【目 次】

・京都「治承の大風]鴨長明ただ事ではない災害は神仏からのお告げと武家政権への交代の危ぐ抱く(840年前)[改訂]

・全国的大干ばつ、やがて応永の大飢饉へ。戦乱が拍車をかけ、疫病も流行(600年前)[改訂]

・天文の大飢饉。幕府無力、管領・細川勝元、施餓鬼しか行えず(480年前)[再録]

・永禄から元亀へ改元。戦国時代収束への期待を込めて(450年前)[再録]

・明和の大干ばつ-農作物凶作と水不足で年貢減免一揆起き、幕府緊縮予算に追い込まれる(250年前)[改訂]

・万延元年近畿・東海大水害。伊勢湾高潮、天竜川氾らん(160年前)[改訂]

・内務省警視局に消防本部創設され公設消防組織誕生-70年の歴史を経て自治体消防へ転換(140年前)[改訂]

備荒儲畜(びこうちょちく)法制定、国の指示による共助の被災者援助政策(140年前)[改訂]

・水利組合条例公布され水利土功会を発展的解消、水利と水害予防の2組合制となる(100年前)[追補]

・東京本郷明治23年春木町の火事、たまたまの外出が大火を引き起こす(130年前)[再録]

・コレラ長崎から全国に拡大、死亡率8割を越え最大となる。流行発祥地の検疫医全町閉鎖を提言(130年前)[改訂]

・警視庁で科学的な諸検査開始。元土佐藩士の警視総監田中光顕、暗殺現場確認の体験生かす(130年前)[再録]

・道路取締規則制定、左側通行決まる。警視庁PRに奮闘、ただし最初の公的規定は1872年東京府(120年前)[改訂]

・高岡明治33年の大火、市街地の6割が壊滅-土蔵塗り耐火建築へ(120年前)[再録]

・大正9年北海道夕張北炭北上坑ガス爆発事故。会社側一人も救出せず遺体も埋めたまま坑口閉鎖(100年前[改訂]

蟹工船エトロフ丸漁夫虐待・虐殺事件。弱小地方資本による無理な操業の末(90年前)[追補]

・安保闘争デモ隊国会議事堂前で警官隊と衝突、軍事協力をうたった新安保条約に“戦争反対”の叫び高まる。
 東大生樺美智子さん警官隊に虐殺ー54年後自民党安倍政権“集団的自衛権行使容認”を閣議決定(60年前)[改訂]

・防災の日を閣議決定、防災への意識強化に課題が(60年前)[改訂]

昭和55年、夏の低温・多雨・日照不足で戦後最大の冷害となる、被害農耕地全国の53%[追補]

・平成2年梅雨前線豪雨、浸水被害多く床上1万棟余、床下4万棟弱(30年前)[再録]

・雪印低脂肪乳集団中毒事件、加熱殺菌を信じ加工・販売(30年前)[改訂]

【本 文】
○京都「治承の辻風」鴨長明ただ事ではない災害は神仏からのお告げと武家政権への交代の危ぐ抱く(840年前)[改訂]
 1180年6月1日(治承4年4月29日)

 鴨長明の「方丈記」に“中御門京極のほどより、大きなる辻風おこりて、六条わたりまで、いかめしく吹きける事侍りき。三四町をかけて吹きまくるに、その中にこもれる家ども、大きなるも、小さきも、一つとして破れざるはなし”と、京都の中御門京極から六条大路あたりまで、町中を吹き抜けた旋風の様子が活写されている。その旋風に巻き込まれた家々は、公家屋敷や寺のような大きな家も庶民の小さな家もすべて倒壊したという。
 その状況は“さながら平に倒れたるもあり、桁(けた)柱ばかり残れるもあり”と平らにつぶれた家もあり、家の骨組みだけ残して“家の内の宝、数を尽くして空あがり、檜皮葺(ひはだぶき)、板の類(たぐい)、冬の木の葉の風に乱るゝがごとし”と、家の中の家財道具はすべて空に吹き上げられ、屋根板などは冬の木の葉が風に乱れて飛ぶようだったと細かく描写している。
 また、その旋風に巻き込まれれば“塵(ちり)を煙のごとく吹き立てたれば、すべて目も見えず。おびたゞしくなりどよむ音に、物いふ声も聞こえず。かの地獄の業風なりとも、かくことはとぞ覚えける”と、目も見えず、その音のものすごさに、人の声も聞こえず、話にものすごいと聞いている地獄の業風こそこれほどかと、恐怖におびえる姿を素直にとらえており、それも滅多にないことに対する恐怖で“かゝることやはある。たゞごとにあらず”とし“さるべき物のさとしかなとぞ、疑ひ侍りし”と記し、ただごとではないことが起こるのは、しかるべき神仏からのお告げではないかと長明は不審に思ったという。
 この災害は、400年にわたる藤原氏を中心とした貴族政治が終わり、平家が滅亡し源氏による武家政権(幕府)が開かれる10年ほど前のことである。ただごとではない革命的政権交代の予感として、鴨長明の危ぐは当たった。
 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション・日本文学大系:校註.第3巻・鴨長明著「方丈記 721頁(491コマ):また、治承四年卯月二十九日の頃(治承の辻風)」)

○全国的大干ばつ、やがて応永の大飢饉へ。戦乱が拍車をかけ、疫病も流行(600年前)[改訂]
 1420年6月~1422年(応永27年4月~応永29年)

 1420年(応永27年)から2年後の1422年(応永29年)にかけて全国的な大干ばつに見舞われ、餓死者が都路にあふれたという。応永の大飢饉のはじまりである。
 1420年(応永27年)は日照りが続き、特に夏になると、奥羽地方から四国に至るまでほぼ全国で大干ばつとなり、畿内・西国では、琵琶湖の水が減って淀川が干上がるなど、農作物への影響が甚だしく被害を大きくした。また関東では鎌倉公方の足利持氏が、4年前に自分に反旗をひるがえした前関東管領・上杉禅秀との戦いに勝利した後、権力を強化しようと、禅秀の遺児や幕府派の諸将の討滅に明け暮れ、戦乱が絶え間なく農民は戦にかり出され、ひでりの上に耕地は馬蹄で踏みにじられるなど、農作物を育てるどころでなく、収穫は激減していた。
 
京都では公家・中原師郷の日記「師郷記」によれば、6月9日(旧歴・4月19日)以降8月20日(旧7月2日)までの間に5回も祈雨奉幣などと神社や寺に雨乞いを続けており、歴史書「建仁以来年代記」には天下大旱魃(かんばつ)と記録されている。
 特に畿内では琵琶湖の水が減って淀川の水が干上がるなど四国から奥羽地方にいたるほぼ全国が大干ばつに見舞われた上、秋になると一転大雨となり、わずか成長した稲などに打撃を与えこの年は大凶作となった。
 翌1421年(応永28年)の記録によると、食料の乏しくなる春になり難民が京都に殺到し、みやこの人びとも洛中人家衰微(蔭涼軒日録)”天下飢饉疫病、人民死亡不可計数(武家年代記裏書)”“山野江河亡人充満(建仁以来年代記)”という状況になった。それに対し幕府は、3月30日(旧・2月18日)五条河原で施がゆを行ったが、餓死者は増え続けるばかりな上、栄養失調のため顔が触れ上がりやがて死亡するという奇病が猛威を振るい、公家や庶民の別なく多くの人々が斃れていったという。
 1422年(応永29年)になっても事態は好転せず、みやこびとの間にさまざまな奇怪な噂が飛び交い、10月1日(旧9月7日)には五条河原で死者を弔う大施餓鬼が行われている。
 
(出典:京都歴史災害研究会編「京都歴史災害年表>1401年-1500年・159頁」、小倉一徳編、力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>1.上代・中世の災害>南北朝・室町時代の主要災害一覧 63頁:応永27~28(1420~1421)全国的干ばつ・飢饉」、日本全史編集委員会編「日本全史>室町時代>1415-19(応永22-応永26)333頁:上杉禅秀、鎌倉公方に反旗、幕府介入により3か月で終息へ」[追加]、「同書>同頁:余燼くすぶる禅秀の乱、鎌倉公方持氏、残党狩りに南一揆を導入」[追加]、同編「同書>1420-24(応永27-応永31)335頁:鎌倉公方持氏、幕府派の諸将を討滅、京都・鎌倉の緊張高まる」[追加]、「同書>同頁:五条河原で大施餓鬼、飢饉・疫病の犠牲者安らかに」。参照:2011年3月の周年災害「応永の大飢饉で幕府施がゆを行う」[追加])

