【目 次】

永延から永祚(えいそ)に改元、ハレー彗星出現による(1030年前)[改訂]

・永祚元年畿内大暴風雨「永祚の風」平安朝期最大の巨大台風、天下大災、古今無比(1030年前)[改訂]

承徳から康和へとまた改元、平安朝末期の混乱に巨大地震からむ(920年前)[再録]

嘉暦から元徳へ改元、インフルエンザ大流行による(690年前) [再録]

長享から延徳へ改元、三日病?流行による(530年前) [再録]

・幕府、慶安2年川崎地震を受け-江戸城「地震警備の制」定め強化図る(370年前) [再録]

・寛文9年北九州暴風雨各藩領内の住家、田畑に大損害与える(350年前)[改訂]

・元禄12年8月台風、北九州、東海、北陸、関東、東北各地に被害、江戸米不足で物価騰貴(320年前)[改訂]

・明治22年9月台風紀伊半島から中部地方縦断、愛知県下に集中被害(130年前)[改訂]

・明治32年9月台風、福井県下で九頭竜川、日野川など氾濫(120年前)[再録]

函館明治32年の大火「丸平火事」3時間で2494戸焼失(120年前)[再録]

・警視庁、交差点で挙手の合図による交通整理はじめる-信号標板も検討(100年前)[改訂]

・昭和34年台風第14号「宮古島台風」宮古島で7割の住家が失われ、長崎県でも大被害(60年前)[改訂]

・昭和34年台風第15号「伊勢湾台風」海抜0mの人口集中地帯へ観測史上空前の高潮が襲来
明治以降最大の犠牲者を出し「災害対策基本法」制定の契機に(60年前)[改訂]

・大阪府枚方市“敬老のつどい”ちらし寿司食中毒事件、調理品の数日間放置で菌増殖か(50年前)[改訂]

・初の対策強化地域指定の地震防災基本計画制定。その後、対策強化地域に指定されていなかった阪神と東北が
 巨大地震災害に見舞われたが、国の地震予知体制、災害救援体制は強化された(40年前)[改訂]

・平成元年秋雨前線豪雨、秋雨前線が忍者ぶり発揮し全国各地に飛び飛びの大雨(30年前)[再録]

・平成11年台風第18号(不知火高潮災害)-高潮対策強化マニュアル作成へ(20年前)[改訂]

東海村JCO臨界事故会社の安全教育不備、作業マニュアルの安易な変更がレベル4の大事故起こす
 -しかし東海村消防本部の適切な情報収集による正確な判断が被災拡大防ぐ
(20年前)[改訂]
 

【本 文】

永延から永祚(えいそ)に改元、ハレー彗星出現による(1030年前)[改訂]
 989年9月15日(永延3年8月8日)
 ハレー彗星が都の大空に出現したので、天変、地震などの災異を攘(祓う)ため改元したとある。
 その星は記録によると、2か月前の7月11日(旧暦・6月1日)に初めて出現し、それ以降毎晩現れその長さ5尺余(1.5m以上)もあったという。
 この時代、ここ数年は特に大きな災害は起こっておらず、日本書紀の天武(弘文)13年7月23日(新暦・684年9月10日)に大彗星が現れ、その2か月半ほど後の10月14日(新・11月29日)に歷史に残る超巨大地震白鳳地震が起きたことを古書で確認し、彗星の出現は不吉なことが起こる前兆と考えたのだろう。
 危惧は当たり、改元の甲斐なく僅か5日後、平安時代最大の暴風雨災害「永祚の風」が吹き渡った。(次章参照) 
 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション・国史大系.第5巻「日本紀略 後篇九>一条天皇>永祚元年>八月 1004頁(512コマ):八日丙辰。改元為永祚元年。」[追加]、池田正一郎著「日本災変通志>平安時代後期 128頁~129頁:永祚元年>128頁:〇八月八日、改元永祚」、日本書紀・巻第廿九「天渟中原瀛眞人天皇 下 天武天皇>十三年-秋七月-壬申、彗星出于西北、長丈餘。冬十月-壬辰(中略)大地震。」[追加]、宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧>4 被害地震各論 43頁:003・土佐その他南海・東海・西海諸道(白鳳大地震)」[追加]。参照:2014年9月の周年災害「ハレー彗星出現、歴史書に残る最初の記録」)

○永祚元年畿内大暴風雨「永祚の風」平安朝期最大の巨大台風、天下大災、古今無比(1030年前)[改訂]
 989年9月20日(永祚元年8月13日)

 ハレー彗星が出現したせいか、験を担いで改元した効果がなかったのか、改元後僅か5日後、都から畿内一円(山城、大和、河内、和泉、摂津:京都府南部、奈良県、大阪府、兵庫県東部)が平安時代最大の巨大台風に襲われ大暴風雨となった。
 同時代に編集された歴史書「日本紀略 後編九 一条院 上」によると“酉戌刻(午後6時から8時ごろ)、大風。宮城門舍多以顛倒(皇居を囲む門や殿舎の多くが倒潰した)”と記したのち、具体的に被害にあった門や殿舎の名を挙げて被害状況を記し“并諸司雜舍、左右京人家、顛倒破壞、不可勝計(ならびに諸官庁やその他の建物及び都の左京、右京の人家など倒潰した建物の数は数え切れない)”とし、“又鴨河堤所々流損(また、鴨川の堤防も所々決壊した)。そして“賀茂上下社御殿、并雜舍(賀茂神社の上社、下社及び境内の建物)”をはじめ著名な都の神社や寺院も倒潰したと記している。
 被害は都だけでなく、畿内各国
では“洪水高潮、畿内海濱河邊民烟、人畜田畝為之皆沒、死亡損害、天下大灾(災)。古今無比。(洪水や高潮で、畿内の海や浜、川辺の民家、人々や家畜たち、田畑が皆無くなった。死亡者や損害額などその被害は天下の大災害で、今までの災害とは比較にならないひどさだ)”とある。
 この大災害により、翌990年11月26日(永祚2年11月7日)年号が正暦と再び改元された。また後に“永祚の風”と言えば大風による災害のたとえとしても使われるようになった。ちなみに、この大災害のエピソードとして、平安時代末期12世紀ごろまとめられたという「今昔物語」の中に、比叡山延暦寺の高さ八尺(約2.4m)もする大鐘が“永祚の風”に吹き転がされて谷底に落ち、房舎をなぎ倒した話が載っているが、強風を体験した人の驚きが想像できる。
 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション・国史大系.第5巻「日本紀略 後篇九>一条天皇>永祚元年>八月 1004頁(512コマ):十三日辛酉。酉戌刻。大風」、同コレクション・国史大系.第6巻「扶桑略記 第廿七>一条天皇 756頁(386コマ):永延三年己丑八月八日。改為永祚元年。於彗星天變也。〇十三日。夜。天下大風。」[改訂]、同コレクション・丹鶴叢書「今昔物語 下>巻19>比叡山大鐘爲風被吹辷語巻丗八」[追加]、小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>1 上代・中世の災害>平安時代の主要災害一覧 55頁:永祚1.8.13京都・畿内大風雨(永祚の風)」、 池田正一郎著「日本災変通志>平安時代後期128頁~129頁:永祚元年>128頁:〇八月十三日」)

