【目 次】

・光明皇后が施薬院を置く、怪我や病気で苦しむ貧しい人々のために(1290年前)[再録]
・寛仁4年天然痘大流行、幼児に流行か。後一条天皇、大赦と免税でこたえる(1000年前)[改訂]
・元永から保安へ改元。悲運・鳥羽天皇、異常気象続き在位4回目の災異改元で御謹慎(900年前)[改訂]
・幕府“増火消”を6大名家に初めて命じる、風激しく大火のおそれあるとき増援(370年前)[再録]
・江戸で80余日間に105回火災-幕府ようやく防火対策に本腰(360年前)[再録]
・鳥取享保の大火「石黒火事」鳥取藩史上稀代の大火(300年前)[改訂]
・江戸町奉行、土蔵造りや瓦屋根を許可し防火建築を奨励、明暦の大火後の禁制を廃止(300年前)[再録]
・久保田(秋田)享保15年の大火、城下の大半約2000軒焼失(290年前)[改訂]
・久保田(秋田)明和7年の2か月間に3回におよぶ大火、3年前の大火とあわせ城下全域が被災か(250年前)[改訂]
・弘前明治13年の大火、まれな大火災発生、1000余戸を焼く140年前)[再録]
・三条の大火「糸屋万平火事」町の98%を失い壊滅(140年前)[改訂]
・青森明治の大火、わずか4時間余で市街地の7割を失う(110年前)[改訂]
・森田正作、我が国初のガソリンエンジン付ポンプの創作に成功、わが国消防の歴史を拓く(110年前)[追補]
・昭和5年樺太(からふと)でニシン漁船集団遭難、背景には年々減少する漁獲高(90年前)[再録]
・麻薬取締規則公布、麻薬の製造、輸出入、販売などを管理(90年前)[改訂]
・建築基準法、文化財保護法公布、人命、財産、文化的遺産を守る(70年前)[再録]
・国民安全の日を閣議決定、国民に安全への反省と自主努力を促す運動の日として創設(60年前)[改訂]
・1960年チリ地震津波、1万7000km先で起きた巨大地震の大波が押し寄せた(60年前)[改訂]
・東京牛込柳町で自動車排ガスによる鉛害問題表面化-5年後ようやくガソリン無鉛化へ(50年前)[再録]
・建設省(現・国土交通省)総合治水対策を次官通達、環境保全の高まりを受け新対策(40年前)[追補]
・海上保安庁、海の「もしも」は118番運用開始(20年前)[再録]

○光明皇后が施薬院を置く、怪我や病気で苦しむ貧しい人々のために(1290年前)[再録]
 730年5月12日(天平2年4月17日)
 
“施薬院”とは、古代、仏教の慈悲の思想に基づき、薬草を栽培し怪我や病気で苦しむ人を救う目的で建てられた国や寺の施設で、聖徳太子が四天王寺を建立した際、附属施設として建てたとの伝承がある。
 しかし文献上最も確かなのは、光明皇后の発意によって建てられた施薬院であろう。「続日本紀」巻第十の天平二年四月十七日(辛未)に“始置皇后宮職施薬院。令諸国以職封并大臣家封戸庸物価買取草薬。毎年進之。”とある。
 読み解くと、まず皇后宮職(現在の宮内庁)内に施薬院が置かれ、光明皇后直接の管理下にあったことがわかる。聖徳太子伝承の施薬院は別として、伝承上確かなのに723年(養老7年)皇后の生家である藤原氏の氏寺・興福寺に建てられたのがある。皇后はこれを参考にして開設したと考えられる。
 施薬院の業務は先に記した通りだが、その運営費用は“職封并(ならびに)大臣家封戸庸物価”とあるとおり、職封(皇宮職の封戸)と大臣家封戸(生家の藤原大臣家の封戸)からの収入の庸物(封戸の民衆の労役税)で、それを買取草薬(薬草の買取)の価(代金にする)としている。毎年進之(献上)と命じているのは、施薬院での労役のほか薬草をそれら封戸にも現物庸として栽培させていたのだろう。今もそれらの薬草は東大寺正倉院に保存されている。
 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション・国史大系.第2巻「続日本紀 聖武天皇>巻第10>夏4月179頁~180頁(95コマ):辛末」、日本全史編集委員会編「日本全史>奈良時代>730-739(天平2-天平11)121頁:光明皇后が施薬院を設置、貧しい病人のために」ほか)

寛仁4年天然痘大流行、幼児に流行か。後一条天皇、大赦と免税でこたえる(1000年前)[改訂]
 1020年5月14日(寛仁4年4月13日)
 この年1020年は「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルといわれ、摂関政治の全盛期を誇った藤原道長の最盛期である。その道長でさえ天然痘の大流行を抑えることは出来なかった。
 この時代の諸誌は“自春至夏、疱瘡殊甚(諸道勘文)”“自春患皰瘡(疱瘡)。四月殊甚(日本紀略)”と、春から夏にかけて天然痘が大流行したこと、それが特に4月(新暦5月)が激しかったと記録に残している。
 その大流行の発祥地について“栄花物語”は“つくしのかたにハ(筑紫の方では)ふるきとしより、やみ(病み)けりいふ(う)こときこゆれば”と、北九州の各地では昔から流行していると聞いているが、とし、この頃“かくてこのもがさ(天然痘)京にき(来)にたれば”と都にも侵入してきたと記している。
 また源経頼の日記「左経記」は“上下之道俗男女年七八已下(以下)者、多病悩、称瘡(天然痘)云々”と、7、8歳から下の幼児に天然痘が流行したと記録している。これに対し廿という文字が欠落しているのではないかとする指摘もあるが、そのあとに続けて“左大弁五男(童)今朝死去云々”と、事例を記録しているところを見ると、やはり体力の弱い幼児に大流行したようだ。
 この疫病の大流行に直面された時の後一条天皇は、5月14日(旧暦・4月13日)“主上令脳皰瘡給”と、この疱瘡の大流行を心配されて、次の命令をされる“詔。大赦天下。大辟(刑罰)以下罪無軽重。悉以赦除。但犯八虐。故殺。謀殺。私鋳銭。強窺二盗”。つまり、謀反(国家転覆)、謀大逆(天皇陵や皇居の破壊)、謀叛(君主に背く)、悪逆(父母など尊属の殺害)、不道(殺人、毒物所持など)、大不敬(神社や天皇に対する罪)、不孝(祖父母、父母に対する罪)、不義(師や上司の殺害)など、律令で定められた八虐の罪を犯した者、故意の殺人犯、計画的殺人犯、通貨偽造犯、強盗や窺盗(窃盗)犯などの者たちを除き、罪の軽重を問わずことごとく釈放するとする指示を下さし、さらに“免調庸搖役”と、物納、労役などの間接税や通貨税など、すべての税金を免除している(日本紀略)。
 (出典:京都歴史災害研究会編「京都歴史災害年表>1001年~1100年>59頁~61頁:寛仁4年」、国立国会図書館デジタルコレクション・国史大系 第5巻「日本紀略>後篇13 後一条天皇 1123頁(571コマ):寛仁4年4月」[追加]、同コレクション「栄花物語 上巻>もとのしづく 476頁(255コマ)」[追加]、同コレクション・資料通覧「左経記>寛仁4年3月 91 頁(54コマ):21日」[追加]」

○元永から保安へ改元、悲運・鳥羽天皇、異常気象続き在位4回目の災異改元で御謹慎(900年前)[改訂]
 1120年5月16日(元永3年4月10日)

