【目 次】

・嘉保(永長)地震(東海、東南海連動地震)起きる。2年後の承徳(康和)地震の南海地震説に疑問が[改訂]

・江戸城内の防火細則決まり相触れ、具体的な規定で防火を徹底させる

・1707富士山宝永噴火、超巨大地震宝永地震が誘発か、噴火の危険は迫っている真剣に防災を考える時 [改訂]

・1833年庄内沖地震、隠岐島から蝦夷地福山まで広範囲に津波被害[改訂]

・法定伝染病(感染症)6件のうち4件が明治期最大の流行となる。

 富国強兵政策で、環境衛生面でのキャパシティを超えた都会への人口の集中が原因か

・北里柴三郎を迎え大日本私立衛生会が初の伝染病研究所を設立-文部省所管に現在の東京大学医科学研究所へ

 北里は初志を貫くため北里研究所を設立 [改訂]

・大阪紡績会社三軒家工場火災。災害を逆手に最新式紡績機を導入、深夜作業で業績を上げ“模範工場”に成長
各社それを見習い「女工哀史」の時代を作るーようやく25年後「工場法」で一応歯止め[改訂]

【本 文】

嘉保(永長)地震(東海、東南海連動地震)起きる。2年後の承徳(康和)地震の南海地震説に疑問が[改訂]
 1096年12月17日(嘉保3年11月24日)

 辰の刻(午前8時ごろ)、畿内(京都、難波周辺、大和)と東海地方にマグニチュード8~8.5の巨大地震が発生した。
 鎌倉時代の中ごろ、当時の公家の日記など諸記録を編集した「百錬抄」によると“地大震(地、大いに震う)。古今無比(今までにない揺れだ)、人皆叫喚。主上(天皇)御船に御す(庭の池の船上に避難された)”とある。京都の被害は大極殿(天皇の即位式を行う殿舎)が小破し、応天門(大内裏にあり政務を行う朝堂院の正門)の西楼が大きく傾いたが、震動の割には被害は比較的少なかった。しかし、近江国(滋賀県)の勢多橋(瀬田の唐橋)が落ち、奈良では東大寺の巨鐘が落ち、薬師寺の回廊が倒壊、東寺の塔の九輪が落ち法成寺の東西の塔の金物が落ちて損傷ている。
 被害は東海地方で大きく、伊勢国(三重県)の阿乃津(現・津市)が津波に襲われて民家が倒壊や流失、駿河国(静岡県)では神社や寺、民家など400余戸が津波で流された。また余震が多かったと記録されている。
 地震名はこの年の旧暦12月7日(1097年1月9日)に、この地震により永長と改元されたので永長地震と呼ばれており、当時はまだ集落が少なくて被害は比較的大きくなかったが、近年では東海地震単独か東南海地震と連動した巨大地震と見られている。
 実は、この日の2年2か月後の1099年2月22日(承徳3年1月24日)に地震が起き畿内を襲っており、短い期間に集中したこの2つの地震について、南海トラフ沿いに起こった、東海+東南海地震と見られる永長地震と、南海地震と見られる承徳(康和)地震が連動して起きたものと考えられていたが、連動地震説の決め手となった土佐国(高知県)で千余町の田が流されたとする記事に信ぴょう性が薄く、大和国(奈良県)興福寺の大門と回廊が倒壊した程度の地震であり、京都付近にほとんど被害ないことから大和の国周辺で起きたローカルな地震と見られている。
 (出典:池田正一郎著「日本災変通志>平安朝後期 154頁:永長元年十一月二十四日」、宇佐見龍夫著「日本被害地震総覧>4 被害地震各論 47頁:038 畿内・東海道」、寒川旭著「地震の日本史>第三章 平安時代後期~室町時代 57頁~60頁:平安時代後期の地震」、石橋克彦著「1099年承徳(康和)南海地震は実在せず、1096年嘉保(永長)地震が「南海トラフ全域破壊型」だった可能性」[追加]。参照:2017年1月の周年災害「嘉保から永長へ改元」[改訂]、2019年2月の周年災害「承徳地震は南海トラフ沿い地震か。」[改訂])

江戸城内の防火細則決まり相触れ、具体的な規定で防火を徹底させる
 1702年12月(元禄15年11月)
 
