協和丸が、シベリア西カムチャッカの漁場から釧路港への帰途、納沙布岬南方約330kmの沖合でしけに巻き込まれ、遭難信号を発信し乗員26人とともに行方不明となった。捜査の結果全員死亡と断定される。
 事例2:同日、小山海運所属貨物船武光丸が、木材2574トンを積んで茨城県日立港を出港、神奈川県久里浜港を目指したところ、千葉県大東埼灯台約9kmの沖合で、船体が岩礁に触れ右舷側に傾くはずみで、積み荷のラワン材が崩れ転覆、乗員5人はゴムボートに乗り移ったが大波を受け転覆、1人は救助されたが残り乗員22人は行方不明。
 事例3:同日、ソマリアの貨物船ワポーが鹿児島県佐多岬の沖合で荒天による荷崩れにより浸水し沈没、乗員20 人死亡、行方不明。
 事例4・4月1日、サハリン沖で操業中の北海道東利尻町(現 ・利尻富士町)の第二十八平和丸が強風のため転覆、乗員14人全員行方不明。
 (出典:日本気象協会編「気象年鑑 1973年版>1972年気象記録 47頁:春」、毎日新聞社メディア編成本部編「毎日新聞戦後の重大事件早見表>海上遭難 130頁:47・3・31北海道ノサップ沖で漁船転覆、“春台風”で貨物船転覆、ソマリアの貨物船佐田岬沖で沈没、47・4・1:ニシン漁船遭難」、日外アソシエート編集部編「昭和災害史事典 4(昭和46年~昭和55年)>昭和47年 61頁~62頁:3.30 船舶遭難(全国)、3.31 武光丸遭難、第8協和丸行方不明、アポー号浸水」、海難審判庁編「海難審判庁裁決録(昭和50年10月~12月)1780頁~1784頁:機船武光丸遭難事件」)

川崎大気汚染公害訴訟、解決まで17年もの歳月が流れる(40年前)[再録]
 1982年(昭和57年)3月18日
 1912年(明治45年)6月、日本鋼管(現・JFEスチール)が神奈川県川崎の東京湾臨海部に設立されて以来、同地は横浜市鶴見、東京市蒲田、大森(現・大田区)の一環として急速に工業地帯として発展。中京工業地帯、阪神工業地帯、北九州工業地帯とともに、首都圏を背景にした京浜工業地帯として日本の4大工業地帯を形成するに至る。
 中でも川崎市南部地区は、1923年(大正12年)9月の関東大震災を契機に東京から移転してきた工場で埋まり、太平洋戦争下1945年(昭和20年)4月の川崎大空襲で壊滅的な打撃を受けたが、戦後いち早く復興、特に日本鋼管(現・JFEスチール)を中心とした製鉄を始め、東京電力の火力発電所、東亜燃料工業(現・ENEOS)などの石油コンビナート、昭和電工(現・レゾナック)などの化学製品の大工場が集結し、日本最大の工業地帯の中心として発展した。
 ところが反面その繁栄は大公害を生み出すことになる。特に1955年(同30年)頃より大気汚染が深刻な状況となっ ていた。また1965年(同40年)以降、自動車が物流の中心となり工場に隣接して幹線道路が建設され、トラック輸送は工場への原材料及び製品の搬出入などを担っていたが、これも大気汚染という状況を悪化させた。
 川崎公害の場合、特徴的なのは環境基準を上回る、物質の燃焼過程で発生する二酸化硫黄(亜硫酸ガス)や二酸化窒素、浮遊粒子状物質による大気汚染が長期に渡って続いたことで、これらが工場で燃焼された物質や燃料、トラックの排ガスなどから発生したものであることは明らかだった。
 この日川崎市に在住、通勤の喘息(ぜんそく)などを患っている公害認定患者とその遺族119名は原告として、固定発生源の日本鋼管、東京電力、東亜燃料など13社、及び訴訟対象地区を走る道路の建設及び管理者として国、首都高速道路公団(現・株式会社)を相手取り、横浜地方裁判所川崎支部へ訴訟を起 こしたのである。その内容は、公害原因物質の環境基準を達成しそれ以上の排出をしないこと。公害患者と公害病による死亡者に対して生活・家庭の破壊を補うための損害金の支払いだった。
 ところが裁判は長期化し、訴訟も2次、3次、4次と続けられ原告は440名に達した。最終的な和解は1999年(平成11年)5月で、解決まで17年の歳月が流れて いた。
 (出典:環境再生保全機構編「記録で見る大気汚染と裁判>各地のうごき・川崎>川崎公害裁判」、川崎市編「公害の歴史」)

世界初の早期地震検知警報システム“ユレダス”稼働、後継システム0.1秒後警報発信に成長
 (30年前)
[追補]
 1992年(平成4年)3月14日
