・延慶から応長へ改元。四角四境祭執り行うも、三日病(風疹)の大流行収まらず(710年前)[改訂]
・延文から康安へ改元。感染症の流行、大地震襲来、動乱の終結願う(660年前)[改訂]
・近江坂本(現・大津市)文亀元年の大火。京都明応の大火に匹敵の天災と(520年前)[改訂]
・金沢寛永8年の大火。盗み目的の放火で1万軒を焼く(390年前)
・会津若松延宝9年の連続大火。侍屋敷、町家など1400軒余焼く(340年前)
・江戸享保16年の連続火災。火消屋敷(現・消防署)も焼失、1000人余死亡(290年前)
・越後高田の地震(宝暦高田地震)。「名立崩れ」起こる(270年前)[改訂]
・福井明和の大火(松本の大火)。焼亡戸数一千余(250年前)[改訂]
・老中・松平定信、寛政の改革で町火消の費用削減を指示。
火消人足たちの不評を買い改革挫折の一因に[改訂]
・富山天保の大火「浜田焼」。8000軒余焼亡(190年前)
・山形明治44年「市北の大火」。恒例“薬師祭”初日に猛火、市中心部潰滅 (110年前)
・大阪府警察部、我が国初の消防ポンプ自動車を大阪市東署に配備(110年前)[追補]
・小樽明治44年の大火-防火都市小樽へ変貌(110年前)
・苫小牧「鯉のぼり大火」。行政機関・商店街潰滅、
復興後王子製紙を支え、その城下町といわれるほどに発展(100年前)[改訂]
・出張映画会の重なる火災。北海道東島牧村と群馬県金古町で(90年前)[改訂]
・ボツリーヌス中毒北海道島野村で発症。道立衛生研究所、国内初の原因菌発見(70年前)[追補]
・大規模林野火災「三陸大火」。フェーン現象が起こした戦後最大規模の災害(60年前)[改訂]
・宝塚市でフッ素による斑状歯問題起こる。市では治療補償を条例化して対応(50年前)[改訂]
・消防庁「適マーク(防火基準適合表示)」制度始まる。一時中止後10年後復活(40年前)[改訂]
・信楽(しがらき)高原鉄道衝突事故。安全確認を怠った末惨事に、
10年後遺族の粘り強い訴えで航空・鉄道事故調査委員会発足(30年前)[改訂]
・雲仙普賢岳198年ぶりの大噴火、溶岩ドーム形成し大火砕流山麓に流下。
6月3日を始め火砕流、土石流による被害大きく(30年前)[改訂]
・茶のしずく石けん(旧)事件。アレルギー発症し損害賠償訴訟、商品自主回収、
思いもしなかった原因物質の皮膚からの吸収によるアレルギー体質化(10年前)[追補]
【本 文】
○延慶から応長へ改元。四角四境祭執り行うも、三日病(風疹)の大流行収まらず(710年前)[改訂]
1311年5月25日(延慶4年4月28日)
“疾疫(疫病)流行”により改元。とある(皇代記:こうだいき)。
改元の前年1310年(延慶3年)、九州から流行した“疫病”が京都へ迫っていたので、朝廷(政府)では7月3日(旧・5月27日)、疫病を疫神による祟りととらえ、これ以上洛中(京都)に入ることを阻止する祭り“四角四境祭(しかくしきょうさい)”を行っている。
“四角祭”は、平安京の境界の四隅に吉凶を司る陰陽師(おんみょうじ)を派遣、“四境祭”は、陰陽師と衛門府(宮廷門の守備役)や検非違使(現・警察)を山城国境の和邇、逢坂(ともに現・大津市)、大枝(京都市と亀岡市の境)、山崎(大山崎町)の四カ所へ派遣し、祭祀を執り行った。
この疫病というのは、当時は“三日病”現在では俗に“三日ばしか”と呼ばれている“風疹”で、ウイルスによって引き起こされる急性の発疹性感染症だが、“はしか”のようにからだ中に赤い斑点状のもの(発疹)が出て発熱し、3~4日経つと、発疹も消え熱もけろりと引くので、そこからきた病名のようだ。
当時の公卿・洞院公賢(とういん きんかた)の日記「園太暦(えんたいりゃく)」によると改元の年の延慶4年“三月、自今月中旬、京畿諸道疫病流行、俗称三日病云”とあり、4月中旬(旧暦・3月中旬)から、京都と畿内(山城、摂津、河内、和泉、大和:京都府南部、兵庫県南東部、大阪府、奈良県)で三日病と呼ばれる疫病が流行したという。
またこれも同時代の年代記「武家年代記」にも“三月中旬以後。至五月中。三日病平均也。自鎮西至京都。自関東至奥州。都鄙甲乙人脱人少。病多々云々。依改元”とあり、三日病(風疹)は、最初、九州から起こり京都に侵入して流行、その後、関東から奥州諸国へと全国的に流行したとある。また同じく4月中旬(旧・3月中旬)から6月(旧・5月)にかけて、京都で流行した折には、都の人々で病から逃れる事が出来た人は少なかったと記し、これが改元した理由だったと証言している。
この日の改元は、前年の四角四境祭によってまず“疫病”の都への侵入を阻止しようとしたが、効果無く“改元”により、改めて災厄から逃れようとしたようだ。
そのおかげか“至五月中”と、改元の翌6月(旧・5月)中には、みやこ人を悩ました“疫病”も姿を消した、と伝えられている。
(出典:日本全史編集委員会編「日本全史>鎌倉時代>1310-14(延慶3-正和3) 285頁:疫病の勢い止まらず、四角四境祭で流行の阻止をはかる」、富士川游著「日本疾病史>風疹 210頁:応長元年(園太暦)」、国立国会図書館デジタルコレクション・塙保己一編「群書類従 第2輯>巻第31>帝王部3:皇代記 210頁(109コマ):應長一年」(4月27日改元と記録している)、同コレクション「国史大系。第五巻 吾妻鏡>附録 武家年代記・下>後二条-花園>953頁(481コマ):延慶四年」)
○延文から康安へ改元。感染症の流行、大地震襲来、動乱の終結願う(660年前)[改訂]
1361年5月12日(延文6年3月29日)
疾病、疱瘡(ほうそう)、天変、兵革等により延文から康安へ改元とある(皇年代略記:こうねんだい りゃくき)。
この中の疾病について「甲州妙法寺記」に“庚子(かのえね:延文5年:1360年)、大温病、人多く死す”とある。妙法寺は現在も河口湖畔にあり、日蓮上人がこの地を訪れた際、弟子となった妙法入道たちが1278年(弘安元年)創建したとされ、「妙法寺記」は、歴代の住職がこの地、富士山北部の麓の人々の生活誌や災害の様子、甲斐国(山梨県)の守護・武田氏や郡内の領主・小山田氏の政治的な動きなどを記録したとされている。
また“温病”とは、中国古来の医学の病名の一つで、様々な発熱性急性感染症を指すという。例えば麻疹(はしか)、インフルエンザ、腸チフス、赤痢、コレラがこれに当たるが、わが国では古来よりこれらの感染症には症状の特徴をとらえた名称がつけられているので、漠然と“温病”と記録した理由は良く判らないが、当時の住職には近隣の風評だけで、疫病の症状の詳しい様子までは判らなかったのかもしれない。
そのほか疱瘡(天然痘)も改元理由の一つになっているので、ともかく改元の前年に感染症が大流行したのは確かだろう。このことは「立川寺年代記」「太平記」「愚管記」「後愚昧記(ご ぐまいき)」にも記録されているので(日本災変通史・延文五年)、詳細はともあれ事実であろう。
天変は前年の1360年11月21日から22日にかけて(延文5年10月4日~5日)に、マグニチュード7.5~8の大地震が畿内に発生し、翌23日(旧暦・6日)には熊野尾鷲(和歌山県)から摂津兵庫(兵庫県)にかけて津波が襲来した、と「日本の自然災害」に記載されている。しかし「日本被害地震総覧」では大地震があったことは記載しているが、津波説については否定している。
また改元の年の4月10日(旧・2月26日)に“夜丑の刻(午前1時~3時)、大地振揵(揺れ上がる)すること先の如し”と前年、尾鷲から兵庫にかけて起きた大地震のようだったと「瑠璃山年禄残篇(るりさん ねんろく ざんぺん)」に記録されているが、近年の研究による裏付けはない。改元の理由の中で一番はっきりしているのは“兵革”であろう。
これは、1336年(建武3年)から続く、天皇家の領地と位(くらい)の相続を巡る、いわゆる京都の北朝の持明院統と、吉野に樹立された南朝の大覚寺統との争いに、北朝を擁立した室町幕府に対し、兵力を持つ各地の豪族たちが、幕府との権益を巡ってそれぞれの朝廷につき、民衆には無縁な“南北朝時代”という56年間も不毛な内乱を続けた“南北朝の騒乱”である。
