【目 次】

江戸城、本丸に次いで二の丸火之番置かれる。江戸城防火管理体制、内外郭とも厳重強化へ[改訂]

・文政5年コレラ初めて日本へ侵入、三日コロリと呼ばれ西日本に広まる。初の患者調査行われ感染症の特徴把握[改訂]

・文部省「種痘規則」布達し施術医の免許制定め、天然痘根絶へ予防体制整える。
しかし2020年代、大流行なのにコロナ予防ワクチン拒否者が多い。明治時代よりはるかに後退した感染症予防

東京警視本署(現・警視庁)コレラ予防に「入津船舶取締手続」を定め、国内船検疫を実施
外国船の検疫はイギリス公使の反対で実施できずコレラ大流行を招く
帝国主義侵略の典型イギリス、1世紀以上たった今、ロシアが歴史を繰り返す

・明治27年庄内地震(酒田大地震)、酒田大火-震災予防調査会詳細な現地調査により木造建築物改良仕様書発表[改訂]

【本 文】

江戸城、本丸に次いで二の丸火之番置かれる。江戸城防火管理体制、内外郭とも厳重強化へ[改訂]
 1643年10月19日(寛永20年9月7日)
 
江戸城二の丸は大手門から本丸御殿へ行く通りの右手(東側)に位置し、将軍の子弟などの住居として使用される御殿があり、郭外からの火を防ぐ上でも重要な区画であった。そこにこの日、専属の“火之番(火元責任者)”が置かれた。 
 1590年8月(天正18年8月)徳川家康が豊臣秀吉の命を受け江戸城に入城(江戸入府)、次いで1600年10月(慶長5年9月)の関ヶ原の戦いで勝利し、家康が天下の実権を把握した後の江戸城は、首都機能を備えた、現代でいえば、国会議事堂や首相官邸など主要官庁が建ち並ぶ千代田区永田町界隈と同じで、防災、防火面の強化が最重要な地域であり、なおかつ、火災に乗じた争乱にも気を配る必要もあった。
 1620年4月(元和6年2月)京都で豊臣家残党による仕業と噂された放火事件があり、臣下となったとはいえ、豊臣恩顧の大名をはじめ、譜代(代々徳川家に臣事)ではない外様の大名には気を許せなかったのであろう。そこで、1628年(寛永5年)には、城中での火災の際は当番の者と常勤の者だけが登城し消火に当たるとした。1632年3月14日(寛永9年1月24日)江戸中で13回も火災が起こった時などは、江戸城内当直の番士は甲冑を用意して警備に当たった。また1639年9月8日(寛永16年8月11日)本丸が焼失した時は、“面ゝゝノ持口門々ヲ堅守シムヘキ由上意ノ趣傳(伝)之(お前たちは担当する門を固めて出入りを厳重にせよとの将軍の上意であった)という。
 その上、江戸は現在の東京でももちろん同じだが、冬になると強い北西の季節風が吹き、火事の季節がやってくる。ご存じ“火事と喧嘩は江戸の華”である。そこで政治の要、江戸城を火事から守るために、古くから“火之番”という職制が設けられ城内各施設の防火管理を担ってきた。これは、平安京が何度も大火をくり返してきたのに、大内裏(皇居と官庁街)を火事から守る専門担当部署が設けられなかったのとくらべると、気候風土の違いがあるにせよ、外様大名への警戒とともに、戦国時代を生き抜いてきた徳川家の用心深さがうかがえる。
 組頭を持つ“火之番”が江戸城内にはじめて置かれたのは、1605年1月(慶長9年12月)とされる。
 この時はまだ大奥御殿は完成しておらず、1618年1月(元和4年1月)二代将軍秀忠の時、「壁書(大奥法度)」が制定され、将軍夫人や子女、奥女中が居住する大奥への男子の入室が禁止されたが、その直後に奥女中による“御火之番”が置かれたと思われるので、発足当時の“火之番”は城内全域の警備と防火にあたっていたのであろう。
