テスト

【目 次】

・安貞から寛喜へ改元、京と鎌倉に暴風被害(790年前)[改訂]

・正嘉から正元へ改元、大飢饉と大地震による-改元頻度が多い鎌倉時代(760年前)[再録]

・永和から康暦へ改元、兵革:南北朝の動乱集結願う(640年前)[再録]

・富山慶長14年の大火「柄巻屋火事、劔の火事」(410年前)[改訂]

・幕府、京都火消を京都常火消として復活し、町人地、寺町の消火を担当。
 一方、譜代大名による禁裏御所方火消も新たに編成し京都の消防体制いっそう強化(310年前)[改訂]

・高山享保14年の大火、三筋の町5軒を残し全焼(290年前)[改訂]

・盛岡享保14年の大火、城下始まって以来の大火(290年前)[再録]

・江戸文政12年三大大火の一つ「己丑の大火」―大火後、13か条の火の元注意のお触れを出す(190年前)[改訂]

・初の近代的な都市計画法・市街地建築物法公布-関東大震災後、世界初耐震規定を明記(100年前)[再録]

・横浜大正8年「埋地の大火」、万治2年吉田勘兵衛開拓地260年後焼ける(100年前)[再録]

・生活保護法の前身、救護法公布―世界恐慌はじまり施行は3年後(90年前)[再録]

・消防法を改正、危険物行政を市町村条例から改め国の法制化し、全国的な基準で実施(60年前)[改訂]

・中央気象台(現・気象庁)の連合国要請を皮切りに、地震予知連絡会発足する(50年前)[再録]

・新三種混合(MMR)ワクチン導入-接種禍事件起きる(30年前)[再録]

ハンセン病問題の解決の促進に関する法律(ハンセン病問題基本法)施行される。
 国の誤りを認め、元患者の社会復帰支援や名誉回復などを国に義務づけた(10年前)
 (ハンセン病に対する偏見の背景と国の癩予防政策を振り返る)


【本 文】

○安貞から寛喜へ改元、京と鎌倉に暴風被害(790年前)[改訂]
 1229年4月7日(安貞3年3月5日)

天変のため改元(皇帝紀抄)、災異・天変による(皇年代略記)、去年大風による(百錬抄)と、各書とも気象による災害があったので改元したと記している。
 事実、前年1228年8月28日から29日(安貞2年7月20日から21日)にかけて、台風なのか、京都が大風雨に見舞われていた。鎌倉時代の歴史書「百錬抄」に“廿日、風吹雨澤(多し)。洪水泛(汎)溢、四条五条等末橋流、漂没之者輩数輩云々”“廿一日、甚雨。(中略)賀茂社瑞垣流損、貴布禰社拝殿令流失云々”とあり、20日の日、大風雨で鴨川が氾らん、四条や五条の橋などが流失して数人の人が流されたという。また翌日も大雨が続き、賀茂神社の周囲に巡らした瑞垣や貴船神社の拝殿も流されたと記録している。また同時代の歴史書「皇帝紀抄」も“大雨降。賀茂辺在家多流失。人多流死。永承以後第一洪水云々”と、賀茂神社周辺の人家が鴨川の洪水、それも永承年間(1046年~1053年)以降随一の大洪水で多くの家や人が流されたと、これも記録している。
 次は、11月12日(旧10月7日)国内を横断した台風なのか、京都と鎌倉に被害が出ている。“十月七日。未尅(刻)(午後2時ごろ)坤(西南)風猛也。折樹木、破舎屋。法勝寺九重塔。九輪北方傍珍皇寺塔顛(転)倒(百錬抄)”。鎌倉に於いては歴史書「吾妻鑑」に“雨降。自戌刻至子時(午後8時ごろより午前0時ごろまでの間)、大風。御所侍(所)、中門廊、竹御所(源頼家の娘の屋敷)侍(所)等顛(転)倒。其外諸亭破損不可勝計、抜其棟梁、吹弃(捨)于路次(地)。為之少々被打殺云々”とある。京都で午後2時ごろ吹き荒れ、各所の寺院の塔をなぎ倒した台風が、6時間後鎌倉に達し、将軍御所の侍所などの建物を崩壊させ、その梁を道ばたに吹き飛ばして往来の人々数人にあたり死亡させている。
 (出典:池田正一郎著「日本災変通志>中世 鎌倉時代・213頁~214頁:安貞二年」、立命館大学歴史都市防災研究所編「京都歴史災害年表>1201年~1300年 131頁」[追加]、国立国会図書館デジタルコレクション「国史大系.14巻>百練抄巻第十三 後堀河院 218頁(117コマ):安貞2年7月20日、21日、10月7日」[追加]、同コレクション「群書類従:新校.第2巻>巻三十五 皇帝紀抄第八304頁(180コマ):安貞2年7月20日」[追加]、同コレクション「吾妻鏡 吉川本 中巻>巻廿六247頁(130コマ):安貞2年10月大7日丁未」[追加]。参照:2018年8月の周年災害「安貞2年京都鴨川氾らん」[追加])


○正嘉から正元へ改元、大飢饉と大地震による-改元頻度が多い鎌倉時代(760年前)[再録]
 1259年4月27日(正嘉3年3月26日)

“疾疫(流行病)、飢饉、地震などにより改元(皇年代略記)”とある。
 飢饉の時、空腹に耐えかね衛生面にかまずに食べられるものをすべて口にしたので、感染症など流行病はつきものだった。改元に追い込んだのは、1258年7月から60年(正嘉2年6月から文応元年)まで続いた正嘉・正元の飢饉である。また改元の理由の最後に“地震”とあるのは、57年10月(正嘉元年8月)に起きた鎌倉を襲った大地震であった。
 ところが、正元に改元しても飢饉は収まらず、その上60年1月(正元元年11月)、後深草天皇が退位され亀山天皇が即位されたので“代始改元”ということになり、正元も60年5月31日(正元2年4月13日)に文応と改元され、これも13か月間の短命元号だった。
 武家に政権を奪われた京都の公家たちが、その存在を示すことが出来る唯一の機会は、改元の権限であった。
 そこで実績?を見ると、平安時代(794年~1185年)もかなりの頻度で改元され、4.5年に1回の改元だが、鎌倉時代(1185年~1333年)になると3年に1回の割合で改元している。
 (出典:池田正一郎著「日本災変通志>中世 鎌倉時代 232頁:正嘉元年、二年、正元元年」。参照:2018年7月の周年災害「正嘉・正元の飢饉、流民山野をさまよい、小尼死人の肉を食う」[改訂]、2017年10月の周年災害「正嘉元年鎌倉地震」[改訂])


○永和から康暦へ改元、兵革:南北朝の動乱集結願う(640年前)[再録]
 1379年4月17日(永和5年3月22日)