このたび幕府はハード面の防火体制一段落後、ソフト面の防火体制を江戸城勤務者対象に作成し指示した。
 1604年6月(慶長9年6月)、幕府は政治の中枢拠点として江戸城の大改築を諸大名に命じて取り掛かり、翌1605年1月(慶長9年2月)には、普請中の城内防火体制強化のため“火之番組”を置き、次いで1618年1月(元和4年1月)本丸殿舎(御殿)内が政務を執り行う表の間と将軍が居住する中の間、将軍や夫人に使える奥女中が居住する奥の間(大奥)がそれぞれ仕切られ、大奥が“男性立入禁止”となると、ここに奥女中たちによる大奥専任の“御火之番”が置かれる。
 ついで、1639年9月(寛永16年8月)天守閣を残し本丸御殿が消失するや、火元が大奥の台所だったということもあり、同年11月(同年10月)火之番組を“表火之番”と“奥(方)火之番”に分け、大奥の防火体制を強化し二本立てとした。また翌1640年1月には、本丸御殿工事中に城内で火事が起きた場合、紅葉山御仏殿(将軍家の霊廟)を守る大名を任命したが、これが後に城外の幕府重要施設を守る者までも任命するようになり“所々火消”と呼ばれることになる。
 本丸をはじめ周辺の防火体制を固めた幕府は、3年後の1643年10月(寛永20年9月)、将軍世嗣(後継者)竹千代(四代将軍家綱)が新築された二の丸御殿に移ったので、二之丸専任の“二の丸火之番”を置き、7年後の1650年(慶安3年)9月、成人・元服した世嗣・家綱が、二の丸から世嗣や隠居した前将軍の住居がある西の丸へ移ったので、ここにも本丸御殿と同じように“西の丸表火之番”“西の丸奥(方)火之番”が置かれた。これで江戸城内郭すべてに火之番が置かれた事になり、組織体制つまりハード面での江戸城防火体制の強化は一段落する。
 そして次の江戸城防火体制の強化は、ソフト面つまりマニュアルを定めることになる。
 その手始めが、1643年11月(寛永20年9月)6万石以下の小大名を専任火消部隊とした“大名火消”に、2年半後の1646年4月(正保3年3月)初期消火のあり方と江戸城への防火、消火の任務についての指示であった。それ以後は、江戸城内に勤務する者たちへの防火指示となるが、まず1659年10月(万治2年9月)湯茶の接待役として“火”を日常的に扱う“茶坊主”の業務規程の中に“防火”について規定し、次がこの日「覚」とした江戸城内の防火細則が城内に勤務する者たちへ下される。
 その要点を示すと、1.将軍に使える御番衆は弁当が終わったら、部屋を火の番の茶坊主に確認させること。1.町人が出入りする場所は火の用心を厳重にし組頭が見まわれ。1.火を使う台所などは昼夜に限らず組頭が見まわり、夜中点ける有明行灯を置く場所を除き、すべての行灯を消すこと。1.御膳奉行部屋(将軍の食事の調理、配膳をする部屋)に行水のために火を置くことは廃止し、台所から湯を運ばせて行水をすること。1.表坊主部屋(表の間の湯茶準備部屋)で火を扱うときは、湯吞所の火のそばに六尺(雑役夫)をつけておくこと。1.役人が部屋を退出するときは火之番と立ちあって確認後、部屋を閉じる。1.退出後、小普請方(建築、修繕担当)が天井や床下を調べたのち、(照明の)ローソクを火之番が確認する。以上かなり具体的な内容となっている。その後も城内各場所での細かく規定した防火細則が下され、ソフト面での防火体制を厳重にしていった。
 (出典:高柳真三+石井良助編「御触書寛保集成>御触書寛保集成二十七 783頁~784頁:一五〇四 元禄十五午十一月 覚」、黒木喬著「江戸の火事>第2章 武家火消の発達 30頁~32頁」。参照:1月の周年災害追補版(4)「幕府、柴田康長を史上初、首都政庁の火之番組頭に任命」、同「江戸城大奥男子禁制となり、奥女中による御火之番組編成される」、2019年11月の周年災害「幕府、本丸殿舎全焼を受け、奥方火之番を任命し表火之番と分ける、大奥防火体制強化」、2020年1月の周年災害「幕府、本丸殿舎消失を機に“所々火消”を初めて任命、まず江戸城内将軍家霊廟を守る」、10月の周年災害・追補版(5)「江戸城、本丸に次いで二の丸火之番置かれる」、10月の周年災害・追補版(5)「江戸城、本丸に次いで二の丸火之番置かれる」、11月の周年災害・追補版(3)「幕府、初の組織的な大名火消制度創設」、4月の周年災害・追補版(5)「幕府、大名火消の初期消火、江戸城内の防火、消火要項定める」、2019年10月の周年災害「江戸城茶坊主衆に防火の定め事細かく規定」)

