【目 次】

・平安京で咳病(インフルエンザ)大流行、鳥羽上皇以下宮廷内でも大流行し勤務する人なく(870年前)[改訂]

・天正8年秋。神通、常願寺両川大氾濫-佐々成政、治水事業に全力、佐々提に名を残す(440年前)[改訂]

・初の船舶検査制度「小形旅客汽船取締心得書」制定、海難防止目指す(140年前)[改訂]

・練習船「月島丸」遭難沈没事故。駿河湾で暴風雨に遭遇、乗組員120人行方不明のまま(120年前)[改訂]

・北伊豆地震、丹那トンネル工事中の激震、伊豆半島北部から中部にかけて被害集中(90年前)[改訂]

・東京消防庁、消防無線運用開始し迅速かつ効果的な消防活動へ-近年スマホによる緊急通報登場(70年前)[改訂]

・国鉄湯前(ゆのまえ)線多良木駅構内貨車・列車衝突事故、ヒューマンエラーによる(50年前)[改訂]

・川治プリンスホテル雅苑火災、ホテル火災最大の犠牲者を出す、ホテル側の低い防火意識(42年前)[改訂]

豊島(てしま)産廃事件、豊島開発が廃棄物処理法違反容疑で兵庫県警の強制捜査受ける(30年前)[追補]

・片山知事提案し鳥取県議会が、全国初画期的な被災者向け住宅復興補助金制度を可決成立(20年前)[改訂]

・オーストリアケーブルカー火災、車両に使用禁止の家庭用暖房機を解体、作動油配管付近に設置(20年前)[改訂]


【本 文】

平安京で咳病(インフルエンザ)大流行、鳥羽上皇以下宮廷内でも大流行し勤務する人なく(870年前)[改訂]
 1150年11月23日(久安6年10月26日)
 
鳥羽上皇の命により、藤原信西が編さんした歴史書「本朝世紀」の久安六年十月廿六日(新暦・11月23日)の項に“近日、咳病蜂起、貴賎上下、敢無免者老若多以妖亡、民庶粗死亡、近年以来第一咳疫也”とある。
 つまり、ちかごろ、咳病(インフルエンザ)が大流行している。(この病にかかる人は)貴い方も一般の人も身分の上下もない。老いた人も若い人もその多くは、この妖(わざわい)から亡(逃れる)ことは出来ない。庶民の粗(あらまし)が亡くなっている。ここ数年来第一のインフルエンザだ。と。
 「本朝世紀」は翌11月28日(新・12月25日)の項で宮中での咳病による動静を記録しているが、咳疫のことで祈祷したことをまず伝え、ついで鳥羽上皇が咳病で政務を聞く表の間に出御されなかったこと、朝廷内の官人たちも上下を問わずこの病にかかり、勤務している人がほとんどいなくなった(凡近日上下諸人莫不嬰此病之者禁中及院中已以無人云々)と伝えている。
 「本朝世紀」には具体的に何人がインフルエンザに罹り、何人が死亡したとは記録していないが、当時の平安京の人口は17万5000人と推定されており、そこから推して数万人単位の人が罹り、死亡したと思われる。
 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション・国史大系.第8巻「本朝世紀>近衛天皇 800頁、803頁(406コマ、407コマ)」、富士川游著「日本疾病史>流行性感冒>疫史 251頁~252頁:久安六年」)

天正8年秋。神通、常願寺両川大氾らん-佐々成政、治水事業に全力、佐々提に名を残す(440年前)[改訂]
 1580年11月初旬(天正8年9月末)
 