政権を掌握している北朝や室町幕府にとっては、これははた迷惑な騒乱に過ぎず、前回の1312年(応長2年)の文和から延文へ改元した際に続き、やはりこの年も改元に戦乱を災いととらえ、終結の願いを込めたものと思われる。
(出典:国立国会図書館デジタルコレクション・塙保己一編「群書類従・第2輯>巻第32>皇年代略記 275頁(141コマ):康安一」、池田正一郎編「日本災変通志>中世 南北朝時代 254頁~255頁:延文五年、康安元年」、富士河口湖町観光連盟編「富士河口湖町観光情報サイト>妙法寺」、小倉一徳編、力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に残る自然災害の歴史>南北朝・室町時代の主要災害一覧 62頁:正平15.10.5(1360.11.22)畿内地震」、宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧>4 被害地震各論 50頁:- 1360 Ⅺ 22(正平15 Ⅹ 5)紀伊・摂津」。参照:5月の周年災害・追補版(4)「応長から正和へ改元、天変地震によるというが天皇家の両統(家)対立が原因か、内乱を招いた後醍醐天皇とそれを予言した花園天皇」、2016年5月の周年災害〈上巻〉「文和から延文へ改元、兵革:幕府の内紛収まり南朝との動乱終結願う」)
○近江坂本(現・大津市)文亀元年の大火。京都明応の大火に匹敵の天災と(520年前)[改訂]
1501年5月25日(文亀元年4月28日)
大火の同時代に関白・太政大臣を務めた近衛政家の日記「後法興院記」にこの火災の記録がある。
すなわち“廿九日晴、昨日自午刻(午前12時ごろより)終日(一日中)(近江の)坂本(で)数千間(軒)炎上云々(したと聞いた)、去年(の)京都(の)火事ニ不相替云々(変わらないほどの被害だったという)、(名所の)濱辨才天(浜弁才天も)焼失云々(焼けてしまったようだ)、可謂天災(これは天災というべきだ)”と。
近江坂本は比叡山延暦寺の山麓にあり、同寺への登山口で門前町として栄えた。1571年10月(元亀
2年9月)、織田信長の命で明智光秀が坂本城を築城し京都の押さえとしたことで有名だが、大火の当時も1万5000人以上の人口を擁していたといわれている。
また、「後法興院記」にある“去年京都火事”というのは、1500年9月1日(明応9年7月28日)洛中の柳原(現・上京区役所北方辺り)から出火し、公家屋敷28か所、武家、執権屋敷など数十か所をはじめ諸司(役人)屋敷、寺院、神社、武士や庶民の住家など2万3000余家を焼き尽くし、ほぼ一条通の南北一帯が荒野となったという“明応の大火”を指している。
(出典:竹内理三編「続史料大成 第8巻 後法興院記>後法興院記(四)>明応十年(文亀元年)四季>文亀元年四月小 68頁:廿九日」。参照:2020年9月の周年災害「京都明応の大火。洛中2万3000余家消失、前代未聞の大火事也」)
○金沢寛永8年の大火。盗み目的の放火で1万軒を焼く(390年前)
1631年5月15日(寛永8年4月14日)
金沢は加賀百万石前田藩の城下町だが、隣国の越中富山城下と並んで江戸時代は火事が多く、この時代を通じて1000軒以上焼失した大火が7回もあり、その全部が4月から6月にかけて起きている。
これは、北陸特有の初夏から始まる強い南風のフェーン現象によるもののようだが、この日の大火はその最初だった。
この日は、天気は良かったが南の風が強く吹いていた。巳の刻(午前10時ごろ)、犀川の近く、法船寺門前町にある2軒の家の間から火が出て、瞬く間に同寺の薬師堂に火が飛び、客殿、庫裏に延焼した。
次いで炎は河原町一帯の町家に移り、南の風にあおられて片町から香林坊へと広がり、また本町から東に炎は進み、城の惣構の外を立町から千石町、堂形辺り一面を火の海とした。
そのころ、家々を焼く煙が空にたなびいて城のかたちもよく見えないほど暗くなっていたが、実は炎は城内の辰巳櫓から本丸に延焼し城内一面が火の海となっていた。一方、火の粉は江戸町まで飛び、田井口から金屋町まで焼いて勢いはようやく止んだ。
城下の中心部や城内など1万軒を焼いたという。火災の原因は、ある侍屋敷に勤める身分の低い奉公人が金に困り、みんなが騒いでいる隙に盗みをする目的で放火したのだと、取り調べの役人に白状している。
(出典:前田家編集部編「加賀藩史料>第二編>寛永八年641頁~646頁:四月十四日。金澤城焼失す。」)
○万治から寛文へ改元。宮中、仙洞御所焼失、累代の古物も喪った火災による(360年前)[改訂]
1661年5月23日(万治4年4月25日)
内裏(天皇の住居)の火災など災異のため改元とある。
実は「皇年代略記」によれば、改元の日の3か月ほど前の2月14日(旧暦・1月15日)“巳下刻(午前11時ごろ)二条関白家より出火、禁裏(宮中)、院中(仙洞御所)、諸家、その他、寺院仏閣、町家など焼亡”とあり、公家屋敷119軒、寺院16か所、町家568軒を焼失した大火があった。
特に宮中や仙洞御所が焼失したことにより“禁裏、院中の文庫焼亡により累代の古物悉く滅し了んぬ”と、古典籍をはじめ、古来より残されてきた貴重な品々が喪われた火事だったと記録されている。
(出典:京都歴史災害研究会編「京都歴史災害年表>1601年-1700年>208頁:1661年2月14日(寛文一年一月十五日)火災」、池田正一郎編「日本災変通志>近世 江戸時代前期370頁:寛文元年)
○会津若松延宝9年の連続大火。侍屋敷、町家など1400軒余焼く(340年前)
1681年5月28日、30日(延宝9年4月11日、13日)
会津若松では5月28日(旧暦・4月11日)と1日おいた30日(旧・13日)にそれぞれ500軒を超える大火に見舞われた。
5月28日(旧・4月11日)は大町二ノ町に住む石工、権右衛門の家から出火した。
例年、町奉行は、城下町中に火の用心の触れを出し、町名主は町内の見廻リを怠らないようにと町中の自身番に申し付けていた。また風のあるなしにかかわらず、町なかでは朝夕の食事の準備をするため火をおこすので、かまどの使用後は水を打って湿しておくように指導し、町奉行ならびに小頭、同心が町中を見まわり、同心は各家を訪ね火の始末を確認していたほどだった。
しかし、権右衛門は石工なので石材を採掘するため郊外の慶山(現・会津若松市、昭和30年代まで採掘していた)に出向き、当日もそこで作業をしており、その留守中の失火である。
被害は、出火元の大町二ノ町で41軒を焼失したのをはじめ、同一ノ町で17軒、同堅町で41軒、馬場二ノ町4軒、北小路町117軒、七日町122軒、紺屋町41軒、原町54軒、大和町50軒、桂林寺町46軒と以上町家533軒を焼失。そのほか寺では七日町の常光寺、北小路町の安養院が焼失している。
その二日後のことである。
午の上刻(午前12時ごろ)今度は本三ノ丁に住む、組付の藩士、有泉新左衛門宅から出火した。
燃え上がった炎は近隣の川手佐左衛門と上田覚太夫の長屋(配下の住む長屋)、板惣五郎の屋敷に延焼したうえ、城内の御厩門まで焼失させた。城内ではその日は式日(出勤日)だったので、家老の西郷頼母以下が会所におり、一同が指図をして防火に努め、御厩の北の方が焼失しただけで、城内は無事だった。しかし、東風が烈しく、強風下の飛び火などにより城下に延焼、赤井丁から半兵衛町まで灰となった。
被害は郭内の三ノ丁、二ノ丁の侍屋敷37軒、御厩桂林寺町口御門ならびに番所が焼失。そのほか城下の半兵衛町の侍屋敷7軒、同同心屋敷190軒、手明町の御厩之者の家28軒が焼失。町家は融通寺町79軒、赤井丁47軒、当麻丁62軒、中町30軒、四つ屋24軒、年明町21軒、手明町の常倉寺門前5軒、赤井丁西光寺門前10軒、名子屋町82軒、長命寺門前3軒など672軒が焼失。そのほか寺社では諏訪社ならびに半兵衛町の極楽寺と長源寺、手明町の常年寺、名子屋町の長命寺、赤井丁の西光寺、当麻丁の覚西院、中町の長泉寺が灰となり、28日(旧暦11日)の火災で焼け残った郭内の一部や城下の町々が被害を受け、当時2万7000人を擁した城下町に大きな被害を与えた。