 鉄道では、鉄道施設を耐震設計や耐震補強によって地震の被害を最小限にとどめる対策をとってきたが、列車運行に関しては地震時に即座に対応して、列車走行に伴う事故を未然に防ぐ必要があり、国鉄鉄道技術研究所(現・鉄道総合技術研究所:鉄道総研)において“地震時自動列車制御システム”として研究・開発されてきた。
 この制御システムは、1964年(昭和39年)10月の東海道新幹線開業とともに導入され、沿線約20kmの間隔で地震計を設置、地面の揺れが列車に働く最大加速度(主要動:最大の揺れS波)を指標として警報が必要か不必要かの判断をしていたが、それでは列車運行をコントロールするには、遅きに失する点があり、新幹線のスピードアップともに改良が加えられることになる。
 必要なのは、地震の初期微動(P波)の段階で警報判断が行えることで、それができれば、列車などに主要動(S波)が到達する前に減速か停止させ、被害を最小限にとどめることができるという発想であった。
 “地震動早期地震検知警報システム(ユレダス)”はこのコンセプトに基づく世界最初のシステムとして開発され、この日、それまでの“ひかり”より速い270~300km/時の速度で走行する“のぞみ”の運行開始に応じて、東海道新幹線沿線8か所に検知点を設けて全面的に稼働された。
 その仕組みは、まず気象庁および全国公的機関180か所の地震観測点からの即時地震情報(ナウキャスト情報)と、全国3000か所の観測震度計のP波情報から、地震の規模(マグニチュード)や震度、震源までの距離および震央の位置、震源の深さを推定。鉄道施設への影響度合いを推定し、影響が及ぶ施設やその区間を走行している列車に対し、主要動S波が到達する前に警報を発信、安全を確保するため列車の進行を減速させるか止める。ユレダスでは、この機能を担う部分を“列車制御システム”と呼んだ。
 ところが、1986年(昭和61年)1月の阪神・淡路大震災に際して、ユレダスは的確に警報を発信したが、通信トラブルで対象までに届かず、新幹線が営業開始前だったのでなんとか悲劇は免れた。また当初、遠い所での大地震を対象にしていたので、警報処理に3秒間もかかり、それでは遅すぎると、検知後少なくても1秒後に警報を出せるように1997年(平成9年)に警報発信方法が改良された。
 これは(株)システムアンドデータリサ一チ(SDR)が開発したもので、P波初動を検出すると同時に最大深度を想定、必要警報を出す仕組みで“コンパクトユレダス警報”と名付けられ直下型地震にも対応可能となり、翌1998年(同10年)11月、JR東日本の東北、上越、長野各新幹線で実用化され、2003年(同15年)5月の宮城県沖地震、翌2004年(同16年)10月の新潟県中越地震でいち早く警報を発し事故を免れている。
 その後、このユレダスのコンセプトとシステムをベースに改良が重ねられ、2000年(同12年)から2004年にかけて鉄道総研は気象庁との共同研究で新たなP波検知手法を開発して実用化、2007年(同19年)3月までに新幹線全線区の地震計は、新地震計に置き換えられ“早期地震警報システム(EQAS) ”と名付けられ運用されている。
 またSDRも鉄道総研と同様P波検知手法に改良を加え“早期地震警報システム(FREQLフレックル)”を2005年(同17年)に開発、超小型の地震警報器を作製、同年、東京消防庁消防救助機動部隊(ハイパーレスキュー隊)が可搬型警報器を導入し、のち全国の消防、警察庁、レスキュー隊に配備されている。そのほか東北電力女川原子力発電所、半導体工場、スタジアムなどに設置、鉄道では東京メトロ、小田急電鉄などが導入しており、現在では最短0.1秒間で警報を発信する、世界最速の警報発信システムに改良されている。
 (出典:日本技術士会編「防災情報システムとは?>7.12.5 実時間(リアルタイム)情報システム(1)ユレダス(UrEDAS)とは」、日本地球惑星科学連合2016年大会講演・中村豊編「実用早期地震検知警報システムの開発該史」、芦谷公稔+室野剛隆著「鉄道における早期地震警報システム」、(株)システムアンドデータリサ一チ編「早期地震検知警報システム:UrEDAS(ユレダス)、FREQL(フレックル)」、鉄道総合技術研究所編「主要な研究開発成果(2021年)>Ⅰ 安全性の向上>1. 近地地震のための早期地震警報手法」、(株)システムアンドデータリサーチ編「SDRの歩み」)

道央自動車道史上最大多重衝突事故、ドクターヘリ高速道路上初の着陸、救急救命の新時代へ
 (30年前)[改訂]

 1992年(平成4年)3月17日
