【目 次】

・江戸町奉行、火事場泥棒対策で「覚」出す-その後も禁止令出すが効果なく、
後年、町単位での防犯、防火体制生まれる[改訂]

・江戸町奉行、大風の際、道路を掘って家財を埋め類焼を防ぐのを禁じる

・延宝の第三次飢饉、米価急騰。磔茂左衛門など農民運動のエピソード残す [改訂]

・江戸享保2年「小石川馬場の火事」をはさむ連続火災-護持院焼け跡を避難地に[改訂]

・有珠山文政5年の噴火、大火砕流と熱煙が山麓の役所や牧場、集落を襲った。噴火史上最大の犠牲

・天保2年神奈川宿(横浜市)の大火、1200軒余焼失し伝馬業務5日間ストップ

・越後今町(上越市)天保4年の大火、全町の97%が灰と化す

・時事新報、天気予報を初めて紙面に掲載、気象およびメディア史上歴史的快挙

・足尾銅山鉱毒被害者、初の大挙押し出し(集団請願行動)敢行[改訂]

【本 文】

○江戸町奉行、火事場泥棒対策で「覚」出す-その後も禁止令出すが効果なく、
 後年、町単位での防犯、防火体制生まれる
 ……… 1634年3月25日(寛永11年2月26日)[改訂]

“火事と喧嘩は江戸の華”という、江戸っ子の妙な自慢があるが、確かに地勢的にも、市街地に裏長屋が密集しているという市街の構成上も火事が多い原因となっていた。

そこで、江戸の街を取り仕切る町奉行はひんぱんに火の用心と消火の用意を呼びかけていたが、中には1609年8月(慶長14年7月)にタバコ、48年8月(慶安元年6月)に花火、62年2月(寛文2年1月)には正月の左義長(どんど焼き)の禁止と、防火対策だが庶民のささやかな楽しみを奪うものもあった。これらの禁止令は結局長続きせず、その後何回も禁止のお触れが出ているが、なかでも防火、防犯上、放火・火事場泥棒対策は町奉行としての重要な問題であった。それを裏付けるように江戸初期から“火事場取締り”に関する対策が多い。

火事場であれ、なんであれ泥棒は犯罪であり、町奉行はそれを取り締まらなければならないが、火事場の場合、泥棒は混乱に紛れて、巧妙な手口で目的の家へやってくる。その多くは人手が必要で断り切れない消火の応援や家財道具避難の手伝い、または火事見舞いなどが名目である。そこで禁止令として、つぎのような「覚」がこの日出た。

「火事之節、家中之者之外出会停止事(ちょうじのこと)」として、“一.火事之場之親子兄弟舅(しゅうと)聟(むこ)小舅(こじゅうと)並びに家中之者(家来や雇い人など)之外(ほか)出会い候儀一切に停止たり、若(もし)出会い候はば、急度(きっと:まちがいなく)曲事たるべき事”。つまり、火事場にいても良い者は、義理の関係も含めて親子兄弟か、その家の“家中之者”だけとし、それ以外の人がそこにいれば、その人たちは取締り処罰される対象になる。とし、また「附」として“役の者並びに御免之者”として、町奉行所の役人や町役人(町人で町の行政担当者)または出入りの許可を得た人以外は“火事場へ出候においては見知りたる者に候はば相断るべし”、と知人といえども火事場へ来ることは断ること。“若(もし)見知らざる者に候はば宿迄人を添え、断り置くべき事”。と知らない人であれば、人を付けてその人の家へ送り届けるなどして断ること。

また、“一.火事出来(しゅったい)候時(火事が起きたとき)、火志づまる(静まる:鎮火)というとも、其日其夜之内、火事場之見廻り候儀は申すに及ばず、使をも遣し候儀堅停止せられ候事”。と、火災が起きたときも、鎮火したときでも、その日やその夜の内に、直接火事場へ見舞に行ったり、或いは使いを出すことを禁じている。これは、火事でごたごたしているときや、家財道具などを道路へ避難させているときなど、火事場へ出入りすることを禁じたものである。

そして最後に、“一.町中火事之時、仰せ付けらる輩之外、奉公人上下共に一切出会すべからざる事”。と、命じている。主人から指示されたもの以外は、奉公人といえどもその上下に関係なく、火事場へ出入りしてはならない、ということは、番頭や家来でも勤務先外に世帯を持つことが許された人などが、主家の危難の時に駆け付けて来られない場合もあるわけで、かなり厳しい禁止令となっている。

当時確かに、火事などの非常時に火事場泥棒が横行し、ひどいのは放火して、その混乱の隙に乗じて、金銭や高価な家財道具などを盗もうとした不心得者が多く、愉快犯的な憂さ晴らしから来る放火や恨みから起こる放火もあったであろうが、そのほとんどは“火事場泥棒”を目的とした放火で、江戸の火事の大半が放火だったともいわれているほどである。特に歷史に残る江戸三大大火の一つ、約2万人が死亡・行方不明となった1772年4月(明和9年2月)の目黒行人坂の大火も放火によるもので、町奉行が厳格な禁止令を出す背景は確かにあった。もっともこの当時、放火は江戸に限った話しではなく、この年より14年前の1620年4月(元和6年2月~3月)には京都で放火による大火が頻発し、町人たちが自衛の町掟を取り決めたほどであった。

