【目 次】

・暦仁から延応へ改元、わずか2か月半で改元と最短記録更新。御成敗式目の人身売買禁止令が天変?
 (780年前)[改訂]

・幕府、正嘉の大飢饉で流民救済策出す(760年前)[再録]

・江戸安政6年城東の大火、大名下屋敷から出火し小名(少録の大名)の屋敷数知れず焼く(160年前)[再録]

・浮標(プイ)が初めて富津州西端に配置される(150年前)[追補]

・高岡明治12年の大火、全町の約36%を消失(140年前)[再録]

・明治12年、コレラ史上最大級の流行始まる、死亡者10万5786人。ヘスペリア号事件起きる[改訂]

・海難対策は船舶運航の安全と海員の身分保障にありと船員法公布、現在に至る近代的な法規誕生(120年前)[再録]

・水難救護法公布、江戸時代の浦々高札を近代法に衣替え(120年前)[追補]

・結核予防法公布、結核予防対策の基本法として誕生(100年前)[改訂]

・茨城県石岡町昭和4年の大火中心街壊滅(90年前)[改訂]

・枚方陸軍禁野火薬庫爆発事故-50年後、枚方平和の日に(80年前)[改訂]

・名立機雷爆発事件戦争の遺物が少年少女たちの命を奪う(70年前)[追補]

・東京消防庁、通信指令室設置、緊急通報受付と出動指令を本署で一本化-災害救急情報センターへと成長(70年前)
[改訂]

・厚生省、初のカドミウム汚染調査結果を発表―公害関係法案として結実(50年前)[改訂]

・名古屋南部大気汚染公害訴訟-26年後、原告団環境改善への成果かち取る(30年前)[追補]

渋川市未(無)届有料老人ホーム“たまゆら”火災事件-厚生労働省指導を強化、一方で介護施設の格差も(10年前)

【本 文】

○暦仁から延応へ改元、わずか2か月半で改元と最短記録更新。御成敗式目の人身売買禁止令が天変?
 (780年前)[改訂]

 1239年3月20日((暦仁2年2月7日)

 天変により改元とある。

 またもや“天変”による改元だが、異例なのはわずか2か月半で、延応へと改元していることである。すなわち、改元の年が暦仁2年とあるからわからないが、西暦で言えば前年号の嘉禎から暦仁へ改元したのが、今回の改元と同じ年の1239年1月6日(嘉禎4年11月23日)で、わずか2か月半前である。

 元仁の場合も短く、前の元号の貞応から元仁へ改元したのが1225年1月7日(貞応3年11月20日)で、元仁から次の嘉禄へ改元したのが同年6月4日(元仁2年4月20日)でこの間約5か月である。これも改元短記録だが、今回の改元はその半分の期間しか満たしていない。

 災異改元は、短期間でも大災害が起きていれば納得できる。

元仁から嘉禄への改元には、天然痘の流行という理由があった。では今回はそれより半分も早いのだから、もっと大きな災害が起きたのかなと探してみてもそれが見あたらない。さすがの「日本災変通志」も、39年2月11日(暦仁元年12月29日)に前の周防国守護(司)藤原親実の家が失火で焼けた記録だけ。また当時の歴史書「百錬抄」でさえ、39年2月19日(暦仁2年1月7日)に検非違使庁の役人が一人の油売りを捕縛したという記事だけだが、しかし改元をした理由として次の記述がある。

世俗云略人有憚且上下多有夭亡之聞”で“仍被改延応了(よって延応と改元された)と、ある。

前段の“世俗云略人有憚”を単純に読むと“世間では(世俗)、人さらいや人身売買(略人)は、憚(はばか)らねばならないことだと云っている”。と読める。これは7年前の32年8月(貞永元年8月)に鎌倉幕府が制定した、最初の武家法典「御成敗式目」に、改元の年、39年6月(延応元年5月)に追加された条文“人倫売買事。向後(今後)被停止之”が関わっていると思われる。改元が先に行われているが、この条文の背景は「式目」の第41条に“無其沙汰過十箇年者(前の売主から譲渡権について訴訟が10年以上も起きていない者には)、不論理非不及改沙汰(その理非を論ぜずに改めて譲渡されることはない)”というか所があり、それに関連して追加条文で明確化したとされているが、「御成敗式目」公表後、改元の年の時点では、すでに人身売買がはばかることで、できないことだということが常識化していたようだ。

特に後段の“且上下多有夭亡之聞”も単純に読むと“且(さらに)”とした上で“上下夭亡(貴族も庶民も若死にする人)が多いと聞いている”となるが、“夭亡”は前段の内容からして人の死亡を指すのではなく、事業や政策の中断についての比喩と考えると、朝廷や貴族が比喩したくなる当時の政策といえば、やはり武家側の法律だが「御成敗式目」であろうか。

前段の人身売買禁止の件は当式目の目玉であり、18年前の21年6月に起きた後鳥羽上皇による幕府に対する反乱・承久の乱により朝廷側が大敗北し幕府権力が強化され、朝廷を始め貴族、寺社など旧勢力の経済的よりどころ“荘園”が、幕府が任命した地頭によって実質的に支配されたうえ、今度は、荘園の労働力の主要部分である奴婢(売買されていた下層労働者)に対する売買禁止令である。

朝廷や貴族、寺社など旧勢力にとって、この禁止令は夭亡を願う“天変(幕府から降ってきた災難)”だったのだろうか。それで改元か?

(出典:池田正一郎著「日本災変通志>中世 鎌倉時代 223頁:暦仁元年、延応元年」、国立国会図書館デジタルコレクション「国史大系 第14巻 百錬抄>第十四巻 四条院 244頁:歴仁2年・延応一年(130コマ)」[改訂]、花房友一訳「御成敗式目一覧」[追加]、日本全史編集委員会編「日本全史>鎌倉時代>1220-24(承久2-元仁1)250頁:承久の乱おこる。幕府軍15万余騎が京都を占領」[追加]。参照:6月の周年災害・追補版(1)「元仁から嘉禄へ改元、疱瘡(天然痘)の流行による、改元最短期間記録」、2019年1月の周年災害「嘉禎から暦仁(りゃくにん)へ改元 、鎌倉で水損、京都で天変、流星空を舞う」[改訂]、8月の周年災害・追補版(2)「御成敗式目(貞永式目)制定」[追加])

○幕府、正嘉の大飢饉で流民救済策出す(760年前)[再録]

1259年3月12日(正嘉3年2月10日)

2年前の干ばつに始まり前年の長雨と低温及び大洪水によって凶作となり、冬からこの年にかけて諸国で“正嘉の大飢饉”と呼ばれる大災害が発生した。

飢えに苦しむ人びとは、住む土地を離れ流民(るみん)となって食べられるものを求めて他領にまで入り各地をさまよったという。それに対し、各領地を治めている地頭たちは、流民を追い立て排除することしかしなかったので、この日、鎌倉幕府は、流民たちが食糧を求めて他領の山野や川、海などに立ち入ることを認め、地頭たちに流民救済を命じる法令を公布した。

(出典:日本全史編集委員会編「日本全史>鎌倉時代 264頁:正嘉の飢饉に苦しむ民、追い立てる地頭。幕府、ようやく救済策」。参照:2018年7月の周年災害「正嘉・正元の大飢饉」[改訂])

○江戸安政6年城東の大火、大名下屋敷から出火し小名(少録の大名)の屋敷数知れず焼く(160年前)[再録]

1859年3月26日(安政6年2月22日)

前日の亥の刻(午後10時ごろ)より南の風が強く吹いていた。出火当日は明け方からいよいよ烈しくなり、青山穏田の松平芸州(安芸国)候下屋敷内と松平江州(遠江国)候屋敷内から相次いで出火した。

隣接する松平志摩守、井上河内守下屋敷など諸家の下屋敷に延焼、町家にも炎は延び、緑町、原宿町、久保町を焼き、竜岩寺、滋光寺、熊野権現社の別当浄性院など寺社や旗本屋敷から千駄ヶ谷組屋敷までも焼亡した。

延焼範囲は四谷大通りから西は大木戸手前まで、東は塩町から伝馬町三丁目までで、念仏坂上下一円が灰となった。牛込原町、若松町は寺多数が焼亡。高田、早稲田町や供養坂町の組屋敷、武家地などが多く焼けた。高田毘沙門堂、穴八幡も焼亡、高田の炎は目白台に飛び火し大名屋敷を灰としている。

またひとむらの炎は、雑司ヶ谷村から高田村、戸塚村一帯の町家、大名屋敷を焼き、大野山本浄寺は飛び火が移り焼亡、音羽一丁目の西側まで焼き、辰の下刻(午前9時ごろ)鎮火した。

被害はおよそ諸大名の上屋敷、下屋敷あわせて20余か所、小名の屋敷は数知れず、組屋敷も数か所が焼けた。神社3か所。寺院50余か所、町家は35町ほど、広さにして長さおよそ1里8町余(約5km)、幅平均4町半(約490m)が焦土と化している。

(出典:東京都編「東京市史稿>No.2>変災篇No.5>850~857頁:安政六年火災>二.二月廿二日大火」、池田正一郎著「日本災変通志>近世 江戸時代後期>安政六年 696頁」)

