【目 次】

・天仁から天永に改元、天下静かならざるによる(910年前)[改訂]

・幕府異常な寒冷気候に際し大凶作を予測、徳政を行う(790年前)[再録]

・延応から仁治へ改元、鎌倉で異変続く(780年前)[改訂]

・日蓮、大飢饉に身をもって体験、政治建白書「立正安国論」を北条時頼に上申(760年前)[再録]

・幕府市中での花火禁止令、江戸つ子猛反発-雌伏47年水神祭余興の花火に許可が下り、両国川開き花火大会へ
(350年前)[改訂]

・京都享保の大火「西陣焼け」地方へ四散した職人たちが桐生など新しい織都つくる(290年前)[改訂]

橋本伯寿「断毒論」で感染症隔離予防論説くその先見性が仇となり幕府ご用医師一門と論争、政策化されず
(210年前)[追補]

・文政京都地震、突然の縦揺れが襲い被害が拡大された(190年前)[改訂]

・嘉永3年東海豪雨、矢作川、豊川、天竜川の堤防決壊で穀倉地帯壊滅、被害額100万石余(170年前)[追補]

・新潟明治13年の大火、全町の6割が消失し町の政治・経済を担う建物がほとんど全焼(140年前)[改訂]

・柏崎明治13年の大火「酢屋火事」町の半数それも中心部を焼失(140年前)[改訂]

・倉敷沙美海岸に本邦初、海水浴場お目見え。海水浴はレジャーではなく医療、体質改善(140年前)[追補]

・明治43年関東大水害「庚戌(かのえいぬ)の大洪水」停滞していた梅雨前線に台風が刺激(110年前)[改訂]

・伊号第六十七潜水艦、浸水沈没事故、原因は後部昇降口(ハッチ)の閉め遅れか(80年前)[追補]

・国策パルプ工場排水問題、川の色が濃い茶色になり、まずうなぎが犠牲に(80年前)[改訂]

・昭和25年熱帯性低気圧-志賀高原方面に集中豪雨、穂波温泉一時壊滅(70年前)[改訂]

・昭和35年台風16号「五輪台風」台風18号により出現した線状降水帯を16号が刺激(60年前)[改訂]

・田子の浦ヘドロ公害事件--漁民たちの海上デモなど大抗議集会のすえ「水質汚濁防止法」成立(50年前)[改訂]

・昭和45年台風10号「土佐湾台風」土佐湾で異常高潮(50年前)[改訂]

・静岡駅前ゴールデン地下街ガス爆発事故-準地下街へも消防用設備規制を強化(40年前)[改訂]

・新宿西口バス放火殺人事件-跡を絶たない無差別殺人事件、動機なき殺人も(40年前)[改訂]

・昭和55年戦後最大の冷害-これを契機に米作中心農業から転換はかる(40年前)[追補]

【本 文】

天仁から天永に改元、天下静かならざるによる(910年前)[改訂]
 1110年8月7日(天仁3年7月13日)
 
歴代天皇の事績を記した「皇年代略記」は、改元の理由を依天変幷世間不静也(天変ならびに天下静かならざりしによる)”とし、その日を天仁3年7月15日としている。
 ここでいう“天変”とは彗星の出現を指すが、その彗星は周期からいって、例のハレー彗星ではないようだ。当時の歷史書「百錬抄」にも改元の記事があり、こちらは改元日を7月13日とし、その理由を“依彗星也”と絞り、出現した日は6月9日(旧暦・5月13日)で“彗星見東方長五尺”とある。長さ1.5mほどの光の尾を引いた彗星が東方の天空に見え、当時の京スズメの話題になったのであろう。これを改元の理由としているのだが、彗星もハレーほどの大きさもなく改元するほどの迫力もない。ここは「皇年代略記」の記す改元理由の方が強力である。
 つまり“天下静かならず”が、小さな“彗星”よりは、この時代の特徴を表している。当時は、藤原北家により230年続いた摂関政治から源平争乱、1185年の鎌倉武家政権の成立に至る過渡期の、白河法皇による院政時代のさなかで、年表を見ても確かに静かならざる時代で、朝廷や公家たちが改元したくなる時代であった。
 まず、改元2年前の1108年3月(嘉承3年1月)、白河法皇に近侍する平正盛が、出雲国の国衙(現・県庁)を襲い国主目代(代官)とその家族を殺害、官物を奪ったとする源義親を、法皇の命を受け追討した。この時は源平による勢力争いを法皇が利用したのだが、かえって武士の力を強め、後年、平清盛が政治の実権を把握する前兆となった。
 ついで同年5月(旧暦・4月)、白河法皇の人事に対して、不満を抱いた比叡山延暦寺(山門)と園城寺(三井寺:寺門)の僧兵ども数千人が、連帯して朝廷に強訴。朝廷側は源平の軍勢を動員して防いだが、結局は要求をのむ。法皇が“天下三不如意(意向にそわない)”もののひとつに、双六のさい(目)と氾らんをくり返す賀茂河の水とともに山法師(比叡山僧兵)をあげたほどの、法皇の勢力を凌ぐ寺側の勢いであった。
 同年9月(旧・7月)浅間山が大噴火を起こし、火山灰で北関東一帯の田畑が壊滅状態となった。人の力では抑える事ができない自然災害である。
 翌10月(天仁元年9月)は、悪名高き奈良興福寺の僧兵や地侍たちが、宗派も異なり領地をめぐる争いの絶えなかった多武峰妙楽寺の伽藍や僧坊及び山麓の家々を焼き払った。
 翌1109年(天仁2年)も同じような騒動がくり返される。同年3月(旧・2月)検非違使の源義忠を殺害した罪で、叔父の義綱を逮捕。これは源氏内での主導権争いである。同年6月(旧・5月)またまた延暦寺の僧兵が、同寺の支配下にある祇園社(八坂神社)の神人(神社の雑役を担い、武装化する)に、清水寺別当定深が暴行を加えたとして強訴。結局、山法師の要求通り、定深は流罪となる。
 そして、翌1110年改元の年を迎える。とどめとなったのが、6月9日(旧・5月13日)の“彗星見東方五尺”であろう。ところが4年前の1106年5月(長治3年4月)、嘉承へ改元の原因となった彗星が、“長十許丈(30mばかり)”の雄大な姿を天空に見せたのにくらべ、今回は“長五尺”とたった1.5mである。小さくても一応うわさになったので、社会や政治の乱れを表面化したくないが、改元で“まがごと:禍事、凶事”を払いたい朝廷としては、改元の理由に飛びついたのであろうか。あの「百錬抄」が改元の理由に“依彗星”としか書いていないのは、いささか理由としては弱いが、そこに原因がありそうだ。
 (出典:池田正一郎編著「日本災変通志>平安朝時代後期 156頁~157頁:天仁元年、天仁二年、天永元年」、日本全史編集委員会編「日本全史>平安時代 203頁~205頁:年表1105-09(203頁)」、「平正盛が源義親を討ち取り平氏、上げ潮に乗る(204頁)」、「延暦・園城寺衆徒が連帯して強訴、院側が譲歩する(204頁)」、「源氏内で主導権争い、源義忠殺害容疑で義綱を配流(205頁)」。国立国会図書館デジタルコレクション「国史大系 第14巻>百錬抄 第五>鳥羽天皇 65頁(39コマ):天永三年」、同デジタルコレクション「新校群書類集 巻第三十二 皇年代略記>鳥羽天皇 194頁(125コマ):天永三」。参照:2014年9月の周年災害「ハレー彗星出現、歴史書に残る最初の記録」[追加]、2018年9月の周年災害〈上巻〉「浅間山天仁大噴火」[改訂]、2016年5月の周年災害〈上巻〉「長治から嘉承へ改元、彗星の出現による」。)

