【目 次】

・梅毒スピロヘータ(細菌)日本へ侵入と記録される、戦国時代終末期に大流行
・江戸町奉行、瓦葺き土蔵造、塗家造を許可し防火対策進めるが、消火方法が破壊消防のため普及せず[改訂]
・幕府基本法典「公事方御定書」編さんされ3奉行褒章される、交通事故、失火に対して厳罰[改訂]
・江戸城二の丸殿舎火災、町火消はじめて城内での消火活動に従事
・熊本藩「御刑法草書」施行-革新的な内容で諸藩法改革の模範になり、後の明治近代刑法の基になる
・幕府、寛政の改革で町火消の費用削減を指令、火消人足たちの不評を買い改革挫折の一因に
・京都嘉永7年の大火「毛虫火事」御所の庭の木に毛虫いっぱい、それを焼いたのが原因?[改訂]
・明治15年、越冬コレラ横浜から東京、全国へと大流行はじまる
・函館大正2年の大火「布団屋火事」三方に分かれて街を炎の中に沈め、北海道の表玄関灰に[改訂]

【本 文】

○梅毒スピロヘータ(細菌)日本へ侵入と記録される、戦国時代終末期に大流行
 1512年5月8日(永正9年4月13日)
 
梅毒。さまざまな性行為によって接触する性器、泌尿器、肛門、口腔など粘膜部分に感染する性感染症(性病)で、いったんペニシリンによって押さえられていたが、近年2015年(平成27年)あたりから急増、2018年には年間患者数7000人を突破している。病原体は梅毒トレポネーマで、免疫は得られず再発する危険性があるという。
 この病気の歴史上の発生源は南北アメリカ大陸と言われている。1492年~1504年の4回に渡るコロンブスによる新大陸発見の航海で、上陸先でこの風土病に感染した乗組員たちが、母国スペインなどに広めたとされている。その伝播の早さは驚異的で、1493年にスペインで流行、翌1494年にはイタリアに広がり、その翌年1495年のフランス・イタリア戦争でフランス軍将兵に感染者が出るなど、ごく短期間のうちにヨーロッパ中に広がった。
 東洋への伝播は、1498年のヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見の旅によるとされる。まず東南アジアに広がり、明時代の中国大陸へと伝播、1512年(永正9年)に日本へ侵入する。いずこかの港のちまたで感染し日本へ持ち込んだ人々は、大陸との交流を生業にしている博多や堺及び琉球国の商人、豊かな大陸を主に略奪の地と狙い定めている倭寇の面々と推定されている。
 この日、歌人・三条西実隆は歌日記“再昌草”に、歌仲間の道堅法師(岩山)が梅毒を患ったと聞き、一首詠み送っている“唐瘡(梅毒)をわつらふよし申したりしに(患ったとおっしゃったようだが)、戯にもにすむ(済む)や我から(自分から)かさ(瘡)をかくてたに、口のわろき(悪き)よ世をは(ば)うらみし(恨みし)”。本当に法師が患ったのかどうかわからないが、この問答歌が日付のわかる最初の梅毒に関する記録とされている。
 今ひとつ、月日は不明だが同じ年の記録として、医師・竹田秀慶の著した“月海録”に“人民多有瘡(できもの)、似浸淫瘡(性疾患)、是(これ)膿疱(湿疹)、醗花瘡之類(逆さにした花の形の潰瘍)、稀所見也(非常に珍しい)、治之以浸淫瘡之薬、謂之唐瘡琉球瘡”と当時、梅毒に名付けられた中国大陸伝来という意味の“唐瘡”琉球伝来という意味の“琉球瘡”ではないかと、梅毒患者についての所見を述べている。また、甲州太田村(現・山梨県河口湖町)の日蓮宗古刹・妙法寺住職が記した“妙法寺記”の翌1513年(永正10年)の記録に“此年麻疹世間ニ流行シ、大半ニ過タリ(中略)此年天下ニタウモ(タウモガサ:唐瘡)ト云フ大ナル瘡出デ平愈スルコト良ス,其形譬ヘバ,癩人ノ如シ”とあるが、皮膚に出る湿疹から“麻疹(はしか)”“癩(ハンセン病)”との類似を記している。
 この病は、当時、商人や遊び人だけでなく、有名な武将たちも罹っており、黒田孝高(官兵衛)、加藤清正、前田利長、結城秀康、浅野幸長、徳川忠吉が治療したとする記録を残しているという。戦場を駆使した若い頃の名残だろうか、しかしハンセン病だった大谷吉継ほど、病に関わるエピソードは残していない。いずれにしても、商談や戦いの間での一時の慰みが感染を拡げたと言える。
 また、梅毒には人の生き血が効くとの俗説から、築城下の大坂市街で千人を目標とした辻斬りがあったとのエピソードが伝えられている。
 ちなみに、抗生剤ペニシリンが発見される前、梅毒の特効薬として使われた“サルバルサン(ヒ素化合物606号))”を、1910年(明治43年)、師事したエールリッヒ博士と共に発見したのは、日本の細菌学者・秦佐八郎である。
 (出典:加藤茂孝著「人類と感染症との闘い 第6回:梅毒-コロンブスの土産、ペニシリンの恩恵」、花森屋敷から花便りⅢ「オシロイバナ12 梅毒-日本での蔓延1」、厚生労働省編「性感染症報告数・梅毒全数報告」、北里柴三郎記念室編「秦 佐八郎博士の略歴」。参照:2016年4月の周年災害〈上巻〉「大坂で千人斬り事件横行、犯人は梅毒感染者か?」)