(出典:家世実記刊本編纂委員会編「会津藩家世実紀 第3巻>家世実記巻之五十七(天和元年4月) 531頁~533頁:四月十一日、四月十三日」)
○江戸享保16年の連続火災。火消屋敷(現・消防署)も焼失、1000人余死亡(290年前)
1731年5月20日(享保16年4月15日)
まず午の後刻(12時半ごろ)、目白台の侍屋敷より出火した炎は強い西北の風にあおられて次々と延焼した。
初代の奉書火消役だった秋元但馬守の下屋敷を皮切りに目白不動堂を残らず焼き、関口台町から牛込古川町、赤城明神社から牛込一帯の旗本屋敷や町家を総なめにして市ヶ谷田町三丁目で焼け止まった。
次に未の上刻(午後2時ごろ)、別の火の手が麹町一丁目の侍屋敷より上がり、同一丁目から火消役旗本・近藤登之助屋敷まで焼いた。
この炎は近くの大名屋敷や旗本屋敷を総なめにし、桜田御用屋敷から太左衛門町、伏見町から烏森稲荷神社までを焼け野原にした。次いでその先の芝三丁目、神明町、御浜御殿南の方角から芝金杉の浜辺まで焼き亥の刻(午後10ごろ)ようやく鎮火している。
この日の連続火事で1000人が死亡したという。江戸の街、92町が灰燼に帰している。
(出典:東京大学史料編纂所>データベース検索>所蔵史料目録データベース「東京市史稿>No.2>G-4変災篇 第4>783頁~793頁:四月十五日大火」)
○越後高田の地震(宝暦高田地震)。「名立崩れ」起こる(270年前)[改訂]
1751年5月21日(寛延4年4月26日)
丑の刻(午前2時ごろ)、越後高田城下(現・上越市)を震源とするマグニチュード7クラスの内陸直下地震が起きた。
高田城の多聞櫓、三重櫓などが大破。城下では今町の被害がひどく家屋全壊321棟、同半壊384棟など。城下全体で侍屋敷122棟、町家2082棟が全壊し、侍屋敷82棟、町屋敷414棟が半壊となり城下は壊滅したが、特に町方の3か所より出火したのは地震による損害を倍加している。
また高田藩沿岸部では、鉢崎-直江津-糸魚川間で山崩れが多発し、桑取川、名立川、能生川各谷あいも山崩れが多発した。特に名立の小泊集落では裏山が崩れ406人が死亡、81戸埋没、4戸全壊、3戸半壊など人口の約8割とほとんどの家がなくなり、集落の戸数が回復したのは160年ほどたった大正時代初期だったいう。ちなみに作家・岡本綺堂はこれを題材とする戯曲を作成、1914年(大正3年)11月、帝国劇場で上演した。
この地震による被害合計1539人死亡、600人以上負傷。家屋全壊8088棟、同半壊8208棟、土蔵全壊147棟、同半壊41棟、同破損150棟。寺社全壊229か所、同半壊75か所。山崩れ1700か所以上、となっている。
(出典:宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧>4 被害地震各論106頁~107頁:165 丑刻 越後」)
○福井明和の大火(松本の大火)。焼亡戸数一千余(250年前)[改訂]
1771年5月9日(明和8年3月25日)
暮酉の上刻(午後6時ごろ)、松本上三上町から出火し同町より北は加賀口門を残し全焼。南は江戸町の家中屋敷(家臣の屋敷)の裏一帯まで、煎餅町より東に3軒、西に2軒焼失、江戸町では侍屋敷5軒が焼失した。西へは炎が子安町神明町にある稲荷社、與力(よりき)町の妙法寺まで焼き尽くし、翌早朝暁寅の刻(午前4時ごろ)過ぎにようやく鎮火した。
被災合計は、士分の侍屋敷80軒、扶持(給料)侍の家191軒、最下級の侍(荒子:あらしこ)の部屋174、町家711軒、土蔵24棟、寺社33か所を焼失している(福井市史編さん室資料含む)。
(出典:福井市編「福井市史 上巻>第12章 十二代 松平重富 214頁~215頁:明和・安永の大火」、福井市史編さん室編「福井大火資料」)
○老中・松平定信、寛政の改革で町火消の費用削減を指示、
火消人足たちの不評を買い改革挫折の一因に(230年前)[改訂]
1791年5月11日(寛政3年4月15日)
“寛政の改革”とは、時の老中・松平定信が実施した改革だが、主に農政に重きをおいた農村復興政策と、緊縮財政にあったという。
前政権の田沼意次・意知による、豪商を中心とした商業や貿易活動を重点とした経済政策が、その基盤とした商品が“米”であったという時代的制約から、1783年8月(天明3年7月)の浅間山の大噴火と前後して起きた度重なる気象災害により、凶作が続き→米価高騰→飢饉というマイナス連鎖を起こして崩壊、田沼時代は終わっている。
その点から寛政の改革は、改革と名付けられているが実は復古的な政策であったとの評価がある一面、防災政策においては幕府の消防体制に数々の“改革”の手を加えていた。これはその第1弾であった。しかし………、
この日町奉行は、江戸中すべての町火消組頭取、その年の担当町名主全員およびその町名主が居住している町の家持ち町人と家主代表各1人、並びに江戸の南端および北端の町名主5人を奉行所に集め、地代や家賃など諸費用の上がる中「町法被仰渡書(ちょうほうおおせわたせらるしょ)」と呼ばれる町の費用を節減させる指示書を出し、その冒頭の7項目で火消費用の節約を命じた。
まず対象になったのは、各組が競って派手になってきた纏(まとい)費用の削減で“1.町々(各火消組)之纏、以来は組合限(ごと)壹(一)本ニ致(し)、大(き)サ貳(二)尺(約60cm)(柄は)白漆塗ニ一同仕替(すべての組で取り替える)、小纏(は)相止可申事(組同士で止めようと申し合わせること)”。
次いで“1.町火消人足共(は)、朱印境ニ(て)詰罷在(待機し)、役人(の)差図無之(指図無しに)出越申間敷旨(越えてはならない旨)、(中略)以来差図無之出越候もの有之におゐてハ(指図無しに越えた者がいた場合は)、賃銭渡間敷候(賃銭を渡してはならない)。(中略)都て(すべて)朱印境を出越候故致(越えていくと)混雑(各組の人足が入り乱れ混雑し)、(消口を争って)口論等ニ及(果ては口論となり)、(かえって)消防之妨(げ)ニも成候間(後略)。とある。
ちなみに朱印境というのは、1718年11月10日(享保3年10月18日)、江戸町奉行が江戸市内の各町に7か条からなる消火活動についての「規定」を申し渡し、町火消組合の編成を命じたのに次いで、2か月後の翌1719年1月23日(同享保3年12月4日)、江戸の絵図に朱印して町火消組合に所属する町々を明示したが、その際の町境を指す。
また、賃銭を渡さないようにとあるが、火消人足の動員費は町内の費用なので、境を越えて他の組の持ち場に行って消火活動しても、その分の費用は出さないように、ということか。町火消組の費用は纏、鳶口、龍吐水(手押し消火ポンプ)、火事衣装など固定費が多いので、目的は動員費の削減と思われ、組同士の消口争いから来る喧嘩を起こさせない効果も狙ったのだろう。
次は火の見櫓も節約の対象になっている“町々火之見之儀、以来可成丈(なるべく)数(を)省略致(し)、入用不掛様可致事(必要としないようにすること)”。火の見櫓は、火事をなるべく早く発見するようにと建てられているものだが、この数を減らしても必要にならないようにすること。というのは、まず普段から火の用心に気を使い、火事を起こさないようにしなさいとのことだろう。確かに火災による損害と復興費用は莫大なものになるので、主な節約対象となるのはもっともだが、いつの時代でも顔を出す為政者から庶民に対する常套的な“自主努力”の呼びかけではある。
そのほか、自身番小屋が手広くなっていることを指摘、新築の場合は必要限度の手狭にして、新築や修復費用も抑えるよう指示している。また、風が激しく吹くとき以外は、火災シーズンの冬や春であっても、小屋に詰めるに及ばないこと。町奉行の役人以外は番小屋へ入れないこと。詰めるときはそれぞれに弁当を持参し、酒は絶対、番小屋で飲まないこと。節約に関係ないことまであげて、質素に緊張感をもって勤めるよう指示している。
さらに、町抱え之もの(火消人足の鳶職)の火事装束は、燃えにくい難燃性のある革羽織は贅沢であるとして禁止、木綿の法被にするようにと指示。鎮火後の火消人足への捨銭(謝礼)は減らすこと。火消人足の仲間同士での寄合(飲み会)に町内費が支払われているので禁止。龍吐水は公儀(幕府)からの支給品なので大切にすること。などが指示された。