幕府異常な寒冷気候に際し大凶作を予測、徳政を行う(790年前)[再録]
 1230年8月3日(寛喜2年6月16日)
 7月27日(旧6月9日)、夏の盛りなのに武蔵国金子郷(埼玉県入間市)で雪混じりの雨や雹(ひょう)が降り、美濃国蒔田荘(岐阜県大垣市)では雪が降ったという知らせが鎌倉に届いた。
 これを受けた幕府では執権(将軍に代わり政務を束ねる)北条泰時が、非常に驚いて寒冷による大凶作を予測し、この日全国に、租税の免除、罪人の恩赦、貧しい人たちへの施物などを行うよう命令した。
 予測どおりこの夏は冷夏で終始し、9月の暴風雨もあって大凶作となり“寛喜の飢饉”と呼ばれる大災害を招いた。
 このように大災害の前後に行う救済政策を「徳政」と呼び古代から行われていたが、鎌倉幕府ではこの後も「徳政令」として貧困に苦しむご家人(幕府の直臣)保護などを目的として行っている。
 その後、15世紀の室町時代に入ると、幕府からではなく農民や庶民たちが、この「徳政令」を要求し一揆(大衆運動)を頻発するようになる。
 (出典:日本全史編集委員会編「日本全史>鎌倉時代>1230-34(寛喜2-文暦1) 254頁:真夏に降雪!異常寒冷気象に執権泰時が徳政を実施」、国立国会図書館デジタルコレクション「吾妻鏡 吉川本 中卷>吾妻鏡巻26>寛喜2年6月 267頁(140コマ)」[追加]。参照:2011年6月の周年災害「寛喜の大飢饉」[追加])
 

○延応から仁治へ改元鎌倉で異変続く(780年前)[改訂]
 1240年8月12日(延応2年7月16日)
 この日、彗星、地震、干ばつなどの災異から免れようと改元。
 1185年12月(文治元年11月)、源頼朝が義経追討を名目に朝廷から日本国惣追捕使に任じられ、国々に惣追捕使(のちの守護)と荘園(私領)や国衙領(公領)に地頭を任命する権利を得て以降、数々の内紛も乗り越え、1221年7月(承久3年6月)の後鳥羽上皇による反乱(承久の乱)も押さえ込んだ鎌倉幕府だが、この年は数々の異変に見舞われた。朝廷では気を効かし?この日改元したが、この時代は前の平安、後の室町、江戸時代にくらべ災異改元が圧倒的に多い。
 まず2月5日(旧1月4日)午後8時ごろ(戌の刻)南西方面(申方)の夜空に大彗星(ハレー彗星との説あり)が現れ、同月20日(旧1月19日)西の空アンドロメダ座(奎)の彼方に去ったあとも、ほかの彗星なのか時々現れ、凶事として人心を不安に落とし入れた。18日(旧・17日)には鶴岡八幡宮の寺で将軍も参詣されて、災厄を遠ざけ国家安泰を祈り仁王(にんのう)百日講が行われている。
 3月8日(旧・2月6日)幕府政庁の中心、政所が全焼した。財務と法務をつかさどっていたところだが、これらは武士の所領管理対策が中心の幕府の政務の中核を成していた。裁定に不満な者による放火説もあったという。おまけに夜になると消えた筈の彗星も出現したようだ。
 3月24日(旧2月22日)鎌倉に地震があり鶴岡八幡宮が風もないのに倒壊。
 改元にいたるとどめは、前月から続く強い日照り(炎旱旬を渉る)で、6月30日(旧6月2日)幕府でも高僧たちに祈祷させているが効験はなかったという。
 (出典:日本全史編集委員会編「日本全史>鎌倉時代>1185-89(文治1-文治5)234頁:頼朝、義経追討を理由に守護、地頭を設置、全国に権力基盤広げる」、同編「同書>鎌倉時代>1220-24(承久2-元仁1)250頁:承久の乱おこる、幕府軍15万余騎が京都を占領」、池田正一郎編著「日本災変通志>中世 鎌倉時代 223頁:仁治元年」[追加]、国立国会図書館デジタルコレクション「吾妻鏡 吉川本 中卷>吾妻鏡巻32・396頁~401頁(205コマ):仁治元年正月、二月。403頁~405頁(208コマ):6月」[改訂]、)
  

○日蓮、大飢饉に身をもって体験、政治建白書「立正安国論」を北条時頼に上申(760年前)[改訂]
 1260年8月31日(文応元年7月16日)
 
1257年(正嘉元年)夏の干ばつに続き、翌年7月(旧暦・6月)から長雨と低温が続き、9月(旧・8月)~11月(旧・10月)にかけて続いた暴風雨により、その年の冬から翌59年にかけて全国的な“正嘉・正元の飢饉”と呼ばれた状況になっていた。
 この飢饉は数年続き、当時、鎌倉で布教活動を続けていた日蓮宗の宗祖・日蓮は、大飢饉の惨状に身をもって体験、政治建白書ともいうべき「立正安国論」を執筆、この日、時の最高権力者、鎌倉幕府の前執権北条時頼に提出した。その中で“天変地夭・飢饉疫癘、遍(あまね)く天下に満ち、広く地上にはびこる。牛馬ちまたに斃(たお)れ、骸骨路に満てり、死を招く輩(人々)、すでに大半を超え、これを悲しまざる輩あえて一人もなし”とこの飢饉の真実の姿を描き、この災厄の原因は幕府の無策と浄土宗や禅宗などの邪法(間違った教え)によると厳しく糾弾した。しかし一方、自らが信じる法華経を正法とする姿勢が、禅宗に帰依し律宗を通じて支配を試みる時の北条政権と相容れず、既製仏教勢力とも対立、せっかくの建白書も取りいれられなかった。
 その後、日蓮に対する他宗からの排撃運動が高まり、同書で批判された幕府は翌61年、日蓮を伊豆国(静岡県)へ流罪した。
 しかしその後、同書が予言した通り、幕府内の権力争い(1272年・二月騒動)で内乱の危機が生じ、モンゴルによる侵略(1274年文永の役)も起こったので、日蓮と宗徒たちは同書の正しさに一層自信を深めたという。
 (出典:日本全史編集委員会編「日本全史>鎌倉時代>1260-64(文応1-文永1) 264頁:日蓮、立正安国論を北条時頼に上申、民衆救済をめざす」、黒田俊雄著「日本の歴史 8 蒙古襲来>禅か、法華経か 43頁~46頁:「立正安国論」、同著「日本の歴史 8 蒙古襲来>文永の役 78頁~81頁:「われら日本の柱とならん」。参照:2018年7月の周年災害「正嘉・正元の飢饉」、2011年8月の周年災害「元寇・弘安の役、台風で元船壊滅」)

幕府市中での花火制限令、江戸っ子猛反発-雌伏47年水神祭余興の花火に許可が下り、両国川開き花火大会へ
 (350年前)[改訂]

