【目 次】

・那須岳応永17年の噴火、2年前の水蒸気爆発に始まりマグマ噴火へ、180余の人名が犠牲に(610年前)[追補]

・名古屋元禄13年の大火、城下の西半分が灰となる(320年前)[再録]

・江戸宝暦10年2月、赤坂、麻布、芝、神田「明石屋火事」と連日の火災、享保時代以降の大火(260年前)[改訂]

・加賀大聖寺宝暦10年の大火、城下町のほとんどを失う(260年前)[改訂]

・江戸麹町嘉永3年の大火、大名、武家屋敷に被害多く(170年前)[改訂]    

・公衆衛生の基本法、汚物掃除法、下水道法ようやく公布、成立が遅れた背景に経済的な問題(120年前)[改訂]

・カナダ・ロジャーズ・パス(峠)雪崩で、除雪作業中日本人労働者32人が死亡(110前)[改訂]

・明治43年山陰、房総暴風雪、鹿島灘で漁船集団遭難(110前)[再録]

・大日本消防協会、第1回防火デー関西で開催、12月には関東でも-戦後多彩な火災予防運動へ(90年前)[追補]

・鎮海要塞司令部、陸軍記念日イベント映画会火災事故(90年前)[改訂]

・自動交通整理信号機、帝都復興祭を機に東京日比谷交差点に初めて設置(90年前)[改訂]

・公害問題国際シンポジウムで東京宣言発表、基本的人権“環境権”打ち出す。
のち“人間環境宣言”へと高められ、核兵器の完全な破棄を宣言(50年前)[改訂]

・海上保安庁水路部、プレートテクトニクス理論を裏付ける海溝の沈み込み確認(40年前)[再録]

・長崎屋尼崎店火事、4階のインテリア売場から原因不明の出火、15人が犠牲に(30年前)[追補]

・北海道有珠山平成12年の噴火、学者と行政・住民の連携による事前避難準備で犠牲者ゼロ(20年前)[再録]

【本 文】

那須岳応永17年の噴火、2年前の水蒸気爆発に始まりマグマ噴火へ、180余の人名が犠牲に(610年前)[追補]

1410年3月5日(応永17年1月21日)

2年前の1408年2月24日(応永15年1月18日)大爆発を起こし、南西山麓を流れる那珂川を硫黄で濁らし続けていたが、この日、空でおびただしいほどの雷が鳴るような大音響を発して大規模なマグマ噴火を起こし、火砕流を発生させた。この火災堆積物は積雪を溶かしながら大規模な融雪型泥流となり、同岳南側の余笹川流域と、それより西にある那須高原の湯川-大沢-那珂川流域などを流れ、山麓の川沿いの集落をのみ込み、180名の人命と多くの家畜を犠牲にした。

同時代の年代記「神明鏡」は次のように記録している。“応永十五年正月十八日、野州那須山焼崩、同日硫黄空ヨリ降、常州那珂河硫黄五六年也”“同十七年庚寅正月廿一日、又那須山焼崩、麓里打埋人百八十余打殺牛馬其数ヲ知ラス、同日天鳴事如夥雷ノ声ノ如ク”。

二度にわたり大噴火を起こした那須岳は、栃木県北部、福島県との県境の三本槍岳から南に黒尾谷岳まで2000m弱の那須連峰が連ねる主峰で茶臼岳とも呼ばれているが、連峰を代表して那須岳と呼ばれている。古来より火山活動が盛んで、2009年(平成21年)3月には“噴火警戒レベル”が導入され、“近年、噴火活動を繰り返している火山”と評価され、防災対策の対象となっている火山である。栃木県では、この時の噴火と同じ規模を想定した「マグマ噴火危険区域予測図」を作成し「那須岳火山防災マップ」にまとめ、山麓の住民や登山客に注意を促している。

(出典:国立国会図書館デジタルコレクション・近藤瓶城編「史籍集覧 第2冊>通記第四 神明鏡下>100頁~101頁(165コマ)」、地質調査総合センター編「日本の火山>活火山>那須岳>那須火山地質図>解説>4:1408-1410年の噴火活動・近年の噴火活動>1408-1410年の噴火活動」、栃木県編「那須岳火山防災ハンドブック>那須岳の1408-1410年の噴火、マグマ噴火ほか」[追加]、気象庁編「火山防災のために監視・観測体制の充実等がある必要な火山」[追加]。参照:2018年2 月の周年災害「那須岳応永15年の噴火、水蒸気爆発に始まり2年後の惨事へ」)

名古屋元禄13年の大火、城下の西半分が灰となる(320年前)[再録]

1700年3月27日(元禄13年2月7日)

巳の上刻(午前10時ごろ)、名古屋城の西を流れる堀川に架かる中橋の裏、出来町の半左衛門の借家に住む日雇い人長蔵の住まいから出火した。

この日、出火当時は西風が吹いていたが、昼八つ時(午後2時ごろ)から東南の風に変わるなど、1日中風向きが4回も変わったため、消火に困難を極め被災地を広げたという。

その延焼区域は、火元の中橋裏から納屋橋裏まで、横3丁(約330m)長さ27丁(約3km)と城下の西半分を焼き尽くし、翌朝の丑の中刻(午前2時半ごろ)鎮火した。

主な被害は、長久山円頓寺をはじめ白山長円寺、万福寺、金剛寺、至誠院、正覚寺など14寺院、広井八幡宮、白山権現社など3社。寺西図書、長野権右衛門、高木志摩など諸士(侍)屋敷21軒、町家は、町奉行に属するもの町数で53丁726軒、国奉行(領国支配担当)に属するもの町数で131丁923軒と、合計184丁1649軒に達したが、町人が借りている小借家(1、2室程度の小さな借家)に至っては、鍵数にして1万8983軒が灰となった。

(出典:名古屋市消防局編「名古屋の火災記録集成>名古屋の火災-明治前の火災>元禄十三年 9頁~11頁」)

江戸宝暦10年2月、赤坂、麻布、芝、神田「明石屋火事」と連日の火災、享保時代以降の大火(260年前)[改訂]

1760年3月20日~23日(宝暦10年2月4日~7日)

この月は3月20日(旧暦2月4日)から23日(旧7日)にかけて連日、赤坂、麻布、芝、神田と江戸の中心地で火災が続き、八代将軍吉宗時代、火除地(延焼防止及び避難地)の造成や家の屋根の防火対策、土蔵造りなどを奨励した享保の改革以降、4,50年来の大火となった。

まず20日(旧4日)は、明け七つ時(午前4時ごろ)、北風が吹きすさぶ中、赤坂今井谷に住む将軍親衛隊の小十人組正木新蔵宅より出火、麻布辺りから日が窪、雑色、十番綱坂、三田寺町へ、伊皿子聖坂から田町、品川へと海辺まで延焼し、朝四つ半時(午前10時ごろ)鎮火した。

翌21日(旧5日)は夜五つ半ごろ(午後9時ごろ)麻布狸穴の武家屋敷からから出火し近辺を焼失させたが、九つ時(午前0時ごろ)前には鎮火した。しかし翌22日(旧6日)には2か所から炎が吹きだし大火となった。

まず暮れ六つ時(午後6時ごろ)芝神明前の湯屋から出火し、増上寺片町より本芝四丁目の浜通りまで全焼、金杉橋を焼き落とし田町方面に延焼して夜四つ過ぎ(午後10時ごろ)には鎮火した。ところがこの夜の五つ時(午後8時ごろ)、神田旅籠町一丁目の足袋商・明石屋からまたも出火したのである。炎は折からの北西の強風にあおられて火元に近い佐久間町を灰とし、その勢いで浅草辺りから両国橋、馬喰町、本町、日本橋、江戸橋辺りまでと延びに延び、霊巌島から新川辺りまで延焼。さらに炎は新大橋、永代橋を焼いて隅田川を越えて深川へ飛び火し、州崎、木場辺りまで灰にして、翌朝四つ時(午前10時ごろ)焼け止まった。