承徳から康和へとまた改元、平安朝末期の混乱に巨大地震からむ(920年前)[再録]
 1099年9月21日(承徳3年8月28日)

 地震と疫病により改元とある。
 この日の7か月前の2月22日(旧歴・承徳3年1月24日)、マグニチュード8クラスの巨大地震が南海道(紀州:和歌山県、四国)から畿内を襲った。南海トラフ沿いを震源とする康和南海地震である。前の元号の承徳も1年8か月前の1098年1月(旧・永長2年11月)に永長から代っている。原因の大きな一つに、ほぼ1年前の1096年12月(旧・嘉保3年11月)に起きたこれもマグニチュード8クラスの巨大地震、永長地震がある。1096年12月から1099年2月、僅かその間2年2か月である。被災地、被害状況から永長地震も、南海トラフ沿いを震源地とする東海+東南海連動地震と見られている。そこで近年では康和南海地震と関連づけて、2年余の間をおいた東海+東南海+南海3連動地震とし「永長・康和地震」とも呼ばれている。
 数年の間に続いた巨大地震の洗礼あり、その上、世情は源氏、平氏の武家が台頭、公家の力は弱体化、比叡山の山法師(武装した下級僧)の強訴ありと、朝廷の権威は院政と呼ばれる白河上皇の独裁的権力で、ようやく保たれているようなものであった。盗人は横行し時代は騒然としていた。朝廷でなくても験を担ぎたくなるのは無理からぬ世情であった。
 (出典:池田正一郎著「日本災変通志>平安時代後期 154頁~155頁:康和元年>154頁:〇八月二十八日、改元」、宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧>4 被害地震各論 47頁~48頁:038 畿内・東海道、48頁:039 南海道・畿内」[追加]。参照:2019年2月の周年災害「承徳地震は南海トラフ沿い地震か」[改訂]、2018年1月の周年災害「永長から承徳へ(中略)たった1年でまた改元」、2016年12月の周年災害「永長地震(東海、東南海連動地震)起きる」)

嘉暦から元徳へ改元、インフルエンザ大流行による(690年前)[再録]
 1329年9月30日(嘉暦4年8月29日)

 鎌倉時代最後の改元で、疫病により改元とある。
 この疫病というのはインフルエンザで、南北朝時代に成立したという歴史物語「増鏡」に“今年はいかなるにか、しはぶきやみはやりて、人多くうせたまふ(失せ給う)中に”とある。この“しはぶきやみ”というのは“咳病み”で、当時、インフルエンザのことをこう名付けており、当時でも人の多くが死亡する感染症であった。現代になってもその姿を変えて大流行をくり返し、多くの人たちを死亡させている。
 (出典:池田正一郎編著「日本災変通志>中世 鎌倉時代 246頁:元徳元年・八月二十九日、改元元徳」、富士川游著「日本疫病史>流行性感冒>疫史 252 頁:元徳元年」、国立国会図書館デジタルコレクション「増鏡:頭注 下>第十八 むら時雨 156頁(92コマ):今年はいかなるにか……」[追加])

長享から延徳へ改元、三日病?流行による(530年前)[再録]
 1489年9月25日(長享3年8月21日)

 疫病により改元とある。改元せざるを得ないほどの疫病とは何だったのか?
 公家山科家に仕えた大沢久守の日記「山科家礼記」の改元の前年1488年(旧暦・長享2年)の記述は、8月21日、23日、9月1日、6日(旧・7月5日、7日、16日、21日)と“三日病”の単語で埋まっている。たとえば旧暦7月5日“三日病、今日うは、同つる病候也、世間事外はやる也”とある。
 では三日病とは何か。古代から江戸時代に至る感染症の歴史をまとめた富士川游は“三日病と名づけられたるものは、果たして何の病なりしか。” と自問し、“その名義は、病性の軽く、二三日して経過することをいうものなるべければ、麻疹(はしか)の軽度の症を指していいしか。その大流行的なるをして推せば、或いは流行性感冒(インフルエンザ)をも含みしか。或は後の代に、三日麻疹(ミッカハシカ)、一名ハシカ風(すなわち風疹)というものと同一の症なりしか”と自答し、結局判断できなかった。
 ところが、暦仁2年(新暦・1239年)から永禄5年(新・1562年)の大事を記録した年代記「暦仁以来年代記」に前記の「山科家礼記」と同じ年の記述として“七月、八月、疫病、人多死”とある。軽度の症ならば“人多死”はないだろうと思われる。やはり“風疹”だったのであろうか。
 (出典:京都歷史災害研究会編「京都歷史災害年表>1401~1500・176頁:1488年8月21日~9、10月(長享二年七月五日~八月)」、池田正一郎編著「日本災変通志>中世 戦国時代 297頁:延徳元年・〇此年も疫病流行して人民死す」、富士川游著「日本疫病史>風疹 211頁:三日病と名づけられたるは……」)

幕府、慶安2年川崎地震を受け-江戸城「地震警備の制」定め強化図る(370年前)[再録]
 1649年9月1日(慶安2年7月25日)
 この日、東海道川崎宿を中心にマグニチュード6.4の地震が起きた。
 宿場では140~150軒ほどの民家と7か所の寺が崩潰、江戸では雑司ヶ谷薬園のお茶屋、江戸城竹橋御門と平河御門の間にあった御舂屋(おつきや:城内で使用する食材。燃料の管理施設)が破損し、9月15日(旧暦・8月9日)まで余震が続いた。
 当時幕府では、5月(旧・4月)に行われた将軍世子(世継:家綱)の日光社参に際し、2月(旧・前年12月)に町方に初の防火令を出し、当月には町内に自身番屋とは別に中番屋を設置させて治安強化を命じていた。中でも今回の川崎地震を受け、1か月ほど前の7月30日(旧・6月21日)の下野地震で江戸城二の丸の石垣や塀が破損、大名屋敷の長屋などが倒潰した教訓を踏まえ、川崎地震2日後の3日(旧・27日)、江戸城内の地震の際の警備制度を定め、翌9月8日(旧・8月2日)には、地震の際の江戸城への出勤体制(登城の制)を定めるなど、肝心な御城の防災体制も怠りなく強化している。
 (出典:宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧>4 被害地震各論 62頁:108 武蔵・下野、109 江戸・川崎」、東京都編「東京市史稿 産業編 第4・852頁:附記二 地震并に地震警備の制、地震登城之制規定」。参照:2019年2月の周年災害「江戸町奉行、火災シーズンを前に、町方に一連の警火の町触出す」[改訂]、2019年5月の周年災害「江戸町奉行、将軍世子(世継)家綱日光社参に際し、治安強化策として中番を置く」[改訂]、2019年7月の周年災害「慶安2年武蔵、下野地震」[改訂])

○寛文9年北九州暴風雨、各藩領内の住家、田畑に大損害与える(350年前)[改訂]
 1669年9月3日~7日(寛文9年8月8日~12日)