○江戸町奉行、瓦葺き土蔵造、塗家造を許可し防火対策進めるが、消火方法が破壊消防のため普及せず[改訂]
 1720年5月26日(享保5年4月20日)
 1657年3月(明暦3年1月)の明暦の大火で、瓦が落ちて多数の死傷者を出したことから、大火翌月の4月(旧2月)江戸町奉行は布令で、瓦葺きの屋根を倉庫以外厳禁にしていた。しかし万治3年(1660年)春の105回に及ぶ連続火災の後に、町家の防火対策として屋根に土を塗ることや牡蛎殻(かきがら)を並べることを奨励した。この方法は隣家からの類焼には熱に弱く防火上の弱点があったが、飛び火対策になり延焼を防ぐことが出来たので、その後広く普及したという。
 1716年6月(正徳6年5月)第八代将軍に紀州家から吉宗が就任、翌1717年3月(享保2年2月)吉宗は大岡忠相を町奉行に抜擢“享保の改革”は本格化した。
 数々の改革の中で江戸の街の防火対策として有名な町火消の強化策などがあるが、家屋の瓦屋根を許可することも同対策の一環として行われている。
 実はこれには伝説がある。それは享保の改革の一環として有名な、施政について一般の意見を聞く手段として“目安箱”の設置があるが、これに、赤坂在住の伊賀蜂郎次という武士が、防火対策として家屋の屋根を瓦葺きにするべきとの投書をし、それが採用されたと伝えられている。しかし目安箱の設置は翌1720年(享保5年)のことなので、そこは忠相のことである、事前に町人をはじめ関係者の意見を聞いたのが、目安箱設置と重なって“大岡裁き伝説”の一つとなったのであろうか。事実意見を聞いた記録が残っている。
 というのは、許可の年の3月25日(享保5年2月17日)と5月16日(同年4月10日)に、瓦葺きと土蔵造などの許可をするに先立ち、江戸の町名主たちに市中の町家の瓦屋根化および土蔵造、塗家造化について諮問している。ところが町名主たちは、屋根を瓦葺きにすると今より重くなるので、柱や棟を太くしなければならないことなどを理由に、主旨には賛成だが実行はむずかしいと答えているのだ。
 実はこれにはわけがあり、当時の消防は家を消火するというよりは、家を壊して消火線をつくり、防火することに主眼を置いていた。そこで江戸ではあまりにも火事が多いので、町人の知恵で家づくりの際、柱や棟を細く作り破壊しやすいようにし、人と家財を優先的に避難させていた。家よりも家財を守ることに重点を置いていたのである。
 町奉行はこの時、以上のことも承知した上で、この日“土蔵造塗家瓦屋根ノ許可ノ布令”を出した。つまり今まで厳禁にしていた瓦屋根だけでなく、家屋の方も耐火性のある土蔵造か同じ漆喰の塗家造について、許可をして町人たちの意向を確かめ、無理のない範囲で家屋の防火対策を実行させようとしたのであろう。
 ところがこの自主的防火対策ではなかなか進まないので、3年後の1723年7月(享保8年6月)、まず第1弾として、神田川より南側、江戸橋川筋より北側の各町に対し、土塗り屋根にすることを命じた。それに対し10月(旧歴・9月)になると町人たちの方から牡蛎殻屋根にしてほしいと要望が出たので、それを許可している。大通りに商店が多いので体裁を考えたのかもしれない。しかし銅葺き屋根は禁止している。銅葺き屋根は古くから主に神社仏閣に使用されており、耐久性と軽さが特徴だが高価という点もあり、身分をわきまえなさいということか。
 次いで第2弾は、翌年の1724年9月(享保9年7月)に出したもので、大商店が軒を並べる日本橋通二丁目から南側の地区に対し、3年間の内にと期限を切って、土蔵造か塗家造に改築するよう命じている。ところがこれまでしても改築が進まないので、第3弾として免税作戦に出る。まず1727年4月(享保12年2月)麹町と桜田久保町あたりに居住する町人たちに瓦葺き土蔵造を命じる代わりに公役銀(現・都民税)5年間の免除を行い、その10年後の1737年6月(元文2年5月)には、町人居住区の町方支配の町々で瓦葺き塗家造りに改造した場合は、5年間の公役銀免除とその範囲を拡大している。麹町と桜田久保町だけが10年も先に免除対象となったのは、周辺が武家屋敷で江戸城に近かったせいかもしれない。
 また町方だけでなく,大名や旗本などの屋敷には、改造資金を貸与してまでも家屋の防火対策を推し進めており、1727年5月(享保12年3月)には、小石川や小日向筋に屋敷を構えている50石から4000石の旗本を対象に、石高に応じて必要資金を貸し与え瓦屋根化を指示している。ついで1740年6月(元文5年5月)になると、幕府老中が32の大名諸侯に牡蛎殻葺き屋根の瓦葺き化を命じ、2年半後の1742年12月(寛保2年11月)には、16家が火災シーズンを前にしてもいまだ改築していないとし督励している。
 最後の手段は原点に戻り、1746年4月(延享3年2月)築地本願寺脇から出火した「坪内火事」復興の際、旗本、御家人には石高に応じて10か年賦で資金を貸与し、町人にも10か年賦で資金の貸与と免税でのぞみ防火建築を建てさせている。その後、1792年10月(寛政4年8月)の布令で、火災後の復興建築の場合、必ず瓦葺きにするよう達したが、それでも大名屋敷も含めて江戸っ子の大半は応ぜず、その後90年あまり経った明治の御代になっても、東京の中心街の約7割が板葺きの屋根だったという。
 なぜ瓦葺化による防火対策が進まなかったのか、それは大名家も含めた江戸の人々の資金の問題ではなく、要は火災に対する消火力の問題にあったと思われる。火事の炎に対して消火力が弱いので、結局は破壊消防に頼るしかなかった。そのためには脆弱な家屋の方が良く、瓦葺きは消防人夫に怪我をさせる危険があった。
 しかし、火災の際、土蔵だけ焼け残ることも目撃しているので、大商店が軒を並べた江戸の中心街では、徐々に瓦葺きで塗家造や土蔵造の家が増えていく。また大名諸侯は藩邸とご近所に出動する“各自火消”を持ち、さらに中小大名といえども、大名火消として動員されることもありで、江戸屋敷を構えた時以来の自衛消防力・各自火消をいっそう強化し、屋敷を防火建築化する方向に進んでいく。これは江戸だけでなく、地方の都市でもその方向にあり、中でも江戸の台所として繁栄を誇った川越は“蔵造の街”として現代に残っている。
 (出典:日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1717年(享保2)645頁:大岡忠相41歳、和戸町奉行に異例の抜擢」[追加]、同編「同書>1720(享保5)650頁:町名主の反対を押して土蔵造り・瓦屋根を奨励、防災建築のすすめ」、山本純美著「江戸の火事と火消>江戸の町づくりと防火対策>茅葺きか瓦葺きか142頁~143頁」、東京都編「東京市史稿>No.4>市街篇第7・153頁~156頁:瓦葺禁制」[追加]、同編「同稿>No.4>市街篇第19・896頁~902頁:土蔵造塗家瓦屋根許可」、同編「同稿>No.4>市街篇第20・814頁~816頁:屋上土塗令」[追加]、同編「同稿>No.4>市街篇第21・39頁:[附記1]銅屋根87頁~92頁:日本橋通二丁目南塗家土蔵造821頁:麹町久保町家屋土蔵造」[追加]、同編「同稿>No.4>市街篇第23・604頁:[附記1]瓦葺塗家」[追加]、同編「同稿>No.4>市街篇第21・831頁:小石川小日向辺瓦葺」[追加]、同編「同稿>No.4>市街篇第24・49頁:瓦葺459頁~461頁:瓦葺屋舎営作督励」955頁~964頁:二月二十九日大火、964頁~970頁:防火建築」[追加] 、同編「同稿>No.3>市街篇第31・349頁~350頁:[附記]建築制」。参照:2020年4月の周年災害「幕府、頻発する火災についに腰を上げ、初の町家防火対策を示達-かき殻葺き屋根が広く普及」、7月の周年災害・追補版(1)「江戸町奉行、江戸中心地の町家の屋根や家屋の防火構造命じる」[追加]、1月の周年災害・追補版(4)「幕府、江戸市内武家屋敷の瓦葺き化に資金を貸与、しかし大名屋敷さえも実施難航」[追加]、2016年4月の周年災害〈上巻〉「江戸延享3年の大火“坪内火事”」[追加]、11月の周年災害・追補版(2)「幕府、在府諸藩の各自火消を制度化、藩邸と周辺の消火に専念」)