 午前8時45分頃、道都・札幌市と空港のある千歳市を結ぶ道央自動車道で、車両186台が巻き込まれるという、わが国道路事故史上最大の玉突き多重衝突事故が発生した。
 衝突事故が発生したのは、恵庭インターチェンジと千歳インターデェン間の車線だが、千歳空港(現・千歳飛行場)と札幌市を結ぶ通量の多い区間である上、事故発生の午前9時前後は1日のうちで最も交通量の多い時間帯であった。その上当時、道路上に小雪がちらつき、先行車が巻き上げる雪煙が舞い、地吹雪も発生していた。気温マイナス3度、風速2m、路面の積雪は2~3cmで気象条件はめまぐるしく変わっていたが、北海道警察の高速パトカーが試験走行し路面良好と判断したという 。しかし視界は悪かったとの事故当事者の証言がある。
 事故の直接の原因は、同自動車道上り線の長都川(おさつがわ)橋上で、観光バスを追い越そうとしたライトバンがバスの後部に接触したがそのまま走り去った。一方追突された観光バスは2~300mほど減速進行し路肩に停止したが、予期しない停車だったためかその後方でトラック、乗用車、ライトバンの3台が追突。さらに後続車が次々とスリップし、長都川橋のほぼ中央でタンクローリー車と大型バスがほぼ横向きになって道路をふさぎ、それに後続車が突っ込んだ。
 186台の車両が折り重なるような状態で巻き込まれた事故だが、火災が発生しなかったためか、108人が負傷したが死亡者2人で済んでいる。
 またこの事故対応で画期的だったのは、札幌医科大学(札幌医大)から医師を乗せた北海道警察の救急ヘリコプターが、道路公団の慎重な態度をよそに、初めて事故現場である高速道路上に着陸し被災者に救急処置をした後、再びヘリで同大学へ搬送したことで、機内でも蘇生処置は続けられた。被災者は不幸にも多発外傷で死亡されたという。
 事故から救急対応までの経過は次の通りである。
 ➀ 8時55分(事故発生10分後)日本道路公団(道路公団)に事故の第1報が入る。
 ② 9時00分(事故発生15分後)北海道警察(道警)に事故の通報が入り覚知する(道路公団から事故通報)。
 道警は覚知後、直ちにヘリコプター「ハマナス」を情報収集に、「ぎんれい1号」を被害者救出に飛ばし、9時40分、現場の状況を把握。
 ③ 9時22分(事故発生37分後)千歳市消防本部へ事故の通報が入る。
    同消防本部は救急車の出動を決め、医師の派遣について千歳市総務部に依頼。総務部はなぜか遅れ同市医師会へ9時58分(消防本部覚知36分後)医師派遣要請。
 ④ 情報収集に当たっていた「ハマナス」搭乗の道警航空隊長は、高速道路南インターチェンジから、重傷患者A(38歳男性)を救出したので救急車で搬送したいとの交信を受信。隊長は直接札幌医大へ搬送した方がよいと判断。道警本部へ連絡。
 ⑤ 9時56分(事故発生71分後)道警本部より札幌医大集中治療部へ重傷患者Aの収容可否の電話あり、受諾するとともに、医師の現場派遣を提案。直ちに救急資材を携帯させた医師を待機させる。
 重傷患者Aは恵庭市消防本部の救急隊員が駆け付けたときは、まだ意識があり声をかけると反応があったので、隊員は酸素吸入をさせ、医師による救急処置が必要とみて
 ⑥ 10時13分(事故発生88分後)恵庭市消防本部へ医師派遣要請。
 この時点で重傷患者Aの反応は弱まってきていたが、救急隊員は救急処置を続け医師の到着を待つ。
 ⑦ 10時20分(事故発生95分後)恵庭第一病院の医師1名が現場に向かう(10時31分現場到着)。
 恵庭消防本部救急隊員が、重症患者Aを救急車で搬送しなかったのは、医師の救急治療をうけた事、道警からの連絡と一般道の混雑を考慮したからと思われる。   
 ⑧ 10時31分(事故発生106分後)千歳市医師会から要請をうけた同市立総合病院の医師1名と看護婦(士)2名が事故現場に到着(同市消防本部覚知69分後)。
 この間、現場派遣の準備をし待機していた札幌医大医療チームは、道警ヘリ「ぎんれい1号」で飛び立つ予定でいたが、同機搭乗の救助隊員が現場から患者を救出するのに手間取り、道警は別のヘリを手配。  
 ⑨ 10時42分(事故発生117分後)道警ヘリ「ぎんれい2号」に乗り札幌医大屋上へリポートを出発。
 ⑩ 10時52分(事故発生127分後)札幌医大医療チーム、現場に到着。最後に残った重傷患者Aに対し気管内挿管を含めた心肺処置を約17分間施行し、
 ⑪ 11時11分(事故発生146分後)ヘリコプターに収容して同機内で心臓マッサージを行う。
 ⑫ 11時23分(事故発生158分後)札幌医大救急部に入室。直ちに開胸心マッサージを含む処置を行うも40分後死亡。