 天変あり、御慎みにより元永から保安に改元とある。
 鳥羽天皇の御代、この年より3年前の1117年(永久5年)、梅雨期の干ばつと渇水、8月末(旧歴・7月下旬)と10月上旬(旧・9月上旬)の台風などによって凶作となり、翌1118年5月2日(旧暦・永久6年4月3日)元永と改元した。これが3度目の改元であった。しかし飢饉は深まり、5月下旬(旧・4月下旬)には、食を求めて京都に諸国から多くの人々が押し寄せ“是天下発疫癘(疫病)之難、国土有飢饉之憂故(秘鈔問答五)”と、飢饉により飢えて体力をなくした人々に疫病が襲いかかり、都路は死亡者であふれたという。
 それを見かねた時の最高実力者白河法皇は、同年9月3日(旧・8月9日)、朝廷の米倉庫を開放して賑給(しんごう、米の支給)を施した。しかし、時の中御門右大臣こと藤原宗忠の日記「中右記」によれば、翌19年(元永2年)2月ごろになると、治安が急激に悪化し“連夜京中放火強盗之輩甚多”と、放火、強盗の輩が連夜横行する状態になった。
 またこの年も異常気象の続く年で、6月2日(旧・4月16日)こそ雨が降り“終日雨下、天下民定成甘雨之慶歟”と喜んでいたが、翌7月上旬(旧・5月下旬)には“近日頗有炎旱気”と炎天になり、恒例の神泉苑での雨乞いを7月13日(旧・5月27日)に行っている。
 その後、9月~10月(旧・8月)になると今度は“今月大略毎日霖雨”と秋の霖雨(長雨)が続くなど、“六七月右有炎旱之憂、七月又有霖雨之歎”という気象の変化の激しさに、政権を担う人々は“炎旱憂と、霖雨歎”の一喜一憂を重ね、この年も“天下飢饉、民多く死す(中右記)”と、稲作の作柄はよくならず、飢饉は続いた。
 翌20年(元永3年)は、年初の2月14日(旧・1月7日)、関白藤原兼家の旧邸法興院(ほごいん)と積善寺が炎上。4月12日(旧・3月6日)には高松邸が炎上、と今度は火災が続いた。
 鳥羽天皇は、父宮の堀河天皇の崩御を受け、1107年8月(嘉承2年7月)わずか4歳で即位されたが、3年後の1110年7月(天仁3年7月)彗星の出現により天永と、最初の改元を行い。そのまた3年後の1113年9月(天永4年7月)には天変、怪異、疫疾、兵革により今度は永久と2度目の改元をしている。その後今度は改元せずに済むと誰もが思ったその4年後、前述のように梅雨期の干ばつと夏の台風によって凶作となり、1118年5月(永久5年4月)元永と改元したが、改元の年も前年の凶作のため飢饉を招き、翌1119年(元永2年)も前述のように異常気象は続き、飢饉も収まらなかった。
 そしてこの日、在位13年弱にして4度目の災異改元をしなければならなくなる。しかも当時、人力のとうてい及ばない天変(気象災害)によるものである。
 しかし、古代、聖武天皇が、わが国ではじめて大陸から侵入した天然痘(ほうそう)の大流行に直面し、多くの犠牲者を出したとき、“廼者災異頻興。咎徴仍見。戰戰兢兢。責在予矣(災異がひんぴんと興っているが、これは天地からのとがめの兆しで、おそれつつしんで施政者としての責めは予に在る)”とする勅(天皇のお言葉)を公に出され、翌日、災害除去の祈りを捧げる法要を行っている。
 この古来よりの教えを受け継いで、鳥羽天皇は御慎み(謹慎)をなされたのであろう。しかし気象災害に強い稲作の基礎的研究が始まるのは、それから815年も後の20世紀も1935年(昭和10年)に入ってからで、当時、北海道と東北の冷害による凶作を受け、国立の農事試験場で開始された。しかしその後、品種改良はされているが、現代でも干ばつや渇水、暴風雨、日照りや冠水による稲作災害は無くなっていない。
 (出典:池田正一郎著「日本災変通志>平安時代後期 158頁~159頁:永久五年、元永元年、元永二年、保安元年」、京都歷史災害研究会編
「京都歷史災害年表>1101年~1200年 95頁~99頁:永久5年~保安1年」、国立国会図書館デジタルコレクション・国史大系 第14巻「百練抄 巻第5>鳥羽天皇 69頁(41コマ):元永元年8月9日」[追加]、

同コレクション・史料通覧「中右記 5>元永2年>2月 113頁:18日」[追加]、同コレクション・同書「同記>元永2年>4月 127頁(69コマ):16日」[追加]、同コレクション・同書「同記>元永2年>5月 138頁(75コマ):22日」[追加]、同コレクション・同書「同記>元永2年>8月 162頁~163頁(87コマ):27日、8月末」[追加]。参照:2018年5月の周年災害「永久から元永へ改元」、8月の周年災害・追補版(2)「天仁から天永に改元、天下静かならざるによる」[追加]、2013年9月の周年災害「天永から永久へ改元」、2015年6月の周年災害「天然痘、国内初、大陸から北九州に侵入、聖武天皇“責在予”と勅語」[改訂]、2014年7月の周年災害「昭和9年東北北海道冷害、………-水稲冷害防止対策の研究始まる」)

幕府“増火消”を6大名家に初めて命じる、風激しく大火のおそれあるとき増援(370年前)[再録]
 1650年5月7日(慶安3年4月7日)
 前日の5月6日(旧4月6日)は江戸の町に烈しい風が吹きおろし麻布筋や西窪など各所で火災があった。
 翌日、老中は7年前の1643年11月(寛永20年9月)に創設され、江戸城をはじめ江戸の街の消火に当たってきた浅野内匠頭長直ら10名の大名火消の大名たちを城内に召し出し、各自が消火活動に精を出したことを将軍が報告を受けて感服され、今後一層励むよう激励の言葉があったことを伝えている。
 それに続き、信濃上田藩(長野県上田市)6万石・仙石越前守政俊、下野黒羽藩(栃木県大田原市)1万8000石・大関右衛門高増、讃岐丸亀藩(香川県丸亀市)5万石・山崎志摩守俊家、丹波綾部藩(京都府綾部市)2万石・九鬼式部少輔隆季、日向佐土原藩(宮崎県宮崎市)2万7000石・島津右馬助久雄、出羽本荘藩(秋田県由利本荘市)2万石・六郷伊賀守政勝ら6名の大名を召し出し、風が激しく大火になるおそれのある火事の時は、消火活動に当たるよう命じている。この時、越後新発田藩5万石・溝口出雲守宣直は病気のため登城出来ず命じられなかった。
 これは、前月4月24日(旧・3月24日)に北関東で地震があり、江戸市街や日光東照宮に被害が出たこと、また前日の火災の件も含め、先の10家の大名火消だけでは消火活動上、戦力不足ではないかということになり、“於風烈者”という状況を条件とし臨時の火消役を命じたもので、これを後に“増火消”と呼んでいるが、これが文献上に現れた最初である。(出典:東京都編「東京市史稿>No.2>変災篇第4・94頁~95頁:二、四月七日火災」)

○江戸で80余日間に105回火災-幕府ようやく防火対策に本腰(360年前)[再録]
 1660年5月3日(万治3年3月24日)
 “火事と喧嘩は江戸の華”といくら粋がっても、2月13日(旧1月3日)から5月3日(旧3月24日)の81日間に105回も火事があったというのはいくら何でも多い。
 万治3年は正月の門松も取れない内に火事が起き、江戸史上最も頻度の高い火事の年の幕開けとなった。主な火災だけ上げても、まず1月3日(新2月13日)浅草袋町より出火し、前年11月(新1月)の火災で焼け残った駒形堂や竹町、茶屋町等を焼失。次いで14日(新2月24日)湯島天神大門前から出火し八丁堀まで延焼した。これは大火で、家屋2358軒を焼失し95人が死亡している。
 また1月26日(新3月7日)には、台所町から出火した炎によって江戸城二の丸まで延焼した。これには幕府も手を焼き防火対策に本腰となり、二の丸を焼いた火災の2日後の28日(新3月9日)、在府の諸大名に江戸城周辺の防火を仰せ付けた。一方町人にはこの月、失火者の処罰、橋の上の積み荷の禁止、橋の両側に居住する者に橋の防火を命じ、また江戸開府以来、初めての町家防火対策を、湯島天神大門前の火災の3日後の17日(新2月27日)に「覚」として緊急に命じ、正式には2月23日(新4月3日)に示達している。
 それでも3月24日(新5月3日)までにボヤも含め火事が105回もあったというわけだ。さすがの江戸っ子も狂歌でうさばらしするしかない“春ハ陽気今ヲ盛ニ飛ムメ(梅)ノ、火花ノサカヌ国里モナシ”と。
 (出典:東京都編「東京市史稿>No.2>変災篇第4・249頁~256頁:万治三年正月火災」、同編「東京市史稿>No.4>市街篇第7・922頁~924頁:防火」同編「東京市史稿>No.4>市街篇第7・919頁:仮家建築制」。参照:2020年4月の周年災害「幕府、頻発する火災についに腰を上げ、初の町家防火対策を示達」)