これらの節約指示の中で、火消人足たちに対する動員費の削減が、命を現場で張っている町火消たちのやる気をなくし、謝礼の減額、寄合酒の禁止などもあり、火消人足だけでなく、江戸っ子に対する過剰な節約指示と風俗の取締などが反感を買い、定信が白河藩の藩主であることをかけた狂歌“白河の清き流れに住みかねて もとの田沼の濁りぞ恋しき”との皮肉を投げかけられ、わずか6年間で、寛政の改革は挫折している。
(出典:山本純美著「江戸の火事と火消>江戸の華・町火消 80頁~84頁:火消の浪費と寛政改革」、東京大学史料編纂所>データベース検索>所蔵史料目録データベース「東京市史稿>No.3>Lー31市街篇第31>町法改正:1頁~3頁(町火消、自身番屋関係)」、宮本房枝著「江戸における町火消成立期の火災被害に関する研究>表-2:火災に関連する制度>享保3.12.4」。参照、2013年8月の周年災害「天明浅間山大噴火」、2013年10月の周年災害「天明の飢饉-田沼意次政権の崩壊へ」、2018年11月の周年災害「江戸町奉行、町火消組合編成を命じる、町人自身による消火活動で江戸を守る体制へ」、2013年9月の周年災害「幕府、火の見やぐら設置基準定め建設を推進させる」)
○富山天保の大火「浜田焼」。8000軒余焼亡(190年前)
1831年5月23日(天保2年4月12日)
先の「金沢寛永8年の大火」でご紹介したが、富山も江戸時代は大火が多く、1000軒以上焼失した大火が5回もある。
富山の場合、飛騨山地から神通川沿いに強い南の風が吹き降りるフェーン現象が起こり、火事が発生しやすくなるという。この日の火災は火元にちなんだ「浜田焼」として市民に語り継がれているが富山史上最大の火災となった。
天保2年(1831年)は春先から毎月火事が起きていたので、藩の役人も城下の住民たちも火の用心をしていたが、午の刻(午前12時ごろ)、西田地方神明社の東にある浜田弥五兵衛方より出火、強い南の風にあおられて炎は北上し、東西に広がって富山城内及び城下93町、郊外の3村を全滅させ70人が死亡した。
富山城内では、公事場役所(藩の裁判所)、越中の特産薬種の販売を支援する“反魂丹役所”、藩校の広徳館など役所の建物と土蔵すべてを焼失。城下では侍屋敷300軒、足軽など下級侍の家877軒、町人の本家(自宅)1949軒、貸家5029軒、松川北部の愛宕町など百姓家122軒、土蔵納屋689棟、寺46か所。神社3か所が焼失した。
大火後、富山城下では、この火事の火元が浜田弥五兵衛宅と谷七兵衛宅の付近と伝えられたのでさっそく狂歌が現れた。「谷・浜田 誰が火元か知らねども 谷という字は火の口と書く」大火に負けない富山城下町人のしゃれである。
(出典:富山市編「富山市史 通史 上巻>近世編>第六章 社会の変化>第一節 災害>五 火災 1217頁~1220頁:天保二年の富山大火」、富山市史編集委員会編「富山市史 第一巻>江戸時代(文政・天保)>富山藩時代(前田利幹時代)(天保)763頁~765頁:天保二年四月十二日」)
○山形明治44年「市北の大火」。恒例“薬師祭”初日に猛火、市中心部潰滅 (110年前)
1911年(明治44年)5月8日
山形では明治後期に1000戸以上を焼失する大火を2度も経験している。
最初は1894年(明治27年)5月の「市南の大火」と呼ばれる市の南部を焼いた大火で、2回目がこの日の大火である。
東北内陸部の山形地方では、4、5月ごろ雨量が少ない上、最大風速10mの強風が吹きまくる。江戸時代の1819年6月(文政2年閏4月)に起きた「和右衛門火事」もそうだが、4月から6月にかけて大火が多いのはそのせいという。
この日、それまで旧暦4月8日に行われていた山形恒例の“薬師祭”が、新暦の5月8日に改められ強風のさなか初日を迎えていた。ところが午後4時半ごろになり、市中心部の七日町の“そば屋東京庵”から火の手が上がり、隣接する山形自由新聞社に延焼、炎は七日町の大通りを次々となめ、両羽銀行に燃え移った時、烈風にあおられて四方に飛び火し薬師町にも延びてきた。炎は祭りの中心薬師堂を焼き払い、数千の参詣客が逃げまどう事態となった。
その後、火の勢いはいっそう増して山形県庁を始め市役所、警察署、裁判所など行政の心臓部を焼き払うなど延べ10時間に及ぶ大火となっている。行政機関以外の主な被害は銀行、図書館、中学校などで市の中心部を焼け野原にし全焼1340戸を数えた。
(出典:山形市史編さん委員会編「山形市史 下巻 近代編>第三章 明治後半期の発展>第六節 災害と復旧>1 市南・市北の大火とその復旧 912頁~921頁:(2)市北の大火と復旧」)
○大阪府警察部、我が国初の消防ポンプ自動車を大阪市東署に配備(110年前)[追補]
1911年(明治44年)5月10日
火災の際に最大の武器となる“放水機”の国産による近代化は、1884年(明治17年)ドイツから取り寄せ、年末に石川島監獄署(現・刑務所)工作所で完成した、手こぎの“手動腕用ポンプ”から始まる。
次いで14年後の1899年(明治32年)1月、市原喞筒(そくとう:ポンプ)製作所が、蒸気エンジンを動かし放水する“蒸気式消防ポンプ”の国産化に成功、それを馬車に載せ火災現場に駆けつけた“馬引き蒸気ポンプ”へと進歩してきた。
以後、現在の姿に変貌するのは、ガソリンエンジンによる“放水”と自動車による運搬という消防ポンプ自動車の出現からである。
日本初の“ガソリンエンジン付消防ポンプ”制作の成功は、1910年(明治43年)5月、㈱モリタの創始者・森田正作の手による。市原喞筒製作所の“蒸気式消防ポンプ”国産化からわずか11年後、江戸時代の“龍吐水”廃止からもわずか26年後のことである。明治の技術革新は素晴らしい勢いだった。
そのすぐ翌年のこの日、大阪府警察部は、我が国初の“消防ポンプ自動車”を大阪市東署に配備した。もちろん国産車ではないが、“消防機器の近代化による消火能力の向上”によせる現場の意欲には凄まじいものがある。
同車の製作はイギリスのメリウェザー社、1910年10月20日購買入札を行い、大阪市内の代理店・アンドリゥス社より1万269円(現在の価格で3400万円ほど)で購入、この日配備されている。
同ポンプ車の放水量は1分間に300ガロン(1360リットル)、放水射程は150尺(45m)以上という、現代の消防ポンプ車とくらべても、放水量がほぼ7割程度という高性能だったが、配備翌1912年(明治45年)1月の“大阪南の大火”に出動したというが、残念ながら活動実績の記録は残っていない。
ちなみに国産初の消防ポンプ自動車の完成は、市原喞筒製作所が1915年(大正4年)森田製作所が1917年(大正7年)で、欧米よりも積載する自動車の量産化に遅れたことが、その完成を遅らせる結果となっている。
(出典:大阪市消防発足20周年記念誌編集委員会篇「大阪市消防の歴史>1 資料と年表>消防明治百年79頁:明治44(1911)>自動車付消防ポンプ購入(5・10)」、福原金吉著「大阪市消防要覧>第二章 水防竝火防ニ関スル器具及機械>蒸気喞筒及消防喞筒船調表(大正3年4月)>東消防署署内」。参照:6月の周年災害・追補版(5)「消防本署に輸入の第1号蒸気ポンプ、年末には同分署に国産腕用ポンプを配置し龍吐水廃止される」、2019年1月の周年災害「市原喞筒(そくとう)製作所、蒸気式消防ポンプ国産化に成功、時代は“破壊消防”の時代から“放水消防”の時代へ」、2020年5月の周年災害「森田正作、我が国初のガソリンエンジン付ポンプの創作に成功、わが国消防の歴史を拓く」)
○小樽明治44年の大火-防火都市小樽へ変貌(110年前)
1911年(明治44年)5月16日
小樽は1880年(明治13年)から1911年(同44年)の31年間に、500戸以上焼失した大火を7回、1000戸以上焼失した大火を2回も経験し、当時、函館と並ぶ“火災都市”だったという。
この日の火災は、その1000戸以上を焼失した大火の一つであったが記録が少なく、わずかに手宮裡(うら)町より出火し1251戸を焼失させたとしか記録がない。しかし、実は最後の大火だった。
なぜ小樽は火災が多かったのか?