○天文の大飢饉。幕府無力、管領・細川晴元、施餓鬼しか行えず(480年前)[再録]
 1540年6月26日(天文9年5月12日)
 
この日、幕府の実力者、管領・細川晴元が、北野経王堂で飢饉による餓死者を弔う施餓鬼を行った。
 前年の1539年6月上旬(天文8年5月上旬)関東地方は、梅雨時にも係わらず前月から晴天が続いていた。ところが13日(旧暦・17日)になると突然の大雨となり、喜んだのも束の間、翌日から15日(旧・19日)にかけて、夏を思わせる二日続きの炎旱のひでりとなったが、翌16日(旧・20日)は雨乞いの効あってか大雨となり、25日(旧・29日)まで雨は続き人々は喜んだ。ところが過ぎたるは及ばざるが如しで、7月2日(旧・6月7日)川の上流に降った大雨が、中・下流部に押し寄せ、河川は氾らん、洪水となってしまった。
 その後は各地で洪水が7月(旧・6月)から8月(旧・閏6月)にかけて頻発し、近畿及び関東地方で10月7日から8日(旧・8月15日~16日)にかけて、百年以来の大洪水となった。その上、洪水で田畑が流れわずかに実った稲を目指して、全国的にイナゴの大群が押し寄せた“閏六月。八月十五六大洪水、当年世上不熟虫損過(厳助大僧正記 上)”。それは10月下旬から11月下旬(旧・9月中)のことと伝えられている。
 細川晴元が施餓鬼を行った1540年(同9年)は、戦乱も重なって全国的に被害が広がり、年明けの春から夏にかけて、後世“天文の大飢饉”と呼ばれる、近畿地方を中心とした大飢饉となった。醍醐寺理性院の権助大僧正は、その日記に記している“当春世上大キヽン。非人数千万。餓死不知其数。於上京下京之間。春夏中毎日六十人計死人捨之云々(この春、世の中は大飢饉となっている。飢えて人として暮らせない人々が数千万人もいる。餓死する人の数は数え切れない程だ。京都の上京と下京の間では、春から夏にかけて、毎日60人ばかりの死人が捨てられているという)”。
 また、飢えて抵抗力のなくなった人々は、感染症などの病にかかりやすく“天下又大疫。都鄙死去不知幾千万。七百余歳已来如此例無之云々(世の中では飢餓のほか疫病が流行している。都でもいなかでも何千人か何万人かわからないが死亡している。700年の間このようなことの例はないという)”。
 時は、群雄割拠の戦国時代である。このような大飢饉に対し、幕府は政治的にも財政的にも救済する力はなく、東寺など有力な寺院に祈祷を命令するしかなかった。その上、5月25日(旧・4月9日)、7月4日(旧・5月20日)と近畿地方は梅雨前線の襲来で大雨が降り洪水となり、9月21日(旧・8月11日)に襲来した台風は関西から甲州、関東及び会津地方を席巻“五穀、地の底まで風に遭い申し候(会津塔寺村八幡宮長帳)”で大凶作となり、飢饉は全国的規模に広がった。
 そして翌1541年(同10年)は“此年春到餓死候而人馬共死る事無限。百年の内にも無御座候と人々申来り候千死一生と申候(妙法寺記)”という状況で、大飢饉はこの年中続くことになる。
 (出典:日本全史編集委員会編「日本全史>室町・戦国時代>1540-44(天文9-天文13)389頁:京都で日に60人の死者、管領の細川晴元、北野で施餓鬼の法会」、小倉一徳編、力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歷史>1.上代・中世の災害>南北朝・室町時代の主要災害一覧 67頁:天文8~9 諸国凶作・飢饉、天文9.8.11 諸国大風雨・飢饉」、池田正一郎著「日本災変通志>中世 戦国時代 310頁~311頁:天文八年、九年、十年」、荒川秀俊ほか編「日本旱魃霖雨史料>旱魃の部 93頁:天文八年 鎌倉 旱」、中央気象台編「日本の気象史料 1 >第2編 洪水 313頁:天文八年六月 相模国 洪水、天文八年閏六月 近畿諸国 洪水」、京都歴史災害研究会編「京都歴史災害年表>1501年-1600年>185頁~186頁」、国立国会図書館デジタルコレクション・塙保己一編著「続群書類従.第30輯ノ上 雑部>巻第871上>雑部21>厳助大僧正記 上 33頁~35頁(20コマ)」[改訂]、同コレクション・甲斐志料集成.7「妙法寺記 19頁(19コマ):天文10年」[追加])

○永禄から元亀へ改元。戦国時代収束への期待を込めて(450年前)[再録]
 1570年6月6日(永禄13年4月23日)

 戦乱など災異のため改元とある。
 2年前の1568年10月(永禄11年9月 )、織田信長が足利義昭を奉じて入京して以来、天下統一は進んだが100年間続いた戦乱はまだ収まっていない。収束への期待を込めての改元か。
 (出典:池田正一郎著「日本災変通志>中世 戦国時代 319頁:元亀元年」、日本全史編集委員会編「日本全史>室町・戦国時代>1568-69(永禄11-永禄12)410頁:信長、足利義昭を奉じて入京、全国統一へ確かな足取り」)

○明和の大干ばつ-農作物凶作と水不足で年貢減免一揆起き、幕府緊縮予算に追い込まれる(250年前)[改訂]
 1770年6月~9月(明和7年6月~8月)

 この年の夏は全国的に雨が降らず、九州から東北地方まで大干ばつとなり農作物の凶作と水不足が深刻化する。
 特に九州では筑前国(福岡県)秋月藩領、中国の長門・周防両国(山口県)から隣国の安芸国(広島県)にかけて、四国の讃岐国(香川県)と淡路国(兵庫県淡路市)が大凶作。畿内では河内国(大阪府中央部)の被害がひどく稲も大豆も小豆も全く実らず、京都夏の名物、大文字焼も中止となった。
 東海地方では遠江国(静岡県西部)が前代未聞の大干ばつ、関東地方では相模国(神奈川県)足柄地方がひどく、小田原藩では水不足のため1日一人1升(1.8リットル)馬は3升(5.4リットル)と定められる。江戸近郊では干ばつの上イナゴが異常発生して農作物がわずかしかとれず、大根1本が35文から50文(約1000円前後)でも売れたという。東北仙台藩領では表高(額面上の米の収穫高)の5割にあたる31万石余の損害を負った。
 当然、各地で年貢減免を要求した一揆(大衆運動)が多発し、幕府の年貢収納率は最低に落ち込み、緊縮予算を組まざるを得なかったという。
 (出典:日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1770(明和7)727頁:諸国で大干ばつ、各地に一揆頻発し、京都の大文字焼きも中止」、小倉一徳編、力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歷史>2.近世の災害>江戸時代の主要災害一覧・96頁~97頁:明和7閏6~8諸国干ばつ」、池田正一郎著「日本災変通志>近世・江戸時代前期 512頁~514頁:明和七年」荒川秀俊ほか編「日本旱魃霖雨史料>旱魃之部 139頁~143頁:明和七年 諸国 旱魃」)

万延元年近畿・東海大水害。伊勢湾高潮、天竜川氾らん(150年前)[改訂]
  1860年6月28日~30日(万延元年5月10日~12日)
 停滞した梅雨前線のいたずらか、28日(旧歴5月10日)から近畿地方東部や東海地方が連日の大雨に襲われた。
 6月29日(旧暦・5月11日)、尾張(愛知県)伊勢湾で高潮が発生、木曽・揖斐・長良の三川等の氾らんにより、代官支配の村々97村の堤防が破壊され洪水となり12万石相当の被害となった(青窓紀聞ほか)。また天竜川流域では数十年ぶりという洪水が起こり、流域の村々の堤防が決壊し“水下百ヵ村余田畑の亡所(荒れ果てた所)は勿論、家屋敷の流家・潰家・破損家等夥しく、且流家あい逃れ候者共、何れも床上四・五尺(1.2m~1.5m)宛水湛え、有合わせの夫食(食糧)残らず水入れ、農具等まで押し流し(市川浩一家文書)”という状況となった。おまけに下流の中野村(現・浜北市)の堤防が決壊して濁流が馬込川に流れ込み、浜松城下まであふれた水が浜名湖まで達し、浜松宿から舞阪宿(現・舞阪町)までの東海道が一時通行止めとなった。
 また、近江(滋賀県)、山城(京都府南部)では6月中旬(旧・5月)ごろより連日の大雨で諸河川や琵琶湖の水かさが増え、膳所城、名勝・唐崎の松及び瀬田の大橋(大津市)が軒並み水浸しとなり、交通が途絶した。
 (出典:小倉一徳編、力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歷史>2.近世の災害>江戸時代の主要災害一覧 万延1.5.10~12美濃東海地方大風雨」、静岡県編「静岡県史 別編>第3章 静岡県の自然災害のさまざま>第4節 暴れ天竜>4 近世の水害 374頁~375頁:万延1年の水害」、高木勇夫編「明治以前日本水害史年表・33頁:1860(万延1)年(5月)」、荒川秀俊ほか編「日本旱魃霖雨史料>霖雨の部 399頁~400頁:万延元年 諸国 連雨、大水」) 