○1707富士山宝永噴火、超巨大地震宝永地震が誘発か。噴火の危険は迫っている真剣に防災を考える時[改訂]
 1707年12月16日~08年1月1日(宝永4年11月23日~12月9日)
 1707年10月28日(宝永4年10月4日)マグニチュード8.6という超巨大地震、それも東海~南海連動地震と言われる宝永大地震が起きた35日後の12月3日(旧暦・11月10日)ごろから、富士山麓の村むらでは、1日に3~4回地響きの様な音が聞こえるようになり、その10日後ごろから火山性地震が頻発し始め、噴火前日の午後からその回数が急増したという。
 宝永大噴火の5年後の1712年(正徳2年)に刊行された江戸時代の百科事典「和漢三才図会」に“十一月二十三日(新暦・12月16日)夜(早朝)、地震二度、鳴動止まず。巳の刻(午前10時ごろ)、富士山焼く(噴火する)。炎高く煙聳(そび)ゆ。焦土(火山礫か)数十里に降り、南は岡部(現・静岡県藤枝市)に至る。艮(北東)は栗橋(現・埼玉県久喜市)。翌日やや止む。また二十五、六日の両日より大焼けす。岩石砕け飛び、土砂焦げ散ず。灰は原(現・沼津市)および吉原(現・富士市)の地を埋めること高さ五、六尺(1.5~1.8m)。江戸の地に至っては高さ五、六寸(15~18cm)。しかし焼け出たる所は大空穴となり、その傍らに小山を贅成す(張り出す)。呼びて宝永山となす”と記されている。
 最近の調査によると、和漢三才図会の記した2度の地震は、山麓で感じた噴火当日の早朝と直前に起きた強い地震を指すようだ。噴火期間中最大の地震は、大噴火翌日の17日(旧暦・11月24日)の日没まもなくと夜半過ぎに2回起きており、特に日没後の地震は、伊勢から名古屋、江戸にかけて震度3~4程度揺れたが、富士山付近での被害の報告はない。また、噴火は一時休止後、12月25日(旧暦・12月2日)夕方ごろから27日(旧・4日)昼にかけて噴火活動の高まりがあり、宝永山が造成されたのは、16日の大噴火の直後のようだ。
 また火山灰や火山礫だが、宝永火口から立ち上がった噴煙は、上空の偏西風に吹かれて東側の南関東一円に広がったとされる。地を埋めた火山灰などの堆積物は、火口から10kmの静岡県小山町で3m、50km離れた神奈川県伊勢原市で30cm、120km離れた千葉県市川市で8cmとなっており、栗橋をのぞき和漢三才図会とは異なる。しかしいずれにしても、この火山灰は、須走から小山、御殿場にかけて、山麓南東から東へ点在する集落を埋め尽くし田畑を荒廃させ、住民の55%を飢えさせた。なお火口から35kmしか離れていない酒匂川各支流や沿岸の田畑も埋めた。
 住民たちは復旧を目指して火山灰をどけ砂捨て場に捨てたが、翌年の雨期になると、それが崩れて同川に流れ出し河床を押し上げた。特に8月7日(旧暦・6月21日)の豪雨で大規模な土石流となり、下流の足柄平野は火山灰混じりの濁流で埋め尽くされるという二次災害を引き起こしている。
 ちなみに、100kmほど離れた江戸に火山灰が12日間も降り、人々は昼間でも明かりを点けたり、目を傷めるなど難儀をしたという。旗本・伊東祐賢は記す“十一月廿三日巳刻時分(午前11時前後)より南西の方に青黒き山のごとくの雲多く出申し候はば、地は震へ申さず候へて震動間もなくいたし、家震へ、戸・障子強く鳴り申し候”“午の中刻(午後1時ごろ)より、ねずみ色の灰のごとくの砂多く降り申し候”“夜に入り候へて降り候砂の色黒く、常の川砂なり、昼夜降り候砂、およそ二、三分(6~9mm)ほど積もり申し候”。
 これによると、噴火の振動で戸や障子が強く鳴ったこと、火山灰が降り積もったこと、などがわかる。これを現代に置き換えると、さいたま、千葉、東京、川崎、横浜などの巨大都市を中心に、建物のガラスが振動で割れる危険性があリ。12日間も降り続いたとする記録から、厚さ5~10cmほど降り積もると推定される火山灰で、空路、陸路、鉄道とも不通となり、救急、消防、警察の車両も動けず、木造家屋は倒壊のおそれがあり、首都圏が大混乱におち入ることが予想される。現在でも北陸など豪雪地帯では、大雪で国道が途絶し車内に何日も閉じ込められている。
 富士山は200~300年の間隔で大噴火を引き起こしている。この宝永大噴火から300年以上経っている現在、噴火防災について国からの情報を確認し準備をする必要があるのではないか。
 (出典:内閣府中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会資料「1707 富士山宝永噴火>第2章 宝永噴火の推移と噴出物」、同専門調査会編「災害史に学ぶ・火山編>1707 富士山宝永噴火」、内閣府防災担当編「広報ぼうさいNo.37>過去の災害に学ぶ(第11回)宝永4年(1707年)富士山噴火」、伊藤和明著「災害史探訪・火山篇>第1章 富士山大噴火20頁~29頁:宝永の大噴火、焼け砂に埋まる村々、足柄平野に大洪水」[改訂]、池田正一郎著「日本災変通志>近世 江戸時代前期>宝永4年 427頁~428頁」、小倉一德編、力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>Ⅳ 火山噴火災害>2 火山噴火災害の事例 395頁~397頁:富士山宝永噴火」、磯田道史著「天災から日本史を読みなおす(先人に学ぶ防災)>第2章 宝永地震が招いた津波と富士山噴火 36頁~57頁:1 1707年の富士山噴火に学ぶ、2「岡本元朝日記が伝える実態」、日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1707・630頁:富士山大噴火、火の石が降る、逃げまどう住民たち」、内閣府編「富士山の火山防災対策」[追加]、中央防災会議編「富士山広域防災対策基本方針」[追加]、鎌田浩毅著「富士山噴火の被害予測と防災」[追加]。参照:2017年10月の周年災害「宝永地震、最大級の東海~南海連動超巨大地震-富士山宝永大噴火誘発か」、2018年8月の周年災害「富士山宝永大噴火二次災害起こる」[改訂])
                                                                                     