この最後の火事は出火元の屋号をとって「明石屋火事」と口さがない江戸っ子は呼んだが、放火ではないかとの噂も立った。しかし、一番問題となったのは、問屋街や橋の多くが焼失したため、町奉行のお触れも効なく、生活物資の価格や復興需要で職人の手間賃が高騰し、橋が焼け落ちたため高い船賃の渡船も現れ、気前の良い江戸っ子も音をあげたという。また、前の三つの火事では現在の港区一帯が焼け失せている。

(出典:東京都編「東京市史稿>No.2・変災篇第4・914頁~942頁:宝暦十年火災」、稲垣史生著「江戸編年事典>五 遊惰の世>9代家重将軍就任>宝暦十年 338頁:宝暦十年連続の大火」、池田正一郎著「日本災変通志>近世 江戸時代前期>宝暦十年 505頁」、講談社刊「日本全史>江戸時代>1760 712頁:江戸で連日の大火、職人は荒稼ぎ、便乗値上げも深刻。参照:2017年3月の周年災害〈上巻〉「江戸享保2年の大火「小石川馬場の火事-護持院焼け跡を避難地に」、2010年5月の周年災害「幕府、土蔵造りや瓦屋根を許可」註:この記事では防火効果がなかったようだとしていますが、実際は連続火災が起きても大火にはならなかったと言えます。7月の周年災害・追補版(1)「江戸町奉行、江戸中心地の町家の屋根や家屋の防火構造命じる)

加賀大聖寺(現・加賀市)宝暦10年の大火、城下町のほとんどを失う(260年前)[改訂]

1760年3月23日~24日(宝暦10年2月7日~8日)

加賀100万石の支藩、大聖寺藩7万石の城下町(現・加賀市)で大火が起きた。

夜四つ半時(午後11字ごろ)、城下西の境にある上口御関所(現・大聖寺関町)付近の足軽の家から出火(変異記)、炎は折からの烈しい南風に乗ってたちまちのうちに一向宗本善寺や願成寺の堂宇に燃え移り、そこから勢いを増して炎は拡がり、横新町、観音町、越前通町、荒町、寺町、京町から下口福田町まで焼き、翌日の辰の刻(午前8時ごろ)鎮火した。

被害は町家ではわずかに150軒ほどが焼け残り、侍屋敷では家老の山崎伊織宅と小身の侍の家12、3軒が残った程度であとは寺院も含め灰となった。御算用場(会計を統括する役所)、会所、吟味所など役所3か所が焼失。郊外では上福田村と下福田村の民家5、60軒が焼失している。全体で住家1252軒、土蔵57棟が焼失し、6人死亡。火元については中新道袋町(政隣記)、慈光院下山伏(泰雲公御年譜、現・神明町)など記録によって異なる。いずれも北国街道(一部国道305号)沿いにあり、藩の陣屋(政庁)がある錦城山麓からは南側に、西から関町、神明町、中新道と隣接しているが離れているので異なっている理由はわからない。いずれにしても当時の大聖寺の人口は8000人ほどだが火災記録によると住家は合計1400軒程度となり、城下町のほとんどが失われた。

(出典:国立国会図書館デジタルコレクション「加賀藩資料.第8編>宝暦10年 135頁~139頁(71コマ):二月七日。大聖寺の城下に火災あり。」)

江戸麹町嘉永3年の大火、大名、武家屋敷に被害多く(170年前)[改訂]

1850年3月18日(嘉永3年2月5日)

空は晴れていたが、乾の大風(江戸特有、冬の北西のからっ風)が土砂を飛ばす勢いで吹きまくっていた。

案の定、朝四つ時(午前10時ごろ)前、麹町四丁目岩城升屋呉服店の裏町の炭団(たどん:丸くした炭)屋(一説:麹町五丁目地続き高田放生寺の拝借地に住むとび職政吉留守宅)より出火、火元から東側は四丁目から一丁目までの町家を焼き、なんと火消屋敷(消防担当の旗本屋敷)から明石、三宅、井伊などの大名屋敷を焼き尽くして霞ヶ関まで炎は進み、黒田家屋敷から虎ノ門の内側まで炎が流れた。

一方西側は、火元表町の岩城升屋呉服店を全焼させ、大横町の左側も全焼、平川天神貝坂から永田馬場、永田町、虎ノ門内側角の内藤家屋敷を灰にして同門外に延焼、勘定奉行役屋敷、京極金比羅より西に連なる久保、愛宕山青松寺下の屋敷から増上寺山内にある寺院や芝神明町の町家を焼いて金杉四丁目橋に達し、夜五つ時(午後8時ごろ)浜手(海岸端)に至って鎮火した。

被害は、火元から火先(鎮火場所)まで1里(約4km)余町、町家57町、大名諸侯上屋敷36軒、中及び下屋敷は多数、旗本屋敷250軒余、神社50余、寺院120余。

(出典:東京都編「東京市史稿>No.2・変災篇第5 700頁~714頁:嘉永三年火災>1.二月五日大火」、池田正一郎著「日本災変通志>近世 江戸時代後期>嘉永三年 661頁~662頁」)

公衆衛生の基本法、汚物掃除法、下水道法ようやく公布、成立が遅れた背景に経済的な問題(120前)[改訂]

1900年(明治33年)3月7日

防疫・衛生行政を推進する上で必要な、わが国で初めての近代的な法律案、即ち伝染病予防法案、海港検疫法案、塵芥(じんかい)汚物掃除法案、下水法案が、1896年(明治29年)末から98年(同31年)にかけて、内務大臣(現・厚生労働大臣)から専門家による中央衛生会(現・厚生科学審議会)へ諮詢(諮問)された。

その背景には、59年7月(安政6年6月)の鎖国から開国に踏み切った年に前後して押し寄せた、コレラをはじめとする感染症に対する対策があった。

特にコレラは、58年(安政5年)の史上最大の全国的な流行以来、62年(文久2年)に再び大流行し、明治に入り国内をはじめ海外との流通、運輸、訪問など交流が深まるにつれ頻繁に大流行し、77年(明治10年)から95年(28年)までの間に、2~4年おきに年に1万人以上の患者と5000人以上の死亡者を出してきた。また古来より国民病として恐れられてきた天然痘も、85年(同18年)から87年(同20年)まで3年間にわたり復活し、腸チフスや発疹チフスの86年(同19年)大流行とともに、それぞれ明治時代最大の流行となった。その上、黒死病と恐れられたペストまでが96年(同29年)3月、横浜港に香港から患者を運び込んでいた。幸い国内での感染者は起きなかったものの、内務省など関係当局は緊張を強いられ、今まで以上の対策を必要とした。

実はそれまで明治政府は手をこまねいていたわけではなく、まず74年(同7年)8月「医制」を発布して、近代的な医事衛生制度を発足させると同時に、初の法定伝染病(感染症)の指定と患者発生に際しての医師の届出義務及び予防に関する公的な指示を行った。また感染症対応の個別規則類として、76年(同9年)5月、天然痘予防規則を布達、翌77年(同10年)8月、虎列刺(コレラ)病予防法心得を公布、79年(同12年)6月にはそれを改正した初の感染症予防法規として、虎列刺病予防仮規則を布告した。この仮規則は誤解からコレラ一揆を起こしたが、翌80年(同13年)7月には、感染症全体に対応する伝染病予防規則を公布している。

