【目 次】

・康安(正平)大地震、南海トラフ沿いの巨大地震、阿波、難波浦に大津波起こす(630年前)[改訂]

・幕府、両国橋架橋計画決定。明暦の大火後の江戸復興政策の一環として

・享保元年江戸で謎の疫病大流行、8万人が死亡、赤痢?疫痢?インフルエンザ?[改訂]

・享保13年北上川大洪水「白髭洪水」盛岡、仙台両藩表高約4割が被害に

・寛保2年の台風+秋雨前線による集中豪雨「千曲川戌(いぬ)の満水、寛保の関東大洪水(江戸三大水害)」[改訂]

・天明相模(小田原)地震、小田原城下約3分の1破壊される

・天明6年関東大洪水(江戸三大水害)で印旛沼、手賀沼干拓工事壊滅-田沼意次政権崩壊へ(230年前)[改訂]

・弘化3年江戸三大水害のひとつ「丙午の大水」停滞前線による大水害(170年前)[改訂]

【本 文】

康安(正平)大地震、南海トラフ沿いの巨大地震、阿波、難波浦に大津波起こす(630年前)[改訂]
 1361年8月3日(康安元年6月24日)
 この日寅の刻(午前4時頃)、近畿地方中南部(畿内)から四国地方にかけてマグニチュード8~8.5の巨大地震が発生した。震源地は各記録から西日本太平洋沖と推定されており、南海トラフ沿いの巨大地震の一つと目されている。
 当時の史実を基にした物語「太平記」によれば、“六月十八日の巳刻より同十月に至るまで、大地をびたゝ敷(おびただしく)動て、日々夜々に止時なし。山は崩て谷を埋み、海は傾て陸地に成しかば、神社仏閣倒れ破れ、牛馬人民の死傷する事、幾千万と云数を不知。都て(すべて)山川・江河・林野・村落此災に不合(合わず)云所なし”とあり、前月7月28日(旧暦・6月18日)より前震が続き、11月(旧・10月)ごろまで余震が続いたことを伝えている。
 また記録的なのは、紀伊水道西部沿岸部から大阪湾沿岸部にかけて巨大な津波が襲い、阿波の雪湊(徳島県美波町由岐)では“俄に太山の如なる潮漲(津波)来て、在家一千七百余宇、悉く引塩に連て海底に沈しかば”となった。
 また9月2日(旧・7月24日)のこととして、摂津難波浦(大阪市)では浜辺が“数百町、半時(1時間)許乾あがりて、無量の魚共沙(砂浜)の上に吻ける(はねける)程に、傍の浦の海人共(中略)我劣じと拾ける処に、又俄に如大山なる潮満来て、漫々たる海に成にければ、数百人の海人共、独も生きて帰は無りけり”と伝えており、同時代に奈良法隆寺の預職(あずかりしき:執行役員)が書き留めた日記「嘉元記」には“安居殿御所西浦ニテシホミチテ(潮満ちて)、其間ノ在家人民多以損失云々”と、安居神社西側の浦にある今宮の庄に津波が来襲し、多くの家屋や人命が失われたと聞いたと記録されており、この時の津波の高さは5~6mあったと推定されている。
 またおなじ「嘉元記」などによると、畿内の名だたる神社、仏閣に被害が多く、前震と思われる8月1日(旧・6月22日)には法隆寺の東院や南大門などの築地塀が破損。本震の3日(旧・24日)には、同寺五重塔九輪の火炎が欠け、東大門北脇の築地塀が破損、伝法堂の壁が落ちた。また奈良では、薬師寺の金堂の2階が傾き、中門の回廊や西院がすべて転倒。唐招提寺では東塔(五重塔)の九輪が大破し、西廻廊はみな転倒し渡廊もことごとく破損。興福寺の金堂や南円堂も破損している。紀伊熊野大社では参道が崩れただけでなく、社殿などもことごとくが破壊された。京都では東寺の講堂が傾き、摂津(大阪市)では四天王寺の金堂が倒壊して5人が死亡。さらに法隆寺五重塔が被災した地震の最後は、8月20日(旧・7月11日)のことと記録され、「太平記」の記事と同じように余震がしばしば襲ったようだ。
 (註)かっこ内の地震名の正平は、足利尊氏が擁した光明天皇(北朝)に抗して後醍醐天皇が奈良県吉野に開いたいわゆる南朝の年号で、尊氏を逆賊とした太平洋戦争(1941年~45年)までは学会で正式に使われていたもので、出典引用した同時代の記録「太平記」「嘉元記」で使用されている年号はすべて“康安”となっている。
 (出典:宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧>4 被害地震各論 50頁:056 畿内、土佐、阿波」、「太平記(国民文庫本)>巻第36・大地震並夏雪事S3602」、磯田通史著「天災から日本史を読み直す>第2章 宝永地震が招いた津波と富士山噴火>4 全国を襲った宝永津波71頁~74頁:大阪にきた5~6メートルの津波」[追加]、国立国会図書館デジタルコレクション・史蹟集覧.24「新旧別記第37:嘉元記 321頁~322頁(163コマ)六月廿二日卯時地震在之、同月廿四日卯時大地震在之、同年七月十一日大地震在之」[追加]、小倉一徳編著、力武常次+武田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>1上代・中世の災害>南北朝・室町時代の主要災害一覧 62頁:畿内・土佐・阿波国地震」)