○鳥取享保の大火「石黒火事」鳥取藩史上稀代の大火(300年前)[改訂]
 1720年5月7日(享保5年4月1日)
 吉方の石黒三太兵衛の屋敷では、門人が裏庭へ出て麻殻の灰(かいろなどに使う可燃性の灰)を焚いていた。ところが巳の下刻(午前11時ごろ)、南風が焚き火に強く吹き付けその火が母屋の屋根に移り、たちまちのうちに土手内の侍屋敷に延焼しみるみる数か所に広がった。
 元火の炎は御弓町から小姓町へと燃え移り、山手の炎は山根に沿って上町通りを総なめにした。また中筋の炎は吉方中の町から古御用場へと流れ、その内これら三筋の炎が一か所に集まり“猛焔天ニ漲リ(みなぎり)、御城下サシテ焼出ル(いずる」形勢ハ恰モ(あたかも)洪波ノ打寄(せ)ルガ如ニシ、防(ぎ)止ム可キ様モ無シ”と、城下から城内をもめざして燃え広がった。
 城内に延焼した炎は、家老の荒尾氏(通称・近江)屋敷を焼き、3代藩主一族が仮御殿としていた松竹御殿も灰として長い渡り廊下沿いに二の丸へと焼け昇り、新築の藩主御殿の居間に延焼、5年ほど前から3年の年月をかけ万金を費やした壮麗な御殿いっときの煙となってしまったという。
 勢いを得た炎は山上の本丸へと焼け上がり、すでに栗谷の山林を焼き尽くした炎は奥へと焼け入り、避難していた老人、幼子、病者はこの谷奥で犠牲になったという。また水道谷の山林の炎は久松山に燃え移り、城郭の山上から山麓を焼き尽くす火の声は“恰モ百千ノ雷ノ一度ニ鳴ハタメクガ如ニシテ、聞(く)人肝ヲ冷ヤシケル”とすさまじかったという。
 城内外での焼失範囲は、城内曲輪内の大名小路の火先は、家老の荒尾但馬屋敷まで焼いて止まり、番頭(ばんがしら)菅伊勢方では侍長屋は焼失したが本屋は無事、堀端の火筋は馬場口惣門(外郭の正門)を焼失させ石黒刑部屋敷で焼け止まっている。一方、山手では、湯所上ノ町通り山屋敷は焼失したが近くの天徳寺と下御厩は残る。知頭口惣門の近くより丹後町惣門あたりの侍屋敷は無事であった。また城下を焼いた炎の矛先は知頭海道までにはいかず、若狭町筋(通り)では真教寺まで延焼したが、土手際より寺町までの侍屋敷は無事、鍛冶町、桶屋町の炎は光明寺、慶安寺の堂宇に移り、袋町に飛び火し吉方の立川方面へ延焼、この時、火元の石黒屋敷の本宅と広徳寺、法泉寺が延焼、暗闇の中、霊光院でついに焼け止まった。また城内の楯蔵と幸いにも水道谷と円江寺にある煙硝蔵(火薬庫)が無事で大惨事は免れていが“前代未曾有の大火なり”と藩史は記している。
 このように火元にちなんで名付けられた「石黒火事」は鳥取藩史上稀代の大火となった。城内が全焼したほか、侍屋敷506軒、町家597軒、土蔵57棟、寺院23か所が全焼し19人が死亡。
 (出典:鳥取市編「鳥取藩史 第6巻>事変志3・626頁~629頁:享保5年石黒火事」、佐々木孝文著「鳥取城跡籾蔵跡の変遷」[追加])

江戸町奉行、土蔵造りや瓦屋根を許可し防火建築を奨励、明暦の大火後の禁制を廃止(300年前)[再録]
 1720年5月26日(享保5年4月20日)
 
幕府では、1657年3月(明暦3年1月)の明暦の大火で、瓦が落ちて多数の死傷者を出したことから、大火の翌月の4月(旧2月)には、瓦葺きの屋根を倉庫以外厳禁にしていた。また上記、万治3年(1660年)春の連続大火の時は、町家の防火対策として屋根に土を塗ることや蛎殻(かきがら)を並べることを奨励したが、実際はさほどの防火効果はなかったようだ。
 1716年6月(正徳6年5月)第八代将軍に紀州家から吉宗が就任、翌1717年3月(享保2年2月)吉宗は大岡忠相を町奉行に抜擢“享保の改革”は本格化した。
 数々の改革の中で江戸の街の防火対策として、有名な町火消の強化策などがあるが、家屋の瓦屋根を許可することも同対策の一環として行われている。
 許可をするに先立ち忠相は江戸の町名主たちを呼び、市中の町家の土蔵造化、瓦屋根化を諮問したが、町名主たちは、柱や棟を太くしなければならない事などを理由に、主旨には賛成だが実行はむずかしいと答えている。
 この日「土蔵造塗家瓦屋根ノ建築ヲ許可ス」というかたちで布令を出したのは、今まで厳禁にしていたので許可という形にし、また町人たちの意見を踏まえ無理のない範囲で対策を実行させようとするものであろう。
 その後幕府は1792年10月(寛政4年8月)、町家の復興建築では必ず瓦葺きにするよう達している。
 (出典:日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1720(享保5)630頁:町名主の反対を押して土蔵造り・瓦屋根を奨励、防災建築のすすめ」、東京都編「東京市史稿>No.4>市街編第7・153頁:瓦葺禁制」[追加]、同編「同史稿>No.4>市街篇第7・919頁:仮家建築制」[追加]、同編「同史稿>No.4>市街篇第19・896頁~902頁:土蔵造塗家瓦屋根許可」、同編「同史稿>No.4>市街篇第31・349頁~350頁:[付記]建築制」。参照:2020年4月の周年災害「幕府、頻発する火災についに腰を上げ、初の町家防火対策を示達-かき殻葺き屋根が広く普及」)

出羽久保田(秋田)享保15年の大火、城下の大半約2000軒焼失(290年前)[改訂]
 1730年5月22日(享保15年4月6日)
北風が吹き荒れていた暮六つ時(午後6時ごろ)、大町一丁目の見上三太郎居住の同称新右衛門別屋敷より出火した。全焼したのは米町四丁目および社務小路、上通町、中通町、大工町の土手際まで。川端一丁目から五丁目まで、大町一丁目から五丁目まで、上肴町、茶町菊之丁、同扇之丁、同梅の丁、戸嶋町、上亀之丁、下亀之丁、田中町、柳町、八日町など29町が類焼と広範囲が灰となり、翌日午前中鎮火したが、城下の大半が焼失した。
 記録によって被害数がまちまちだが、本家(自分の家)約1100軒、借家・長屋945軒、足軽屋敷4軒、土蔵84棟、寺町の東福寺など3~5か寺、鉄砲屋敷が焼失。そのほか、貯蔵していた米、大豆、小豆、9936俵が焼けている。
 (出典:内閣府編・中央防災・災害教訓の継承に関する専門調査会報告書「1976 酒田大火>第2編 前近代における北部日本海域の大火>第2章 秋田県域>2.久保田、土崎湊における主な大火の実態と特徴>(2)享保15(1730)年の久保田大火」)