1603年3月(慶長8年2月)徳川家康が朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いて(開府)13年後の16年(元和2年)“町が火災の時、下々の者(町人)は集まってはならぬ。武士は親類は許すが、そのほかは知り合いでも(火事場)に行ってはならぬ”というお達しが出されている。初期の火事場管理の指令である。その後、この日の「覚」を経て、幕府及び江戸町奉行からの指令は次のように変遷する。

上記の「覚」が出された7年後の41年1月(寛永17年12月)とその5年後の46年3月(正保3年2月)のお触れは、火事場にいて良い者を親族に限るとしたものだが、「覚」から18年経った52年1月(慶安4年12月)のお触れに“火事場江用なくして棒を持(ち)、見物ニ出候者堅御法度に候“ 火事場に必要ないのに棒を持って火事場見物に来ている者がいる、と指摘したお触れが出た。その4年後の56年12月(明暦2年10月)には”ほう(棒)とひ口(鳶口)木刀なと(など)持候儀堅停止之事”と凶器になる物が増え、火事場にますます物騒な物を持ってくる連中が増えていることがわかる。火事見舞いにこれらの物が必要であるわけがなく、“火事泥”と疑っても良いわけだが、それだけでは逮捕出来ないので“堅停止”とし、見つければ没収した。

ところが58年3月(明暦4年2月)になると、今度は道具の持ち主が自衛のためか“火事之砌(時)、道具のけ候共(無くなるおそれがあっても)鑓(槍)長刀ぬき身ニ而(抜いて)持通申間敷候(しないように)”という物騒な様子になったので、殺傷沙汰になるおそれもあり、当然“見合次第曲事ニ可申付者也”と取り締まる事になる。

そこで対策として、52年4月(慶安5年3月)には、火事見舞いに行って良い者に鑑札を出すことになった。“親類又はのかれさる所(避難場所)え見届ケなとに遣候はゝ(見届けに行くのであれば)、家主之札を持候て罷出へく候(家主から証明する鑑札を出してもらい、それを持って出掛けるように)”。ところが早速、偽の鑑札を持っている者が現れる。翌53年3月(承応2年2月)のお触れである“火事場江似札(偽札)を持出候者多相見候間(偽の鑑札を持っている者を多く見かけるが)”と、当然“捕其所にさらし(捕らえてその場所で晒し)主人に番を可申付候間”と警告した。主人に番人をさせるというのは、実質的な主人ともども一緒の晒し刑である。

特に57年3月(明暦3年1月)の明暦の大火後の禁止令の内容は一層きびしくなる。大火翌月の高札では“火事之場え下々相越、理不尽に罷通においては、御法度之旨申きかせ、一切不可通之。若承引無之においては、可搦取之、万一及異義ば、可為討捨事。(火事場にやってきて、無理やり通ろうとする者には、禁止されていることを申し聞かせ押し止めるが、もし承知しない場合は逮捕する。万一それに反抗したならば斬って良い”。それでも火事場に野次馬が集まり、火事場泥棒も無くならず、町奉行所もその後も再三、再四禁止のお触れを出し続ける事になる。

また一方、延焼を防ぐ人手の問題があった。火事の時、消火に家財道具の避難にと、燃え出した家の人々だけでは人手が足りず、みすみす延焼を許すことになる。

火事場泥棒は防いだが、延焼を防げず大火事となっては、町奉行として失態は免れない。事実、この日の「覚」を出した4年後の38年2月(寛永14年12月)には、江戸町奉行ほか3名が、連日の火災の責任を負って、門や窓を閉ざして人の出入りを禁じる“閉門”となっている。

犯罪防止か延焼防止か難しいところだが、その11年後の49年2月(慶安元年12月)に町方に出した火災時についてのお触れでは“火事出来仕候ハヽ(火事が起きたときは)(中略)火元之者なりを立可申候(まず火元の者に消火させ)、其町之家持并(ならびに)借家店かり之者迄不残かけ集(その町に家を持っている者から借家人、店借人の区別なく残らず火元に駆けつけさせ)、成程精を出し、火を消可申候(一生懸命になって、消火に当たること)、若不懸集もの候ハヽ(もし消火に参加しない者がいれば)、後日ニ御穿鑿之上、過料可申付候事(後日に詮議して罰金を取る)”と、町中で消火に当たるよう指示し、一応顔ぶれがわかる町単位での消火を奨励することになる。

そしてこの町単位という消防の施策の延長に、その3年後の52年1月(慶安4年12月)の、防犯と防火を主な目的とした家持町人に対する町単位の“自身番”設置指令があり、またその3年後の57年3月(明暦3年1月)に起きた明暦の大火後、翌58年9月(万治元年8月)には町人たちによる町単位の自衛消防隊“店火消(町火消)”が誕生する。ここに明治時代以降の交番につながる自身番と、消防団になる町火消がお目見得し、横行する火事場泥棒対策と共に町単位で防犯や防火。消火に当たることになる。