1909年(明治42年)9月発行の「富山市史」に、佐々成政時代の“天正八年秋”の項に次の記述がある。
 “霖雨連日止マズ、大ニ出水ス、舊(旧)来神通川ハ呉服山ノ麓ヲ流レシガ、是時ヨリ河身東ニ轉(転)ジ、富山城後ニ傾注セシト云フ、又常願寺川モ氾濫シテ富山城ヲ浸シ家屋漂流シ、人馬ノ溺死算ナシ、城主成政大ニ之ヲ愁ヒ、其後水患(水害)ヲ除カント欲シ、被害地ヲ巡検(視察)シテ大ニ治水ニ力ヲ致シ、馬ヲ馬瀬口ニ進メテ自ラ人夫(工事労働者)ヲ指揮シ土石ヲ運搬セシメ、紀(記)念トシテ巨岩ニ己ガ氏名ヲ刻ミ、之ヲ河底ニ埋メ、其上ニ堅固ナル石堤(敷石二十五間)ヲ築キ且ツ新ニ洪水ノ爲(為)メ分派セル支川ヲ鼬(いたち)川ト名ヅケ、原野ヲ開墾シ禾穀(米)ヲ植エシム”
 戦国時代末期の1580年秋(天正8年秋)、大雨が連日続き、もともと神通川は呉服山(現・呉羽山公園)の麓を流れていたが、この大雨で氾濫、川筋の中心が東の方へ1kmほど移り、富山城の後ろ(西側)を流れるようになった。また常願寺川も大氾濫を起こして両川の川水がつながり、富山城をはじめ城下をひとのみにし“家屋漂流シ人馬溺死算ナシ(数え切れない)”という大災害となった。
 ともに大氾濫を起こした神通川も急流として知られているが、常願寺川の源流地帯は地質がもろい火山帯の上3000m級の立山連峰で、川の流路は56kmと短く河床の平均勾配は30分の1というかなりの急勾配である。日本近代砂防の父と呼ばれているヨハニス・デ・レーケがこの川を見て“これは川ではない、滝だ!”と言ったという伝説が残されているほどの急流である。
 神通、常願寺両川が流れる越中国(富山県)は、鎌倉時代以降、神保氏が畠山氏の守護代として統治していたが、実態は一国支配ではなく、その土地は皇室の公領や貴族、神社仏閣の荘園などに細分化されていた。そのため河川の氾濫に対する統一的な対策が講じられることはなく、その土地に住み土地の管理や耕作をしている土豪(土着武士)、名主、農民たちが、それぞれの村落の周囲に土手を築き洪水から守っていたが、自分の村を守るためにはよその村の堤防を破壊することまでやっていたという。
 当時、神保氏を援け上杉勢と対峙し越中国に馬を進めていた織田軍の部将佐々成政は、同国を統一し治めるためには抜本的な治水事業計画が必要と考え、まず神保氏とともに決壊した常願寺川の馬瀬口あたりまで出向き、村民たちの意見を取り入れ、川と周囲の状況を見定めた。計画実行時には、みずから作業者を指揮して土石を運搬させ、流れを制御して堤防を守り氾らんを防ぐ、堅固な不連続の堤防(霞堤)を築かせた。
 この工事には大勢の人出が必要だった。佐々、神保両氏の家臣はもちろん、織田領に統一された沿岸の村々から村民を動員、山から堤防用の大石や流れを制御する蛇篭(じゃかご)用の杉や竹を切り出し運搬する。川中に締切土手を築いて流れをせき止め、堤防を築き蛇篭を設置する。その堤防の敷幅25間(45m)、高さ5,5間(10m)、長さ80間(145m)、上面の天端20m(馬踏11間)の巨大なものである。それを流水を制御できるように川面に対しそれぞれ斜めに配置、総延長は2kmに及んだという。沿岸の村人たちはこの堤防を“済民提(民の難儀を救うために築かれた堤防)”と呼び、成政の徳をしのんだ。
 また同時に成政は、今後の洪水に備えるため、神通川に通じる“いたち川”を改修、川水を灌漑用水として活用、流域の広い川原を開拓して農地とした。あわせて流域にある富山城の守りも固めている。
 工事に2年をかけたそれら、堤防は“佐々堤”とも名付けられ、前田氏治世の江戸時代を通じて村人たちの手で守り抜かれ、1893年(明治26年)農業用灌漑用水としてデ・レーケの指導で建設された常西用水は、護岸の根固めのために佐々提の天端をそのまま利用した。また、いたち川は桜の名所となり市民の憩いの場所となっており、現在、常願寺川を守る国土交通省富山河川国道事務所上滝出張所の人たちは、この治水事業を偉業としている。
 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション「富山市史(明治42年版)>佐々成政時代 8頁~9頁(16コマ):〇天正八年秋」、富山市民文化事業団編・とやま百川・遠藤和子著「佐々堤といたち川」[追加]、貴堂巌著「常願寺川の佐々提について」[追加]、遠藤和子著「佐々成政<悲運の武将>の実像・174頁~208頁:5 佐々提-現代に残る成政の善政」[追加]。参照:2012年9月の周年災害「天文甲州釜無川大水害-信玄堤築堤へ)

初の船舶検査制度「小形旅客汽船取締心得書」制定、海難防止目指す(140年前)[改訂]
 1880年(明治13年)11月29日
 明治政府は、1870年2月27日(明治3年1月27日)付「太政官布告第57 商船規則」の前文の中で“一体日本製造之船は度々難破之患も有之(これあり)人名荷物之損傷不少(すくなからず)詰り皇国之御損失与(あたえ)相成候に付(つき)”とし“追而(ついて)は不残(のこらず)西洋形之大船に仕替度(とりかえていく)御趣旨に付”とかなり大胆な革新をせまる指摘で、通運を担う商船の西洋型船舶への切替を奨励する方針を示し、船(ふな)免状、船舶検査、国旗掲揚、海上礼式、船舶衝突に関する注意、運上所(現・税関)など船舶運航に関する一般規定を初めて定め交付した。
 その後順調に西洋型船への切替は進んだが、海難(海上での遭難)発生件数はいまだ多く、国内の政務をつかさどる内務省は、1874年(明治7年)10月30日付の同省第140号達で、日本近海において難破した内外国船員数を調査、毎年1か年分を取りまとめ、翌年2月15日までに報告するよう、沿海各府県に指示した。
 その内務省への報告によると、1876年(明治9年)から1882年(明治15年)にかけて7年間の遭難者は、汽船(西洋型)230人、西洋型帆船178人、日本型船1908人となっていた。
 この状況を受け政府は、海難を防ぎ、航行の安全を確保するためには、西洋型船でもそ船が航海に耐える能力があるか否かについて検査する「船舶検査制度」を設ける必要があると判断、特に危険が多く競争の激しかった、瀬戸内海を通航する小型旅客船を主な対象にした初の船舶検査制度「小形旅客汽船取締心得書」をこの日制定し、内務省地方庁で検査を行わせ、検査証書を交付するようにした。
 その内容は、船体や所属品及び汽機(蒸気機関)の安全上の整備、中でも出入り口の位置や密閉扉の設置、舷側の欄干や窓に堅固な扉の設置、海水を排出する汚水喞筒(ポンプ)、端舟(救命用ボート)や羅針盤、浮子の用意、消防器具など安全用設備等を整備させ、乗員の定員などを定めている。
 (出典:内閣府(防災担当)編・中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書「1890エルトゥールル号事件>第1章 「エルトゥールル号事件」に至る歴史的背景>第1節 明治時代の海難対策>明治時代初期の海運、海難発生状況、船舶検査制度」、国立国会図書館デジタルコレクション・法令全書.明治3年「太政官布告第57号 郵船商船規則別冊 24頁~33頁(44コマ):商船規則」、同コレクション・法令全書.明治13年「内務省 達 945頁~947頁(522コマ):乙第45号 小形旅客汽船取締心得書」)