〇1833年庄内沖地震、隠岐島から蝦夷地福山まで広範囲に津波被害[改訂]
 1833年12月7日(天保4年10月26日)
 申の上刻(午後3時ごろ)、越後、佐渡(以上新潟県)、出羽国(山形、秋田県)にかけて、酒田沖を震源地とするマグニチュード7.5の地震が襲った。地震後の津波は、遠く隠岐島から能登半島沿岸、佐渡島の相川、蝦夷地(北海道)の福山までと広い範囲に押し寄せている。
 それらによる被害は大きく、特に庄内地方(山形県鶴岡市、酒田市など)では、46人死亡、家屋全壊475軒、同半壊176軒、同破損1352軒、船舶の流出・破損460隻。遠く離れた能登半島の輪島では地震と津波により47人が死亡、家屋全壊111軒、同半壊54軒、同流出207軒、土蔵全壊41棟、同半壊20棟、同流出26棟、船舶の流出・破損98隻の被害となった。被災地の被害合計は、幕府領、藩領それぞれ集計に相違があるので難しいが「日本被害地震総覧」によると、庄内地方、輪島、越後村上藩領(新潟県)を含めて約150人死亡、家屋全壊639軒、同半壊101軒、同破損2262軒、同流出287軒以上、土蔵全壊56棟、同半壊26棟、同破損336棟、同流出31棟、寺社全壊・流失5か所、同損壊39か所、船舶流出445隻、同破損221隻となっている。
 (出典:宇佐見龍夫著「日本被害地震総覧>4 被害地震各論 139頁~141頁:239 羽前・羽後・越後・佐渡」、矢田俊文著「1833年庄内沖地震における叡智後の津波到達点と水死者数」)

明治19年、法定伝染病(感染症)6件のうち4件が明治期最大の流行となる
 富国強兵政策で、環境衛生面でのキャパシティを超えた都会への人口の集中が原因か
 1886年(明治19年)12月
 