天変、疾疫、兵革により改元とある。
 天変は改元の前年1378年12月(永和4年11月)に出現したハレー彗星か、3年前の76年7月(同2年6月)に出現した別の大彗星か、いずれにしても、これらの出現が天変(天の変異)としてとらえられ、改元の理由になったのであろう。
 疫失は78年(同4年)から改元の年の翌79年にかけて三日病(風疹:三日はしか?)と呼ばれた病気や、咳気と呼ばれた咳の病気(風邪かインフルエンザ)が流行しているので、これら感染症の流行拡大を恐れてのことであろう。
 最後の兵革だが、もともとの意味は“兵”が刀や槍などの武器を指し“革”がよろいやかぶと(甲冑)を指し、転じて戦争、たたかいの意味となった。
 時は南北朝時代(1336年~1392年)の終焉期、室町幕府の全盛期を築く三代将軍足利義満の時代(1368年~1394年)である。この年号を定めたのは室町幕府側の北朝であった。
 北朝としては、国土を疲弊させ都を廃虚としただけの南北朝の動乱を早く鎮めたい願望が改元をさせたのであろう。しかし、南朝の後亀山天皇から、土御門東洞院(現・京都御所)にある北朝の後小松天皇の里内裏(1331年10月:元弘元年9月、光厳天皇が即位し北朝が成立した後は、実質的な皇居)に、皇位継承の証しである“神器”が移され、両朝合一が成るのには、改元後あと13年待たねばならなかった。
 (出典:池田正一郎著「日本災変通志>中世 南北朝時代 260頁~261頁:永和二年、三年、四年、康暦元年」。参照:2016年6月の周年災害「内裏焼く、里内裏の初め」[改訂]、3月の周年災害・追補版(1)「南朝軍、京都へ侵入し幕府軍と戦闘、街は廃虚に」[改訂])

○富山慶長14年の大火「柄巻屋火事、劔の火事」(410年前)[改訂]
 1609年4月22日(慶長14年3月18日)

城下の鼬(いたち)川のほとりにある柄巻師(つかまきし:刀剣の握る部分を製作する職人)彦三郎の家から出火した。
 おりからの烈しい南風のため火の粉が四方八方に散り、炎が御城をはじめ侍屋敷も商家も残らず焼き尽くし、すべてが焼け野原となった。
 この火事は、北陸地方特有のフェーン現象によるもので、立山連峰剱岳から吹き下ろす猛烈な風により災禍を増やしたとされ、後に別名“剣の火事”とも呼ばれた。
 前加賀藩主の前田利長は隠居して富山城に居住していたが、火事で1軒だけ焼け残った千石町の神戸清右衛門の屋敷にいったん避難し、のち魚津へ居城を移した。利長は富山は火事が多いところと考え、当時、関野と呼ばれていた地に高岡城を築城、9月14日(旧8月16日)には移住し、現在の高岡市へと発展する街並みを築いている。
 (出典:富山市史編修委員会編「富山市史 第1巻>江戸時代(慶長)>加賀藩時代(前田利常時代)(慶長)>前田利常時代・346頁~350頁」、富山県商工会議所連合会編:商工とやま 平成14年12月号・立山と富山(15)・広瀬誠著「劔の火事と立山曼荼羅」)


○幕府、京都火消を京都常火消として復活し、町人地、寺町の消火を担当。
 譜代大名による禁裏御所方火消も新たに編成し京都の消防体制いっそう強化(310年前)[改訂]
 1709年4月(宝永6年3月)

当初、京都所司代が兼任した“京都火消番”に畿内小大名による“京都火消”が加わった京都の消防体制が、幾多の変遷を経て“京都定火消”の復活などで、この月いっそう強化された。
 1600年10月(慶長5年9月)関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1575年6月(天正3年5月)長篠の戦いで、同城を守り抜いた奥平信昌を消防業務も含めた京都の治安維持と戦後処理のため派遣した。
 翌年には名所司代とうたわれた三河国(愛知県)3郡6600石の旗本・板倉勝重が同役に就任、03年3月(慶長8年2月)徳川家康が征夷大将軍に就任し江戸幕府が開かれた時(江戸開府)、正式に京都所司代が置かれ板倉勝重がそのまま就任した。所司代が兼任したという“京都火消番”役は、その時、同時に正式な役職となったようだ。その御役料(役職手当)は1万表とされる(1表:60kg)。
 68年6月(寛文8年5月)3代所司代・牧野親成が退任すると、京都市中の民生部門の職務は、新しく設置された京都町奉行が担い、消防体制も“京都火消番”である所司代管轄のもと、町奉行の指揮下に入った。
 ところが91年1月7日(元禄3年12月9日)1000余戸を焼失した元禄3年の大火が起きる。この惨事の報告を受けた幕府老中は、所司代が兼務する“京都火消番”だけでは手薄と判断し、早速、京都近隣の小大名による“京都火消”役設置を企画、翌92年5月(同4年5月)には“京都火消”の役宅として火消屋敷を着工、同屋敷は同年9月(旧暦・同年8月)には竣工し、翌月から新しく任命された大名が赴任した。
 またところがだが、97年6月(同10年4月)、12代所司代に松平紀伊守信庸が就任すると、幕府の財政事情を考慮してか、僅か300人扶持とはいえ御役料が支給される“京都火消”を廃止し、自らが兼任する“京都火消番”一本化を考えた。それを後押しする事情として、火消屋敷が公家屋敷街の南隣にあり、昼夜別なく火事場へ出動する騒音や半鐘の音、また火の見櫓が御所内を監視しているのではないかとする公家衆の疑心暗鬼があったという。そして、1706年11月(宝永3年10月)“京都火消”は僅か14年余の歴史をいったん閉じる。最後の“京都火消”外様の丹波柏原藩(かいばらはん:現丹波市)2万石織田家は、就任僅か3か月余で解任され、その2か月後、問題となっていた火消屋敷は早くも解体された。
 このようにして京都の消防体制は、所司代松平紀伊守信庸の“京都火消番”の管轄下に収まったが、その約1年半後、京都史上有数な大火が発生した。08年4月28日(同5年3月8日)京都宝永の大火である。油小路通り姉小路下ル宗林町から出火した炎は、折からの西南の強風にあおられ、内裏(天皇の住居)をはじめ各宮家御所、九条、鷹司など公卿屋敷95か所、大名屋敷21か所、町家417町、家数にして1万350余軒、土蔵670余、寺社及び仏教道場など119か所を総なめにし京都中心街を焦土と化した。
 この報告を江戸で受けた老中は所司代の“京都火消番”だけではやはり無理と即座に判断、大名による“京都火消”役の復活を決意する。
 この月復活した“京都火消”役は、前回と同じく畿内及び近江国の小大名を含む各藩に任命され“京都常火消”と呼ばれ、大火の翌09年4月(同6年3月)から勤務し、半年後の10月(旧・9月)に次の大名火消に交代するという、2藩による半年単位の通年システムとなった。そこで“常火消”と呼ばれたが、これは前身の“京都火消”が、後年通年化していたのを制度化したのに過ぎないという。また同時に譜代大名による“禁裏御所方火消”も10年1月10日(宝永6年12月11日)編成され、京都御所、仙頭御所、女院御所や周辺の公家屋敷群を囲むいわゆる築地の内の消防体制も強化した。
 最初“京都常火消”に任命されたのは、外様の大和芝村藩(現・桜井市)1万石の織田家である。その後、22年3月(享保7年2月)に“禁裏御所方火消”と一本化されるまでの13年間に、近江、丹波のほかに畿内の摂津、河内、大和の合計5か国、13の藩が任命されており、中には2、3度も勤めた藩があり、これは消防任務への適正と参勤交代との組み合わせが考慮されたものという。
 また前回問題となった火消屋敷の位置は公家屋敷街の南の外れより400m東の鴨川西岸につくられた。そこは寺町の寺院群の北端で町人地に面しており、その任務は“禁裏御所方火消”が別途編成されたことにより、主に町人地や寺町を守ることになり、立派な火の見櫓と共に町人たちから期待がよせられた。しかし立地的に“禁裏御所方火消”に任命された藩の中でもっとも近い淀藩邸よりも御所等に近く、“禁裏御所方火消”と共に、御所に万が一のことあればいち早く駆け付けたのであろう。
 なお、京都には町人たちによる町火消も編成されており、大名火消である“京都常火消”も、火事の際は、町火消と共に所司代管轄下にある京都町奉行の指揮下に入った。ただし、その京都常火消が火事場に駈けつけた時は、先着している町火消が持ち場を譲り、町奉行所役人の指示を受け給水の役割に従事したという。
 一方“禁裏御所方火消”に任命されたのは、常勤が大和郡山藩本多家11万石、近江膳所藩(現・大津市)本多家6万石、山城淀藩(現・京都市)石川家6万石、丹波亀山藩(現・亀岡市)青山家5万石の譜代4藩で、参勤交代で在所(領地にいる)の2藩が、当番月と非番月に分かれ、当番月の藩が上洛し自藩の京都藩邸を火消屋敷に改造して勤務(月番御火消)し、翌月には交替していた。
 また、譜代の丹波篠山藩形原松平家5万石、摂津高槻藩永井家3万6000石の2藩も任命されており、郡山、淀、膳所、亀山各4藩の藩主が江戸詰めの役職に就いたとき、篠山、高槻の二藩が代行した。ちなみに、大火の時は江戸在府の藩では留守居役が火消隊を率いて全藩が消火に出動したという。
 その後、14年(正徳4年)水野忠之が13代所司代に就任すると直ちに所司代による“京都火消番”兼務を辞め、その3年後の17年(享保2年)にその水野が老中に抜擢され、8代将軍吉宗の享保の改革を主導するようになると、5年後の22年(同7年)2月、京都の消防改革も断行した。
 新しい京都消防体制は、まず“京都常火消”を廃止“禁裏御所方火消”に“京都火消番”役を兼務させ、新たな“京都火消”として一本化したのである。この体制は幕末まで続く。
 (出典:丸山俊明著「京都の町衆と火消衆」、丸山俊明著「京都火消と京都常火消」、京都府立総合資料館編「総合資料館だよりNo.182>京の御役所、その仕事と資料」。参照:1月の周年災害・追補版(3)「京都元禄3年の大火」、10月の周年災害・追補版(3)「幕府、京都火消(大名火消)置く」[追加]、2018年4月の周年災害「京都宝永5年の大火」[改訂])