 ところが1639年9月(寛永16年8月)、天守閣を残して本丸殿舎のほとんどが焼失した。調査したところ、その火元が大奥の台所とわかり、大奥の防火体制強化のため、同年11月(旧・10月)、それまでの防火担当の“御火之番”一本の体制から、大奥の防火管理を行う“奥(方)火之番”と表御殿、将軍公舎の中奥及びそのほかの城内を担当する“表火之番”が置かれた。
 次いで3か月後の1640年1月(同年閏11月)、城内紅葉山内にある初代家康を祀る東照宮と秀忠の御仏殿(霊廟)などの防火管理と消火を行う“紅葉山(大名火之番(霊屋付火之番)”が寺社奉行の支配下に置かれ、これが江戸城郭内外の幕府最重要施設の消火を担当する“所々火消”の初めとなる。
 そして3年後のこの日、将軍世嗣の竹千代(四代将軍・家綱)が、自らのために新築された二の丸御殿に移られたことにより、二の丸留守居支配下に“二の丸火之番”が置かれた。その役職には譜代の御家人がつき、定員は当初10人でスタートしたが1753年2月(宝暦3年1月)には16名に増員されている。
 そして、7年後の1650年(慶安3年)に成人・元服した世嗣・家綱が、二の丸から将軍後継者や隠居した前将軍のための住居がある西の丸に移ることになり、同年9月22日(同3年8月27日)に、ここにも“表火之番”“奥(方)火之番”が置かれ、1694年1月(元禄6年12月)には、この西の丸の東側、道灌掘沿いの山里にも“西の丸山里火之番”が置かれ、筑前秋月(現・福岡県朝倉市)藩5万石・黒田長重と武蔵岩槻(現・さいたま市岩槻区)藩4万8000石・松平忠周が任命されることで、江戸城内郭の防火管理体制は一層強化される。
 また江戸城外郭の防火管理については、大番、書院番、小姓組など将軍の親衛隊が1629年11月(寛永6年10月)より江戸市中の定期的な巡回を行っているので、1665年1月(寛文4年12月)火災シーズンを迎えその実績を買い、江戸城周辺の防火管理体制強化策としても、次の通り活用されることになった。
 まず江戸城の玄関、東側にある大手口(大手門外側)に小十人組と歩行之衆(御徒士衆)供番の2組、大手門内側の大手大腰掛(門番詰所)に御書院番供番と、以上3隊の詰場(集合場所)を定め厳重な備えをする。次いで内郭北側に当たる北の丸の御花畑(植溜)下に新御番御先番、その南側の内郭北拮橋(きたはねばし)前を御持弓組と御持筒(鉄砲)組の内1組の詰場とし、南側の桜田口(外桜田門)の大腰掛(門番詰所)を御小姓組供番の詰場とするなど、供番といえども将軍の外出がない時は火事に備え詰場で待機させ、非番の者でも自宅にいて家臣を各自の組頭に派遣し、火事が起きた際はその指図に従うとされ、かつての将軍の親衛部隊は、防火要員としても休む暇なく働くことになった。
 ちなみに大名火消による、江戸城内の防火、消火要綱が決まったのは1646年4月(正保4年3月)で、そこでは、城内に類焼したときは火元の消火を捨ててでも城内に駆け付けるよう指示されており、地震の際の江戸城警備の制度が決まったのは、1649年9月(慶安2年7月)の東海道川崎宿地震の2日後のことである。