4年前に政府が諮問した伝染病予防法案は、規則という関係者のマニュアル的なものから、国民の権利及び義務を定める“法律”として内容的な強化を図ったものであった。しかしこれらの施策は、いうなれば感染症に対する対症療法的なものだが、感染症をはじめとする病気を起こさせないためには、根本的な公衆衛生に関する施策が必要で、それにはすでに江戸時代の1648年4月(慶安元年2月)江戸町奉行は道路や下水整備に関する市中法度を布達し、塵芥の処理に関しては、1665年6月(寛文5年5月)ゴミを各家のゴミ溜めから、最終的には回収業者による埋立地へと運ぶ、一連の処理システムを整備していた。

これらは明治に入っても改善されながら実施されていた。特に1877年(明治10年)7月、清国(現・中国)台湾海峡沿岸部の港、厦門(アモイ)でコレラが流行しているとの情報をいち早くキャッチした内務省衛生局(現・厚生労働省)が、幕末以来の大流行の危険を察知、急きょ虎列刺病予防法心得をとりまとめ、翌8月に公布したのは前述のとおりだが、その第19条で“「虎列刺」病流行ノ時或ハ其恐レアルトキハ委員(コレラ専従職員)ハ便所、芥溜(ゴミ捨て場)、下水、溝渠(下水溝)等総テ一般ノ清潔ニ関スル事件ニ注意スヘシ”とし、担当職員の仕事として、便所やゴミ捨て場、下水溝などの汚れや異常に注意するよう指示した。ついで、12月には全国府県と東京警視本署(現・警視庁)に対し、今後の大流行を防ぐため、便所や下水溝、ゴミ捨て場などに対する注意と指示を次のように出した。“便所下水芥溜ノ構造及掃除ノ不行届ヨリ共不潔物自然飲水ニ混シ各種流行病ノ原トナルモ不尠(すくなからず)”と、便所の構造や下水、芥溜の不十分な掃除によって、にじみ出た不潔なものにより飲料水が汚れ、各種感染症発生の原因に少なからずなっていると指摘、改善を促している。

このように感染症の大流行に際し、根本的な防疫対策として公衆衛生に関する個々の指示から近代的な法体系の整備へと事態が進み、それが同時期に諮問された塵芥汚物掃除法案であり下水法案だった。

塵芥汚物掃除法案は汚物掃除法として、下水法案は下水道法としてこの日、揃って成立公布された。しかし同時期に諮問されていた伝染病予防法案が諮問から公布までわずか3か月後の97年(同30年)3月。海外から持ち込まれる動植物や食材、食品及び入港する人などが、病原体や有害物質に汚染されていないかどうか確認する、海港検疫法もわずか4か月後の99年(同32年)2月に布告と、非常に短期間で成立し実施されている。

これら二つの法律には確かに緊急性があるが、それに対し公衆衛生法規の塵芥汚物掃除法案と下水法案が、ともに96年(同29年)12月、伝染病予防法案の直後に諮問されていたのにもかかわらず、公布されたのが3年2か月後のこの日とは非常に遅い。この遅くなった背景に次の問題があった。

汚物掃除法によると“汚物”とは、その施行規則第1条で塵芥(ごみ)、汚泥、汚水、屎尿(糞尿)と規定している。そして、法の第1条で土地の所有者、使用者、占有者が、地域内の汚物を掃除し清潔を保持する義務を定め、第2条で市(監督行政機関)も同じ義務を負うとし、第3条で市は第1条でいう義務者が集めた汚物を処分する義務を負うとし、第4条で処分をしたことによる収入は市のものとした。

そこで屎尿処理が問題となる。それはわが国では古来より屎尿は農業に欠くことの出来ない重要な肥料で、各家で溜めた屎尿を農家の人がくみ取りに来て、代金を払うか少なくとも野菜など生産物を謝礼として置いていった。これは住民にとって貴重な収入源であり、当時の大工の2日分程の収入があったという。それが第3条、第4条の通りに市が集めて処分し、その収入が市のものになるとすると、住民の収入の道が絶たれる。現在、古新聞を各新聞社が契約している回収業者に渡すとロールペーパーがもらえるが、市町村の定めた古紙回収日に出すと、何ももらえないのと同じである。

また塵芥にしても、その中には屑屋に売り残した古紙、古布、くず鉄などいわゆる資源ゴミがあり、それを売り渡していた回収業者も収入が減る。そこで成立法では、今までの長い間の慣習を認める猶予規定を設けた。

下水道法の場合は、法案の名称が当初、下水法とあったのが鍵になる。下水とは個人の住宅の台所や風呂場または工場などから出る汚れた水をさし、法案ではその処理について規定していたようだが、成立した下水道法は、下水道について、第1条で“土地の清潔を保持する為、汚水、雨水疏通(支障なく流す)の目的を以て布設する排水管その他排水線路及びその付属装置を謂う”と規定された。そして先の汚物掃除法にも、汚物の中に汚水があり、汚水処理方法について二つの法律で規定されたが、同法施行規則の付則第18条で、“下水道ヲ布設シタル地ニハ溝渠ニ関スル本則ノ規定ヲ施行セス”と、公共下水道が施設された地域では汚物掃除法は適用しない旨の規定が設けられた。つまり、下水道施設の建設には、多額の資金と期間を必要とするので、それが可能な大都市を下水道法の適用地域にし、それ以外の地域の汚水処理は汚物掃除法で対応することになった。このような調整を必要としたので、二つの法律の成立が遅れたという。

(出典:東京都環境科学研究所 溝入茂著「明治前期の廃棄物規制と“汚物掃除法”の成立〈概要〉」、国立国会図書館デジタルコレクション「法令全書.明治10年>明治10年8月 内務省 達 421頁~430頁(257コマ):乙第79号(別冊)虎列刺病予防法心得」[追加]、同コレクション「同全書,同年>明治10年12月 内務省 達 459頁;乙第117号 便所下水芥溜ノ構造及掃除ノ不行届ヨリ……」[追加]、同コレクション「同全書.明治33年>明治33年3月 法律 57頁~58頁(39コマ):第31号 汚物掃除法」[追加]、同コレクション「同全書.同年>同年、同月 法律 58頁~60頁(40コマ):第32号 下水道法」[追加]、同コレクション「同全書.同年>同年、同月 省令 33頁~36頁:内務省令第5号 汚物掃除法施行規則」[追加]。参照:2018年7月の周年災害「安政5年開国の年、コレラ長崎に上陸ついに江戸へと拡がり史上最大の流行へ」[改訂]、2017年9月の周年災害「明治期初めてのコレラ3系統で流行」[改訂]、2019年3月の周年災害「明治12年、コレラ史上最大級の流行始まる」[改訂]、2015年8月の周年災害〈上巻〉「明治18年コレラ大流行」、2016年5月の周年災害〈上巻〉「明治19年コレラ最大級の流行」、12月の周年災害・追補版(3)「天然痘、この年以降3年間、明治時代最初の大流行」[改訂]、2016年12月の周年災害「この年、腸チフス明治時代最大の流行」、12月の周年災害・追補版(3)「発疹チフス、この年だけ明治期最大の爆発的流行」[追補]、2009年11月の周年災害「明治32年ペスト、国内初の大流行」、2014年8月の周年災害「医制発布され近代的医事衛生制度発足」、2016年5月の周年災害〈上巻〉「内務省、天然痘予防規則布達」[改訂]、2017年8月の周年災害「内務省、虎列刺(コレラ)予防法心得公布」、2009年6月の周年災害「内務省、急きょ初の感染症予防法規、虎列刺(コレラ)病予防規則を布告」、2010年7月の周年災害「伝染病(感染症)予防規則を公布」、2018年4月の周年災害「江戸町奉行、将軍日光社参に際し、道路、下水整備に関するお触れ出す」[改訂]、2015年6月の周年災害〈上巻〉「大芥溜設置で江戸のゴミ処理システム整う」[改訂]、2017年12月「内務省、コレラ防疫のため、便所の改修、下水・ゴミ溜めの清掃について指示」[追加])

カナダ・ロジャース・パス(峠)雪崩で、除雪作業中日本人労働者32人が死亡(110前)[改訂]