久保田(秋田)明和7年の2か月間に3回におよぶ大火、3年前の大火とあわせ城下全域が被災か(250年前)[改訂]
 1770年5月24日(明和7年4月29日)
 久保田(秋田)明和4年の大火で家屋1962軒、土蔵84棟を失ったわずか3年後、また城下の大半が2か月間の内に3回にわたり焼けた。
 この日の大火が最後で最大の被害が出たが、その最初は、4月9日(旧暦・3月14日)の夜、土崎湊の下酒田町小幡屋三郎右衛門方より出火、本家211軒、長屋621軒、計832軒が焼失。消火のための壊家2軒を含め834軒が被災している。次は5月2日(旧・4月7日)、通町から出火し家数大小534軒、土蔵3棟が焼失。
 そしてこの夜を迎える。五つ時(午後8時ごろ)五丁目の斎藤昌意所より出火、東照宮も炎上するなど城下への延焼が町数で10余丁に達し、八幡村まで飛び火した。被災数は屋敷持の家702軒、そのうち全焼672軒、消火のため潰家22軒、痛んだ家7軒、半焼1軒。そのほかの被災は丁借家15軒、丁内上り屋敷1軒、扶持人(給料生活の下級武士)9軒、長屋借家555軒、うち潰家15軒、土蔵21棟。1人死亡。計1282軒が被災した。連続した3回の大火で家屋2650軒、土蔵24棟が被災。3年前の被災数とあわせると家屋4612軒、土蔵108棟が被災しており、人口約2万2000人(1750年:寛延2年調査)を要していたことを考えると、復興後に再び被災した家屋を考慮しても、ここ3年間の大火で城下町久保田はほぼ全域が被災したのではないか。
 (出典:秋田市編「秋田市史>第1章 近世あきたの都市問題>災害>1 火災と飢饉 559頁:明和7年(1770年)」。参照:2017年6月の周年災害「秋田明和4年の大火、早暁火のまわり早く大火に」)

弘前明治13年の大火、まれな大火災発生、1000余戸を焼く(140年前)[改訂]
 1880年(明治13年)5月15日

 弘前市は大火がほとんどなく、城下町から発展した中核都市しては希な存在である。1880年(明治13年)5月15日その唯一の大火が発生した。
 元寺町の柾木座より出火した炎は、親方町、一番町、鉄砲町、上鞘師町、下鞘師町、百石町などに延焼し、あたり一面を焼け野原と化した。また、東長町の百石町角から橋際までも焼け、土手町は橋際まで、そして鍛冶町、新鍛冶                                               町、桶屋町、北川端町、本町五丁目、同四丁目、元長町から元大工町の中程までも延焼するなど、すべて焼けた何もない世界が広がった。弘前病院、弘前郵便局、敬業小学校、盈進小学校、警鐘楼など町の代表的な建物など1064戸が灰じんとなった。そのほか消防のため壊した家7軒、橋7か所、死亡者3人、負傷者2人。
 大火後、道路がやや拡張され、町並みも改まり商業地域の景観が一変したという。
 (出典:弘前市消防本部、佐々木勝雄編「弘前市消防沿革史>明治以降の災害年表」、弘前市史編纂委員会編「弘前市史 明治・大正・昭和編>第1章 明治維新と弘前>第5節 コレラ流行・大火 154頁」)

○三条の大火「糸屋万平火事」町の98%を失い壊滅(140年前)[改訂]
 1880年(明治13年)5月21日
 かつて日本海側はフェーン現象による大火が多く発生していたが、新潟県三条は大火の経験が弘前と同じようにほとんど無い。
 しかしこの日は朝から東南の風が激しく砂ぼこりを立てて吹きまくり、まるで暗闇のようだったという。フェーン現象である。また、吉田町の市日(いちび)であり加茂・青海神社の大祭だったため、多数の町民が出かけ街中は閑散としていた。その午後1時5分、上町の糸屋万平宅の付近から出火した。
 炎は近くの酒造業・神子島家の3階に燃え移り、その勢いで近くの7、8軒が一挙に燃え上がり、四方に飛び火して東本願寺別院のお堂と、境内にあった僧侶の修学校・米北教校を炎の渦とした。この炎は門前町一帯5~6町に延焼、あたり一面が火の海となった。さらに西本願寺別院に飛び火し、そこを焼いた勢いで八幡宮から警察署、南蒲原郡役所、戸長役場など行政の中心を廃墟とした。その上、炎の勢いは三条小学校から三条町におよび、一の木戸村、東および西裏館村を焼き、荒町村、新光村や石上村にも飛び火するなど、郊外の村々にも火の手が延びていった。
 当時の被災地の戸数3230戸のうち焼失家屋2743戸、実に85%が僅か5時間で焼け、特に三条町は2010戸のうち49戸しか残らず町の98%が焦土と化した。34人が死亡している。
 この火災の名称が「糸屋万平火事」となっているが、実際の火元は隣家の米屋、関谷乙吉宅とわかった。母親の警察での申し立てによると、原因は、母親がかまどで煮炊きをしているとき来客があり、7才になる長女に、かまどの火に気をつけるよう言いつけて店先に出た際、かまどの火の勢いが落ちてきたので長女が薪を足し、その中に混じっていた枯れ竹が破裂して火が飛び散り、火の粉が障子に燃え移ったのだという。市史では、原因が小児の火遊びとなっており(表36)、申し立て通りとしたら、せっかくのお手伝いが不運な結果を呼び寄せてしまったわけで、心に負った傷は大きかったに違いない。
 (出典:三条市史編集委員会編「三条市史 下巻>第4章 文化と生活>第3節 大火と水禍>1 火災167頁~169頁:糸屋万平火事」)

○青森明治43年の大火、わずか4時間余で市街地の7割を失う(110年前)[改訂]
 1910年(明治43年)5月3日~4日
 青森市でも火災が起きた。午後1時、安方町の菓子製造業方から出火、僅か4時間で全市の71%を壊滅させた。

 この日は朝から西北西の強風が砂を捲き太陽も凄然としていたという。菓子工場では、かんな屑を燃料としてかまどで饅頭をふかしていた。ところが煙突のすすが詰まっていたので、それが無数の火の粉となり折からの強風にあおられて隣家の軒先から柾葺き(まさ板葺き)の屋根へと燃え移った。火元付近の数10軒の家は20分ほどで燃え尽き、そこから7~800m離れた寺町の蓮心寺の高屋根に飛び火して大伽藍をなめ、鍛冶町、大工町へと延焼した。
 また西の方に延びた炎は安方町、新安方町を焼き市の中心部へと進み浜町まで延焼した頃すでに6~700戸が灰となっていた。さらに炎は堤川を越えて、柳原遊郭の楼閣を襲う一方、新町に及んだ炎は南方に転じ古川町から青森県庁、東郡役場、陸奧日報社、警察署、赤十字支社など中枢の建物を炎に包み込んだ。午後4時ごろになるとさらに風の勢いが増し、全市街地が立ちのぼる炎の中にあり、四方に広がった火の手は残った浦町を襲い、停車場(駅)付近のこのころ民家を焼き尽くした。幸いなことにこの頃ようやく風の勢いがおとろえ午後5時過ぎさすがの大火も鎮火する。
わずか4時間あまりで7519戸焼失、5戸半焼、26人死亡、163人負傷。2995戸がかろうじて残った。
 (出典:青森市史編集委員会編「青森市史 資料編6 近代(1)>第3章 災害と衛生問題>第1節 青森を襲った災害>511明治43年5月大火 632頁~633頁:第1章 発火の原因、第2章 延焼の光景」、内閣府編・中央防災・災害教訓の継承に関する専門調査会報告書「1976 酒田大火>第3編 近現代における北部日本海域の3大火>第1章 青森県域>2.青森市における主な大火の実態と特徴>(2)1910(明治43)年の青森大火」)