(出典:山本純美著「江戸の火事と火消>江戸の町づくりと防火対策 167~168頁:火事場泥棒対策と火事避難」、黒木喬著「江戸の火事>第3章 町火消の隆盛 114~115頁」、高柳真三+石井良助編「御触書寛保集成>御触書寛保集成二十六>火事并火之元等之部 761頁:1423・寛永17辰年12月、1424・正保3戌年2月」、近世史料研究会編「江戸町触集成 第1巻>慶安4辛卯年 22頁~23頁:67 定」、同編「同書 第1巻>明暦2丙申年 51~52頁:145」、同編「同書 第1巻>明暦4戊戌年 73頁:195 覚」、高柳真三+石井良助編「御触書寛保集成二十六 762頁:1427・慶安5辰年3月」、近世史料研究会編「江戸町触集成 第1巻>承応2癸巳年 27~28頁:85 覚」、東京都編「東京市史稿>産業篇 第五 366~367頁:火災高札」、近世史料研究会編「江戸町触集成 第1巻>正保5戊子年(2月15日慶安と改元)9頁:20」。参照:2月の周年災害・追補版(3)「江戸城内で“町人能”上演中、タバコの火から神田で火災-2年半後、タバコ禁止令出る」、2018年8月の周年災害「江戸町奉行、防火対策で華美禁止にかこつけ花火禁止」[改訂]、2月の周年災害・追補版(4)「江戸町奉行所、正月の松飾りを焼く“左義長(さぎちょう)行事”を禁止」[改訂]、4月の周年災害・追補版(4)「江戸明和9年目黒行人坂の大火」[改訂]、同「京都、豊臣家残党?による放火で大火相次ぐ-町掟で消防ルール」[改訂]、2017年3月の周年災害〈上巻〉「1657明暦江戸大火“振袖火事”世界三大大火の一つ起きる」、2018年2月の周年災害「江戸町奉行堀直之、火災の責任により閉門」、2019年2月の周年災害「江戸町奉行、火災シーズンを前に、町方に一連の“警火の町触”出す」[改訂]、1月の周年災害・追補版(4)「江戸町奉行、家持町人に自身番設置を命じる、後の町火消し制度の原動力に」[改訂]、2018年11月の周年災害「町内に町奉行与力指揮下の官製・町火消(店火消)“火消組”編成へ」[改訂])

江戸町奉行、大風の際、道路を掘って家財を埋め類焼を防ぐのを禁じる

1672年3月3日(寛文12年2月4日)

最近では、家財道具をあまり家に置かないようになったが、それでもお年寄りの一戸建てのお宅にお邪魔すると、昔ながらに家財道具(主にたんす類、衣装箱)があふれていることが多い。なにせ“家財道具”というものは中身も含めて一生もので、それに衣類や食器などを詰めていた。江戸時代はそれらになべ、かま、おけ、あんどんなどが暮らしの上で大事な物なので、火事が起きると、それらを背負うか、物持ちの家は大八車などに積め込んで逃げたという。

ところが前述の“火事場泥棒”である。逃げる途中で道ばたや河岸などに置いておくと、火事泥に持って行かれるおそれありで、と言っても持っては逃げ出せないないとなると、土蔵に入れるか、最後は埋めるということになる。世界三大大火の一つ、1657年(明暦3年)の明暦の江戸大火以降などでは、屋敷の裏庭などに穴蔵(地下倉庫)を造りそこへ大事な物を納めたという。

ところが大部分の庶民の家では、土蔵はおろか庭もなしで、台所(キッチン)の下などに床下収納するしかないが、せいぜい壺(つぼ)程度しか収まらない。となると、最後に目をつけたのが“道路”ということになったが、さっそくこの日お達しである。

“大風吹候節(大風が吹いて来て大火の恐れがあるとして)、町中ニ而海道(道路)ニ穴を掘、諸道具埋申候由相聞候間(埋めているということを聞いているが)、自今以後海道ニ穴を掘、諸道具埋申間敷候(埋めないように)、此度堀申所は(今回掘った所は)急度(必ず)埋候て石を敷、本のこ(ご)とくに道悪敷無之様可仕候(通りづらくないようにすること)、若(もし)相背者於有(そむくことがあれば)之は曲事ニ可被仰付候間(けしからぬこととなるので)、家持は不及申(とうぜん)、借家店かり(借)地かり(借)等迄為申聞、急度此旨相守、少も違背仕間敷候事”。

お奉行さまも事情がわかっているので、“道路に穴を掘って家財道具を埋めないように”今回もし掘ったならば“掘ったあとは元の通りに埋め戻してちゃんとしておきなさい”という指示で済ましている。またこの指示に背いても、“やってはいけないことだと申し聞かすぞ”と念を押しているが、効果があったのかどうか。中には家財道具類を将軍の居城江戸城内に持ち込むほどの江戸っ子である(まさか町人ではないだろうが)。

ほかに禁じたことでも、江戸っ子の生活や避難上、必要なことだと、なかなかご禁制の指示が徹底せず、毎年、毎年火災シーズンや、いち段落する季節になるとお触れが出て“定式町触れ”と言われていた。奉行所も町の管理上必要なことだから毎年飽きもせず出すわけで、別に悪いお達しではないので、江戸っ子も条件が揃ってくればだんだんと従っていたのであろう。一方、花火のように隅田川で盛大に打ち上げを許すこともあり、江戸時代に身分制度はあったが、富裕町人の力は大名・武士よりも強く、絶対権力下の管理社会であったと必ずしも言えない面が多い。