 台風なのか、北九州各地を暴風雨が襲った。まず3、4日(旧暦8、9日)ごろから大雨が降り始め、6、7日(旧・11、12日)になると暴風雨となり、洪水や高潮で多くの家が倒壊し流された。公儀(江戸幕府)への報告によると-。
 肥前(長崎県)島原藩領では、城の本丸、二の丸、三の丸に損壊、領内の住家923軒流失。肥前(佐賀県)唐津藩領では、住家595戸倒潰、表高(公式石高)の19%1万3000石余の田畑に浸水。同佐賀藩領では、大風雨で領内各河川が氾濫して住家8517戸が倒潰・流失、表高の35%12万5000石余相当の田畑に浸水した。
 肥後(熊本県)熊本藩領では、大風雨で住家432戸流失、船舶16隻流失、11人が死亡。筑後(福岡県)久留米藩領では、住家2606戸倒潰、表高の42%8万8400石余相当分の田畑に浸水。豊前(大分県)中津藩領では、大雨と強風により、領内河川の水かさが増し、防波堤が200間余(0.4km)決壊して足軽の家6、7軒、町家60軒余が流失、13人が死亡している。
 (出典:池田正一郎著「日本災変通志>近世 江戸時代前期 379頁~380頁:寛文九年>380頁:〇八月九日より」、荒川秀俊ほか編「日本旱魃霖雨史料>霖雨の部 283頁:寛文九年 北陸並近江、出雲諸国 大雨・洪水>265頁:徳川実紀>八月廿八日」)

○元禄12年8月台風、北九州、東海、北陸、関東、東北各地に被害、江戸米不足で物価騰貴(320年前)[改訂]
 1699年9月6日~8日(元禄12年8月13日~15日)

 8日(旧暦15日)風の強い台風により、北九州をはじめ東海、北陸から関東、東北地方を中心に暴風雨に見舞われた。
 まず6日、7日(旧暦13日、14日)の両日、久留米で各地に落雷。7日夜、肥前(長崎県)諫早藩領内では、内陸部で山汐(土石流)、沿岸部では高潮に襲われ、住家450軒余が流され、人馬多数が死亡。        
 東海道筋でも同夜、遠江の三竹村(現・浜松市)で、大小500軒程の家屋が破損。同横須賀町(現・掛川市)の横砂入江の塩囲い堤防では、圦(いり:水門)2か所が押し抜かれ、堤防約3.6kmが崩壊して塩水が進入、平年8000石余の収穫が見込まれる田畑が流された。8日(旧・15日)夕刻になると、台風は東に移動、酉の刻(18時頃)駿河(静岡県)の蒲原町で、宿場町の約100軒が大波にのみこまれ宿泊客も含め60人が死亡、翌9日には伊豆地方を風雨に巻き込んで通過、狩野川下流の沼津では、氾濫により田畑が全滅同然となっている。
 北陸加賀(石川県)地方でも“15日(新暦8日)、暴風雨申下刻(17時頃)より雨天、戌刻(20時頃)より子刻(24時ごろ)烈風吹(中略)水損(水害)津波(高潮)大風にて人家潰(倒潰)牛馬の死数不知(数知らず)、男女死人夥(おびただしい)大木倒伏(倒れ伏し)山崩(山体崩壊)田畑の損亡不一勝斗(勝ること知らず)”と「変異記」で伝えられている。
 関東では8日(旧・15日)夜半の暴風雨が、各藩領の住家や田畑に大損害を与えた。上野(群馬県)前橋藩領では、同日深夜に南東の強風が吹き荒れ、侍屋敷38軒、町家、百姓家5276軒が倒潰、8人が死亡した。下野(栃木県)宇都宮藩領では、同日夜半から翌日朝に至る大風のため不作となり米価が高騰した上、台風の刺激を受けた前線のいたずらか、11日(旧・18日)にも大風雨に見舞われ、民家(農民の家)、町屋、山林ことごとく吹き倒されて1戸も満足な家がなかったという。常陸(茨城県)水戸藩領では、8日夜半の暴風雨で、表高の30%余にあたる11万石余相当の田畑に損害があった。
 東北では同台風も含めた天候不順によりこの年の損害は、陸奥盛岡藩で、平年より6万6020俵(約2万6400石:表高の26.4%)ほど不足し、翌元禄13年(1700年)には飢えた領民およそ2万786人を救済することになる。盛岡藩より北の八戸藩では、領内の九戸郡(くのへぐん;岩手県)と三戸郡(青森県)の米の損耗高が、平年の約8割に達したと幕府へ報告している。
 これら米を始め農作物の凶作を受け、幕府では9月26日(旧・9月4日)次のように各国の代官(幕府直轄領の責任者)に指示した。“こたび各國暴風雨にて、禾穀(稲)損亡するにより、府内(江戸)の米穀不足たるべければ、かねて各國より府に運漕の米穀はいふまてもなし(言う迄もなし)。其他の食料の外は、なるべき程府内に運致せしむべし、今年より来秋まで、諸國醸酒是までの五分の一つくらしめ、其他停禁せらるべし(徳川実紀)”と、江戸への米穀の運漕の徹底と酒の醸造を制限し、米価の上昇と来るべき飢饉に備えた。
 それでも江戸に送られてくる米が足らず、物価が上がり、旗本も困窮して7690人の多きに賑給(米などを給与)しなければならなかったという。
 (出典:小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>2 近世の災害>江戸時代の主要災害一覧 89頁:元禄12.8.15諸国暴風雨」、池田正一郎著「日本災変通志>近世 江戸時代前期 404頁:元禄十二年・〇八月十三、四日、〇元禄十二年八月十五日の夜、△この頃、江戸府内の銭価騰貴し」、静岡県編「静岡県史 別編2 自然災害史>第2章 静岡県の自然災害史>第2節 近世・近現代>元禄期の風水害 185頁:8月15日の台風で」、石川県農林部+金沢地方気象台+気象協会金沢支部編「石川県災異誌>変異記より」、西村真琴+吉川一郎共編「日本凶荒史考 332頁~336頁 元禄十二年、この歳時候不順……>八戸藩史稿、公國史、宇都宮史、常憲院殿御實紀」)