 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション「江戸城図」[追加]、竹内誠編「徳川幕府事典 343頁:二の丸火之番」、黒木喬著「江戸の火事>第2章 火消しの発達 28頁~33頁:1 江戸城の防火」、山本純美著「江戸の火事と火消>江戸の町づくりと防火対策 172頁~175頁:江戸城の防火政策」[追加]、東京都編「東京市史稿>NO.2>変災篇第4・33頁:附記 廿四日(〇寛永九年正月)此夜。……」[追加]、同編「同書>NO.2>皇城篇第1・本丸殿舎火ク1159頁~1160頁及内1159頁:唯面ゝ」[追加]、同編「同書>NO.2>皇城篇第1・本丸殿舎の営造1177頁~1180頁:警火の令(火之番分掌)」、同編「同書>NO2>皇城篇第1・本丸殿舎之営造 1184頁~1185頁:閏十一月十四日>1185頁:紅葉山御佛(仏)殿、森川平蔵相越之旨上意之通」、日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1618(元和4)488頁:大奥へ法度(はっと)下る。男子禁制、夕刻六つが門限」[追加]、塙保己一編「続々群書類従第七法制部>吏徴>別録下巻>御目見(おめみえ)以下104頁~105頁:奥火之番、表火之番、二丸火之番、紅葉山火之番」、竹内誠編「徳川幕府事典>第2部 職制編 107頁~108頁:奥火之番、116頁~117頁:表火之番、363頁~364頁:火之番(大奥)」[追加]、松平太郎著「江戸時代制度の研究>第7章 幕府の消防組織>第2節 大名火消 451頁:紅葉山及山里大名火の番」[追加]、西山松之助編「江戸町人の研究 第5巻>池上彰彦著:江戸火消制度の成立と展開>第1章 江戸における武家火消制度102頁~105頁:第4節 所々火消および方角火消の成立」、東京都編「東京市史稿>NO.2>皇城篇1・本丸殿舎之営造>寛永廿年ノ二、三丸普請 1224頁:世子二の丸移徒」塙保己一編「続々群書類従第七法制部>吏徴>下巻>御目見以下34頁:奥火之番廿人、西丸奥火之番拾人、表火之番三十人、西丸表火之番十八人、ニ丸火之番十六人、紅葉山火之番七人」、文部省ほか編「古事類苑 官位部21>官位の部68>徳川氏職員 1096頁~1103頁(81~84コマ):附・昼夜廻」、高柳真三+石井良助編「御触書寛保集成>二十六>火事幷火之元等之部 768頁~769頁:一四四八 寛文四辰年十二月・覚」、東京都編「東京市史稿>NO.4>市街篇第6・141頁~142頁:消防制(大名火消城内消化要綱)」、同編「東京市史稿 産業編 第4・852頁:附記二 地震并に地震警備の制、地震登城之制規定」。参照:2020年4月の周年災害「京都、豊臣家残党?による放火で大火相次ぐ」[追加]、1月の周年災害・追補版(4)「幕府、柴田康長を初の火之番組頭に任命」、1月の周年災害・追補版(4)「江戸城大奥男子禁制となり、奥女中による御火之番組編成される」[追加]、11月の周年災害・追補版(2)「幕府、本丸殿舎全焼を受け、奥方火之番を任命し表火之番と分ける」、2020年1月の周年災害「幕府、本丸殿舎消失を機に“所々火消”を初めて任命、まず江戸城内将軍家霊廟を守る」、11月の周年災害・追補版(4)「大番、書院番、小姓組番に初の昼夜廻り(市中巡回)仰せつけ、市中警備(防火)体制を整備」、11月の周年災害・追補版(3)「幕府、初の組織的な火消制度“大名火消”創設」、4月の周年災害・追補版(5)「幕府、大名火消の初期消火、江戸城内の防火、消火要項定める」、2019年9月の周年災害「幕府、慶安2年川崎地震を受け-江戸城「地震警備の制」定め強化図る」)