(出典:近世史料研究会編「江戸町触集成 第1巻>寛文12壬子年 296頁:952 覚」、東京都編「東京市史稿>No.4>市街篇 第9 22~23頁:防災時制規」。参照:2月の周年災害・追補(3)「江戸町奉行、火災時、車での荷物運搬、橋や道路上へ置くこと禁止」、2019年2月の周年災害「江戸町奉行、火災シーズンを前に、町方に一連の“警火の町触”出す,後の定式町触の基本」、2017年3月の周年災害「1657明暦江戸大火」、2013年7月の周年災害「江戸大川(隅田川)で花火大会はじまる」)

延宝の第二次飢饉、米価急騰。磔茂左衛門など農民運動のエピソード残す[改訂]

1681年春(延宝9年春)~1682年(天和2年)

前年の1680年(延宝8年)は越中(富山県)や津軽(青森県)が風水害に見舞われた上に、特に9月(旧閏8月)には東海と関東地方が大風雨に見舞われ大水害となった。また冬になると厳寒で大雪が降り、全国的に農作物の収穫量が減少して諸国の庶民は窮乏した。

特に江戸では米の価格が急騰、幕府は年が明けたこの正月(1681年2月)、京都や大阪の米商人の倉庫を調べたという。ところがその効もなく米価は騰貴し庶民は飢餓状態に陥った。

さらにこの年も天候不順で凶作となり飢饉が一層進み翌1682年(天和2年)にかけて全国的な大飢饉となった。特に北陸では餓死者2500人を数えたというが、江戸や京都を始めとした畿内、中国でもひどく畿内では疫病も蔓延したという。また長崎では3,4年以来米穀の貯蔵が減った上、前年は外国船の入港が少なかったので収入も減り飢饉が進み福済寺や崇福寺では施がゆを行ったという。

この頃、駿河国今泉村(現・富士市)の農民五郎右衛門が、前年の台風に襲われて収穫皆無となり、困窮し飢饉に苦しんでいる農民たちに、不足している米や種籾、資材を与えるなど復旧支援を行ったので、幕府がこれを取り上げ表彰している。一方、上野国沼田領では夏の大雨と冬の厳寒により、米の収穫が平年の3分の1以下しかなかった。そこで月夜野村(現・みなかみ町)の農民杉木茂左衛門は、増税が続く沼田藩が今まで以上に過酷な米の取り立てを行うのではないかと憂い、時の大老酒井雅楽守に直訴を試みるが失敗、磔(はりつけ)の刑にされた。ところが明治維新以降、戯曲や小学校の修身(現・道徳)教科書に取り上げられるなど義民磔茂左衛門の名を残す。方や沼田藩は夏の大雨による水害で流された両国橋の再建を命じられたが、過酷な税に疲弊しきっていた領民の協力を得ることができず、責任をとらされて改易(藩領没収、お家断絶)となる。実は、茂左衛門の直訴がどこかで効いて、幕府が密かに調査したのかもしれない。

(出典:池田正一郎著「日本変災通志>江戸時代前期 393頁~395頁:天和元年~天和2年」、国会史料編纂会編「日本の自然災害>2.近世の災害 87頁~88頁:延宝8~天和2 諸国凶作・飢饉」、東京都編「東京市史稿>N0.2>変災編 2 108頁~111頁(96コマ):延宝8年大風水災」、同編「同市史稿>NO.2>変災編3 703頁~704頁:延宝8年飢饉、704頁~707頁:延宝9年飢饉、707頁~708頁:天和2年飢饉」、西村真琴+吉川一郎編「日本凶荒史考>延宝・天和 286頁~289頁:日本農民一揆録」。参照:7月の周年災害・追補版(4)「延宝の第一次飢饉、棄民は非人となるか餓死か」、9月の周年災害・追補版(4)「延宝8年閏8月台風、東海道筋、江戸、強風と高潮に襲われる-延宝の飢饉まねく」)

江戸享保2年「小石川馬場の火事」をはさむ連続火災-護持院焼け跡を避難地に[改訂]

 1717年3月4日、5日(享保2年1月22日、23日)及び2月17日、23日(同年1月7日、13日)

八代将軍・吉宗が、享保の改革の中心に江戸の街の防火対策を据える契機となったと言われている連続火災が、前年の1716年1月から3月(正徳6年1月から2月)まで続いたが、本稿に掲載する火事と、その年の後半の7月と12月(旧歴6月と11月)に起きた3件を加えると、この1年間で江戸の大半は灰となり、中心街などは2度も3度も被災したという。

 本稿は3月(旧・1月)の小石川馬場の大火が中心だが、まず日付順から2月(旧・1月)の火事から書き起こそう。

 まず第1波は2月17日(旧・1月7日)夜、亥の上刻(午後11時ごろ)、深夜である。中心街の京橋南五丁目の裏、中通りより出火。北西の風に舞い上がった炎は東側の三十間堀まで焼き、木挽町五丁目へ飛び火して築地御門の前まで焼き抜ける。10数軒におよぶ大名屋敷を炎に包んだうえ鉄砲洲まで焼き抜けて、丑の下刻(午前3時ごろ)止まる。

 第2波は六日後の23日(旧・13日)、この日は飛び飛びに2か所から出火。巳中刻(午前10ごろ)桶町二丁目より出火し午下刻(午後1時ごろ)本木材町八丁目まで焼いて鎮火。申刻(午後4時ごろ)日本橋南二丁目より出火し酉下刻(午後7時ごろ)下槇町河岸まで焼いて鎮火。そのつど増火消大名(応援消火隊)が老中に呼び出されている。

