◎大震災のさまざまな“姿”

○大正関東地震「関東大震災」、治安機関によるテロ起こる(100年前)[改訂]


 1923年(大正12年)9月1日

 阪神・淡路大震災(1995年:平成7年1月17日発災)が起きるまで、“大震災”といえばこの関東大震災を指していた。
 1923年9月1日午前11時58分、多くの家々が昼食の支度に励んでいたころ、相模湾北部を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震が発生した。
 はじめは緩慢な揺れが続き、その内にだんだんと大きくなり、ついには立ってはいられないほどの激しい揺れに襲われた。東京での観測によると最大地動震幅は14~20cmに及んだという。また住家の全潰率から評価すると、伊豆半島北部、御殿場周辺、神奈川県のほぼ全県域と原町田(現・町田市)周辺、埼玉県東南部の一部、房総半島西部から南部が震度6~7の非常に激しい揺れに襲われ、被害の多きかった東京は隅田川以東を除くほとんどの地域が、意外にも震度5程度の揺れに収まっている。
 この激しい揺れにより、河川の堤防、港湾施設、鉄道、道路、橋梁などが大被害を受け、山間部では崖崩れや山津波などの土砂災害が襲った。中でも小田原市では米神地区で20戸が埋没し62人死亡、根府川地区では64戸埋没、406人死亡、国鉄熱海線(現JR東海道線)根府川駅に停車中の列車は地すべりによって、駅舎ともども海中に転落、乗客、職員など約200人が死亡(中央防災会議報告書)、海岸で遊泳中の児童約20人が津波との挟み撃ちに遭い死亡している。

 そのほか沿岸部では房総方面と神奈川県南部が隆起、東京より以西の神奈川北部は沈下し、相模湾沿岸の伊豆半島東岸から神奈川-房総半島南部にかけて、伊東、熱海で10m前後の津波が起きるなど大規模な津波が襲来し被害を発生させた。また、埼玉県春日部、越ヶ谷など中川沿岸の低地で液状化が発生、地割れや陥没が起きた。
 なかでも被害を激しくしたのは同時多発した火災で、昼食の支度のために用意した台所の裸火などが火元となって倒潰した木造家屋に着火、東京、横浜の大都市では、台風の余波による強風にあおられ次々と延焼した。
 東京市(市域は、ほぼ山手線以東)では地震発生直後から火災が発生し134か所から出火、その内57か所は消し止めたが77か所は消すことが出来ず大規模火災となり、46時間燃え続け市域の43.6%が焼失した。横浜市では162か所から出火、市街地の約80%が焼失している。
 しかし対照的なのは、2万坪の広大な横浜公園に避難した市民約6万人が植栽のおかげで命を救われたのに対し、東京ではほぼ同じくらいの広さの本所の陸軍被服廠(軍服などの製造工場)跡に避難した市民約4万人が、運び込んだ家財道具などに飛び火が着火、次々と延焼し逃げ口をふさがれ、火災旋風に襲われて死亡したことであろう。その地には後日、東京都慰霊堂と復興記念館が建てられている。

 被害の全容は、中央防災会議専門調査会報告書によるとその実態がわかる。
 まず住家の被害は、被災地全体で37万2659棟に上ったが、全潰・全焼・流失埋没住家が29万3387棟(78.7%)という惨状であった。
 なかでも住家全潰は合計して10万9713棟、うち東京市1万2192棟(焼失率88%)、横浜市1万5537棟(焼失率66%)、横須賀市7227棟(焼失率42%)、横浜、横須賀以外神奈川県下4万813棟(焼失率8%)、東京府下1万2277棟(焼失率15%)、千葉県1万3767棟(焼失率2%)、埼玉県4759棟(焼失率0%)、静岡県2383棟(焼失率3%)など。
 地震による住家の倒潰は、震源地に近い神奈川県が横浜市、横須賀市を中心に多く、全半潰合計して11万7612棟に達し、東京府の2倍以上となっている。反面倒潰住家の焼失率は圧倒的に東京市が多く、88%というのはほとんど全焼したと言って良いだろう。

 そこで焼失住家数を見ると、全体で21万2353棟のうち東京市が16万6191棟と78%を占めている。この傾向は死亡者数にも現れ、住家全潰による死亡者が合計で1万1086人に対し火災による死亡者が合計で9万1781人と全体の死亡者10万5385人の87%を占めた。特に東京市では、被災地全体死亡者の65%を占めた6万8660人のうち、96%の6万5902人が火災での死亡者であり、被服廠跡での死亡者がその内の約6割を占めていることから、如何に地震における火災の犠牲者が多かったか、避難場所としての適正が生死を分けたことを、記録が示している。
 根府川の事例など、山及び海からの津波による流出・埋没の被害は、静岡県731棟、神奈川県497棟、千葉県71棟など合計1301棟。その死亡者は静岡県171人、神奈川県836人など合計1013人となっている。