飛騨高山享保14年の大火、三筋の町5軒を残し全焼(290年前)[改訂]
 1729年4月5日~6日(享保14年3月8日~9日)

未の刻(午後2時ごろ)、一之町六丁目の北沢屋孫兵衛の貸家で、一之町下に住む小島屋長兵衛宅より出火した。
 炎は二之町下へ移った後、三之下町をもなめ尽くすなど、三筋の町は北の方から焼き進み5軒のみ残してほぼ灰となった。また炎は照蓮寺、雲龍寺へも延焼し御防山火屋も焼けた。また飛び火で八幡長久寺も全焼した。翌朝(10日朝とも)卯の刻(午前6時ごろ)ようやく鎮火。焼失家数975軒うち25軒が地役人(土地出身の陣屋役人)宅、同土蔵44棟、同寺13か所。
 (出典:高山市編「高山市史>第14編 災害>第1 火災・582頁~583頁:享保十四年三月八日」)

盛岡享保14年の大火、城下始まって以来の大火(290年前)[再録]
 1729年4月30日(享保14年4月3日)

 未の下刻(午後3時ごろ、市通史は夜中の2時ごろ)、北上川沿い大沢川原の新土手横町南側の中居円太郎宅から出火した。
 炎は西北西の風にあおられ、同川原の東南側すべてを灰とした上、中津川を越えて鷹匠小路(現・下ノ橋町)の四つ辻にある女鹿孫惣宅へ飛び火した。そこから炎は六日町から新町へと同川上流方面へ延焼、紺屋町曲がり目まで焼失させた。吹手町の愛染観音堂と三明院を焼失したのち炎は東南に曲がり、餌差小路から生姜町、八幡丁へと東上、八幡神社の拝殿や鳥居を残らず焼失させた。また南の方へと延びた炎は、石町から馬町、十三町、鉈屋町、水主丁、十文字まで延焼して焦土とし、上小路組丁も残らず焼失して鎮火した。
 延焼時間8時間で河南地区の大半を焼失する盛岡城下はじまって以来の大火となった。被害は、町家1340軒、職人の家26軒、百姓家50軒、侍屋敷213軒、用屋敷(藩の官舎)2軒、足軽屋敷137軒、足軽並みの者の家56軒。そのほか、惣門番所2軒、寺26か所、神社11か所、鐘楼堂1か所、土蔵54棟、穴蔵14棟、高札場1か所、橋1か所、合計1933。6人死亡。
 (出典:盛岡市史編纂委員会編「盛岡通史>近世の武家政治>3 藩政の展開>大火と消防>大火・189頁~190頁:(1)享保十四年の大火」、盛岡市教育委員会編「盛岡藩雑書 第14巻>1 享保十四年>享保十四年四月・94頁~103頁:盛岡大火」)

江戸文政12年三大大火の一つ「己丑の大火」―大火後、13か条の火の元注意のお触れを出す(190年前)[改訂]
 1829年4月24日~25日(文政12年3月21日~22日)