○明治22年9月台風、紀伊半島から中部地方縦断、愛知県下に集中被害(130年前)[改訂]
 1889年(明治22年)9月11日~12日

 11日午後9時に最大風速26.2mを記録した台風が、高知県沖から紀伊半島に上陸、濃尾平野を抜け午後7時ごろ名古屋付近を北東に進み、中部山岳地帯を経て富山県より日本海に入り、翌12日早朝、青森県に再上陸し太平洋へ抜けた。
 この影響により、近畿から関東地方にかけて各地が暴風雨に見舞われた。中でも愛知県では伊勢湾、三河湾に高潮が起きて多数の家屋が流失、浸水し多数の犠牲者が出た。また同県では豊川、逢妻川が氾濫し多くの被害が出ている。
 中でも豊川流域沿岸の南設楽郡と八名郡(現・新城市の大部分と豊橋市の一部)では、7人が死亡、堤防41か所が決壊し家屋流失12戸、同全潰233戸、同半潰1230戸、橋梁流失破損86か所、田畑の流失と冠水が0.43平方km。三河湾沿岸の吉良町及びその付近(現・西尾市)では、高潮により堤防37か所3.7kmが決壊し、521人死亡、家屋流失331棟、同全潰73棟、同半潰・半流失137棟、船舶破損94隻という大打撃を受けた。
 愛知県全体の被害は876人死亡、79人負傷。家屋倒潰7191棟、同流失7132棟、同破損5万5626棟、同浸水3万1730棟、道路決壊全長230km、堤防決壊全長160km、橋梁流失1379か所、船舶破損・流失2854隻、大災害である。
 隣県の静岡県では、午後8時頃から暴風雨と激浪が県中西部を襲い、天竜川その他諸河川が氾濫、天竜川では西岸の堤防破損の被害が多く、中瀬村の500間(0.9km)をはじめ延べ786間(約1.4km)にわたって破堤、中野町(現・磐田市)で家屋の流失4軒、同浸水300軒の被害が出た。その他主な被害は、暴風によるものが多く、沿岸の引佐(いなさ)郡井伊谷村、気賀町(現・浜松市)、天竜市二俣町で1人死亡、家屋全潰56軒、同半潰48軒、床上浸水71軒の被害があり、同川から東の被害は、周智郡下で家屋流失3軒、同全潰73軒、同半潰153軒、志太郡藤枝地区(現・藤枝市)で家屋全潰98軒、同半潰108軒の被害に見舞われている。
 関東地方では、酒匂川、相模川、多摩川、荒川、利根川が氾濫、13日、14日洪水となった。神奈川県下では、住家全潰40戸、同半潰686戸、橋梁流失・破壊5か所、道路損壊11か所など。東京では、特に荒川の戸田橋付近で14日午前5時5.1m増水し、家屋全潰328戸、同半潰215戸、同破損4300戸、同床上浸水528戸、道路破損191か所、橋梁破損16か所、船舶破損・流失23隻の被害を受けている。
 まれな被害では、この時旋風(竜巻)が三重県辰水村(現・津市)で起こり、同村31戸の内4戸を残し他のすべてを全半潰とした。
 (出典:小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>3 明治・大正時代の災害>明治時代の主要災害一覧 127頁~128頁:明治22.9.11近畿・東海・関東・甲信越地方等風水害」、愛知県編「愛知県災害誌>明治22年 122頁~123頁:9月11日 風水害、暴風・洪水、高潮」、静岡県編「静岡県史 別編 2 自然災害誌>第3章 静岡県の自然災害さまざま>第2節 近世・近現代 211頁:明治22・23年の風水害」[追加]、神奈川県防災消防課編「神奈川県災害史>台風の部 80頁~81頁:3.台風(風水害)明治22年9月11日」[追加]、東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の消防百年の歩み>明治中期>明治中期の水害 83頁~84頁:明治二十二年九月の水害」)

明治32年9月台風、福井県下で九頭竜川、日野川など氾濫(120年前)[再録]
 1899年(明治32年)9月6日~8日

 6日から降り続いた雨は、8日午前中には暴風雨となって福井県下各河川を急激に増水させた。
 九頭竜川支流の日野川流域の今庄(現・南越前町)で、8日には降水量217mm/日を記録したほか、九頭竜川本流、足羽川など各流域の上流域でも100mmを上回る降水量を記録し、特に九頭竜川では森田村(現・福井市)で20尺(約6m)、日野川では麻生津村(現・福井市)で23.4尺(約7m)と、各河川を急激に増水させ、氾濫した急流は各所で堤防を決壊させた。
 被災地は福井市、吉田、坂井、丹生、今立、南条、大野、足羽各郡で、その被害は死傷者5人、家屋の全潰・流失1万5346戸、耕地の流失1510町(15平方km)、田畑等の浸水6万8232町(677平方km)、堤防の決壊延べ3万501間(55.5km)、同破堤延べ2万1015間(38.2km)だった。
 (出典:国土交通省福井河川国道事務所編「九頭竜川流域誌>第2編 治水の歷史>第1章 洪水災害の歷史>3 明治期の代表的な水害>3.2 主要洪水の概要>(4) 明治32年9月の洪水」、同編「同流域誌>第2編 治水の歷史>第1章 洪水災害の歷史>3 明治期の代表的な水害>3.3 洪水年表>表2.1.7(2)洪水および土砂災害>明治32.9.6~9.8」[追加])

○函館明治32年の大火「丸平火事」3時間で2494戸焼失(120年前)[再録]
 1899年(明治32年)9月15日
 午前9時40分ごろ豊川町42番地の荒物商森平吉方より出火した。
 炎は折からの強い乱風にあおられて火勢はますます激しくなり、同町をはじめ汐止、地蔵、西川、東川など各町に延焼し、午後1時鎮火、2494戸が焼失した。出火元の商店の屋号から丸平火事と呼ばれている。
 (出典:冨原章著「函館の火災誌 120頁:9月の火事2件>① 豊川町出火(丸平火事)」)