当時の北海道は新しい開拓地である。小樽は港町として急激に発展し、1870年の明治初期に比べこの大火当時は人口が29倍も増えていた。しかし背後に山が迫った土地なのでその人口を吸収する平地が少なく、狭い道幅の坂道の両側に急造の木造家屋が密集していた。これが大火を呼んだ大きな原因であろう。
小樽で最大の被害が出た火災は、この日の7年前の1904年(明治37年)5月に起きた稲穂町の大火である。この時2481戸が被災したが、その後都市計画をたてて道路幅を広げ、主な建築物の構造を木造から石造へと一気に転換させたという。
この大火の明治44年当時は、まだ石造の建物は高価でそれほど普及していなかったのだろう。しかし3年後の1914年(大正3年)には上下水道を完成させ、1920年代になると銀行などは鉄筋コンクリート造りとなり、一般の商店でも外壁を防火仕様にするなど防火体制を強化している。
その後小樽は、1927年(昭和2年)5月に435戸を焼失したのを最大の被害として、明治44年の火災を最後に500戸以上を焼いた大火の歴史に幕を閉じることになる。
(出典:稲垣益穂著「稲垣益穂日記>明治44年>(五月十六日 火)風 晴」、関西学院大学社会学部島村恭則ゼミ「『火災都市』小樽と『ブン公』伝説」。参照:2014年5月の周年災害「小樽明治37年「稲穂町の火事」-近代的な防火都市へ変貌」)
○苫小牧「鯉のぼり大火」。行政機関・商店街潰滅、
復興後王子製紙を支え、その城下町といわれるほどに発展(100年前)[改訂]
1921年(大正10年)5月1日
道南の苫小牧史上、唯一最大の大火である。午後1時20分、現在の大町三条通りより出火、当時
の市街地の中心1007戸を焼き尽くした。
町役場、警察分署、郵便局、尋常高等小学校(現・小学校)、樽前山神社から劇場などほとんどの行政機関と商店が焼けた。残ったのは苫小牧駅前とその周辺の僅かな商店だけだったという。
この日、苫小牧の街には5月5日の端午節句を前に“鯉のぼり”が数多く翻っていた。ところが火事が起き、炎が鯉のぼりを包み、燃える鯉のぼりは飛び火の媒体と化した。“鯉のぼり大火”のゆえんである。大火後、苫小牧では鯉のぼりを揚げる家が少なくなったという。
しかしこの大火後の復興に大きな力を与えたのが、王子製紙苫小牧工場である。
苫小牧は、1873年(明治6年)北海道開拓使が、勇払郡出張所を同地に設けたのが同地発展のいしずえとなったのだが、その後は、大火の原因となった無計画で無秩序に街道に沿って家屋や商店街が建てられていた。
王子製紙(現・王子ホールディングス)が苫小牧に進出したのは、大火より11年前の1910年(明治43年)9月だったが、被災地より離れていたので類焼をまぬかれた。
同社がこの地に製紙工場を建設したのは、1904年~05年(明治36年~37年)にかけた帝政ロシアとの戦いのあと、新聞用紙需要の高まりを受け、抄紙に欠かせない豊富な“水”が、苫小牧の背後にある支笏湖にたたえられていること、用紙の原材料となる砕木パルプ用の樹木の入手に不自由しないこと、また進出当時はまだ開拓時代で工場用の広大な土地が安価に購入できたことにあった。
ところが大火によって、行政機関や商店街が焼失したことは、工場の運営にとって大打撃となる。町の復興は、王子製紙にとっても重大案件であリ、同工場からのさまざまな需要は町の発展に欠かせないものであった。
苫小牧町は復興にあたり、市区を根本的に改正することとなり、行政機関や学校から遊郭までも移転を断行、商店街を東に移し近代的な耐火レンガ造りの商店も出現するなど王子製紙とともに発展、のちに王子製紙の企業城下町と言われるほどになる。
ちなみに王子ホールディングスは、製紙・パルプ業界における世界市場シェアー第4位(2022年)という巨大企業に成長したが、苫小牧の地がそれを支えて来たのだ。
(出典:苫小牧市編「苫小牧市史 下巻>第7編 経済史>第1章 商業と経済の変遷>第1節 商業 57頁~61頁:大火と商店街の東方移動」、苫小牧市編「苫小牧の歴史」、経済広報センター編「企業との懇談会>企業と生活者懇談会>100年の歴史を持つ、世界屈指の製紙工場を見に行こう!>王子製紙苫小牧工場の概要」、ディールラボ編「製紙・パルプ業界の世界市場シェアの分析>製紙メーカーの世界シェアと業界ランキング(2022年)」)
○出張映画会の重なる火災、北海道東島牧村と群馬県金古町で(90年前)[改訂]
1931年(昭和6年)5月12日、16日
僅か4日間の間に出張映画会で続けて惨事が起きたが、別に同じ地域で起こった訳ではない。
この当時、2年前に起きた世界恐慌の波は更に深刻化し、9月には中国の柳条湖で関東軍が軍事行動を起こすなど物情騒然としていた。
この状況の中で息抜きとなる物としてラジオ放送が6年前から始まっていたが、まだ一般には普及せず庶民の最大の娯楽は映画だった。ところが映画を観るといっても農村部には映画館はほとんどなく、たまにやってくる出張映画会を待ち望んでいた。
5月12日、北海道東島牧村字本目村(現・島牧村)で宿屋のかたわら出張映画会を営んでいた鶴間方では、隣町の寿都(すっつ)町の寿都座から映画技手と弁士(まだ無声映画である)をフィルム持参で呼び、出張映画会を開催した。
当時は映写の光源にアセチレンガスを使っていたが、10時半ごろ光源の調節に失敗、ガスが燃えやすいセルロイド製のフィルムに引火、たちまち映写室から場内へと猛火が一帯を包んだ。
出入り口が映写室の近くにあったため、200人余の観衆は逃げ場を失い裏窓に殺到した。16人死亡、23人重軽傷、10戸が延焼。死亡者はお年寄り、子ども、女性だったと記録されている。
その4日後の16日、今度は群馬県金古町上(現・高崎市)の絹市場(絹糸、絹織物等の取引所)で惨事が起きた。
当時、絹市場には映写室や舞台もあり、数少ない町民の娯楽場“金常館”として愛用されていた。
この日、映画会を主催した関東日日新聞社前橋支局では、映写技師を雇い、当地高崎の孝行小学生を主人公にした教育映画「昭和のおふさ」をこの絹市場で上映していたが、映写機の調子が悪いのかたびたび中断したという。10時40分ごろ、その何度目かの中断で場内がざわついたとき、映写室から突然、火が吹き出した。故障していた映写機のレンズを通してフィルムに熱が伝わり引火したのだった。
2階映写室から発火した炎はみるまに天井に燃え移り、黒煙が渦を巻いた。
場内にあふれかえっていた750人の観衆は総立ちとなり、階上の観衆は折り重なって階下へ飛び降り、逃げ場を求めて狭い映写室側の出入り口に殺到したが、炎がここも封鎖したので、逆側の非常口を求めるなど、黒煙の中、大混乱となった。逃げ遅れた子どもら13人が死亡、群衆に倒されるなど数十人が負傷。
(出典:島牧村教育委員会編「島牧村史>第17章 公安>5 災害>(1)火災・風水害:847頁~849頁」、群馬町誌編纂委員会編「群馬町誌・資料編3>第7章 軍事・治安・災害・行幸啓>第5節 災害>3 火災:777頁~778頁:533 昭和6年5月 金古町絹市場火災の大惨事報道」、同編「群馬町誌 通史編 下>第6章 芸能>第2節 映画>3 大正末・昭和前期の映画:905頁~906頁:惨事招いた巡回映画」、迷道院高崎編著「隠居の思ひつ記>春の夜嵐 昭和のおふさ1~6(映写事故の記録とモデルとなった方の思いでの記)」)
〇ボツリーヌス中毒北海道島野村で発症、道立衛生研究所、国内初の原因菌発見(70年前)[追補]
1951年(昭和26年)5月29日
世界で初めてボツリーヌス中毒が、南ドイツ地方を中心として多発したのは、酪農が盛んになり塩漬けハムやソーセージなどの保存食品が庶民の間にも広まった18世紀末だという。ちなみにボツリ-ヌス中毒(Botulsm)とは、ラテン語でソーセージを意味する(botulus)に由来する。
そのボツリーヌス中毒がこの日、北海道積丹半島西の付け根にあり日本海に面している島野村(現・岩内町)で発生、その原因菌が初めて分離発見された。発症は手製のニシンいずし(飯寿司:魚と野菜を米麹に漬けて、乳酸発酵させたすし)による中毒で、24人が発病うち作製者本人を含む4人が死亡し重症者3人をだした。
当初、死因を確かめるために6月9日岩内保健所において法医学解剖が行われ、サルモネラ中毒の疑いもあったので、北海道大学細菌学教室と道立衛生研究所において、残ったニシンいずしから検出が試みられたが陰性に終わり、原因不明のまま片付けられそうになった。しかし同研究所は諦めることなく原因究明に当たることになる。
そこで淡い期待であったが、ボツリーヌス菌あるいはその毒素の検出が可能なのかどうか、マウスによる動物実験を行うとともに、嫌気性菌分離培養法を行い証明を試みた。