1910年(明治43年)3月4日

1910年3月4日の夕暮れ時、カナダ・ブリティッシュ・コロンビア州のロジャース・パス(峠)で雪崩が多発し、カナダ太平洋鉄道の線路が埋もれ、旅客列車が峠付近で立ち往生した。

同峠は、カナダ内陸部グレーシャー国立公園のほぼ中央にあり、カナダ横断道路(国道1号線)がコロンビア山脈群のセルカーク山脈を超える峠であるが、北アメリカでもっとも積雪の多い場所と言われている。その上、氷河が造成したU字渓谷の急斜面が両側にそびえており、雪崩の巣ともいえる危険な場所であった。その谷底を1886年鉄道が敷設されたが、毎年のように雪崩に悩まされたので1909年東側に移設された。しかしその時、雪崩防止柵は造られなかったという。

この雪崩が起きた三日前の1日、ブリティッシュ・コロンビア州と国境を経て南接するアメリカ・ワシントン州のスティーブンス・パスで雪崩が発生し、グレートノーザン鉄道の列車乗客など96人の命を一気にのみ込んでいた(ウェリントン雪崩事故)。この雪崩を発生させていた冬の嵐が三日後の北北東約700kmほど離れたロジャース・パスに到達していたのである。

急の知らせを受けたカナダ太平洋鉄道(CPR)では、除雪作業のため同社と契約していた労働者を各地から急きょ招集、路線長のアンダーソンをはじめ111人を現場へ緊急派遣した。そのうち68人が日本人労働者だったという。現場へ到着した労働者たちは、路線長の指示のもと、暗闇の中、スコップだけの手作業で除雪機関車と手分けして、線路上の9mほどのデブリ(雪塊)や雪崩によって運ばれてきた樹木などを取り除く作業に取りかかった。

その作業が終わりきらない午後11時半ごろ、路線長が報告の電報をCPRレベルストーク本部へ打電しに現場を離れた間、再び前にも増した大雪崩が反対の山から発生し労働者たちを襲った。100トンを超える重量の除雪機関車が吹き飛ばされ、58人が雪崩に巻き込まれて死亡、そのうち32人が日本人労働者と伝えられており、幸いにも約半数の生存者がいたということも、現在までの調査によってわかりつつある。遭難者の救出作業は難航を極めたが、事故発生2週間後、欧米人の遺体は麓の町レベルストークの教会に運ばれ、日本人の遺体は領事館のあるバンクーバーに運ばれ、仏式による葬儀が行われている。

当時、北アメリカ大陸に渡った日本人移民のほとんどは、国内での生活に行き詰まり海外で成功しようとした人たちだったが、現地では賃金の低い肉体労働の仕事に就く方法しかなかったという。死亡した日本人はこの事故の3年前に、バンクーバーの日加(日本とカナダの意味)用達会社と横浜市弁天通の東京移民会社の紹介で、カナダ太平洋鉄道と契約をした人たちだった。

事故現場のロジャース・パスは、2010年2月冬季オリンピックが開かれたバンクーバーから北東に約650kmのところにある。この事故の100回忌は、お盆に当たる同年8月12日、事故の犠牲者を追悼する慰霊式典として、在バンクーバー日本国総領事館員と日本人遺族代表が参列し、慰霊が眠るバンクーバーのマウンテン・ビュー墓地で開かれ、15日には事故現場であるロジャース・パスで灯籠流しが行われ、遠い異国で眠る慰霊を慰めた。

その後カナダ太平洋鉄道では、ロジャース・パスの地下にトンネルを掘削、またカナダでは、この大雪崩を契機に雪崩被害を減らす研究が進み、ロジャース・パス麓の町レベルストークにはカナダ雪崩協会の本部があることを追記しよう。

(出典:1910年ロジャース・パス雪崩犠牲者100回忌実行委員会編「この雪崩事故が変えた歴史」、バンクーバー新報編「1910年ロジャース・パス雪崩事故調査報告会」、2009年札幌雪氷研究大会・和泉薫、藤村知明著「海外で日本人が被災した雪崩災害―カナダにおける日系移民の雪崩被災―」、在バンクーバー日本国総領事館編「ロジャース・パス雪崩犠牲者100周忌慰霊式典」。参照:防災情報新聞2009年1月26日掲載「特別リポート藤村知明著『Avalanche Awareness Weekend』」)

明治43年山陰、房総暴風雪、鹿島灘で漁船集団遭難(110年前)[再録]

1910年(明治43年)3月11日~12日

11日から12日にかけて日本列島に寒冷前線が通り過ぎ、各地で強風による船舶の遭難が相次いだ。

これにより島根県で41人、鳥取県で12人、兵庫県で5人の犠牲者が出たが、特に関東の千葉・茨城両県では大暴風雪が海上及び沿岸部を吹き荒れ大量の漁船が遭難した。

当時、茨城県平磯町(現・ひたちなか市)では、マグロ流し網漁が盛んで町は繁栄を極めていたという。遭難の前日は天気が非常に良く、数日来マグロが大漁だったため、その日の午後も、平磯港からは860余人を乗せた流し網漁船54隻が出漁した。ところが11日夜半より水戸では雪が降り、翌12日10時ごろからは風、雪とも強まり、ついには一寸先も見えない大暴風雪と化し、出漁した鹿島灘は怒涛狂乱し、平磯町沿岸は激浪のため、倒壊・流出する家屋が数軒に及んだほどであった。午前10時、水戸測候所で風速17.9m、銚子測候所では25mを観測している。

この急激な暴風雪により、平磯港などから出漁した漁船の多くが遭難し、茨城県全体で88隻が遭難、556人が死亡及び行方不明となった。また、千葉県の漁船も銚子港への避難もままならず、82隻が遭難、327人が死亡・行方不明となっている。

当時、テレビはもちろんラジオもなく、発達した低気圧が常総方面に押し寄せているとも知らず、また漁船のほとんどが手こぎの小型船だったのも犠牲者の数を多くした。

(出典:平磯町編「平磯町65年史>第三 産業>わが国漁業史上未曾有 平磯町の難破船:261頁~266頁」、ひたちなか市史編さん委員会編「那珂湊市史 近代・現代>第二章 地方自治制の確立 235頁~251頁:第10節 常総沖の漁船大遭難」、小倉一徳編、力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>Ⅱ 記録に見る自然災害の歷史>3.明治・大正時代の災害 141頁:島根・鳥取・兵庫・千葉・茨城各県風害」)

○大日本消防協会、第1回防火デー関西で開催、12月には関東でも-戦後多彩な火災予防運動へ(80年前)[追補]

1930年(昭和5年)3月7日

この日、現在では春季と秋季の全国火災予防運動として定着している火災予防啓発活動が、大日本消防協会(現・日本消防協会)によって防火デーとして関西において開催された。

全国火災予防運動は、国の消防機関である総務省消防庁が実施要項をとりまとめ、全国都道府県知事、指定都市市長に呼びかけて行われる官製の啓発活動となっているが、そのはじまりは純粋な民間団体である消防組(現・消防団)の全国組織、大日本消防協会が全国組頭会議を開いて決定し開始されたものであった。

もっとも、全国的に統一されて行われる火災予防啓発活動のはじまりはアメリカとされている。1911年10月8日、1871年に起きたシカゴ大火40周年に際し、火災予防の必要性を一般国民に認識してもらおうと、北米ファイヤーマーシャル協会(消防士協会?)が提案、翌10月9日にアメリカ合衆国全土にわたって繰り広げられた。