○備荒儲畜(びこうちょちく)法制定、国の指示による共助の被災者援助政策(140年前)[改訂]
 1880年(明治13年)6月15日

 この日、災害により生活手段を失った被災者や地租(税金)納入が不能になった人びとを援助する「備荒儲畜法」が太政官(内閣)から布告された。
 この法では第一条で“非常の凶荒(凶作)不慮の災害に罹りたる窮民に食料、小屋掛料(住宅手当)、農具料、種穀料を給し、また罹災のため地租を納むるに能はざる者の祖額を補助し或いは貸与するものとす”と規定した。
 ところが第二条で“各府県は土地を有する人民(地主)より地租の幾分にあたる金額を公儲(公に蓄える)せしめ、もって儲畜金を設くべし……”としたため、地主階級が主力の各府県会(議会)で反対が強く、県令(県知事)との衝突事件が起きたという。現在でもよくある、国の指示による“共助”の被災者援助政策であり、議会が反対したのは当然であろう。
 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション「法令全書.明治13年・86頁~88頁(73コマ):太政官布告第31号(別紙)備荒儲畜法」、日本全史編集委員会編「日本全史>明治時代>1880(明治13)年表6.15」)

内務省警視局に消防本部創設され公設(常備)消防組織誕生-70年の歴史を経て自治体消防へ転換(140年前)[改訂]
 1880年(明治13年)6月1日
 
明治維新後12年ようやく新首都東京に公設の常備消防組織が誕生した。
 江戸時代には江戸の街を守る公設の常備消防組織として“定火消”が存在していたが、幕末になるとその組織力を見込まれて多くの隊が幕府陸軍に編制替えされ、最後には1隊128人しか残らなかったという。
 明治維新後の1868年7月8日(慶応4年5月19日)、その1隊も解体され新政府の軍務官の下に火災防御隊として再編成され、江戸城次いで明治天皇の入城後は皇居の消防を担ったが、それもわずか1年ほどの任務で、翌1869年8月8日(明治2年7月1日)には、軍務官の兵部省(現・防衛省)への編成替え7日前同隊は廃止されている。
 そのようなわけで維新後の新首都東京を守る消防は、江戸時代から続く“町火消”がひとり担っていたが、その町火消も江戸町奉行に変わる東京市政裁判所に一時所属し、1868年9月3日、東京府設置と共にそこに所属、1872年5月(同5年4月)には長年親しんだ“町火消”の名称が“消防組”に変更され、一時、東京府から国の司法省警保寮へ移管された後、ようやく1874年(同7年)1月15日、首都の警察・消防を所管する東京警視庁が創設されるに及び同月27日、消防組員は各警察署長の指揮下に活動することになり、翌28日には「消防章程」が制定され近代的な規律に基づいた消防組へと成長、1877年(同10年)2月には「出火消防現場心得」も制定され消防活動も組織的なものになり、現在の“消防団”へとつながることになる。
 しかし、ボランティアの消防組だけではなく、首都防火のためには公設の常備消防の必要性が論じられていたが、明治新政府は、富国強兵の下、資本主義経済の基盤造りや軍隊の整備、不平等条約改正を進める外交活動の強化、大流行する感染症対策への医療関係の整備などに追われ、首都防火・消防の課題は長年、消防組独りが担っていた。
 ところが1879年(同12年)12月と翌1980年(同13年)2月、立て続けに首都東京の経済の中心地日本橋において大火があり、二つの火事で1万2000戸以上が焼失するという天保9年(1838年)以来の惨事を招いた。ここにおいて政府もようやく重い腰を上げ、この日、内務省警視局(現・警察庁)の下、消防本部を創設。消防職員にあたる掛官員を採用し職制も決定、現在につながる公設の常備消防組織を誕生させ、あわせ消防組も同本部に属することになり、首都の防火体制は整備された。
 明治の常備消防組織は江戸時代と異なり軍隊式の制度で、小隊に消防ポンプ2両、小隊司令以下消火卒まで合計43名、3小隊で1中隊とし予備隊1小隊40名を附属した。またその上に2中隊からなる大隊を設け、合計ポンプ12両、342名で消防隊を編成した。
 翌81年(明治14年)1月14日、警視庁が再設置されて消防本部は消防本署と改称。同年6月1日、消防中隊制度を廃止し、消防本署の下、現在の消防署の前身に当たる消防分署が日本橋、芝、麹町、本郷、上野、深川の6ヵ所に設けられた。以後、戦後の自治体消防発足(1948年3月)まで70年近く首都の防火に当たることになる。
 
(出典:東京消防庁編「消防雑学事典 7.公設消防の誕生」、東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の消防百年の歩み>明治中期 35頁~42頁:消防本部の創設」、消防防災博物館編「消防の歴史>2.明治期の消防>(1)主な大火>日本橋の大火」。参照:2018年10月の周年災害「幕府、江戸の街を守る常設火消“定火消”を新設」[改訂]、2018年7月の周年災害「明治新政府、旧幕府定火消を解体し火災防御隊編成」[追加]、2014年1月の周年災害「内務省、東京警視庁創設次いで消防章程を制定」[追加]、2017年2月の周年災害「内務省東京警視本署、出火消防現場心得を制定」[追加]、12月の周年災害追補版(3)「東京日本橋明治12年箔屋町の大火」[追加]、2020年2月の周年災害「東京日本橋明治13年橘町の大火」[追加])