幕府基本法典「公事方御定書」編さんされ3奉行褒章される、交通事故、失火に対して厳罰[改訂]
 1742年5月10日(寛保2年4月6日)
 この日、幕府の基本法典ともいうべき「公事方御定書」を編さんした寺社奉行・牧野貞通、江戸町奉行・石河政朝、勘定奉行・水野忠伸の3名が労をねぎらわれ褒章された。
 同御定書の編さん作業は、享保の改革の一環として、八代将軍・吉宗の命により、老中・松平乗邑を編さん主任として、先の3奉行が中心となり1737年6月(元文2年5月)から始められ、この年の3月末に一応の完成を見たもので、その後も継続的に改訂されていった。
 同御定書は上下2巻からなり、上巻には裁判、警察、刑の執行に関する81か条の法令をまとめ、下巻は訴訟手続き、民事規定、刑法規定など103か条を収めており、「御定書百箇条」と呼ばれ内容的には判例集となっている。
 たとえば71条の“人殺并(ならびに)疵付等(傷害など)御仕置(刑罰)之事”の中から事例として、事故により殺傷した場合の刑罰規定を見ると、次のように定められている。
 まず船の事故だが“1.渡船(に)乗(せ)沈(んで)溺死有之候はゞ(溺死させた場合は)其船の水主(乗組員)遠島(島流し)、享保元年極(決定)”。としている。遠島とは厳しいようだが、古今、船長には人命を預かる義務があり、気象状況や水の流れ、波の動きなどを読み、運行の判断を行っていた。そこを誤るか舵取りを誤って、船を沈め乗客を死亡させたとなると、やはり遠島処分となったのであろう。
 次に道路交通事故だが、“1.車を引掛け人を殺(し)候時、殺候方を引候もの(車の引手で人を轢いた側の者)死罪、寛保13年極”“但人々不当方を引候ものは(人を直接引いていない側の引手の者)遠島、車の荷主(は)重き過料(罰金)、車引の家主は過料、享保13年、寛保3年極”。“1.同怪我いたさせ候(させた)もの遠島。享保7年極”その時に“但人々不当方を引候ものは中追放(財産没収、犯罪地、居住地から追放及び近国への立入禁止)、車之荷主重き過料、車引之家主は過料、寛保元年極”。“1.牛馬を牽掛け(牛車や馬車を牽いて)人を殺候もの死罪、寛保元年極”。“1.同怪我致させ候もの中追放、寛保元年極”。と、規定されている。
 以上の規定によると、直接、大八車や荷車、牛車や馬車を引いて事故を起こしたとき、直接、人に当てた自動車的に言えば運転手は死刑というのは、意図的ではない場合でもかなり厳しいので、その後、人通りの多い道路を通る場合は、宰領という前触れの人を走らせたという。この事故を防ぐための方法は、実は犬公方と呼ばれた五代将軍綱吉が、動物を愛護する生類憐みの令と後に呼ばれた一連の施策の中で“牛車大八車宰領必添令”という指示を出し、往来の犬や猫を轢き殺さないよう宰領を走らせた前例があり、後年、人を轢かないよう前触れを走らせるようになったという。
 また“死罪”という厳しい罰則になったのには背景があって、1728年11月(享保13年10月)のお触れ「荷車通行等取締」によると、“牛車、大八車、地車並びに荷車等引通候儀(引いて通ることについて)、往来の障りに罷りならざるように(通行の邪魔にならないようにと)前々も度々相触候ところ、就中(そのうえ)去る寅年(にも)きっと相触候ところ、近き頃またぞろ猥りに相成(無視するようになり)、往来の人を避け申さず我儘に引通候に付”と、ルール無視となっている状況を説明した上で、空(から)車を飛ばして事故死をさせた事例を出して厳罰にしたと説明、今後このようなことにないように注意をしている。このお触れが交通事故死をさせた加害者に対する厳罰の根拠になっている。
 次に喧嘩のあげくの果ての場合だが“1.口論の上、人に疵付片輪(身体障害)にいたし候もの。中追放”“但渡世も難成程の片輪に致候はゞ(日常生活を不自由にさせる障害者にした場合は)、遠島”“1.人に疵付候もの療治代疵之不依多少(治療代の負担は傷の程度による)”“町人百姓は銀一枚。延享元年極追加”(以下略)となっており、これらの刑罰規定については“極”の時点で“御触れ”が出されている。
 被害が大きな失火については、69条で“出火に付而之咎事(ついてのとがめごと)”として、焼失面積、類焼被災の多少、将軍外出の有無、火元などによって、それぞれ手鎖(手錠をつけて生活)や押込め(自宅謹慎)など大小の咎(軽い刑罰)を付けている。なかでも重罪なのは放火犯で、これについては70条“火付御仕置之事”としてすべて死刑だが“火を付け候もの、火罪(火あぶりの刑)、但し燃え立ち申さず候はば引き廻しの上死罪(後に追加)”と、既遂、未遂の場合によりその刑罰に差をつけている。
 また69条の条文の中で“風上二町風脇左右二町づヽ、(合計)六町の月行事(当月の町内行政担当の五人組の一人)、30日押込”“但、風上風脇のもの共不情之様子次第(遅れた事情によっては)相応之咎可申付候(それに相応した罰を申し付ける)”“格別精出し候はゞ誉可申候”とある。これは火災が起きた町の風上や、その左右の町々の町火消の応援が遅れ、火の手が広がった場合の規定で、逆に早く駆けつけ消火に努力すれば“誉可申候”と、ほめるとしている。
 なお、この御定書はなぜか公開されず、業務に関係あり編さんに関わった3奉行のほか、京都所司代、大坂城代のみが閲覧を許されるという秘法扱いだが、個々の事項に関する規定は必要なつど、具体的な“お触れ”となり一般に周知された。しかし後年になると密かに写しがつくられ、諸藩の法令制定の参考になったという。
 (出典:日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1742(寛保2) 685頁:幕府の基本法典完成する。訴訟件数の増加に対応」、国立国会図書館デジタルコレクション「御定書百箇条 54頁~60頁(36コマ):69条,70条」、水喜習平編著「江戸と座敷鷹>江戸期の庶民の制度 1>前説-公事方御定書の成立」、同編著「同 5>公事方御定書 百箇条 61~80」、黒木喬著「江戸の火事>第4章 江戸の防火対策>2 火の元の掟131頁」。参照:2015年11月の周年災害「幕府“江戸町中定”を公布し犯罪などを処分」、2016年5月の周年災害「幕府、初の交通事故処罰令公布、わが国交通政策史上画期的な内容」2010年11月の周年災害「幕府、牛車・大八車に生類見張り(宰領)の令」)