わが国でも全国統一ではないが、火災予防啓発活動は江戸時代から組織的に行われている。まず日常的なものと言えば、頭部に輪がついた金棒を突き鳴らしたり、拍子木を叩き、町内を“火の用心!”と叫びながら回るスタイルで、最近ではそれが「騒音」と言うことでクレーマーがうるさいようだ。これは1649年2月(慶安元年12月)の江戸町奉行所のお触れの中に、防犯、防火目的で置かれた“夜番”についてのお達しがあり、この頃から江戸を中心に火の用心の触れは始まったのではないかと推定される。またイベント的なものといえば、やはり“出初め式”であろう。その始まりは1659年2月(万治2年1月)、時の老中・稲葉伊予守が前年の58年10月(同元年9月)に結成された定火消隊を率いて、上野東照宮前で繰り広げたお披露目パレードである。このイベントは現在まで360年以上も続いているが、2021年(令和3年)の出初め式までに新型コロナが収まっていれば良いが。

ところで話を戻して、全国的に統一した火災予防啓発活動だが、1926年(大正15年)9月に開催された初の全国消防組頭(くみがしら)会議で、第14号議案・全国的に“火防デー”を設置するの件が満場一致で可決されている。やはりそこには、火災による被害が大半を占めた3年前の23年(同12年)9月の関東大震災、火災で城崎温泉をはじめ被災地を焦土と化した前年25年(同14年)5月の北但馬地震の教訓が反映していたのであろう。そこでこの年の11月、火防デーは鹿児島市で実現されたが、全国的な開催にはならなかった。

全国的な運動のきっかけとなったのは、大地震で家屋全壊1万2584戸、同全焼8287戸の被害となった翌27年(昭和2年)3月の北丹後地震であるという。全国の消防組をまとめ、4か月後の7月に設立された大日本消防協会は、防火思想の浸透を主な事業目的としていたので、前年9月の全国消防組頭会議で提案されていた全国的な火災予防啓発活動を北丹後地震3周年にあたる30年(同5年)3月7日に開催することに決め、さしあたり同地震で被災した京都府、大阪府、兵庫県、滋賀県、奈良県の関西2府3県で“防火デー”と名称を改め開催した。

この運動は好評をもって全国的に迎えられるという成果を上げたので、大日本消防協会では、第2回目を関東地方で開催することを決め、東京では主催者に東京府消防協会、警視庁(消防はこの下部組織)、東京府、東京市を加え、同じ年の12月1日、2日の2日間にわたり大々的に挙行。同じ日、神奈川県、千葉県、埼玉県、群馬県および茨城県、栃木県(消防雑学事典は長野県、福島県)の6県でもそれぞれ開催された。

特に東京では、東京府消防協会傘下、江戸時代の町火消の伝統を継ぐ消防組が競って奮起した。宣伝活動は、初めての防火デーということもありおよそ活用できる当時のメディアすべてを投入、いわく新聞、ラジオドラマ、デパートおよび劇場などでの宣伝、飛行機からマッチいたる広告媒体の活用、警視庁消防部お手のものの消防車パレードなどなど。ポスターは劇場から一般家庭に至るまで約120万枚を配布(当時の人口が541万人なので全世帯に配布か)。また屋内、屋外での防火講演会や展覧会に参加した人130万人。また消防署による各家庭に対する火の元検査は、11月11日より非番署員も動員してほとんどの世帯に対して実施、学校での避難訓練・防火訓練の実施校は1330、参加生徒数72万人を数えたという。

防火デーの目標は、火災予防啓発活動を大衆運動として定着させることであるが、その意味では成功への糸口となり、その後は34年(同9年)には東海地方が、翌35年(同10年)には九州地方が参加と、開催県を増やしつつ全国的な活動として拡大していく。

ところがその後進捗する国を挙げての戦時体制は、防火デーを国民精神総動員運動の中に組み込んで行った。1938年(昭和13年)の東京における防火デーは、陸軍東部防衛司令部の第二次防空訓練とあわせて11月25日、26日の両日開催されたが、その時の主な内容は、敵からの空襲に備える防空演習であった。翌39年(同14年)は例年通り12月に実施されたが、防火思想の徹底にテーマを置いたもっぱら精神に訴えるもので、防火デーは防空演習を通じて“戦時体制下における防火報国に資する”ものとされ、宮殿下のお言葉(令旨)奉読式からはじまり、防火、避難訓練を主としたものであった。この流れは一つ東京だけでなく全国的なもので、42年(同17年)には、防火デーのデーは英語であり敵性語であるとされて、防火デーは“防火日”と変更され、翌43年(同18年)まで実施された。

やがて45年(同20年)8月の終戦を迎える。

日本を占領した連合軍最高司令官総司令部(GHQ)により、消防機関も行政監察を受けることになるが、そのまとめとして46年(同21年)7月17日付けで「覚書」が日本側に手渡された。それによると“火災予防(防火)に関する事項は、消火の責任を持つ消防機関が実施すべき”とあった。これに基づいて警視庁消防部に予防課、管下各消防署に予防係が新設され、火災予防に関する諸施策を推進することになり、各道府県においても同様な組織体制の変革がなされた。この変革によりそれまでの“消火消防”から“防火消防”へと消防政策が一大変換を遂げることになる。

火災予防啓発活動が組織と政策上の裏付けを得たことは言うまでもない。戦後第1回の運動は、消防の予防業務をアッピールする場となるとし、警視庁消防部では、アメリカの火災予防運動の期間と同じ10月21日から27日の1週間にわたり、“火災予防週間”と名付け実施した。以降、この年間恒例の啓発活動のイベントは民間の手を離れ、火災予防対策を計画推進する消防行政機関が担うことになる。

翌47年(同22年)各道府県警察部消防課では予防担当官を中心に、東京都での成功にならい、全国一斉に火災予防週間を開催することを企画、5月下旬に実施され、復興に精一杯の人々に励ましと彩りを添えた。翌48年(同23年)3月7日、消防組織法が施行されて自治体消防制度が発足、全国の消防機関に助言を与える組織として設置された総理府国家消防庁(現・総務省消防庁)では、“全国一斉火災予防週間”として、火災シーズンに入る秋の10月10日から16日の間に開催することを提案し実施された。この流れから、同庁が実施要項をとりまとめて全国的に呼びかけ、各自治体消防がこれを受け、それぞれの地域性を出しながら実施するというやり方が定着していく。また翌49年(同24年)には、春の4月18日から14日の1週間を“大火撲滅運動”と称して実施され、恒例となってきた秋の火災予防運動とともに年2回開催の形となっていくが、運動の名称も実施期間もその年によって変更することもあり、最終的に名称が“全国火災予防運動”とされたのが53年(同28年)で、期間は89年(平成元年)より秋季が119番にちなんで11月9日から16日まで、翌90年(同2年)より春季が3月1日から消防記念日の7日を最終日とする1週間と決まり現在に至っている。

その間、51年(同26年)4月、横浜市桜木町駅構内に進入してきた京浜東北線の車両火災で106人が死亡するという事件が起きた。この事件を契機に同年7月21日から30日の間、関東一円と山梨県で“車両火災予防運動”が展開されたが、この運動も全国的に行うべきだとの意見が強まり、55年(同30年)には運輸省(現・国土交通省)が主催して春の火災予防運動の前の2月末日から3月6日までの一週間実施された。63年(同38年)からは、前年62年(同37年)11月の京浜運河タンカー衝突火災事故を受け、車両火災予防運動に船舶関係も組み込み実施、現在では春季火災予防運動の期間に、国土交通省と総務省消防庁が共同で主唱して実施されている。

“建築物防災週間”は、火災や地震、気象災害など自然災害による建築物の被害や人々の犠牲を防止するため、広く国民一般を対象として建築物に関連する防災知識などの普及を目指して始められ、建設省(現・国土交通省)が主催して60年(昭和35年)から実施されているが、春季は消防庁の行う春季火災予防運動と同調して同じ期間に行い、主なテーマは防火、避難対策。秋期は8月30日から9月5日までの防災週間の期間に実施し、主なテーマは地震対策となっている。