○浮標(プイ)が初めて東京湾富津州西端に配置される [追補]

1869年3月20日(明治2年2月8日)

船舶が海上での位置を知り、目的の港への入港ルートを知ることができる“航路標識”にはさまざまなものがあるが、航路や暗礁の場所などを知らせる手段として“浮標(プイ)”が世界でもっとも早く設置されたという。

わが国における近代的な航路標識としては、浮標が東京湾内に設置された38日前の1869年2月10日(明治2年1月1日)に点灯した、三浦半島東南端の観音崎に設置された観音埼灯台がはじめてで、今ひとつの航路標識“灯台船”が9か月後の12月21日(同年11月19日)横浜本牧沖に設置されるなど、首都東京と玄関口である横浜港への航路は、ほかの各主要湾口に比べいち早く明るく照らされることになった。

もっともこれには訳があり、5年9か月ほど前の63年6月25日~7月6日(文久3年5月10日~6月1日)にかけて、当時、尊皇攘夷(天皇を戴き、夷人:西洋人を排撃する)活動の中心であった長州藩の若侍たちが、関門海峡を通過するアメリカ、フランス、オランダ各国の商船や軍艦などを砲撃した。これに対しイギリスを加えた4か国の連合艦隊が、翌64年9月5日(元治元年8月5日)長州藩の下関砲台を攻撃、これを占領するという事件が起きた。

9月8日(旧歴・8月8日)長州藩と列国が講和。10月22日(同年9月22日)幕府は4か国と「下関取極書」を締結するが、その中に結局、幕府が背負うことになった賠償金を支払う代わりに開港の要求があった。その上勢いを得た列国は、幕府に日本側の輸入関税の税率軽減(税即改定)も要求、後に“不平等条約”の一つとして改正を求める民衆運動を起こすことになる。

結局、66年6月25日(慶応2年5月13日)幕府は列国と「改税約書」を締結するが、その中の第11条に“日本政府は、外国交易のため開きたる各港最寄船々の出入安全のため灯明台(灯台)、浮木(浮標)と、瀬印木(浅瀬や岩礁などのあることを表示する標識)等を備うべし”という条文があり、明治維新後の69年(明治2年)に入り、まず東京湾を照らす航路標識が次々と整備され、欧米諸国の船舶だけでなく、わが国の船舶の航行の安全が保障されるようになった。

中でも浮標は当初、特に色が塗られていなかったが、1828年イギリスのR.スティーブンソンが“右舷側を赤色、左舷側を黒色”に塗り分けることを提案、ようやく82年になって同国内で右舷側を赤色円錐形、左舷を黒色円錐形で統一することが決められたという。

この日、富津州西端に設置された浮標は、上部が鉄製の球形のかごで色は紅色に塗られていた。その後さまざまな浮標が登場、1886年(明治19年)にはこの初代浮標に波力を利用して吹き鳴らされるホイッスルが取り付けられ、位置を音でも知らせることになる。ついで1892年(明治25年)9月には、浮標の上に揮発油をともす灯火装置をつけた“灯浮標(ライトプイ)”が、東京湾口の浦賀水道の第3海堡(海上砲台)付近に登場、船舶が夜間、海堡と衝突を避けるため設置されている。

(出典:燈光会編「灯台アーカイブ>近代航路標識資料要覧>航路標識技術の変遷」、日本全史編集員会編「日本全史>江戸時代>1863(文久3)891頁:下関で長州藩が外国船を砲撃、列国、報復攻撃へ。1864(文久4・元治1)895頁:4国連合艦隊が下関を攻撃、わずか1時間で砲台破壊。1866(慶応2)902頁:欧米4か国と輸入税軽減の協約、貿易の不平等強まる」、国立国会図書館デジタルコレクション「締盟各国条約彙纂.第1編 318頁~320頁(175コマ~):下の関取極書。同書 321頁~331頁(176コマ~):改税約書」。参照:2018年11月の周年災害「日本初の近代的灯台、観音埼灯台着工」、2009年12月の周年災害「本牧沖に初の近代的灯台船、夜間入港の道しるべ浮かぶ」、2012年9月の周年災害「灯浮標(挂灯浮標)第三海堡建設に応じて、初めて東京湾に浮かぶ」)

○高岡明治12年の大火、全町の約36%を消失(140年前)[再録]

1879年(明治12年)3月3日

真夜中、木舟町の太物商(綿や麻織物を商う呉服商)浅井吉平方の失火で炎が立ち上がった。

折からの烈しい西風にあおられてたちまち四方に燃え広がり、住家2000余戸を焼失、神社1か所、寺院23か所、学校1か所を焼失した。神社や寺院の焼失記録から、少なくとも北は千木屋町、下川原の線から、南は鴨島町、博労町に及ぶ、中心部の大半を焦土と化したようだ。

春先になると烈しい西風が吹くのは、富山県一円共通の特異な気象条件で、いわゆる“フェーン現象”である。また、同年1月の調査によると、当時の高岡の全戸数は5525戸であるから、36%を焼失したことになる。

(出典:高岡市史編纂委員会編「高岡市史 下巻>第二章 災害と警備>1 火災 1056頁~1059頁:火災年譜、明治12年の大火」)

○明治12年、コレラ史上最大級の流行始まる、死亡者10万5786人。ヘスペリア号事件起きる(140年前)[改訂]

1879年(明治12年)3月14日

幕末から明治にかけてのコレラとの長い戦いは、欧米列強との船舶検疫をめぐる戦いでもあったが、この年はひとつの事件を起こしつつ、感染史上最悪の年として記憶される年の一つとなった。10万人以上が死亡したのである。

コレラについての初めての情報は、1822年4月(文政5年2月)、長崎出島のオランダ商館長が幕府へ表敬訪問のため、同商館の専属医師を伴い江戸滞在中、わが国の蘭法医(西洋医学を学んだ医師)たちと面談、当時オランダ領東インド(現・インドネシア)ジャワ島で流行している情報を語ったのが初めとされている。またその年は情報だけではなく、早くも半年後の10月上旬(旧・8月中旬)には、実際にコレラ菌が中国大陸から朝鮮半島を経由して対馬に侵入、対馬から長門国赤間関(現・下関)に侵入している。

その後1858年8月(安政5年7月)、4年前の54年3月(安政元年3月)、幕府を武力で威嚇し日米和親条約を締結させたペリー艦隊中の1隻、ミシシッピが、その後、上海に派遣され同港に寄港した後、コレラに発症した水兵を乗せたまま長崎に入港、そこからコレラが関西を経由して江戸へ達し、全国で数十万人が死亡したと伝えられている。この大流行から明治時代に入り、コレラによる死亡者が年間10万人を越えたのは、安政5年から20年経ったこの年が初めてで、その後、10万人を越える大流行は86年(明治19年)しかない。

わが国では、2年前の77年(同10年)明治維新後、初めて年間1万人を越える流行を体験したが、事前に清国厦門(アモイ)での流行状況をキャッチした内務省(現・厚生労働省)が、日本でも流行することを予測してその年の8月に「虎列刺(コレラ)病予防法心得」を公布、安政5年の大流行の苦い経験から、船舶検疫の方法や権限を条文に定め、安政5年の欧米5か国(イギリス、アメリカ、オランダ、ロシア、フランス)と締結した修好通商条約で開港した神奈川(横浜)、兵庫(神戸)、長崎及び東京に初の感染症専門病院・避病院を設置するなど対策をたてていた。

ところがこの処置に在日各国公使代表のイギリス公使パークスが、厦門での流行はすでに収束しているから、避病院の必要はない、と暗に検疫に反対したので、5か国の船舶への実施は不可能となった。ところがやはり案じたとおり、翌9月上旬、検疫を逃れた横浜のアメリカ製茶会社の商品と長崎に停泊中のイギリス軍艦からコレラが侵入、その年は1万4000人の患者と8000人の死亡者を出してしまった。しかしこれらのことに民衆が敏感に反応しないわけがなく、その後、官民挙げての条約改正の活動となっていく。

検疫問題で揺れた2年後のこの日、愛媛県魚町(現・松山市)で突然コレラ患者が数か所で発生、見えないコレラ菌に対する長い闘いが始まる。

コレラ菌がどうして松山で突然発生したのか? その原因はわかっていない。数か所で同時に発生し、あるいはその数日後患者に接触したことのない人も発病している。典型的な複数回に及ぶ同時多発的流行である。その点から当時、外部から来た人によってもたらされたとは考えられていない。

コレラは、主に河川や海など水中に生息する生きた菌により汚染された水や魚介類、農産物などを飲食することによって感染する。そこで愛媛県では、患者の家の便槽から漏れた汚水が、下水から地下水、池などを汚染する例が多いので、さっそく防臭剤を各家の便槽に投入し消毒を試みたが、便槽の中の色が変わり臭気も発しなくなったので、住民たちは防臭剤を毒薬と思い消毒を拒否したという。そのため感染を押さえることができなかったと言われている。初期対応がとんだ理由でうまくいかなかったため、4月上旬から爆発的に感染は拡大していった。