この年1886年(明治19年)、1880年(明治13年)公布の「伝染病(感染症)予防規則」で“伝染病”と規定された6つの内の4つの感染症が一斉に流行のピークを迎え、その発症者合計30万3709人は当時の全人口の0.8%を占め、その死亡者14万2465人はこれも全死亡者の18.7%を占めた。
 実は、前年1885年(明治18年)8月、長崎港から侵入し全国に広がった“コレラ菌”が終息せず、明治期最大の流行年となった。15万5923人が発症し10万8405人が死亡している。死亡率なんと69.5%である。それだけでなく、古来よりの国民的疫病“天然痘”も明治以降の近代日本史上最大の流行年となり7万3337人が発症、1万8676人が死亡。また“腸チフス”も明治期における大流行のピークの年となり6万6224人が発症、1万3807人が死亡。さらにシラミによって病原体が媒介される感染症として知られている“発疹チフス”も、なぜかこの年に流行のピークを迎え8225人が発症、1577人が死亡している。
 なぜこの1886年(明治19年)にこのような事態になったのか、明治維新19年目である。
 偶然もあろうが、一般的に言えることは、当時の明治新政府が国家の自立を促す中心的な政策として、富国強兵政策を1873年(明治5年)の学制改革を皮切りに翌1974年(明治6年)には徴兵制と新税制を発布するなど、近代化を目指して精力的に進めてきたが、政策実施13年がたち、一つの事例として衛生面などに矛盾が出てきたと思われる。
 たとえば、京都を除く当時の大都市が急速に工業地帯と化し、地方農村から大量の人々が流入、にわか仕立ての大工場に、にわか仕立てで衛生面を考慮しない宿舎が併設され、そこで長時間労働が行わたこと。社外に住宅を得た労働者も低賃金のため、工場のそばにこれも非衛生な住宅街を作らざるを得なかったこと。また地方の中心都市には軍隊の師団や連隊司令部が置かれ、徴兵された兵士たちの兵舎住まいが始まる。さらに各県に開設された、教師養成の師範学校や中学校(旧制)にも学校寮が併設されたが、それらは大勢の若者を預かる施設としては、かならずしも衛生的とはいえなかった。
 いうなれば、当時の都市の水道や下水処理など生活環境衛生面のキャパシティを超えて、急速に人口が集中したこと。その上、行政機関での労働者保護、環境面の整備も追いついていなかったことも大きい。ちなみにわが国で近代的な水道と下水道が始めて開通したのは、この感染症大流行の翌1887年(明治20年)横浜においてで、東京が江戸幕府の水道から脱却できたのはそれから11年遅れた1898年(明治31年)11月のことである。
 一方、医療衛生面では、伝染病(感染症)予防規則で予防措置が規定されたが、当時はいまだ感染症の病原体が正確に把握されておらず、当然のことながら、それらを抑えるに足る薬品も医療技術も開発されていなかったので、発熱や下痢などを抑える対症療法で対応せざるを得なかった。伝染病研究所が設立され“其の病毒が人身に害を為すことの出来ぬようにする方法を研究いたす”事業が始まったのは、6年後の1892年(明治25年)12月のことである(下記参照)。また労働者のための病院らしい病院は、事業主ではなく、労働者が自分たちで資金を出し合った共済病院が、11年後の1897年(明治30年)5月、三菱生野鉱山に開設されたのが最初であった。
 (出典:厚生労働省編「年次統計>総人口、同編「死亡数」。参照:2015年8月の周年災害〈上巻〉「明治18年コレラ大流行、長崎港から侵入」、2016年5月の周年災害〈上巻〉「明治19年コレラ最大級の流行、死亡者10万人を越し死亡率70%」、12月の周年災害・追補版(3)「天然痘、この年以降3年間、明治時代最初の大流行」、2016年12月の周年災害「この年、腸チフス明治時代最大の流行、6万6000人余に感染」、12月の周年災害・追補版(3)「発疹チフス、この年だけ明治期最大の爆発的流行」、2020年7月の周年災害「感染症法につながる伝染病(感染症)予防規則公布」、2017年10月の周年災害「横浜でわが国初の近代水道完成」、2018年11月の周年災害「東京市、市内の水道改良と消火栓設置工事大部分完成」、2017年5月の周年災害「三菱生野鉱山で共済組合病院、わが国初の労働者共済組織の病院設置される」)