練習船「月島丸」遭難沈没事故。駿河湾で暴風雨に遭遇、乗組員120人行方不明のまま(120年前)[改訂]
 1900年(明治33年)11月17日
 長崎三菱造船所(現・三菱重工業長崎造船所)で建造され、1898年(明治31年)5月に竣工し試運転を行った「月島丸」は、横浜港に回航され東京商船学校(現・東京海洋大学)の練習船として出発した。
 1900年(明治33年)11月13日、学生79人を乗せて室蘭港を出港し静岡県清水港を目指した同船は、17日突然、消息を絶ってしまった。
 学校では直ちに捜査本部を設け捜索を開始したところ、15日16時、宮城県金華山沖を通過した事がわかり、金華山沖を通過した当時の風向き、その風力と同船の航進力などを分析、17日に起きた大暴風に遭遇したと判断、当時水運事業を管轄していた逓信(ていしん)省管船局(現・国土交通省海運局)が所属の沖縄丸を、海軍省(現・海上自衛隊)が二等巡洋艦・橋立、同・吉野、装甲巡洋艦・常盤の諸艦を投入、小笠原諸島及びその付近を捜査したが、発見することができずむなしく帰港していた。
 ところがその後、静岡県仁科村(現・西伊豆町)役場から、沖合で同船名を記したカッターが見つかり村民が拾得したとの連絡が入り、同船は駿河湾内を航行中、暴風に遭遇し沈没したものと推定された。
 しかし、同県静浦村(現・沼津市)海岸で船長と他の沿岸に給仕の死体が打ち上げられ発見されたのみで、学生を含め乗組員120人は行方不明のまま捜索は打ち切られている。
 余談だが、八代亜紀の名唱「舟歌」の中にある「ダンチョネ節」の“ダンチョネ”は“断腸ね(身を切られるほどつらいのだ)”で、この沈没事故に由来するとの説があるが、弔辞の一節からとったものなのか。元歌といわれる民謡の三浦半島の漁師達の方言なのかよくわからない。
 (出典:東京商船大学編「東京商船大学百年史>第2章 東京商船学校(商船学校)>第5節 苦難時代の航海練習 161頁~162頁:月島丸の遭難」、神奈川県民謡「ダンチョネ節」)

北伊豆地震、丹那トンネル工事中の激震、伊豆半島北部から中部にかけて被害集中(90年前)[改訂]
 1930年(昭和5年)11月26日

 伊豆半島北部では前震が著しく続き、11月7日、当時の文部省三島測候所(現・気象庁三島特別地域気象観測所)が無感ながら2回の地震波を記録、11日からその数が増え13日には有感地震もまじり総じて実に2200回を超えたという。そして25日になると午後4時から6時のあいだに、最大マグニチュード5の地震を中心に26回の有感地震が記録され、翌早朝4時2分、この7.3の大地震となった。
 この地震は、伊豆半島中北部を南北に走る丹那断層の活動により起きた内陸直下地震で、震源の深さは約2kmと浅く、約35kmにわたり地表の東側が北へ西側が南へ動く左横ずれの地震断層を生じ、水平変位(ずれ)は丹那盆地で最大約3.5m、上下の変異は最大約2.4mに達した。被害は特に伊豆半島北部から中部にかけて集中、狩野川が流れる田方平野では家屋の倒壊が続出、同川中流部の中伊豆山間部では大規模な山崩れやがけ崩れが多発するとともに陥没や隆起、地割れなどを生じた。
 田方平野なかでも地盤の軟弱な韮山村(現・伊豆の国市)では、住家の全壊率が30%以上に達し、その周辺では倒壊率が90%を超えた集落もあり、住家全壊517軒、75人が死亡(静岡県史)と最大の被害を受けた。また中伊豆の修善寺町(現・伊豆市)奥野山で起きた地すべりは、一時狩野川をせき止め、あたりを湖水のようにしたという。伊豆地方全体の被害、255人死亡、743人負傷、住家全壊2073軒、同半壊4104軒、同焼失74軒(静岡県史)。そのほか箱根にも被害が及び箱根離宮の日本館が倒壊するなど13人死亡、6人負傷、住家全壊70軒、同半壊118軒(日本被害地震総覧)の被害となっている。
 また、山崩れや崖崩れによる道路の寸断、路面の亀裂や陥没、橋げたの落下や破損などがいたるところで発生、中でも田方平野を走る駿豆鉄道(現・伊豆箱根鉄道)では線路の湾曲や築堤の沈下などが発生、三島町駅(現・三島田町駅)が崩壊、伊豆長岡駅では駅舎が倒壊焼失している。
 実は当時、東海道線は現在の御殿場線を経由していたが、京浜から中京を経て京阪神に達する日本の大動脈として発展していたので、時間を短縮させ輸送力の増強を図るため、遠回りで急勾配の御殿場経由をやめ、伊豆半島最北部の丹那盆地を横断し熱海と沼津を直結するトンネルの掘削を計画した。
 1918年(大正7年)3月着工する。ところが豊富な湧水を誇る丹那盆地の地下である、掘削工事は大量の湧き水に悩まされる。また南北に走る丹那断層を東西に横切る形に掘削したので、工事は難航し1921年(大正10年)4月に熱海口で、1924年(大正13年)2月には三島口で崩落事故が発生32名が犠牲になるなどそれまでに64人の犠牲者を生んでいたが、地震はこの工事の最中に起き3人の犠牲者を増やした。掘削中のトンネルは地震断層の影響を受け2.7mもずれてしまい、あとからS字状につないで1934年(昭和9年)12月、16年余の歳月を経て開通した。
 (出典:宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧>4 被害地震各論 298頁~302頁:北伊豆地震」、伊藤和明著「災害史は語る No.138 丹那断層と丹那トンネル」、同著「災害史探訪・内陸直下地震編>第5章 昭和初期の内陸直下地震>2 北伊豆地震と丹那断層」[追加]、静岡県編「静岡県史 別編 2自然災害誌>第3章 静岡県の自然災害さまざま>第10節 北伊豆地震」[追加]、小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅲ章 地震・津波被害>3 地震・津波災害の事例 327頁~329頁:北伊豆地震」[追加])