○森田正作、日本初のガソリンエンジン付消防ポンプの創作に成功、わが国消防の歴史を拓く(110年前)[追補]
 1910年(明治43年)5月
 1909年(明治42年)7月31日午前4時ごろ、(株)モリタの創業者森田正作は、蒸気ポンプ車が鳴らすけたたましいカラン、カランという音と蹄(ひづめ)の音に暁の夢を覚まされた。驚いて音の向かう北の空を見上げると、大阪の空が真っ赤に燃えていた。のちに言う“大阪北の大火”である。
 大通りに出て、燃えている方向に走って行くと、火災現場に駆けつける2頭立て馬引き蒸気ポンプ車が次々と追い抜き、手引きの蒸気ポンプ車には、消防組員(現・消防団員)が綱にとりつき引っ張っていく。警察官が必死に野次馬を整理するが、大阪20年ぶりの大火ということで、北を目指す群衆の数は増えこそすれ減ることはない。ようやく土佐堀川にたどり着くと、炎は風速10m/秒の猛烈な東風にあおられて天満堀川(現・阪神高速守口線)を越え、西へ西へと中之島方面に向かおうとしている。第四師団の将兵が燃えさかる炎から街を守ろうと、家々を次々と取り壊しているが、猛り狂う猛火は破壊した家を乗り越え迫ってくる。ついに午後0時半になると、第一次防火線の天満堀川を越えて急速に南北に延焼地域を拡大、南は土佐堀川沿岸で食い止めたが、勢いを得た炎はさらに西へと進み、堂島一帯まで延焼、江戸期蔵屋敷名残の倉庫群や商社の建物など、商都大阪のシンボル堂島米穀取引所を灰にし、行政と学術の中心、中之島まで突入した。午後6時ごろ、堂島・曽根崎一円が全焼、翌朝午前6時半西野田の田んぼあたりで鎮火。家屋焼失1万1365戸、被災者4万3533人。大阪の行政、経済、学術、報道の中心が廃墟となった。
 以上は当時の消防力を基にしたイメージと火災の記録によるが、事実この日、大阪府下の全消防組員775人と消防ポンプが鎮火に当たったが、昔ながらの手こぎの手動腕用ポンプが43台と一番多く、蒸気ポンプ車は12台にすぎず、その大半は手引きのポンプだったという。
 森田正作は、大火2年前に南区北炭屋町(現・中央区西心斎橋一丁目)で、小型消火器と手動腕用ポンプの製造・販売を扱う個人経営の小さな会社・火防協会を開業していたが、この日、立ち上がる炎の凄さをまざまざと目撃し、それに立ち向かう消防の非力さを痛切に感じたに違いない。
 火災現場の惨状を目の当たりにし、誰よりも心を痛めた26歳の若き正作が、蒸気機関動力を越えるガソリンエンジンを動力とする消防ポンプの開発をこの日誓ったという。この誓いの実現によって、わが国消防の歴史を拓き、消防力を飛躍的に強化させる大きな原動力の第一歩となった。
 当時、小型エンジンを動力としていたものに自動車と漁船があった。自動車はドイツのダイムラーとカール・ベンツがそれぞれ1885年に実用化に成功、販売を開始していた。1903年(同36年)の大阪万国博覧会には、8台のアメリカ製自動車が展示され大反響を呼んだという。それは大火6年前のことである。正作が高等小学校を卒業、12歳で和歌山県山田村(現・橋本市)の郷里を出て、大阪の鉄工所で働き始めたのが1895年(同28年)なので、当時20歳の青年に成長していた。正作は子供のころから、物づくりそれも機械的に動くものに興味を持って作っていたというから、自動車というものに高い関心を持ち見物に出かけたであろう。しかし、この時が大阪での自動車初お目見えであり、6年後、自動車がガソリンエンジンということで、研究対象にしようとしたとき、大阪の大商人といえども所有者はそれほどいなかったと思われる。むしろ漁船の方に小型エンジン(焼玉エンジン)が普及し、正作の研究対象になったのかもしれない。
 正作の経営する火防協会は、北の大火の影響でその扱う小型消火器や手動腕用ポンプの販売は伸びたようだが、しかしさほどの利益はなかったようだ。だが正作は私財をなげうってエンジンとポンプの研究に没頭することになるが、当時、日本においてエンジンとポンプを組み合わせる技術はなかった。そこで技術的な教えを乞いに京都帝国大学(現・国立大学法人京都大学)工学部に通うことになる。
 そして北の大火のわずか10か月後、1910年(同43年)5月のこの月、正作はついにわが国で最初のガソリンエンジン付きプランジャーポンプを完成させる。同ポンプはそれまでの蒸気ポンプに比べ遙かに小型高圧力で、その放水力には格段の差があり、大量の放水による消火力には抜きん出るものがあった。その上動力源がガソリンエンジンである。蒸気機関の様に石炭を焚いて湯を沸かし蒸気の立ち上がるのを待つ必要はない。蒸気ポンプ車が火災現場に駆けつける前に町内を一周したという時間の無駄はない。火災は1分1秒を争う事態である。点火すればすぐに稼働し放水が可能になるこの消防ポンプの国内での創作は、日本の消防にとって画期的なものであった。
 実は当時ヨーロッパでは、1903年ロンドン消防隊がガソリンエンジン自動車を、蒸気ポンプのけん引用に採用し、1906年になるとガソリン機関を消防ポンプに結合して使用する消防ポンプ自動車があらわれた。森田正作より4年早かった。そしてこれを同じころ、自分の勤務する東京日本橋三越呉服店(現・百貨店)の消防力強化のため取り入れようと考え実行した人物がいた。上田団之助といい自衛消防隊長を務めていた。もともと三越呉服店には先見性があり、大阪人がはじめて自動車を見た1903年(同36年)には、フランス製のトラックを購入し商品の配達を開始している。そこの自衛消防隊長で前警視庁機械課長である。知人の外人が本国から持参したガソリンエンジンと小型プランジャーポンプを組立て、改良を加えガソリン消防ポンプを完成させた。奇しくも正作が創作した年と同じ1910年(明治43年)であった。上田は国産化を計画し製作所を設立、販売を開始したが、ポンプは国産でも、ガソリンエンジンの部品は輸入に頼らざるを得ず、製品は高価なものになり、宮城県石巻市、福島県白河市、栃木県今市市、高野山金剛峯寺などが採用したがさほど普及しなかったという。
 一方、正作は東京九段での公開実験では、その性能の良さで見物する人々を驚かし、自信を得てガソリン消防ポンプの本格的な製作を行うことになり、1912年(同45年)火防協会の近くに工場を新設、同3月には4サイクル、2気筒、12馬力の発動機を完成させる。この純国産の森田式ガソリン消防ポンプ第1号は、福井県丸岡消防署(現・坂井市)に納入され好評を博したという。正作29歳、北の大火より3年、火防協会を設立して5年、故郷を出て17年の歳月が流れてxいた。同年10月、事業は順調に進み、商号を火防協会から自分の姓をとり森田製作所に改称、今日の株式会社モリタへと成長することになる。
 ちなみにこの前後の大阪府の消防は、1909年(同42年)7月の“北の大火“の教訓から従来の制度を見直し、翌1910年(同43年)3月、大阪府警察部管轄の消防組織を発足させ、大阪市に4か所の消防署を設置、市内の水災(水害)火災の警戒、防御に対応させることにした。翌1911年(同44年)5月には、イギリス・アメリウエザー社製の自動車付き消防ポンプ(消防自動車)を全国に先駆けて導入設置して消防力を強化し、翌1912年(明治45年)1月の全焼4750戸の被害を出した“南の大火”に出動、活躍したという。
 この火災の時、火防協会のある北炭屋町に炎は迫ったが幸いにもが被害を免れた。そして森田製作所がシャシ(車体)を輸入して、自社の消防ポンプを架装した国産消防ポンプ自動車を完成したのは、南の大火5年後1917年(大正6年)のことである。しかし同自動車第1号車成功の栄誉は、森田正作の良きライバルで、蒸気式消防ポンプの国産化で知られた東京の市原求が経営する市原喞筒(ポンプ)製作所の手にあった。正作よりも2年早い1915年(同4年)のことである。
 だが両社ともヨーロッパ勢に遅れをとったのは、消防ポンプを架装する車体として活用可能な、量産国産自動車がまだ完成していなかったせいであろう。三菱造船(株)(現・三菱重工業、三菱自動車)が初の量産型乗用車“三菱A型”を誕生させたのも、(株)快進社(現・日産自動車)が4気筒エンジンを搭載した“ダット41型乗用車”の量産化を始めたのも、2年後の1919年(同8年)のことである。
 (出典:北村光男著「縁、運、和-モリタと共に歩んで->第1 章 明治・大正編:森田正作の誕生と創業 22頁~26頁:長男ながら農業を継がず大阪へ。明治40年、24歳で火防協会を設立)、同著「同書>同章 32頁~38頁:大阪における消防の近代化。わが国初のガソリンエンジン付ポンプの完成。純国産の森田式ガソリンポンプ第1号。商号を火防協会から森田製作所に改称」、魚谷増男著「消防の歴史四百年>消防機械の移り変わり 226頁~232頁:ガソリン消防ポンプの発展。日本における消防ポンプの発展>ガソリン消防ポンプ第1号誕生。消防ポンプの功労者・森田正作。消防ポンプ自動車の発展」、玉置豊次郎著「大阪建設史夜話>第20話 明治大阪の大火記録 163頁~167頁:明治42年7月31日 北の大火。明治45年1月16日 南の大火」、(株)モリタ編「株式会社モリタ 創業101周年記念誌>MORITA  History 39頁:明治43年(1910年)、明治45年(1912年)、大正元年(1912年)、大正6年(1917年)」、 大阪市消防発足20年記念誌編集委員会編「大阪市消防の歴史>年表と資料 76 頁:明治42、明治43」、同編「同書>同表 79頁:明治44、明治45」、(社)自動車技術会編「日本の自動車技術330選>乗用車Part1>三菱A型」、日産自動車(株)編「会社情報>会社概要>会社と商品の歴史>日産自動車前史」。参照:2009年7月の周年災害「大阪明治42年“北の大火”」、2012年1月の周年災害「大阪明治45年“南の大火”」、2019年1月の周年災害「自動車の広域利用広まり、内務省、全国統一の交通法規、自動車取締令制定」(記事中大阪万博の記述あり)、同「市原喞筒(そくとう)製作所、蒸気式消防ポンプ国産化に成功」)