第3波が江戸屈指の大火、3月4日(旧・1月22日)に起きた“小石川馬場の大火”である。

未の下刻(午後3時ごろ)、小石川馬場近く原町の井出(出野とも)三郎右衛門宅内の長屋から出火した。

折からの東北の強風にあおられ、炎は本郷丸山から御弓町、お茶の水へと延び、白山春日町の水戸家上屋敷を焼き、水道橋から駿河台一帯、小川町、飯田町から一橋外の神田護持院、三河町へと延びて、鎌倉河岸通りから神田橋、常盤橋内部へと進み、大手、龍ノ口から呉服橋内部、鍛冶橋御門から江戸城郭内へと侵入、大名小路の諸大名宅を次々と灰とし桜田から芝方面へ焼け抜けた。

さらに同夜子の刻(午前0時ごろ)風向きが変わり、神田三河町の残り火がふたたび燃え上がり西の強風に乗って神田鍛冶町、白銀町、小伝馬町へと焼け広がり、日本橋一丁目、万町より中橋までと八丁堀、石町、本町は四丁目から大伝馬町三丁目まで焼き尽くし、田所町から堀江町、堺町へと延びて小網町、新堀、霊岸島まで炎は達し、卯の中刻(午前2時ごろ)ようやく鎮まった。大名屋敷は水戸家をはじめ1万石以上の屋敷42か所、1万石未満の旗本、御家人屋敷など349軒、町家は町数にして200町余が焼失。幕府役所は伝送屋敷、評定所、定火消役宅2か所など、橋11か所が焼け落ち、117人死亡。火災後、神田護持院の焼け跡は避難地を兼ねた火除け地として護持院が原となる。

最後の第4波は大火の翌日の3月5日(旧・1月23日)珍しく南の風が吹いていた。午刻(昼の正午)赤城明神下にある河野権九郎屋敷より出火、護国寺、音羽四丁目、目白台まで延焼して申刻(午後4時ごろ)鎮火。

(出典:東京都編「東京市史稿>No.2>変災篇第4.611~648頁:享保二年火災>一.正月七日火災、二.正月十三日火災、三,正月廿二日大火、四.正月廿三日火災」、池田正一郎著「日本災変通志>近世 江戸時代前期 445頁:享保2年」、日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1717(享保2) 646頁:護持院の再建を許さず、5万坪の火災跡地を火除地に」。参照:1月の周年災害・追補版(4)「江戸正徳6年、2か月間に15日、火元20個所の連続火災-吉宗の享保の改革で、江戸の防火対策を中心に据える背景となった火災」

有珠山文政5年の噴火、大火砕流と熱煙が山麓の役所や牧場、集落を襲った。噴火史上最大の犠牲

 1822年3月9日~23日(文政5年閏1月16日~2月1日)

2000年(平成12年)3月の噴火は、ひとりの犠牲者も出すことなく終わったが、180年ほど前の噴火では、史上最大の犠牲者を出している。

3月9日(旧歴・閏1月16日)深夜、丑刻(午前2時ごろ)火山性地震があり、夜明けまでに3回ほど揺れる。翌10日(旧・閏17日)朝14、5回、夜に入って30回ほどと、だんだんに揺れる回数が増えてくる。それから1日おいた12日(旧・閏19日)昼までに約100回、翌日の深夜2時ごろ突然、山が鳴動したかと思うと噴火が始まる。山麓のアブタ集落に住むアイヌの人々は、男は太刀を抜き放って山に向かって祈り、女や子どもたちと山麓の善光寺の僧侶たちは、10kmほど離れたベンベ集落へと避難し、残りの和人たちの多くも責任者の指示にしたがい同集落へと避難した。

 山はしばらく小休止をしたあと20日(旧・閏27日)再び噴火を始めたが、翌21日(旧・閏28日)夜、大雨となったので、避難していたアイヌの人々がなぜか我が家に戻ったという。このときの人々の行動について、後に、有珠山を噴火させている悪い神に対し、それを鎮める善い神に対する噴火の時の祈りが、噴火の小休止と大雨をもって通じたと思い、人々が帰宅したのではないかと考察されている。

ところが23日朝6時ごろ(旧・2月1日卯刻)、山が今までになく百千の雷が一度に落ちたように鳴り響き、焼き石、焼き灰に猛火が入り交じった一大火砕流(文政火砕流)となってあふれ、有珠山の南東側を流れる長流(おさる)川に流れ込み、南東から西の麓にかけての森林が一面焼き尽くされた。一方、噴煙は北東の強風にあおられて地上に渦巻き、長流川河口から虻田方面までの沿岸を熱煙となって急襲、一瞬にして立ち並ぶ松前藩の虻田御詰合(出仕先:役所)、会所(函館奉行の役人詰所)、御用武器庫、御囲い米蔵、牧士(ぼくし:牧場管理者)の家も厩(うまや)もアイヌの人々の家々も、海岸(内浦湾)にある90棟ほどの集落を押し倒し焼き払い広々とした野原にしてしまった。72人のアイヌ人と6人の和人が死亡(遠藤)、50人死亡、53人負傷、馬1437頭が死亡(内閣府)とする記録が残った。有珠山噴火史上、最大の犠牲を出している。

この噴火のころの内浦湾沿岸は、松前藩によって開拓され、特に西南側山麓にある有珠湾を中心に海上交通が便利なため、和人も多く移り住み藩の牧場が作られ、役人の詰め所が設置されるほどまでに栄えていたという。