○東京消防庁、消防無線運用開始し迅速かつ効果的な消防活動へ-近年スマホによる緊急通報登場(70年前)[改訂]
 1950年(昭和25年)11月8日
 東京消防庁は、1948年(昭和23年)3月、警視庁消防部から分離独立したが、この当時はいまだ独立した庁舎は持たず警視庁の一部を間借りしていた。しかし装備の近代化は着々と進めていた。
 例えば1949年(昭和24年)3月、本部内に緊急通信回線119番120回線、指令線300回線の収容能力を有する指令台7台からなる指令電話装置を設置、それまで各消防署所で受信していた緊急通報119番を、集中して受信管理する方式に改め、各消防署所には、指令電話装置の端末機として音量増幅、送話、確受(出動指令確認)のキーのついた指令電話機及び望楼(火の見やぐら)用指令電話機を設置し、火災や救急業務に関する通報と管下消防署に対する出動(消防では出場)指令を有機的に結合したシステムを開発、消防・救急活動の効率化を図り、通信司令室(現・災害救急情報センター)として業務を進めていた。
 この日は、麹町消防署内に移転した消防本部に基地局を設け、全真空管式無線機を搭載した消防無線車を日本橋、芝、下谷(現・上野)、豊島、向島各消防署に配備し、基地局から火災現場に出動した各消防無線車に対して、現場活動に必要な情報をタイムリーに送信したり、災害現場から災害状況の報告や応援要請などを受信して各署に指令できるようにした。それにより各消防無線車間の通信も可能となり連携動作も効率的に行われ、より迅速かつ効果的に消防活動が行われるようになった。
 さらに1976年(昭和51年)1月、大手町本部庁舎完成に合わせ、同年4月、汎用コンピュータを導入、従来の情報交換機能に加え、消防部隊や救急病院の現況表示、あるいはテレビ、記録媒体のマイクロフィルムなど各種表示装置を有機的に結合させ、管制員の判断を容易にするとともに、災害緊急情報を総合的に分析処理できるシステムを導入するなどIT化を進めた。
 また近年“スマホ時代”を迎えて、より早く具体的に消防本部へ緊急通報が行えるようになった。つまり、火災や事故、救急救護の必要な人を発見した場合、手近に電話機がなくても、いつも携帯している“スマートフォン”による相互通信可能な“ライブ119”システムで、現場写真も含めた緊急通報が可能となり、これに聴覚や言語機能障害のある人が“火事”“救急”の別と、通報者として位置情報を入力さえすれば、直ちに緊急通報が行える“ネット119緊急通報システム”も加わり、目撃者からの緊急出動要請が具体的かつ幅広くなっている。
 東京消防庁では、東京都内からの119番通報は、23特別区からのは千代田区の本部庁舎内の特別区災害救急情報センターで、多摩地区からのは、立川市の第八消防方面本部庁舎内多摩地区同センターで情報を集約し、それぞれ出動指令を行っているが、事実2019年(令和元年)中の119番通報は99万2615件、1日平均約2700件、約30秒に1件の割合で対応、そのうちの55%の54万6005件がスマホなど携帯電話やPHSからの通報で、80%の79万3810件が救急の出動要請となっている。
 このように、従来の固定電話に加えスマホなど新しい簡易なIT機器の登場で、同年中の救急車の出場件数は82万5929件、1日平均2263件、約38秒に1回の出場と史上最高を記録、搬送人員は73万1900人と、多くの人命が救出される機会が増えている。
 (出典:東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の消防百年の歩み>現代(1)>通信機構の整備 386頁~367頁:無線施設の整備拡充」[改訂] 、東京消防庁編「消防雑学事典・消防活動のライフライン」、近代消防社編「日本の消防1948~2003・年表3.消防設備・研究開発編>昭和25年 255 頁:11月8日→消防無線車を運用開始」、総務省消防庁編「Net119緊急通報システム」[追加]、東京消防庁編「災害救急情報センター」[追加]。参照:2019年3月の周年災害「東京消防庁、通信指令室設置、緊急通報受付と出動指令を本署で一本化」[追加])