 この大震災の教訓を受け、復興の課程で多くの成果があったが、なかでも震災予防調査会が詳細な調査をおこない、木造家屋の耐震構造、地盤構造と被害との関係、付随する火災延焼問題と火事旋風との関係などが明らかにされ、大都会の耐火構造、防火構造の必要なことが指摘され、復興の課程で大型の鉄筋コンクリートの中・高層建築物が東京、横浜を中心に次々と建てられ、近代的な大都会へと面目を改めていった。また、1960年(昭和35年)6月、この大震災の起きた日を“防災の日”にすると閣議決定をし、“広く国民が災害について認識を深め、これに対処する心構えを準備する”日として、防災訓練などを行うようになった。

 大震災により災害対策が進展した反面、その後の日本の針路を暗示する暗い出来事が、震災直後に起こったことも知られている。(専門調査会報告書「第2編 第4章 混乱による被害の拡大」参照)
 それは警察、憲兵隊など治安を担うはずの行政機関による、デマと殺人行為によるテロリズムであった。これは、中国に対抗するべく満蒙(満州とモンゴル)独立運動を扇動するなど、中国大陸への侵略政策を密かに進めていた軍部や一部支配層が、それに反対する左翼運動家や、4年前の3.1独立運動など、日本からの独立を主張し民族意識を強めていた在留朝鮮人に対する弾圧であった。
 まず大震災の翌2日、“朝鮮人が暴動を起こしている”というデマが東京、横浜を中心に広まった。地震の恐怖後の心理的混乱期におけるデマで、多くの人々は日ごろの朝鮮人に対する優越的な仕打ちから、反射的にそれを信じたという。政府はいち早く戒厳令を施行、軍隊を出動させ、警察には暴動に対する警戒を指示した。一般市民は、軍隊などから提供された武器などで武装し自警団を組織、軍隊とともに朝鮮人と見るや虐殺した。その犠牲者は6000人に達したという(関係官庁の記録では約254人)。
 また警視庁は左翼運動家を“保護検束”の対象にしたが、特に当時最も活動的な労働組合として知られていた南葛労働組合(南葛飾、亀戸周辺地域の労働者を組織した)を弾圧の対象にし、亀戸警察署では約700人を検束、指導者10人を虐殺した(亀戸事件)。なお東京憲兵隊本部では無政府主義者の大杉栄とその妻・伊藤野枝、甥の6歳になる橘宗一を検束し、甘粕憲兵大尉の手によって扼殺している(甘粕事件、大杉事件)。

 (編集部註) “倒潰”の表記について、一般的に建築物が倒れたことを“倒壊”と表現するが、中央防災会議の報告書が、あえて倒潰という文字を使用しているのは、木造家屋の場合、壊(こわ)れるというよりも潰(つぶ)れるという状態が正確でわかりやすいからという。

 (出典:中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会報告書「1923 関東大震災 第1編 発災とメカニズム」[改訂]、「同第2編 救援と救済」、「同第3編 復興と社会的インパクト」、内閣府防災担当編「広報ぼうさい・1923
(大正12)年関東大震災・No.39-揺れと津波による被害-」
、同編「同No.40-火災被害の実態と特徴-」、宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧>4 被害地震各論 272頁~278頁:関東大地震」、小倉一德編、力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅲ章 地震・津波災害>3 地震・津波災害の事例 314頁~324頁:関東大地震」、日本全史編集委員会編「日本全史>大正時代 1034頁~1035頁:関東大地震、帝都を直撃!死者10万人 朝鮮人の虐殺も」、昭和史研究会編「昭和史事典>1923(大正12)年 2頁~3頁:関東大震災おこる」、国立映画アーカイブ編「関東大震災映像デジタルアーカイブ」[追加]、NHK編「NHKアーカイブス>災害>関東大震災100年特集:地図で見る関東大震災の写真と動画」[追加]、東京都都市整備局編「復興まちづくり-100年先も安心をめざしてー」[追加]。参照:2015年1月の周年災害「平成7年兵庫県南部地震・阪神・淡路大震災、現代の大都市を襲った激震」[追加]、2020年6月の周年災害「防災の日を閣議了解」[改訂]、2012年5月の周年災害「防災週間を閣議了解」[改訂])

◎震災後の防災 その1:
災害ボランティア組織「学生救護団」結成される

○関東大震災直後、東京帝国大学で「学生救護団」結成され、
 その活動を継承する東京帝大セツルメント誕生[改訂]


 1923年(大正12年)9月3日

 上記「大震災のさまざまな“姿”」で触れた阪神・淡路大震災後の救護・復興支援活動に、全国各地から延べ180万人(1997年12月末までの推定・内閣府)といわれる“災害ボランティア”が被災地を訪れ献身的な活動を行い、被災の年1996年(平成7年)は“ボランティア元年”と呼ばれた。
 その災害ボランティアの組織的な最初の活動は、関東大震災直後の9月3日、末広厳太郎東京帝国大学(現・東京大学)法学部教授が、学生を中心に組織した「学生救護団」によるものという。