 1670年8月31日(寛文10年7月16日)
 1613年9月(慶長18年8月)、通商を求め来日したイギリス使節が江戸城で将軍秀忠に花火を上覧して以来、江戸市中で花火が流行したが、火災を恐れた幕府は48年8月(慶安元年7月)、町中での販売や打ち上げを禁止した。
 その後、花火の禁止は明暦の大火(1657年3月)以降、一層厳しいものになり、この日のお触れでは“一、大からくり花火(仕掛け花火)幷(ならびに)リウセイ(竜勢花火:打上げ花火)、何ニおいても(いずれにおいても)向後(今後)一切可為無用事(一切為すことは無用の事:禁止)”“一、海手(海岸)幷家はなれの屋敷にては、常之花火立候儀(普通の手持ち花火などであれば)不苦事(苦しからず:問題はない)”“一、家込之家においては(家の建て込んでいる家では)、常之為花火と云歟一切無用事(普通の手持ち花火であっても一切禁止)。
 粋で華やかなことが好きな江戸っ子が、近年工夫をこらして開発した仕掛け花火や打上げ花火は一切禁止。普通の手持ち花火でも、海岸や大川(隅田川)端、周りに人家のない郊外の家なら良いが、家並みが建て込んでいる街中では禁止というから、郊外にある大名家の下屋敷や富裕な町民の別荘でなければ花火を楽しむことができず、火災予防とわかっていてもほとんどの江戸っ子は猛反発した。
 ところがそこは江戸っ子である。この花火制限令から40年間ほど花火復活の機会を伺っていたが、1717年(享保2年)になると、世過ぎのため、将軍の別邸・御浜御殿(現・浜離宮公園)でのろし方をしていた日本橋の花火屋・弥兵衛が、当時日本橋にあった魚河岸で、例年5月28日(旧暦)に行われる水神祭の夜、余興に花火を打ち上げたいと奉行所に願い出たところ、思いがけずその申し出が許可された。
 享保の改革の立役者大岡越前守忠相が南町奉行に就任して3か月目である。改革のため庶民の動静に気を配っていた、新進気鋭の町奉行大岡越前である。粋(意気)な江戸っ子を元気にさせようと、もともと花火を許可していた大川端で打ち上げるのであれば問題はなかろうと判断し、人びとは47年間のうっぷんを晴らすべく大いに気勢を上げたという。
 その後この勢いは止まらず、1733年7月9日(享保18年5月28日)、前年はやった疫病退散と慰霊のために行われる水神祭の余興で再び花火が打ち上げられることが許可され、これが両国川開きの花火大会として江戸―東京名物となり、現在の隅田川花火大会へと続くことになる。
 (出典:東京都編「東京市史稿>No.4>市街編第8>825頁~826頁:付記3 花火申禁」 、東京消防庁「消防雑学事典:コレラで始まった両国花火」、魚谷増男著「消防の歴史四百年>江戸の消防>火災予防のいろいろ 26頁:花火も一般に禁止」。参照:2018年8月の周年災害「江戸町奉行、防火対策で華美禁止にかこつけ花火禁止」、2013年7月の周年災害「江戸大川(隅田川)で花火大会はじまる」[追加])

京都享保の大火「西陣焼け」地方へ四散した職人たちが桐生など新しい織都つくる(290年前)[改訂]
 1730年8月3日(享保15年6月20日)
 上京上立売室町西入ル上立売町北側に店を構え、筑前福岡藩黒田家の呉服所を務める大文字屋五兵衛宅では、この日、元服の祝いがありその振舞いで店中が賑わっていた。その祝宴で取り紛れ、火の用心がおろそかになっていた午後2時ごろ(未の刻)台所の片隅から突然出火した。
 立ち上がった炎は、瞬く間に客で賑わう大広間から店までを一挙になめつくし、折りから吹きすさぶ激しい東北の風にあおられてまたたく間に南北両方へと燃え広がり、吹き上げる煙と炎は西陣一帯の空を覆い尽くしたという。その後、風が次第に東風にかわり、西へ西へと炎の波は進み、午後3時過ぎ(未の下刻)には、一条にある浄福寺と北野天満宮の東側に位置する松梅庵に飛び火、火元が一挙に三カ所となった。
 ますます盛んになる火の手は、午後4時ごろ(申の刻)になると燃え広がった三つの炎が一つになり、北は芦山寺通りから南は一条通りまでの範囲の街並みは焼け野原となっていた。午後5時(申の下刻)ふたたび風向きが変わると翻って西陣南北一帯の街々が火の海となり、ほとんどの街並みが灰となり姿を消した。
 134町が類焼し民家3797軒、公家屋敷4、武家屋敷1、寺社67ヵ所が焼失、80人死亡、千数百人が負傷。特に西陣では160町、3千数百軒と7割近くが被災し西陣織の機(はた)3012台を失い壊滅に近い状態となった。なかでも皇室の衣服の製作に奉仕する“御寮織物司(つかさ)”6家すべてが焼失したのは大きな損害といえる。なかでも仕事を失った機織り職人たちは、当時織物業の勃興期だった丹後(京都府)、近江長浜(滋賀県)、関東上野(群馬県)の桐生などに移り住みその地の織物を指導、発展に尽くした。なかでも幕府のお膝元、上野の桐生は職都として京都を凌ぐほどの発展を見せ、現在では気鋭のクリエーターが集う新しいクラフトとデザインの街として活きている。 
 (出典:京都市消防局編「京都消防と災害>第2章 自治体消防発足以前603頁~606頁:5享保の大火(西陣焼け)」[追加]、京都市上京区編「上京区の歴史>西陣の発展と西陣焼け」、京都歴史災害研究会編「京都歴史災害年表>1701-1800・211頁:1730年8月3日」)

橋本伯寿「断毒論」で感染症、隔離予防論説く、その先見性が仇となり幕府ご用医師一門と論争、政策化されず
 (210年前)[追補]

 1810年8月30日(文政7年8月1日)
 日本をはじめ全世界で、新型コロナ(COVID-19)感染症の感染拡大が続いているが、そこからの最大・最善の予防策は、ワクチンを別とすれば人々をウイルスから“隔離(避難)”することとされ、大がかりな都市封鎖(ロックダウン)から不急不要な外出禁止や3密(密集、密接、密閉)を避けることにいたるまで、諸外国でさまざまな対策が立てられ実行されている。
 この現代でも感染予防策として活きている“隔離”を日本で初めて説いたのが本編の主人公橋本伯寿である。
 日本ではワクチンが登場する幕末―明治時代にいたるまで、古来より痘瘡(疱瘡:天然痘)や麻疹(はしか)などの外来感染症が大流行し、貴賎の別なく多くの人々の命が失われてきたが、当時の医学は“漢方”の考えにより、感染症は天行(星の動き)や気候により人が母胎から受け継いだ“胎毒”が発現するものとされ、民間では痘瘡患者が出ると“痘神(疱瘡神)”をその家で祀り、贈り物を交換することで疫病退散を念じたが、この風習により逆に感染を拡大させていた。
 これら当時の感染症についての理論や風習に対し、この日、橋本伯寿は隔離による感染防止策などについてまとめた「断毒論(病の毒素から断つ論考)」を発刊、3年後の1813年(文化10年)には漢文で発刊された「断毒論」を漢字かな混じり文の「国字断毒論」として再刊している。
 伯寿が感染症隔離予防論を体得し得たのは、天明期(1781年~1789年)の始めに、故郷の甲斐(山梨県)から出て、当時唯一の西洋との交流窓口であった長崎へ遊学、この地で西洋医学の自然科学的な物の考え方を学ぶとともに、近隣の大村や天草(長崎県)で古代から行われていた、感染症患者への隔離療法で流行を防いでいる実績も学んだことによるという。
 「断毒論」で取り上げた感染症は、痘瘡(天然痘)、麻疹(はしか)、黴瘡(梅毒)、疥瘡(疥癬)だが、これらは患者から健康な人に“伝染(感染)する病気”であると、近世日本医学の歩みの中ではじめて“伝染病(感染症)”の概念を明確にし、その接触を断つことにより防ぐことが可能なことをいくつかの例をあげて立証、それらにより根絶が可能なことを説いている。これは今でいう公衆衛生、予防衛生的な対策で感染症を防ぐことが出来ることを提唱したものでその先見性は高く評価されている。
 またその伝染性から、次のように感染症流行時における“自粛”の概念も登場させている。
 1.飴菓子の類、すべて沽(買)喰をきびしく禁ずべし。
 1.祭祀、劇場観場(芝居見物)すべて人衆(多く)あつまる所へ行きて香触れ(かぶれ)ざるように遠慮すべし。
 1.習書(習字)、読み書き等すべて、稽古事にて、他処(他所)ヘ行くを遠慮すべし。
 さらに、患者の隔離の例と軽い痘瘡で免疫を得た人を看病人としてつけることも提唱している。
 “里を離れたる所に、小屋を造り、病中の雑具を調え、介抱、薬用の事は、以前、痘瘡を病みし人を雇え”
 ところが伯寿の以上のような提言も、感染症予防対策として実現することはなかった。というのは、幕府の痘科(天然痘医)である池田氏一門と学説面で対立関係になり、「断毒論」を出版する版木も押収され、その優れた提言も政策化することなく終わってしまったという。
 (出典:日本庶民生活史料集成>橋本伯寿著・国字断毒論)、磯田道史著「感染症の日本史>第2章 日本史のなかの感染症 52頁~55頁:江戸の医学者の隔離予防論」)