北里柴三郎を迎え大日本私立衛生会が初の伝染病研究所を設立-文部省所管に現在の東京大学医科学研究所へ
 北里は初志を貫くため北里研究所を設立[
改訂]
 1892年(明治25年)12月3日
 1883年(明治16年)5月、日本赤十字社の創立者・佐野常民を会頭に、初代文部省医務局長及び初代東京医学校(現・東京大学医学部)校長の長与専齋を副会頭に推して、当時の医療関係者1500人余が参加した大日本私立衛生会(現・日本公衆衛生協会)が発足した。
 会頭の佐野常民は挨拶の中で“能く衛生の道を講じて疾病の患(わずらい)を防がば彼(欧米人のこと)に下らざる健康の民と為り開明富強の国を成すべきは複く疑いを容れず”と明治の民らしく“健康立国”を宣言、以降、同会は政府の繰り出す公衆衛生政策を民間として側面的に援助する方向でその事業を進めた。
 ドイツから帰国した北里柴三郎を初代所長に迎えてこの日伝染病(感染症)研究所を設立したのも、同会の基本方針に基づいている。副会頭の長与専齋をはじめ同会の研究者たちは“其の病に固有したる病毒を見付け出して、其の見付け出したる病毒を剋制(克服し制御)、其の病毒が人身に害を為すことの出来ぬようにする方法を研究いたす(長与専齋)”ための研究所の創立を考えていたが、1990年(明治23年)11月にドイツのロベルト・コッホが結核菌を培養してツベルクリン(菌ワクチン)の創製に成功し、その功績からドイツ国会が設立費を支出して伝染病研究所(現・ロベルト・コッホ細菌研究所)が設立されたことを知ったのである。一方北里も“其の研究の方法其の緒に就きたる以上には其の原因を検索し其の予防治療法を講究することは誠に必要止む可らざるものにして”と日本における伝染病研究所の必要性を訴えていた。
 その後1992年(明治25年)に入り同会では、そのコッホに師事し数々の業績をたてた北里柴三郎が5月下旬に帰国したことを知り、早速、日本でも政府において内務省(現・厚生労働省)内に伝染病研究所を設立し北里に託す案を中央衛生会(内務省の審議機関で衛生制度等を審議)に建議したが、国の機関となると帝国議会(現・衆議院)の協賛を得なければならず、そうすると設立が2年先になることを知った。
 “国会の協賛を経るまで(中略)待って居る訳には行きません、北里君其の人をば日本に持って居って無益に因循して居ると云うことは如何にも残念なことである(長与専齋)”と、大日本私立衛生会がみずからの付属研究所として設立することになり、慶応大学の創立者福沢諭吉に相談したという。これを聞いた福沢は“かような事は一刻も遅疑すべきことではない、金を集めて後に仕事をするよりは、仕事をしてから後に金を集めた方が宜しい(長与専齋)”と直ちに行動に移し、10月初旬には、芝公園の御成門脇の福沢の借地内に研究所を建てることを決め、早速大工を手配、わずか2か月弱のこの日、開設の運びとなった。これはドイツのコッホ研究所に次ぐ世界で2番目の伝染病に特化した研究所だったという。
 こうして発足した“私立衛生会付属伝染病研究所”は、7年後の1899年(明治32年)国の予算を得て内務省所管の国立伝染病研究所となり、同研究所が文部省(現・文部科学省)に移管されることを知った所長の北里は、本来の目標を遂行できるか否か懸念を抱き、1914年(大正3年)北里研究所を設立、伝染病研究所は予定通り2年後の1916年(大正5年)文部省に移管され東京帝国大学(現・東京大学)付属伝染病研究所(伝研)となった。
 太平洋戦争(1941年~45年)直後、敗戦の極度に疲弊した中で我が国の衛生状態は極度に悪化、多数の感染症がまん延していた。国としてこの状況を打開するべく1947年(昭和22年)、厚生省(現・厚生労働省)所管の国立予防衛生研究所(予研)が設立され、東大付属の伝研は1967年(昭和42年)東京大学医科学研究所に改組され現在に至っている。
 予研ではその後、1961年(昭和36年)に当時流行していたポリオに対処する施設として村山分室を開設、1984年(昭和59年)には答申にもとづき組織の全面的見直しを行った上、1992年(平成4年)新宿区戸山の新庁舎に移転、1997年(平成9年)4月名称を国立感染症研究所に改名、現在に至る。
 (出典:大日本私立衛生会編「大日本私立衛生会雑誌第1号・3~7頁:佐野常民・祝詞」、「同誌第110号・501~509頁:北里柴三郎著・伝染病研究所設立の必要」、「同誌第114号・1~21頁・長与専齋著・伝染病研究所の創立」、北里研究所編・THE kitasato「北里柴三郎資料館52:北里柴三郎博士と大日本私立衛生会」[追加]、竹田美文著「明治・大正・昭和の細菌学者達〈3〉北里柴三郎-その2>Ⅰ.私立大日本衛生会伝染病研究所」[追加]、㈶日本公衆衛生協会編「一般財団法人日本公衆衛生協会の歩み>Ⅰ 大日本私立衛生会時代」[追加]、東京大学医科学研究所編「医科研の歴史」[追加] 、国立感染症研究所編「国立感染症研究所 概要>Ⅰ.沿革」[追加])