幕府、両国橋架橋計画決定。明暦の大火後の江戸復興政策の一環として
 1658年8月14日(明暦4年7月16日)
 
この年の前年1657年3月(明暦3年1月)、江戸は世界三大大火の一つとされる明暦の大火(振袖火事)が起き、市街地の約6割を失い、10万8000人が死亡したと言われる大災害に見舞われた。
 幕府では、大火鎮火8日後の3月11日(旧暦・1月27日)には、市街地復興の基礎資料として実地測量に基づく江戸総絵図の制作に着手するなど、防火強化を図った徹底的な江戸市街の改造に取り組むことになるが、その一環として江戸市街がある“武蔵国”と大川(隅田川)対岸の“下総国”を結ぶ、かつてない広い幅を持つ大橋の架橋をこの日命令した。
 これは後に“両国橋”と呼ばれた橋の架橋大プロジェクトのはじまりで、担当する奉行(プロジェクトリーダー兼責任者)は、老中直属の大番組衆、坪内公定と芝山好和の2名。現代でいえば内閣官房直属のプロジェクトで、幕府の力の入れ方がわかるが、明暦の大火前年の1656年7月(明暦2年5月)まで大老であった酒井忠勝が、江戸の将来的発展を見越して、すでに幕閣内で提案していたという。
 架橋の目的には大きく二つあり、一つは防災上の対岸への避難橋だが、根本は市街地(御府内)の隅田川以東への拡張にあった。1660年1月25日(万治2年12月13日)、幅4間(約7.3m)長さおおよそ96間(約175m)の大橋が竣工、渡り初めが行われる(翌1661年:寛文元年説あり)。拝命より1年5か月である。
 両国橋は当然、木製なので類焼を防ぐため、それぞれ東西橋際の浅草吉川町と対岸本所元町に“広小路”と呼ばれる防火のための火よけ広場が設けられた。ところが、交通の要衝であり人通りが多い。となると、そこに飲み屋や休み茶屋(喫茶店)、日用品などの販売店が出来るのは自明の利で、はじめは露店だったものが、立派な木組みの建物になり、大勢のお客を呼び込む見世物小屋までできる始末、西の広小路は浅草とならぶ江戸随一の盛り場に発展、東の広小路には土地柄で青物市場が開かれたという。しかし基本的には町奉行所への無断の目的外使用だったので、当初は、将軍が本所方面へ鷹狩りに行くときなどは、仮小屋はきれいさっぱり姿を消し、元の広場に様変わりしたという。要は町奉行所が黙認していたということ。
 ちなみに、1733年7月(享保18年5月)長年の花火禁止令が解かれ、この両国で花火大会が開かれるようになったのは、両国広小路で水茶屋や料理屋を営む店主たちが計画していた、隅田川での死者を弔う川施餓鬼の余興にと、町奉行所に嘆願して始められたものである。それまでの町奉行所による営業黙認は、江戸の発展と火災の可能性をはかりにかけ黙認したのであろう。反面、店主たちがそれだけ力を貯えて来たということだろうか。幸い両国橋が火災で類焼したという記録はない。
 また両国橋には、東西の橋際と橋中央に“橋番所”が設置され、東西の番所に昼4名、夜6名、橋中央の中番所に2名の番人が詰め、3か所の番所で交通整理、道案内、防犯、防災などをとりしきった。この番所を請け負ったのが、架橋前にその場所で対岸への船渡(渡船)を業としていた作左衛門と嘉右衛門の2名の町人で、幕府は両名の宅地を手配した上、一か年金39両(約500~600万円ほど)で請け負わせている。
 さらにこの両国橋自体の水害からの水防、火災からの火防は、隅田川の茶船持ちとはしけ下宿を営んでいる者たち、つまりこの大川で船舶運送を営んでいる業者が請け負っている。
 両国橋架橋後、対岸の本所、深川地区へ一層市街地が延び、1683年(天和3年、異説あり)には江戸川沿岸までが武蔵国に編入される。現在の千葉県との県境である。
 (出典:東京都編「東京市史稿>No.1>橋梁編 第1 166 頁~174頁:両国橋創架174頁~182頁:両国橋橋番所起立182頁~195頁:両国橋水防火防請負」。参照:2017年3月の周年災害〈上巻〉「1657明暦江戸大火:振袖火事」、2013年7月の周年災害「江戸大川(隅田川)で花火大会はじまる」)