また“全国山火事予防運動”は、同運動実施開始以前、複数の道府県で山火事が発生し貴重な森林資源を失っていたことが多く、山火事を防止するためには国民の一致協力した予防体制の確立が必要であることが共通の認識となり、69年(同44年)から春季火災予防運動の一環として林野庁と総務省消防庁が共同主唱し実施されている。実施当初は2月末日から3月6日であった。

(出典:東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の消防百年の歩み>昭和初期 209頁~212頁:防火デーの創設」、同編「同書>現代(1)>火災予防行政の開始 367頁:火災予防行政事務条例の制定」、同編「同書>終戦と自治体消防の発足>戦後初の火災予防運動 339頁~340頁」、東京消防庁編「消防雑学事典>火災予防運動のあゆみ」、総務省消防庁編「消防の動き>平成13年10月号>雑学キーワード・火災予防運動の歩み」、京都市消防局編「昭和23年~32年の火災予防啓発ポスター>昭和23年10月 火災予防運動ポスター」、総務省消防庁長官・消防予第17号「令和2年春季全国火災予防運動の実施について/全国山火事予防運動/車両火災予防運動」、日本建築防災協会編「建築物防災週間」、国土交通省住宅局長・国住指第1309「建築物防災週間(令和元年度秋季)の実施について」。参照:2019年2月の周年災害「江戸町奉行、火災シーズンを前に、町方に一連の“警火の町触”出す」、同「定火消、初の出初式挙行」2013年9月の周年災害「1923(大正12年)関東地震(関東大震災)」、2015年5月の周年災害「大正14年北但馬地震」、2017年3月の周年災害〈下巻〉「昭和2年北丹後地震」、2016年9月の周年災害「警視庁消防部に予防課新設、火災予防行政始まる、戦後初の火災予防運動も展開」、2017年12月の周年災害「消防組織法制定され自治体消防発足」、2011年4月の周年災害「桜木町事件」、2011年7月の周年災害「第1回車両火災予防運動実施」、2012年11月の周年災害「京浜運河タンカー衝突火災」)

鎮海要塞司令部、陸軍記念日イベント映画会で火災事故(90前)[改訂]

1930年(昭和5年)3月10日

日本と帝政ロシアが戦った日露戦争(1904年~05年)における“奉天(現・瀋陽)会戦”の勝利を記念した陸軍記念日は、当時の祝日の一つだった。その重要な祝日で、あろうことか大惨事が起きてしまった。

この日、朝鮮半島(現・韓国慶尚南道)にあった日本陸軍の鎮海要塞司令部(後に釜山)では、官民合同の祝賀式の後、当日のイベントとして演武場を開放し、午後2時半から映画会を開催する予定だった。

しかし、祝賀式に参加した小学生たちがいったん解散後、午後1時から始まった別のイベントを見物したのち、映画も鑑賞しようと、大人たちも含めて早くから演武場に詰めかけていた。それを見た、当日、映写助手を務める任務の石部砲兵軍曹は、主任映写技師がいないのにもかかわらず、子どもたちにせがまれ予定より早く単独で映写を開始したという。

ところが、それから5、6分後の2時10分ごろ、映写中のリールからフィルムが解けたので、あわてて電気のスイッチを切らずにフィルムを元に戻そうとしたが、突然、フィルムに引火した。続いて足下に置いてあった残りのフィルムにも延焼、フィルムのセルロイドから猛烈な有毒ガスが発生した。

たちまち映写室内はセルロイドからの有毒ガスと煙で充満、炎は映写室との境のガラス戸を破って隣室の演武場へ延び、有毒ガスと煙も演武場に流れ出した。小学生を中心とした満員の250余人の観客は、総立ちとなり逃げようとしたが、不幸なことに、木鍛工場を改装した演武場のガラス窓には鉄格子が取り付けられ、中央の出入口はふだん使用していないので、外から施錠されていた。唯一の出入り口は、映写室の隣に当たる板張りの旧工長(工場長)室を抜けたところにあったが、すでに火の手は廻り、そこも有毒ガスと煙が充満していた、閉じこめられた状態となった観客は次々と昏倒した。

石部軍曹はガスを吸って昏倒、急を知って駆けつけた映画会担当の芝崎曹長は、直ちに燃えている室内に入り弁士(無声映画のナレータ)と一緒に数名の生徒を救出したが、少数でかなわず応援を求めた。他のイベント会場から駆けつけた人々が、施錠してあった演武場の出入口をこわした瞬間、バックドラフト現象であたり一面、炎が吹き上げたが、かまわず数十人の人をそこから救出した。しかし、助かった多くの人も有毒ガスのため身体の自由が失われていたという。

一方、現場付近に居合わせた消防組員や司令部員が駆けつけ、消火をしようとしたが、構内の消火栓は司令部が高所にあるため水勢が弱くかつ水管も細いため効果が乏しかったという。また釜山市内より駆けつけた消防組員は司令部官舎内にある消火栓を使用したが、これも水勢が弱く威力を発揮することができなかったので、やむを得ず会場の建物を破壊し、ようやく消火したという。

104人死亡、重傷者は石部軍曹と小学生2人(うち小学生1人は病院収容後死亡)、軽傷者5人。死亡者の内訳、鎮海(日本人)小学校生徒55人、慶和洞(日本人)小学校生徒24人、日本人女学校生徒1人、その他子ども20人(内現地人1人)、日本人大人4人。

当時、セルロイドは象牙の代用品として開発された最初のプラスチック製品で、映画のフィルムをはじめ玩具(おもちゃ)などに多く使われていた。ちなみに、フィルムへの引火で大惨事になった例として、この火災事故の翌1931年(昭和8年)5月、連続して起きた出張映画会での火災があり、玩具に引火した大惨事には、そのまた翌32年(同7年)12月の日本橋白木屋百貨店(デパート)の火災がある。

(出典:国立公文書館・アジア歷史資料センター編「昭和5年3月17日付 内務省警保局長宛 朝鮮総督府警務局長報告書:小学生其他罹災ニ関スル件」、昭和史研究会編「昭和史事典>昭和5年 94頁:3月10日。参照:2011年5月の周年災害「出張映画会での重なる火災」、2012年12月の周年災害「東京日本橋白木屋百貨店(デパート)火災」)

自動交通整理信号機、帝都復興祭を機に東京日比谷交差点に初めて設置(90年前)[改訂]

1930年(昭和5年)3月23日

交差点でおなじみの“自動交通整理信号機”が、この日はじめてお目見えした。

警視庁では1919年(大正8年)9月から、交差点で挙手の合図による交通整理を行っていたが、この日わが国で初めての自動交通整理信号機を設置した。設置のきっかけになったのは、首都東京に未曾有の大災害をもたらした関東大震災からの復興を祝う“帝都復興祭”が、26日より政府が主催して皇居前広場で開催されることとなり、24日には昭和天皇、皇后両陛下が東京市内を巡幸・視察する予定が組まれていた。

警視庁ではかねてから、自動交通整理信号機による交通整理の自動化を計画していたが、この御巡幸を機会に、帝都の復興記念事業の一環として、巡行路に当たる日比谷交差点に最新の信号機を設置することで、ぐっと新しく自動化された交通整理システムを両陛下にお見せしようとしたのである。信号機の設置は巡幸前日の23日に行われ、慎重にテストを重ね万全の態勢で望んだという。

自動化といえば、警視庁消防部がすでに4年前の1926年(大正15年)1月、復興を機にと電話の自動交換システムを導入し、世界初の火災通報専用電話番号112番を採用(後に119番)、ダイヤルを回せば即時緊急通報が消防部に届くようにしていた。