巳の刻半(11時ごろ)神田佐久間町二丁目河岸の材木商尾張屋徳右衛門所有の材木小屋(飼葉屋:かいばや、牛馬のえさの草やワラを商う店・徳右衛門の河岸物置とも)から出火した。
 当時の裁判記録(視聴草所載)によると、徳右衛門の召使い佐吉が、店前の河岸にある材木の間に置き忘れた鳶口(材木を運ぶ際引っかける道具)を取りに行った際、タバコの吸い殻をはたき落としたところ、下にあった大鋸屑(おがくず)にその火が移り、強風に乗って、おがくずが燃えながら河岸続きの飼葉小屋に飛び散り小屋に延焼したという。
 飼葉小屋の火は一面の炎と化し、折からの強い西北西の風にあおられて神田川を飛び越えて東神田の武家屋敷、町家一帯を総なめにし、東は両国橋ぎわから浜町あたりの大名屋敷など武家屋敷街を炎につつみ、永代橋手前までを灰とした。西は須田町通りの東側から今川橋向い本銀町、本町河岸御堀端通り、数寄屋橋外まで。南は新橋汐留に達するなど、江戸市中はたちまち炎に包まれ一面火の海と化し、翌日朝辰の下刻(午前9時ごろ)ようやく鎮火した。
 焼失した地域は江戸の中心部で、被害は焼失面積259万2000坪(8.6平方km)、町数にして1500町、表通りの町家11万3835軒、同裏長屋15万5065軒、合計36万9512軒、土蔵2982棟、大名屋敷73軒、旗本屋敷130軒、奥医師屋敷30軒、町医師宅279軒が全焼。橋の焼失67か所、船の焼失は大船76隻、小舟482艘。武家方死亡者945人、往来(道ばたなど)での死亡者(町人?)1856人、合計2801人。この大火は1657年3月(明暦3年1月)の明暦の大火、1772年4月(明和9年2月)の目黒行人坂の大火とならぶ江戸三大大火の一つに数えられた
 町奉行所では、数寄屋河岸、築地など9か所に御救小屋(避難所)を設置、また鳥目(ちょうもく:支援金)を配るなど救援活動に乗り出す一方、この機会に生活必需品の値上げを行おうとする商人たちの取り締まりを行うなど、江戸っ子の復興への意欲をかき立てる様々な施策を行ったという。
 またこの大火の教訓を汲んで、翌1830年3月(文政13年2月)火之元掟箇条書御触とする特に火の元に対する13か条にわたる注意事項を列挙したお触れを出しているが、中には今回の大火の原因となった事項かんな屑の管理に触れて“湯屋を始メ大火を焚候渡世は猶更、建具屋舂(搗)米屋(:脱穀商)は、かんな屑わら(藁)灰等、并(および)わら商売之者は、其品別而可心付事”。また河岸の物置の管理に触れて“普請小屋は昼夜無油断見廻り、其外河岸地物置等は、別而心付可申事”など、内容は非常に具体的である。このような特定な事項についての防火のお触れは前例がないが、翌7日(旧歴・13日)江戸城内にも火の元に注意するよう相触れし、西の丸には通達をするなど、全江戸の防火体制の強化に力を入れている。
 (出典:日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1829(文政12)830頁:江戸で己丑の大火。死者2800人を超える」、東京都編「東京市史稿>No.2>変災編第5>373頁~482頁:文政十二年三月火災>2.三月廿一日大火」、同編「東京市史稿>No.3>市街編第37>154頁~157頁:警火制申令」、池田正一郎著「日本災変通史>近世 江戸時代後期・606頁~610頁:文政十二年三月廿一日、江戸大火」。参照:2017年3月の周年災害〈上巻〉「1657明暦江戸大火「振袖火事」世界三大大火の一つ起きる」[追加]、4月の周年災害・追補版(4)「江戸明和9年目黒行人坂の大火」[追加])

初の近代的な都市計画法、市街地建築物法公布-関東大震災後、世界初耐震規定を明記(100年前)[再録]
 1919年(大正8年)4月5日

わが国最初の近代的な都市計画とそれを具体的に表現する建築に関する法律「都市計画法」及び「市街地建築物法」が同日公布され、前者は翌1920年(大正9年)1月1日に、後者は翌同年12月1日より施行された。
 わが国は日清戦争(1894年:明治27年8月~95年:同28年3月)に勝利し、日本国沖縄県を承認させ、台湾、澎湖列島、遼東半島(同半島は露、独、仏の三国干渉で95年:同28年5月放棄)を清国(現・中国)から割譲させて領土とし、朝鮮半島での権益も認めさせた。それにより政府の富国強兵政策は前進する。その結果、97年(同30年)以降、都市の工業は急速に発展、人びとは農村から都市へと、工場労働者として流れ込み、都市への人口の集中が激しくなった。
 また、その後の日露戦争(1904年:同37年2月~05年:同38年7月)、第一次世界大戦(14年7月~18年11月)においても、ことごとく戦勝国となり、朝鮮半島や樺太(現・サハリン)南部など領土を拡張、満州(現・中国東北地方)における権益も獲得し、日本の資本主義体制は完成した。しかし一方、工業化の進展は、都市への人口の集中をますます激しくし、都市を計画的に整備する法制度が急速に求められた。
 この日公布された都市計画法では、第1条で都市計画について“交通、衛生、保安、防空、経済等に関し永久に公共の安寧を維持し、または福利を増進するための重要施設の計画”と規定、第10条で“都市計画区域内に於いて市街地建築物法に依る地域または地区の指定”と、ここで都市計画区域を定め、同区域内の地域、地区の指定において、市街地建築物法と連動することを位置づけた。また、都市計画施設については、第16条で“道路、広場、河川、港湾、公園、緑地、その他”とした。
 次の市街地建築物法は、現在の「建築基準法」の前身で、同施行規則において建物の構造強度に関する規定を設け“三階建てなど特定の構造の建物には筋交いを入れる”としたが、特に耐震規定は無かった。しかしわが国の場合、大正時代を迎えても、都市の建築物の大部分が木造建築で、大火災が絶えず、市民生活を脅かし商工業の発展を阻害する災害として常に問題となっていた。そこで同法では、第13条に“主務大臣は火災予防上必要と認めるときは防火地区を指定し、其の地区内に於ける防火設備又は建築物の防火構造に関し、必要なる規定を設くることを得”と、国の施策としてはじめて義務化した。なお同法は当面、東京、京都、大阪、横浜、名古屋、神戸の6大都市を対象に適用された。
 耐震規定についてはその後、1923年(大正12年)9月の関東大震災の被害を教訓に、翌24年(同13年)6月に市街地建築物法施行規則を改正したが、その際、16年(同5年)10月に佐野利器(としかた)が“震度”の概念に基づき提案した耐震設計法を取り入れて、国の法令としては世界初、建築物の“耐震規定”としてその考え方を採用している。
 (出典:原田純孝編「日本の都市法 2 諸相と動態>第6章 東京の都市政策と都市計画>2 明治期から戦前・戦中期までの制度形成と都市計画>(2)大正期-都市計画法の制定と震災復興・160頁~161頁:(b)都市計画法の制定」、日本全史編集委員会編「日本全史>明治時代・関係各項目」、欠陥住宅全国ネット編・福本和正著「建築基準法の単体規定の由来と解説」、国立国会図書館デジタルコレクション「官報.1919年4月5日 129頁~131頁:法律第336号 都市計画法」[改訂]、同コレクション「官報.同日号 131頁~132頁:法律第37号 市街地建築物法」[改訂]。参照:2013年9月の周年災害「大正12年関東地震:関東大震災」[追加]、 2016年10月の周年災害「佐野利器、世界で初“震度”概念に基づく耐震設計を提案」)