○文政京都地震、突然の縦揺れが襲い被害が拡大された(190年前)[改訂]
 1830年8月19日(文政13年7月2日)
 午後4時ごろ、京都市内愛宕山付近を走る活断層を震源とするマグニチュード6.5クラスの大地震が起きた。
 特に京都北部の上京(かみぎょう)で激しく、御所の建物や外廻りの築地塀が倒潰、二条城本丸をはじめ石垣や建物の倒潰などの被害が出たほか土蔵の被害が多かった。しかし民家の倒潰は少なく、石垣、門、板塀、築地塀や番屋など小屋の倒潰があった。また倒潰はしないまでも壁、瓦、屋根の庇が落ち、骨組みだけになった家が多数見受けられたが、これにより死傷者が多く出たという面があるという。一方、北野天神や石清水八旛宮で石灯籠が倒れるなど、神社での石灯籠の倒潰が多くあり、なかでも祇園神社では136基が破損した。
 これらは古文書の“震動も致さず、ただ一度に突き倒すように”揺れて“鴨居などはずれ、壁を落とし”家屋が破壊された(宝暦現来集)という記録から、揺れの加速度が上下に非常に大きく働いたと指摘されている。つまり、断層型地震の特徴である短時間に強力な縦揺れが襲った。
 この地震での被害は、京都では390人が死亡(小林久兵衞日記)、1300人以上が負傷。近国では近江の大津(滋賀県)、丹波亀山(京都府亀岡市)で町家が倒壊し死傷者が出ている。またこの日の死傷者が168年前に起きた寛文大地震(近江・若狭地震)にくらべ多くなった原因として、寛文当時の町家の屋根が、板葺きに石を置いて押さえる程度だったのに対し、町民の財力の向上もあり、重い桟瓦葺きの屋根に変わり、その屋根瓦が突然の縦揺れで多数落ちたことが指摘されている。
 (出典:宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧>4 被害地震各論 137頁~138頁:236 京都および隣国」、小倉一徳編著、力武常次+武田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>近世の災害>江戸時代の主要災害一覧 105頁:京都・畿内地震」、磯田道史著「天災から日本史を読みなおす>第4章 災害が変えた幕末史>2 文政京都地震の教訓 133頁~135頁:尋常でない加速度」[追加]。参照:6月の周年災害・追補版(5)「1662寛文近江・若狭地震」[追加])

○嘉永3年東海豪雨、矢作川、豊川、天竜川の堤防決壊で穀倉地帯壊滅、被害額100万石余(170年前)[追補]
 1850年8月26日~30日(嘉永3年7月19日~23日)

 停滞していた秋雨前線が、熊野灘沖から遠州灘沖へ進み東へと転じた台風に刺激されたのか、伊勢(三重県)から駿河(静岡県)にかけて、僅か南北100km、東西250km程度の局地が集中的に暴風雨に襲われている。被害の中心は伊勢(三重県)、美濃(岐阜県)、尾張、三河(愛知県)、遠江、駿河(静岡県)の6か国で、田畑の被害は100万石余と伝えられている。
 紀伊(和歌山県)の熊野地方沿岸部では8月27日(旧・7月20日)夜半より大雨となり海岸に大波が押し寄せた。翌28日(旧・21日)朝6時ごろいったん雨は止んだが、午後4時ごろになると大風雨となり海岸には流木が押し寄せ歩けなくなる程だったという。
 各所の被害は、大和(奈良県)では、28日夕方から翌29日(旧・22日)朝にかけての大風雨により各所で、その数がわからないほど家屋の倒壊が相次いだ。伊勢では内宮と外宮の樹木100本以上が倒れ、民家14戸が倒壊、死傷者が出ている。美濃では大垣城下各所で武家屋敷内長屋の倒壊が相次ぎ、領内では20戸ほど倒壊。尾張では、28日夜の暴風雨により名古屋で城下の家屋が倒壊、郊外のほとんどの地域で田畑に冠水し大きな被害を出した。三河では矢作川が氾らん右岸(西岸)の中島と川端(現・豊田市)の中間地点で堤防が決壊、三河吉田(現・豊橋市)では豊川が氾らん20余か所で堤防が決壊、これにより収穫前の三河穀倉地帯の田畑は海のようになった。
 遠江では北遠江地方に26日(旧・19日)から28日まで続いた集中豪雨により“暴れ天竜(天竜川)”が大氾らんを起こし、中流の船明堤や川口堤が相次いで決壊、船明村で40軒流失、二俣村、川口村、阿蔵村(以上現・浜松市天竜区)で全戸床上浸水、雨が止んだのちも、30日(旧・23日)には、下流東岸の三家村地先で大規模な堤防決壊があり、下神増村、壱貫寺村(以上現・磐田市)一帯が冠水、おびたただしい流失家屋、浸水家屋を出している。また対岸の中瀬村、下小島村、永島村、富田村、常光村(現・浜松市浜北区)などでも堤防が決壊し流域の村々の家屋、田畑が海の中に浮かんだようになったという。
 (出典:愛知県編「愛知県災害誌 105頁:嘉永3年(1850)」、中央気象台編「日本の気象史料1>第1編 暴風雨 238頁~239頁:嘉永三年七月二十一日」[追加]、同編「日本の気象史料3>第1編 暴風雨38頁:嘉永三年七月二十一日」[追加]、静岡県編「静岡県史 別編2:自然災害史>第3章 静岡県の自然災害のさまざま>第4節 暴れ天竜>4 近世の水害 374頁:嘉永3年の水害」[追加])

○新潟明治13年の大火、全町の6割が消失し町の政治・経済を担う建物がほとんど全焼(140年前)[改訂]
 1880年(明治13年)8月7日
 午前1時、上大川通六番町の高橋理平所有の板蔵(米などの保管庫)から出火した火は16時間に渡って燃え続け、新潟町(市)の大半を焼く大火災となった。午後4時半ようやく鎮火。
 当時の総戸数1万277戸のうち6175戸、実に6割を焼失したが、その内1世帯1戸の家屋が83町の5554戸、同居世帯のある家屋533戸、寄宿人のいる家屋が88戸となっている。官公署は新潟県庁、県会議事堂、新潟区役所など政治の中枢。郵便局、電信分局など情報通信の拠点。新潟警察署、巡査見廻所2カ所、監獄本署(刑務所)など治安拠点など9か所が全焼。第四国立銀行(現・(株)第四銀行)、第四十四国立銀行(現・みずほ銀行)新潟支店、積小社(現・横浜銀行)、保険社、新潟米商会所など経済の中枢。新潟新聞社、隆文社などマスメディア。北越商会、物産会社、足袋会社、開玩社など企業。など諸会社11カ所。公立小学校1校、私立校6校が全焼するなど町の中心的建物を焼き尽くしている。そのほか橋梁44か所、警鐘台(火の見やぐら)2か所、郵便箱(ポスト)2個、舷灯製造所、権衡(はかり)製造所、尺度(ものさし)製造所など生活に欠かせない施設や工場も亡くなっている。3人死亡、37人負傷と火災規模の割合には人的損害は少ない。
 (出典:新潟市編「新潟市史・資料編5 578 頁~581頁:二四三 新潟町の被害調査」)