 (出典:内閣府編「歴史災害に関する災害教訓のページ>災害史>有珠山噴火災害教訓事例集>報告書ダウンロード>第1期 有珠山の歴史>1-1.有珠山について>1.有珠山の概要>04 1822年噴火では、火砕流で南西麓の1集落が全焼し、50名が死亡、53名が負傷した」、有珠山ガイドの会編「【2】有珠山噴火の歴史>4 1822年(文政5) 大臼山焼崩日記『日鑑ノ写』から一部抜粋)」、遠藤匡俊著「1822(文政5)年の有珠山噴火に対するアイヌの人々の状況判断と主体的行動」。参照:2020年3月の周年災害「北海道有珠山平成12年の噴火、学者と行政・住民の連携による事前避難準備で犠牲者ゼロ」)

天保2年神奈川宿(現・横浜市)の大火、1200軒余焼失し伝馬業務5日間ストップ

1831 年3月13日(天保2年1月29日)

朝のうち晴れていた天気は、その後東風が強くなり、寒くなってきた。

夜の四つ時(午後10時ごろ)、農家・捨五郎の家から出火。火勢は滝之川(現・中央卸売市場近く)を越えて青木町まで延焼、炎は街道を挟んで上下に広がり、翌朝七つ時(午前4時ごろ)ようやく鎮まる。石井本陣を始め問屋、助郷会所、東光寺、宗興寺、吉祥寺などが焼失。神奈川宿の歩行(かち)役53軒、馬役112軒など、幕府御用の書状や荷物を乗り継いで運ぶ(伝馬)ための、人(歩行役)や馬を提供する宿(営業所)が焼失したほか、旅籠屋(旅館)31軒も焼失し伝馬の業務がストップしたので、隣の保土ケ谷宿や川崎宿で5日間代行した。そのほかお茶屋、商家、農家など1000軒余、合計1200軒余が焼失した。なお伝馬制度維持のため、幕府から借入金をしたが、かなり高額で長く返済に苦しんだという。

(出典:横浜市神奈川区編「神奈川区誌>第3章 神奈川宿のころ>4災害と普請>地震火事 169頁:神奈川宿の大火>天保2年(1831)」)

越後今町(直江津:上越市)天保15年の大火、全町の97%が灰と化す

 1844年3月20日(天保15年2月2日)

 現在上越市の港湾部を形成している直江津は、江戸時代今町と呼ばれており、古来、越後国府が置かれ政治の中心であったが、地の利を生かした港として発展、西回りの北前船が寄港するほどの日本海側有数の港湾商業都市として発展してきた。

日本海沿岸にある今町は、冬の季節風を中心に季節を問わず強い風にさらされることが多く、1767年(明和4年)から1871年(明治4年)の100年ほどの間に10回におよぶ火災に見舞われ、そのうちの半数の5回は500軒以上焼失した大火であった。この日の大火はその中でももっとも大きな被害が出ている。

夜の四つ時(午後10時ごろ)、新坂井町の市之助宅から出火した。その日は西風が吹き荒れていたという。炎は街の中心を流れる荒川(妙高山麓を巡り直江津に注ぐ関川の下流部)を越えて福島の橋あたりまで延び、さらに遠い近郊の村々まで一面の猛火に包んだ。

その上、雪解け水が荒川からあふれて街中を水浸しにし、前年の大波で浜側の家際が窪地となっているところなどは、大きな波が窪地にあたり屋根まで波をかぶった家もあった。

この日、全町1322軒のうち1203軒が灰となったが、そのわずか4日後の24日(旧歴・6日)の夜、五つ半時(午後9じごろ)安楽町の猪三郎の後家(未亡人)ちかの家から出火し、今町で焼けずに済んだ家の85軒と近郊の潮屋新田と砂山村で63軒が焼失するなど合計1351軒が2回の火災で消失。寺では龍泉寺と観音寺など7か寺が焼失し、ほか神社、土蔵、高田藩の御蔵、また商業港としてかけがえのない廻船(貨物や旅客を運ぶ船)や川船も焼けてしまい、盛んだった港も壊滅した。焼け残ったのはわずかに火元である新坂井町の34軒のみであった。火元近くでも風向きが逆で焼失を免れていたのであろう。大火の割には、死亡したのがひとりだけで済んだというのが港再興に望みをつないだ。実際、29年後の1873年(明治6年)1月1日に行われた人口調査では、5813人と大火時とほぼ同じ人口を擁し、港と街は完全に復興している。

(出典:上越市史編さん委員会編「上越市史 通史編4 近世1>第7章 湊町のにぎわい>第3節 湊町のなりわいとくらし天保15年大火 479頁」、直江津市の歴史編集委員会編「直江津の歴史>10 生活と文化>3 災害と騒動 157頁」)

時事新報、天気予報を初めて紙面に掲載、気象およびメディア史上歴史的快挙

 1888年(明治21年)3月21日

1882年(明治15年)3月1日に慶応義塾大学の創始者、福沢諭吉が創刊した“時事新報(現・産経新聞)”の読者は、この日見慣れない記事を読んだ(というか眺めた)。“気象”と題された記事である。