そして4月中旬になり、愛媛県の流行地の住民たちが、大分県の別府および浜脇(現・別府市)の温泉場に湯治に出かけ発病、そこを起点として4月下旬に鹿児島県、5月上旬には海を渡って沖縄県へとコレラが九州一円に急速に広まった。5月中旬から下旬にかけて主に西日本一帯に拡大、6月に入ってからは東日本に波及、7月には東北地方へと広がり、8月下旬には流行はピークに達し、ようやく12月になり減少した。

ところがこの間、外国船検疫に関わる事件が発生した。ヘスペリア号事件である。

ドイツ船ヘスペリアが神奈川県横須賀の長浦検疫所に一時停留させられたのは7月11日のことであった。

この処置は、5月中旬ごろから西日本一帯がコレラに犯され、阪神地区にも広がる勢いを見せていたので、政府は1月に原案を作成していた総合的な「伝染病(感染症)予防規則」から急きょコレラに関する部分を抜粋、6月27日「虎列刺(コレラ)病予防仮規則」を布告した。それにより首都圏の防疫を管轄している東京警視本署(現・警視庁)では7月2日、流行地方を経て横浜港へ入港する艦船はすべて長浦に停留させ、乗組員の健康を確認し、積載している物品を消毒した上、入港を許可するよう神奈川県に通達した。また4日には、乗客のない貨物船等の場合でも、乗組員は10日間一切上陸を禁止する、という隔離政策を通達。14日には政府は太政官(現・内閣)第28号で「海港コレラ病伝染予防規則」を公布、諸外国公使にもその旨を通知していた。そして7日後の21日これを改正した「検疫停船規則」を公布、来日する船舶に対する検疫を強化したのであった。

これらの処置に対し、アメリカ、清国(現・中国)、イタリアなど各国代表は異議のないことを回答したが、例によってイギリス、ドイツ、フランス公使らは“外国船に適用するという明文がない”など規則に不備があると指摘して反対。中でもイギリス公使パークスが、1851年締結の安政日英修好通商条約第5条“貌利太尼亜(ブリタニア:イギリス)の法度に随(したがい)て罪すべし”を根拠に、在日中でも“検疫規則が英国の規則でなければ、英国人に守らせることはできない”と反対したので、各国公使に検疫に協力を依頼するという形でしか行えず、清国や韓国との間の便船しか検疫できなかったという。

またドイツ公使もプロシア当時の万延元年(1861年)に締結した、日普修好通商条約第5条“孛漏生(プロシア)人に対し訴訟或は異論ある時は孛漏生コンシェル(管理人:公使)に於て此の事件を裁断すべし(領事裁判権)”を根拠に、停船しているヘスペリアに対して日本側の検疫とは別にドイツ人の軍医を派遣、独自に船内の検査をさせて異常のないことを確かめると、翌12日、寺島外務卿(大臣)に対し“この上長浦に逗留することは無用であり速やかに横浜へ入港させたい。もし、この上同船を停留させておく場合は、責任は日本政府にある”と公文を送った。寺島は即日これを拒否したが、ドイツ公使は“ドイツ汽船をことごとく停船させる権利は日本政府にはない、もしその権利を主張するなら本国政府へ訴える”と強硬な態度を示し、翌13日には同船船長の不服申立書とドイツ軍医による検査報告書の写しを添えて、同船の解放を要求、さらに14日には“ドイツ官僚の承諾なくして検疫のため停留させられた”と修好条約違反であることを主張、“直ちに横浜へ向け出港するよう訓令する”と回答し、当のヘスペリアを翌15日には横浜へ入港させた。

ヘスペリアがコレラ菌を横浜へ持ち込み、感染が拡大したという証拠はないが、当時東日本から東北地方へと感染が広がっており、この事件により国内で官民を挙げて不平等条約改正の世論が沸き立ったのは当然であろう。

ひるがえって2020年の現在、治外法権的な「日米地位協定」でさえも、その第3条で“公共の安全又は環境に影響を及ぼす可能性がある事件・事故が発生した場合(中略)発生情報を得た後できる限り速やかに外務省(略)に通報する”とした、アメリカ軍の義務について協定を結んでいるにも関わらず、アメリカ軍基地での新型コロナ感染症の広がりに対し、通報の不十分さについて、基地内の日本人労働者への感染防止を始め、基地外である日本国内への感染拡大防止についても、何一つ申し入れをしていない安倍政権は、当時の明治政府が国民の安全と利益を守るために、民衆とともに不平等条約の改正を目指した、独立国としての毅然とした態度を学んだらどうだろうか。

ともあれ、この年の全国の患者数16万2637人、10万5786人が死亡。その死亡率は65%に達し、1886年(明治19年)の大流行に次ぐ大惨事となった。これに対し時の政府は、2年前の77年(同10年)に設置した、前述のコレラ患者を専門に隔離する避病院(コレラ専門病院)を充実させ、後にはコレラだけでなく他の感染症にも対応した専門病院として防疫と専門的な治療体制を強化して行く。

(出典:山本俊一著「日本コレラ史>Ⅰ 発生および対策編>第3章 西南戦役後>第3節 明治12年 46頁~47頁:(a)概況」、同著「同>Ⅲ 検疫編>第2章 明治初期>第2節 経過 544頁~551頁:(a)明治10年、(b)明治12年」[追加]、同著「同編>第3章 検疫関係諸規則>第1節 海港コレラ病伝染予防規則 553頁~559頁:(b)条文、第2節 検疫停船規則 564 頁~565頁:(a)成立過程」[追加]、国立国会図書館デジタルコレクション「法令全書.明治10年>明治10年8月 内務省達 421頁~430頁(257コマ~):虎列刺病予防法心得(別冊及び付録消毒薬及其方法)」[追加]、同コレクション「法令全書.明治12年>明治12年6月太政官布告 49頁~52頁(54コマ~):第23号 虎列刺病予防仮規則」[追加]、同コレクション「法令全書.明治12年>明治12年7月太政官布告 58頁~63頁(59コマ~):第28号 海港虎列刺病伝染予防規則」[追加]、同コレクション「法令全書.明治12年>太政官布告 63頁~69頁(61コマ~):検疫停船規則」[追加]、同コレクション「締盟各国条約彙纂.第1編 418頁~430頁(225コマ):日本国大不列顛国(グレートブリテン)修好条約」[追加]、同コレクション「同書 367頁~379頁(199コマ):日本国普魯士国(プロシア)修好条約」[追加]、神奈川県立公文書館編「デジタル神奈川県史 通史編4>第2編 明治前期>第4章 明治前期の渉外と文化>第2節 県行政と渉外問題>2 入港外国船にかかわる著名事件 619 頁~620頁:ヘスペリア号事件」[追加]、厚生労働省横浜検疫所編「横浜検疫所検疫史アーカイブ>横浜検疫所の変遷>明治12年の虎列刺大流行と厳重な検疫の開始」[追加]、外務省編「日米地位協定 第3条合意事項>在日米軍に係る事件・事故発生時における通報手続き」[追加]。参照:2012年10月の周年災害「文政5年、コレラ初めて日本へ侵入、西日本に広まる」。2018年7月の周年災害「安政5年開国の年、コレラ長崎に上陸ついに江戸へと拡がり史上最大の流行へ」[改訂]、2017年8月の周年災害「内務省、虎列刺(コレラ)病予防法心得公布」、2017年9月の周年災害「明治期初めてのコレラ3系統で大流行、帰還軍隊の移動で各地方へ伝播」[追加]、2017年10月の周年災害「内務省警視本署、コレラ大流行に対応し、初の感染症専門病院“避病院”設置」[改訂]、2009年6月の周年災害「内務省、急きょ初の感染症予防法規:虎列刺(コレラ)病予防仮規則を布告」[追加]、2019年2月の周年災害「海港検疫法公布、感染症の侵入を水際で防ぐ。22年前、最初の検疫法規実施にイギリス公使反対しコレラの侵入許す」[追加]、2016年5月の周年災害「明治19年コレラ最大級の流行、死亡者10万人を越し死亡率70%」[追加])

海難対策は船舶運航の安全と海員の身分保障にありと船員法公布、現在に至る近代的な法規誕生(120年前)[再録]

 1899年(明治32年)3月8日

明治政府の海難対策は、まず海難の多い和船に代えて、西洋形船を奨励する方針から始まり、そしてこの日、海難対策の要点は、船舶運行の安全と運行する海員の身分保障にありとする近代的な法規“船員法”の公布で完結する。

まず1869年11月(明治2年10月)、太政官(現・内閣)布告をもって“百姓町人に至るまで西洋形船を所持することを許す”として西洋形船舶の購入を一般に許可。ついで翌70年2月(同3年1月)には同じく太政官布告で、日本製造の船の難破が多いこと、それは国の損失にほかならないとし、西洋形の船所持のものは厚く引き立てると奨励する方針を定めている。

次に政府が打った手は、同日付の「郵船商船規則」で、和船からの転換推進のため、船免状、船舶検査、船舶衝突に関する注意など、船舶運航に関する一般規定の中に海難防止に係わる規定を含めて布告した。その後、政府は、74年(同7年)1月に「海上衝突予防規則」、翌75年(同8年)4月には「内国船難破及び漂流物取扱規則」を布告するなど、直接海難に係わる規則を具体的に定め、海難防止に対応した。