○柏崎明治13年の大火「酢屋火事」町の半数それも中心部を焼失(140年前)[改訂]
 1880年(明治13年)8月8日~9日
 新潟町(市)で大火のあった翌日、同じ新潟県内で新潟町の南西に位置する柏崎でも大火があった。
 午後8時ごろ、扇町(現・西本町三丁目)の貸座敷(遊女屋)酢屋で、娼妓が誤ってランプを落としたところ、折からの炎天続きである。またたく間に出火、柏崎特有の西風にあおられた炎はまっすぐ下(しも:町の東側)へと延焼、妙行寺万平堂(西本町一丁目)付近まで達した。町の中心部を焼き尽くした炎はようやく翌日午前10時鎮火。
 当時の柏崎の戸数1860余戸の約半数が罹災し、848戸を焼失、町の中心部であるだけに神社2か所社、寺院7か所が焼失し、柏崎開拓以来の大火と記録されている。
 (出典:柏崎市市史編さん委員会編「柏崎市史 下巻>第3章 社会と生活>第5節 大火と消防>第1項 大火の様相 198頁~199頁:酢屋火事」)

倉敷沙美海岸に本邦初、海水浴場お目見え。海水浴はレジャーではなく医療、体質改善(140年前)[追補]
 1880年(明治13年)8月
 岡山県倉敷市沙美海岸に我が国で初めての“海水浴場”がお目見えした。場所が瀬戸内海沿岸の風光明媚な海岸とはいえ、東京にほど近い大磯海岸に同じ目的の施設ができるより5年も早く誕生している。
 当時“海水浴”といえば、現在のように水辺で遊んだり泳ぐというようなレジャーが目的ではなく、文字通り“海水浴”つまり、海水を浴びることにあった。その方法は、上げ潮で波が海岸に寄せてきたとき、30分間ほど海に立てた棒につかまり波に打たれるのだが、始めの内は1日2回行い、なれるに従って回数を増やし、のち浜に上がり腹や胸を砂で温めるというものであった。目的は“医療及び体質改善”にある。いうなれば“温泉療法”の海水版か。
 この海水浴を日本に紹介し広めていったのは、長与專齋とならび明治期近代医療を確立した松本順(良順)である。
 松本順が幕臣時代、幕府の命令で長崎海軍伝習所の医師として長崎へ赴任。その時、海軍伝習所教官としてオランダ軍医ポンぺが来日し、その医学校建設の志に松本が共鳴、1857年11月(安政4年9月)海軍伝習所とは別の独立した医学伝習所(現・長崎大学医学部)を開設したことがある。
 実は松本順はポンペに会う前に、実父佐藤泰然から海の空気に触れると体に良いとの持論を聞いており、自身の持病であるリウマチを塩湯で治療したこともあり、海水浴の効用をオランダ医書で知ったうえポンペに確認しその意を強くしたという。
 松本順が口述した「海水浴概説」によると、その効用として体質改善、新陳代謝・分泌機能の促進、貧血の改善、皮膚や粘膜の強化、消化機能の改善、神経・精神の調整などを上げ解説を加えている。そして松本は初代日本陸軍軍医総監を退任後、日本各地の海岸を訪ね、海水浴の好適地を探している。
 本題の沙美海岸を海水浴場好適地として着目したのは玉島(現・倉敷市)の医師・坂田待園だが、上記「海水浴概説」を読んだのか、松本が倉敷を訪ねたことがありそのとき、医師の先達である松本と面会したのかは明らかではないが、海水浴場開設を決意する。しかし最初着目した東浜に開設するについては、漁港が近くにあり漁業権問題が絡んだので、当時の里正(村長)吉田親之に諮る。吉田は村民が嘲笑したが、村の発展を読み、この月、諏訪神社のふもとにあたる西浜に仮小屋をたて、海水浴場として開設し、2年後の1882年(明治15年)には西によった竜王山の下に当たる海浜に移り、75室を持つ本格的な保養所・沙美海浜院を開設した。
 当沙美海岸の海水浴場としての期間は6月下旬から9月下旬まで、沙美海水院への浴客は100余人ほど、自炊して長逗留する客もあり、県知事も来遊するなど、その賑わいは当時釣りや磯遊びで賑わった神戸の舞子海岸に対し“西の舞子”と呼ばれ、浴客相手の旅館も建ち並んだという。
 (出典:倉敷市史研究会編「新修倉敷市史 第5巻>第9章 災害と疾病・貧困とのたたかい>第2節 伝染病と保健・衛生>6 海浜院と海水浴場 723頁~724頁:沙美海水浴場」、大磯町編「大磯町史 7 通史編 近・現代>第2章 大磯の明治維新>第4節 文明開化 149頁~150頁:海水浴の始まり」、長崎大学付属図書館編「松本良順と長与専斎>松本良純」、倉敷市編沙美海岸(日本の渚百選)」。参照:2017年8月の周年災害「長与專齋の提唱でわが国初のサナトリウム(結核療養所)海浜院開設」)  

○明治43年関東大水害「庚戌(かのえいぬ)の大洪水」停滞していた梅雨前線に台風が刺激(110年前)[改訂]
 1910年(明治43年)8月6日~15日
 
8月上旬に中部地方から関東にかけて停滞していた梅雨前線に二つの台風が相次いで刺激を耐え大豪雨となった。
 まず第1の台風が本州南岸沖を北東に進み11日夜三宅島付近を通過、房総半島沖に去った。
 その影響で6日ごろから、特に利根川、荒川上流域を中心に、関東地方から静岡県にかけて大雨が降り続き、7日から11日までの5日間の総雨量は山岳部で300~700mm、平野部でも200mm~500mmに達した。
 さらに10日夜に八重山群島南方海上に発生した新たな台風が、13日夜、静岡県沼津付近に上陸、関東西部から東北方面に進んだため、12日からふたたび東日本各地は暴風雨に見舞われた。
 停滞し長く続いた梅雨に加え、二度にわたる台風の襲撃により、1日から16日にかけて埼玉県若泉村(現・神川町)で1044mm、日光で986mm、草津で903mm、群馬県倉田村(現・高崎市)で875mm、富岡で820mmの総雨量を記録、北関東を中心に静岡、長野両県から関東地方一円、宮城県にわたる利根川水系をはじめとする各地の河川が氾らん、堤防の決壊が相次ぎ、明治時代最大の水害となった。
 静岡県では、遠州灘にそそぎ込む浜松市内の馬込川、浜松と磐田郡(現・磐田市)を分ける天竜川、磐田郡内の太田川などの諸河川がはんらんし、天竜川西側の浜松市内で床上浸水1339軒、床下浸水1238軒、同東岸の磐田郡下では家屋全潰22軒、同半潰72軒、同流失21軒、床上浸水4078軒、床下浸水4834軒、山崩れ338か所、2人の死亡者を出している。
 関東地方利根川水系では10日から12日にかけて各地で堤防が決壊、群馬、埼玉両県の被害が大きく、特に群馬県東端の邑楽郡(含む館林市)が集中して被害を受け、堤防決壊79か所、死亡・行方不明49人、家屋全壊254戸、同流失217戸、同床上浸水6890戸、同床下浸水940戸、田畑埋没及び流失2751町歩(27.3平方km)に及び、群馬県全体としては、死亡行方不明310人、家屋全壊423戸、同流失826戸、同床上浸水1万5579戸、同床下浸水1万1575戸、田畑の埋没及び流失3552町歩(35平方km)となった。
 次いで埼玉県では利根川水系で138か所の堤防が決壊し、荒川の洪水被害も含めて死亡・行方不明241人、家屋全壊610戸、同流失988戸となっている。
 東京では荒川が8.5mも増水、千住方面から押してきた濁水によって、本所、深川、浅草、下谷の北部が浸水され、向島の東から亀戸一帯にかけて見渡すかぎり泥海と化した。また神田川、神田上水、千川上水、藍染川も氾らんし現新宿区の戸塚町から小石川、本郷辺りも泥海となり、南部では六郷川が氾らん、大森、羽田一帯も海となった。東京では死亡行方不明48人、家屋全壊88戸、同流失82戸、同浸水19万4889戸。
 関東1府6県の被害合計は、死亡・行方不明847人、家屋全壊2121戸、同流失2796戸(内務省調査による)。そのほか東北地方では北上川の氾らんなどにより、宮城県で死亡行方不明360人、家屋の流失357戸の被害を負っている。
 被災地全体の被害は死亡・行方不明1359人、負傷767人、家屋全壊2765戸、同流失3832戸、同浸水51万8000戸、堤防決壊7063か所、山崩れ1万8799か所の大きな被害となっている(中央気象台)。
 政府では、この首都圏を直撃した明治時代最大といわれた災害に直面し、10月、治水に関する重要事項を調査審議し各関係大臣に建議する、臨時治水調査会を勅令(天皇の命令)として初めて内閣に設置し「治水長期計画」を策定した。
(出典:静岡県編「静岡県史 別編 2 自然災害史>第3章 静岡県の自然災害のさまざま>第4節 暴れ天竜>4 近世の水害 377頁:明治43年・44年の水害」[追加]、小倉一徳編著、力武常次+武田厚監修「日本の自然災害>第Ⅴ章 台風・豪雨災害>2 台風・豪雨災害の事例 448頁~451頁:明治43年関東大水害」、建設省関東地方建設局発行「利根川百年史>第1部 利根川改修工事>第1章 明治後期の洪水 504頁~514頁:1.2 明治43年洪水」、畑市次郎著「東京災害史>第五章 風水害>第三節 明治以降の風水害 148頁~150頁:明治43年の大水災」。参照:2010年10月の周年災害「初の臨時治水調査会設置し第一次治水長期計画策定」[追加])