まず“いずし”に生理的食塩水を加え、よくすりつぶした液体の上澄みを加熱することなくマウスに注射したところ20時間以内に死亡したが、その過程でボツリーヌス中毒特有の症状が現れたことを確認することができた。
また“嫌気性菌分離培養法”により、まず対象の細菌の分離に成功、培養の過程で“嫌気性(増殖に酸素が不要)”であることを証明、その観察からボツリーヌス菌としての生物学的特徴も明らかになり、この問題の中毒の原因菌は明らかに“ボツリ-ヌス菌”それもまれな“E型株”であると証明することに成功した。
(出典:北海道立衛生研究所編「岩内郡島野村に起こったボツリーヌス中毒について」)
○大規模林野火災「三陸大火」。フェーン現象が起こした戦後最大規模の災害(60年前)[改訂]
1961年(昭和36年)5月29日~31日
フェーン現象による火災が東北で大規模林野火災というかたちで起きた。
勢力の低下した台風4号が熱帯性低気圧としてこの地方を通過し、フェーン現象を起こした。午後1時半ごろ岩手県新里村二又(現・宮古市)の山林で、亀裂が入っていた炭焼窯(すみやきがま)から漏れた火が強風にあおられて近くの山林に飛び火した。
記録的な雨の少なさのため乾ききっていた山林に、平均風速30mの西北西の強風が吹き抜け、炎は瞬く間に大きくなり田老町、宮古町(ともに現・宮古市)、普代村、田野畑村、岩泉町、山田町と三陸地方大部分の山林に拡大した。
鎮火したのは2日後の31日午後7時50分。林野の403.66平方km、建物の5万3047平方kmを焼損し5人死亡、97人が負傷したが、これは林野火災としては戦後最大の大規模な災害だった。
同じ日、同県久慈市でも林野火災が起こり、青森県八戸市では放火で720棟が焼損するなどフェーン現象による被害は両県にまたがった。
大規模林野火災に対抗する装備は、1971年(昭和46年)4月におきた消防職員18人が殉職をする呉市林野火災を経て、消防ヘリコプターによる空中からの消火体制として整備された。
しかし54年後の2025年(令和7年)になっても、2月26日消防署に通報があり、33.7平方kmを焼いて41日後の4月7日にようやく鎮火した、岩手県大船渡市の林野火災など、ヘリコプターによる空中放水の難しさを、人々はテレビ放映などで確認している。
降雨量が少なく、強い風が吹く2月から4月にかけて、例年日本列島では大規模な林野火災が多発しているが、特に2025年は総務省消防庁が公表した大規模火災だけでも8件と多い。
地球温暖化が進み、今までよりも山林の植物の乾燥が進み燃えやすい状態になっている中で、人為的な原因が多いと言われる林野火災への防災対策は、消火方法の研究とともに、今後とも関係機関による大規模なPRが必要であろう。
(出典:近代消防臨時増刊号「日本の消防1948~2003>年表1 災害編 84頁:昭和36年・三陸大火」、総務省消防庁編・災害情報一覧「岩手県大船渡市の林野火災による被害……(第37報)」ほか、防災ニッポン編「大規模な山火事が多発! 地球温暖化の影響や過去の事例を解説」。参照:2021年4月の周年災害「呉市林野火災で消防職員殉職-広島県・呉市、政府に抜本的近代化求め消防ヘリ活用へ道開く、予防・消火体制は地域ごとに対応したものに成長」)
○宝塚市でフッ素による斑状歯問題起こる。市では治療補償を条例化して対応(50年前)[改訂]
1971年(昭和46年)5月
兵庫県宝塚市の西山小学校で実施された学校歯科検診で、多数の児童の歯に斑状菌(歯面が白濁し、部分的に褐色化)していることが公表された。
原因として指摘されたのは同市が市民に供給している水道水で、これに国の水質基準を上回る高濃度のフッ素が含まれており、それを飲んでいる子ども達の歯のエナメル質の形成がおかされ、菌の繁殖を許したとされた。
この公表を受け、市民の間で全市的な“斑状菌から子どもを守る会”が結成される一方、公表した歯科医師に対し、水道水によるフッ素被害の風評により地域振興が妨げられるとする抗議が寄せられるなど問題は大きくなった。
宝塚市ではこれらの状況を受け、同市を始め市議会、市歯科医師会、市医師会、県宝塚保健所5者による「市フッ素問題研究協議会」を発足させ、市内の斑状菌の実態調査、その原因調査と対応策を検討することとなった。同協議会では、フッ素についての水質検査を月1回定期的に実施し、その結果を市民に公表することなどを決定。各水源系統ごとに採水したフッ素濃度を市広報紙に継続して掲載している。
さらに同市は翌年1月、専門的知識を有する学者、医師などによる調査・研究機関として「市斑状菌専門調査会」を設置、その実態調査と原因の究明、原因の除去と治療対策について諮問。同調査会は1974年(昭和49年7月)答申書を提出、水道水中のフッ素濃度許容量、被害者の救済対策、学校歯科検診やフッ素問題の研究所の設置など、今後の市の斑状菌対策について指針を明らかにした。
それを受け1975年(昭和50年)8月、斑状菌に罹患した人の救済を目的とした「宝塚市斑状菌の認定および治療補償に関する要綱」を公布。1982年(昭和57年)4月には同要綱を市の条例化し、「宝塚市斑状歯の認定及び治療の給付に関する条例」を施行するなど補償対策にも万全な体制づくり行った。
水道水のフッ素問題については、虫歯の予防にむしろ添加すべきとする意見もあり歯科医師の間でも意見が分かれているという。またこの問題で2011年(平成23年)1月、日本弁護士連合会が意見書を公表するなど、日本国内をはじめ世界的にも未だ論争が続いている。
(出典:日本臨床口腔病理学会+宝塚市水道局編「Ⅷ 斑状菌>1斑状菌対策>(1)経過」、宝塚市編「水道水中の有機フッ素化合物(PFOS、PFOA)について」、宝塚市制定「宝塚市斑状歯の認定及び治療の給付に関する条例」、日本弁護士連合会「集団フッ素洗口・塗布の中止を求める意見書」)
○消防庁「適マーク(防火基準適合表示)」制度始まる。一時中止後10年後復活(40年前)[改訂]
1981年(昭和56年)5月15日
1980年(昭和55年)11月に発生した“川治プリンスホテル雅苑の火災”をきっかけに自治省(現・総務省)消防庁はこの日、「防火基準適合表示要綱」を制定、消防庁次長名で各都道府県知事宛に「防火対象物にかかる表示、公表制度の実施について」とする通知を発行した。
同通知では当面、不特定多数の人々が宿泊する、旅館、ホテルを対象に、防火管理の実施、消防用設備の有無、建築構造上の安全性などの点検項目について、消防機関がこれらを検査、防火基準に適合していると認めた地上3階以上で収容人員30人以上の宿泊施設に対して「適マーク」を交付するとした。
「適マーク」交付は翌1981年度(昭和56年度)から全国的に実施され、各宿泊施設も「適マーク」に応じた防災に対する努力を払うようになリ、人びとがそれらを利用する際、安全についての判断基準となった。特に旅行会社などは、国内ツアーを企画する際、旅館、ホテルなどを選ぶうえで、「適マーク」の有無が判断基準となり、各宿泊施設の経営に大きな影響を与えるほどになっていく。
この成功により、該当する“防火対象物”が多く存在する東京消防庁では、翌1982年(昭和57年)4月30日の予防部長依命通達(消防庁長官命による通達)により、「適マーク」制度の対象を劇場、公会堂やデパート、スーパーマケットなど“特定防火対象物”に拡大、他の都市の消防局なども追随し対象は広がっていった。
ちなみに“防火対象物”とは「消防法」で“山林又は舟車、船きよ若しくはふ頭に繋留された船舶、建築物その他の工作物若しくはこれらに属する物をいう(第2条第2項)”と規定しているが、これは消防機関が消防活動の対象とする“消防対象物(第2条第3項)”でもあリ、1961年(昭和36年)3月公布された「消防法施行令・別表第1」で具体的に表示されている。
また東京消防庁などで「適マーク(防火基準適合表示)」制度の対象とした“特定防火対象物”は、1954年(昭和49年)6月「消防法第17条の2第2項第4号」として追加改正された“百貨店、旅館、病院、地下街、複合用途防火対象物、その他防火対象物で多数の者が出入するもの(以下「特定防火対象物」という)”との規定にもとづいており、同年7月改正の「消防法施行令」では“多数の者が出入りするものとして政令で定める防火対象物は、………(第34条の4第2項)”として、「別表第1」の各項から“特定防火対象物”にあたる項目を明示している。
2001年(平成13年)9月、東京新宿歌舞伎町の雑居ビルで火災が発生し44人の人命が失われる。