○江戸城二の丸殿舎火災、町火消はじめて城内での消火活動に従事
 1747年5月24日(延享4年4月16日)
 
当時の江戸町奉行、大岡忠相が町人による町人のための火消、町火消を“いろは48組”に再編成して27年、はじめて将軍様がいらっしゃる江戸城内に町火消が呼び入れられ、消火活動に奮闘した。
 「続談海」にその旨が記述されているが、それによると“町火消入候而、跡火を消させ候由”とあり、あらかた消火した跡の始末を町火消が行ったと聞いたという伝聞として記録している。江戸城二の丸火の番たちの面目もあり、実際町火消がどの程度活躍したかわからない。当初、本丸の表、奥の火の番とも応援に駆けつけたであろうが、二の丸は白鳥堀をへだてて本丸まで200m程度の近距離にある。当時、東の風が強く吹きつけていたというから、炎が立ち上がると、広大な本丸御殿に火の粉が飛んで、両火の番とも本丸自体の延焼防止に懸命で、さほど二の丸へは人をさけなかったであろう。城近くの大名火消たちも応援に駆けつけているが、それだけでは戦力不足と上司の目付が判断し、町奉行所に緊急連絡の早馬を飛ばせ、町火消の応援を求めたものと思われる。
 出火は午の中刻(午後1時ごろ)、二の丸大奥が火元とされ、二の丸御殿、能舞台側まで焼けほぼ全焼した。未の中刻(午後3時ごろ)鎮火。当時二の丸には、後に10代将軍となった家治が住んでいたが、たまたま前日、父母のいる本丸を訪ねていて幸運にも命拾いをしている。
 当日、御城に駆けつけたのは、町奉行が与力30人、同心113人を引き連れて町火消ともども参上、同行した町火消は、日本橋通一丁目と大伝馬町の名主、大工棟梁2人、職人360余人が、当日の活躍に対し拝領物を頂いているので、一番組の中の“い組(通一丁目周辺各町)”と“は組(大伝馬町周辺各町)”2組が消火に駆けつけたと思われる。両組の定員は合計1088人なのでその3分の1が駆けつけたことになる。
 (出典:東京都編「東京市史稿>No.2>皇城篇第2・694頁~880頁:二之丸殿舎焼く」、東京消防庁編「消防雑学事典>へらひん組がなかった“いろは四十八組”」。参照:2010年9月の周年災害「江戸町奉行、町火消を“いろは48組”に再編成」、11月の周年災害・追補版(2)「幕府、本丸殿舎全焼を受け、奥方火之番を任命し表火之番と分ける」