横浜大正8年「埋地の大火」、万治2年吉田勘兵衛開拓地260年後焼ける(100年前)[再録]
 1919年(大正8年)4月28日

午後1時半ごろ、千歳町一丁目12番地の人力車夫・大井与三郎方から出火した。
 当日の関東付近は高気圧圏内にあり、午後には関東中部で低気圧が発生したため、春特有の14m/秒の南西風が吹き荒れていた。そのころ火元の大井方では、妻がお勝手(キッチン)で七輪に炭をおこしたまま、隣の家の人と話し込んでいたという。そこへこの風である、炭火が風にあおられ障子紙などに燃え移りたちまち家中が火の海となった。
 南西の風に乗った炎は、山田町一、二丁目から北へ長者町、扇町へと延焼、翁町から寿町へと火勢は勢いを増し、翁町二丁目の横浜実業銀行、横浜中央銀行を焼き、同四丁目の寿小学校、寿町四丁目の寿警察署を焼失させたところで、炎は二手に分かれた。東は松影町方面へ延焼、西北は寿町、扇町を焼き尽くしてそこから今度は四方に分かれた。
 南に進んだ炎は千歳町一丁目の火元付近から東へと延び、再び山田町一、二丁目から千歳新通四丁目までを焦土と化した。また東に進んだ炎は千歳町四丁目角から同町大通り三、二、一丁目と焼き進み、寿町河岸の吉浜橋付近で鎮火した。一方西へ進んだ炎は不老町四丁目から同町の通りを一丁目の湊橋に至るまで、右側の町並みを焼いて鎮火。北へ進んだ炎は寿町一丁目から湊橋に至るまでを焦土とした。午後11時鎮火。
 被災家屋3248戸:横浜消防二十年(全焼3732戸・2539棟:神奈川県災害誌)、被災者2万3000人余、焼失面積5万余坪(0.17平方km余)、翁町、扇町、寿町が全焼、千歳町三丁目、山田町一、二丁目、長者町二、三丁目、松影町、不老町一、二丁目のほとんどが全焼した。主な焼失建物は、神奈川県衛生試験所、同消毒所、寿町小学校(廃校)、山田小学校(廃校)、寿警察署(現・南警察署)、南太平洋貿易会社、東京製綱会社、日本海上保険会社(現・日本興亜損害保険株式会社)、帝国興信所(現・株式会社帝国データバンク)、三浦屋旅館など。
 なお大火の名称を“埋地の大火”というのは、大火で焼失した地域が、1659年(万治2年)に吉田勘兵衛が開拓した埋め立て地であることから来ている。なお各町名は、能・観世流の狂言で使われている用語から、皮肉にもめでたい不老、長者、翁、万代、寿、千歳などを取ったという。
 (出典:横浜消防二十年史刊行委員会編「炎 横浜消防二十年>災害の暦>大正時代の大火・水害 76頁:埋地の大火」、神奈川県防災消防課編「神奈川県災害誌>第2編 神奈川県の主な災害>大火の部 257頁~258頁:11.大火 大正8年4月28日」[追加]、大正ニュース事典編纂委員会+毎日コミュニケーションズ出版事業部篇「大正ニュース事典 第4巻 大正8年~大正9年>火災・64頁~65頁:火災・横浜大火」、横浜市中区埋地地区連合町内会編「地区の特徴」[改訂])


生活保護法の前身、救護法公布―世界恐慌はじまり施行は3年後(90年前)[再録]
 1929年(昭和4年)4月2日

わが国で日常生活がままならない貧困者などを救済する近代的救護法規のはじめは、1874年(明治7年)12月に制定された「恤救(じゅっきゅう)規則」だが、その後の資本主義経済の発展による生産の増大とともに、階層格差が拡大した上、法公布10年ほど前の、第一次世界大戦(1914年7月~18年11月)期の過剰生産を直接の原因とした、20年(大正9年)3月から始まった戦後恐慌、それに加えて23年(同12年)9月の関東大震災、27年(昭和2年)3月の大蔵大臣の失言をきっかけとして翌月から始まった金融恐慌などによって、企業の倒産は増え失業者は増大し貧困層がいっそう増えた。災害でも起こればひとたまりもなく、ささやかな生活も破綻する危険があり、救護問題は社会的問題となっていた。
 そこで政府はこの日、現在の「生活保護法」の前身となる法律を公布し、国及び地方行政機関による公的な扶助(経済支援)義務を明確化した。その救護対象者は第一章で、貧困のために生活もままならない65歳以上の老衰者、同じく13歳以下の幼者(児童)、同妊産婦、同廃疾者(身体障害者)などとした。これは「恤救規則」では、救護対象者を、独身(身寄りのない者)か、家族のいる者でも70歳以上または15歳以下の者で、重病か廃疾にかかりあるいは老衰し、生業に就くことが出来ず窮迫している者、13歳以下の孤児と規定していたが、それよりも範囲を拡大している。また第二章第四条で、現在の民生委員の前身“方面委員”も新たに設けている。
 救護施設は第三章で、養老院(現・養護老人ホームなど)、育児院(現・児童養護施設)と規定、救護の種類は第四章で、生活扶助、医療、助産、生業扶助、埋葬費支給とした。しかし、この年の10月に始まった“世界大恐慌”による国家予算の財源不足を理由に、実際に施行されたのは、3年後の1932年(昭和7年)1月であった。
 (参考:国立国会図書館デジタルコレクション「官報.1929年4月2日 65頁~66頁:法律第39号 救護法」[改訂]、同コレクション「法令全書.明治7年 372頁:太政官 達 第162号 恤救規則」、電子政府の総合窓口イーガブ「昭和25年法律第144、最終更新平成30年法律第71号・生活保護法」[追加]、種村剛著「救護法」[改訂]。)


消防法を改正、危険物行政を市町村条例から改め国の法制化し、全国的な基準で実施(60年前)[改訂]
 1959年(昭和34年)4月1日

政府は「消防法」の一部を改正して、それまで市町村の条例に委ねていた危険物の規制に関する実施規定を、国の法律またはこれに基づく命令において規定すること、つまり危険物行政を法制化し、同法第10条3項の末尾で“政令でこれを定める技術上の基準に従って………”と明示した。
 また主な改正点として、危険物の製造所などの位置、構造及び設備並びに危険物の貯蔵、取扱い、運搬等の方法について、政令で画一的な技術上の基準を定め、危険物について統一的な技術処理を行わせることによって、火災の防止を期するとした。
 次に、危険物の製造所などについての設置及び変更の許可、使用前の完成検査などについて規定を明確にし、許可に関する事務の整備を図っている。
 また、危険物取扱主任者及び映写技師については、都道府県知事の行う試験に合格して免状の交付を受けた者でなければならないこと、受験資格、免状の交付などの取扱い、職務に関する規定を整備することにより、試験の実施、免状の効力の全国共通化と職務上の地位の合理化を図った。
 さらに別表を改正し、危険物に属するもののうち、動植物油類および塗料類については、これらの性状に即した規制が行われるようにしている。
 (出典:近代消防社編「近代消防臨時増刊号 日本の消防1948~2003>年表 2.消防組織・制度・法令改正編>昭和34年・208頁:4月1日→消防法の一部改正」、衆議院制定法律「法律第186号(昭和23.7.24)消防法」、同法律「法律第86号(昭和34.4.1)消防法の一部を改正する法律」)