文政5年コレラ初めて日本へ侵入、三日コロリと呼ばれ西日本に広まる。初の患者調査行われ感染症の特徴把握[改訂]
 1822年10月上旬(文政5年8月中旬)
 この年の2月(文政5年1月)、長崎出島のオランダ商館長・ブロムホフが商館専属の医師・ニコライ・トゥルリングほかを伴い幕府への表敬訪問を行った。
 その江戸滞在中の4月12日(旧2月21日)幕府お抱えの医師14名と面会。ほかに蘭学者大槻玄沢は弟子の幕府奥医師(将軍の主治医)桂川甫賢や佐々木中沢を伴いブロムホフやトゥルリングと面会したが、そこで当時オランダ領東インドのジャワ島バタヴィア(現・インドネシア、ジャカルタ)での流行病についての情報を得た。
 流行病の名はラテン語で“コレラ・モルブス”と言い、この疫病での死亡者無数という恐るべき病気であることなどであった。その時ブロムホフ商館長から、オランダ人医師ボウイールが1820年にジャワ島バタヴィアで大流行したコレラの体験から、その病気の症状と治療法を書いた小冊子を渡された。
 ところがそのわずか半年後、この情報を得た医師たちが、予想もしなかったその病気の日本への侵入を確認することになるが、この時、さすがの西洋医術を理解していた蘭方医たちも、ボウイールのまとめた小冊子がコレラの感染性についての記述がなかったので、単なる霍乱(かくらん:急性胃腸炎)のことであると誤解してしまったという。
 日本へのコレラ菌の侵入ルートは、中国(当時・清)→朝鮮半島→対馬→赤間ヶ関(現・下関)のようだ。というのは、清国の記録によると、バタヴィアで大流行していた1820年にすでに広東、寧波に出現、翌21年には南京を経て首都北京に達したという。
 国内では、対馬から10月上旬(旧8月中旬)長門赤間関(現・下関市)に渡り、萩城下から安芸(現・広島県)に到達、さらに浪華(現・大阪市)まで広がったと医師たちの証言が一致している。
 その被害数は医師たちの報告によると、長門萩では9月28日~10月9日(旧8月14日~25日)に583人死亡、和泉(現・大阪府)岸和田で10月27日~28日(旧9月13日~14日)に234人死亡(斎藤方策)。長門萩で11月下旬(旧10月初旬)までに3000人死亡(岡田宋伯)。大坂で流行極期には1か月間に数千人が死亡(佐々木中沢)などで、流行は11月中旬(旧10月初旬)になると急速に収まった。
 全体での死亡者はわずか1か月半ほどの間に10数万人と推定されている。当時世間ではこの疫病のことを、発病から3日ばかりで死亡するので、三日コロリ(3日でころりと死ぬことからコレラを転訛)と呼んだ。
 また、大坂の医師・斎藤方策はこの時すでに患者の調査を行い、なかでも“(患者の)多くが中年で平素強壮の者ほど劇症をわずらった”“全く前駆症状がなく突然発病した”“家族内で(中略)相次いで死ぬことが多い”という点など感染症の特徴をとらえ報告している。
 (出典:山本俊一著「日本コレラ史>Ⅰ 発生及び対策編・3頁~13頁:第1章 文政時代、Ⅴ 学術編>第4章 疫学>第1節 患者調査 770頁:(a)斎藤方策」)