水利組合条例公布され水利土功会を発展的解消、水利と水害予防の2組合制となる(100年前)[追補]
 1890年(明治23年)6月21日
 わが国は古来より、主食である米の水田による生産を経済活動の中心としてきた。収穫量の多い良田を得ていることが貧富の尺度であったが、管理上最大の問題が“水”の問題である。
平常時でも田への水の確保が重要視されていたが、地勢上、台風などの気象災害は避けられず、暴風雨による河川のはん濫、沿岸部の高潮など多すぎる水への防御も、逆にひでりによる干害への手当も米作における重要な課題であり、さまざまな対策が立てられてきた。その主な一つが16世紀末、戦国時代が終末期に入り、米作の経営が安定期に入る時代において、水田耕作を行う農村部で成立した“井(湧き水や川の流水を汲み取る所)組”“水組”と呼ばれた用水組合の成立で、農業用水施設の管理や用水配分の調整を行う組織であった。その組合の特徴は個人を構成員とするのではなく、それぞれの村(部落)を構成単位としていたという。
 また洪水や高潮によって農業用水施設が破壊されたり、水田が耕作不能に陥るほど冠水される恐れがないようにする堤防建設など“水害予防(水防)”の活動も、井組や水組の主な活動となっていた。つまり円滑に水利事業を行うための水防活動が当初から重要視されていた。
 明治時代に入っても江戸時代の地方制度が続いていたが、1878年(明治11年)7月ようやく郡区町村編制法により近代的地方制度が導入された。その2年後の1880年(明治13年)4月、区町村会法が布告され区町村ごとに町村会(議会)が結成されると、第8条の規定により、水利及び土功(水防事業:堤防建設等)のための集まりは、同会の決議により規則を設けて実施することとなり、各部落単位の慣行的な井組や水組の事業が、各町村行政に属する事項となった。
 ついで翌年2月には同法第8条が改正されて町村会の決議による旨が外され、水利土功のための集まりは関係者が独自に規則を設けて行うことが可能となり、3年後の1884年(明治17年)5月の同法改正により、事業に必要な区域を定めて区町村会とは別に、独自に“水利土功会”を組織することも可能となった。
 その5年後の1889年(明治22年)4月、現在へと続く市制町村制が公布されると、翌1890年6月のこの日、“水利組合条例”が制定されることになる。
 この新しい水利組合条例の特徴は、水利土功会の実績に基づき、組合の構成単位を井組、水組以来の伝統的な部落→市町村とするものから離れ、土地所有者個人としたことにあった。“第7条 普通水利組合ハ組合事業ノ爲(為)利益ヲ受クル土地ヲ以テ区域トシ其土地所有者ヲ以テ組合員トス”。また“第2条 水利組合ハ分テ左ノ二種トス、一 普通水利組合、二 水害豫(予)防組合”とし、その事業内容によって分けて組織することが可能となっている。
 当然、事業費は府県税や郡の予算によらず組合員個人の負担である。“第1条 府縣(県)税又ハ郡費の支辨(支出)ニ屬(属)セサ(ザ)ル水利土功に關(関)スル事業(後略)”“第35条 普通水利組合費ハ土地ニ賦課シ、水害豫防組合費は土地及家屋ニ賦課スルモノトス(後略)”と、事業により利益が生まれる不動産の価値を基準に負担することとなった。これは1873年(明治6年)7月の地租改正により土地の私的所有権が確立され、江戸時代の米などの年貢から金銭による税金の納付へと変化したのが背景となっている。
 今ひとつの特徴は、先に述べたように普通水利組合と水害豫防組合をそれぞれ別に組織化できるようにしたことにあるが、分ける上での事業内容は“第3条 普通水利組合ハ用・悪水等ヲ専ラ(もっぱら)土地保護に關スル事業ノ爲設置スルモノトス”“第4条 水害豫防組合ハ水害防禦(御)ノ爲ニスル堤防浚渫(しゅんせつ)沙(砂)防等ノ工事ニシテ普通水利組合ノ事業ニ屬セザルモノヽ爲設置スルモノトス”
 この水利組合法によって、事業対象の区域により区町村とは別に組織されていた水利土功会が発展的に解消し、事業区域も組合員も市町村から独立させた組織の結成が可能となったが、実際は2市町村を越えた事業対象の土地の面積が広い地域だけに組織され、同法上も例外的な存在ではあった“第1条(前略)其利害関係区域、市町村ノ区域ト符合セサルモノ又符合スト雖(いえども)二市町村以上ニ渉ルモノニシテ特別ノ事情ニ依リ市町村若は(もしくは)町村組合ノ事業トナスコトヲ得サルモノアル場合ニ於テハ此法律に依リ水利組合ヲ設置スルコトヲ得”とされ、多くの用水組合は、2市町村以内の町村組合か任意団体として止まっていたという。
 ちなみに1908年(明治41年)4月、同法条文中、水利組合に関わる条文は削除され、水害予防法として改正された。
 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション「法令全書.明治23年 134頁~144頁(387コマ):明治23年法律第46号 水利組合条例」、菊池静香著「川にかかわる伝統的地域組織の成立と変遷に関する一考察>3.水利組織の成立と変遷>3.1 近世の水利組織、3.2 明治期における水利組織」、国立国会図書館デジタルコレクション「法令全書.明治11年・11頁~12頁(38コマ):明治11年太政官布告第17号 区町村編制法」、同コレクション「法令全書.明治13年・72頁~73頁(66コマ):明治13年太政官布告第18号 区町村会法」、同コレクション「法例全書.明治14年・5頁(33コマ):明治14年太政官布告 区町村会法第8条改正」、同コレクション「法令全書.明治17年・36頁~38頁(52コマ):明治17年太政官布告 区町村会法改正」、国税庁編「地租改正」。参照:2020年4月の周年災害「区町村会法布告により各町村内に水利土功会結成(註:当記事の新資料により、不十分で上記と異なる点があります)」)

東京本郷明治23年春木町の火事、たまたまの外出が大火を引き起こす(130年前)[再録] 1890年(明治23年)6月23日
 午前10時半ごろ、本郷春木町二丁目(現・文京区本郷三丁目)の焼豆商・古谷権蔵所有の家屋から出火、折からの西南風の強い風にあおられて炎は四方に広がった。
 当時、戸主は所用があり留守を頼んで上州地方(群馬県)へ旅行していたが、留守を頼まれた男もたまたま外出し不在で、発火の原因はタバコの火の不始末とされた。
 家屋全焼934戸、同半焼39戸、土蔵全焼5棟、同半焼1棟を出し午後1時40分鎮火。
 
(出典:東京都編「東京市史稿>変災篇 第5>明治廿三年火災 1192頁~1193・5.六月廿三日火災」)

コレラ長崎から全国に拡大、死亡率8割を越え最大となる。流行発症地の検疫医全町閉鎖を提言(130年前)[改訂]
 1890年(明治23年)6月27日~12月

 明治19年(1886年)の大流行以来、数年鳴りを潜めていたコレラが6月下旬、突然長崎市内から全国へと拡大した。
 感染は長崎港への入港船からと推定されたが、病勢は猛烈でたちまちの内に市内にまん延、長崎県、福岡県から九州一円へと広がり、山口県から兵庫県、神奈川県へと全国に伝播した。
 中でも流行のすさまじかったのは大阪府で年内半年の内に8815人がかかり7486人が死亡した。東京府では7月23日に初めて発生し、年内の患者4027人で3307人死亡と、ともにその死亡率は8割を超えている。
 流行の最盛期は9月で、全国の新患者数が前月8月の1万1081人から一挙に倍増し2万1466人となったが、10月に入ると病勢は衰え12月は全国の新患者数114人と減少した。この年の全国患者数4万6019人、死亡者3万5227人、死亡率76.5%は明治期の大流行年における最大数値となった。また翌1891年(明治24年)も10月の4776人をピークに前月の9月3342人、次の11月1674人と、珍しく秋になって大流行となり年間患者数1万1142人、死亡者7760人、死亡率69.6%と死亡率は減少させたが、2年越しの大流行をくりかえしている。
 ちなみに1890年(明治23年)当時、東京におけるコレラ流行の発祥地でもっとも激烈だったという京橋区(現・中央区)の常備検疫医であった佐藤保が、区内でのコレラ発生報告で次のように証言、提言している。
 “土地が不潔であるのは病毒の発生を促し、飲料水(井戸水)の不良であることが病毒媒介につながる”よって“町全体という大きいものに対して遮断(閉鎖)することを希望する(中略)流行期間中は他町に移動することを禁止し、流行を予防して他の一般人民に及ぼす不幸、損害を免かれることを望む”また当時の感染症専門病院である避病院への送院について“自宅治療のときにはその伝染が最も速やかであって、容易に家内中の者を感染させる”と治療体験から家族感染を指摘“避病院への患者送院を欲しないことは、家族全体を患者にしてしまう”と、当時の避病院忌避の風潮に対し危険であると釘を刺している。
 2020年代の新型コレラ対策に130年前の感染症対策の貴重な提言が、どの程度受け継がれているのだろうか。
(出典:内務省衛生局編「法定伝染病統計 6頁~7頁:第3表「コレラ」月別累年比較」、山本俊一著「日本コレラ史>Ⅰ 発生および対策篇>第4章 憲法発布前後 74頁~86頁:第3節 明治二三年」)

○警視庁で科学的な諸検査開始。元土佐藩士の警視総監田中光顕、暗殺現場確認の体験生かす(130年前)[再録]
 1890年(明治23年)6月30日
 警視庁史の「田中(光顕)警視総監時代の事跡」の中に、明治23年6月30日“技師技手を置き警察上の科学的検査に従事”との記録がある。
 一方、消防関係の年表によると“…警察上の…”のところが“…警察消防上の…”となっている。これは当時、消防本署が警視庁内に設けられていたので、“…警察上の科学的捜査”には火災関係の科学的捜査も行われていたとの解釈であろう。
 当時の警視総監・田中光顕は在任中、巡査勤務要則などの規則を決め組織強化を図っているので、近代警察(消防)として、捜査面でも強化を図ったと見られる。また、かつて土佐藩士として陸援隊に参加、1867年12月(慶応3年11月)隊長の中岡慎太郎が坂本龍馬とともに暗殺された際、現場に駆けつけ状況を見た。というから、その時のくやしい体験から、犯罪現場における犯人捜査活動に科学的方法を導入しようとしたと思われる。
 その後警視庁は、1911年(明治44年)4月、刑事課に鑑識掛を設け指紋鑑定による捜査活動を開始するなど、現在の科学捜査研究所(室)、つまり“科捜研”を中心とした“科学捜査の警察”へと発展していく。
(出典:警視庁史編さん委員会編「警視庁史>巻頭>田中警視総監時代の事績」、同編「同書>第1 明治編>第8節 明治の末期>第2 諸制度の制定と改廃 481頁~483頁:6 指紋法の採用」。参照:2018年10月の周年災害「犯人指紋検挙法制定」[改訂])