同年5月、当時の最高実力者、内務卿・大久保利通が太政大臣(現・総理大臣)三条実美に「海運建白書」を上程、それには海運強化のための主要な対策である海難の防止は、まず海員(船員)の養成にありとした。そこでまず同年9月、三菱会社(現・日本郵船)に対し、船員養成のための学校の設立を要請、三菱はこれを受けて、同年12月、三菱商船学校(現・東京海洋大学)を設立した。また法的な面では、翌76年(同9年)6月、現在の船員法、海難審判法につながる内容が規定された「西洋型商船船長運転手及機関手試験免状規則」を公布するなど、海難対策を法制化した。

ついで79年(同12年)2月に公布した「西洋形商船海員雇入雇止規則」では、海員の保護及び船内規律について定め、当時としてはきわめて進歩的な労働保護法としての内容を持ち、この日公布された船員法につながっている。

この日公布された船員法は、それまでの政府の海運強化策、海難防止策の流れの中で位置づけられるが、危険な海上の船舶の運航の安全をはかるための法的規定と、労働者としての船員の身分保障規定からなっている。中でも第二章の船員手帖で、船員となるための手続きを定め、第三章の船長では、船長の権限と義務、第四章の海員では、先の79年(同12年)2月の規則の内容を引き継ぎ身分の保護を行い、第5章の規律では海員として必要な規律の保持及び違反した場合の懲戒について定めるなど、ここに現在の船員法に引き継がれる内容の近代的な法規が誕生した。

(出典:内閣府編・中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会報告書「1890エルトゥールル号事件>第1章「エルトゥールル号事件」に至る歴史的背景>第1節 明治時代の海難対策 3頁~8頁:海難発生状況、海員政策」、国立国会図書館デジタルコレクション「法令全書.明治32年 124~138頁(71コマ~):法律第47号 船員法」、同コレクション「法令全書.明治2年 398頁(236コマ):太政官布告第968 西洋形風帆船蒸気船自今百姓町人ニ至ル迄所持被差許候間……」[追加]、同コレクション「法令全書.明治3年 19頁~32頁(41コマ~):太政官布告 第57号 郵船商船規則」[追加]、同コレクション「法令全書.明治7年 2頁~18頁(63コマ~):太政官布告第5号 海上衝突予防規則」[追加]、同コレクション「法令全書.明治8年 85頁~92頁(104コマ~):太政官布告第66号(別冊)内国船難破及漂流物取扱規則」[追加]、同コレクション「法令全書.明治12年 3頁~5頁(31コマ~):太政官布告第9号(別冊)西洋形商船海員雇入雇止規則」[追加]、東京海洋大学編「東京海洋大学について>沿革」[追加]。参照:2016年6月の周年災害「西洋型商船船長運転手及機関手試験免状規則公布」[改訂])

○水難救護法公布、江戸時代の浦々高札を近代法に衣替え(120年前)[追補]

1899年(明治32年)3月29日

海運の発展にともない船舶の遭難(水難)も増加したが、その場合の救護や遭難船の処理、漂流や沈没した積荷の処理について、江戸時代の1636年(寛永13年)すでに“浦々高札”の形で布告されていたが、このたび近代的な法体系として水難救護法が公布された。

法制定当時、海上保安庁のような海難救護機関が存在しなかったので、沿岸部の市町村長に救護や遭難船の積荷などの処理を行わせる必要があった。江戸時代の届け出先が土地の代官(幕府領や藩領の行政責任者)や庄屋(村役人:村の行政責任者)であったのが、1889年(明治21年)4月以降、市町村制度の施行後、届け出先が市町村長になったわけで、基本的には江戸時代と比べ変わってはいない。

条文の内容は、第1章が遭難船舶に関する規定だが、第1条で“遭難船舶救護の事務は最初に事件を認知した市町村長が之を行う”と明記し、第2条は遭難船舶発見者の最近地の市町村長への通報義務、第3条は遭難船舶のあることを認知した市町村長の救護義務、第4条は警察官吏の市町村長補佐と職務を代行して執行する義務など、遭難救護に関するそれぞれの立場の位置づけと義務を明確にしている。

また第5条で船長の人命保護手段が不十分な場合や船長に悪意がある場合以外、救護は船長の遺志に基づくこととした上で、第6条以下第9条は市町村長の救護に際しての権限、第10条は船長の遭難報告義務と、これに対する市町村長の事務行為を定め、第11条は救い上げた積載物と物品の公売、第12条以下第19条までは救護費用の取り扱いに関する規定となっている。

次いで第2章として、第24条以下第30条までを漂流物や沈没品に関する規定としているが、基本的には第1章の遭難船舶の場合と権限や義務、事務行為等は変わらない。 面白いのは積載物の拾得者に対する所有者からの謝礼だが、江戸時代は、物件の価格に対して漂流物20分の1、沈没品10分の1だったのが、今回の規程では漂流物が10分の1、沈没品は3分1と跳ね上がっていることで、同月に公布された遺失物法の拾得物の20分の1から5分の1の範囲という規程(第4条)に比べ、水中拾得の危険性を加味しているものと思われる。なお第3章は罰則規定だが、江戸時代は積載品を盗んだ場合の死罪(死刑)であったのに比べ、重禁固か金額が大きいが罰金で済むところは、一応、文明開化の明治ということか。

(出典:、国立国会図書館デジタルコレクション「法令全書.明治32年 323頁~332頁(245コマ~):法律第95号 水難救護法」、同コレクション「同書、同年 307頁~308頁(237コマ):法律 第87号 遺失物法」、水中遺跡調査検討委員会+文化庁編「水中遺跡保護の在り方について(報告)>解説編>水中遺跡に関係する法律等38~40頁:4 水難救護法について」。参照:2016年9月の周年災害(上巻)「幕府、海運の発展に対応、浦々高札を建て難破船の処置について布達」)

○結核予防法公布、結核予防対策の基本法として誕生(100年前)[改訂]

1919年(大正8年)3月27日

感染症、中でも結核は、かつて“国民病”とも“亡国病”とも呼ばれ、特に15歳から30歳未満という年齢の若い世代に発症者が多く、当然死亡も多く問題となっていた。

この状況は、戦後(1945年:昭和20年8月以降)ストレプトマイシン(ストマイ)による抗生物質療法の導入で、1950年(昭和25年)には、1897年(明治30年)人口10万人に対する死亡率が151.7人と記録して以来、54年ぶりにはじめて、死亡率が150人を切り、それ以降急激に死亡率も発症者数も減少する状況になっていった。

結核、中でも肺結核は漢方医学で“労咳”と呼ばれ、古くから武士、庶民を問わず若い世代に広まっていたが、明治以降、“肺病”“結核”と呼ばれるようになっても、感染症の中では古代からの天然痘や新興のコレラに比べると、急激な病状の悪化が見られないせいか、国としての予防、医療対策はほとんどなかった。これに対し、初代の文部省(現・文部科学省)医務局長だった長与專齋が、北里柴三郎とともに、早くからこの病気がまん延する危険性を見抜き、サナトリウム(結核療養所)の開設を提唱、1887年(明治20年)8月、鎌倉に設立したのが、最初の結核対策だった。

その後、1913年(大正2年)2月、北里柴三郎が理事長に就任した結核予防協会が設立され、結核予防運動は充実していくが、これらはあくまで民間の有識者による活動で、国としての対策は遅れていた。この間、結核の死亡率は上昇、1905年(明治38年)には、人口10万人に対する死亡者は206人と200人を突破、以降23年(大正12年)まで、19年間もこの状況が続くことになる。

一方この状況を踏まえ、政府に対する建議権があった帝国議会では、20世紀に入る(明治34年以降)と、さすがに現状を黙って見ているわけにはいかず、結核対策を巡る議論が本格的に行われたが、国としての最初の予防対策といえるものは、1904年(明治37年)に出された内務省令第1号の肺結核予防に関する件で、省令ではあるが内容は、学校や公共の場に“たん壺”を設置することや、肺結核患者の隔離と消毒を命じたもので、予防規則というよりはごく簡単な対処心得のようなものであり、予防対策の基本となる総合立法の整備が、議会内外で強く望まれたという。

このような動きを経て、1914年(大正3年)3月、肺結核療養所設置及国庫補助に関する法律が公布され、その5年後のこの日、ようやく結核予防対策の基本法としての結核予防法が公布された。この年の前年18年(同6年)は結核での死亡者14万747人、10万人あたりの死亡率257人を記録、これは統計が不明な44年(昭和19年)から46年(同21年)を除く、最大の死亡率であり、もはや結核予防対策は待ったなしの状況だったのである。

この結核予防法は、発生を予防するというよりは拡大を防止するという内容だが、結核患者の発見及びその死体を検案した時は、消毒などの予防を行うこと(第2条、第3条)、結核を伝播する可能性のある職業従事者への健康診断の実施と就業制限及び多数の人が集合する場所の使用制限と禁止(第4条)、人口5万人以上の市などに対する結核療養所設置命令(第6条)と患者への入所命令(第7条)、同所に対する国庫補助(第8条)などの内容となっている。