伊号第六十七潜水艦、浸水沈没事故、原因は後部昇降口(ハッチ)の閉め遅れか(80年前)[追補]
 1940年(昭和15年)8月29日

 通称・伊六七潜は、1932年(昭和7年)8月三菱造船(現・三菱重工業)神戸造船所で竣工、呉鎮守府に在籍、同年11月僚艦伊六六潜水艦の竣工により第30潜水隊を編成、事故当時は予備艦となっていた。
 事故当日は、南鳥島南方海域で行われた連合艦隊(2常設艦隊以上で編制した旧日本海軍の中核)の応用訓練(戦闘時に対応した訓練)に参加していたが、上空から艦載機による制圧(攻撃する体制)を受け、潜航待避したがそのまま沈没した。
 事故原因は不明とされているが、制圧をかけた艦載機の状況報告から、攻撃から待避するため急速に潜航したので、乗員が出入りする後部昇降口(ハッチ)が閉めきれていない状態となり、そこから海水が流れ込み、水量が多いため排水もままならず沈没したものと推定されている。艦長以下88人の乗員と同乗していた潜水隊司令及び演習審判官計90人が殉職。
 潜水艦のハッチは、電車のように電動で閉め運転手が手元で開閉を確認できる仕組みになっておらず、手動で蓋を閉めハンドルでロックする仕組みになっている。蓋を閉めるのには電動より手動のほうが早いということもあるようだが、急な傾斜の昇降梯子に体をあずけてハンドルをロックするので、早く閉めロックするのは結構難しいという。現代でもインドの原子力潜水艦の事例のように、その種の事故は絶えないようだ。
 (出典:外山操著「艦長たちの軍艦史>第7部 潜水艦 432 頁:伊六七潜」、News Week 2018年1月12日「インドの核ミサイル搭載原潜、ハッチの閉め忘れで沈没寸前に」参照:2014年6月の周年災害「伊号第三十三潜水艦、浸水沈没事故」)

国策パルプ工場排水による汚染、川の色が濃い茶色になり、まずウナギが犠牲に(80年前)[改訂]
 1940年(昭和15年)8月
 1931年(昭和6年)9月、南満州(現・中国東北地方南部)に駐留していた、日本陸軍・関東軍自作自演の破壊工作による満州事変を契機として、長期にわたる中国侵略戦争(15年戦争)が始まるが、1940年(昭和15年)頃になると戦火はますます拡大し、生活物資も極端に不足しはじめていた。なかでも絹糸、木綿など天然繊維の不足から化学繊維へと転換をはかることになり、素材としてのパルプの自給が国策として採り上げられることになる。
 そこで“国策”として政府払い下げの木材から、初の国産化学繊維(人造絹糸:人絹、スフ)や製紙用のパルプを製造する会社、文字通りの“国策パルプ工業株式会社(現・日本製紙株式会社)”が、1938年(昭和13年)6月設立され、翌1939年(昭和14年)には北海道旭川市の誘致もあり工場建設にかかった。
 同工場は翌1940年(昭和15年)6月操業を開始したが、2ヵ月も経たない同年8月には、旭川市の常盤公園の池のウナギが死ぬという事件を起こした。
 この事件を受けた翌1941年(昭和16年)の北海道大学の調査によると、工場廃水が公園の池に直接流れ込んでおり、それは主にパルプ製造課程で生じたもので、牛朱別川流域にある国策パルプの工場廃液と確定された。そこには水質に直接影響する亜硫酸塩や二次的な変化をもたらす溶解有機物質などの有害物質が含まれていた。このことから、同社が試験運転段階から、パルプ廃液を排水として工場のそばを流れる牛朱別川に無処理のまま流し、その流域に常盤公園があったので廃液が池に流れ込みウナギが死ぬという事件を起こしたものとわかった。
 また同年には牛朱別川が流れ込む石狩川流域の農業用水の中にも工場排水が流れ込み、下流域の神居古潭、納内、深川、江部乙付近までに及び、約1万ヘクタールの稲作や養魚が被害を受けるようになった。折から食糧増産は戦争遂行のために何物にも勝る国策であり、土地改良区にまとまっていた農民たちは、一方の国策会社である国策パルプ工業に抗議におもむいたが、たまたまその年は冷害の年だったので、工場側は冷害による収穫減であると主張、物別れになったという。
 翌1942年(昭和17年)の抗議に対して、工場側は新設された合同酒精の排水の仕業だと他社に責任を添加させたが、農民たちは北大の調査結果などを持ち出すなど補償交渉を粘り強く行い、1943年(昭和18年)4月、ついに工場側と補償締結を結んでいる。
 当時は太平洋戦争中であり、国の政策を疑問視しただけで“非国民”として排斥されるか、ひどいときは逮捕された時代であったが、その時代に農民たちが自分たちも国策を担う者として土地を守る気概をもち、一方の国策会社に抵抗したのであった。
 (出典:宇井純著「公害原論2>Ⅴ 昭和期の公害問題>石狩川 71 頁~73頁:石狩川汚染の歴史」、北海道農業近代化技術研究センター編「1937~2003 語り継ぐ“大地の詩”>“産業報国”がもたらした悲劇」[追加])