文部省「種痘規則」布達し施術医の免許制定め、天然痘根絶へ予防体制整える
 しかし2020年代、大流行なのに新型コロナ予防ワクチン拒否者多く、明治時代よりはるかに後退した感染症予防
 1874年(明治7年)10月30日
 この年の8月18日、所管省である文部省は「医制」を発布し、近代的な医事衛生制度を発足させたが、その第46条で“医師悪性流行病”として天然痘(痘瘡)をあげ、患者が感染していると診断した際は早急に医務取締役(医務担当官)及び区、戸長に届け出るものとし、37条では予防ワクチン接種“種痘”を施術する医師“種痘医”について“種痘は天然痘病理治方ノ概略及ヒ牛痘ノ性状種法ヲ心得タル者ヲ検シ仮免状ヲ与ヘテ施術ヲ許ス”とした。
 これにより同省では、2か月後のこの日「種痘規則」を布達(公布)して種痘術の免許制を明確に定め、その医療上の確実性を法的に保証した。そして2年後の1876年(明治9年)5月、新しく所管省となった内務省が「天然痘予防規則」を布達し、天然痘根絶へ法的整備をする。
 天然痘は、735年(天平7年)に北九州に侵入して以来、15年~20年に1回程度大流行を繰り返し、時には737年(天平9年)、995年(正暦6年)と、実力者から公卿百官に感染し政権を転覆するなど、幕末まで国民病といわれ回復した人の顔へ“あばた”を残してきた。
 しかし1796年、ジェンナーが“種痘”を成功させるに及び、モーニッケによってもたらされたこの牛痘接種法の実験に各地の蘭方医(西洋医学医)が取り組み、1858年6月(安政5年5月)には、江戸の蘭方医たちが神田お玉が池に種痘所を開設、一般町民にも予防接種を行うようになった。
 明治新政府は、1868年9月(慶応4年:明治元年8月)旧幕府の医学館を種痘所とし、翌1869年7月(明治2年6月)から東京府民に種痘をするなど天然痘対策に乗り出す。翌1870年4月(明治3年3月)には、お玉が池種痘所の後身、大学東校(現・東京大学)に種痘館を設けるとともに、翌5月(旧暦・4月)には、太政官(内閣)布達で全国各府藩(現・県)に僻地までもれなく種痘を行うよう命じている。
 しかしその後天然痘は、1874年(明治7年)から1876年(明治9年)にかけて大流行を見せ、種痘制度の1日も早い普及が求められたので、まずこの日「種痘規則」を布達し、施術医の免許制を施行することとなる。
 