11月の周年災害・追補版(3)「幕府、初の組織的な大名火消制度創設」)

熊本藩「御刑法草書」施行-革新的な内容で諸藩法改革の模範になり、後の明治近代刑法の基になる
 1755年5月(宝暦5年4月)
 13年前、幕府では「公事方御定書」を編さん、それまでの裁判、警察、刑の執行に関する法令や訴訟手続き、民事規定、刑法規定を取りまとめ、また「御定書百箇条」と呼ばれた判例集も編さんした(上記)。これらは従来のものを整理し、判決や刑の執行を時の町奉行や老中の個人的な判断に委ねないといった点で画期的ではあったが、特に内容的には革新制はない。熊本藩の「御刑法草書」はその点、革新的でいわゆる封建的刑法を近代刑法に改め、明治刑法の先駆けとなっている。
 熊本藩の“宝暦の改革”は、一般的に幕府の“享保の改革”ほど有名ではなく、改革を指示した藩主細川重賢やそれを補佐し具体的に推進した堀勝名は、徳川吉宗や大岡忠相ほど知られていないし、国民的英雄にもなっていない。
 熊本藩第6代藩主重賢は、兄の宗孝が、人違いにより江戸城殿中で刺殺されるという不慮の死によって、1747年11月(延享4年10月)藩主となったが、襲封当時、藩の財政が極度にひっぱくして大事な参勤交代さえもままならず、その上、藩主の威を借る側近が藩政に介入し、意のままにしていたという。幕府の享保の改革に学んだ重賢の改革はそこからはじまる。
 まず1751年3月(宝暦元年2月)、御穿鑿(せんさく)上役を新設、容疑者の罪をただす役を徒士から中堅家臣の任務とする。翌1752年8月(同2年7月)大奉行職を新設、堀平太左衛門勝名を用人から抜てきし就任させる。同年9月(同年・8月)行政整理開始。翌1753年3月(同3年2月)重賢は家中に潜む権威主義をいさめ排除する。翌1754年(同4年)教育改革を進め藩校・時習館を開校。1754年(同4年)「御刑法草書」編さん、翌1755年5月(同5年4月)施行。翌7月(同年6月)奉行分職制開始、奉行管轄下に御刑法方をおき刑事裁判を所管させ、民事裁判は従来通り領内の郡代、町奉行が担当。1757年2月(同7年1月)医学校・再春館および薬園を開設。
 御刑法草書は、大奉行堀勝名が編集責任者となり、前年の1754年(宝暦4年)から編さんを開始、明律(現中国、明国刑法典)を参考に総則的規定と犯罪類型をわけ、基本的に今日の刑法と同じ形式的特徴を備えているという。特にその刑罰で特徴的なのは、所払いといった“追放刑”を廃止し、軽い罰として“笞刑(むち打ち刑)“をおき、つぎに罪の軽重によって刑期が異なる“徒刑(懲役刑)”に切り替えた点にある。
 堀がこの草書の序文で記しているが、追放刑を廃止した理由として、同刑に処すると追放先が僻地となるので“衣食ノ便ヲ失フコト弥切(ますます切迫する)ナレバ、縦令(かりに)悪ヲ改悛(悪事を反省)セント欲スル者モ、飢寒(飢えと寒さ)ニ堪ヘザル(耐えられない)憂(苦しみが)已ム(止む)コトナク、盗心遂に復生(元に戻り)、所在ノ地ノ害トナル”と欠陥を明らかにし、“何ヲ以テ悪ヲ懲(こら)シ”と、その矛盾を突いている。また追放刑を受けた人が苦しさのあまり、再犯を重ねれば最後には“再犯ヲ死刑ニ処スルトキハ、即チ是ヲ穽(落とし穴)ニ陥レテ殺スニ似タリ”と述べ、追放刑は犯罪から更生を期待する刑罰ではなく、逆に罪を犯した人に犯罪を重ねさせるという罠に落として殺すことではないか、と痛烈に批判、新刑法制定に当たっての中心的課題として取り組み、最終的には追放刑を廃止している。幕府では、当時の識者からその矛盾を指摘されながらも、最後まで手放せず、一番多用した刑罰となっていたという。
 堀が追放刑に替えて採用したのが“徒刑”すなわち現代の懲役刑に当たる刑罰で、定め小屋と呼ばれた刑務所に収監中、辰の刻(午前8時ごろ)から未の下刻(午後3時ごろ)まで、晴れた日は作事方役人の指揮下で主に土木工事に従事し、そのほか雨の日などは、小屋内の作業場でわら細工など手仕事をした。未の下刻以降、就寝までは自由時間になるが、その間、自分の仕事として作業場で習得した、わら細工など細工物の手仕事をすることを許されていた。
 この中で先見性のある制度は、まず1日の労働に対する報酬があり、時代によって金額や本人に手渡す割合が異なるが、1日2人扶持(約600円)から30文(750円)程度の賃銀を支給し、その内の何割かを藩が天引きし本人名義で積み立て、手渡された分は自由に使用できた。また自由時間での細工物も一般に販売することを許され、この売上金も本人に手渡すか藩が積み立てている。
 さらにこれら積立金は釈放の際本人に渡され、就業資金として使うことになるが、その際、落ち着き先が決まると親類やそこの町や村役人に、生業へ間違いなくつけるよう行き届いた世話をするよう藩から指示をし、本人には「教示書」という生活心得書を渡しており、そして毎年春になると、担当役人が本人を居住している所在地の役所(手水会所)に呼び出し、ここ1年間の暮らしぶりを聞くという保護観察も行っている。このように熊本藩では徒刑制度を、懲罰的な苦役として収監する刑罰ではなく、更生のための教育期間としてとらえており、ここに日本における近代的懲役制度が誕生したといえよう。
 この熊本藩の徒刑制度は、幕府をはじめ諸藩の注目するところとなり、幕府では老中・松平定信による寛政の改革(1787年:天明7年~1793年:寛政5年)において、1790年(寛政2年)に、定住先のない無宿人や刑期を終えた人たちに仕事を覚えさせる“石川島人足寄場”開設にあたり影響を与えたという。また諸藩では、隣接する佐賀藩、福岡藩から遠くは米沢藩、会津藩など多数の藩がこの徒刑制度を参考にして改革。維新後の明治政府も、全国最初の統一した刑法法典「仮刑律」を、1868年(明治元年)に編さんすることになったとき、熊本藩刑法方関係者を呼び、この「御刑法草書」がモデルとして編さんされたという。
 これは余談だが、このような“徒刑”や現代の“懲役刑”を法学界では“自由刑”と名付けているが、これは刑の内容が収監者を自由にさせているという意味ではなく、犯罪者を一般社会から切り離して刑務所に収監し労働させる、つまり自由な生活を奪うという意味で名付けているので、誤解がないようにしたい。