警視庁、交差点で挙手の合図による交通整理はじめる-信号標板も検討(100年前)[改訂]
 1919年(大正8年)9月15日 

 この日、警視庁では、わが国ではじめて“挙手の合図”による交差点での交通整理を本格的に実施した。
 現在、東京の路面電車は、全長12kmの都電荒川線だけだが、この当時は1903年(明治36年)の創業以来16年がたち、約100kmに及ぶ路線が張り巡らされ、1635両の車両が走っていた。また市内の自動車も3000台を超えていた。当然、繁華街特に交差点での交通事故が憂慮されていたのである。
 そこで交差点での交通整理となるのだが、この交通整理の実施には法的な裏付けがあり、すでに19年前の1900年(明治33年)6月に制定した「警視庁令第25号・道路取締規則」第2条の“所轄警察官署に於て危険又は通行上支障ありと認むるときは之が除去、停止若は(もしくは)危険予防の装置を命じ”と、第35条の“通行禁止の榜示(標示)ある場所を通行すべからず”の規定に基づき、交通事故防止の方法として実施されたものであった。
 この挙手の合図による交差点での交通整理は、当時すでに欧米では実施されていた方法で、通行可否の合図を、片手を水平に挙げて“止まれ”もう一方の手を直角に挙げ、手のひらを内側にして前後に振り“進め”という、手の動きを中心として行う方法であった。70歳以上の大都会に住んでいた方は、見た覚えがあると思うが、終戦直後(1945年9月~)アメリカ占領軍のMP(軍の警察官)が、繁華街の交差点で身振り手振り鮮やかにやっていた、あの方法である。
 またこの方法によるテストは、2か月ほど前の7月27日、築地警察署の警察官68人が総出で、銀座尾張町(現・四丁目)交差点の沿道に立ち、最初は15名で整理を行い、最後は4名に減らし行われた。
 当日、このテストを経て交通整理を実施したのは、上野広小路交差路(点)、神田須田町交差路、日本橋通一丁目白木屋前(現・コレド日本橋前)交差路、銀座四丁目交差路の四か所の交差点で、現在でも繁華街の交差点として、人も自動車の交通量が多いが、当時はそれに路面電車の中心路線でもあった。
 ところが、担当した各警察署では、交通専務巡査を4人も交差点に配置して“進め”“止まれ”を、声をからし怒鳴声もまじえて、身振り鮮やかに?やって見せたのだが、電車の運転手は内部通達で承知していたというが、一般の市民にはなんのことやらさっぱりわからず、交通整理がなかなかうまくいかなかったという。
 この担当者の苦労を見た、当時の薗部上野警察署長と日伴交通主任は、止まれ、進めが一見してわかる方法が無いものかと検討を重ね、止まれ、進めを標示した“信号標板”を考案した。その形は長い丸い棒の先に、黒塗りの矩形の板を十文字に取り付け、一方に“止・トマレ”片一方に“進・ススメ”と白文字で大きく書いた素朴なもので、挙手による整理とともに、それを巡査がハンドルで回し、交通を止めたい場合は“トマレ”を見せ、進めたい場合は“ススメ”を見せる方法である。文字が読めれば意味がわかるわけで、挙手による交通整理がはじまる15日前の9月1日に上野広小路交差点で試した。しかし、成績良好とは行かなかったようだ。
 その後、信号標板は、色彩も赤=止まれ、緑=進めと、当時、欧米で使用されていた信号機の色彩を使ったり、形も円盤形になったりと、さまざまな改良が試みられた。その結果、3年後の1922年(大正11年)8月、日比谷交差点で、金属製円盤に赤色地に白文字で“止レ”、緑色地に白文字で“進メ”と標示された“交通整理器”として登場。東京、名古屋の数10か所の交差点で使用されるようになったという。+
 一方、本格的に実施された挙手の合図による交通整理は、2年後の1921年(大正10年)本庁において、その方法をマニュアル化し、例規として各警察署に指示されている。
 (出典:警視庁史編さん委員会編「警視庁史(2) 大正編>第5節 保安・衛生の指導と取締>第3 交通の指導と取締 693頁~695頁:五 交通規制及び交通整理を実施する、697頁~702頁:七 はじめて交通信号機を使用する」、交通管制施設協会交通信号50年史編集委員会編「交通信号50年史>第1章 概説>1.1 交通信号年表 2頁:大正8年9月」、同編「同著>第1章 概説>1.2 交通信号の創始期 11頁~17頁:2.1 交通信号の発足、21頁~22頁:交通整理ノ信号方法ニ関スル件」、追録 1頁、道路交通問題研究会編「道路交通政策史概観 資料編>第10 交通規制・管制関係>4 信号機、交通管制の歩み 523頁~524頁:大正時代」、同編「同書>第10 交通規制・管制関係>6 交通信号の変遷>2 地点信号制御の推移 533頁~534頁:2-1 手旗、手信号及び標板型による交通整理」)

○昭和34年台風第14号「宮古島台風」宮古島で7割の住家が失われ、長崎県でも大被害(60年前)[改訂]
 1959年(昭和34年)9月15日~18日

 12日にグアム島付近で発生した台風は、発達しながら西北西に進み、最大風速70m、暴風域半径300kmという非常に強い勢力となり、15日午後7時ごろ、従来の記録を更新する908.1ヘクトパスカルという最低気圧で宮古島を通過。その後韓国釜山付近に上陸後、向きを東に変え日本海を通って北海道南部に再上陸した。
 この影響で、宮古島では最大瞬間風速64.8m/秒を観測、1日の降水量は石垣島で170.5mm、宮崎県の山岳地帯や四国山脈南側斜面で約200mmを記録している。これにより、宮古島では住家3680戸が全壊、6012戸が半壊するなど7割の住家が失われ、農作物の被害は5割以上に及び、宮古群島全体で住民90人が死傷した(宮澤「気象災害史」)。
 またこの台風は暴風域が広く、九州や北海道で25m/秒を越える強風が吹きすさび、瞬間最大風速は70m/秒を記録、長崎県では高潮や大波により、家屋の流失90戸、同全・半壊1862戸、同床上浸水2364戸、同床下浸水6863戸に及び、570隻の船舶が沈没・流失・破損した。流失及び冠水した水田12平方km、畑は6.4平方kmと農作物も広範囲な損害を受けた。40人の死亡者を出している(宮澤・同)。また佐賀県福富村(現・白石町)では、有明海の高潮で堤防が破壊され住家80戸が水没、干拓地の水田が全滅した(台風気象災害全史)。さらに黄海や九州近海での船舶の被害が多く、沈没・流失185隻、死者行方不明78人に上った(宮澤・同)。
 一方、再上陸地の北海道渡島半島では、熊石村(現・八雲町)と大成村(現・せたな町)で、波浪や高潮により数百戸が流失・損壊した(台風気象災害全史)ほか、船舶の被害総数は600隻を超えている(宮澤・同)。
 被災地全体の被害は、47人死亡、52人行方不明、509人負傷。住家流失143棟、同全壊1302棟、同半壊1858棟、同損壊1万3329棟、同床上浸水3526棟、同床下浸水1万834棟(宮澤・同、理科年表による)。船舶損失1655隻、堤防損壊580か所に上る(日本の自然災害)。
 (出典:気象庁編「災害をもたらした気象事例>昭和34年 宮古島台風」小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>5 昭和時代中期の災害 213頁:昭和34.9.16~18全国各地方水害(宮古島台風)」、宮澤清治+日外アソシエーツ編集部編「台風・気象災害全史>第Ⅱ部 気象災害一覧 248頁:0951 台風14号(宮古島台風)」、宮澤清治著「気象災害史(168)〝暴風〟の棲む島(2)-一九五九年九月の宮古島台風(台風14号)-」、註:被害数を単純合計すると、合わないので出典先を明示した。)