同規則は、第1条の“種痘術ハ免許状所持スル者ニ非サレハ(あらざれば)之ヲ許サス”と明記するところから始まる。
 そして次に“内外科医ノ行フヘ(べ)キモノナレハ別ニ免状ヲ与ルニ及ハサルモ(与うるに及ばざるも)”としながらも“現今ノ事情未た茲に(いまだここに)至ラス”と、種痘を全国に普及するには人手が不足しているとし“且(かつ)其ノ術ノ普及ヲ要スルカ故ニ”としたうえで“当分此一術(種痘術)ヲ習熟セル者ヲ検シ免許状ヲ与ヘテ之ヲ施行セシム”と定めている。
 ここにおいて、医師の免許状を持っていないものでも“検シ”と種痘医の試験を受け、合格すれば“種痘医”として活躍できる道が開け、種痘の全国的普及は目を見張るものがあったという。例えば同規則公布の2年後1876年(明治9年)7月から翌年6月までの1年間の接種者は166万人に達し、全人口に対する接種率は4.8%で、これは昭和40年代(1965年~1974年)より多い。その上、種痘が十分に接種され予防効果があった人、善感者の割合(善感率)が96.6%という好成績を収めている。
 これに加えて「天然痘予防規則」の公布など、法的な整備により予防・治療体制が強化され、天然痘根絶への道が開かれたと同時に、この成功によりその後の他の感染症に対する予防ワクチン接種の必要性と効果について広く浸透していくことになる。
 ところが2020年代に入り世界的な大流行となった“新型コロナウイルス(COVID-19)感染症”の予防ワクチン接種を拒否する人が若年層から中年層にかけて多い。
 岸田政権は特典をつけて接種PRに必死だが、若年層は感染しても軽く済むという伝説と接種による副反応への恐怖及び外国産ワクチンに対する安全性への不信からという。常識的に副反応で仕事や学業を数日休むよりも、コロナに感染して長期間休み、なおかつ後遺症に悩む方がよほどひどいと思うのだが。中にはワクチンは人のDNA(遺伝子構成体)を改変する、人口削減の道具であるなどという陰謀論を信じきり、ソーシャルメディアで情報を拡散している人たちが多い。
 実は我が国にも中高年層に存在するが、アメリカのトランプ前大統領信奉者(多くは白人のキリスト教福音主義の中年層)たちは“コロナフェイク(にせ情報)説”または“陰謀説”を根拠に、新型コロナ無症状説、過大な感染者発表説、中にはコロナの存在否認説を唱え、マイクロソフト社の創始者ビルゲイツを主犯者とし、製薬企業、株式投資家など既得権益者が、ありもしない新型コロナで利益をもくろんでの仕業と主張する。特に欧米では何十万人ものワクチン反対、マスク装着反対デモが起きストライキ迄起きている。“マスクをつけない自由”を叫ぶが、“人に感染させる自由”があるのか。
 2022年のいま、世界は感染症によるパンデミックではなく、誤った情報によるパンデミックのさ中にあるとさえいえる。これではいつ、世界的大流行が収まるのか。わが国でも第1波より、2,3,4.5.6波と続き、患者数は増える一方の状況だ。 
 (出典:深瀬泰旦著「天然痘根絶史>Ⅲ 天然痘の流行と牛痘接種法>二.明治初年の種痘の状況275頁~282頁:明治初年の痘瘡の流行、明治初年の種痘」、国立国会図書館デジタルコレクション「法令全書 明治7年・1175頁~1179頁(660~662コマ):明治7年10月 文部省布達 第27号 種痘規則」、同コレクション「法令全書 明治9年・469頁~470頁(290コマ):内務省布達 甲第16号 天然痘予防規則」、NET検索「新型コロナワクチン陰謀説、デモ関係ニュース」。参照:2017年5月の周年災害「天然痘、平城京のみならず全国的に大流行」、2014年8月の周年災害「医制発布され近代的医事衛生制度発足」、2016年5月の周年災害「内務省、天然痘予防規則布達、種痘強制接種で天然痘根絶への道開く」)