○中央気象台(現・気象庁)の対連合国要請を皮切りに、地震予知連絡会発足する(50年前)[再録]
 1969年(昭和44年)4月24日

この日、地震予知連絡会が発足したがそれまでには幾多の変遷があった。

わが国における終戦(1945年:昭和20年8月)後の、地震予知に関する公的機関の最初の動きは、46年(同21年)1月に起きた南海地震の翌47年(同22年)6月、当時の中央気象台(現・気象庁)が、わが国を占領していた連合軍第43気象隊に対する、地震予知を可能にするための、各種観測施設の整備に必要な予算配慮に関する要請だったという。
 その後、60年(同35年)5月の地震学会春期総会において、連合軍に要請を行った当時の中央気象台台長だった、和達清夫会員が、学会の中に地震予知研究計画のための小委員会結成について提案した。これを受け、学会の外ではあったが、有志の集まりである地震予知研究計画グループが作られ、62年(同37年)1月「地震予知-現状とその推進計画(地震予知のブループリント)」が策定された。
 それを受けた形で、翌63年(同38年)11月、日本学術会議が「地震予知の研究について」と題する勧告を出し、文部省(現・文部科学省)の測地審議会が、またそれを受けて同審議会の中に地震予知部会を設け、その翌64年(同39年)7月、同審議会の総会で「地震予知研究計画の実施について」が承認され、即日、文部大臣に建議された。65年(同40年)8月ごろから始まり67年(同42年)9月ごろまで続いた松代群発地震、68年(同43年)5月16日の十勝沖地震の発生と、度重なる地震で被害を受け、地震予知に関する国民の関心は高まったという。
 十勝沖地震の8日後の5月24日、国民の高まりを受け、地震予知を推進し、その実用化を図るための関係諸機関における施設の整備並びに観測、及び調査業務の強化拡充に努める旨が閣議で了承された。続いて7月、測地学審議会から第2次地震予知に関する建議が行われ、その中で“各分担機関の情報交換を常時行うとともに、それら情報の総合的判断を行うため、地震予知に関する連絡会を設ける”ことが盛り込まれたのである。
 (出典:地震予知連絡会編「第1章 地震予知連絡会発足から30年間の活動>1.地震予知連絡会発足までの背景と経緯」。参照:2012年6月の周年災害「菊池大麓の発議により震災予防調査会設立」)


○新三種混合(MMR)ワクチン導入-接種禍事件起きる(30年前)[再録]
 1989年(平成元年)4月1日

接種禍事件を引き起こした、新三種混合(MMR)ワクチンとは、麻しん(はしか:Measles)、流行性耳下腺炎(おたふくかぜ:Mumps)、風しん(三日はしか:Rubella)という、乳幼児がかかりやすいウイルス感染症の頭文字をとって名付けられ、それまでそれぞれ単独で接種されていた予防生ワクチンを、混合して一度に接種できるようにしたもの。新三種というのは、百日咳、ジフテリア、破傷風の予防ワクチンを混合した三種混合ワクチン(DPTワクチン)がすでに存在していたので、新三種と名付けられた。
 新三種混合ワクチン導入の1年前、厚生省(現・厚生労働省)公衆衛生審議会の伝染病予防部会予防接種委員会は、それまで別々に行われていた予防接種の利便性を高めることによって、接種率を高めようと“早急に現行の麻しん定期接種時に、新三種混合ワクチンを接種できるように積極的に進めるべきである”と厚生大臣に答申した。これを受けて同省は同年12月、予防接種実施規則を改正、この日から接種導入となった。
 ところが、接種開始から2か月しか経っていない同年6月、前橋市医師会では、無菌性髄膜炎に感染しているワクチン接種者が多いことに気づき、調査を開始した。その結果、導入8か月間に、217人に1人の割合で感染していたことがわかった。しかし、厚生省は9月、接種者の無菌性髄膜炎の感染率は10万人~20万人に1人であるとし、接種の推進を市町村長に通知した。10月になると、同省は感染率を数千人~3万人と修正、都道府県に対し今後は接種を慎重に行うよう通知している。一方、この頃から大阪府豊中市のように接種の一時中止を決める自治体が出てきた。
 その後同省は、接種による無菌性髄膜炎感染率について、91年(平成3年)5月には1200人に1人とまた修正したが、93年(同5年)4月に接種を中止するまでの4年間、接種を強行した。この間の被害者は、同省に報告されただけでも、死亡5人を含む1762人にのぼり、同年12月には、関係企業と国に対し、被害者及び家族から訴訟が提起されている。
 新三種混合ワクチンの接種により無菌性髄膜炎に感染する原因は、(財)阪大微生物研究会(阪大微研)が製造した“おたふく風邪ワクチン”にあった。同ワクチンは新三種混合ワクチン採用以前にも、海外で同株を使ったMMRワクチンによる副作用報告が、多数なされていたのにもかかわらず、新三種混合の製造承認申請にあたり、十分な臨床試験を行っていなかった。また、ワクチンの効き目を高めるため本来ならば細胞培養法のみで製造すべきものを、ワクチン導入の年89年(平成元年)の1月から、細胞培養法および羊膜培養法により製造したそれぞれの原液を混合する方法をとっており、製造方法の変更承認を得ていなかった。
 三種混合ワクチンの製造は、それぞれの原料液を別々の企業が製造し、それを相互に交換・混合して“統一株”とするので、他社が製造した原料液についての品質管理は行えず、薬事法に違反しかつ無菌性髄膜炎ウイルスが混入していた阪大微研の原料液が、そのまま他社に供給され、統一株の製造ラインを流れていたわけだった。
 (出典:日本公定書協会編「知って起きたい薬害の知識>第3章 戦後における医薬品等による主な健康被害事件・88頁~92頁:MMRワクチンによる無菌性髄膜炎(MMR事件)」、専修大学社会科学年報第39号・儀我壮一郎著「薬害に関する試論>Ⅲ 種痘禍・ワクチン禍の問題点・72頁~73頁」)


ハンセン病問題の解決の促進に関する法律(ハンセン病問題基本法)施行される。
 国の誤りを認め、元患者の社会復帰支援や名誉回復などを国に義務づけた
 -ハンセン病に対する偏見の背景と国の癩予防政策を振り返る(10年前)
 2009年(平成21年)4月1日