 内容は“全国天気報告”と“全国測候所における気象状況”で構成されているが、現在のように気象の変化を捉える方法がなかったので、いま見る“天気予報”のように、その日の天気の動きを予報したものではなく、当時の一般読者には読んでも意味がわからなかったろう。しかし4年前の84年(同17年)6月、当時の東京気象台が、気象資料を整理して“天気予報”を出して以来、その内容が初めてメディアに掲載され一般の人たちに読まれたわけで、日本の気象関係者や新聞関係者を始めメディアにとって、歴史的快挙であった。

 ともあれ記事の内容を紹介すると、“全国天気報告”は“3月20日標準時午前6時”とし、その摘要は“北部は気圧再度頗(すこぶ)る下降して其の度(ど)は長崎に於ける768仏厘より札幌に於ける748仏厘の間にあり”“西の風(北西部は強風)吹き天気寒冷にして南部は快晴北部は曇且(かつ)雪降れり”“境及び銚子は温度6度、札幌は氷点下6度と示せり”とあり、下に全国の風力や温度など気象数値が掲載されている。

 この日は、日本全国が穏やかな春の日差しと風に包まれていたので“天気予報”というより“天気概況”的な内容となっているが、初めて読んだ読者にとっては、地方の天気の様子を知る手がかりになり、“やっぱり札幌は寒いんだ”ということで、ふるさとに手紙を書いたかもしれないし、掲載された地方では、昔ながらの経験から得た勘に頼った予報に科学的な裏付けを得て、その精度を増したであろう。

 しかし東京気象台では、初めての天気予報を出した2か月後の5月には暴風警報第1号を出しており、当然、強風が吹き荒れ始めるころ、それこそ今の天気予報の様な内容で暴風警報も新聞に掲載され、予測された地方では人々は警戒を強め予防対策をしたと思われる。

 この快挙について、取材先の中央気象台では後年、次の様に回想している。

 “明治21年(4月)中央気象台ノ当局者ニ於テ天気予報ヲ日々ノ新聞紙上に掲載セシメンコトヲ計画シ之(これ)ヲ2,3の新聞社ニ諮(はか)リシモ容(いれ)ラレス(ず) 時ニ福沢翁之ヲ聞テ遺憾トシ翁ノ主宰スル時事新報ニ掲載スルコトヽシ且市内及横浜ノ要所ニ数ケ(コ)ノ掲示場を設ケ世人ノ便ヲ計リ他ニ率先シテ実行シタリシニ幾(いくばく)モナクシテ世間ノ歓迎ヲ受ケ翌5月報知新聞(現・読売新聞)先ツ(まず)之ヲ掲ケ(かかげ)6月ヨリ毎日、朝野、読売、日日(現・毎日新聞)、目覚まし等ノ各新聞ニ掲載のコトヽナリ大ニ世人ノ注意ヲ引キ今日ニ於テハ東京ノ各新聞ハ固(もと)ヨリ各地方ノ小新聞ニ至ルマテ之ヲ掲ケサルナキニ至レリ”と、時事新報で掲載したあと、これを断った各紙が追随して掲載し始めたこと、地方紙にも広がったことを述べその功績が大きかったことを記している。

 また、地方紙が天気予報を掲載し始めると、発行前日の午後9時発表ではこれを印刷する時間的余裕がなく、中央気象台では、3年後の91年(同24年)6月より天気図の時刻を午後2時に改め、天気予報は、当日午後6時より翌日午後6時までの24時間予報とした。これによって地方紙に掲載されるようになっただけでなく、予報記事の内容が豊かになり“便益ヲ得ルニ至レリ”という状況になっていく。 

なおこの記事の中で、大気圧の単位に“仏厘”というのが使われている。当時メートルを仏尺、キログラムを仏量と表示していたので、フランスで使用されていた大気圧の単位と思われる。現在のヘクトパスカル(hp)以前に使われていたミリバール(mb)が大気圧の単位として気象通報に使われ始めたのが1914年(大正3年)というから、それ以前に使用されていた単位ということになる。読み方については調査中。

(出典:龍渓書社編「時事新報 第7巻 1 明治21年1~3>明治21年3月21号」、気象庁編「気象百年史>Ⅰ 通史>第5章 明治の天気予報>1./天気予報の周知>1.1 官報及び新聞への掲載 132頁~133頁」。参照:2013年3月の周年災害「東京気象台、天気図の印刷配布開始-念願の暴風警報も発表へ」、2014年6月の周年災害「東京気象台、1日3回の各地気象情報入手で全国の天気予報ようやく開始」、2018年11月の周年災害「日本放送協会、漁業気象放送開始」)

足尾銅山鉱毒被害者、初の大挙押し出し(集団請願行動)敢行[改訂]

1897年(明治30年)3月3日

明治時代の富国強兵政策を背景にした公害問題として歴史に残る足尾銅山鉱毒事件は、古河(ふるかわ)財閥の創始者古河市兵衛が、1877年(明治10年)2月、足尾銅山の経営に乗り出し設備を次々と近代化、洋式の精錬法を導入して飛躍的に生産額を増やして行く課程で起こった。

事件の発端は、足尾銅山に源を発する渡良瀬川の鮎が多量に死んで浮かんでいたことから始まるが、当時、漁民が見た状況を記した記録がないので、いつからその異常な現象が起きていたかは定かではない。

鮎の大量死を報じた最初の報道で資料的に確かなのは、操業から8年半後の85年(同18年)8月12日、時の政府の政策に反対し自由民権運動の論陣を張っていた「朝野(ちょうや)新聞」が、渡良瀬川の鮎の大量死をはじめて取り上げ、原因は足尾銅山から流れる鉱毒水との噂があると書いた記事である。