昭和25年熱帯低気圧-志賀高原方面に集中豪雨、穂波温泉一時壊滅(70年前)[改訂]
 1950年(昭和25年)8月3日~6日
 この夏は台風になりきらない熱帯低気圧が次つぎと中部地方から関東、東北地方を襲った。
 8月1日9時ごろ硫黄島西方に発生した熱帯低気圧1は、3日22時ごろ暴風雨をともなって房総半島勝浦付近に上陸、4日0時ごろ千葉県我孫子市布佐付近に達し、関東地方を縦断し翌4日新潟付近から日本海に抜ける。
 ついで2日ごろ硫黄島東方に発生した熱帯低気圧2は、北西に進み5日午前3時ごろ駿河湾沿岸に上陸、甲府付近から中部地方を縦断、新潟県高田(上越市)東方から日本海に入り、佐渡の西をかすめて5日15時ごろ消滅。
 これらにともない北上した暖かい湿った気流と、三陸方面から南下した冷たい気流が衝突、東北、関東、中部地方に大雨を降らせ堤防の決壊が相次いだ。被災地全体の被害、40人死亡、59人行方不明、764人負傷。家屋損壊376戸、同浸水3万2293戸。
 なかでも長野県志賀高原方面では、5日早暁から集中豪雨に見舞われ、9時30分ごろ地元で危険視されていた角間川(横湯川と合流、夜間瀬川となる両川の右岸が湯田中温泉)左岸堤防が決壊、一帯が濁流にのまれ、穂波温泉地区全戸数220戸のうち47戸流失、24戸が半壊し同温泉街は一時、壊滅したという。
 (出典:宮澤清治著「月刊近代消防・気象災害史103、104」、小倉一徳編著、力武常次+武田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に残る自然災害の歴史>5 昭和時代中期の災害>昭和時代中期の主要災害一覧 196頁:東海・関東・東北地方水害」[追加])

○昭和35年台風第16号「五輪台風」、台風第18号により出現した線状降水帯を第16号が刺激(60年前)[改訂]
 1960年(昭和35年)8月28日~30日
 ローマオリンピックが開催されていたころ、マリアナ群島東方洋上に発生した台風第16号が28日朝、北緯29度付近に達したあたりから近畿地方に雨を降らしていた。翌29日14時ごろ高知県西方の宇佐(土佐市)と須崎の間に上陸、四国を縦断して、17時岡山に再上陸、19時30分には鳥取市西部を経て日本海に抜けた。
 当時、本州南東洋上に台風第18号があり、近畿地方へ暖かい湿った空気の流入が活発で、停滞していた秋雨前線とぶつかり上昇、四国東部から淡路島、神戸、大阪府北部、京都府中部、琵琶湖周辺にまで延びる強雨帯(線状降水帯)を次々と出現させ、台風第16号の刺激を受け同台風が日本海に抜けた29日夜から30日朝にかけて京阪神地区に局地的大雨を降らした。
 六甲山で426mm、京都府京北町(現・京都市右京区)で430mmを記録するなど各地で災害を引き起こした。なかでも29日夜、西宮市社家郷山中腹の芦有開発道路工事現場で土砂崩れが起き、従業員宿舎5棟が埋没して71人が生き埋めとなり、うち24人が死亡。淀川上流の桂川上流域では300mmから400mmに達する集中豪雨となり洪水となり、京都府亀岡市及び八木町、園部町、日吉町(以上現・南丹市)、京北町で堤防499か所が決壊し、家屋全壊44戸、同流失15戸、同半壊128戸、同床上浸水2191戸、同床下浸水3555戸。11人死亡、56人負傷(淀川流域災害資料集)。
 被災地全体で50人死亡、11人行方不明、145人負傷。家屋全壊157棟、同流失93棟、同半壊379棟、同床上浸水8026棟、同床下浸水3万6510棟。
 (出典:国土交通省淀川河川事務所編「過去の淀川流域災害資料集>洪水名 昭和35年8月30日(台風16号、18号、前線)」、宮澤清治+日外アソシエーツ編「台風・気象災害全史>第Ⅱ部 気象災害一覧>0989 五輪台風:台風16号」)

○田子の浦ヘドロ公害事件-漁民たちの海上デモなど大抗議集会のすえ「水質汚濁防止法」成立(50年前)[改訂]
 1970年(昭和45年)8月9日
 この日、静岡県由比町(現・静岡市清水区)の漁民たちが、桜エビ漁の小型漁船に思い思いの大漁旗と“ヘドロ公害追放”“駿河湾を返せ”と大書した吹き流しを立てて、田子の浦港を目指す海上デモを行ったのは、日本の漁業史上前代未聞のことだった。
 目的の田子の浦港は、時の高度経済成長政策に乗って1961年(昭和36年)8月に開港した港だが、富士地区の臨海工業地帯としての発展を支えるものとなっていた。ところがかつての吉原湊をベースに潤井川と沼川などが合流する河口に築港されたため、両水系流域に立地する製紙工場など、富士市内大小の工場の排水がすべて港内に流れ込み、排水の中に含まれる浮遊物質(スラッジ)が港内にヘドロとなって沈殿堆積、海上デモ当時には、同港を利用する船舶の着岸にも支障をきたし、ヘドロから発する有害ガスが、港湾関係者のみならず広く住民の健康を犯す存在までになっていた。その上ヘドロの一部が駿河湾に流出、同港が駿河湾の一番奥にあるため、汚水は同湾全域に拡散、回遊する魚類のみならず、同湾に生息する特産の繊細な“桜エビ”の生態にも影響があらわれ、漁獲高が激減するにいたっていたのである。
 デモに参加した由比町漁民たちのイメージの中に、12年前に本州製紙江戸川工場(現・王子マテリアル江戸川工場)が汚水放流事件を起こし、それに対する七ヶ浦漁業協同組合に集結した漁民たちの闘いがあったかもしれない。
 実はこの日、製紙工場などの排水垂れ流しによるヘドロのため漁港閉鎖の危機に直面した田子の浦港の埠頭で、富士市公害対策市民協議会などが呼びかけた沿岸住民大抗議集会が開かれることになり、由比町をはじめ駿河湾沿岸の漁民らが参加した144隻による海上デモのあと漁協など18団体4200人による大抗議集会が開かれた。
 集会では、大昭和製紙(株)など地元大手製紙会社と静岡県知事を港則法違反などで告発することなどを決議、二日後の11日、富士市公害対策市民協議会などが同社と知事を静岡地方検察局に告発、静岡県に対しても住民監査請求を求めた。
 工場排水の垂れ流し防止法は、1958年(昭和33年)本州製紙江戸川工場汚水放流事件による「水質保全法」と「工場排水規制法」が制定公布されていたが、その後も垂れ流しは止まらず、この日の大集会で“ヘドロ公害”が広く知れ渡るようになり、この年の12月18日、上記2法を改正集大成した「水質汚濁防止法」成立へと進んだ。
 (出典:吉原市史編纂委員会編「吉原市史 下巻>第6章 市民生活の新展開>第3節 市民生活と公害>(6)田子の浦港のヘドロ公害」[追加]、大原クロニカ『社会・労働運動大年表』解説編「田子の浦ヘドロ公害追放沿岸住民抗議集会」、NHKア-カイブス動画1970年「田子の浦など 汚染深刻化[追加]」、清水誠著「海洋の汚染(1)一 最近の話題に問題点を探る一 3 頁~8頁:(1)「ヘドロ」問題は何か、(2)ヘドロとは、(3)ヘドロのなかの危険物質」[追加]、衆議院制定法律「水質汚濁防止法」[追加]。参照:2018年6月の周年災害「本州製紙江戸川工場汚水放流事件」[追加])