かつて業病(前世の悪業の報いで罹る病)とされ、古くは一遍上人絵伝(1299年:正安元年)、近年では、砂の器(小説、映画)、もののけ姫(アニメ)で描かれた、古来より癩(らい)病と呼ばれていたハンセン病患者に対する、国の政策の誤りを認め、元患者の社会復帰支援や名誉回復などを国に義務づけた法律がこの日施行された。
 ハンセン病を発症させる細菌(らい菌)が生まれたのは東アフリカとされているが、この病気に関する最初の記述は紀元前2400年ごろのエジプトの古文書にあるという。キリスト教の旧約聖書にもハンセン病患者の記述があるなど、人類が文明社会を築くとほぼ同時にこの病気は広まっていたようだ。
 わが国におけるハンセン病患者の最初の記述は、日本書紀・巻第22にあり、推古20年5月5日(612年6月11日)の条に“是歲、自百濟國有化來者、其面身皆斑白、若有白癩者乎”とある。朝鮮半島南東部にあった百済国から来訪した人の顔や体に白い斑点があるのを見て、この人が文献にある“白癩者”か!と確認したという。ついで、700年4月(文武4年3月)に公布された最古の行政法・大宝令の中の戸令(こりょう)に“廃疾篤疾条”という条文があり、ここでは具体的に課税を免除される身体障害や重病の事例を挙げているが、その中で“悪疾”とあり最も身体障害の重い事例としてあげられている。
 この“悪疾”がどのような障害・病気を指すのかそれを解説したのが833年(天長10年)に編集された“令義解”だが、それによると“悪疾。謂。白癩也。此病。有虫食人五藏。或眉睫墮落。或鼻柱崩壊。或語聲嘶變。或支節解落也。亦能注染於傍人。故不可與人同床也。癩或作癘也(悪疾とは白癩で、この病人の内臓は虫に食われている。まゆやまつげが落ち、鼻が欠け、言葉や声がしわがれ、関節がくずれ落ち、傍らにいる人に感染させるので、ほかの人を同じ部屋にいさせてはいけない)とある。非常に具体的にハンセン病の進んだ症状をとらえている。しかし、実際は幼児が両親から感染する例を除き、傍らの成人した人に感染させることはないが、当時は感染すると思われていたようだ。
 またハンセン病患者の人々が古来より嫌われ遠ざけられ、近年になってもその病気に偏見があった原因は、単に感染のおそれだけでなく、仏教の経典の中の記述にもあるという。それは、原始仏教の教えを整理した経典・律蔵三大品一の第七涌品に“五種の病に罹れるものを出家せしむるべからず”とあるのを指すが、その5種の病気の中に癩(ハンセン病)があり、この患者の人々は出家が許されず僧侶になれないと説かれているという。しかしこれだけでハンセン病だけが“業病”とされたのか、そこには日本人が古来より抱いていた神道に通じる“穢れ(けがれ)”を避ける風習にもあるのではないか。
 ハンセン病の進んだ身体的症状を見て“穢れたもの”と思い、その穢れは前世の悪業から来たものととらえ、おそれたのではないか。同時期に大流行した天然痘や麻疹(はしか)に比べるとその死亡率ははるかに低く、発症しても長生きでいられたのも、嫌がられた理由かもしれない。1873年にアルマウェル・ハンセンが“らい菌”を発見し、それにちなんでハンセン病と呼ばれるようになった最近になっても、一般庶民の偏見はなかなか解けず、旅館での宿泊拒否事件を起こしている。
 中世以降、嫌われ遠ざけられたハンセン病患者の人々は、健康だが職がなく施しで食事などを得ている“乞食”と一緒に、むしろで周囲を覆っただけの“むしろ小屋”をつくり、市街地の周辺に住んでいる図が一遍上人絵伝にある。
 生きるために、人々が生業(なりわい)を営んでいる市街地から遠く離れることもなく、重症者でなければ、死刑囚の処刑や埋葬、死んだ牛馬の片付けや道路の清掃など、人々が穢れたもの汚れた仕事として避けた業務を、役人に管理されながら、進んで引き受けていたという。身分的な立場でいえば最下層の“非人”の一部をなしており、いわゆる農・工・商の一般庶民とは異なる立場に置かれ住居も離れていた。この立場が明治時代以降、ハンセン病患者の強制隔離が始まると、その政策の遂行を容易にし、人々の偏見を解くこともなく、むしろ上長させた国の政策の下で、患者たちは生きる権利をも奪われていくことになる。
 明治初頭の感染症対策の中心は、天然痘、コレラ、赤痢など、感染すると症状が急激にあらわれ周囲に直ちに広まる“急性感染症”に対する施策で、ハンセン病は9世紀初頭、令義解で“能注染於傍人”伝染するよと指摘されていたのにもかかわらず、結核、梅毒などと同じように、感染しても無症状か潜伏期間が長い上、発病しても重症化への経過が緩やかな“慢性感染症”であったため、施策はほとんどされなかった。1874年(明治7年)8月“医制”が発布され、近代的な医事衛生制度が発足し、同法で感染症が指定されたが、とり上げられたのは急性感染症の一群であり、23年後の97年(同30年)4月、伝染病予防法が公布された段階でも、対象となった“法定伝染病”はやはり急性感染症の一群で、ハンセン病を含む慢性感染症に対する対策は遅れていた。
 ところがその10年後の1907年(明治40年)、事態は人々の思わぬ方向へと急展開する。ハンセン病に対する初めての法律“癩予防に関する法律(件)”の公布であり、その内容は感染症であることを表向きの理由とした、放浪している患者の“強制収容的隔離”にあった。
 当時、医療政策を管轄していた内務省衛生局(現・厚生労働省)は、1897年(明治30年)ベルリンで開催された第1回国際癩会議において確認された事項を、同法律制定の基本的理由としたが、その会議では確かに“ハンセン病は感染症であり遺伝性でないこと”“患者を一定期間治療のため施設等に隔離することが望ましい”という2点を確認している。しかしこれは、急性感染症の患者を隔離病棟(当時は避病院)に入院させ、治療をするのと何ら理念も方法も変わっていない。長期的になるが同じ治療法をとろうというだけのことである。
 それが日本において“強制収容的隔離政策”に変質し、その後の施策の基本的流れとなったのには大きな背景が存在した。
 実は、1858年(安政5年)に当時の江戸幕府が、欧米5か国(イギリス、アメリカ、オランダ、ロシア、フランス)と締結した修好通商条約が不平等条約であり、感染症対策上も船舶の検疫問題などで、わが国に大きな被害を与えていたが、1894年(明治27年)7月、まずイギリスとの間で長年の改正交渉がまとまり、新たな通商航海条約として調印されたのである。そこには“両締結国ノ一方ノ臣民は他ノ一方ノ版図(領土)内何レノ所ニ到リ、旅行シ或ハ住居スルモ全ク随意タルヘ(ベ)ク(第1条)”と、移動と居住の自由を権利として与えた条文があった。いわゆる“内地雑居”である。この条約は5年後、すなわち95年(同37年)に発効することになっていた。
 そこで問題が起きた、ハンセン病放浪患者の多くが、全快祈願に出かけたまま、各地の主な神社仏閣の周辺で、施しをうけながら小屋がけをしていたのである(一遍上人絵伝)。そこは観光地でもあり欧米人の目に触れる、ということが問題になった。