○国鉄湯前(ゆのまえ)線多良木駅構内貨車・列車衝突事故、ヒューマンエラーによる(50年前)[改訂]
 1970年(昭和45年)11月15日
 日曜日の朝、熊本県の国鉄湯前線(現・くま川鉄道湯前線)人吉方面から多良木駅に向かっていた3両編成ディーゼルカー第623D列車が、同駅下り場内信号機の約170m手前で赤信号であることを目撃、緊急停車した。9時47分、乗務員は約60km/時の速度で多良木駅を通過し、同列車めがけて突き進んでくる2両の貨車を目撃したが、避けることもできず衝突され10mも押し戻された。
 同列車には、当日が日曜日でもあり、七五三姿の子供連れや秋祭りに向かうお年寄りでにぎわっていた。しかし不意の衝突に逃げる間もなく、111人の乗客と乗務員1人が重軽傷を負った。衝突した貨車には約34トンの木材が積載されており、衝突の瞬間、衝撃で木材数本が列車の運転席につき刺さったという。
 同列車に衝突した2両の貨車は、現場から7.5km離れた同線湯前駅から、多良木駅まで最大10パーミル(1000mにつき10m:1%)の下り勾配であったため、惰性で暴走してきたものとわかった。
 暴走の原因は、湯前駅1番線に到着した10両編成の第371貨物列車が、同駅で4両を開放し、9時34分ごろ、3番線に入り停車中の14両編成の貨車と連結しようとしたところ、作業準備のため連結が解かれた上ブレーキも緩かった後部の多良木駅方面側貨車2両が、衝撃で突然動き出し本線を同駅方面へ走り出した。
 貨車の入れ替えを監視中だった湯前駅長がこれを発見、約70~80m追走したが間に合わず、駅本屋に戻り9時43分ごろ多良木駅に急を告げが、他の駅職員に通報せず自ら追走したため、連絡するのが遅くなったとされている。
 一方連絡を受けた多良木駅では、当駅に接近中で1番線に入る予定の第623D列車に停止信号を出し、発見した湯前方面より当駅400m先までに接近中の貨車2両を、2番線に誘導しようとして失敗、貨車は1番線を通過し停車中の列車と衝突した。
 (出典:吉田裕著「国有鉄道時代における鉄道事故の研究:ヒューマンファクターの視点から>第2章 ヒューマンエラーに起因する鉄道事故の分析>第4節 同種事故の発生が懸念される鉄道事故の分析 105頁~110頁:(2)湯前線多良木~東免田列車衝突事故」[追加]、1970年11月16日付、朝日新聞朝刊「貨車暴走、気動車に衝突、湯前線熊本で」)

川治プリンスホテル雅苑火災、ホテル火災最大の犠牲者を出す、ホテル側の低い防火意識(40年前)
 1980年(昭和55年)11月20日
 午後3時15分ごろ、栃木県藤原町(現・日光市)川治温泉の川治プリンスホテル雅苑本館1階西側大浴場天井付近から出火、炎は一挙に燃え広がり、鉄筋一部木造4階建ての新館及び旧館と木造2階建ての別館の2棟、3582平方mを焼き尽くす大火となった。
 当日の宿泊客はお年寄りが多かったこともあり、逃げ遅れて40人が死亡、また同館従業員5人が死亡したがその8割が女性で、宿泊客など22人が負傷するホテル火災としては最大の犠牲者を出した。
 火事の直接の原因は、新館1階西側大浴場・婦人風呂外側で、建設会社作業員が外壁の転落防止用鉄柵改修のため、アセチレンガス溶断機を使い作業をしていたが、その火花が外壁の間に入り隙間から出火、午後3時15分ごろには炎が壁伝いに上昇し、婦人風呂屋根裏に燃え移った。
 火災の最初の発見者は、お客を送り届けて居合わせた観光バスの運転手で、たまたま2階の廊下に出たとき、西側大浴場へ行く階段付近で異臭を感じ、すぐさま東側1階のフロントへ通報、確認のため二人で2階西側218号室の窓から下を見て白い煙が出ているのを発見、フロント係が午後3時34分、119番に緊急通報した。
 ところがその間、炎は1階屋根裏から新館2階への階段の天井や側壁を伝わり、2階廊下から連絡通路を経て東側旧館へと拡大していた。また炎は2階から4階まで吹き抜け状になっている西側の階段や中央階段を上昇して3、4階へと燃え広がった。
 当日宿泊客113人と従業員18人がおり、従業員などの誘導で宿泊客12人が助かっているが、宿泊客残り61人の大半は、中央階段から屋上へといったん避難、そこから屋外螺旋階段を使い避難し救助され、従業員13人も避難できていた。しかしその一方、宿泊客への火災通報が遅れたため、気づいたときにはすでに廊下や階段は煙が充満しており、4階の客室で29人が死亡したほか1階大浴場の隣にある大広間で7人、2,3階で7人と、従業員を含め45人が犠牲となっている。
 火災を広げた原因は、①火災通報が出火後19分と遅れたことにより、消防隊員が到着した時には、すでに全館に煙や炎が充満し、館内へ進入し消火・救助することが不可能になっていた。②出火当日、たまたま自動火災報知機の増設工事中で工事でベルが鳴ったため、火災によるベルも従業員は客に「ベル訓練です」と告げるなど、その時点での工事状況の把握が不十分だった。③屋内消火栓設備が使用できず、バケツの水と泡消火器2本で消火しようしたが効果がなく、初期消火に失敗した。④宿泊客への火災通報の遅れ、従業員による避難誘導がほとんど無かった。⑤ホテルとして防火管理者が選任されておらず消防計画もなく避難訓練も行っていなかったのが、火災通報、初期消火、避難誘導面に現れるなど、ホテル側の防火意識の低さが指摘されている。
 また、建物自体の原因として挙げられたのは、①消防機関から指導されていた、旧館2階と4階の中央及び西側の各階段の防火区画が実施されておらず、延焼拡大を早めた。②自動火災報知器が増設中で完成していなかった。③相次ぐ大規模な増改築で、避難路が複雑で迷路のような状態になっていた。④ホテルが崖の上にあり、隣接家屋が密集し消防水利も悪く、十分な消防活動ができなかった。
 さらに不運なことは、宿泊客の多くがお年寄りで、それも展望の良い最上階に多くが案内され、火災に気づくのが遅れたこと、ホテルに到着したばかりで館内の状況に不慣れであり、避難路の確認はおろか、屋上へ避難し螺旋階段で脱出することなども、とっさに思いつかなかったことなどがある。
 (出典:㈶消防防災科学センター編「消防博物館>消防防災関係者向け火災・事故>特異火災事例>昭和50年~昭和59年>川治プリンスホテル雅苑」[追加]、近代消防社編「日本の消防1948~2003、年表1.災害編 137頁:川治プリンスホテル火災」)