総務省消防庁ではこの火災原因を踏まえ、消防法違反是正の徹底、防火管理の徹底、避難・安全基準の強化を図るため、翌2002年(同14年)4月改正追加の「消防法第8条の2の2」において、“防火対象物”に対する“定期的に”国家資格を持つ“防火対象物点検資格者”が行う“点検対象事項”とそれの“報告”について規定、同年8月には「消防法施行令」を改正“火災の予防必要な事項等について点検を要する防火対象物(第4条2の2)”を追加、「別表第1」の項目より定期点検を要する項目を明示するなど、「防火対象物定期点検報告制度」を創設した。これに伴い「適マーク」制度は2003年(同15年)9月30日で廃止したが、継続の要望が強かったホテル、旅館など限り3年間の延長となる。
ところが2012年(同24年)5月13日、この点検・報告を怠った広島県福山市のホテルで、7人の死者を出す火災が発生した。
明らかな違法建築物であったが、国家資格を持つ限られた数の“点検資格者”が全国すべてのホテルや旅館に対して定期点検を行える筈もなく、消防庁では急遽「ホテル火災対策検討部会」を翌6月開催、数回にわたる同部会の結論にもとづき、翌2013年(同25年)10月、消防庁次長名で「防火対象物に係る表示制度の実施について」とする通知を各都道府県知事および政令都市市長に通知、10年前にいったん廃止した「表示制度」を翌2014年(同26年)4月1日より復活させるとし、条文化した「防火対象物防火基準適合表示制度実施要綱」を同年1月に公布している。
復活した「新・適マーク制度」の旧制度との違いは、①適マークの交付は、宿泊施設など防火対象”表示施設関係者”より消防機関への申請による(第4条2項)、②交付される“適マークは”まず最初に“銀色の適マーク“が交付され、交付後3年間、表示基準に適合していると消防機関が認めた場合、“金色の表示マーク”が交付される(第6条、第7条)となっており、「適マーク制度」の有効性が事実でもって立証され、国が制度の復活を行ったという珍しい事例となった。
(出典:近代消防社編「創刊50周年記念-災害と法改正で振り返る50年-」、東京消防庁編「資料2 現行表示制度の概要」、国土交通省編「消防庁の表示・公表制度について」、衆議院制定法律「昭和23年7月24日法律第186号:消防法」、国立公文書館デジタルアーカイブ「昭和36年3月25日政令第37号:消防法施行令」、総務省消防庁編「参考1-1 防火対象物:防火対象物の用途区分表(消防法施行令別表第1)、別表第1の改正経過」、衆議院制定法律「昭和49年6月1日法律第64号:消防法の一部を改正する法律」、東京理科大学総合研究機構火災科学研究センター編「消防法令改正経過検索システム>消防法施行令>第34条の4(昭和49年7月1日政令第252号改正)」、衆議院制定法律「平成14年4月26日法律第30号:消防法の一部を改正する法律」、 同「平成14年8月2日政令274号:消防法施行令の一部を改正する法律」、総務省消防庁編「ホテル火災対策検討部会」、消防庁次長通知「平成25年10月31日消防予第418号:防火対象物に係る表示制度の実施について」、消防庁「平成26年1月14日消防告示第1号:防火対象物防火基準適合表示制度実施要綱」、東京消防庁編「防火対象物適合表示制度のご案内」。参照:2020年11月の周年災害「川治プリンスホテル雅苑火災、ホテル火災最大の犠牲者を出す」)
○信楽(しがらき)高原鉄道衝突事故。安全確認を怠った末惨事に、
10年後遺族の粘り強い訴えで航空・鉄道事故調査委員会発足(30年前)[改訂]
1991年(平成3年)5月14日
午前10時35分ごろ、滋賀県の信楽高原鉄道信楽線の小野谷信号場-紫香楽宮(しがらきのみや)跡駅間で、信楽発貴生川(きぶがわ)行きの上り普通列車と、京都発信楽行きのJR直通下り臨時快速列車が正面衝突した。
この日、信楽行き臨時快速列車は、同地で開催されている世界陶芸祭を見物する乗客で乗車率2.5倍という超満員だったが、京都を定刻より5分遅れの9時30分に出発した。
JRの亀山CTC(列車集中制御装置)センターでは下り列車が遅れていることを知り、信楽線が単線のため衝突などの事故が起きないように、9時44分ごろ遠隔操作で“方向優先てこ”を作動させ、常に上下線を行き違わせて通過させている小野谷信号場の上り信号を赤にし続け、上りの貴生川行きの普通列車を停車させて、同信号場で下りの臨時快速列車が通過できるようにした。
京都を出発した下り臨時快速列車は10時18分、貴生川駅を2分遅れで発車し信楽線に乗り入れる。
一方信楽高原鉄道では、下り臨時快速列車の出発が遅れた報告を受けていたので、上り列車を定刻に出発させず10分ほど待機させていたが、列車の遅れによる乗客への迷惑を考えたのか、10時24分、信楽駅の出発信号が赤のままなのに小野谷信号場と連絡もせず、手信号に切替え出発させた。
実は以前も、上り列車を赤信号のまま出発させたことがあったが、そのときは“誤出発検知装置”が働き、同信号場の下り線信号が赤となり、列車を待避線のある場内で停車せ、事故を起こさずに済んだ。その経験から同装置作動への期待があったのだろうか。
ところがこの日は不幸にも“誤出発検知装置”が故障していて、同信号場の下り線信号が赤とならず、青のままになっていた。
2分遅れで出発していた下り臨時快速列車の運転手は、小野谷信号場内でいつものように行き違いのため停車している筈の上り普通列車がいないことに不審を抱いたが、信号は青(進め)である、その上出発が遅れていたので、それを取り戻すべく同信号場を通過した。
そして10時40分ごろ超満員の臨時快速列車は、走行してきた普通列車と正面衝突した。
大破した車体に挟まれて42人死亡、614人負傷。この事故の影響で信楽の世界陶芸祭は中止となる。事故原因として、信楽高原鉄道が安全確認を怠り、赤信号なのに小野谷信号場に連絡しないまま列車を出発させたことが上げられたが、下り臨時快速列車の運転手も、列車出発の“遅れ”という不幸な状態であったとしても、不審に思った時点で確認すべきであったとの指摘もある。
また“誤出発検知装置”の故障という状況もあったが、機械装置の故障は常に起きやすく、関係者による点検確認を怠らないことが絶対に必要であろう。
また事故後、遺族たちは鉄道事故の原因を調べる常設機関を設置するよう国に粘り強く働きかけた。この訴えが10年後ようやく実り2001年(平成13年)10月、1974年(昭和49年)すでに発足していた「航空事故調査委員会」を拡大、鉄道事故も調査する形で「航空・鉄道事故調査委員会」として発足、2008年(平成20年)10月「海難審判庁」の事故原因調査機能と統合し「運輸安全委員会」として発足している。
(出典:失敗学会編「失敗知識データベース>「失敗事例:信楽高原鉄道での列車正面衝突」、国土交通省編「運輸安全委員会>沿革」)
○雲仙普賢岳198年ぶりの大噴火、溶岩ドーム形成し大火砕流山麓に流下。
6月3日を始め火砕流、土石流による被害大きく(30年前)[改訂]
1991年(平成3年)5月24日~6月30日
雲仙普賢岳は1792年5月21日(寛政4年4月1日)に大噴火を起こし、その後の眉山の山体崩壊による有明海の大津波で対岸の肥後国(現・熊本県)に大被害を与えたことから「島原大変肥後迷惑」と言われた歴史を持つ。1990年(平成2年)11月17日の同岳九十九火口、地獄跡火口からの噴火が198年ぶりと言われたのにはそのような背景がある。
前年1989年(同元年)11月の橘湾群発地震から始まった地震活動で、噴火の兆しは把握できたが、前兆現象は噴火4か月前の7月より観測され始めたという。
噴火はまもなく活動が低下したが、翌1991年(同3年)3月再び噴火が始まり、5月20日午後、山頂部の東端にある地獄跡火口から東斜面にかけて溶岩ドームを形成した。この火口が山頂部東端に位置していたことがその後の被害を拡大させることとなる。
この溶岩ドームは翌21日から砕けだし次第に火口を埋め尽くすまでに体積を増した。
5月24日朝、火口からあふれ出した溶岩の固まりは、崩落型の火砕流となって火口の東側水無川源流部を下り、その発生回数は6000回にも達し、そのうちの数回の火砕流流下距離は4kmを超えた。溶岩の噴出は1日30万立方mを上回るペースで進み、溶岩ドームは崩壊を繰り返して火砕流は徐々にその規模を増していき、5月26の火砕流は水無川沿いの民家まであと500mと迫った。
この状況を受け、火砕流を対象とした最初の避難勧告が上木場地区に出され、29日には民家まであと200mと迫るとともに、さらに高温化し、夜には山火事が発生、流下域の樹木を焼きつくした。
そして6月3日午後4時8分、徐々に成長していた溶岩ドームの底部が地滑り的に大崩壊し、それまでで最大規模の火砕流が発生する。