○道路取締規則制定、左側通行決まる。警視庁PRに奮闘、ただし最初の公的規定は1872年東京府(120年前)[改訂]
 1900年(明治33年)6月21日

 20世紀目前の首都東京では“車”が増加、馬車、人力車をはじめ自転車も交通手段として一般化しつつあり、この日警視庁は、道路交通情勢に対処した規定、道路取締規則を警視庁令第20号で制定した。
 その内容は、道路の使用と管理、通行区分など総合的なもので、中でも通行区分として諸車と牛馬は車馬道(車道)の“左側通行”、車馬道がない道は“中央通行”、歩行者はみだりに車馬道を通行しないようにと決めたが、実施上の混乱が絶えないので、翌1901年(同34年)4月の警視庁告諭第3号では“将来通行上益々頻繁に赴き(おもむき)交通機関益々複雑と爲り、随って(なり、したがって)之より生ずる危険も亦(また)自ら増加すべく”と、将来予測される交通事情を説明し“自今(以降)更に左の件々を遵守し、常に自他の危害予防を怠らず様一層注意ヲ行うべし”と呼びかけた上で、“一 人道車道の区別ある場所に在りては各人道の左側を通行すること”“一 区別なき場所に在りては其左側を通行すること”と歩行者の左側通行も明示した。
 その時のいきさつについて、原案を作成した松井茂警視庁第二部長(交通警察責任者)によると“左側通行のことであるが、従来我が国の如き歩道車道の区別のない場所では、之を欧米に比べると交通状態は寧ろ(むしろ)困難点が少なくなく、悠々(ゆうゆう)其設備を待つ暇もないので(中略)時の警視総監安楽兼通氏に警視庁告諭の形式を以て左側通行を行うべく建言したのであるが、総監は其事の重大なるを鑑みて、時の内務大臣末松子爵に稟議せよとのことで、予は親しく同子爵を訪ねて其承諾を得た……(警察協会雑誌・大正13年6月号)”と述べている。
 また告諭のPRのため警視庁では、人通りの多い通りには掲示をするほか、警視総監から軍隊や諸官庁へ、各警察署長から各学校や工場へ、各消防署長から消防組(現・消防団)へ、当時の“車”の中心で運転手の人力車夫に対しては、各組合の取締を各警察署に招集して説明するなど、この新しい道路の使い方について手を尽くして周知している。
 この左側通行制は、1920年(大正9年)12月、内務省令第45号道路取締令の施行で全国的に行われることになった。ちなみにこの左側通行だが、日本以外はイギリスとインドなどかつてのイギリス植民地ほか数十か国という世界的に見ても少数派だが、なぜ日本がそれを取り入れたかは諸説あって定まっていない。しかし公的な規定ヲ見ると1872年4月(明治5年3月)に出された東京府の馬車規則の中に“馬車行逢候節ハ(馬車が互いにすれちがう時は)互ニ左ニ寄(せ)過失無之機様可致(過失が無いように)(後略)”とあり、すれちがう時は左側に寄せるようにと規定しているのが左側通行を最初に定めたものという。なお船舶の場合は右側に寄せる(左舷通過:右側通行)と決まっている。
 (出典:道路交通問題研究会編「道路交通政策史概観 論述編>第1編 前 史>第2章 道路交通法令の制定とその実施状況>第1節 明治期-人力・畜力による輸送手段->第4 道路取締り規則と左側通行」、同研究会編「同書>第1編>第3章 道路交通事故とその対策>第1節 明治期における交通事故と防止対策>第1 交通事情概観>(2)交通事故防止対策>③ 左側通行」[追加]、国立国会図書館デジタルコレクション「官報.1920年12月16日>省令 450頁~451頁:内務省令第45号 道路取締令」、同コレクション・高橋雄豺著「警察論叢>第1編 警察の実務 131頁~134頁(73コマ):5 左側通行制の起源[追加])

高岡明治33年の大火、市街地の6割が壊滅-土蔵塗り耐火建築へ(120年前)[再録]
 1900年(明治33年)6月27日

 激しい西南風のさなかの午後2時ごろ、市の中心部二番町の桶屋の不用意なたき火から、火の粉が烈風にあおられて飛び各町へ延焼、33町1095平方kmを焼いて夜中の12時にようやく鎮火した。
 市役所、警察署、郵便局など主な建物を含む3589戸が全焼、25戸半焼、破壊30戸、7人死亡、46人負傷。市人口の大半2万9000人余が被災した。
 市は大火後、区画整理をして道路を拡張、土蔵塗りという関東風の耐火建築を奨励した。現在でもその面影は残っており2000年(平成12年)12月、中心0の山町筋は国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。
 (出典:高岡市役所企画課編「災害史の概要>第1章 火災の部>火災の概況 15頁~18頁:明治三十三年大火災の記録」、高岡市教育委員会生涯学習・文化財課「山町筋重要伝統的建造物群保存地区>山町筋の歴史」)

大正9年北海道夕張北炭北上坑ガス爆発事故。会社側一人も救出せず遺体も埋めたまま坑口閉鎖(100年前)[改訂]
 1920年(大正9年)6月14日

 北海道夕張の北海道炭鉱鉄道(北炭)北上抗で起きたガス爆発は、坑内の局部的なガス流出からガス爆発を誘発して全坑内に波及、さらに隣接する大新抗に及んだ。
 爆発により、坑口周辺の建物や設備は爆風のため破壊され、坑内では炭じんにも引火し、爆発が起きるたびに坑口から焼けただれた坑木が飛んでくる激しさだったという。そのため独りも救出せず遺体も収容されないまま坑口は密閉された。坑内夫ら209人死亡(うち女子坑夫12人)、7人負傷。
 会社側のこの仕打ちに対し、当時の夕張抗夫組合・夕張連合会は、抗議のしるしとして、末広共同墓地に「北上抗遭者之碑」を義援金で建立、碑の両面に未救出の犠牲者全員の名前を刻み込んだ。
 当時北炭は、日本も勝利国の一員となった第一次世界大戦(1914年~1918年)の反動不況をどう乗り切るかという経営は瀬戸際で、この大事故は同社にとって大きな傷手となった。その後出炭制限を行って苦境を乗り切ろうとしたがそれだけでは足らず、この年の11月には同社真谷地炭鉱を縮小して300人を解雇、さらに翌1921年(大正10年)には賃銀平均2割削減の方針を打ち出している。
 しかし、爆発時実行した坑口封鎖は、空気中の酸素の供給を絶って自然鎮火を待つ方法で、これ以上の施設の損害を防ぐ方策だが、坑内に生存者がいた場合は、明らかな死刑宣告で“坑夫になりたい奴はいっぱいいる”として、人命よりは再建費用をまず考えた会社側に対する坑夫仲間の怒りは収まらなかったであろう。
 
(出典:夕張市史編さん委員会編「夕張市史 下巻>第4章 炭鉱災害・炭鉱用語>第1節 炭鉱災害 137頁:北上抗爆発」)