○昭和34年台風第15号「伊勢湾台風」海抜0mの人口集中地帯へ観測史上空前の高潮が襲来、
  明治以降最大の犠牲者を出し「災害対策基本法」制定の契機に(60年前)[改訂]
 1959年(昭和34年)9月26日~27日
 第14号「宮古島台風」が去って10日も経ったか経たない26日、今度は「宮古島」が訪れなかった地方に、明治以降、我が国に最大の被害をもたらした超大型台風がその姿を現した。第15号「伊勢湾台風」である。
 9月21日マリアナ諸島の東海上で発生したこの台風は、猛烈に発達した非常に広い暴風域を伴って北上、26日午後6時ごろ和歌山県潮岬の西方に、中心気圧929.6ヘクトパスカル、最大風速50m/秒、暴風域半径500kmという非常に強い勢力で上陸した。
 その後6時間余りで本州を縦断、富山市の東から日本海に進み、北陸、東北地方の沿岸に沿って北上、同地方北部を通って太平洋側に抜けた。台風の暴風域が広く、広範囲で強風が吹きまくり、愛知県伊良湖岬で最大風速45.4m/秒、最大瞬間風速55.3m/秒、名古屋市で最大風速37m/秒、最大瞬間風速45.7m/秒を観測するなど、九州から北海道に及ぶほぼ全国で、20m/秒を越える最大風速と、30m/秒を越える最大瞬間風速を観測した。
 この影響で、特に紀伊半島沿岸一帯と伊勢湾沿岸では高潮、強風、河川の氾濫が相次ぎ大災害となった。
 愛知県では、名古屋市や東の知多半島から西の三重県桑名市に至る伊勢湾沿岸部で、台風の通過が折からの満潮と重なり、激しい暴風雨の下、短時間の内に最高潮位がT.P.+3.9mという観測史上空前の高潮が襲来、烈風による激浪とともに湾岸堤防を次々と破壊した。その上、前日からの大雨による木曽川など伊勢湾に流入する大河川の氾濫が呼応して大規模な浸水が起こり、大小の河川・運河などに沿って深く内陸の市街地から農耕地まで浸入、名古屋市南・港・中川区及び熱田区南部を中心に知多半島から同市西部の海部郡、三重県桑名市にかけての広範囲な地域が大被害を受けた。(T.P.とは日本の陸地の高さの基準である東京湾の平均海面のこと)
 これにより、愛知県で3378人、桑名市一帯で1281人の死亡、行方不明という、この地域だけで全体の9割近い犠牲者を出すなど、被災地全体の人的被害は、4697人死亡、401人行方不明、3万8921人負傷となり、台風による犠牲者としては明治以降最大の犠牲者数となった。
 一方物的被害も大きく、住家流失4703棟、同全壊3万6135棟、同半壊11万3052棟、同一部破損68万35棟、同床上浸水15万7858棟、同床下浸水20万5753棟、堤防決壊5760か所、道路損壊1万2135か所、橋梁流失4160か所、船舶沈没・流失2431隻、同破損5145隻など、大都市が襲われたこともあり、これらも台風災害史上最大級の被害となった。また、農、山村部も被害が大きく、山・がけ崩れ7231か所、田畑流失・埋没305平方km、同冠水1786平方kmとなっている。
 このように被害が大きくなった原因として、第一に、伊勢湾自体高潮が発達しやすい湾である上、被災の中心となった名古屋市、桑名市とその周辺が同湾の最奥部にあり、両市の沿岸部の大半が、木曽川、庄内川などの三角州を干拓や埋め立てによって形成した、我が国最大の海抜0m以下の低い平地であること。その危険な沿岸部周辺を中心とした土地に、第一次世界大戦後(1918年~)以降の好景気、満州事変以降(31年~)の軍需景気によって、日本4大工業地帯の一つ、中京工業地帯が形成され、人口が集中し市街化されたことにある。
 それにもかかわらず、堤防が高潮を想定した高さに築かれていなかったことなど、水害危険地帯の自覚や高潮への警戒心が不足し避難対策が不十分であったこと。そこに5.81mという未曾有の高潮が押し寄せたのである。それに加えて、名古屋港では木材の輸出入が大きく、貯木場に20万トンの木材が留め置かれ、それが一気に流出したこと。高潮の襲来が夜間で、避難命令が出されたときは停電しており、暗闇の暴風雨下だったことなどが被害を拡大させた上、全壊した建物の残骸が流失せずその場に残ったことが死亡リスクを高めたという。
 この台風後、防災対策についての政府、国会の動きが強まり、政府は翌年6月“防災の日(9月1日)”の創設を閣議で了解、その翌年の61年11月には「災害対策基本法」が公布され、国に“中央防災会議”各都道府県及び市町村に“地方防災会議”が設置されることになる。
 ちなみにこの「伊勢湾台風」は、1934年(昭和99年)9月、関西地方を中心に被害をもたらした「室戸台風」、1945年(昭和20年)9月、九州、中国地方に被害をもたらした「枕崎台風」とともに、その勢力、被災規模から昭和の三大台風と称せられているが、近・現代大都市を襲った自然災害の一つとして、1923年(大正12年)9月、東京、横浜を襲った「関東地震(関東大震災)」、1995年(平成7年)1月、神戸市を襲った兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)」とともに、巨大都市の危機管理の弱さを浮き彫りにし、その後の防災対策を基礎から強化させた大災害の一つとして、歴史に残る災害である。
 (出典:気象庁編「災害をもたらした気象事例>昭和34年 伊勢湾台風」、内閣府編「中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会報告書>「1959 伊勢湾台風」、内閣府編「広報ぼうさい>過去の災害に学ぶ第20回 伊勢湾台風①」、同編「第21回 伊勢湾台風②」、名古屋地方気象台編「愛知県の気象・地震の知識や記録>気象災害の記録>昭和34年9月26日 伊勢湾台風」[改訂]、小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅴ章 台風・豪雨災害>2 台風・豪雨災害の事例 501頁~503頁:伊勢湾台風」、宮澤清治+日外アソシエーツ編集部編「台風・気象災害全史>第Ⅰ部 大災害の系譜 88頁~89頁:CASE27 伊勢湾台風」[追加]、近代消防編「日本の消防1948-2003 年表1.災害編>昭和34年 80頁:伊勢湾台風」、宮澤清治著「近代消防連載・災害史シリーズ93・気象災害史81・「昭和の三大台風」の秘話・伊勢湾台風」。参照:2014年9月の周年災害「昭和9年室戸台風」[追加]、2015年9月の周年災害「昭和20年台風第16号・枕崎台風」[追加]、2013年9月の周年災害「1923関東地震(関東大震災)」[追加]、2015年1月の周年災害「1995兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)」[追加])

大阪府枚方市“敬老のつどい”ちらし寿司集団中毒事件、調理品の数日間放置で菌増殖か(50年前)[改訂]
 1969年(昭和44年)9月15日

 この日開かれた、大阪府枚方市主催の“敬老のつどい”に出席したお年寄りたちやその家族、出席しなかったが民生委員がちらし寿司を配ったお年寄りの中から、同日深夜、頭痛、吐き気などを訴える人が続々と病院へ運び込まれた。同市保健所では“敬老のつどい”に出された、ちらし寿司が原因による食中毒と見て、翌16日、調理した同市の仕出し屋・大芝を立入検査した。
 大芝では食品衛生法で、同店の能力から、一回の仕出し量を400食とされているのにも係わらず、約6倍の2300食を調理しており、その面からも違法業務をしていたとわかった。
 食中毒の原因は、患者の症状からブドウ球菌かサルモネラ菌が、ちらし寿司に侵入していたと見られたが、1753人が病院で手当を受け、237人が入院、2人が死亡している。店舗で加工、調理された食品による食中毒事件としては、1936年(昭和11年)5月に発生した“浜松一中運動会、大福餅食中毒事件”の2201人に次ぐ多くの人を犠牲にした集団中毒事件となった。
 この食中毒事件の場合、4日間にわたってあんこを作り、あんこをいれた容器を台所の隅に数日間、積み重ねておいていたので、その間、ネズミが原因菌をあんこの中に侵入させ、菌が増殖したのではないかという。実はこの“ちらし寿司中毒事件”でも、前日の14日に“敬老のつどい”が分けて行われた際、この日に参加したお年寄りの中からも10人が食中毒にかかっていたことが明らかになっており、その点から、これらはともに原因店での1日の加工能力を超えた受注数を数日かけて作っている間に、原因菌が増殖したものとみられる。
 原因がサルモネラ菌とされたのも共通しているが、特に今回の食中毒事件では、最初の患者が発見されたときに、早く調べていれば集団食中毒にはならなかったのではないかと問題になり、調査が1日遅れたばかりに、その間に食中毒原因菌が増殖し1700人以上もの患者を増やしてしまっている。
 (出典:毎日新聞社編「毎日新聞縮刷版・1969年9月号>9月16日夕刊、17日朝刊。参照:2016年5月の周年災害(上)「浜松一中運動会で大福餅食中毒事件」