○享保元年江戸で謎の疫病大流行、8万人が死亡、赤痢?疫痢?インフルエンザ?[改訂]
 1716年8月(享保元年7月)

 年号が正徳から享保に替わっていくらも経たない夏8月、江戸中に疫病(感染症)が大流行した。後世、赤痢か疫痢かあるいはインフルエンザだろうかと推定されているがくわしいことはわからない。
 当時の儒学者・室鳩巣はその著「兼山麗沢秘策」に“町方疫病披行候て(流行している)、凡八万人程死人御座候由申候(およそ8万人のが亡くなったという)”“棺もきれ申候故、軽き者は、大方樽に入候て葬申候(ひつぎも在庫がきれてしまったので、庶民など身分の低い者は、ほとんどが酒の樽に入れて葬ったという)”ところがその樽棺桶も“火葬に仕候処も殊の外せき申候に付(火葬にしようと思っても、ことのほか混んでいて)”“何れの釜にても十九番廿番過不由候へば成不由杯と申由に御座候(どの火葬場に行っても19番目か20番目以上になるよといわれたという)”また火葬に出来たといっても、骨を拾い、弔おうにも時間もかかるのでそのまま“土葬可仕と致候へば、寺々寺内すきとふさがり、古き墓は不残切崩候様に仕候へ共、夫とても尺地も無之様罷成候故(土葬にしようと思っても寺の墓地はふさがっており、古い墓を残らず掘り崩しても棺を入れる余地がないので)”火葬にも土葬にも出来ずにいる。そこで“軽き者は、大方薦に包候て、築地、品川の海へ水葬に仕候由(庶民のほとんどは遺体を菰に包んで築地や品川沖の海に水葬にしたという)”と、当時の江戸の葬儀事情を述べ、悲惨な状況を写し出した。
 また後世の戯作者(通俗小説家)為永春水の「閑窓瑣談」によれば、これは他書からの引用としながら“夏、熱を煩ふ病人多く”と、その疫病が高熱を出す病気だったと記しており、また“数万人の一時に死亡せしを、後に伝えて言ものなきは、火難と違いて書留しものヽ鮮き故なるべし(数万人の人が死亡したのにもかかわらず、後世に伝えていないのは、明暦の大火のような火難と違い具体性に欠けるからではないだろうか)”と記録の少ない事情を指摘している。
 さらに幕末の医師・浅田宗伯は当時流行したコレラについての著作「古呂利考」で、この疫病について“鎮西に起りて、小児の感冒最も多く、漸次流伝して、尾州の地に及び、大人も適感する者あり”“筑人鷹取遜葊の小児暴痢新考に詳に見たり”と、西国の人々がまず発病して尾張(愛知県)に侵入、子どもが多くかかったが大人にも感染した。とし、筑前(福岡県)の医師・鷹取遜葊の著作「小児暴痢新考」にくわしく載っていると紹介している。この宗伯の著作からこの爆発的に江戸で流行した謎の疫病が“暴痢(激しい症状の赤痢)”かまたは小児がかかり高熱の出る疫痢ではないかと、推定されたようだ。
 しかし、古来からの感染症の流行について詳細に取り上げた富士川游は、その著作「日本疾病史」の赤痢の項の疫史で紹介はせず、“享保元申年三月頃より風病(風邪)流行し”と引用した上で、流行性感冒(インフルエンザ)”の項で紹介している。また1927年(昭和2年)3月、当時の内務省衛生局(現・厚生労働省)が編集した「流行性感冒」の“海外諸国ニ於ケル既往ノ流行概況”の年表によれば、“1716年、江戸”とし、インフルエンザが江戸で流行したと記録している。ちなみに4年前の1712年にはドイツ、デンマーク、イタリアとヨーロッパで流行しており、時間的には、日本へ到達する可能性のある年の差である。
 (出典:東京都編「東京市史稿>No.2>変災編 第3・922頁~924頁:正徳六年疫病」、畑市次郎著「東京災害史>第七章 疾病>A 疫病 178頁:享保元年(正徳六年)の疫病大流行」、富士川游著「日本疫病史>流行性感冒>疫史 254 頁:享保元年(一七一六)」[追加]、内務省衛生局編「流行性感冒>第一章 海外諸国ニ於ケル既往ノ流行概況 2頁:一七一二、一七一六」[追加])

○享保13年北上川大洪水「白髭洪水」盛岡、仙台両藩表高約4割が被害に
 1728年8月30日~9月1日(享保13年7月25日~27日)
 