豊島(てしま)産廃事件、豊島開発が廃棄物処理法違反容疑で兵庫県警の強制捜査受ける(30年前)[追補]
 1990年(平成2年)11月16日

 
無法な開発業者・豊島総合観光開発(株)(以下豊島開発)により、風光明媚な豊かな島“豊島(てしま)”が、香川県の黙認のもと“ごみの島”とされていたが、2年前の1988年(昭和63年)5月の海上保安庁姫路海上保安署による豊島開発の摘発につづき、この日、兵庫県警察本部が同社を廃棄物処理法違反容疑で強制捜査したことにより、ようやく事態が動き、史上最悪のごみ公害から住民は解放され、以前の豊島に戻るきっかけとなった。
 
香川県土庄町(とのしょうまち)豊島は瀬戸内海国立公園内にある小島で、小豆島西方3.7kmの海中にあり、第二次世界大戦後(1945年~)は、豊富な湧水を利用した農業が盛んで、林業、漁業、石材業も行われ、年中行事も盛んな人口約3000人ほどの文字どおり風光明媚な“豊島(豊かな島)”だった。
 
その豊島が、1955年(昭和30年)ごろから始まった実質経済成長率が年に10%前後という高度な経済成長の時代から、それに続く大量生産、大量消費、大量破棄の時代のありがたくない大波を受けることになる。
 豊島の西端に標高20mほどの小高い丘があり、そこから東に延びる海岸が“水ヶ浦”と呼ばれているが、1965年(昭和40年)ごろから、そこの約0,3平方km(約9万坪)という広大な土地を、豊島開発が所有し、土砂を採取、建築など生産資材として関西方面に販売していたが、採取後のくぼ地などに、客先が処分を持て余していた有害な産業廃棄物の投棄もひそかに行っていたという。
 1975年(昭和50年)12月、豊島開発はその土砂採取場跡地に、大量廃棄時代を予測して有害産業廃棄物処分場の建設を計画、香川県庁に申請する。ところがこれを聞きつけた住民たちは猛反対、翌1976年(昭和51年)2月には、豊島の有権者ほとんどの1425名の署名を集め、県知事に建設反対の陳情書を提出、デモ行進を行った。
 これは、それまで豊島開発がたびたび行っていた違法な産業廃棄物の投棄に対し、目撃し抗議する住民を暴力で追い払うなど、トラブルを引き起こし「お金のためなら何でもやる人物」と見られ、住民たちの信用を無くしていたからであった。そのうえこの人物によって、それまでもなし崩しに違法投棄が行われ、水ヶ浦と呼ばれていた環境が破壊されていることから、合法的に処分場が建設されることによって、水ヶ浦どころか豊島全体の自然環境が暴力的に破壊され、豊かな農・漁業に深刻な影響を与えると見越したからであった。
 一方、住民の反対陳情で形成不利と見た豊島開発側は同年7月、無害な産業廃棄物に限定し規模も縮小するとした事業計画に変更、知事に生活苦を訴えるなど、処分場の許可を迫った。
 当時の香川県知事前川忠夫は、農業工学の専門家として、1961年(昭和36年)かんがい用水の貯水池の研究で博士号を取得、1964年(昭和39年)には香川大学長に就任、1974年の県知事選挙では、革新3党と公明党など野党の推薦を得て当選するなど“革新系知事”として、また、水田に必要で清涼な水が命のかんがい用水貯水池の研究から、自然環境の破壊には反対の立場ではないかと思われており、住民の期待の星だった。
 ところが、県として処分場の必要性を認識していたこともあり、豊島開発から無害な処分場にするとの計画を受理していたので、反対陳情を受けた翌1977年(昭和52年)2月に豊島を訪れ住民たちの説得にかかった。知事は、反対する住民に対して「事業者(豊島開発)は住民の反対にあい、生活に困っている。要件を整えて事業を行えば安全であり問題はない。それでも反対するのであれば、住民のエゴであり、事業者いじめである。豊島の海は青く空気はきれいだが、住民の心は灰色だ」と発言(大川、下記著9頁)、それまでの事業者のやり方から、産業廃棄物の処分場が、豊島の海や空気をよごすことを見越した住民の反対意見を無視、なぜ住民が反対なのか知事として客観的に調査・確認することもなく、業者側の言い分だけを鵜呑みにし、そのうえ「灰色発言」なる暴言をさえ吐く始末であった。
 この知事の態度に豊島の住民たちは「産業廃棄物持ち込み絶対反対豊島住民会議」を結成、3月1日、県議会に住民の署名を添えて、豊島開発への産業廃棄物処理業認可反対を請願。翌2日、県議会からことの推移について質問を受けた前川知事は、産業廃棄物の種類や量などの条件を付けて許可する方針を表明した。
 危機感を抱いた住民たちは、同年6月、豊島開発及びその経営者を被告とした「産業廃棄物処理場建設差止」を求める民事訴訟を高松地方裁判所に提訴するなど、反対運動は一層激しくなる。 
 同年9月、豊島開発は製紙及び食品の汚泥、木くず、動物の糞尿などを収集、運搬し、それらをミミズにより土壌改良剤とする処分事業に変更すると申請、それならばと、香川県は翌1978年(昭和53年)2月、申請に基づく処分業の許可を与えた。それにより同年10月、高松地裁に於いて、県の認許以外の事業をいとまない、豊島の環境を悪化させないなどの条項を定めた住民側と豊島開発との和解が成立、県も住民に監視を約束し、これで済めば史上最悪と呼ばれた「産廃事件」は起きなかった。
 水ヶ浦で処分場が稼働し始めた1980年(昭和55年)、付近の住民たちは刺激性の悪臭、騒音、粉塵に悩まされ、野焼きした煤煙さえも飛んでくるようになり、豊島の観光業に大打撃を与えるようになる。住民たちは県に訴え、6月11日、視察した県担当者の日誌に「豊島観光(開発)でラガーロープ(古紙の溶融過程で出る金属とごみがロープ状に絡まったもの)発見」と記される。明らかに県が認許した以外の産業廃棄物が違法処分されていた。