ちなみに当日採用された自動信号機は、アメリカのレイ・ノルズ製の最新式1930年モデルで、信号機を交差点の中央に据えるいわゆる中央柱式で、現在の交差点の四隅に据える側柱式ではない。その制御機能は単独制御用に用いられるほか、多数の交差点で同時にまたは交互に系統整理することが出来たという。また信号灯は上下に3個並び、上段の灯りは東西方向が青色、南北方向が赤色で、中段の灯りは4方向とも黄色、下段は上段とは逆に東西方向が赤色、南北方向が青色となっていた。

点灯の順序はまず上段が点灯し、東西方向に青色点灯でススメ、南北方向は赤色点灯でトマレとなる。次に上段が点灯したままで中段が点灯しチュウイとなる。次に下段が点灯し今度は東西と南北のススメとトマレが逆となり、最後に下段が点灯したままで中段が点灯しチュウイとなった。

日比谷交差点のこの信号機は、当時、国内で初めての非常に珍しいものだったので、上野の寄席で落語家が“日比谷の交差点には雀のお宿ができた。ススメ・チュウチゥウ・トマレと看板がでている”と小話のネタになり大人気となったが、この点灯の変化を理解したのは、教育を受けた市電の運転手だけで、一般の通行人はなかなか理解せず信号に従わないので、交差点の4隅に多数の警察官を連日配置したり、青灯にススメ、赤灯にトマレ、黄灯にチゥイ(チュウイ)と黒文字で書いて、信号灯の意味をわからせようとした。その苦労の結果、数十日で自動信号の意味が公衆に浸透したという。

ちなみにこの自動信号機は、好評につき翌1931年(昭和6年)8月、銀座四丁目、京橋、神保町、御徒町の4か所に設置され、さらに市内の重要交差点36か所に設置された。

(出典:交通信号50年史編集委員会編「交通信号50年史>第1章 概説>1.2 交通信号の創始期>1.2.1交通信号の発足 11頁」、同編「同書>同章>1.3 交通信号の発祥期>1.3.2 自動交通信号機のはじめ 20頁~21頁」、警視庁編「警視庁史 (3) 昭和前編>第6節 交通、保安、防犯および衛生の指導と取締>第1 交通の指導と取締>2 交通整理手信号の統一と自動式信号機等の設置 788頁~789頁:(3) 自動式交通信号機の設置」、警察庁編「警察の歷史-信号機の歷史>わが国最初の自動交通信号機」。参照:2009年9月の周年災害「警視庁、交差点で挙手の合図による交通整理はじめる」、2016年1月の周年災害「警視庁消防部、世界初の電話自動交換システム導入、火災通報専用番号採用」)

公害問題国際シンポジウム東京宣言発表、基本的人権“環境権”打ち出す。
 のち“人間環境宣言”へと高められ
、核兵器の完全な破棄を宣言(50年前)[改訂]

1970年(昭和45年)3月12日

3月、東京において、世界13か国から経済学、社会学など社会科学者が参加した、国際社会科学評議会主催の公害問題国際シンポジウムが開催され、この日“東京宣言”が発表され採択された。

1960年代(昭和35年~44年)に入り、日本をはじめヨーロッパ主要各国は、第二次世界大戦(1939年9月~1945年8月)の戦禍から立ち直り、高度経済成長を遂げていた。しかしそれは、大戦中独りほぼ無傷で残り、戦後、世界経済の盟主となったアメリカも含めた、酸性雨問題をはじめとする、世界的な環境汚染=公害への闘いを、新たに必要とするものであった。

このシンポジウムが開かれた2年前の1968年12月、国際連合はその総会において、迫りくる地球規模の環境破壊の進行に対し、対策を協議する初めての国際会議として、国連人間環境会議を1972年6月にストックホルムで開催することを決定していた。公害問題国際シンポジウムはその一環として開かれ、東京宣言は公害への宣戦布告であった。

東京宣言はいう。“とりわけ重要なのは、人たるもの誰もが、健康や福祉をおかす要因にわざわいされない環境を享受する権利と、将来の世代へ現代が残すべき遺産であるところの自然美を含めた自然資源にあずかる権利とを、基本的人権の一種として持つという原則を法体系の中に確立することを、われわれが要請することである”と、“環境権”を基本的人権の一つとしてはじめて明確に打ち出したものだった。

また“公害は人災であり、犯罪であり、したがって決して「不回避的に」起こるものではない””経済発展のテンポがたとえ遅れても、公害なき環境を実現しなければならない”と主張した。そしてこの主張は、72年6月、ストックホルムで開かれた国連人間環境会議に引き継がれ、「人間環境宣言」として高められた。いわく“人は尊厳と福祉を保つに足る環境で、自由、平等および十分な生活水準を享受する基本的権利を有するとともに、現在および将来の世代のために環境を保護し改善する厳粛な責任を負う(1.環境に関する権利と義務。より)”

また宣言は最後に“人とその環境は、核兵器その他すべての大量破壊の手段の影響から免れなければならない。各国は、適当な国際的機関において、このような兵器の除去と完全な破棄について、すみやかに合意に達するよう努めなければならない(26.核兵器その他の大量破壊兵器)”と締め、核兵器(弾頭)等の完全な破棄を宣言し、当時の核兵器保有国に迫った。

しかしその後20年たらずで、いわゆる開発途上国とされていた中国、インド、メキシコ、ブラジルなどが飛躍的に経済成長を遂げたが、成長を重視し環境への配慮が欠けていたので新たな公害発生国となり、中国とインドは新たな核弾頭保有国ともなっている。基本的人権である“環境権”をまもる闘いは、まだまだこれから長く続く。

(出典:環境庁編「昭和47年版 環境白書>総説>第1章 爆発する環境問題>第3節 高まる国際世論>2 国際世論の高まり」、同庁編「昭和48年版 環境白書>公害の現況および公害の防止に関して講じた施策>第1章 環境行政の推進>第2節 国際協力の推進>1 国連人間環境会議」同編「同書>参考資料2 人間環境宣言」[追加]、自由国民社編「現代用語の基礎知識 1971>七一年版増補 一般用語>日常生活用語>都市・交通 1624頁:国際公害シンポジウム東京宣言」、宇井純+根本順吉+山田國廣編「地球環境の事典96頁:環境権」[改訂]、長崎大学核兵器廃絶研究センター編「2020年6月・世界の核弾頭一覧」[追加])
海上保安庁水路部、プレートテクトニクス理論を裏付ける海溝の沈み込み確認(40年前)[再録]

1980年(昭和55年)3月6日

海上保安庁水路部では、1976年(昭和51年)と翌77年(同52年)に測量船・昭洋を航行させ、鹿島灘沖で海洋測量を行い海底地形及び音波探査断面の解析を進めていた。

その結果この日までに、千葉県銚子沖約200km海底にある高さ3000~4000mに及ぶ第一鹿島海山が、二つに割れた大断層をなし、その西半分が日本海溝の下に沈み込んでいることを発見した。

これは地球の表層部分が10数枚の固い岩盤(プレート)によって構成され、日本周辺でいえば、太平洋の海底を形成している“太平洋プレート”が西方に向かって移動し、日本列島がのっている“ユーラシアプレート”と衝突、相対的に重い太平洋プレートがユーラシアプレートの下に沈み込んでいるとされ、その速度は1年間で10cm程度の速さという。そしてこの沈み込む部分が海溝となり、沈み込みの限界による反発など、相互のプレートが、何らかのきっかけで動くことで海溝型地震が発生するとされている。

今回の同庁水路部による発見は“プレートテクトニクス”と呼ばれるこの理論を裏付けるものであって、プレート沈み込み現象をこれほど明確に検証したのは世界で初めてのことで、地震の発生機構を解明するためにも有力な手がかりを与えると評価され、防災面への知識の普及と啓蒙に貢献するとし、総理大臣表彰を受けるに至った。