この年、6月(旧暦5月)から降り出した霖雨(長雨)により北上川は満水状態になっていた。そこへ梅雨期末によく起こる集中豪雨が8月30日から9月1日(旧・7月25日~27日)にかけて東北地方太平洋側に降り注ぎ、北上川は氾濫、特に中流から下流にかけて各地で堤防を決壊させ大洪水を起こした。この地方では鎌倉時代の13世紀以降、これらの洪水は北上川の白髭の翁による仕業とし“白髭水”と呼んでいたという。
 まず中流域に所領を持つ盛岡藩(南部藩)の記録「盛岡藩雑書」によれば、8月31日(旧・7月26日)盛岡城下を流れている支流の中津川が氾濫、大洪水となった。
 同藩が10月15日(旧・9月13日)に出した公儀(幕府)届出書によれば、藩領内の被害は田畑の損害4万1050石余、家屋流失120軒、同全潰34軒、土蔵流失20軒。顔瀬橋、下の仮橋、新山舟橋(舟を横に繋いだ仮橋)など435か所で流失、落橋。480か所で山崩れが起き、20人が洪水の犠牲となった。
 ついで、東北の雄仙台藩伊達氏歴代藩主の治世を記録した「東藩史稿・巻之六」享保13年の項に“十月二日、本年五月霖雨、八月洪水あり、二十三万三千二百石余損害、男六人女九人、馬二十四頭溺死アルヲ幕府ニ聞ス(きこす:報告する) ”とある。
 これは同藩が幕府に出した届出書の内容だが、10月3日(新・11月4日)とあるのは、届出の日だろう。記録によれば9月1日(旧暦・7月27日)北上川の東永井村(現・一関市)の堤防数か所が決壊、大洪水となったもので、同川下流域の穀倉地帯を壊滅させている。
 北上川大洪水での両藩の被害合計は27万4250石余、表高(公的な所領高、幕府からの課役の基準)の38%の田畑が洪水で冠水または表土が流されて耕作不能になった大災害であった。
 (出典:盛岡市教育委員会編「盛岡雑書 第13巻>享保13年7月~8月 708頁:洪水により橋破損、753頁:領内洪水被害ノ届出」、建設省東北地方建設局編「北上川四十年史>第2編 北上川の治水と利水>第1章 北上川の洪水と災害>(2) 洪水災害の記録(江戸時代)185頁:白髭洪水の伝説、享保13年(1728)」、国立国会図書館デジタルコレクション「東藩史稿.巻之2>巻之六 世紀六・獅山公 65頁:十月三日(66コマ)」

寛保2年大型台風による豪雨「千曲川戌(いぬ)の満水、寛保の関東大洪水(江戸三大水害)」[改訂]
 1742年8月27日~9月6日(寛保2年7月27日~8月8日)

 この年、五畿内(山城、摂津、河内、和泉、大和5か国:京都府、兵庫県各一部、大阪府、奈良県)と信濃国(長野県)及び関東で史上有数の大洪水が起きた。各文献によると“大風雨(泰平年表)”“疾風暴雨(有徳院実記)”とあるところから大型台風によるものと思われる。
 江戸時代300年間の年代記「泰平年表」によれば、まず“依七月二十七日至八月朔日、五畿内大風雨。洛三条大橋流落。堀川石垣崩、淀・伏見辺洪水”とある。大阪湾周辺に上陸した台風によって、8月27日から30日の間に、畿内が大風雨にさらされ、淀川の堤防が決壊して淀と伏見付近(京都市南部)が大洪水となり、市街洛中の中心、東海道の起点三条大橋さえも落橋するなど関西地方がまず大風雨の圏内に入り大洪水を起こした。
 ついで“関八州、北国筋洪水”と、台風は大雨を降らしながら、中部、関東を経て東北地方に進んだ。災害の状況は“信州川中島・善光寺辺水高二丈余(6m以上)”と千曲川の氾濫にふれ、“上野(群馬県)、下野(栃木県)、武蔵(埼玉県、東京都等)等田畑水損、凡八十万石余(約12万トン)”“東海道神奈川辺、其外中山道、北陸道筋、田畑流失”“江戸赤坂御門御堀水溢(あふれ)、本所、深川町支配の諸村、町家漂没。人多死”と信越、関東一円にかけて大洪水が起き大災害となったことを記録している。