またこれも、2020年の新型コロナに対する国など行政の対策と比べてしまうが、有効なワクチンが開発されていない現在と抗生物質療法以前の当時と比べほぼ似た状況にあったとしてみると、予防法との違いと思われるのは、第4条の“結核を伝播する可能性のある職業従事者への健康診断の実施”であろうか。現在で云えば、新型コロナに対するPCR検査の実施ということになるが、発生して初めて“伝播する可能性のある職業従事者への健康診断”を行う行政の対応は、100年前に誕生した本法と比べ進歩しているのであろうか。

(出典:国立国会図書館コレクション「官報 大正8年3月27日 465頁~466頁(1コマ~):法律第26号 結核予防法」、疫学情報センター編「結核の統計2019 資料編>表3 結核死亡数および死亡率の年次推移」[改訂]、青木純一著「結核療養所反対運動と住民意識>Ⅱ 公立療養所建設への動き」、国立国会図書館デジタルコレクション「官報 明治37年2月4日 81頁(1コマ):内閣省令第1号・肺結核予防に関する件」[追加]、同コレクション「官報 大正3年3月31日 754 頁~755頁(2コマ):被結核療養所ノ設置及国庫補助ニ関スル法律」[追加]。参照:2017年8月の周年災害「長与專齋の提唱長でわが国初のサナトリウム海浜院、鎌倉由比ヶ浜に開院」[改訂]、2015年12月の周年災害「結核死亡率、この年から人口10万人あたり200人を超え……」[改訂]、2月の周年災害・追補版(4)「日本結核予防協会設立」[改訂])

○茨城県石岡町昭和4年の大火、中心街壊滅(90年前)[改訂]

1929年(昭和4年)3月14日~15日

ちょうどこの日は旧暦2月4日の初午にあたり“初午が早い年は火事が多い”との俗説があって、各町内では肝心な稲荷祭りの灯明の火さえともさず、商家はもちろん、工場から浴場にいたるまで、今日に限って火を使う焚き物を禁じていたという。

ところが、ここの所ろくな雨もなく町中は乾燥しきっていた。そこへ午後7時30分ごろ石岡町の心臓部にあたる中町の一角、金昇堂書店裏手付近から炎が吹き出たのである。折しも10mの強風にあおられて、見る見る内に中町、上町付近をなめ、炎が大通りを隔てた風下の東側に飛び移ったその時、全町の電灯が一斉に消え、火の手はますます燃え拡がって金丸町に延焼、明愛貯蓄銀行支店、石岡劇場、女学校2校を焼きはらった。炎はさらに華園寺の大伽藍を灰にして東南に進み、金丸新道から富田町へと延びた。ものの20分も経たないうちに飛び火で燃え移る早さは、荷物を出すいとまもなかったという。

一方、中町から分かれた炎は、常磐銀行(現・常陽銀行)支店の土蔵造りを始め、立ち並ぶ大商店、会社、料理店の大きな建物をひとなめにし、ついには市街の防火壁とまでいわれた高喜呉服店の石塀も飛び越えて、豪壮を極めた店舗は紅蓮の炎の中へと埋め込み火の嵐と化し、付近の町村から駆けつけた消防隊も手の施しようもなく傍観せざるを得なかったという。

また、今ひとつ中町に起こった炎は、木之地町へ突き抜けて多くの土蔵を焼き落とし、細谷商店の石油倉庫を襲った。同倉庫は石油缶の爆発でどどめ色をした噴火地獄と化した。繁華街を次々と焦土とした炎は、キネマ常設国文館から中町目貫通りの両側を将棋倒しのように焼き倒して守木町へと延び、金比羅神社の神域を襲った上守木町東側の商店街の大半を焦土と化してさらに富田町へと延び、いったん食い止まったかに見えたが、再び燃え上がって貝地町の町外れまで焼くとともに、三方に分かれていた炎の群れもここで合流した。翌日の午前2時10分鎮火。

各町の状況は次の通り。

火元の中町はほとんど全滅、守木町は西側の清涼寺を残し水戸地方専売局(国のたばこ、樟脳、塩専売局の地方局)石岡出張所前の広場で破壊消防を行い焼け止まり、東側は石岡郵便局向かいの佐藤医院を焼失して食い止まっている。金丸町は西側は山崎幸太郎宅の隣より、東側は松の湯より焼け始め、東へ延長し窪田組のそばで焼け止まり、南側は全部消失。守横町は全滅。守横新道はわずかに石岡駅寄りの住居を残し大半が消失。富田町は守横新道の隣接地より焼け始め、西側は太平海売場を焼き、東側は石岡校訓導(教師)の石原芳雄氏宅を焼き、曲がり角の5軒を残して貝地町へと延焼した。最後に富田町は北向観音脇より山内又兵衛氏の醸造場の塀に沿って南へ延び、守横新道より迫った火勢と合わせて高浜街道を進み、畑地で食い止まったが、道路に沿ったところは西側斎藤乾物店で止まり、東側は大字大谷津街道にある町外れの下駄屋を焼き、余勢を駆って約1町へだてた森の中の愛宕神社を焼き畑地で止まる。被害は全戸数3224戸のうち606戸、棟数にして、1700棟焼失。

(出典:石岡市史編さん委員会編「石岡市史 中巻 2>第4章 近・現代>第1節 政治・社会>8 昭和4年石岡町の大火 204頁~209頁」、昭和ニュース事典編纂委員会+毎日コミュニケーションズ編「昭和ニュース事典 第2巻 13頁:石岡で大火、千二百余戸を全焼」[追加])

○枚方陸軍禁野(きんや)火薬庫爆発事故-50年後、枚方平和の日に(80年前)[改訂]

1939年(昭和14年)3月1日~3日

枚方市の陸軍禁野(きんや)火薬庫は、1894年(明治27年)、清国(現中国)と朝鮮半島の利権をめぐり衝突した、日清戦争の開始にともない買収が始められ、96年(同29年)に完成している。綿火薬庫や弾薬庫、付属舎など20数棟が立ち並びそれぞれ高い土塁で囲まれていた。枚方は、大阪の砲兵工廠(軍需工場)と宇治の火薬製造所とを淀川で結ぶ立地の良さで火薬庫の適地として選ばれ、火薬を詰めた砲弾はトラックで運ばれ、船着き場から積み出されていた。

その禁野火薬庫で午後2時45分ごろ、砲弾解体作業中の工員の過失により砲弾が爆発、誘発されて第15号倉庫が爆発を起こすと、強風にあおられ構内一帯に火がまわり、火薬庫が次々と誘爆、4時間の内に29回も大爆発を起こした。

爆発と同時に火災が発生、砲弾は半径2kmにわたって飛散し、火災は近隣の集落にも延焼した。三日間燃え続け3日正午ごろようやく鎮火。陸軍の報告書によると、94人死亡、602人負傷。家屋全半壊821戸、4425世帯が被災したと記録されている。枚方市では、この惨事を忘れてはならないとし、爆発から50年後の1989年(平成元年)この日を“枚方平和の日”に制定した。

(出典:交野市教職員組合編「交野の戦争遺跡>陸軍禁野火薬庫」、枚方市編「枚方市の平和施策>非核平和都市宣言までの歴史、“平和の日”制定」)

○名立機雷爆発事件、戦争の遺物が少年少女たちの命を奪う(70年前)[追補]

 1949年(昭和24年)3月30日

 1931年(昭和6年)9月、中国、奉天(現・瀋陽)郊外の柳条湖で、日本陸軍の現地守備部隊、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破することにより始まった、足かけ15年間に及ぶ長くて苦難の戦争の時代を経て、ようやく平和の時代が訪れた4年目の春、戦争の遺物が63人の命を奪い、そのうち52人が小、中学生と2,3歳の幼児も含む15歳以下の少年少女だった。

 事件のあった新潟県名立町(現・上越市)は、上越市直江津と糸魚川市の間にある鳥ヶ首岬という山が海に突き出た小さな岬の西寄りにある。現場の小泊は、前がすぐ海で後ろには山がせまっている狭い平地に、国道8号(北陸道)沿いに150戸ほどが寄り添い、半農半漁で生計を立てている平和な集落だった。

 その日、沖合では小鯛の刺し網漁が豊漁で、漁師たちは夕方の午後4時ごろいつものように出漁したが、岸から300mほどの波間に赤黒いドラム缶のようなものが漂っているのを見かけた。漁師たちは、戦争中に敷設され数年前まで日本海でよく浮流していた機雷ではないかと一応疑ったが、結局、港のそばでもあるし浮標だろうということで見過ごしてしまったという。沖には小鯛の群れが待っているのである。

 その物体は潮の流れが変わったので岸の方へと流れていき、波打ち際から20mほどの所にある二ツ岩という、子供たちがよく小魚や貝などを採って遊んでいる場所に流れ着き、波間に頭を出しわずかに動いていた。

 近くにいた人にはそれがはっきりと機雷とわかったので“機雷が流れてきた”と叫び、そのことはたちまち付近の人々に伝わり、近くで遊んでいた子供たちが好奇心に駆られて護岸の石垣に群がってきた。大人たちは町の駐在所まで知らせに走った。駐在の中島巡査(警察官)は元海軍軍人で機雷の扱いについてよく知っており、以前も流れ着いた機雷を無事処理したことがあるので、駆けつけてくると人々は安心した。