蟹工船エトロフ丸漁夫虐待・虐殺事件。弱小地方資本による無理な操業の末(90年前)[追補]
 1930年(昭和5年)6月5日

 この日、富山工船(株)が船歴32年の老朽船を蟹工船に改造、350人の漁夫、雑夫を乗せ、カムチャッカ半島東岸沖ベーリング海で操業中、虐待事件を発生させ2人が死亡したが、その後の調査により16人の死者と野菜不足と汚れた飲料水などから百何十人に及ぶ病人がいたことがわかった。
 当日の虐待について東京朝日新聞は報じている。“6月5日、80余名の漁夫を船艙に押し込め棍棒で殴打し、そのため清水繁松ほか2名はその場で昏倒し……1週間後に死亡した”“食糧の腐敗から漸次病者が増加し百余名に達した。思うように漁撈ができなくなったところから、脚気で足も立たぬ者も無理矢理引きずり出し、きかない者は六尺棒で殴打しながら20時間も強制的に働かせ”と。
 小林多喜二が描いた名作小説「蟹工船」以上の実態だが、同船の歴史は比較的新しく、1920年代(大正10年代)以降、漁場で獲った蟹をその場で缶詰にするという新しい発想が発展に結びついたという。蟹の缶詰工場の船というところから“蟹工船”と呼ばれた。
 その主な漁場は“北洋”と呼ばれる海域で、地球の北端に近いシベリア東部のカムチャッカ半島と北海道の北、サハリン島及び北海道、その東にあるクリル列島(千島列島)に囲まれたオホーツク海、そしてカムチャッカ半島東部に拡がるベーリング海で、この海域での漁業を北洋漁業と呼んでいる。
 北洋海域は世界三大漁場の一つと言われるほど漁業資源の豊かな海域だが、原住民は当時のロシア帝国に収奪され、漁業資源に目を向ける余裕は無かったという。一方、日本人は18世紀末ごろから、千島列島からサハリンまで進出、北海道、当時の蝦夷地南部を支配していた松前藩では、現地のアイヌ人との交易の品々の中に、日本海域北部やオホーツク海域での漁獲物が重要な地位を占めていた。昆布、ニシン、シャケ、マスなどの加工品が、北前船によって瀬戸内や京、大坂など上方に運ばれ、今日も関西の食文化を支えている。
 一方、本題の蟹だが、干物や塩蔵に適さない甲殻類の特性から、長く水揚げ地周辺での生食に止まっていた。しかし20世紀に入ると缶詰加工技術が発達、1905年(明治38年)、06年(同39年)ごろには、大きくて生産性がよく食味も良いタラバガニ漁場近くの宗谷海峡周辺や、根室地方を中心としたオホーツク海沿岸部に蟹缶詰工場が建設され、1905年(明治38年)から1910年代(大正初期)にかけて、当時、蟹を禁漁にしていたアメリカをはじめヨーロッパ諸国への輸出がはじまった。
 ところが、魚類と異なり回遊性のない蟹は捕獲が容易なこともありたちまち資源不足に陥り、味を保持するために鮮度の高い沿岸部での漁獲にたよる、陸地の蟹缶詰工場の経営に限界が見えてきた。そこで船に缶詰製造機械を積載して漁場に出るという発想が生まれことになる。
 1914年(大正3年)6月、農商務省水産講習所(現・東京海洋大学)の練習船雲鷹丸が、カムチャッカ半島西岸のキクチク沖で蟹刺網漁の実習を行い、タラバガニ170匹を船内で直ちに缶詰化する試験を行い成功した。これが“蟹工船”のはじめである。その後1921年(大正10年)、はじめて企業的な蟹工船が建造されて間宮海峡沖に出漁し成功する。これは1924年のノルウエーによる捕鯨工船操業に先立つ、世界ではじめての工船式漁業の成功であった。
 蟹工船は複数の船舶によりチーム化されている。母船であり缶詰工場である“工船”に、川崎船と呼ばれる漁船が10隻程度と、独航船という漁場調査や川崎船を曳航する司令塔の船が積載されており、漁場に来るとそれらが降ろされ、独航船の漁場確認にしたがい川崎船による蟹漁がはじまる。漁獲を終えて川崎船が母船めがけて帰ってくると、船ごと母船に引き揚げ、母船はさっそく缶詰工場となる。
 その蟹工船で、なぜ漁夫に対する虐待や虐殺が起きたのか。小林多喜二が漁夫に“おい、地獄さ行(え)ぐんだで!”と叫ばせたのか。
 そこには蟹工船漁業特有の問題があった。それは当時、蟹の缶詰が輸出向けドル箱商品であったので、生産を維持するため、国は蟹資源が枯渇にならないよう資源保護を行い、蟹缶詰を生産する企業数を制限、蟹工船の数も許可制となっていた。その上、タラバガニの漁期が年1回なので、企業が投資する資本の回収の機会が年1回しかなく、参加企業はその1回の回収のために、最大限のコスト削減の中で最大の漁獲高及び生産高を狙った。
 最大限のコスト削減の手段としてとられたのは、① 船齢が平均25年と見られていた時代に40年以上の老朽船を蟹工船に仕立てた。② その上安く入手できる限度ギリギリの大きさの船を買い、缶詰工場のほか漁獲をする川崎船を極力多数積載し、最初から船室(寝室)など生活空間が狭いのに200人~400人の漁夫や雑夫(ぞうふ)を極力積み込み、野菜貯蔵庫なども狭く、新鮮な野菜などを補給する仲積船も抑えていた。③ その老朽船の修理を怠ったので、飲料水タンクの汚染、浸水事故が多発した。④ 缶へ蟹肉を詰めるのは、14歳前後の少年の方が向いているということもあり、熟練した18歳を中心に35歳以下が約82%という人員構成で、給料は低い上その約4割が支度金と称する前貸金で家族の生活費になり、仕事の必需品の長靴などは船内の売店で買うが貸付金である。配当金の「九一金」の内、1割はもらえるがこれは漁獲次第ということであり、1929年(昭和4年)の物価が現在の1700分の1として換算すると、120日働いた16歳の雑夫の手取りが3円73銭(約6500円)、47歳の漁夫が同じく15円32銭(約2万6000円)だったという。これが年収である。
 次いで、最大の漁獲を狙った長時間労働は、北極に近く白夜の長い北洋海域の特徴それを可能にしていた。1930年(昭和5年)ベーリング海出漁の場合。起床午前4時、作業終了午後8時の拘束16時間のうち食事に40分間の3回で2時間、休憩が15分間の2回あり30分間、作業時間は13時間半となる。これが平均だったというが、5,6月の蟹漁最盛期では18時間を越える拘束時間で、睡眠時間は2、3時間しかとれなかったという。また当時、一般的には航海法と工場法で乗船者、労働者の権利は守られていたが、蟹工船は明らかに船舶であり工場であるにもかかわらず、国の所管役所では、漁夫たちは“臨時乗客”として扱われ、“乗客”として工場法の対象から外れ、“臨時”であるとして航海法の対象からも外され、国の保護は何もなかったという。
 その上、漁夫や雑夫たちの低い給料や労働の実態から反抗を予測し、会社側は事業主任、漁𢭐主任、工場主任などの名目で労務管理者たちを乗せ、漁獲高、缶詰加工高を見て競争をあおり、時には虐待してでも操業させていた。
 本稿のエトロフ丸虐待死傷事件は起こるべくして起こったといえる。蟹工船漁業の初期1920年代から30年代にかけて数多く起きたという虐待事件の一つで、その最後で最大の被害者を出した事件であった。最後になったのは、国の認可が大資本優先で、遅れて認可された地方の業者が漁獲量の不安定な漁場を与えられたこと。人材不足の末、遠洋漁業が素人で事故の起こし屋と言われていた船長とモグリの医者や暴力的管理が常習の幹部などを採用した上に、功を焦り無理な操業を続けた結果ではなかろうか。(出典:井本三夫著「蟹工船から見た日本近代史」)

○安保闘争デモ国会議事堂前で警官隊と衝突、軍事協力をうたった新安保条約に“戦争反対”の叫び高まる。
 東大生樺美智子さん警官隊に虐殺ー54年後自民党安倍政権“
集団的自衛権行使容認”を閣議決定(60年前)[改訂]
 1960年(昭和35年)6月15日