 中でも千曲川の大洪水は、災害が起きた年の戌をとって「戌の満水」と呼ばれ、語り伝えられている。
 信濃東部地方ではこの年は雨が多く、この月、東日本に雨をもたらす秋雨前線が停滞し、8月(旧・7月)中も雨を見ない日はほとんど無かったという。なかでも台風の襲来により8月27日(旧・7月27日から降り出した雨は翌日まで終夜降り続いた。翌29日一時晴れたが夕方からまた豪雨となり翌30日まで降り続き、千曲川水系は大洪水となり、ゆるんだ地盤が山崩れを引き起こし大災害となる。
 信濃国佐久平の南端にある上畑村(現・佐久穂町)では、8月30日(旧・8月1日)の夜中から翌31日(旧・2日)朝にかけて、千曲川と支流大石川など4つの川が氾濫し四方から村へ押し寄せた。家屋流失140軒、残った27軒も全家財流失、248人が死亡し、同村は千曲川本流の中に取り残されて廃村となり、西方の山麓に屋敷地と甲州道も移転することになる。
 佐久平北側の小諸藩領内では、同町を貫流する支流の中沢川が氾濫、城下から城中に流れ込み家屋流失287軒、土蔵流失28棟、寺社流失5か所、507人死亡、田畑の被害1752石余。上田藩領では、三方山、金原山が崩壊、土砂崩れでふもとの宿場や集落がほぼ全滅。家屋流失671軒、同土砂流入574軒、158人死亡。田畑の被害約2万7000石(表高の51%)。松代藩領の善光寺平は、千曲川と犀川が合流する地点なので水量も増大、御幣川村(現・長野市篠ノ井)がほぼ全滅、松代城内でも本丸、二の丸、花の丸各御殿が8尺(2m余)も床上浸水、総堀埋没、城詰米(貯蔵米)同武具なども濁水に浸かり廃品。同藩領の被害は家屋流失1731軒、同全潰857軒、同半潰254軒、1220人死亡。橋梁流失197か所。道路破損3万1641間(約57.5km)、堤防決壊1万485間(約19km)、用水堤の埋没破損3万3797間(約61.5km)。流木9218本、田畑の被害6万1624石余(表高の62%)と甚大だった。隣の須坂藩領では田畑の損害が6380石(表高の53%)。奥信濃の飯山藩領では、城下町付近に被害が集中、家屋流失59軒、同全潰99軒、床上浸水320軒、16人死亡。そのほか幕府領では、飯山盆地の北半水沢平で8月30日夜半、山のような大水が押し寄せ田畑、家屋敷を呑み込み、領内小沼村など9か村の家屋計394軒のうち、流失110軒、全潰171軒、半潰94軒と全村の9割以上が家を失い、1893人が飢えた。そのほか小布施町一帯の幕府領など、千曲川沿岸部一帯すべてで全滅に近い被害が出ている。
 
 一方関東一円では、8月末から始まった大雨が、30日(旧・8月1日)昼ごろから大暴風雨となり終日吹き荒れ、翌31日昼ごろまで続き、同地方近世最大の水害となった。
 31日(旧・8月2日)夜、利根川上流増水の影響で、荒川-隅田川が増水、両国橋付近では平常より5尺(約1.5m)ほど水嵩が増した。翌9月1日(旧・8月3日)になると両国橋、新大橋、永代橋が水流の勢いで損傷、同夜には東岸の白鬚社(同神社・東向島三丁目)南方にある寺島堤が5.5間(約10m)にわたって決壊、続いて上流の小屋野(現・堀切)、綾瀬、千住三丁目各堤防も決壊、2日から3日(旧・8月4日~5日)にかけて、北は小菅村(綾瀬の南部、現・葛飾区小菅)から南は本所、深川(現・江東区)、浅草、下谷(現・台東区)付近一帯が大洪水となった。その上、9月6日(旧・8月8日)再び暴風雨が吹き荒れ、江戸湾沿岸部の本所、深川で水かさが増しただけでなく、大森、品川では大波で多くの船が損壊、山の手では崖崩れが頻発、神田川、渋谷川、目黒川など市街地の中河川も氾濫、小日向(現・文京区)では床上5尺(約1.5m)の浸水をみている。
 これを受け江戸周辺では、幕府が救助船を仕立てた。その数1218艘、3357人を救助したが、犠牲者も多く葛西(江戸川区)で2000人余りが死亡、本所、深川、浅草、下谷などでも3914人が死亡するなど、江戸だけで6864人が死亡した。また9月3日(旧・8月5日)の利根川決壊による大洪水で、中流の越谷で3700人、粕壁(現・春日部市)では1800人が死亡するなど、関東の被害地全体で1万4000人が死亡したと推定されている。
 そのほか、江戸を除く信州・関東の被害、被災村数4094か村、家屋流失及び全潰1万8175軒、堤切所(堤防破堤か所)4万3000間余(78km余)、同闕(欠)所(堤防決損か所)9万6035か所(大水記)。
 (出典:池田正一郎著「日本災変通志>近世 江戸時代前期 491頁~492頁:寛保二年」、長野県編「長野県史 通史編 第5巻 近世2>第二章 小百姓の村へ>第三節 開発と災害 183頁~186頁:千曲川の戌の満水」、NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ「寛保二年十月上畑村総百姓往還道・屋敷移転取極証文」[追加]、東京都編「東京市史稿>No.2>変災編 第2 216頁~316頁:寛保二年大風水災」、小倉一徳編著、力武常次+武田厚監修「日本の自然災害>第Ⅴ章 台風・豪雨災害>2 台風・豪雨災害の事例 436頁~437頁:寛保の洪水」、日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1742(寛保2年)684頁:関東一円に未曾有の集中豪雨、溺死者3000名にのぼる」、畑一次郎著「東京災害史>第5章 風水害 125頁~131頁:寛保二年の大水災」納富壮一郎著「江戸三大水害における江戸の被害と救済に関する考察」[追加]、北原糸子編著「日本災害史>近世の災害>2 河川災害と地域社会>(1)河川水害と治水 178頁~180頁:寛保二年の大洪水」[追加])