 巡査は消防団出動の連絡をすると、いきなりズボンをまくり海中に踏み入れた。噂を聞きつけて15分と立たないうちに、60名近い子供たちと数名の大人が集まり巡査の様子を見守った。巡査が岩に接触している機雷を沖に押し出そうと両手をかけたその瞬間、突然、波で岩にたたきつけられた機雷が大音響とともに爆発し、浜から60余すべての人影が瞬時に消えた。午後5時23分のことである。

 爆発のひびきは、鈍い地ひびきをともなって遠くの町や村にまで届いたという。破壊力はすさまじく100戸あまりの家々が戸を吹き飛ばされ屋根を剥がされ、より現場近くの家々は形をとどめないほどに壊された。事件の原因となった機雷は、その形状からアメリカ空軍が日本の海上航路を封鎖するために投下した機雷と推定されている。

 事件の翌日、近くの浜辺で60余体の合同火葬が行われ、4日後、名立寺において合同葬儀が営まれた。事件を記録する“機雷爆発の地の石碑”が翌年、現場の二ツ岩に建立されたが、1961年(昭和36年)の漁港改修により国道脇に移設され、祈念の“地蔵尊”も翌62年(同37年)石碑の隣に建立されたが、2010年(平成22年)3月、国道拡張に伴い漁港敷地内にともに移設されている。また、子供たちを喪った遺族会では、自然災害や戦争で犠牲となった住民を供養する無縁塚と隣接して、事件の年の8月“供養塔”を建立。多くの教え子を喪った新潟県教職員組合も同年11月、事件の原因に思いを込めた“平和をまもる碑”を、供養塔の左斜め前に建立した。場所は日前神社参道入り口より北に40mほど行った、国道と平行に伸びるひとつ山側の道路沿いにあり、毎年、旧歴の盂蘭(裏)盆会(お盆)にあたる8月27日には、地区の住民が中心となって、無縁塚も含めて読経供養が営まれている。

事件12年後の13回忌を迎えた61年(同36年)8月、名立町教育委員会では事件の殉難者および遺族名簿を作成して公表。また79年(同54年)の30周年法要を迎えるにあたり同年1月、新潟県教職員組合は平和教育資料作成委員会で「平和をまもる-戦争と新潟-」を編集、その中で事件を「1949年(昭和24年)3月30日-名立機雷爆発事件―」として発表。名立町は機雷爆発事件資料編集委員会を編成し「平和の塔-名立機雷爆発の記録-」を翌80年(同55年)発行、それぞれこの事件について記録に残し後世に伝えている。さらに2014年(平成26年)より毎年、事件の起きた3月30日を祈念して3月下旬の日曜日、名立で起きた悲しい出来事を語り継ぎ、命の尊さと平和について考える日、名立・平和を願う日が開催されている。

 (出典:新潟県教職員組合平和教育資料作成委員会編「平和をまもる-戦争と新潟- 22頁~27頁:3.1949年(昭和24年)3月30日-名立機雷爆発事件-」、名立町史編さん委員会編「名立町史>第4章 近代化への歩み 406頁~412頁:第4節 戦争後の住民の悲劇-機雷の爆発と悲惨な犠牲者-」、上越市編「令和2年度 名立区の主なイベント>名立・平和を願う日」、桑野なみ編著・頸城野郷土資料室学術研究部研究紀要掲載「第17回 くびきのフィールド見学会>1.機雷爆発の地 石碑と地蔵尊、3.無縁塚」。参照:2012年5月の周年災害「オホーツク海沿岸漂着機雷公開爆破準備中の爆発事故」)

○東京消防庁、通信指令室設置、緊急通報受付と出動指令を本署で一本化-災害救急情報センターへと成長((70年前)
 [改訂]

1949年(昭和24年)3月31日

1948年(昭和23年)3月、東京消防庁は自治体消防として警視庁から分離独立し、翌年のこの日、それまで各消防署で受信していた緊急通報の119番を集中して管理する方式に改めた。

当時、警視庁内にあった東京消防庁本部内に通信司令室(現・災害救急情報センター)を設置、火災及び救急通報受け手の119番120回線、各消防署等に対する指令線300回線の収容能力を有する指令台7台を完成、各消防署・所には端末機として指令電話機を設置した。

これにより、火災や救急要請の緊急通報受付と出動(消防では出場)指令が本署で結合され、一斉出動(場)指令によってもっとも効率的に消防・救急活動が行われることになった。

その後、59年(同34年)3月、永田町庁舎の建設にともない、当時、東洋一と称された新しい指令電話装置を導入設置、64年(同39年)当時となると、全国の交通事故による年間死亡者が1万3000人を超えるという交通戦争激化の時代を迎え、労働災害による死亡者も10年間6000人台に高止まりするなど、救急需要が急激に増加、特に東京では64年(同39年)の東京オリンピック需要を反映した厳しい状況にあり、東京消防庁としては救急車の機動性をフルに発揮させる必要があった。翌65年(同40年)3月、時代の要請を受け止め、救急指令センターが運用を開始。76年(同51年)4月には、大手町への庁舎移転を機に、災害救急情報センターへと強化され、火災や救急はもとより、災害すべての情報処理する機構となり現在に至っている。

(出典:東京の消防100年記念委員会編「東京の消防100年のあゆみ>現代(1) 381頁~382頁:通信機構の整備」[改訂]、同編「同歩み>現代(2)455頁~457頁:救急指令センターの設置とその後の指令機構」[追加]、東京消防庁「消防雑学事典>火事があると電話局が困る」、東京消防庁編「組織・施設>東京の消防>災害救急情報センター」[追加]。参照:2015年3月の周年災害「東京消防庁、救急指令センター運用開始」[追加])

○厚生省、初のカドミウム汚染調査結果を発表―公害関係法案として結実(50年前)[改訂]

1969年(昭和44年)3月27日

厚生省(現・厚生労働省)は、1961年(昭和36年)6月、富山県神通川流域での“イタイイタイ病”発生が、カドミウム汚染であると明らかになったことを受け、67年(同42年)8月に公布された公害対策基本法第14条に基づき、今回初めて同汚染の実態調査を3地域で行いその結果をとりまとめ発表した。

同省ではこれに基づき同汚染防止総合対策として、特定有害物質による環境汚染防止法案をまとめることとしたが、最終的には翌70年(同45年)12月のいわゆる“公害国会”において水質汚濁防止法、農用地土壌汚染防止法、廃棄物処理法など、他の公害物質への対応も含めた各汚染防止対象ごとの法案として成立させている。

今回の調査は、汚染が懸念される東邦亜鉛安中精錬所のある群馬県安中市周辺、同対州工業所(73年:同48年閉山)のある長崎県対馬、三菱金属鉱業細倉鉱山(87年:同62年閉山、現・細倉金属鉱業)のある宮崎県鶯沢町で、それぞれカドミウム環境汚染の調査結果などをまとめた。この調査結果に基づく対策は、総合的な汚染防止対策と今回調査した3地域に対する対策とに大別される。

総合対策の主な柱は、①汚染防止対策、②食品対策、③飲料水中の暫定基準などであり、3地域に対する暫定対策として、翌昭和44年度(1960年度)の事業計画案のなかに① 環境汚染対策、② 保健対策、③ 発生源対策をそれぞれ掲げた。また同時に発表された調査結果に対する同省の見解は“今直ちにイタイイタイ病が発生する危険があるとは考えられない”としたものだったので、現地住民の間から“この見解はあいまいだ”とする不満が高まっていたという。

(出典:朝日新聞「昭和44年3月28日付け:カドミウム汚染、厚生省が見解と対策」、衆議院制定法律「公害対策基本法(旧)」[追加]。参照:2011年6月の周年災害「イタイイタイ病はカドミウムが原因と発表」、2017年8月の周年災害「公害対策基本法公布」[追加]、2010年12月の周年災害「公害国会で論議、公害関係14法案成立」[追加])

名古屋南部大気汚染公害訴訟-26年後、原告団環境改善への成果かち取る(30年前)[追補]

 1989年(平成元年)3月31日

名古屋市の南部地域、南区柴田地区を中心とした、ぜんそく患者の多発などの健康被害は、“柴田ぜんそく”と呼ばれ社会問題化していたが、原因と指摘されたのが名古屋港南部臨海工業地帯の工場排煙と、国道1号、23号などを通過する自動車による排ガスなどで、この日、同地域に居住または通勤する公害病認定患者とその家族(遺族)145人が、企業11社と道路管理及び排出ガス規制者としての国を被告として、名古屋地方裁判所に提訴した。

名古屋南部地域は伊勢湾最奥にあり、木曽川、長良川、揖斐川の木曽三川による沖積平野(濃尾平野)の南部をなす広大なデルタ地帯が埋め立てられて発展し、現在では名古屋市港区を挟んで西の飛島村、東の東海市を含めた一大港湾工業地帯を形成している。その建設の最初は江戸時代、尾張藩によるもので、1797年(寛政9年)の飛島新田(現・愛知県飛島村)の干拓、1800年(寛政12年)の熱田前新田(現・名古屋市港区)の開発からはじまる。明治時代に入り熱田港(現・名古屋港)の建設が1896年(明治29年)からはじまり、繊維工業地帯として発展、航空機の出現にともない1921年(大正10年)に三菱内燃機製造名古屋製作所(現・三菱航空機)が港区大江地区に発足するに及び、近傍の航空機製造工場を含めて日本最大の航空機工業地帯の中心として発展した。