 
この日全国的な反対闘争の目的とされたのは、日米安全保障条約の改訂だが、新条約のフルネームを見ればその内容が見えてくる。国会に条約調印後報告・要請された同条約の正式名称は“日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約”と名付けられていた。つまりこの条約は日本とアメリカとの2国間条約であること。安全保障のための条約であること。そのためには両国が相互協力をすること。だが、新安保で初めて提起された“相互協力”とは、アメリカとどのように協力するのか。それらがあいまいにされたまま、事前の国会審議もなく、条約がアメリカとの間で調印されたのが安保闘争のきっかけとなっている。
 最初の日米安全保障条約(旧・安保条約)は、1951年(昭和26年)9月、アメリカをはじめとする第二次世界大戦の連合国側と日本との間の戦争状態を終結する“対日講和条約(平和条約)”と同時に調印されている。
 実は対日講話の前年1950年6月、朝鮮半島において朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)両軍が、臨時境界線となっていた北緯38度線で激突した。当時、世界はアメリカをはじめとする資本主義国とソビエト社会主義共和国同盟(連邦とも:ソ連、現・ロシアなど)をはじめとするいわゆる社会主義国が政治的に対立、各地で紛争を起こしていたが、米ソ両国自体は直接戦わないので“冷たい戦争(冷戦)”と呼ばれていた時代であった。
 しかし、朝鮮戦争は当初韓国軍が劣勢になると、7月にはアメリカ軍が投入され、9月の仁川上陸作戦以降、北朝鮮軍が半島北部まで追い詰められると、10月今度は中国が参戦しソ連は武器などの補給支援を行い、アメリカは北朝鮮弾劾・武力制裁決議を国際連盟(国連)で通過させ、加盟各国の内資本主義各国も参戦するなど、実質的な両体制による戦争となっていた。
 一方、日本は開戦当時アメリカ軍の占領下にあったので後方基地となり、掃海部隊の派遣、アメリカ軍基地労働者による兵員、軍需物資の輸送、従軍看護婦など直接朝鮮半島に派遣され死傷者も出していた。
 アメリカは開戦前年の1949年10月、中国において国民党との内戦に勝利した共産党による中華人民共和国が誕生するに及び、東アジアでの共産主義勢力の拡大をおそれ、日本占領軍総司令部(GHQ)を通して6月、日本共産党中央と党機関誌アカハタ編集部員の公職からの追放を、時の自由党(現・自由民主党)吉田政権に指示。朝鮮戦争がはじまり、半島情勢打開のため日本占領の余力がなくなると、まず7月8日、後の自衛隊に成長する警察予備隊の新設を指示、24日には新聞協会代表に共産党員と同調者の追放を指令した。世にいう“レッドパージ”の旋風が、メディアだけで無く官庁・役所、民間企業に吹きまくる。対日講和条約はこのような情勢の下に計画・準備され、急きょ前記のように翌年9月、日米安全保障条約(旧)と抱き合わせで同日調印されている。
 アメリカが日本に旧安保を調印させた目的はその第1条に明記されている“(前略)アメリカ合衆国の陸軍、空軍、及び海軍を日本国内及びその付近に配備する権利を、日本国は許与し(中略)この軍隊は(中略)一又は二以上の外部の国による教唆又は干渉によって引き起こされた日本国における大規模な内乱及び騒じょうを鎮圧するため日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与する(後略)”。条約にいう“安全保障”とは、共産主義勢力による国内侵攻や内乱、クーデター、騒じょうから時の自由党吉田政権を安泰させる保障であった。
 そして9年が経ち1960年(昭和35年)、当時の自民党・岸信介政権は、その安保条約の改定を図り“条約の締結権は内閣にあり(憲法73条3項)”とし、1月19日ワシントンで改定条約に調印、5月に入り国会の承認を求めて報告要請したが、これに対し条約内容も含めて野党が反発、5月20日、自民党単独で強行採決された。
 反対派が懸念したのは旧安保と異なり、そこに新しく“相互協力”がうたわれていたのである。新安保では内乱に対する援助は削除されていたが、第5条において“日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め(中略)共通の危険に対処するように行動する”とあり、この“日米共同防衛”と呼ばれている条文は“日本国の施政の下にある領域における”という地域限定の姿ではあったが、これは明らかに軍事協力であり、この新安保条約によって、アメリカの軍事体制へより強く組み込まれて戦争に参加する危機を感じていた。また第6条で“施設及び区域の使用並びに日本国における合衆国軍隊の地位は”として規定された“日米地協定”特に第17条は、明らかに治外法権をアメリカ軍に与えていたので、日本の独立国としての矜持も高まり“平和と独立”を共通のスローガンに全国的な反対運動が起きた。またかつて岸首相が太平洋戦争中の閣僚であったことによる不信感が強行採決によってさらに強まり、反対派はこれを民主主義の危機としてとらえ、運動は闘争としてより一層鋭さを増していった。
 新安保条約が自然成立を迎える4日前のこの日、6月15日の“安保改定阻止第二次実力行使”は、全国で580万人が参加、国会議事堂を数十万人のデモ隊が取りまいた。
 ところが午後5時20分ごろ、岸首相から直々の要請と活動資金を渡された児玉誉士夫率いる右翼行動隊やヤクザ集団が、参議院第2通用門付近を行進していた新劇団体など女性の多いデモ隊を狙って突入、暴行を加えたが警官隊は止めもせず静観していた。国会南通用門付近でこの報告を聞いた全日本学生自治会総連合(全学連)を中心としたデモ隊は、午後5時50分、国会構内で抗議集会を開こうと突入を試みた。警備に当たっていた警官隊は放水車2台で応戦、約20分に及ぶ攻防の末、デモ隊はいったん退去したがふたたび突入、午後7時20分約4000人のデモ隊は構内への突入に成功、抗議集会を開いた。しかし午後10時7分と翌16日未明、警官隊は実力を行使してデモ隊を強制排除した。
 この一連の衝突により、東大生樺美智子さんが死亡、43人重傷、546人軽傷、182人が逮捕された。樺さんの遺体は家族の希望により解剖に付された。その結果について担当医は“眼にひどいうっ血があり、これは首を強く締め付けられたことによる。ひどいすい臓の出血は上から踏みつけられたことによる”と所感を述べている。デモ隊の特に女性を狙った暴行は、右翼、ヤクザ、警官隊を問わず、安保闘争に対する共通の暴力的鎮圧行為であった。
 ちなみにその後の自民党政権は、新安保条約で日本国内に限定していた筈の日米共同防衛について次々と拡大解釈をし、自衛隊海外派遣とアメリカとの軍事提携強化など、安保闘争の課題はなし崩しにされていく。
 その① 1983年(昭和58年)1月、中曽根首相がワシントンポスト紙会長宅で、ソ連の進出に対する日本列島“不沈空母発言”。これはソ連のアメリカに対する攻撃に対して津軽海峡を封じて戦うとしたもので、専守防衛から逸脱として論議を呼んだ。
 その② 1990年(平成2年)8月、イラク軍がクウェートに侵攻“湾岸戦争”開始に対し、国連は一致して武力行使容認を決議、翌1991年1月、多国籍軍が構成されイラクへ攻撃開始。一方、日本の海部政権は開戦の月8月、多国籍軍への資金協力を決定した。しかしアメリカから批判を浴びたことにより“国際貢献”のためとし“PKO(国連平和維持活動)協力法”を成立させ、翌1991年(平成3年)4月、海上自衛隊掃海部隊の“ペルシャ湾派遣”を行い、兵力の展開を日本国内に限定していたのを解釈変更し“自衛隊の海外派兵”への道を初めてひらいた。
 その③ 2003年(平成15年)6月、2001年9月に起きた“対アメリカ同時多発テロ”に対するアメリカ軍の報復攻撃を小泉政権が支持“武力攻撃事態対処関連3法”を成立させたが、この“有事法制”は憲法第9条の戦争放棄と矛盾すると議論が高まるが、懸念されたとおり、次の安倍政権が閣議決定で決めた“集団的自衛権の行使容認”への橋渡し的役割となった。
 その④ 2014年(平成25年)7月、中国による沖縄県尖閣諸島の自国固有領土説や北朝鮮軍ミサイル武装化などを理由に、安倍政権は“戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認”を規定した憲法9条の条文が、他国との軍事協力を含む集団的自衛権による武力行使を否定するものではないとした新たな3要件を閣議決定し、従来の政府解釈を変更した。
 これはそれまで安全保障関係を最重要案件として扱い、国会審議や法制化など、国民の前で公開してきた必要な論議をすべて飛ばしたものであり、安保闘争において最も懸念され闘争の中心的課題であった、防衛力のアメリカ軍事体制への積極的な組み込みであった。首相の安倍晋三は祖父・岸信介が路線を引いた安保体制をこれによって一層強化したことになる。
 その一方、沖縄県などアメリカ軍基地周辺で、同軍将兵による事故や犯罪が起きた時、常に問題となっている日米地位協定の改定には少しも乗り出しておらず、最近の同軍基地内での新型コロナ情報は、集団感染を起こしクラスター化しているのにもかかわらず新感染者の人数だけで、両国の協力による感染対策など打ち出しようもなく、基地周辺への感染拡大の懸念はますます高まっている。
 (出典:日本全史編集委員会編「日本全史>昭和時代>1960(昭和35)1119頁:全学連主流派が国会突入、警官隊と激突、樺美智子さん死亡」、同編「同全史>昭和時代>1950(昭和25)1099頁:朝鮮戦争勃発、日本国内にも緊張高まる」[追加]、「日本再軍備か?警察予備隊が新設される」[追加]、「共産党員と同調者を追放、レッドパージ始まる、労働運動は沈滞」[追加]、国立国会図書館デジタルコレクション「官報.1952年04月28日 条約第6号 日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」[追加]、外務省編「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」[追加]、同省編「日米地位協定>第17条 刑事裁判権」[追加]、教材工房編・世界史の窓「湾岸戦争」[追加]、外務省編「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(PKO法)」[追加]、茂木寿著「米国同時多発テロが与えた影響」[追加]、防衛省編「平成15年版 防衛白書>第3章 緊急事態への対応>第3節 国家の緊急事態への対処にかかる取組など>1 武力攻撃事態などへの対応に関する法制への取組>武力攻撃事態対処関連3法の概要」[追加]、参議院外交防衛委員会調査室 沓脱 和人著「集団的自衛権の行使容認をめぐる国会論議―憲法解釈の変更と事態対処法制の改正―」[追加] 。参照:2018年1月の周年災害「佐藤首相、施政方針演説で非核三原則堅持言明、ノーベル平和賞受賞も裏でアメリカと密約」[追加]、2013年6月の周年災害「小泉自民党政権、アメリカのイラク侵攻を支持し、武力攻撃事態対処関連3法成立」[追加])