 (出典:日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1754年(宝暦4)702頁:画期的な新刑法熊本藩に誕生、懲役刑で更生はかる」、鎌田浩著「熊本藩の法と政治、近代的統治への胎動>第1部/第4章 統治機構の合理化と官僚制の整備>2 宝暦改革およびその後の機構整備と官僚制の整備 259 頁~262頁」、同著「同書>第2部/第1章 宝暦の改革と刑政 297頁~301頁」、高塩博講演録「江戸時代の徒刑制度 21 頁~28頁:熊本藩の“眉なし”と“徒刑”」、国立国会図書館デジタルコレクション「司法資料.別冊 第17号 日本近代法令集 上>仮刑律 229頁~301頁(135コマ)」。参照:上記「幕府基本法典「公事方御定書」編さんされ3奉行褒章される」)

○老中・松平定信、寛政の改革で町火消の費用削減を指示、火消人足たちの不評を買い改革挫折の一因に
  1791年5月11日(寛政3年4月15日)
 “寛政の改革”とは、上記「御刑法草書」の記事中でも触れたが、時の老中・松平定信が実施した改革で、主に農政に重きをおいた農村復興政策と、緊縮財政にあるという。
 前政権の田沼意次・意知による、豪商を中心とした商業や貿易活動を重点とした経済政策が、その基盤とした商品が“米”であったという時代的制約から、1783年8月(天明3年7月)の浅間山の大噴火と前後して起きた度重なる気象災害により、凶作が続き→米価高騰→飢饉というマイナス連鎖を起こして崩壊、田沼時代は終わっている。その点から寛政の改革は、改革と名付けられているが実は復古的な政策ではないかとの評価がある一面、防災政策においては幕府の消防体制に数々の“改革”の手を加えている。これはその第1弾であったが。
 この日町奉行は、江戸中すべての町火消組頭取、その年の担当町名主全員、及びその町名主が居住している町の家持ち町人と家主代表各1人、並びに江戸の南端および北端の町名主5人を奉行所に集め、地代や家賃など諸費用の上がる中「町法被仰渡書」と呼ばれる町火消費用の節約を命じた。
 まず対象になったのは、だんだん派手になった纏(まとい)費用の削減で“1.町々(火消組)之纏、以来は組合限(ごと)一本に致(し)、大(き)さ二尺(約60cm)(柄は)白漆塗に一同仕替(すべての組で取り替える)、小纏(は)相止可申事(組同士で止めようと申し合わせること)”。
 ついで“1.町火消人足共(は)、朱印境に(て)詰罷在(待機し)、役人(の)差図之無(指図無しに)出越申間敷旨(越えてはならない旨)、(中略)以来、差図無之出越候もの有之におゐてハ(指図無しに越えた者がいた場合は)、賃銭渡間敷候(賃銭を渡してはならない)。(中略)都て(すべて)、朱印境を出越候故致(越えていくので)混雑(各組の人足が入り乱れ混雑し)、(消口を争って)口論等ニ及(果ては口論となり)、(かえって)消防の妨(げ)ニも成候。とある。
 朱印境というのは、境を示す朱色線が地面に引かれていたわけでなく、あらかじめ町奉行所が決めたか、火災現場へ出動した町奉行所の与力が指示する、組毎の活動範囲のことであろう。また、賃銭を渡さないようにとあるが、火消人足の動員費は町内の費用なので、境を越えて他の組の持ち場に行って消火活動しても、その分の費用は出さないように、ということか。町火消組の費用は纏、鳶口、龍吐水(手押し消火ポンプ)、火事衣装など固定費が多いので、目的は動員費の削減と思われ、組同士の消口争いから来る喧嘩を起こさせない効果も狙ったのだろう。
 次は火の見櫓も節約の対象になっている“町々火之見之儀、以来可成丈(なるべく)数(を)省略致(し)、入用不掛様可致事(必要にならないようにすること)”。火の見櫓は、火事をなるべく早く発見するようにと建てられたものだが、この数を減らし、必要にならないようにすること。というのは、まず普段から火の用心に気を使い、火事を起こさないようにしなさいとのことだろう。確かに火災による損害と復興費用は莫大なものになるので、主な節約対象となるのはもっともだが、いつの時代でも顔を出す為政者から庶民に対する常套的な“自主努力”の呼びかけではある。
 そのほか、自身番小屋が手広くなっていることを指摘、新築の場合は手狭にして、新築や修復費用も抑えるよう指示している。また、風が激しく吹くとき以外は、火災シーズンの冬や春であっても、小屋に詰めるに及ばないこと。町奉行の役人以外は番小屋へ入れないこと。詰めるときはそれぞれに弁当を持参し、酒は絶対、番小屋で飲まないこと。節約に関係ないことまであげて、質素に緊張感をもって勤めるよう指示している。
 さらに、町抱え之もの(火消人足の鳶職)の火事装束は、燃えにくい難燃性のある革羽織は贅沢であるとして禁止、木綿の法被にするようにと指示。鎮火後の火消人足への捨銭(謝礼)は減らすこと。火消し人足の仲間同士での寄合(飲み会)に町内費が支払われているので禁止。龍吐水は公儀(幕府)からの支給品なので大切にすること。などが指示された。
 これらの節約指示の中で、火消人足たちに対する動員費の削減が、命を現場で張っている町火消たちのやる気をなくし、謝礼の減額、寄合酒の禁止などもあり、火消人足だけでなく、江戸っ子に対する過剰な節約指示と風俗の取締などが反感を買い、定信が白河藩の藩主であることをかけた狂歌“白河の清き流れに住みかねて もとの田沼の濁りぞ恋しき”との皮肉を投げかけられ、わずか6年間で、寛政の改革は挫折した。
 (出典:山本純美著「江戸の火事と火消>江戸の華・町火消 80頁~84頁:火消の浪費と寛政改革」、東京都編「東京市史稿>No.3>市街篇第31・1頁~8頁:町法改正」。参照:2013年8月の周年災害「天明浅間山噴火」、2013年10の周年災害「天明の飢饉-田沼意次政権の崩壊」、2010年9月の周年災害「幕府、町火消を“いろは48組”に再編成」、2013年9月の周年災害「幕府、火の見やぐら設置基準定め建設を推進させる」)