○昭和5年樺太(からふと)でニシン漁船集団遭難、背景には年々減少する漁獲高(90年前)[再録]
 1930年(昭和5年)5月2日~3日
 樺太(現サハリン)は当時、日本の領土だった。中でも同島の南端、宗谷海峡に面した亜庭(アニワ)湾は、南北にそれぞれ延びた西の西能登呂岬と東の中知床岬に挟まれたニシンの好漁場で、多くの船団がこの時期、出漁していた。
 その出漁中の2日の夕刻には、シベリア沿海州に低気圧がほとんど停滞しながらも次第に発達し、翌3日の夕方には間宮海峡に進んでいた。同湾最奥に位置する大泊(現コルサコフ)の観測では、2日の夜半から翌日3日午前4時までの間が最も風が強く吹き、なお大泊地方は午前4時以降満潮時にあたり、南に開いている湾では南東の強風が強い波を起こしやすかった。
 この荒天の中、湾内に来ているニシンの大群を目指して多くの漁船が網を下ろし大漁に沸いていたという。前年の1929年(昭和4年)のニシン漁は、最盛期1897年(明治30年)の漁獲高の30%程度で、年々減少する漁獲に、多少の荒天でも無理をして操業していたようだ。
 遭難した漁船は海中の網の中にニシンをいっぱい満たし、船の舷側は喫水線すれすれに下がり強い風浪が来ればひとたまりもなかった。また遭難当時は月も沈み空は濃密な乱雲に覆われ、視界の利かない闇夜だったため、救援活動もままならなかったという。2000隻が出漁中で突風により漁船の破損、流失137隻、297人が死亡・行方不明になった。
 (出典:全国樺太連盟北海道支部連合会提供:島崎昭典編「樺太気象台沿革誌 190頁~191頁:(3)鰊漁期の遭難、第3図 参考 天気図 鰊漁期の遭難」、小林時正著「北海道におけるニシン漁業と資源研究(総説)>1.北海道におけるニシン漁業の盛衰>2.明治から第2次世界大戦まで」[追加]、留萌水産物加工協同組合編「国内ニシン漁漁獲推移」[追加])

○麻薬取締規則公布、麻薬の製造、輸出入、販売などを管理(90年前)[改訂]
 1930(昭和5年)5月19日
 わが国の麻薬取締の歴史はアヘンの取締から始まる。
 江戸時代末期の1840年(天保11年)アヘン密輸禁止政策を続ける清国(現・中国)が、密輸を続けたいイギリスの一方的な開戦によって敗れた。この事実を知った幕府は、1958年7月(安政5年6月)から欧米5か国と締結した、修好通商条約(安政5か国条約)などにアヘン輸入禁止の各条項を設けている。例えば清国と開戦したイギリスとは“貿易章程”で、“阿片の輸入は禁制なる故”とした上で、”船中に所持する時(中略)日本司人(取締担当役人)取り上げへ(べ)し”と、没収するとし、“阿片を密商(輸)し或いは其事を謀る輩は(中略)過料(罰金)を日本役所へ取立へし”と罰金刑を科すと取り決めている。
 次の明治政府も1868年6月(慶応4年閏4月)の太政官布告で、当時の各府藩県にアヘンの吸引、売買、授与したものを厳罰に処することを掲示するよう命じた。これが麻薬取締のスタートとなり、1870年9月(明治3年8月)、法律として、“販売鴉片烟(生成アヘン)律”と“生鴉片取扱規則”を布告し“阿片烟を販売して利を謀る者、首は斬”と厳しく死刑にするとした。
 一方、世界では1911年(明治43年)から翌12年(同44年)にかけてオランダのハーグで万国阿片会議が初めて開かれ、アヘンを始め生成品のモルヒネ、ヘロイン、コカインや大麻を対象にした薬物統制について検討され、1月には万国阿片条約として調印された。
 わが国もそれを受け1920年(大正9年)12月、「モルヒネ・コカイン及び其の塩類の取締に関する件」を内務省令で公布している。
 本題の「麻薬取締規則」は上記の規則類を整備したものだが三つの柱があり、一つは製造についての規制。二つ目は輸出入及び国内での移出入についての規則。最後は麻薬を取り扱う薬品業者の管理に関する規則で、これらは1924年(大正13年)から25年(同14年)にかけて、先に調印された「万国阿片条約」を補足する目的でジュネーブにおいて開催された国際阿片会議の第二会議の条約にそっている。
 その後、当規則は太平洋戦争(1941年~45年)後の1948年(昭和23年)7月に公布された「麻薬取締法」に集大成され、それにより麻薬取締に対する趣旨が国民の間に広く浸透し今日に至っているが、いまだ違反者は跡を絶たない。
 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション「官報 1930年5月19日 505 頁:省令・内務省令第17号 麻薬取締規則」、法務省編「昭和57年版犯罪白書>第4編 薬物犯罪の動向と取締>第1章 薬物犯罪の動向>第2節 取締法規の変遷>1.我が国における薬物犯罪の取締り」、弁護士小森榮の薬物問題ノート「日本の薬物政策の歴史4-旧麻b薬取締規則の内容」、国立国会図書館デジタルコレクション「締盟各国条約彙纂.第1編>大不列顛国(グレートブリテン国:イギリス)>日本開きたる港々に於いて貌利太尼亜民貿易の章程>第三則 434頁(233コマ)」[追加]、同コレクション・法令全書.明治3年「太政官布告第521号 販売鴉片烟律」[追加]、同コレクション・同書同年「太政官布告第522号[別紙]生鴉片取扱規則」[追加]、 衆議院制定法律「昭和23年法律第123号 麻薬取締法」[追加]。参照:2010年9月の周年災害「アヘン販売禁止、首謀者斬首の刑」。2009年10月の周年災害「警視庁、青少年のヒロポン中毒取締り」[追加]、2011年6月の周年災害「覚せい剤取締法公布・施行」[追加]、2014年3月の周年災害「横浜市でヒロポン密造工場摘発」[追加]、2014年11月の周年災害「警視庁、御徒町マーケットをヒロポン密造の疑いで手入れ」[追加]、2011年12月の周年災害「シンナー遊び補導青少年5万人に迫る」[追加]、2017年6月の周年災害「厚生省、麻薬・覚せい剤乱用防止センター設立」[追加])