太平洋戦争が1945年(昭和20年)8月に終結、航空機工場は民需工場として本来の内燃機関(ガソリンエンジン)製造や自動車生産工場などに転換した。1958年(同43年)になると中部地方財界の共同出資で、港区の東に隣接する愛知県上野町(現・東海市)に東海製鉄(現・日本製鉄名古屋製鉄所)が設立され、61年(同36年)10月には冷延工場の操業を開始する。1959年(同44年)には中部電力が新名古屋火力発電所を石炭火力発電所として港区潮見町に建設し1号機の運転を開始するなど、名古屋南部地域は日本の四大工業地帯の一つ、中京工業地帯の中心として発展することになる。

当時の工業地帯としての発展は、60年代ごろから機械動力の燃料の主役が石炭から石油に転換したこともあり、周辺の住民にとっては排煙によるスモッグなど、大気汚染を深刻化させた存在であった。この傾向に拍車をかけていたのが同地域を横断する、以前からの国道1号(東海道)と72年(同47年)に全線開通した、伊勢湾沿岸を巡る国道23号(名四国道:愛知県豊橋市~三重県伊勢市)、および南側を併走する85年(同60年)より整備された、高速道路・伊勢湾岸自動車道(愛知県豊田市~三重県四日市)などを走行する自動車の大群で、騒音と振動、排気ガスをまき散らし健康被害を増大させていた。

 名古屋地方裁判所に対する提訴は、この日、3月31日の第一次に続き翌90年(平成2年)10月の第二次、97年(平成9年12月)の第三次の合計293人で、その請求の趣旨は、① 環境基準を超える二酸化窒素、浮遊粒子状物質、二酸化硫黄の排出の差し止め、② 損害賠償保障、第一~第三次の合計81億円であった。

 以上の提訴に対する判決は、2000年(同12年)11月に行われ、差し止め及び損害賠償請求に対しそれぞれ一部認容するとの判決が下されたが、原告側と被告の企業側もそれぞれこれらを不服として、翌12月に名古屋高等裁判所に控訴した。翌2001年(同13年)3月になり、国は自民党森内閣が退陣間際ながら、民間出身の川口環境大臣が中心となり、関係省庁連絡会議を設置して「名古屋南部地域の道路交通環境対策の推進について-当面の取組-」を公表、これを受けて原告側から和解の申し出があり、8月8日、原告側と国及び企業側との間においても和解が成立した。

 その後、和解条項に基づいて国土交通省と環境省はさまざまな改善策を実施することになるが、中でも原告団と両省との間で設置された“名古屋南部地域道路沿道環境改善に関する連絡会(連絡会)”において意見交換を行うことにより、大型車交通量の低減や大気汚染環境の改善に一定の成果が得られたという。一方、国道23号の車線削減は厳しいと課題として残ったが、原告団より車線削減の代替案として“国道23号ルール”が提案され、大型車のドライバーに対して、① 既存の法規制の遵守、② 沿道環境に配慮した通行のお願い。をすることで、ドライバーの協力を得て沿道環境の改善が進められることとなった。

 2015年(平成27年)3月、原告団と国がそれぞれが知恵を出し合い環境改善へと努力をした結果、最終的に“和解条項履行に関わる意見交換終結合意書(合意書)”を取り交わすことになり、提訴から26年間に及ぶ、公害闘争は“環境改善”という成果を得て終結した。

 (出典:(財)道路新産業開発機構編・道路行政セミナー2015年6月号地域の取組事例>名古屋南部大気汚染公害訴訟・和解条項履行に係る意見交換終結合意書の締結について」、(独)環境再生保全機構編「記録で見る大気汚染と裁判>名古屋南部大気汚染公害裁判」。参照:2010年4月の周年災害「四日市ぜんそくで住民が市役所に陳情」、2015年10月の周年災害「北九州市戸畑区婦人会協議会、公害の実態を収めた自主制作映画完成試写行う」、2017年8月の周年災害「公害対策基本法公布、93年11月環境基本法に発展的に改正」、2018年6月の周年災害「大気汚染防止法制定、明治時代大阪から始まった都市型大気汚染」、2010年12月の周年災害「公害国会で論議、公害関係14法案成立」、2011年6月の周年災害「初の住民側勝利の公害訴訟、イタイイタイ病訴訟」、2014年3月の周年災害「名古屋新幹線騒音公害訴訟起きる」、2015年5月の周年災害「千葉川鉄大気汚染公害訴訟提訴、大気汚染と公害患者の病気との法的因果関係認められる」、2018年4月の周年災害「もらい公害の街、大阪西淀川公害訴訟提訴、はじめて都市型複合汚染が裁判に」、2012年3月の周年災害「川崎公害訴訟」、2018年12月の周年災害「尼崎大気汚染公害訴訟提訴、全国初の汚染物質排出差し止め判決」、2013年11月の周年災害「環境基本法公布・施行」)

渋川市未(無)届有料老人ホーム“たまゆら”火災-厚生労働省指導を強化、一方で介護施設の格差も(10年前)

 2009年(平成21年)3月19日

午後10時45分ごろ、群馬県渋川市北橘町のNPO法人彩経会が運営する救護静養ホーム「たまゆら」から出火、3棟約388平方mを焼損、出火当時、職員1人、入居者16人が在館していたが、そのうち入居のお年寄り10人が死亡、負傷者1人を出した。建物被害は木造平屋建ての本館「妙義」と北側の別館「赤城」が全焼、西側の別館「榛名」が半焼し、その他隣接建物3棟が一部焼損だった。

 死亡された入居者のうち7人は別館「赤城」に居住しており、4人が歩行可能で3人は車いすが必要だったという。同館には調理室や食堂、浴室、トイレのほか数部屋の居室があり、3棟の中でもっとも激しく燃えていて、この棟の西側付近が火元とみられている。別館「榛名」の男女4人は重軽傷を負い救出後3人が死亡、本館「妙義」の職員1人を含む男女5人は近隣住民に助け出されている。

 その後の調査により、別館「赤城」の居室部分から、屋外への出入り口に通じる廊下の引き戸に鍵がかかっていた可能性がわかった。7遺体のうち4遺体がこの引き戸周辺で倒れていたが、引き戸は居室部分と調理室・食堂の間にあって、原則、毎日午後8時ごろまでに戸締まりをし、調理室などへ入居者の出入りを防ぐため、かんぬき状の鍵が調理室・食堂側に備え付けられていたという。もちろん「赤城」には調理室・食堂側の出入り口のほか建物の西側に出入り口があったが、この付近の居室が火元の可能性が高く、出火当時はとても近づける状態になく、犠牲となった歩行可能な4人の入居者は、とっさに鍵が掛かっていた調理室・食堂の方に逃げ、行き止まりとなって倒れたものと推定された。車いすが必要な3人の入居者は、就寝中を炎と煙に襲われたことで、起き上がる介助の手もなく居室付近で亡くなられたのであろう。

また死亡の原因となった、居室と調理室・食堂をへだてる引き戸に鍵が掛かっていた理由について、「たまゆら」近隣の商店では“店の前に入居者の方が倒れていたり、入ってきて、おなかがすいた、と訴えるんです。かわいそうだからおにぎりを作ってあげたりしました”と証言しており、「たまゆら」の仕事をしていたケアマネジャー(介護計画者)や介護ヘルパー、地域の人の証言から、満足な食事が提供されていないために空腹に耐えかねた入居者が調理室に進入し、それで施設側が鍵をかけたものと推定された。

また同じ証言によると「たまゆら」では、おむつが必要な入居者に対する介助がおざなりな上、事実上面倒も見ずに放っておかれていたという。近くの関連施設の入居者によると、“焼け落ちた3棟には介護度の高い人が振り分けられ、介護度の低い人が高い人の部屋の掃除や世話をしていたし、おむつの匂いがひどかった”と証言をしている。また入居者がデイサービスを利用していた近くの有料老人ホームの施設長(運営管理責任者)は“からだの汚れ具合から、しばらく入浴をしていない印象を受けた”と語っているが、別の施設のサービスを利用していたということと様々な証言から、「たまゆら」では入浴のみならず食事も掃除もおむつの交換もすべての介護サービスがおざなりだったと言える。さらに入居していた男性が市内を徘徊(はいかい)し、2か月に3度も自宅敷地内に入られたので、「たまゆら」に連れて行くと、職員が“また出ちゃったんですか”と言うのみで、保護された時の様子も聞かなかったという。

また、設備の面でも消火器はあったものの、自動火災報知機や消防機関への通報設備などはなかった。現在の消防法施行令では、火災報知機も通報設備も、避難が困難な要介護者を主として入居させていないか、延べ床面積が200平方m以下の有料老人ホームの場合には設置義務がない。しかし「たまゆら」は平屋建て3棟、計388平方mである。問題は新築時の建築確認申請だが、特別な指定区域でなければ、老人介護施設が建築基準法施行令の建築分類1号に明確に指定されていないという盲点があり、だいたい有料老人ホームとしての申請をしていないものが建築だけ申請をしていたのか。新築時、消防署へ報告していたのか。消防署は巡回査察をして発見をし、是正指導をしていたのか。それ次第では法の網をくぐり抜けることなどたやすいことだった。