(出典:海上保安庁編「海上保安庁五十年史>1 海上保安庁の歩み>5 新しい海の秩序と広域しょう戒体制 35頁:55.3.7 海溝にもぐり込む海山を発見」、昭和史研究会編「昭和史事典>1980年(昭和55年) 802頁:もぐり込み現象」)

長崎屋尼崎店火事、4階のインテリア売場から原因不明の出火、15人が犠牲に(30年前)[追補]

1990年(平成2年)3月18日

午後12時30分ごろ、兵庫県尼崎市にあるスーパーマーケット長崎屋尼崎店4階のインテリア売場から出火した。

同店は、阪神電鉄本線尼崎駅より西へ約600mほど先の商店街神田中通4丁目(中央四番街)の一角に、鉄筋コンクリート5階建てという大店舗を構え、この日は日曜日で子どもたちも含めて130人ほどの客が店内を散策していた。出火当時4階に14、5人いた客の多くは、反対側の靴下売場などにおり、店員は8人いたが、出火場所西隣の寝具売場付近では店員1人が接客をしていたという。

12時30分ごろ、寝具売場にいた店員は、自動火災報知設備のベルが2度鳴ったのを聞く。ほぼ同時に5階事務室にいた店員が、自動火災報知設備の受信盤で4階の火気表示を確認、直ちに店内電話で4階へ通報した。寝具売場にいた店員は、隣接するエスカレータ近くにある店内電話から“4階に火気表示が出ているので確認して”と緊急連絡を受け、すぐ隣のインテリア売場にある見本用カーテンが1mほど燃えており、すでに炎が天井まで上がっているのを発見する。5階事務室から通報した店員も上がってくる煙を確認、119番へ緊急通報した。時に12時37分であった。

最初に火事であることを発見した店員は、消火器で炎を消そうとしたが勢いが強く断念、さらに駆けつけた店員2人が屋内消火設備のホースを現場に伸ばしたが、すでに店内は停電し、濃煙が渦巻いてとても近づける状況ではなく避難せざるを得なかったという。出火場所の4階とすぐ下の3階にいた客は、店員たちの誘導で無事避難完了し、2階、1階の客は火事を知って屋外へ自力避難している。

当時、店員食堂のある5階には店員も含めて22人おり、1人はいち早く火事を悟って階段から避難したが、残りの21人は、4階の防火扉が閉鎖されなかったので、猛煙が容易に5階へのぼり、南北の両階段が煙で充満し避難できなくなった。出火場所すぐ上にあるゲームセンタ-にいた子どもの客2人は、5階の窓から直下の大通りへ飛び降り重傷を負う。事務室にいた4人の店員は消防隊に救助されたが、店員食堂に逃げ込んだ14人(昼食中で気がつかなかったのか?)と、厨房にいた1人は煙に巻かれて犠牲となっている。そのうちの3人は子どもの客なのでゲームセンターから近くの食堂に逃げ込んだのかもしれない。

3年半後の1993年(平成5年)9月、神戸地方裁判所尼崎支部で判決公判が開かれ、次の判決が下りている。

店長に対しては防火面の注意義務があったと指摘。総務マネジャーに対しては、防火管理者として適切な避難誘導訓練を行っておれば、火災時に適切な誘導が可能で、5階にいた人々は無事避難できたと指摘。また、防火戸前に商品やゴミ袋が置かれ、火災時に正常に作動しない状態にあったのは、注意不十分かつ不適切であると指摘し、ともに禁固2年6か月、執行猶予3年の有罪判決が下りた。経営者に対しては防火面より収益を大事にする営業姿勢に問題があると指摘したが、罪には問わなかった。

(出典:消防防災科学センター編「消防防災博物館>消防防災関係者向け>特異火災事例(昭和7年~平成3年)>昭和60年~平成3年>(株))長崎屋尼崎店」。参照:2012年5月の周年災害「大阪千日デパートビル火災」、2013年11月の周年災害「熊本大洋デパート火災」)

北海道有珠山平成12年の噴火、学者と行政・住民の連携による事前避難準備で犠牲者ゼロ(20年前)[再録]

2000年(平成12年)3月29日~31日

29日から前兆活動として火山性有感地震が頻発し、31日午後1時7分、北西山麓に新しい火口が誕生し噴火が始まった。

噴煙は火口真上に500mほどで、小規模で低温な火災サージが発生、少量の細かな軽石が放出されたが、地下より上昇したマグマの本体は地下にたまり、地表の隆起量は最大約80mに達した。

その後、4月18日までに総計60を超えるたくさんの火口が次々と形成され、一部の火口からは噴出物と混じりあった泥流が発生した。

噴火そのものは比較的小規模だったが、国道と町道の上に火口が形成されたり、断層群が生じて道路は寸断された。また高速道路は路面が傾き、橋脚やトンネルの一部が破損した。

家屋、施設等の被害は、噴火口近くの住宅、工場、幼稚園の建物が噴石により穴だらけになった。また泥流は、砂防施設や河床を埋め、橋を押し流し、河川からあふれて住宅団地や公共浴場、町立図書館、小学校に流れ込んだ。

今回の噴火で大きな意味を持っていたのは、気象庁室蘭気象台、北海道大学が周辺自治体や住民と協力して観測と研究を行って来たことで、1977年(昭和52年)8月の噴火直前には北海道大学は有珠火山観測所を設置し、いわゆる有珠火山専門の主治医を育ててきたという長年の蓄積があった。それが故に景勝地洞爺湖、沿岸の洞爺湖温泉などを持つわが国有数の観光地でありながら、噴火5年前の1995年(平成7年)度には、最初のハザードマップ(災害時の被害範囲予測地域図)である「有珠山火山防災マップ」を作成し、防災体制を整え、避難準備を進めてこられたという。

事実、避難指示及び勧告を受けた住民は1万5815人だったが、火山性地震が頻発した29日18時30分、伊達市長和地区、同市有珠地区、虻田町及び壮瞥町洞爺湖温泉地区全域、壮瞥町壮瞥温泉地区、昭和新山地区に、各行政機関から一斉に最初の避難指示が出され、地区ごとに状況を見ながら、31日までには避難を完了し、道路や建物が相当の被害を受けながらも1人の犠牲者を出すことなく噴火の終末を迎えている。

(出典:北原糸子+松浦律子+木村玲欧編「日本歷史災害事典>Ⅳ 歷史災害 708頁:2000有珠山噴火」、内閣府編「防災情報のページ>有珠山噴火について」 、同編「同ページ>2000年(平成12年)有珠山噴火災害」、同編「同ページ>有珠山噴火災害教訓情報資料集」、日本地震学会編「ないふる2000年7月号・特集:有珠山噴火」、失敗学会編「失敗知識データベース-失敗百選>有珠山の噴火」、壮瞥町編「平成12年(2000年)有珠山噴火-火山との共生を目指して-」、伊達市+虻田町+壮瞥町+豊浦町+洞爺村編「有珠山火山防災マップ(表面)」、同編「有珠山火山防災マップ(裏面)」、同編「有珠山地域防災ガイドブック」。参照:2010年7月の周年災害「明治有珠山噴火-住民事前に避難」、2015年9月の周年災害「有珠山噴火し昭和新山誕生」)

▼以下の「日本の災害・防災年表 各編」に進む

地震・津波・火山噴火編

気象災害(中世・江戸時代編)

気象災害(戦前・戦中編)

気象災害(戦後編)

広域汚染編

火災・戦災・爆発事故(中世編)

火災・戦災・爆発事故(江戸時代編)

火災・戦災・爆発事故(戦前・戦中編)

火災・戦災・爆発事故(戦後編)

感染症流行・飲食中毒・防疫・災害時医療編

人為事故・防犯・その他編

災異改元編

▼以下の「周年災害 各年月編」に戻る

防災情報新聞:2018年9月の周年災害より以前WEB防災情報新聞「周年災害」トップに戻る

(2020.8.5.更新)

コメントを残す