 遅まきながら翌1981年(昭和56年)2月、県及び土庄町の担当機関と住民が豊島開発の処分場へ立ち入り検査を行うと、違法にも廃プラスチックス、ラガーロープ、廃油を埋設し、廃タイヤの野焼きさえ行っていたことが判明、経営者は違法性を指摘した県担当者に暴行を加えたという。
 この立ち入り調査後も、豊島開発による違法な有害産業廃棄物の処分は続き、1983年(昭和58年)1月には、香川県公安員会より金属くず商の営業許可を取得、廃プラスチック類のシュレッダーダストから有価金属の回収を始める。また、県許可事項のミミズによる土壌改良剤作成をやめ、有害な産業廃棄物の大量違法投棄に専念し大型化、野焼き公害に対する島民の苦情が町に殺到、大量の黒煙のため水ヶ浦沖などでの漁船の操業停止、異臭により魚が売れなくなる。
 1984年(昭和59年)になると、豊島開発では中古のカーフェリーとダンプトラック7~8台を購入、産業廃棄物を満載したフェリーを水ヶ浦から2kmほど東に離れた豊島北岸の家浦港に着岸させ、島の狭い道路をダンプで1日に何十回も往復させるなど、その行為は公然としたものになり、北岸一帯の住民は、悪臭と騒音及び振動、交通事故の危険にさらされ、水ヶ浦沖では貝や魚がいなくなった。 住民たちは、香川県に対し事業者の違法行為を通告し、廃棄物持ち込み中止と指導監督の要請を繰り返したが、3年前の立ち入り検査で違法行為を行っていることを承知しているはずの県では、少しも動こうとはしなかった。
 同年4月、豊島住民会議は、香川県に公開質問状を提出。6月、県は立ち入り検査をするも「豊島開発は廃棄物処理ではなく、金属回収事業を営んでおり違法性はない」と回答。10月、住民代表は高松市にある総務庁四国行政監察支局(現・総務省四国行政行政評価支局)に、事業者の違法性とそれに対する香川県の対応を訴える。しかし一向に進展しないので翌1985年(昭和60年)10月、住民代表は再度、行政監察支局に訴えるが、取り上げられることなく豊島の環境は悪くなる一方だった。
 1986年(昭和61年)になると家浦港のある家浦自治会で、ぜんそく患者が多くなったことが話題になる。9月、前川忠夫知事退任。当初、革新系知事として評価され、豊島住民の立場に立つことを期待されながらも「灰色発言」で住民の支持を失い、その後も豊島産業が自ら認許した事業内容に背いていることすらも自覚せず?任期を終え、次の平井知事に豊島問題を譲ることになった。
 1987年(昭和62年)になると、野焼きによる黒煙やすすが風向きによっては豊島全体を覆い、激しい悪臭とともにぜんそく患者が、家浦地区だけでなく島内全体に多発、特に児童のぜんそく発生率は、全国平均の約10倍となっていた。また持ち込まれた廃棄物の大半は有害な廃プラスチック類のシュレッダーダストで、有価金属を回収した残りの屑は、地中に厚く広範囲に埋設され、かつての風光明媚な豊島は“ゴミの島”“毒の島”となり、観光業だけでなく豊島で栽培、養殖されるものは豊島産として販売できなくなった。
 事態がようやく動き出したのは、翌1988年(昭和63年)5月、海上保安庁姫路海上保安署が、豊島開発を廃棄物処理法違反の疑いで摘発したことからで、1989年(平成元年)6月から7月になると、新聞、テレビなど各メディアが競って“ゴミ公害の島・豊島”を報道、全国に知られるようになった。
 1990年(平成2年)11月に入ると、1日、土庄簡易裁判所は海上保安庁による容疑事実を認め豊島開発と経営者(事業者)に罰金命令を下す。また兵庫県警察本部も、同県内から大量の廃棄物が船で運ばれているのを不審に思い、捜査したところ、豊島に運ばれていると判明、この日16日、他県であるのにも関わらず水ヶ浦処分地の強制捜査に着手、報道各社のヘリも駆けつける。豊島島内は騒然となった。
 この事態がようやく香川県を動転させ動かす。県が“合法”として認めてきた事業を、他県の警察が“違法な犯罪行為”として豊島開発を強制捜査したからである。23日、4年間も知らんぷりをしていた平井知事は、県議会で「詳細な現地調査を実施し抜本的な解決を図る」と答弁、12月2日、住民の要請に応じ来島、28日、県が豊島開発に対する許可を取り消し、ようやく有害産業廃棄物の搬入、野焼き、埋め立てが中止された。翌1991年(平成3年)1月には豊島開発の経営者が逮捕・起訴され、豊島の住民たちが、10年間もの間続いた苦しみからようやく解放された。しかし水ヶ浦の有害廃棄物は残されたままであり、かつての状態に戻し二次公害を防ぐ、住民たちの廃棄物撤去を求める次の闘いは2000年(平成12年)まで10年間も続く。
 (出典:大川真郎著「豊島産業廃棄物不法投棄事件」NPO法人瀬戸内オリーブ基金(オリーブ基金)編「豊島事件史(年表)」、同編「豊島(てしま)・島の学校―豊かな島と海を次の世代へー」、香川県編「豊島問題の経緯」、佐藤雄也+端 二三彦共著「豊島産業廃棄物事件の公害調停成立―その経過と合意内容―」。参照:2017年8月の周年災害「公害対策基本法公布」、2018年6月の周年災害「大気汚染防止法制定」、2020年(令和2年)8月の周年災害「田子の浦ヘドロ公害事件-水質汚濁防止法成立」、2010年12月の周年災害「公害関係14法案成立」、2013年11月の周年災害「総理府、自然環境保全基本方針告示」、2018年(平成30年)12月の周年災害「尼崎大気汚染公害訴訟提訴、全国初の汚染物質排出差し止め判決」、2013年11月の周年災害「環境基本法公布」)