建築基準法、文化財保護法公布、人命、財産、文化的遺産を守る(70年前)[再録]
 1950年(昭和25年)5月
 防災に深く関係する2つの法律が揃って同じ月に公布された。建築基準法が5月24日公布、11月23日施行。文化財保護法は5月30日公布、8月29日施行である。
 建築基準法は“国民の生命、健康及び財産の保護を図”るための法律で(第1条・目的)、建設の際や建築物を安全に維持するための技術基準などの具体的内容が規定されている。
 中でも“耐震基準”については、第20条の構造耐力で“地震その他の振動及び衝撃に対して安全な構造のもの”と規定し、具体的な技術的基準は“建築基準法施行令・第3章構造強度”で定めている。
 “防火構造”については第22条で屋根が、第23条~第25条で外壁が取り上げられ、第26条で防火壁、第27条で耐火建築物、第35条では不特定多数の人が利用する特殊建築物の避難及び消火に関する技術的基準を規定している。特に第5節は防火地域についての規定である。
 そのほか“安全衛生”に関しては、第10条で保安上危険な建築物等に対する措置を、第19条で敷地の衛生及び安全について規定し、第31条便所、第32条電気設備、第33条避雷設備、第34条昇降機と目を届かせている。また第39条災害危険区域での建築物の禁止規定や、第90条の工事現場の危害の防止など詳細である。
 文化財保護法は前年の1949年(昭和24年)1月に起きた国宝法隆寺金堂焼損事件、2月に起きた松山城放火事件によって多くの国宝が火災で失われたので、これら文化財を災害から守るために制定された。
 保護対象になっている文化財は第2条の文化財の定義で明らかだが、特定的な建造物などの有形文化財、音楽のような無形文化財、年中行事のような民俗文化財、古墳などの埋蔵文化財がある。また景観的地域的な史跡名勝天然記念物、重要文化的景観、伝統的建造物郡保存地区がありその内容は多彩だ。
 (出典:衆議院制定法律「昭和25年法律第201号 建築基準法」、同法律「昭和25年法律第214号 文化財保護法」)

○国民安全の日を閣議了承、国民に安全への反省と自主努力を促す運動の日として創設(60年前)[改訂]
 1960年(昭和35年)5月6日
 いわゆる“神武景気”と言われた1954年(昭和29年)から続いた爆発的な好景気を背景に、1956年(昭和31年)7月「経済白書」は“もはや戦後ではない”と明記し、日本経済は戦後復興期から成長期へと入った。
 その生産活動の活発化の裏で深刻な産業災害が増加し、自動車交通の増加に伴う自動車災害も激増していた。
 産業災害でいえば、当時の主要なエネルギー源の生産地炭鉱の災害が多く、1955年(昭和30年)11月北海道雄別茂尻炭鉱ガス爆発事故60人死亡、1958年(同33年)九州筑豊三菱勝田炭鉱ガス爆発事故62人死亡などがあり、前年1959年(同34年)11月には横浜市の東洋化工火薬工場で爆発事故が起き、付近の住民を巻き添えに3人が死亡し591人が重軽傷を負っており、12月の横浜市内を走る第二京浜国道での火薬積載トラックと砂利トラックの衝突で、双方の運転手と助手4人が即死、巻き添えで10人が重傷89人が軽症を負っていた。
 交通災害は年間の死亡者が、神武景気前年の1953年(昭和28年)が5544人だったのに対し、この日の前年1959年(同34年)は1万79人と1万人を越し、日清戦争(1894年~95年)の日本軍の年間戦死者より多いことから“交通戦争”と呼ばれる時代になっていた。
 “国民安全の日”はこのような状況を背景に、前年12月に開かれた国の産業災害防止対策審議会で創設が提案され閣議で了承されたが、政府発表のその趣旨によれば“国民の一人一人がその生活のあらゆる面において、施設や行動の安全について反省を加え、その安全確保に留意し、これを習慣化する気運を高め”“広く国民各層を含めた自主的な安全運動組織をつくり、国民一人一人がしっかりした安全意識を深めていく”ことで“産業安全、交通安全、火災予防、学校安全、海難防止”について“ 安全意識の高揚、安全水準向上のための国民運動”を展開するために“創設された(創設の背景)”とされており、毎年7月1日が国民安全の日と決められた。
 それによるとこの目的は、自主的な国民運動の展開によって“安全”を図ろうとするもので、主唱者としての政府の関係機関や団体に対する指導方針が示されてはいるが(実施事項)、主に国民の反省と自主努力に期待する運動の日の創設であった。さらに、この上からの“国民運動”という発想には、終戦直後1945年~50年の戦争に対する“一億総懺悔(反省)”最近2020年の新型コロナ禍に対する“自粛”に通ずるものがある。
 (出典:内閣府編「国民安全の日の創設について」[改訂]、警察庁編「平成17年警察白書>第1章 世界一安全な道路交通を目指して>第1節 交通事故との闘いの軌跡」。参照:2009年12月の周年災害「火薬積載トラック衝突・爆発事故、走る火薬庫に居眠り砂利トラが追突」[追加]、2010年12月周年災害「交通戦争始まる」)

1960年チリ地震津波、1万7000km先で起きた巨大地震の大波が押し寄せた(60年前)[改訂]
 1960年(昭和35年)5月24日
 被災地から1万7000kmという遙か離れた地球の裏側で起きたマグニチュード9.5の観測史上最大級の巨大地震の大波が、津波という形で日本へ押し寄せ、予期することなく全国で139人が亡くなった。
 前日の23日午前4時11分ごろ(日本時間)、南米チリ沿岸部で巨大地震が発生、現地では首都を始め各地で壊滅的な被害があり全土で1743人が死亡、667人が負傷している。
 この地震により震源地周辺地域は最大10mの津波に襲われたが、それだけでなく、広く太平洋全域に伝播し翌24日早朝には日本に到達、太平洋沿岸のほとんど全域で0.2~5mの津波が観測され、特に北海道から三陸、志摩半島に至る沿岸地域を中心に被害が大きく、高いところで6mの高さの津波が観測された。
 全国の被害は121人が死亡、21人行方不明、974人負傷。家屋全壊2002棟、同流失1257棟、同半壊1991棟、同床上浸水2万2097棟、同床下浸水1万9555棟に及んだ。中でも、三陸沿岸の岩手県大船渡市は50人死亡、宮城県志津川町(現・南三陸町)37人死亡、北海道浜中村(現・町)で11人死亡と被害が大きかった。
 一方、田老町(現・宮古市)は1896年(明治29年)6月の明治三陸津波と1933年(昭和8年)3月の昭和三陸津波の2回の教訓を生かして町全体を包む“万里の長城”と呼ばれるほどのX字型二重のス-パー防潮堤を築いていたので、今回の津波による被害はなかった。しかしこの防潮堤に対する信頼感が、この津波から51年後の東日本大震災によって崩された。災害には“絶対的な安全”はないということが証明されしまった。
 また当時の津波警報だが、地震発生から22時間半ほどたって第1波が到達しているので時間的余裕はあったが、遠い地震による津波が日本沿岸にこれほどまでの被害をもたらすとは予想されず警報は発令されなかったという。
 (出典:内閣府編「中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会報告書>1960チリ地震津波」、同編「広報ぼうさい>過去の災害に学ぶ28:チリ地震津波 ① 不意打ちへの対処」[追加]、同編「広報ぼうさい>過去の災害に学ぶ29:チリ地震津波 ② 流れによる被害と都市化への警鐘」、同編「広報ぼうさい>過去の災害に学ぶ30:チリ地震津波 ③ 構造物主体の対策とその後」、同編「災害史に学ぶ・海溝型地震・津波編>6.1960チリ地震津波」)