○天明相模(小田原)地震、小田原城下約3分の1破壊される。
 1782年8月23日(天明2年7月15日)
 
丑の刻(午前2時頃)と戌の刻(20時頃)の二度にわたり、関東南部から駿河、甲斐国にかけてマグニチュード7と推定される強い地震があり、小田原城下をはじめ、相模と駿河の国境近くの集落に大きな被害が出た。震央については論争があり、現・山北町の神奈川県と静岡県の県境付近、丹沢山地山間部とする説(宇佐美)、小田原北方の内陸部とする説(石橋)があるが、いずれにしても関東地方東南部の静岡県境近くと見られる。
 実はこの地震、月の初め頃より前震がしばしばあり、本震の翌日朝までに15から16回も余震が続き、人々は眠れない夜を過ごした。
 特に小田原では震度6強と推定できるほど被害が大きく、小田原城の天守傾き、櫓が倒潰し石垣崩壊、城下の家屋27軒倒潰、800軒が半潰及び破損(1000軒余破壊とも)、なかでも竹の花、大工町あたりは強い揺れで満足な家は一軒もなく、城下の土蔵の7割ほどが破壊されたという。当時、小田原城下には約3000軒の侍屋敷や町家があったと推定されるので、市街地の約3分の1が破壊されたことになる。
 近くの箱根、丹沢大山、富士山で山崩れがあり負傷者多数と死亡者が出ている。震央から遠く離れた江戸では、平均震度4から5と推定されているが、赤坂では震度6弱と推定され長屋や土蔵が倒潰、周辺では屋根瓦の落下、壁の崩落が多く見られ、中には完全に崩潰した家屋もあり死亡者も出たという。
 甲州(山梨県)山中湖北岸の長池村(現・山中湖村)では震度6強と推定でき、家数37軒のうち30軒が倒潰、残った家でも家財道具すべて破損。国境から8kmほど西の駿河(静岡県)大御神村(現・小山町)をはじめ近隣4か村では震度6弱、家屋倒潰9軒、同半潰4軒、同破損12軒、寺半潰1か所、道路、田畑損壊。大御神村より南へ15kmほどの同国茶畑村(裾野市)では、家屋倒潰9軒、同半潰27軒の被害があった。そのほか相模(神奈川県)長竹村(現・相模原市)では震度5強と推定され道路に亀裂が走る。武蔵(東京都)八王子でも震度5強で石垣が崩落している。
 (出典:宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧>4 被害地震各論 118頁~119頁:207 相模・武蔵・甲斐」、小倉一徳編著、力武常次+武田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>2.近世の災害>江戸時代の主要災害一覧 98頁:相模・武蔵・甲斐国地震」、宇佐美龍夫ほか共著「天明の小田原地震について」、植竹富一+野口厚子+中村操著「天明相模の地震及び嘉永小田原地震の被害分布と震源位置」)

○天明6年関東大洪水(江戸三大水害)で印旛沼、手賀沼干拓工事壊滅-田沼意次政権崩壊へ(230年前)[改訂]
 1786年8月5日~11日(天明6年7月12日~18日)
 