京都嘉永7年の大火「毛虫火事」御所の庭の木に毛虫いっぱい、それを焼いたのが原因?[改訂]
 1854年5月2日~3日(嘉永7年4月6日~7日)
 
午の中刻(正午ごろ)、御所築地内の南東に位置する仙洞御所北殿から出火した。
 折から東の風が激しく吹いており、内侍所(賢所:神鏡を奉安している建物)、紫宸殿(儀式を行う建物)などへたちまち炎が移り、准后(皇族の待遇を受けている臣下)の住まいも炎上した。主上(天皇)、准后、天皇妹和宮、皇子祐宮、新待賢門院は下加茂へ避難された。
 御所から出た炎は一条殿と今出川殿の屋敷を焼いて町家へ移った。町家の焼失は下(南)は出水通り堀川まで、堀川通りは椹(さわら)木町まで、大宮通りは下立売まで。西は沼日暮まで、出水通りは浄福寺通りまで、一条通り上長者町通りは千本通りまで焦土と化した。上(北)は知恩院笹屋町裏通りまで、元誓願時通り南側堀川まで、今出川通りは新町まで焼失し、それより東は武者小路通り烏丸までなど御所近辺は残らず灰となった。
 翌日卯の刻(5時ごろ)鎮火したが、被害は京都市史によれば、町数229か町、家数にして8958軒、かまど数にして1万2000余、ほかに土蔵624棟が焼失している。
 ところでこの火災に“毛虫火事”と奇妙な呼び名がついている由縁について、古書はつぎのように記録している。
 “云(言われている)”と、噂だと断った上で“仙洞御所明御殿御守番仕丁ども(管理担当雑役夫)”“御庭の松の木に毛虫夥しく附候故松明の火にて焼候”と、松の木に毛虫がたくさんついていたので松明(たいまつ)の火で焼いた。というのが火災の原因だという話である。御殿の管理といっても仕丁だから庭掃除係だろう。風が激しく吹いているとき、たいまつを使うのは危険だということは承知だったと思うが、別の記録に毛虫を女官が焼いたという一説がある。そこで推測だが、毛虫がいっぱいついているので、女官たちが騒ぎ出し、催促されて仕丁がしかたなく火で焼こうとしたのではないか。過失による失火になるが、親切な仕丁は鎮火後どう処分されたのか。罪な毛虫たちだ。
 (出典:吉野真保編「嘉永明治年間録 上巻>安政紀元申寅149頁~151頁:六日 禁裡(御所)炎上」、京都市消防局企画室編「京都消防と災害>第二編 災害記録>第二章 自治体消防発足以前:615頁~616頁:九 嘉永の大火」)