東京牛込柳町で自動車排ガスによる鉛害問題表面化-5年後ようやくガソリン無鉛化へ(50年前)[再録]
 1970年(昭和45年)5月21日
 文京医療生活協同組合(現・東京保健生活協同組合)は、太平洋戦争(1941年~45年)終戦直後の1948年あたりから医療を通じた社会活動を積極的に推進していた。
 この日、同生協の医師団が、新宿区牛込柳町交差点付近の住民の健康診断を行ったところ、多数の住民の血液や尿から鉛が異常に多く検出された。
 牛込柳町、特に交差点付近は四方の道路が落ち込む窪地の様な地形なので、この時期、急激に増えた自動車の排ガスがそのあたりに滞留し、付近の住民に慢性中毒患者を出したのではないかと発表した。
 東京都ではこれを受け調査活動を行い、鉛中毒の疑いがもたれた患者の精密検査を行ったところ、中毒の心配はないとの結論を出した。しかしこの付近が、自動車の排気ガスによって生活環境が最悪な状況になっているのは間違いなかった。
 この問題をきっかけに鉛の環境基準が検討されることになり、厚生省(現・厚生労働省)はこの月の30日「大気汚染防止法施行令」に、有害物質として“鉛及びその化合物”を追加した。12月、いわゆる“公害国会”において、他の環境関連法案とともに“大気汚染防止法”は全面的に改正され、国はこれにより、自動車排出の鉛を規制できるようになった。
 一方、2ヵ月後の7月、運輸技術審議会において自動車排出ガスの長期低減目標が示され、8月には産業構造審議会自動車公害対策小委員会の中間報告で、ガソリンの無鉛化計画が具体的に打ち出されたが、実際にレギュラーガソリンが無鉛化されたのは5年後の1975年である。
 (出典:総理府、厚生省編「昭和45年度公害白書>公害の現況>第1章 大気汚染>第4節 大気汚染による被害>1.健康被害・(4)鉛害事件と光化学スモッグ事件・ア.牛込柳町鉛害事件」、同編「同白書>公害の防止に関して講じた施策>第4章 大気汚染防止対策>第1節 規制措置の強化>2.自動車排出ガス対策の強化・(2)鉛化合物」、昭和史研究会編「昭和史事典>1970(昭和45年)668頁:ガソリンの鉛公害」、東京保健生活協同組合編「沿革:東京保健生協のあゆみ」[追加]。参照:2010年12月の周年災害「公害国会で論議、公害関係14法案成立」)

建設省(現・国土交通省)総合治水対策を次官通達、環境保全の高まりを受け新対策(40年前)[追補]
 1980年(昭和55年)5月15日
わが国の正史(公式な歴史)日本書紀において、仁徳天皇による治績として “難波の堀江と茨田(まんだ)の堤”の事業が伝承されている通り、流れが速く流量の多いわが国の河川の“治水”は、古来より時の政権にとって最重要課題であった。
 時は移り明治の御代となり、1896年(明治29年)4月“河川法”が公布され、河川の氾らん-洪水を治めるための堤防建設による治水方式が主流となり、1910年(明治43年)10月の第一次治水計画の策定によって、現在につながる治水事業が展開されていくことになった。
 ところが翌1911年(明治44年)3月“電気事業法”の施行により、電力を動力源とする時代となると、河川の流れる水の力や高所から落下する力を利用した水力発電所の建設が進み、治水計画にすぐさま“利水”の一面が増え、河川の総合開発の時代へと進む。
 戦後(1945年~)、基本的には戦前と同じ方向で開発が進められてきたが、昭和30年代(1955年~1960年)よりはじまる高度成長時代に頻発した“公害問題”が頻発すると、それを昇華した形で“環境問題”が身近なものになり、1970年(昭和45年)3月、公害問題国際シンポジウム東京宣言において基本的人権としての“環境権”が打ち出され、1973年(同48年)11月には、総理府が“自然環境保全基本方針”を告示するなど、環境保全について日本のみならず世界的にも関心が高待ってきた。
 それにより治水についても、それまでの洪水防止中心のコンクリートによる河川づくりや、自然環境を破壊するダム建設への批判が高まり、従来の河川の総合開発という発想に歯止めがかかりはじめ、“治水”についての発想の転換が求められてきた。また水害対策の面でも、急激な都市開発により、水害を抑制する防災調整池の建設も難しくなり、河川改修の面でも新しい発想が求められて来ていた。
 これら状況を受け建設省(現・国土交通省)では、1976年(昭和51年)総合的な治水対策の推進方策について河川審議会に諮問、翌1977年審議会は中間答申を行い、これによりこの日 “総合的な治水対策の推進について”とする、建設次官通達が提示される。
 次官より提示された“総合治水対策”は、治水建設の整備の推進、浸水予想区域の設定、保水地域、遊水地域、低地域の三地域の区分の三対策で、その具体的な体系は、① 築堤、浚渫(しゅんせつ)による河道の整備、遊水地、放水路の建設など河川改修対策。② 流域対策として1.保水地域では、自然(地)の保全、防災調整池、雨水貯留施設、浸水性舗装・浸透性ますなどの設置。2.遊水地域では、盛土の抑制、営農環境の改善。3.低地地域では、内水排除施設の整備、貯留施設の設置、耐水性建築の奨励。③ 水害被害軽減対策は、警報避難システムの確立、水防管理体制の強化、浸水実績・予想区域の公表(洪水ハザードマップ)、耐水性建築の奨励、住民へのPRとなっており、実施機関は、①の河川改修は、河川区分に基づく管理者(国、都道府県、市町村)が行い、②の流域対策はその流域の自治体が実施、③の被害軽減対策は上記河川管理者と流域自治体が実施するとしている。このうち2001年(平成13年)の“改正水防法”第10条の4に基づき作成されている、洪水ハザードマップ(浸水想定区域図)は、近年の大洪水の際、その精度の高さが実証され、現在、多くの人命を救う武器となっている。
 ちなみに、この総合治水対策によると、河川の流量の分担は全国平均で、従来の河川100%に比べ、新しく建設される防災調整池、雨水貯留施設及び新しい遊水地域対策により20%が分担され、河川+遊水地+治水緑地による河川分担流量は80%に減少されるよう計画される。
 (出典:建設省編「総合治水対策のプログラム評価に関する検討会資料>参考資料1・総合治水対策の推進について」、同省編「総合治水対策のプログラム評価に関する検討会資料>2.2. 総合治水対策の仕組みと現状・効果」、国立国会図書館デジタルコレクション「法令全書.明治29年 121頁~131頁(69コマ):法律第71号 河川法」、同コレクション「法令全書.明治44年 85頁~89頁(189コマ):法律第55号 電気事業法」、衆議院制定法律「平成13年法律第46号 水防法の一部を改正する法律」、ウィキペディア「治水>7.総合治水対策」。参照:2013年11月の周年災害「伝・仁徳天皇、難波の堀江と茨田(まんだ)の堤を築き、洪水を防ぎ大農地と良港を得る」、2016年4月の周年災害〈上巻〉「河川法公布、森林法、砂防法と並ぶ治水三法の一つ最初の誕生」、2010年10月の周年災害「初の臨時治水調査会設置し第一次治水長期計画策定」、2020年3月の周年災害「公害問題国際シンポジウムで東京宣言発表、基本的人権“環境権”打ち出す」、2013年11月の周年災害「総理府、自然環境保全基本方針告示、公害防止から根源的な自然環境問題へ」)

海上保安庁、海の「もしも」は118番運用開始-99%が間違い電話だが、重要な番号に成長(20年前)[改訂]
 2000年(平成12年)5月1日
 110番は警察、119番は火事と救急車。では118番は海上保安庁です!
 海上保安庁は、海上で事件や事故が起きた時に被害者や目撃者などが緊急に通報する番号として、この日、警察や消防にならって覚えやすい局番なしの3桁の電話番号を採用し運用を開始した。
 同庁では通報基準として、① 海難人身事故に遭遇、または目撃。② 油の海面への排出等の発見。③ 不審船の発見。④ 密航、密輸事犯などの情報を上げ、活用と協力を呼びかけている。
 ちなみに118番通報の運用開始から2020年9月30日まで20年5か月の実績は1196万9251通と1日あたり1605通だが、その内99.1%が間違い電話で、同庁が必要としている通報はわずか0.9%の10万6953通、そのうちもっとも多いのが海難関係以外の通報で5万4731通、次が船舶海難関係通報の3万457通、次いで人身海難関係通報の2万1765通となっている。1日平均にすれば14通の通報だが、これらの通報により、貴重な人命や貨物、船舶などの多くが救出されており、一般国民の認識が110番や119番に比べてまだ遠いとは言え、重要な通報手段として役割を果たしていることは間違いない。ともかく1日に1591通、毎分1通以上も間違い電話があるので、職員のご苦労を察して間違って118番にかけないでください。
 (出典:海上保安庁編「海の『もしも』は118番」、同庁編「118番出動動画」、同庁編「118番通報実績」)

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(2020.11.5.更新)

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