初の対策強化地域指定の地震防災基本計画制定その後、対策強化地域に指定されていなかった阪神と東北が
 巨大地震災害に見舞われたが、国の地震予知体制、災害救援体制は強化された(40年前)[改訂]
 1979年(昭和54年)9月3日

 この日、巨大地震発生が予測される地域に対する、初めての防災基本計画として「東海地震の地震防災対策強化地域に係る地震防災基本計画」が制定された。
 これは前月8月、予測される東海地震に対する防災対策強化地域「東海地震防災対策強化地域」の指定に次ぐもので、以降、中央防災会議では“東南海・南海地震”など予測される巨大地震に対して同じように“対策強化地域”などを指定し、それぞれの“防災基本計画”などを作成する作業を進めて行くことになった。
 またなぜ“東海地震”に対応する対策強化地域と防災基本計画の制定が先陣を切ったのかというと、同地震の発生が具体的に予測されたからである。それは、この日から3年前の1976年8月に開かれた地震予知連絡会で、当時、東京大学地震研究所助手だった石橋克彦氏(現・神戸大学名誉教授)が「駿河湾地震説(東海地震説)」を発表、それを受けた静岡県をはじめ関係機関の動きが政府を動かし、2年後の78年6月「大規模地震対策特別措置法(大震法)」が可決され12月に施行された。といういきさつがある。
 なおこの「大震法」では内閣総理大臣が中央防災会議の諮問に基づき、地震防災対策強化地域を指定した時は(第三条)、同会議は当該地域の防災基本計画を作成し、その実施を推進すると定められた(第五条)。
 このように“地震大国日本”における防災対策が、着々と手が打たれていたのにも関わらず、地震防災対策強化地域に指定されていない地域で、この16年後の1995年(平成7年)1月、兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)、またその16年後の2011年(平成23年)3月、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)という、想定外の超巨大地震が起き、数多くの犠牲者を出してしまった。
 しかし、1969年(昭和45年)4月発足の地震予知連絡会は、年4回のペースで定期的に開催され、1995年(平成7年)7月発足の地震調査研究推進本部では“歴史記録や調査研究等から分かった過去の地震活動記録を統計的に処理し、「今後ある一定期間に地震が発生する可能性」を確率で表現し”発表、国民に注意を呼びかけ、防災対策に根拠を与えている。
 また、阪神・淡路大震災後、その教訓にもとづき、同年6月1日には各都道府県警察による広域緊急援助隊、同月30日には自治省(現・総務省)消防庁が緊急消防隊をそれぞれ創設、大災害時の被災拡大阻止、人命救助、避難支援活動などに当たっており、国土交通省は2008年(平成20年)5月、緊急災害派遣隊(TEC-FORCE)を創設し、地方自治体が行う市街応急対策に対する技術的な支援を行うなど、万が一の大災害に備えた救援体制も強化されている。
 (出典:内閣府・中央防災会議編「東海地震の地震防災対策強化地域に係る地震防災基本計画(現行)」、中央防災会議資料1-1「(1)地震防災対策強化地域の指定について」、内閣府編>防災情報の頁「大規模地震対策特別措置法(現行法)」[改訂]、内閣府編「大規模地震特別措置法(図表)」[追加]。参照:2016年8月の周年災害「東大理学部石橋助手、東海地震説発表」[改訂]、2019年8月の周年災害「予測される巨大地震に対する地震防災対策強化地域、初の指定」[改訂]、2015年1月の周年災害「1995兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)」[追加]、2021年3月の周年災害「東日本大震災」[追加]、2019年4月の周年災害「地震予知連絡会発足」[追加]、2015年6月の周年災害(下)「地震防災対策措置法公布、地震調査研究推進本部の設置」、「警察庁、各都道府県警察に広域緊急援助隊創設」、「自治省消防庁、緊急消防援助隊創設」[追加]、20218年5月の周年災害「国土交通省、緊急災害対策派遣隊(TEC-FORCE)発足」[追加]、地震調査研究推進本部編「今までに公表した活断層及び海溝型地震の長期評価結果一覧」[追加])

○平成元年秋雨前線豪雨、秋雨前線が忍者ぶり発揮し全国各地に飛び飛びの大雨(30年前)[再録]
 1989年(平成元年)9月1日~16日

 9月1日、東シナ海から日本列島に近づいた秋雨前線上に低気圧が発生、日本海を北東に進んだ。
 これにより低気圧から南西に延びる前線の活動が活発になり、九州など西日本各地に大雨を降らせた。3日から4日にかけては、前線が東に進んだため、3日には1日の降水量が、大阪府熊取町で195mm、静岡県静岡市で317mm、山梨県上九一色村(現・富士河口湖町)で310mmを観測するなど、近畿地方、東海地方で大雨となり、大阪、兵庫では多数の地域で浸水被害が発生した。
 5日から6日には、前線が東北地方南部まで北上し、岐阜県根尾村(現・本巣市)で1日の降水量が305mmになるなど、四国、近畿地方から中部、北陸、東北地方の太平洋側にかけて大雨となった。
 8日から16日にかけて前線は、日本海側沿いに停滞。その間12日から15日にかけて、前線の活動が活発となり、12日には1日の降水量が長崎県上五島町(現・新上五島町)で418mm、13日に高知県本山町で345mmになるなど、西日本から中部地方にかけて大雨となった。
 この年の9月の半月は、日本全国を移動または停滞して各地のあちらこちらに飛び飛びの大雨を降らす秋雨前線の忍者ぶりに振り回された。被災地全体の被害、20人死亡、24人負傷。住家全壊31棟、同半壊41棟、同床上浸水2万6777棟、床下浸水4万4668棟、道路損壊317か所。
 (出典:気象庁編「災害をもたらした気象事例>平成元年 前線、低気圧」, 小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>6.昭和時代後期・平成の災害>平成元年以降の主要災害一覧 265頁~266頁:平成1.8.31~9.16 全国各地豪雨災害」)