明治15年、越冬コレラ横浜から東京、全国へと侵入、大流行はじまる
 1882年(明治15年)4月~10 月
 
1822年2月(文久5年1月)、長崎出島のオランダ商館長が幕府へ表敬訪問し江戸滞在中、蘭学者大槻玄沢が幕府奥医師(将軍の主治医)と共に、商館長に同行した専属医師から、オランダ領東インド(現・インドネシア)ジャワ島で、コレラ・モルブスという疫病(感染症)が大流行しているとの情報を得たが、日本への初上陸は、そのわずか8か月後の10月上旬(旧歴・8月中旬)である。発症後3日で死亡するとして“三日コロリ”と名付けられたコレラ菌の侵入ルートは、当時の沿岸航路沿いに、ジャワ島→清(現・中国)広東→同・南京→同・北京→朝鮮半島→対馬→長門赤間関(現・下関市)であった。死亡者は10数万人と伝えられている
 36年後の開国の年1858年7月(安政5年5月)、コレラに感染した乗組員を乗せた、アメリカ軍艦ミシシッピの長崎寄港を起点に大流行。全国の死亡者が数10万人にのぼった史上最大の流行であった。次は19年後の1877年(明治10年)、開国日本らしくまず9月5日、新たな対外窓口横浜のアメリカ製茶会社の日本人雇い人が発症。ついで9月8日、長崎に寄港したイギリス軍艦が、コレラに罹り死亡した乗組員を大浦墓地に埋葬したことから流行。最後は10月1日、この年に起きた西南戦争に従軍し、発症した政府軍兵士を乗せた輸送船が神戸港に入港、兵士たちが内務省検疫官の制止を銃剣で威嚇して上陸、神戸市内で大流行となった。全国の死亡者8027人と比較的少ないが、その後の発生状況を見ると、この年からコレラ菌が日本に定着したかのような状況となっている。
 その後1年をおいた1879年(同12年)3月、第四次であり死亡者10万5786人のコレラ史上最大級の大流行が起きたが、最初の発生は愛媛県魚町(現・松山市)で、それまでのように外部からの侵入とは考えられず、コレラ菌が日本に定着し越冬したのではないかと考えられるようになった。翌1880年(同13年)前年と同じく愛媛県から発生し全国に広まった。流行の中心は愛媛県と九州地方で死亡者618人。翌1881年(同14年)は、九州および近畿など関西を中心に流行したが、流行の範囲が東へと広がりつつあり死亡者6197人。
 そしてこの年、1882年(同15年)は、1879年(同12年)以来続く3年目を迎えた大流行の年となる。
 問題のコロナ菌は、越冬し新年早々各地で13人の患者を発生させた。しかしなぜか2月、3月には姿を消し、これで流行は終わったと思われたという。
 ところが4月26日、横浜に経路不明のコレラ菌が突然侵入し患者が発生、引き続き神奈川県内に広まり、徐々に全国各地へと広まっていく。患者数が5月191人、6月1388人、7月9041人と増え続け、8月になると2万5637人とピークに達し、9月1万2412人と減り始め、翌10月2610人と終息期を迎え、11月312人、12月21人となり、年間の発症患者数は5万1631人、死亡者3万3784人、死亡率65%で終えた。
 地域的な流行状況は、一番多かったのは、東京府6528人、ついで宮城県約4000人、そのほか1000人以上の患者が生まれたのは大阪府ほか14県で、関東地方が流行の中心となっている。ここから北へ東北、西は中部地方の一部へと及んだと考えられるが、大阪府の多いのは江戸時代以降、天下の台所として栄え、明治時代に入り首都東京や対外窓口の横浜との航路を通じての交流が盛んになり、人の往来が激しくなったことが反映しているのかも知れない。
 この年の流行の特徴は、はっきりとコレラ菌の越冬だという。特に千葉県、静岡県、東京府、和歌山県、高知県、熊本県に見られたが、しかしどの府県でも越冬したコレラ菌が、引き続いて翌年流行を引き越してはいない。また流行の流れは、東京府の5月29日の第1号患者、翌30日の第2号患者について、最初に発生した横浜との関係が確かめられている。特に東京では6月3日より10日の間に、石川島監獄(現・刑務所)で58人の集団感染が起きた。ついで6月中旬ごろから前述の数字の通り流行は拡大、石川島監獄では新たに41人の集団感染が起き、都合100人を超える勢いを見せた。この当時、同じ地域で激しい流行が起こると流行地と認定されるが、東京府は最初の患者発生の5月29日から7月7日の間に患者数593人、死亡者数365人に達し、流行の兆しが衰えを見せなかったので、最初の流行地と認定された。大阪府の場合は、7月2日に最初の患者が発生、その後流行が拡大、8月8日までに564人に達しそのうち410人が死亡した、死亡率73%の高率であった。8月11日に流行地と認定される。
 (出典:山本俊一著「日本コレラ史>Ⅰ.発生および対策編>第3章 西南戦役前後>第3節 明治12年>(e)余波、第4節 明治15年」、内務省衛生局編「法定伝染病統計>第3表 コレラ月別累年比較」。参照:2012年10月の周年災害「コレラ初めて日本へ侵入」、2018年7月の周年災害「安政5年開国の年、コレラ長崎に上陸ついに江戸へと拡がり史上最大の流行へ」[改訂]、2017年9月の周年災害「明治期初めてのコレラ3系統で大流行(明治12年)」[改訂])

函館大正2年の大火「布団屋火事」三方に分かれて街を炎の中に沈め、北海道の表玄関灰に[改訂]
 1913年(大正2年)5月4日
 午後2時ごろ、不幸にも上水道停止中に、若松町3番地と4番地の間から出火、折から吹きつける12~13m/秒の西南の強風にあおられ、道路一面炎の渦が巻き、火元向かい側の若松座に燃え移り、付近の旅館や運送店などをひとなめにして函館停車場(駅)方面へ延び、停車場を焼いたのち線路沿いに海岸町へと進んだ。
 もう一つの炎は、沖合より吹き寄せる風にあおられて四十間道路を走り、音羽町、松風町方面を焼き尽くし、遊郭大門通りを走りぬけ、松風の湯の角より新川町を猛進、付近一帯を焦土と化した。
 音羽町に入った炎は、丸善菅谷の土蔵に襲いかかり、母屋の庭の塀を残して醤油倉を舐めつくし、あたり一面醤油の池と化して歩くことも出来ないありさま。炎は醤油倉を全滅させ高砂町の函館測候所を焼き、深瀬病院も炎の下に沈め新川町に向かったが、三本の紅蓮の炎はここに集まり、午後5時ごろようやく鎮火した。
 一方、四方にちりばめた飛び火によって、火元から300mも離れた鶴岡尋常小学校を10分ほどで全焼させ、1時間ほど経った後に若松学校も全焼させている
 焼失した主な建物は、停車場および関連の運輸事務所、保線事務所、鉄道官舎などで小学校が2校焼けている。そのほか駅近くということもあり旅館が多数焼失し、函館の表玄関が灰となってしまった。572棟、1532戸焼失。
 (出典:冨原章著「函館の火災誌>大正期の火災 143頁~146頁:大正2年(1913)」)

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(2020.11.5.更新)

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