東京警視本署(現・警視庁)コレラ予防に「入津船舶取締手続」を定め、国内船検疫を進める
 外国船の検疫はイギリス公使の反対で実施できずコレラ大流行を招く
 帝国主義侵略の典型イギリス、1世紀以上たった今、ロシアが歴史を繰り返す

 1877年(明治10年)10月1日
 
コレラ菌の我が国へのはじめての侵入は、1820年当時のオランダ領東インド、ジャワ島バタヴィア(現・インドネシア、ジャカルタ)で起きた大流行により、清国(現・中国)から朝鮮半島に達し、対馬経由で1822年(文政5年)10月上旬、赤間ヶ関(現・下関)に侵入したと記録されている。
 明治に入り1877年(明治10年)のこの年、19年ぶりのコレラの大流行を見る。
 実は大流行の端緒となった、9月5日の横浜アメリカ製茶会社日本人雇人の発病より2か月前の7月、内務省(現・厚生労働省)では、清国での流行状況を素早くキャッチ、1858年(安政5年)の大流行以来、明治新政府がはじめて迎えるコレラの流行になると事前に察知、8月5日「虎列刺(コレラ)病豫(予)防法心得」を公布、不完全ながら「規則」の形に整えコレラ予防の法的根拠としたが、その第2条において“「虎列刺」病流行ノ地方ヨリ来ル船舶ハ港外一定ノ地ニ於テ検病委員其船ニ就キ船長ニ醫(医)官ニ患者或ハ死屍ノ有無ヲ尋問検案シ(下略)”と寄港しようとする港の港外において“検疫”を行うと定めていた。
 そして、9月末になると横浜だけでなく神戸、大阪の各港及びその付近一帯にもコレラの流行が広がりつつあったので、この日、東京の防疫を管轄している東京警視本署(現・警視庁)は「入津船舶取締手続」を公布、“東京へ入港する船舶は、何船に限らずその経過した所を尋問し、もしコレラ流行地方から来た船舶であれば、船中に患者があるか、或いは感染したと認められる者があれば上陸および他との交通を禁止し、さらに警視医員に診断させる(第1条要旨)”と定め、“検疫”を実行するとした。なかでも第4条で“たとえ船中に感染者がいなくとも、横浜地方(4日、流行病のある地方と改正)より積み込んできた荷物および乗客は、消毒を行わなければ上陸ならびに荷揚げを許してはならない(要旨)”と厳しい処置をとるとしている。
 引き続いて10月4日内務省は、国内の港湾に停泊中の外国艦船及び居留地に居住及び滞在中の外国人に対する防疫に関しては、1858年(安政5年)の欧米5か国(イギリス、アメリカ、オランダ、ロシア、フランス)との修好条約により開港した港湾を持つ神奈川(横浜港)、新潟、兵庫(神戸港)及び長崎各県に対し、先の「虎列刺病予防法心得」の第6条以上の防疫上の手続に関し、同心得第1条に基づき、各領事と医官及び船長と協議を行うよう指示を行っている。ところが、各国領事代表のイギリス領事パークスが検疫に反対したので5か国も含めて外国船、外国人に対する防疫上の処置は行うことが不可能になり、案じた通りこの年1879年は、半年たらずで1万3816人が発症し8027人の死亡者を出している。
 パークスはなぜ反対したのか?それはイギリス商船の多くが、当時コレラが蔓延していた清国の港に寄港していたので船内が汚染している危険があり、それが日本側の検疫で万が一判明した場合、汚染程度によっては荷物が没収・焼却されることを恐れたからで、船員が感染していても、検疫を逃れることができたら商品を販売し利益を得ることができるからであった。
 船員がコレラに感染し、寄港地に上陸して他国に広めても別に意に介していなかった。
 37年前の1840年には、清国で厳禁のアヘンを没収・焼却されたとしてアヘン戦争を起こしたイギリス帝国である。他国民が健康を害しあるいは死亡することなど眼中にはない。国策として要は自国の利益が得られれば良しとした。
 19世紀から20世紀にかけてイギリス帝国は、アフリカ各地などで、利益が上がると思えば他国に自国民を勝手に送り込み、彼らが迫害されたとして、相手国に圧力をかけ戦争を起こし、傀儡(かいらい)政権を立て保護国とし、植民地化する帝国主義的侵略を繰り返している。
 100年以上たった21世紀の今、ロシアのプーチン政権はウクライナで在住ロシア人が圧迫されているとし傀儡独立共和国を樹立、イギリス帝国と同じ理由づけ、古典的な手口で戦争を起こし侵略しようとしている。アメリカはそれに対し経済制裁処置で対抗、ウクライナへの支援を行っているが、ひるがえって、アラブの民が長年育てあげた農園や土地を“神から与えられた土地”だと一方的に宣言し、銃剣のもと勝手に自国のものにしているイスラエルに対して、アメリカは同じように経済制裁処置をとり、アラブ諸国を支援することができるのか。実際は真逆で侵略者イスラエルを常に擁護してきている。独裁専制主義と民主主義の違いはあるが、人の命、人々の利益より国家権力の利益を優先している点は、アメリカはロシアと基本的な違いはない。
 プーチンが恐れ危険視しウクライナ侵略の根本的理由は、かつての対ソ連軍事同盟NATO(北大西洋条約機構)の東方への拡大である。プーチンの目にはかつてのソ連のように“アメリカ帝国主義”による東ヨーロッパ侵略と写っているのだろう。自らの侵略行為に対するヨーロッパ各国の防衛反応とは見ていないで。
 (出典:山本俊一著「日本コレラ史>第9章 国内検疫>第1節 海路検疫>(a)入津船舶取締規則」、国立国会図書館デジタルコレクション・法令全書.明治10年「内務省 421頁~425頁(257~259コマ): 達 乙第79号(別冊)虎列刺病豫防法心得」。参照:2017年8月の周年災害「内務省、虎列刺(コレラ)病予防法心得公布」、2017年9月の周年災害「明治期初めてのコレラ3系統で大流行」Y-History教材工房編「世界史の窓>アヘン戦争」、同編「世界史の窓>南アフリカ戦争/ブール戦争/ボーア戦争」、同編「世界史の窓>NATO」、NETニュース検索「ウクライナ侵攻」、NPO法人CCP JYAPAN編「パレスチナ問題の経緯」)