 当時、欧米諸国ではハンセン病患者は少なく、アジア、アフリカ、ラテンアメリカなど欧米の植民地で多くの患者を発生させていた。条約締結の3年後の1900年(同33年)、内務省が初めてハンセン病患者の調査を行ったところ、全国の患者数3万359人、患者がいる家族19万9075戸、同人口99万9300人と報告され、政府に大きな衝撃を与えた。条約を改正し、2年後には近代国家として欧米各国と肩を並べる筈であった。それが植民地並の患者が存在するということは国辱以外のなにものでもなかった。それまで顧みることもなかった放浪患者の一掃が政府の大命題になり、それを遂行するために法制化が検討され、調査の7年後、癩予防に関する法律(件)が制定され、“療養・救護”と称した(第3条)強制収容的隔離が始まった。
 一般庶民の目には、警察官が街頭で放浪する患者を確保する姿が目に焼き付き、感染の危険がどのような条件の際に起こるという説明がないままに、それまでの“穢らわしいもの”という認識に“伝染病”ということが付け加わり、患者に対して感染源としての恐怖感を感じ、いっそう遠ざけようとする心理が強くなっていったのである。現在の新型コロナウイルスのように感染ルートや、発症して容貌などに変化がないとわかっていても、ウイルスが目に見えないための恐怖というのがあるが、当時はそれ以上の恐ろしさをハンセン病に感じたに違いない。
 患者がこのようにしてその人格を社会的に否定されただけでなく、1916年(大正5年)3月の法改正では、療養所長に患者に対して“懲戒・検束”する権限が与えられ、同所での職員不足を補う強制的な労働に対する反抗や待遇改善の要求などはすべて対象となり、所長の恣意的判断で療養所の実質的な刑務所化が始まった。
 一方、一般庶民のハンセン病に対する恐怖感は、職を得て働いている在宅患者に対しても排斥運動として始まる。1929年(昭和4年)から始まった“民族浄化”をうたった“無癩県運動”である。政府はそれを体現する形で2年後の31年(同6年)4月“癩予防法”を公布、ハンセン病患者全員に対する“絶対隔離”と、同居者に対しても救護と称する“らい絶滅政策”が始まる(第3条)。官民一体のこれらの動きに力を得た帝国陸軍関東軍は、同年9月柳条湖事件を起こし、時の国の指導者たちは、45年(同20年)8月まで足かけ15年におよぶ破滅的な戦争に国民を引きずり込んでいく。
 敗戦後、占領軍である連合国軍最高司令官総司令部(GEQ)の感染症予防政策の中心は、軍将兵も感染の危険がある急性感染症と梅毒など性病、あまりにも患者の多い結核の予防であり、ハンセン病に対しては43年にアメリカで開発された特効薬プロミンの効果と隔離政策で予防は可能ととらえていたという。それにより47年(同22年)5月新憲法が施行されても“癩予防法”はそのまま存続した。
 その上48年(同23年)7月に公布された“優生保護法”第3条において、遺伝的な精神障害や身体障害者に対して“優生手術”という子孫を残さない“断種手術”の実行が認められたが、その中に“本人又は配偶者が、癩疾患に罹り、且つ子孫にこれが伝染する虞れのあるもの(3項)”が入り、ハンセン病者の子孫根絶が始まった。当初、男性優位の家族主義的環境から、女性の妊娠・出産の自由にもとづき“妊娠中絶の合法化”を目指す法案の目的が変質し、身体的、能力的に優秀な子孫のみを残すための“優生保護主義”になり法制化された。
 それに力を得た厚生省(現・厚生労働省)は、50年(同25年)8月全患者収容と増床計画を打ち出し、戦後の第2次無癩県運動に乗った全国的な患者狩りがはじまり、53年(28年)8月の“らい予防法”の制定により、都道府県知事に国立療養所への入所命令権を与え(第6条)、秩序の維持を目的として、療養所長に戒告と謹慎処分権を与え(第16条)、戦後の民主化活動に共鳴した所内の自治会活動に制限を加えるなど、ハンセン病患者の新たな強制収容的隔離による全体的根絶施策が強化された。
 さらに、戦後の植民地解放闘争による独立国の社会主義国家化などが、それを指導していると目されたソ連(現・ロシア)と資本主義を守るとするアメリカとの対立を激化させ、いわゆる“冷戦時代”に突入する。特に50年(同25年)6月、社会主義国として日本から独立した朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が、朝鮮半島南部にアメリカの支援の下成立した大韓民国(韓国)に侵入したとされる朝鮮戦争がはじまると、GHQの日本に対する“民主化政策”は一変する。ハンセン病療養所内における自治会活動に対する敵視がはじまり、療養所所長たちが主張する所内の管理強化に力を貸した。
 戦後数年のハンセン病問題は、患者と家族の人権および療養所内の民主化を求める患者側と、患者の強制収容的隔離政策の継続によりハンセン病根絶を目指す、国と療養所管理者との闘いであった。それにGHQが患者自治会を敵視したことにより、一次的に患者側が不利に見えたが、全国国立らい療養所患者協議会(全患協、現・全国ハンセン病療養所入所者協議会:全療協)を中心とした長期にわたる粘り強い闘いが、2008年(平成8年)3月らい予防法を廃止させて、法的に患者の社会復帰への支援と親族への援護を明文化させ、進んでこの日09年(同9年)4月のハンセン病問題の解決の促進に関する法律(ハンセン病問題基本法)施行へと結びつかせた。しかし、長年培われた患者に対する偏見はいまだ消え去っていない。
 (出典:衆議院制定法律「平成20年法律第82号・ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」、法眼円伊筆「一遍上人絵伝 巻7」(最初の絵の中央部、門の付近に顔面を白布で覆った3人の患者が描かれている)、hp制作「日本書紀>巻22・推古天皇>20年5月5日」、国立国会図書館デジタルコレクション・窪美昌保著「大宝令新解 第1冊>第3巻>第8篇 戸令 202頁~203頁(111コマ):第7条 廃疾篤疾条」、同コレクション・国史大系 第12巻「令義解 巻2 戸令 83頁~84頁(55コマ):悪疾」、奥田正叡著「仏教とハンセン病」、日弁連法務研究財団編「ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書」、ハンセン病国賠弁護団編「人権侵害とその歴史」、国立国会図書館デジタルコレクション「法令全書.明治27年 325 頁~334頁:勅令(明治27年8月28日)(日英)通商航海条約」、同コレクション「法令全書.明治40年 9 頁~11頁:法律第11号(明治40年3月19日)癩予防に関する法律(件)」、同コレクション「官報 1916年3月11日249頁:法律第21号 明治40年法律第11号改正」、同コレクション「官報 1931年4月2日79頁~80頁:法律第58号・癩予防法」、衆議院制定法律「昭和28年8月15日法律第214号・らい予防法」、同法律「平成8年3月31日法律第28号・らい予防法の廃止に関する法律」。参照:2020年4月の周年災害「大宝令完成し公布、天皇中心の中央集権国家体制が法的に整備される」、2014年8月の周年災害「医制発布され近代的医事衛生制度発足」、2017年4月の周年災害〈上巻〉「伝染病予防法制定、法整備し感染症に組織的・システム的に対応」)


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(2020.9.5.更新)

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