防災の日を閣議了承防災への意識強化に課題が(60年前)[改訂]
 1960年(昭和35年)6月17日

安保闘争のデモ隊が国会議事堂で警官隊と衝突し、590人もの死傷者を出した2日後「防災の日」が閣議で了承された。
 その主旨は“広く国民が台風高潮、津波、地震等の災害について認識を深め、これに対処する心構えを準備する”ということで、関東大震災の日の9月1日が選ばれた。また9月1日はいわゆる二百十日にあたり、例年台風の襲来が多いとされている日であることもこの日が選ばれた背景になっている。また当日の行事としては防災訓練、防災思想の普及、防災功労者の表彰が考えられ実施されている。
 創設の主旨から当日の主役であるべき一般住民は、防災訓練に災害ボランティアや自主防災組織の一員として組織的に参加してはいるが、むしろ当日の訓練の実際の主役として、消防、警察、自衛隊、海上保安庁など国または各地方自治体の防災関係機関の方が装備や訓練度などから目立っており、イベント化しているとの問題点が挙げられており、この日の活動で、防災への意識をどのように一般に徹底化するかが求められている。
 防災の日を創設したのは、前月の5月に“国民安全の日”を閣議決定したのに続く一連の処置だが、この閣議決定の日から推測して、防災の相手は過激派ではないかとささやかれたという。
(出典:国立国会図書館・リサーチナビ「防災の日の創設について」。参照:2010年5月の周年災害「国民安全の日を閣議決定」)

昭和55年、夏の低温・多雨・日照不足で戦後最大の冷害となる、被害農耕地全国の53%[追補]
 1980年(昭和55年)6月末~8月
戦後最大の冷害となった1980年(昭和55年)の冷害は、6月末から8月にかけての異常な低温と、大雨および日照不足に影響された。
 特に6月末から8月にかけて、例年北洋オホーツク海に発生する高気圧の勢力が強く、その影響で北海道、東北地方から関東、北陸、中国地方及び四国北部、九州北部に及ぶ全国の広い範囲で、例年より平均1.5度から2.5度も低いという1948年以来の低温を記録して九州南部を除き冷夏となった。
 なかでも東北地方太平洋沿岸に冷たい北東気流が入り込み、8月の平均気温が平年に比べて盛岡で3.4度、仙台で3.9度、東京で3.3度、福岡でも2.7度と軒並み低く、農作物、特に水稲の作況指数は全国平均、平年値の87(%)という“著しい不良”となり、1953年(昭和28年)に続く戦後2番目の凶作となった。
 その上梅雨前線が本州全域から南岸に停滞することが多く、活動が活発であったので東北地方と九州地方に曇り空や大雨が続き、7月から9月にかけての雨量は、例年とくらべ青森県八戸で157%、岩手県宮古で155%、仙台で151%を記録、岡山191%、呉224%、下関293%、四国松山197%を記録したのをはじめ、北九州各地では福岡307%を筆頭に飯塚254%、日田253%,平戸227%,佐賀225%、熊本212%と例年の2倍以上に及ぶ雨量となった。
 その影響は畑作物を直撃、冷害となった被害面積は野菜の7万ヘクタール(700平方km)以下、飼料作物300平方km、果樹200平方km、雑穀・豆類100平方km、その他畑作物500平方kmになり、冷害を受けた農耕地は、水田も含めて全耕地面積の52.7%に当たる288万6000ヘクタール(28万6000平方km)に上るという戦後最大の冷害となった。なかでも飼料作物の不作は畜産農家も直撃している。
(出典:気象庁編・災害をもたらした気象事例「昭和55年7~8月の低温・多雨・日照不足」、小倉一徳編、力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>Ⅵ 豪雪災害・冷害・干害>4.冷害・干害・飢饉の事例 579頁~580頁:昭和55年の冷害」)

平成2年梅雨前線豪雨災害、浸水被害多く床上1万棟余、床下4万棟弱(30年前)[再録]
 1990年(平成2年)6月27日~7月3日
 この年の梅雨期間の降水量は関東甲信地方で50%と少なく、全国的には平年の70%程度だったが、6月2日の梅雨入り後、九州地方と東北地方を中心にしばしば大雨が降るという地域的にかたよった状況だった。
 特に6月27日、北陸から東北南部にあった梅雨前線上を低気圧が東進、山形県の鳥海山で1日の降水量が392mmのほか同県内、秋田、宮城の各県では1日100~200mmの豪雨となり、浸水被害が広がった。
 28日から7月3日にかけては、同前線が停滞した九州地方が豪雨となり、熊本、佐賀、長崎の各県で1日の降水量が300mmを超えた地域では土砂崩れ、浸水などによる大きな被害を出した。
 全体で32人死亡、19人負傷。住家全壊219棟、同半壊290棟、同床上浸水1万186棟、同床下浸水3万9419棟。
 
(出典:気象庁編・災害をもたらした気象事例「梅雨前線・平成2年(1990年)6月2日~7月22日」)

○雪印低脂肪乳集団中毒事件。工場の停電で黄色ブドウ球菌発生、加熱殺菌を信じ加工・販売(30年前)[改訂]
 2000年(平成12年)6月25日~8月1日

 雪印乳業(株)大阪工場で製造された“雪印低脂肪乳”を飲んだ子どもが、おう吐や下痢などの症状を起こしたのは6月25日がはじめという。27日、子どもを診察した大阪市内の病院から大阪市保健所へ食中毒の疑いが報告された。
 翌28日、大阪市は同工場に対し同製品の製造自粛と自主回収および事実の公表を指導、29日には食中毒事件の発生を記者発表、30日には製品回収命令を出した。
 しかしこの間、雪印乳業による事故報告の記者発表や社告の掲載、果ては大阪市命令の製品自主回収も遅れたため、被害は関西一円に拡がり、最終的には被害者1万4780人という、近年例を見ない大規模集団食中毒事件となった。
 7月2日、大阪府立公衆衛生研究所は問題の低脂肪乳から黄色ブドウ球菌を検出、大阪市はこれを病因菌とする食中毒と断定、大阪工場を営業禁止とした。一方、雪印乳業も11日、全国の21工場での市販牛乳の生産を停止、当時の厚生省(現・厚生労働省)が安全宣言をしたのは翌月の8月2日である。
 原因菌の黄色ブドウ球菌が発生したのは、3月31日。同社北海道大樹工場で約3時間停電、生乳からのクリーム分離過程で脱脂乳が加熱された状態で約4時間も滞留し、余った脱脂乳を貯めておく濃縮工程の回収乳タンクでも9時間以上も冷却されずに放置されたので、その間黄色ブドウ球菌が増殖、毒素が発生したものとわかった。
 翌4月1日同工場では、本来なら滞留した原料は破棄すべきところ、殺菌装置にかけ菌を死滅させることで安全と判断、滞留した脱脂乳から脱脂粉乳を830袋製造した。その後の検査でこのうちの450袋には異常が認められなかったので他の加工工場に出荷され、112袋は乳製品の原料として使用、残りは倉庫に貯蔵されたという。
 しかし380袋には一般細菌類が同社自社規制値の1割強超過しており、本来は破棄すべきものであったが、これを加熱殺菌すれば原料として再利用しても問題なしと判断した。ところが加熱した程度では黄色ブドウ球菌の毒素は死滅せず、4月10日、問題の380袋から新たに脱脂粉乳750袋が製造され大阪工場へ出荷された。大阪工場では安全と信じこの脱脂粉乳から低脂肪乳を製造し販売したものである。
 事件後、この間の同社の工程及び製品管理のずさんさや危機管理の甘さなどが指摘され、翌年3月期の連結決算では経常損益が538億円の赤字に転落、不幸な大阪工場は閉鎖に追い込まれた。
 (出典:失敗学会編「失敗知識データベース>食品>雪印乳業の乳製品による集団食中毒事件」)

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(2021.1.5.更新)

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