 救急搬送の推移をみると、重傷者は直ちに病院へ搬送し治療を受けなけれならないので、道警の航空隊長は救急車よりも札幌医大へヘリでの搬送を判断。同大救急医療チームが待機していたが、搭乗を予定していた道警ヘリの救助隊員が負傷者救出で遅れ道警が別のヘリを用意、現場に到着したのは事故後127分後である。50分以上も医療チームは待機させられている。
 であれば、救急車で搬送していたらと思うだろうが、現場では108人の負傷者に救急隊が対応、札幌市を中心に救急治療可能な病院へと搬送を行っているので、一般道が高速道の閉鎖で混雑している中、救急車といえども早く行けたかどうか疑問であろう。ドクターヘリでの搬送を現場の救急隊員たちは心待ちにしていたとおもわれる。
 また、大事故現場で重要なのはトリアージ(負傷度合いによる処置の選別)である。この判断を救急救命士は下すことができるが、救急救命士法が制定され施行されたのは事故前年半年前の8月であった。現地に消防署の救急車など70台が終結したというが、現場で活躍した恵庭、千歳両消防本部救急隊を中心に、この半年間に何名の救急救命士が配置されていたのか、現場へ最も早く駆け付けた恵庭、千歳両市の医師、看護婦もわずか4名だった。
 1.2kmの範囲に折り重なっている186台の車両の中に、108名の重軽傷者が倒れている。少数の救急医と救急救命士ではトリアージの手が回らず、ともかく負傷者の治療できる病院へと救急車で搬送されたのだろう。
  当然の事ながら、この大事故後、当時これにかかわった医療関係者から、次の問題点が指摘された。
 ➀ 札幌医大、千歳医師会など医療機関への連絡が大幅に遅れ1時間以上経ってからなされている。
 ② 大事故でありながら災害医療の知識がある救急医による現場でのトリアージがなされていない。
 ③ 患者搬送依頼時に、札幌医大側から現場への出動を提案したぐらい、救急医療への認識の欠如。
  (現場で救急医による可能能な限りの救急救命処置を施すことが必要)
 ④ ヘリコプターによる緊急搬送手段を活用していない。
  (道警航空隊長が要請したが、予定のヘリが負傷者の救出活動に手間取り、到着までに50分以上待たされた)
 ⑤ 関係機関の横断的な連携がなかった。など。
  (道警を中心に恵庭市、千歳市の消防本部及び札幌医大、恵庭市、千歳市の両医師会との横断的連携)
 以上の点から今後の対策として、
 ➀ 医師を含んだ、大事故時の緊急マニュアルの作成と実行。
  ② 現場で応急処置が可能なドクターカーやドクターヘリの必要性の検討。
 ③ 高速道路上の関係機関が合同した定期的な防災訓練の実施。が提案された。
 これらの指摘と対策は、事故災害におけるそれまでの“救急自動車で病院へ搬送”偏重の制度に根本的な疑問を投げつけ、救急医が現場に駆け付け救急救命処置を行い“人の命を救う”ことを優先課題とした、救急救助システムの誕生を示唆していた。
 3年後の1995年(平成7年)1月、阪神・淡路大震災が起こる。その体験から“飛ぶ救命救急室”ドクターヘリコプターの必要性が各方面で痛感され、1999年(同14年)10月より翌2000年(同15年)にかけて、厚生省(現・厚生労働省)が、いち早く実用化を研究していた岡山県倉敷市の川崎医科大学付属病院と神奈川県伊勢原市の東海大学医学部付属病院の協力を得て、ドクターヘリの試行的事業を展開、翌2001年(同13年)4月、先の川崎医科大学で最初の本格運用が始まり、2007年(同19年)6月「救急医療用ヘリコプターを用いた救急医療の確保に関する特別措置法(ドクターヘリ法)」が制定され、ドクターヘリは法的にも推進されることになる。 
 (出典:国際災害研究会編「災害医学>5 人為災害>2 交通災害>C 高速道路事故>c.事例 118頁~121頁:1 」千歳高速道路玉突き多重事故」、浅井康文ほか報告「千歳高速道路・玉突多重衝突事故」[追加]、西川渉著「高速道路着陸問題の経緯と展望」[追加]、衆議院制定法律「平成3年法律第36号 救急救命士法」[追加]、同「平成19年法律第103号 救急医療用ヘリコプターを用いた救急医療の確保に関する特別措置法」[追加]。参照:2011年4月の周年災害「救急救命士法公布」[追加]、2018年10月の周年災害「東京消防庁、わが国初の高度救急処置対応ヘリコプター運用開始」[追加])

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