江戸幕府で絶大な権力を振るった、田沼意次(おきつぐ)政権にとどめを刺した大水害である。
 8月3日(旧歴・7月10日)以降、諸国では長雨が続いていたが、特に関東地方では5日(旧・12日)から大雨となり、11日(旧・18日)になっても止まず、10日から11日(旧・17日~18日)にかけて利根川が氾濫し、中流域の草加、越谷、粕壁(春日部)、栗橋(現・久喜市)の各宿場をはじめ、一帯が浸水するなど、各河川が氾濫して各地で大洪水が発生、家屋、橋梁の流失が続き、信越、東海、東北を含む被災地全体で3万人が死亡した大災害となった。
 実は、3年前の1783年8月(天明3年7月)の浅間山大噴火で、降り注いだ多量の火山灰が各河川の河床に溜まり浅くなり水はけが悪くなったためで、氾濫した河川ではいたるところで堤防が決壊し関東平野一面が泥海となり、中山道や日光街道などは、9月末まで一部区間が通行止めになったほどで、常陸(茨城県)水戸藩領内では、水戸城石垣が大破、山塊の崩壊も相次ぎ、河川の氾濫により長い間、田畑が耕作不能となった土地が多くなった。
 一方、利根川下流域に当たる江戸では、氾濫した大水が押し寄せ、13年前の1773年1月(安永元年12月)に埋立てられた隅田川の中州(現・日本橋中洲)や、1696年(元禄9年)塵芥捨場として埋立が始まった両国橋東岸の深川地区などはに大水が一度にどっと溢れ出た。当時の歴史書は“隅田川ヲ狭メ河水ノ流通ヲ妨ゲタルヲ以テ、遂ニ、十八日(新歴・11日)ノ大水ヲ見ルニ至リタリト云フ”と、幕府のかつての政策を批判している。
 時の幕府の記録「柳営日次記」も“被害ノ最モ甚シキヲ小石川、下谷、浅草、本所、深川等トシ、番町ノ如キ高地猶且(なおかつ:であっても)浸水床上ニ及ブ所有リ。其他市中各所ノ出水及(び)土地石壁ノ崩壊スル者列挙スルニ遑アラズ(いとまあらず)”と、記録した程の水害だった。
 特に橋梁の流失や破損が著しく“永代橋・新大橋ヲ始トシ、江戸川及下流神田川ノ諸橋、浅草・本所・深川等各地ノ諸川ニ架スル諸橋梁有リ(柳営日次記)”と、江戸市街の交通が寸断された。幕府ではこれを受け、寛保の大洪水(本稿上記)のように救助船205艘を仕立て5113人を救助している。
 交通が途絶したのは江戸だけでなく、東海道筋では、酒匂川、馬入川、六郷川が氾濫し、藤沢宿、神奈川新町などに浸水、鶴見橋が落橋するなど街道が寸断され途絶する。“関東八州近在近国の洪水は殊に甚だしく筆紙に尽くし難し、この水、久しくたたえて引かないため、奥羽の船路絶えて、物価いよいよ高し(武江年表)”と、物流も途絶して物価が高騰、水が引いた後も、人々の生活が苦しくなるばかりの大災害となった。
 これにより田沼政権が命運をかけ、完成に近づいていた印旛沼、手賀沼の干拓工事も潰滅して工事は中止、将軍家治の死去と共に田沼意次は翌9月19日(旧・8月27日)老中を解任され、いわゆる田沼時代は終わる。たしかに商業重視(重商主義)政策による土地の埋立や干拓は被災地を広げ、道路、橋梁の崩壊による物流の途絶などで物価高を生んだが、当時、発達した大商人たちを中心とした商業資本を活用、それまでの“米”中心で節約政策しか生まなかった重農主義政治からの転換をはかった政治は、大商人たちに資本蓄積を促し、100年後の資本主義時代の基盤をつくったとして評価されている。
 (出典:日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1786(天明6) 756頁:大雨で利根川が氾濫、印旛・手賀沼の干拓工事、壊滅的な被害」、小倉一德編、力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>2 近世の災害>江戸時代の主要災害一覧 100頁:関東・東北地方大洪水」、池田正一郎著「日本災変通志>近世 江戸時代後期>天明六年 549頁~551頁」、東京都編「東京市史稿>No.2>変災編第2・448頁~523頁:天明六年大水災」、畑一次郎著「東京災害史>第5章 風水害 133頁~136頁:天明六年の大水災」、国立国会図書館デジタルコレクション「江戸叢書:12巻,巻の十二・武江年表 巻の六>文明六年丙午178頁~179頁(95コマ):五月の頃より……」[追加]、納富壮一郎著「江戸三大水害における江戸の被害と救済に関する考察」[追加]。参照:2013年8月の周年災害「天明浅間山大噴火」、4月の周年災害・追補版(3)「江戸町奉行、塵芥回収業者に水路の浚渫と永代島付近の埋立を許可、町民に協力方厳命し土地造成進む-現代まで引き継がれた大事業」)

弘化3年江戸三大水害のひとつ「丙午の大水」停滞前線による大水害(170年前)[改訂]
 1846年8月3日~30日(弘化3年6月12日~7月9日)
 