また渋川市では、事件前年の2008年(平成20年)6月から、すべての住宅への火災警報器の設置が義務づけられたが、「たまゆら」は福祉施設なので適用されず、防災のための市の施策の網すらもくぐり抜けていた。しかし設置義務はないとしても、避難に時間の掛かるお年寄り、特に歩行介助が必要な車いすの入居者がいたわけで、施設経営者であればそのあたりの配慮が必要ではなかったか。

相当ひどい施設だが、「たまゆら」を経営する彩経会は、火災の10年前1999年(平成11年)に、群馬県からNPO(特定非営利活動法人)として認証されており、2004年7月に開設した「たまゆら」を“救護静養ホーム”事業内容を“生活保護受給者入所ホーム”とうたっていた。しかしすべて法令に基づいていない自称で、実態は未(無)届の有料老人ホームであった。

 「たまゆら」の関係者によると“確かに届けていないが、ただ正式に届けると施設基準を満たすためには相当な投資が必要で、利用料に跳ね返さなければならない、だからあえて届けていなかった、と、理事長が話すのを聞いた”という。しかし「たまゆら」は“生活保護受給者入所ホーム”とうたい、実際に関連施設も含めた20数人の入居者のうち15人が東京都墨田区から紹介されていた生活保護受給者なので、介護サービス費用は介護扶助で無料、入居費や月額費は住宅扶助や生活扶助があるので本人の自己負担は少なくすむが、それを引き上げたくないというのか、生活保護費を支給する紹介された墨田区にどれほど迷惑が掛かるというのか。火災後わかった設備の実態や食事も含めた生活内容の証言からしても、入居者も職員も、いつ火災被害が拡大し事故が起きてもおかしくはない劣悪な環境に置かれていた。むしろ利用料に跳ね返して値上げしてでも、届出をして設備等を改善し、入居者へのサービスや職員の待遇を向上すべきであったろう。また入居者が所属する介護保険組合から介護報酬を受け取っている筈なので、介護の実際が証言通りとしたら、そのサービス内容は詐取に等しい。

 墨田区からの紹介者が多いというのはどうしたことなのか、そこには二つの理由があるようだ。その一つは墨田区の関係者が証言する“近隣も含めて都市部の施設は、生活保護受給者で飽和状態。親族の支援が得られない人が福祉事務所に駆け込んで来た場合、区は他県の施設を紹介するしかない”という都区の現状。と、有料老人ホームの費用相場を比較すると、群馬県の入居費21万円、月額費16万6000円に対し、東京都は入居費810万円、月額費26万9000円と格段の開きがある(LIFULL・2020年6月掲載分)。火災当時の費用格差は今より少なかったとしても東京都の方がはるかに高く、また入居費無料の施設が当時もあったとしても、とても都内ではそれこそ“飽和状態”で、生活保護受給者に紹介できる空いた施設はなかったのだろう。火災当時、墨田区の生活保護受給者の約半数が高齢者だけの世帯で、入居先は都周辺を中心に10県に分散していた。この状況はひとり墨田区だけではなかったという。

それにしても、施設も人員も基準を満たしていない劣悪で事故の危険を抱えていた、この未(無)届有料老人ホームへお年寄りを紹介したという墨田区は、事前の調査をしなかったのか、理事長の言葉に信用してしまったようだ。また区のケースワーカーは同施設へ入居時と年1回は訪問していたが、細かな施設面については確認しなかったという。1人あたり100世帯以上をかかえてきめ細かなチェックは難しかったようだ。しかしこのような状況はひとり墨田区だけではなく、火災当時、東京23区の生活保護受給者のうち、大田区を筆頭に14区の261人が未(無)届有料老人ホームに入居し、そのうち111人が都外の同様な施設に入居しており、墨田区と同じようにケースワーカーを派遣しても“健康状態のチェックが中心で、設備の点検などは専門家ではないのでほとんどできないし、全国に散らばる施設を徹底的に調べるのは困難”という。そこには都道府県を越えた実態調査が必要であった。

国が(財)高齢者住宅財団に事業予算をつけて実態調査を依頼したのは、ようやく7年後の16年度(同28年度)のことであったが、翌17年度(同29年度)以降、毎年未(無)届有料老人ホーム等を対象にしたフォローアップ調査を実施した上で、各都道府県、指定都市、中核市に対して指導監督を強化するように通知を出している。

 有料老人ホームは、他の老人介護施設とは異なり「届出制」である。審査を受け認可を受ける必要はない。しかし厚生労働省では、02年(同14年)7月、各都道府県知事、指定都市、中核市長にあて「設置運営標準指導指針」を発行、その中で規模及び構造設備、職員の配置、研修及び衛生管理などについて指導指針を出していたが、「たまゆら火災」発生後は、その網から漏れていた未(無)届の有料老人ホームに対しても、ようやく指導を強化したわけである。

 では「たまゆら」に対して群馬県はどのように対応していたのか。県のボランティア推進課(現・県民活動支援・広聴課)は06年(同18年)7月、介護施設を所管する介護高齢課に“生活保護者や高齢者を対象に施設を運営するNPO法人がある”と連絡をした。法人認証の9年後「たまゆら」が開設した2年後のことである。そこで連絡を受けた9か月後、同課は県内未(無)届有料老人ホーム向けの説明会を開催、同施設を運営する彩経会にも出席を求めたが欠席された。しかしそのままにしておき、ようやく翌07年(同19年)、業務内容を確認する文書を送付したが、回答があったのが2年後の火災を起こした16日前の3月3日であった。その間、同課は業務内容の報告を2度にわたり求めてはいる、1年に1度である、これではいくら法的に強制力がないとはいえ、社会的にましてや災害に弱い高齢者をまもる立場の担当課として、「たまゆら」の情報を把握してからの動きは遅すぎる。結果として出さなくても良かった犠牲者を7人も出してしまっている。

「たまゆら」の火災はわずか10年ほど前のことである。今後、ますます増える高齢者の多くは、特に都会では、その生活水準に見合った有料老人ホームなど介護施設を見つけることは、ますますむずかしくなるであろう。介護者の賃金が低いためになり手が少ないこともその傾向に拍車をかけるのではないか。国は指導強化の方針を打ち出してはいるが、現在、民間の手による有料老人ホームは設備、サービス面でますます格差がつき、一部の施設は富裕層ではないと手が届かないものになっている。

データを見てみよう。19年(令和元年)6月時点の有料老人ホーム1万4118施設、うち未(無)届ホーム数662で4.7%。火災が発生した09年(平成21年)10月では、同じく4864施設に対して同ホームが389あり、比率は8%で比率的には現在の2倍だが、同ホームの数は、最盛期の15年の1650施設に比べ40%に減少している。しかし09年(同21年)より1.7倍多い。実はこれには理由がある。それは届出済み有料老人ホームの全国平均月額費用が15万9000円に対し、未(無)届の同ホームは10万4900円と、年金で支払える範囲の費用で済むからであろう。年金1回(2か月分)の手取額が40万円以上もあるお年寄りが何人いるだろうか。

しかし、安かろう悪かろうが未(無)届有料老人ホームにはある。高齢者住宅財団の調査で、届出を行うことが困難な理由として29.8%の施設がスプリンクラー等の消防設備の設置が困難、をあげ、24%の施設が建築基準法の基準を満たすことが難しい、をあげている。命に関わる部分である。また、1施設あたりの平均定員は21.1人だが、それに対する職員の配置数は4.5人となっている。介護施設における基準で言えば、介護や看護の資格を持つ職員を7人配置しなければならないが、職員全員が資格を持っているとしても不足している。老後の一生を委ねる施設としては非常に危険である。格差がつく民間だけに任せるのでなく、病院のように国や自治体が投資した有料老人ホームが必要ではないだろうか。

近年、高齢化とともに年々、要支援・介護認定者が右肩上がりに増え、2020年(令和2年)2月末現在667万人を超えた。このうちの何人が経済的に安定し老後に生きがいを見いだすことができるであろうか。国の福祉政策の充実を望む。

 (出典:防災情報新聞社編「防災情報新聞TOPニュース>渋川市老人ホーム火災」、朝日新聞社編「朝日新聞2009年3月21日、22日、23日、24日、28日、31日」、日本共産党編「しんぶん赤旗2009年3月21日」、NITTAN編「自動火災報知設備設置基準表」、厚生労働省発「有料老人ホームの設置運営標準指導指針について」、(財)高齢者住宅財団編「未届け有料老人ホームの実態に関する調査研究事業・報告書」、厚生労働省発「有料老人ホームを対象とした指導の強化について(令和2年度)」、同省編「介護保険事業状況報告(暫定)令和2年2月分>結果の概要」、(株)LIHULL senior編「全国の有料老人ホームの相場ランキング」、(株)クーリエ編「みんなの介護>ニッポンの介護学>第670回 無届け老人ホームが前年度よりも減少!「最後の砦」を失い、認可施設に入れない貧困層はどうなる?」。参照:2015年2月の周年災害「横浜聖母の園・長老院火災」、2017年6月の周年災害「特別養護老人ホーム松寿園火災」)

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(2020.8.5.更新)

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