大阪紡績会社三軒家工場火災。災害を逆手に最新式紡績機を導入、深夜作業で業績を上げ“模範工場”に成長
 各社それを見習い「女工哀史」の時代を作るーようやく25年後「工場法」で一応歯止め(120年前)[改訂]
 1892年(明治25年)12月20日
 
この日、紡績業界のトップを走っていた大阪紡績会社三軒家工場が大火災を起こした。
 第二号工場2階南端にある第39号ミュール紡績機の運転が突然止まり火を噴き、こわれたガラス窓から吹き込んだ風によってあたり一面が火の海と化し、火元の二号工場を始め一号工場も全焼した。特に二号工場3階の綛場(かせば:製品の仕上げ工場)で多くの女子工員が作業をしていたが、火の回りが早く、逃げ場を失い階段で折り重なって倒れていたという。95人死亡、22人負傷、紡績機3万台焼損。
 明治の初期、綿製品は日本最大の輸入品だった。そこで明治10年代(1876年~85年)政府は同製品の国内生産化を進めるため、紡績業の育成を国策として取り上げ、2000錘(糸を紡ぐ部分)紡績機を輸入し、資金面での保護奨励を行った。しかし2000錘という規模の小ささや、水車を原動力とすることからくる立地条件の制約、国産原料の不適正、経営、技術上の未熟などあり、成功しなかった。
 その中で、第一国立銀行頭取・渋沢栄一は輸入綿糸の巨額なことに驚き、当時の代表的な綿関係商人や貿易商に呼びかけ、旧大名華族たちの遊休資金を活用し、最新の蒸気を原動力とする錘数1万500錘の紡績機を設備した大規模な大阪紡績会社(現・東洋紡)を設立、1882年(明治15年)11月、大阪三軒家に工場を落成、翌年7月に操業を開始した。そしてほどなく工場の照明に危険な石油ランプを廃止し当時めずらしい電灯を採用、10台前半の少女を雇用し深夜作業も積極的にやらせた。それにより生産は増加しコストは引き下げられ、業界のトップを走る模範的な民間紡績会社へと成長した。
 ところがこの日の大火災である。一挙に紡績機3万台を失ったが、同社ではこの災害を逆手にとり、最新式の紡績機導入のチャンスととらえて刷新しいっそう業績を上げたという。
 この成功を民間をはじめ官営の紡績会社も見習い、最新鋭の紡績機械を設置、照明を明るくし貧しい農村地帯から低賃金で10代前半の少女を雇用、24時間操業による生産体制を作り上げた。それらにより繊維産業は日本を代表する産業に発展し有力な輸出産業に躍り出たが、いわゆる女工哀史の時代に突入、1900年(明治33年)には、光明寺村織物工場女工焼死事件を引き起こす。
 この悲惨な状況を一応歯止めにしたのは、1916年(大正5年)9月施行の、骨抜きにされ例外規定を含みながらもわが国初の労働者保護法規として成立した「工場法」で、その中心に規定されたのが、15歳未満の者および女子の12時間以上の就業と深夜就業の禁止条項(第2条、第3条、第4条)であった。 
 (出典:大阪府編「大阪百年史・471~476頁:近代紡績業の生成」。参照2020年1月の周年災害「光明寺村織物工場女工焼死事件」、2016年9月の周年災害〈上巻〉「わが国初の体系的な労働者保護法規「工場法」骨抜きされようやく施行」)
 

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(2022.12.5.更新)

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