7月25日(旧歴・6月3日)から関東地方各地では、長雨が降り続き晴れることがまれな上、8月3日(旧・6月12日)、同6日(旧・15日)、同9日(旧・18日)には大雨が降り、利根川をはじめ、鬼怒川、荒川、多摩川など諸河川が増水して氾濫、関東平野は水浸しとなる。
 下野国(栃木県)では鬼怒川など諸河川が近年まれな水量となり、水面が1丈7尺(約5m)も盛り上がり氾濫、堤防や用水堰など312か所が決壊、流失及び破損した。奥州街道、例幣使道など主要な街道が62間(約113m)も崩壊、橋梁の流失118か所、田畑は1582町歩(約26平方km)が浸水して壊滅、山間の田畑は石垣が崩れ10か所が荒れ地となる。上野国(群馬県)館林藩領と下野国(栃木県)足利藩領内の渡良瀬川と利根川も氾濫、300間余(600m近く)堤防が決壊。
 8月18日(旧歴・6月27日) 荒川の堤防が武蔵国(埼玉県)忍藩領内(現・行田市)では24か所838間(約1.5km)にわたって決壊、4万8000石余(表高の48%)の田畑が壊滅。下流の大久保村(現・さいたま市浦和区)で40間余(73m余)、宗岡村(現・志木市)では74間余(135m余)決壊、堤防破損29か所、農業用水堰、用水掛樋、埋堤なども破損し79か村の田畑が水につかり壊滅、562軒が床上浸水するなど各所で被害が相次いだ。
 隣接する下総国(栃木県)古河藩領では、8月7日(旧・6月16日)より大雨が止まず、利根川の支流諸川が氾濫、18日、19日(6月27日、28日)には増水著しく、翌20日(旧・29日)には水面が1丈9尺7寸(約6m)も盛り上がり氾濫、古河城内の侍屋敷51軒が倒潰するなど多くの建物が破損、本丸裏門などのはね橋崩壊。郷村では家屋倒潰115軒、同流失51軒、同半潰39軒、床上浸水33軒、作業小屋など損失904軒。田畑の浸水110か村4768町歩(約47平方km)石高で2万7200余石(表高の34%余)が壊滅した。
 利根川中・下流では、8月15日(旧・6月24日)ごろには満水に達し、武蔵国(埼玉県)羽生領(現・埼玉県羽生市・加須市内)辺りで9尺(3mていど)増水、18日、19日(旧・27日、28日)には、下流の隅田川河口に近い本所割下水(排水路)では少しずつ水かさが増していた。
 8月18日(旧・27日)、利根川は羽生領南の栗橋(現・久喜市)で水かさが1丈5尺(約4.5m)に増えていたうえ、その日、大雨となる。翌19日(旧・6月28日)、ついに同川左岸(北岸)上野国富永村(現・千代田町)で146間(約265m)にわたり決壊し浸水で田畑295町歩(約3平方km)が荒廃、やや下流の右岸(南岸)武蔵国本川俣村(現・羽生市)で160間(約290m)にわたり決壊、周辺は泥海と化し、小浜村(現・加須市)では田畑すべてに2尺余(60cm余)浸水した。
 同日、中川も淵江領(現・足立区)長右衛門新田の堤防が決壊したので、大水が古隅田川筋から荒川へと流れ込み葛西の北部(現・葛飾区あたり)は水浸しとなる。さらに荒川が翌20日(旧・29日)千住三丁目の堤防が決壊、下流方面が一面海のようになり、亀有(葛飾区)から寺島(墨田区)、亀戸(江東区)にかけて“巨海のごとし”と後世に伝えられ、隅田川対岸の箕輪(三の輪:台東区)では床上3尺(約1m)、浅草辺りで床上4、5尺(約1.2~1.5m)に達し、大川橋(吾妻橋)、新大橋、永代橋が破損。
 ところが、8月27日(旧・7月6日)から翌日にかけて再び大雨となり、8月30日(旧・7月9日)には、中川で同じ長右衛門新田の堤防が決壊、減水しかけた葛西方面では床上浸水5尺8寸(約1.8m)を記録するなど、江戸の町が水浸しになっている。この惨状に対し幕府では水害の全期間、救助船1071艘を仕立て3769人を救助している。
 関東各地が大水害に襲われている同じころ、東北では、仙台藩が水害で収穫高で39万5560石(表高の64%)の大減収となり(東藩史稿)、磐城平藩(福島県いわき市)は8月14日(旧・6月23日)の河川氾濫で、橋梁流墜111か所、道路崩壊及び破損1237間(約2.2km)、堤防の決壊、破損448間(約800m)、田畑浸水1万2705石(表高の18%)の被害を出している。
 また西の方では、美濃(岐阜県)大垣領でも8月7日(旧6月16日)より降り続いた大雨で、堤防の決壊、破損7630間(約14km)の被害。京都では、加茂川と大堰川が8月28日(旧7月7日)氾濫を起こし、三条大橋で中程が3間(5mほど)五条大橋で2間(約3m)落橋、伏見小倉堤が100間(約180m)決壊している。
 大雨による河川の氾濫地帯が、京都から東海、関東、仙台地方へとちょうど本州をほぼ東北へと縦断しているが、1か月近くも各地でほぼばらばらに大雨を降らしているのは、その線上に前線が停滞していたと見るべきであろう。
 (出典:小倉一德編、力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>2 近世の災害>江戸時代の主要災害一覧 106頁:関東地方大雨洪水[丙午の大水]、荒川秀俊ほか編「日本旱魃霖雨史料>霖雨之部 弘化三年 387頁~391頁」、池田正一郎著「日本災変通志>近世 江戸時代>弘化3年 652頁~653頁」、東京都編「東京市史稿>No.2>変災編第2 772頁~880頁:弘化三年大水災」、納富壮一郎著「江戸三大水害における江戸の被害と救済に関する考察」[追加])

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