○片山知事提案し鳥取県議会が、全国初画期的な被災者向け住宅復興補助金制度を可決成立(20年前)[改訂]
 2000年(平成12年)11月2日
 10月6日午後1時半ごろ、震度6強の揺れが鳥取県日野町、境港市を襲った。鳥取県西部地震である。
 この地震で、全体で182人が負傷(鳥取県141人)、住家全壊435棟(鳥取県394棟)、同半壊3101棟(鳥取県2494棟)、同一部破損1万8544棟(鳥取県1万4134棟)の被害を受けた。
 被災者が多い鳥取県では、当時の片山善博知事が早速、復旧策に乗り出し、臨時県議会を招集「鳥取県西部地震被災者向け住宅復興補助金」を創設して盛り込んだ補正予算案を提案、同県議会はこの日、同案を全会一致で可決成立させた。
 災害での被災者の住宅復興に公的資金(税金)を投入することは、それまで“私的財産の補償に公費の支出は法制度として認められない”という政府見解で否定されていた。
 1995年(平成7年)1月の阪神・淡路大震災の被災者に対しても、初期の対策は災害援護資金の貸付か住宅ローン等の利子補給程度で、兵庫県と神戸市が大震災の年の4月に設立した「阪神・淡路大震災復興基金」、及び2年後の1997年(平成9年)4月に創設した公的資金による「被災者自立支援金制度」にしても、新住宅へ移転後の生活資金等への援助で、全、半壊した住宅の復興を支援するものではなかった。
 また1998年(平成10年)5月、議員立法で成立した国の「被災者生活再建支援法」は、支給条件として住宅の解体・撤去・整地費用及び建設・購入・補修のための借入金の利息、同建て替え等にかかる諸経費となっており、その点、鳥取県の「被災者向け住宅復興補助金制度」は、住宅を再建するのに必要な資金そのものに対する補助制度であり画期的なものであった。
 片山鳥取県知事は、同制度創設の理由として「被災者の生活を安定させ、村や地域の活力を維持するために住宅の再建復興が不可欠」と説明している。その後、被災した各自治体で同じような動きが広がり、ついに国の「被災者生活再建支援法」が改正され、支給条件を撤廃したのは、2007年(平成19年)11月である。
 ちなみに鳥取県では、鳥取県西部地震の教訓を生かして、今後の自然災害に備える、より基幹的な基金制度「鳥取県被災者住宅再建支援制度」を2001年(平成13年)に創設している。
 (出典:内閣府編「平成12年鳥取県西部地震について(平成15年9月最終)」[改訂]、鳥取県編「鳥取県西部地震と住宅再建支援制度」、同編「鳥取県被災者住宅再建支援制度」[追加]、衆議院制定法律「平成10年法律第66号・被災者生活再建支援法」、同法「平成19年法律第114号・被災者生活再建支援法の一部を改正する法律」、地主敏樹著「検証テーマ・被災者支援のあり方」)

オーストリアケーブルカー火災、車両に使用禁止の家庭用暖房機を解体、作動油配管付近に設置(20年前)[改訂]
 2000年(平成12年)11月11日
 オーストリア中部ザルツブルグ州のキッシュタインホルン山の山ろく駅と山頂駅を結ぶスキー客専用のケーブルカーが、トンネル内を走行中に火災を発生、日本人10人を含む155人が犠牲となった。
 火災の直接の原因は、運転室を暖めるために、暖房機メーカーが車両での使用を禁止していた家庭用ファンヒーターを、車両メーカーが解体して、車両作動油用配管の近くに取り付けたもので、同配管から漏れた油が暖房機に引火し車両火災になったたものと推定されている。
 また被害を大きくした原因として、① 火事に気づいた乗客が運転手に連絡しようにも手段がなかった。② 運転手が出火に気づくこともなくトンネルに進入した上、火災の熱によりケーブルの1本が切断され自動停止装置が働きトンネル内で停止した。③ 車両の床がスキー靴をはいた乗客の乗り心地を考え、柔らかなゴムマットだったが、火がつきやすく燃焼速度が速かった。④ 客車から脱出した多くの乗客が、最後尾の煙や炎から逃れるようにトンネル上方の出口を目指したが、狭くて傾斜45度という急こう配のため逃れる速度が遅くなり、その上トンネルが煙突状態になって、追ってくる煙に巻かれ155人全員が死亡、トンネル下方に逃れた12人が助かった。⑤ 乗客が着用していたスキーウエアも当時は引火性の強いポリエステル繊維製のものが多かった。⑥ 運転手が頂上駅に火災発生を連絡、レスキュー隊が緊急出動、10分後に山頂駅に到着したが、事態を把握できたのはそのまた15分後に山頂駅の係員や乗客が煙に気づき避難を開始したから。
 (出典:失敗学会編「失敗知識データべース>失敗事例>鉄道>オーストリアケーブルカー火災」)

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