○平成11年台風第18号(不知火高潮災害)-高潮対策強化マニュアル作成へ(20年前)[改訂]
 1999年(平成11年)9月21日~25日

 19日、台風が沖縄諸島の南方海上に発生し、発達しながら北上した。
 24日午前6時ごろには、強い勢力のまま熊本県北部に上陸し九州北部を通過、9時前には山口県宇部市付近に再上陸、中国地方西部から日本海に抜け、25日午前2時ごろ、北海道渡島半島に上陸、北海道西岸を北東に進んで、午前12時には網走沖で温帯性低気圧に変わった。
 この影響により、南西諸島から九州、中国、中部地方が暴風雨となり、期間降水量が那覇で555mm、宮崎県諸塚村で486mm、岐阜県萩原町(現・下呂市)で484mmを観測するなど、九州地方の一部から東海地方にかけて400mmを越える大雨となった。
 また台風が力の強いまま南西諸島、九州、中国地方を進んだため、接近、通過時に南寄りの風が強く吹き込み、各地で風速30m/秒以上の暴風を観測、中でも熊本県牛深市では、同測候所観測開始以来の最高値、最大瞬間風速66.2m/秒を記録した。
 その強風と九州北部地方や瀬戸内海沿岸では、中秋の大潮の満潮時近くに台風が通過するなど、悪条件が重なり高潮による被害が拡大した。中でも、八代湾沿岸の熊本県不知火町(しらぬい町:現・宇城市)松合地区では、早朝5時30分ごろ、伊勢湾台風(上記)の記録を破る最高潮位T.P.+4.5mの高潮が3.2mの堤防を乗り越えて押し寄せた。約60世帯の民家が10分余りで冠水、逃げ遅れて天井まで浸水した部屋に閉じ込められるなど、高齢者や子ども12名が犠牲となった。(T.P.とは日本の陸地の高さの基準である東京湾の平均海面のこと)
 さらに強風により、24日8時ごろ、山口県小野田市(現・山陽小野田市)で竜巻が発生、住家15戸が全壊、同65戸が半壊した。また11時から13時にかけて、愛知県豊橋市と豊川市で相次いで竜巻きが発生し、住家41戸が全壊、同309戸が半壊、453人が重軽傷を負っている。
 台風による被害は被災地全体で熊本県の16人を含む31人死亡、1211人負傷、住家全壊343棟、同半壊3629棟、同一部損傷10万7634棟、同床上浸水4947棟、同床下浸水1万4697棟(防災白書)。
 この災害では特に高潮による被災が大きく、国では関係省庁が連携して翌年2月“高潮防災情報等のあり方研究会”を設置、2001年3月には「地域防災計画における高潮対策の強化マニュアル」がまとめられている。
 (出典:気象庁編「災害をもたらした気象事例>台風第18号」、建設省(現・国土交通省)編「災害列島1999>台風18号」、宮澤清治+日外アソシエーツ編集部編「台風・気象災害全史>第Ⅰ部 大災害の系譜 132頁~133頁:CASE49 1999年台風18号(不知火町高潮)」、近代消防「日本の消防1948-2003 年表1.災害編>平成11年 186頁:台風18号による暴風雨・熊本県不知火町の高潮災害」、滝川清著「台風9918号による不知火海高潮災害そののこしたもの」[追加])

○東海村JCO臨界事故会社の安全教育不備、作業マニュアルの安易な変更がレベル4の大事故起こす
 -しかし東海村消防本部の適切な情報収集による正確な判断が被災拡大防ぐ(20年前)[改訂]
 1999年(平成11年)9月30日

 茨城県東海村にある(株)JCO東海事業所の核燃料加工施設で、10時35分ごろ臨界事故が発生した。
 臨界事故とは、当事者が想定していない状況下で、核分裂の連鎖反応が起きている状態にしてしまう事で、想定外のため防災措置はしておらず、放出される中性子線(放射線)によって発生場所付近は極度に汚染される。
 事故は高速増殖実験炉用燃料を製造する過程で起きた。当時、同所の作業員は原料の酸化ウラン粉末をステンレス製バケツの中で硝酸と純水により順次溶かし、出来た硝酸ウラニル溶液の濃度を均質化しようとビーカーに移し替え、ビーカーから今一人の作業員が支えている漏斗(じょうご)を使って、サンプリングをする穴から沈殿槽に流し込んでいた。実はこれは同社で決められていた作業手順と容器では、作業がしにくいからとの理由で当日、変更したもので、溶液の量も保安規定にも背いていたという。
 加工工場の場合、加工機械メーカーが作成している作業工程マニュアルを、操業先の工場で、現場の知恵と工夫で作業しやすく能率が上がるようによく変更しているという。それはそれで良いことだが、ところがJCOの場合、加工の目的はウラン核燃料の加工である。今回のようにいったん間違えれば重大な放射線被ばく事故を起こす。同社では、それまでも国の安全基準に基づいた本来のマニュアルで作業せず、裏マニュアルを独自で作成し長年使用していたという。それでも事故を引き起こさなかったので、当日もっと便宜的な作業法に変え、事故を起こしている。
 これは会社として、マニュアルを作ったが、作業長を含めた担当作業員に対する適切な安全教育もしていない結果であろう。危険な核燃料を加工する会社としては危険性についての意識がなく、あまりにもお粗末であった。
 その結果10時35分ごろ、沈殿槽内の硝酸ウラニル溶液が臨界に達し大量の核分裂反応が発生、直接作業していた作業員2名は放射線に被曝し治療を受けたが死亡、隣室にいた作業長も被曝したが退院することが出来た。また救急出動した東海村消防本部救急隊員ほか周辺住民など664人が一般人の年間限度を超える放射線を浴びた。
 事故の第一報は10時43分、東海村消防本部へ119番通報されたが、通報の内容は“作業員がてんかん症状となった”というもので、事実を隠蔽しようとしている。ところが同本部でおかしいと気づき、情報収集をした結果、放射線事故とわかり、必要な装備をして救助に駆け付けたが、それでも救急隊員は年間限度を超える放射線を浴びている。もしそのままJCOからの通報を信じて駆け付けたら、隊員も致死的な多量の放射線に被ばくしたことは想像に難くない。
 消防本部では直ちに東海村担当部署へ状況を通報、東海村から茨城県へ、茨城県から当時原子力政策を所管していた科学技術庁へと次々と通報され、首相を長とする政府事故対策本部が設置された。15時、東海村村長は事故現場から半径350mの範囲の住民に避難を指示。22時30分、茨城県知事は半径10km以内の住民に屋内避難勧告を出す。
 22時30分ごろ、臨界状態は収束する様子もなく、急遽派遣された政府事故現地対策本部の判断で、翌10月1日0時25分、事故を起こした(株)JCOから2名1組の決死隊が事故現場に派遣され、強力な放射線を浴びながら10組が交代し作業した結果、ようやく約20時間後の8時39分、臨海状態を終息させた。その間広範囲な汚染は継続している。この事故について科学技術庁は、国際評価尺度でレベル4とし、それまでの原子力事故の中では最高値となった。
 この事故により原子力災害に対する課題が顕在化し、この年の12月「原子力災害対策特別措置法」が制定され、翌年5月中央防災会議は「防災基本計画原子力災害対策編」を修正した。
 当事者の(株)JCOは事故後、再び核燃料加工工場として再開することは許可されず、現在では低レベル放射性ウラン廃棄物の保管管理を事業としている。
 (出典:失敗学会編「失敗事例>JCOウラン加工工場での臨界事故」、近代消防「日本の消防1948-2003 年表1.災害編>平成11年 187頁:(株)JCOウラン加工施設臨界事故」、日本原子力産業協会編「JCO臨界事故の概要」)

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(2022.2.5.更新)

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