明治27年庄内地震(酒田大地震)、酒田大火-震災予防調査会詳細な現地調査により木造建築物改良仕様書発表[改訂]
 1894年(明治27年)10月22日
 午後5時35分ごろ、山形県庄内平野北部を震源域とするマグニチュード7の大地震が発生した。
 酒田付近では地震の約20日前から川の水が減り、井戸水が涸れ、吹浦(ふくら:現・遊佐町)では、約14、5日前から海水が約45cmも引いていたという。揺れについては鶴岡で6、酒田、秋田で5、山形、新潟、仙台で4の震度が観測されたと報告されている。
 それによる被害は、新潟県金屋(現・村上市)に極く小さな被害があったほか、ほとんど山形県に集中、その範囲は、南は本庄(現・上山市)から最上川沿岸部の山形から新庄及び酒田までで、主に庄内平野に集中し、家屋倒壊率も高い。
 なかでも酒田町では、家屋が密集している上、夕食の準備時間だったので、当時の全戸数3460戸の約半数1747戸が全焼、240戸が全潰、93戸が半潰、329戸が破損し162人が死亡、233人が負傷した。特に大火となった要因は、当時たまたま気圧配置が冬型となり出火時には庄内平野の最上川沿いが“風の道”となり、下流の坂田付近に突風が吹き荒れたこと、地震のため誰一人として消火に尽力するものがいなかったこと、特に酒田町の中心、船場町は豪商が軒を連ね遊郭、料亭など殷賑を極めていたが、大地震でそれらが倒壊、火気が多かったせいもあり、最も早く出火し火の廻りが早く下敷きになったの人々を助ける間もなく炎に飲み込まれたという。また逃げ惑う人々は液状化現象による道路の陥没や炎や煙に巻かれて逃げ道を失い多くの人々が死亡した。この船場町も含め遊郭や料亭の多かった伝馬町、秋田町、今町の死亡者が108人と集中しており67%を占めている。コメの収穫期を終えて、庄内地方の慣習“土洗い”で酒田へ繰り出していたのであろうかと推測されている。
 そのほか同県北部の飽海郡では、全戸数9652戸の54%、5189戸が破損したばかりではなく、1521戸が全潰、1271戸が半潰、87戸が全焼し、全体の84%が被害を負った。鶴岡市の一部を含む最上川中流域の東田川郡は、1418戸が全潰、686戸が半潰、1304戸が破損、62戸が全焼するなど全戸数6831戸の51%に被害を負っている。
 同県全体の被害は、家屋全焼2148戸、同全潰3858戸、同半潰2397戸、同破損7863戸。726人死亡行方不明、987人負傷。その外、庄内平野では土地の亀裂や陥没が多く、土砂も噴出。西田川郡黒森村(現・酒田市)では、幅1町(約110m)の砂丘が9m沈下。同郡浜中村(現・酒田市)では、逆に高さ1丈(約3m)の丘が現出している。
 この地震については、1891年(明治24年)10月の濃尾地震を契機に、翌1892年(同25年)6月に発足した震災予防調査会が調査に訪れ、その詳細な実地調査の結果に基づき、翌1895年(同28年)木造建築物の改良仕様書を発表。木造建築物の耐震上の問題点を指摘、耐震工法の採用を促している。
 (出典:中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会編「1976酒田大火>第2編 前近代における北部日本海地域の大火>第3章 山形県域>1 酒田市における主な大火の実態と特徴 89 頁~95頁:(1)明治庄内地震の地震像」、宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧>4 被害地震各論 223頁~224頁:311 庄内地震」、小倉一徳編、力武常次;竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅲ章 地震・津波災害>3 地震・津波災害の事例 307頁~308頁:庄内地震」。参照:2012年6月の周年災害「震災予防調査会設立」)

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