○昭和45年台風第10号「土佐湾台風」土佐湾で異常高潮(50年前)[改訂]
 1970年(昭和45年)8月20日~22日
 8月15日9時、太平洋北マリアナ諸島サイパン島の北東およそ300kmの海上に発生した熱帯性低気圧は、翌16日12時同諸島アグリバン島付近で台風10号に成長、北西に進み21日8時過ぎ、中心付近の最大風速50mの勢力を保ちながら、高知県佐賀町(現・黒潮町)付近に上陸、11時過ぎには松山市から安芸灘に抜け、12時ごろ呉市東部に再上陸、中国地方西部を縦断、15時ごろには松江市付近から日本海に抜けた。
 これにより高知県室戸岬で最大瞬間風速64.3mの強風が吹き荒れ、20日夜紀伊半島南部に降り出した雨は、夜半過ぎから21日朝にかけて徳島県東部で約600mm、西日本各地で200から300mmの大雨を降らせた。特に土佐湾沿岸では最大潮位313cmという異常な高潮が発生、満潮時と重なったため、須崎市及び高知市周辺一帯が水浸しとなり、農林水産施設をはじめ家屋全壊1134棟、同半壊1万7625棟、同一部損壊7万2111棟、同床上浸水5363棟、同床下浸水1万1747棟。12人死亡、1人行方不明、352人負傷(四国災害アーカイブス)という大きな被害をもたらした。
 また台風の北上に伴い強雨域も北に移動、昼すぎから夜半にかけて中国地方に大雨を降らせたが、台風の東側にあたり湿った雨風が流入した関東地方では、21日早朝から夜に至るまで西部および東部に降雨域が停滞、埼玉県西部から箱根に至る地域では一日中強い雷雨と局地的大雨が断続した。一方、埼玉県熊谷市内でたつまきが発生している。
 この台風による被害は、上陸地点の高知県をはじめ通過した愛媛県、徳島県及び広島県、岡山県、兵庫県で大きいが、被災地全体では、家屋全壊1074棟、同流失48棟、同半壊4212棟、同破損4万3317棟、同床上浸水2万9233棟、同床下浸水3万728棟、同半焼1棟。船舶沈没・流失・破損1403隻。堤防決壊256か所、道路損壊647か所、橋梁流失171か所、通信施設被害2万5422回線、崖崩れ704か所。23人死亡、行方不明4人、556人負傷。
 (出典:宮澤清治+日外アソシエーツ編「台風・気象災害全史>第Ⅱ部 気象災害一覧 323頁:1513 台風10号(土佐湾台風)」、四国クリエイト協会編「四国災害アーカイブス:昭和45年の台風10号・高知県」[追加]。気象要覧 唱和5年>1970年8月>異常気象および気象災害>一覧表 29頁:13 暴風雨、大雨、たつまき・台風10号。個別事象:043頁~47頁:13.20日~22日 近畿地方以西の暴風雨および静岡、山梨、埼玉各県の大雨」[追加] )

静岡駅前ゴールデン地下街ガス爆発事故-準地下街へも消防用設備規制を強化(40年前)[改訂]
 1980年(昭和55年)8月16日
 午前9時半ごろ、静岡駅前の静岡第一ビル地下(準地下街)飲食店で、従業員がガス湯沸かし器に点火しようとしたところ第1回目の爆発が起き、同店と隣の飲食店及び奥の機械室を大破した。
 この爆発について、静岡市消防本部と静岡県警、静岡ガス作業員らが現場検証中の9時56分ごろ、第1回目の爆発があった飲食店のすぐ上の階(1階)にある靴店で2回目の大爆発がおき、同ビル1、2階が大破し炎上、爆風が約60度の角度で道路に吹き出し、通行人を地面にたたきつけ、向かいのデパートや付近の建物のガラスを損壊するなど、半径100mの範囲に大きな被害を与え、さらに火災を発生させた。
 原因は最初の爆発でガス管が破損し、そこから漏れてたまっていた都市ガスに引火したものと考えられている。15人死亡(殉職4人)、223人重軽傷(内消防関係者30人)。
 火災後直ちに消防庁では全国の地下街等の一斉点検を行い、さらに翌年1月には「消防法施行令」を改正、ビルどうしを連絡させている地下道に設けられた“準地下街”に対しても、共同防火管理、防炎規制及び設備的には消火器、スプリンクラー設備、自動火災報知設備、またそれらに新たにガス漏れ火災警報装置を追加した消防用設備規制に関して地下街に準じた設置を義務づけた。
 (出典:近代消防別冊「日本の消防1948-2003>昭和55年>静岡駅前ゴールデン街ガス爆発事故」)

新宿駅西口バス放火殺人事件-跡を絶たない無差別殺人事件、動機なき殺人も(40年前)[改訂]
 1980年(昭和55年)8月19日
 事件の翌日、朝日新聞は朝刊で次のように報道した。
 “バス炎上、三人焼死 新宿駅西口”“ガソリンまいて放火 四人重体、十六人が負傷”“十九日夜、東京都新宿区の国鉄(現・JR)新宿駅西口のバスターミナルで発車待ちをしていた京王帝都バスに、中年の男が火のついた新聞紙と、ガソリン様の液体が入ったバケツを続けざまに投げ込んだため車内は一瞬のうちに猛火に包まれ、約三十人の乗客のうち最後部にいた父子を含む三人が焼死、乗客ら二十人が重軽傷を負った。四人が重体。放火を目撃した通行人が現場を立ち去ろうとしていたこの男を取り押さえ、かけつけた警察官に引き渡した。警察ではこの男を放火殺人の現行犯で逮捕、新宿署に連行して身元の確認や犯行の動機を追求している”
 犯人はその場で取り押さえられたが、犯行の動機として、自分の住居もない不遇な身の上に対し、バスの乗客は帰る自宅もあり幸福に見えたからと自供したという。
 不幸な自分とくらべ、幸せそうに見える見知らぬ他人を無差別に多量殺傷する事件の最初で、秋葉原通り魔事件(2008年6月)、広島自動車工場連続殺傷事件(2010年6月)などその後も跡を絶たないが、最近では、むしゃくしゃして誰でも良いから殺すという、異常な気分のままに殺人に走るという動機なき殺人が見受けられる世相になった。
 (出典:朝日新聞「1980年(昭和55年)8月20日朝刊」[追加])

昭和55年戦後最大の冷害-これを契機に米作中心農業から転換はかる(40年前)[追補]
 1980年(昭和55年)8月
 8月の平均気温が平年より東日本で3~4度、西日本で2~3度低いという冷夏になり、冷害に見舞われた。40年前のことである。温暖化が進む昨今、これは再び起こらないのか。
 この年は6月末からほぼ全国的に低温と日照不足が続き、7月には一時的に高温となったが長続きせず、この8月は太平洋高気圧の勢力が弱く、平年にくらべて盛岡で3.4度C、仙台で3.9度も低かったのをはじめ東京で3.3度、京都で1.7度、福岡で2.7度も下回った。
 これにより、水稲の出穂、開花が大幅に遅れるとともに稔実障害(実:米が稔らない)による不稔もみが多くなった上、いもち病が進んで作況指数が悪くなった。特に東北地方の太平洋沿岸では冷たい北東気流が入り込み、作柄に強く影響し、平年に比べて青森県が全国最低の47、岩手県56,宮城県79、福島県74など。全国平均でも87と著しい不作となり、農地の荒廃と働き手不足が影響した終戦直後の1953年(昭和28年)の84に次ぐ凶作となった。
 また鳥取県で特産の二十世紀ナシの被害額が史上最悪を示すなど、野菜、果樹、雑穀、豆類などの被害も大きく、冷害を受けた田畑(農耕地)は全耕地面積の52.7%の288万6000ヘクタール、冷害額合計は6919億円と第二次世界大戦後(1945年以降)最大の冷害となった。
 しかし、この冷害を機に米作中心の農業体質を根本的に見直し、地域性を生かした多角的、集約的な農業が全国的に展開されるようになった。それを可能にしたのが、高速道路の整備などにより、生産地から大都会など大消費地への輸送時間の短縮、保冷集出荷設備・システムの開発など物流の近代化により、新鮮な生産物が必要な時に消費者に届けられるようになったからであった。
 (出典:小倉一徳編著、力武常次+武田厚監修「日本の自然災害>第Ⅵ章 豪雪災害・冷害・干害>4 冷害・干害・飢饉の事例 529頁~530頁:昭和55年の冷害」)

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