火砕流の流下とともに高温爆風(サージ)が谷の出口から真東に直進、その先端は火口から約4.3kmの上木場地区に達し、避難勧告後も取材を続けていた火山学者や報道関係者、警備中の地元消防団員、警察官、追いつかれたタクシー運転手などを襲い、死亡・行方不明者43人、負傷者9人を出し、住家49棟を含む建物179棟を焼失させた。
火砕流による被害のほかに、300m~500mにも達した噴煙が降灰となって降り積もり、降雨によって土石流や泥流と化して、水無川をはじめ普賢岳から流れる中尾川、湯江川、土黒川を流下、特に6月30日の島原半島を襲った豪雨によって、島原市をはじめ有明町(現・島原市)、深江町(現・南島原市)で多数の建物が被災している。火砕流、土石流による被害の合計は、家屋全壊688棟、同半壊107棟、同一部損壊68棟、床上浸水188棟、床下浸水348棟、となった。
(出典:内閣府編:内閣府中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会編「災害史に学ぶ・火山編 57頁~67頁:1990-1995 雲仙普賢岳噴火」、内閣府編「広報ぼうさい(No.43平成20年1月号)18頁~19頁:過去の災害に学ぶ(第16回)1990~1995年雲仙普賢岳噴火」、九州大学大学院理学研究院附属火山観測研究センターほか構成「インターネット博物館:雲仙普賢岳の噴火とその背景」。2022年2月の周年災害「雲仙普賢岳噴火「島原大変」始まる、3か月後「肥後迷惑」へ」)
〇茶のしずく石けん(旧)事件。アレルギー発症し損害賠償訴訟、商品自主回収、
思いもしなかった原因物質の皮膚からの吸収によるアレルギー体質化(10年前)[追補]
2011年(平成23年)5月20日
福岡県の化粧品会社(株)悠香では、同社販売の洗顔化粧石けん“茶のしずく石けん(旧)”を使用し、呼吸障害など重いアレルギー症状を起こしたとして、先の4月20日、全国の被害者535人による損害賠償訴訟を起こされ、この日4650万個の製品を自主回収した。
(株)悠香が損害賠償訴訟を起こされる原因となった、茶のしずく石けん(旧)を初めて販売したのは、この日から7年前の2004年(平成16年)3月のことである。
同製品を製造したのは、石けん専門メーカーの(株)フェニックス。損害賠償訴訟の対象となった“小麦アレルギー”の原因物質“グルバール19S”は、小麦から抽出したタンパク質グルテンを酵素などで加水分解し製造した“加水分解コムギタンパク”だが、それを製造したのが工業用水処理剤などを生産している(株)片山工業研究所で、同社としては初めて手がけた化粧品用原料だった。
加水分解コムギタンパクは、1980年代から化粧品などに広く使われるようになったという。
その特徴は“保湿性”にあり、髪や皮膚に“しっとり感”を与え、傷まないように保護したり、また傷んだ部分を直すコンディショニング効果がある。また、石けんなどに使用した場合、その“起泡性”から泡立ちの良さとして現れる。
この効果の良さにより、1990年代当時広く使用されていた動物性タンパク加水分解物に代わり、化粧品、石けんの製造になくてはならない物として普及することになる。その背景には、21世紀に入り環境問題をまじえて急速に普及する健康志向“動物性から植物性へ”の動きとは無縁ではない。
(株)悠香が販売した“茶のしずく石けん”は、その保湿性から来る“しっとり感”、起泡性からくる“泡立ちのよさ”、そして何よりも“植物性天然成分配合”という安心感から、通信販売で60グラム1980円と高価にもかかわらず、20~50代という“お肌の保持”に最も関心が強い世代を中心に人気を呼び、発売4年後の2008年(平成20年)には累計1000万個を超え、6年後の2010年(同22年)8月には4000万個を超えるという超人気商品に成長していた。
製造元の(株)フェニックスでは、加水分解コムギタンパクを採用する前に、その安全性テストを社内と外部検査機関で行っていたが、アレルギーを起こすコムギタンパク質が皮膚からも吸収されるということは、この事件が起きるまで、同社も販売会社はもちろん、医療関係者もアレルギー学者さえも知らなかった。そこで悲劇が起こる。
2008年12月、国立相模原病院アレルギー科に“小麦を使った食べ物を食べた後に運動をすると、顔に変な症状が出る”という女性が受診に訪れた。
担当した福富医師がたずねると“主に眉間のあたりから瞼の腫れが広がり、目と顔にかゆみがある”という。これは明らかに食物アレルギーの症状だが“もともとアレルギーは起きなかったが、半年前くらいから症状が出るようになった”ということだった。
そこで早速、福富医師は患者の家で使用しているすべての化粧品の成分を調べたところ、洗顔用の“茶のしずく石けん(旧)”だけに加水分解コムギタンパクが含まれていることを突き止め、もともと食物アレルギーの体質ではなかったが、この洗顔石けんを使用したため、体内に吸収されて“抗体”ができ、小麦製品を食べるとアレルギー症状が出る体質になってしまったのではないかと考えた。
その直後から、全身にわたるアレルギー症状の患者をはじめ、似たような症状の患者が次々と来院し、すべての人が同じ石けんを使用しているとわかる。翌2009年11月、福富医師は販売元の(株)悠香に同石けんの成分を提出するよう要請し分析するなど研究の結果、この石けんに含まれている加水分解コムギタンパク(グルバール19S)が、アレルギー症状を引き起こす原因物質アレルゲンであることが明らかになった。
またグルバール19Sは、洗顔石けん用の添加物のため、洗顔の際、目や鼻の粘膜から吸収され、発症の原因となったことも突き止めた。つまり“食品アレルギーは食べて発症するだけではなく、皮膚からアレルゲンが侵入してアレルギーを発症させる”“発症のキーワードは皮膚”ということを、当時の医学界、アレルギー学界に新しい概念を突きつけたのである。
ちなみに、離乳食前の乳幼児が食品アレルギーを発症するのは、当乳幼児の荒れた皮膚から侵入したアレルゲンにより発症するとわかったのも、福富医師の研究によるという。
そして2009年(平成21年)に入ると、神奈川県相模原市だけでなく全国の茶のしずく石けん(旧)愛用者の間で、アレルギー症状で悩む人々が増えていく。
すると、各自冶体の消費生活センターによせた消費者からの苦情や、アレルギー科医師からの事故情報などが国民生活センターに集まり、翌2010年(同22年)1月、同センターでは、消費者庁に対し前年6月に制定された「消費者安全法」に基づく「事故通知」を出すべきかどうか照会した。
ところが消費者庁ではなく、製造、販売を管理する厚生労働省が「加水分解コムギ末を含有する医薬部外品・化粧品の使用上の注意事項について」とする通知を出し、関係業者へ消費者への情報提供を指示したのだが、それはやっと9か月後の10月15日。肝心な消費者庁では“アレルギーに関しては確認しづらい”として消費者に対する「注意喚起」をためらい、ようやく出したのは、1年5ヶ月も後の2011年(同23年)6月だった。その間、被害者は増えていく。
このように、企業が係わる広域災害(公害)に対する国の対策の立ち遅れと、それによる被害者の増大、国民生活の破壊という、公害が起こるたびに指摘されている構図は、この時点でも改まっていなかった。
国からの情報が得られないままの被害者たちは、翌2011年(同23年)4月、販売会社(株)悠香と製造会社(株)フェニックスに対して、損害賠償訴訟を起こすこととなり、翌2012年(同24年)4月の全国一定提訴を含め、全体で23都道府県の地方裁判所へ原告764名、損害賠償約100億3000万円の請求総額となった。
ちなみに茶のしずく石けん(旧)の購入者は、(株)悠香の通信販売実績の集計で467万名(当時の全国成人女性12名にひとり)で、(株)悠香との和解者は損害賠償訴訟原告も含め1368名、被害者は2000名以上と推定されている。
(出典:朝日新聞2012年(平成24年)5月10日号「茶のしずく問題」、Liruu編「加水分解コムギタンパク」、木幡康則、田村博明、本井博文、田端勇仁著「小麦グルテン加水分解物の特徴と性質(1993年公表)」、田代宏著「旧『茶のしずく』石鹸訴訟終結、回顧ドキュメント『茶のしずく』」、福富友馬著「意識不明になるほど重症化した人も…2000人以上に小麦アレルギーを発症させた”ある日用品”」,咲くらクリニック院長ブログ「茶のしずく石鹸の事件から得られたこと。アレルギー発症のキーワードは皮膚」、衆議院「平成21年6月5日、法第50号・消費者安全法」、厚生労働省「加水分解コムギ末を含有する医薬部外品・化粧品の使用上の注意事項について」、企業法務ナビ編「茶のしずく石けん訴訟、請求総額100億円超に」)
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(2025年5月・更新)