また同年10月3日には土地の新聞「下野新聞」が、前年の84年(同17年)暮れごろから足尾の木の多くが枯れ始めていると報じたほど煙害の被害が目立ってきていた。特にこの年85年(同18年)には、農作物の被害が明らかになりはじめ、足尾銅山周辺の6集落では古河市兵衛から示談金を受け取っていたほどである。

「下野新聞」が報じたように、足尾銅山から放出される煙害による樹木の枯死と精錬用薪を求めて山林は乱伐され、産銅量の増加にしたがい煙害と合わせて急速に足尾の山々を裸山にし、山の保水力は急激に失われていった。

90年(同23年)8月、足尾周辺に降り続いた大雨は渡良瀬川の大洪水として現れ、流域一帯の4県に足尾銅山の鉱毒による被害を広げ、農民たちによる反対運動が始まる。

翌91年(同24年)12月、栃木県選出の衆議院議員・田中正造は、群馬、栃木両県の被害農民による鉱毒被害原因追及の動きと、農商務大臣に対する1000余名の鉱業停止請願運動などを背景に、同院本会議で政府を追及した。

それから4年半後の96年(同29年)7月、渡良瀬川の大洪水でまたもや沿岸一帯の農地が冠水、成育した稲が次々と立ち枯れる。田中正造はこれを契機に反対運動を組織化、翌8月、さらなる大雨のため渡良瀬川が氾らんし洪水となり、ついに足尾鉱毒被害民大会がはじめて開かれた。この大会では、それまでの個々に補償要求を出す形ではなく、被害民たちの運動方針は転換、要求は足尾銅山鉱業停止一本にまとめられた。

そして翌9月8日から16日まで1週間以上も続いた強い風雨により、みたび渡良瀬川が氾らんしたがそれに止まらず、こんどは利根川の中・下流域でも大洪水が発生、鉱毒による被害は広く関東一円に拡大、反対運動は被害の拡大とともに広がりを見せる。そして同年11月に開かれた大集会で、ついに鉱業停止を目標とした渡良瀬川両岸被害38町村が一致した鉱毒反対運動へと大きく進むことになる。

一方政府もやむを得ず12月には足尾銅山に対し“鉱毒予防工事命令”を出し、鉱山側も翌97年(同30年)には、小滝精錬所を廃止して全精錬作業を本山に集中、脱硫塔(亜硫酸ガス除去装置)を設置せざるを得なくなっていた。ところが、その対応はすでに遅く、反対運動が起きた90年(同23年)に1600町歩(約16平方km)だった被害農地が、その6年後の96年(同29年)には、生産量に比例した鉱毒の増大と大洪水により、4万6700町歩(463平方km)と約29倍に拡大していたのである。

この日ついに被害農民たち2000人は、反対運動の本部がある、群馬県渡瀬村(現・館林市)の雲龍寺を出発、政府が派遣した警官隊による阻止行動に阻まれながらも、夜の闇に紛れて散々伍々利根川を渡って入京、日比谷練兵場(現・日比谷公園)に800人が集合、夜明けとともに足尾銅山の鉱業停止を求める“大挙押し出し(集団請願行動)”を開始、貴族院議長、衆議院議長、外務大臣に面会を求めたがいずれも警官隊に阻止された。しかし、農商務大臣公邸には入ることに成功し、中庭で座り込みを敢行したが、鉱業停止の請願という目的は達成することはできなかった。だが反対運動はその後も衰えることなく、大挙押し出しは続けられた。

(出典:Kawakiyo Project編:田中正造とその郷土・「田中正造と足尾鉱毒事件(詳細年表)」、日本全史編集委員会編「日本全史>明治時代>1897(明治30) 972頁:足尾鉱毒被害農民が大挙上京 請願行動、官憲に阻まれる」、国際連合大学・人間と社会の開発プログラム研究報告・東海林吉郎著「足尾銅山鉱毒事件」、金沢大学学術情報リポジトリ・森英一著「足尾鉱毒問題と文学・33~35頁:第一章足尾鉱毒問題概要」[改訂]、荒畑寒村著「谷中村滅亡史>結論 166頁」、神岡浪子著「日本の公害史>第1章 近代鉱工業の展開と公害>Ⅰ 鉱業の展開と鉱毒事件 17~29頁:1 足尾鉱毒事件」、神岡浪子編「近代日本の公害>第1章 日本公害史>1,明治期の鉱毒事件>足尾鉱毒事件 10頁~11頁」。参照:12月の周年災害・追補版(3)「田中正造、足尾鉱毒問題で政府に初の質問書提出し議会でも追及」[改訂]、7月の周年災害・追補版(3)「明治29年梅雨前線豪雨(中略)足尾鉱毒土砂流れ稲に被害-田中正造反対運動の組織化に着手」[改訂]、8月の周年災害・追補版(3)「足尾鉱毒被害民、大会を開き鉱業停止運動始まる」[改訂]、2016年9月の周年災害〈上巻〉「明治29年9月秋雨前線+台風、琵琶湖/淀川、木曽川、利根川水系氾らん」、2016年11月の周年災害「足尾鉱毒被害民、両岸被害村一致の大集会開き鉱業停止請願運動始まる」)

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(2020.8.5.更新)

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