 当時の帝国大学新聞が9月30日付号外で次のように報じている“九月一日東大が火を発するや、母校の急を救はんとして大学に集まり、その儘(まま)警備に当たったる学生等と、たまたま二日に南洋から帰来した四十名の学生団(当時日本の委任統治下におかれた南洋群島見学団)とが中心になり在京学生を糾合して、帝大救護団を組織し、本部を巡視詰所におき、先ず大学の警戒をすると共に、大学構内に避難せる三千の罹(被)災者の衣食住の世話に当り、食糧被服の配給に、衛生設備の完成に、驚くべき成績を挙げた”。
 以上記録された通り、学生救護団の活動は、東京本郷の同大学構内に避難してきた人たちへの世話からスタート、9月10日には上野支部を開設し上野公園での救護活動へと進んだ。その時、警視庁上野署長に交渉して“今後公園内避難民に対する慰問品分配は学生の手を経ることとし”と、支援の食糧や物資の無秩序な配布やかたより、漏れが起きないようにした。それだけでなく、学生が避難民に提案し地区ごとに組織した委員会制度による「上野自治団」が、学生救護団上野支部解散後も、その活動を引き継ぎ成果を上げたという。
 次いで行ったのが“安否調査活動”で、全国各地から殺到する被災者安否確認の問い合わせに対し、東京市の市政調査会と協力して、一つ一つ市内の避難所に足を運び東京全市にわたる「避難者名簿」を作成、約3万5000通の返信をしている。なお9月11日には穂積重遠法学部教授を中心に「東京罹災者情報局」を設立している。

 これらの活動は1か月以上続き、10月半ばには終了したので解散会を開いたが、その時、このような経験を積んだ学生の活動組織を解散するのは忍びないとして、さらに進んで継続性のある活動を行う組織へと、発展的に解散しようとする気運が生まれたという。そして、末広教授のもと文学部社会学科の学生が中心となり、救護団解散後、直ちに調査準備に取りかかり、日常的に支援活動を展開する“セツルメント活動”組織結成へと展開していった。
 このセツルメント活動の発祥は、19世紀後半のイギリスといわれる。当時、産業革命により企業に投資したり直接経営を行う資本家など富裕層と、企業に雇用され低賃金で働く労働者層という二極化された階層社会が急激に進んだ。
 労働者のほとんどは農村から都会へ流れ込んできた人たちで、ロンドンなど大都会の下町の不衛生な環境の中で、いわゆる貧民街を形成していた。その課程で労働者自身により、生活環境の改善や教育及び医療を受ける権利獲得をめざす社会運動が起こった。
 一方、J.スチャートやA.トインビーなど大学教師などの知識人がこれらの状況に刺激され、文盲の多い貧民街の中で教育活動を進めたり、不衛生な環境のため病人が多いので医療活動を行ったり、労働者を組織して消費組合(現・生活協同組合)を結成し、その活動を援助したりした。その特徴は、貧民街にトインビーホール会館などの拠点をつくり、定着または定住して活動することで、そこからこれらの活動がsettlement(セツルメント)と呼ばれた。

 わが国におけるセツルメント活動は、1891年(明治24年)アメリカ人宣教師アダムス女史が岡山市花畑地区で開いたのが最初で、1910年(明治43年)以降は「岡山博愛会」の名称で、現在にいたるまで活動を進めている。
 また日本人の手によるものとしては、1897年(同30年)3月、当時はキリスト教的社会主義運動家だった片山潜が、トインビーホールを見学して感銘を受け、東京神田三崎町に同じ思想の先達者キングスレーの名前をつけた会館を建て活動をはじめたのが最初といわれる。
 学生救護団解散8カ月後の翌1924年(大正13年)6月10日結成された「東京帝大セツルメント」の活動資金は、前身の「学生救護団」がその活動の一つとして“帝都大震災火災系統図”の調査作成を行い、その原稿を東京日々と大阪毎日の両新聞社へ売却し、謝礼として受け取った7000円をそれに当てたという。同セツルメントは人材的な面だけではなく、資金的にも救護団の活動を継続していた。
 この日、東京帝大セツルメントは、下町の労働者街だった東京本所区柳島元町(現・墨田区横川四丁目11番9号あたり)の地に“ハウス”を開館し、末広教授は次のような設立趣意書を発表した。
 “知識と労働が全く別れ別れになって了ったことは現代社会の最も悲しむべき欠点である”とまず述べ、“明治このかた、教育施設が完備したと云い文化が大進歩を遂げたと云う。けれども斯くの如き教育を受け文化を享楽し得るものは全国民中の富有なる一少部分のもののみに限るのであって”と指摘、労働者、一般庶民は“小学校教育以上のものを受けることが出来ない”とし、それ故、学生は“親しく社会の実相を直視し其の人と生活とを知ることでなければならぬ。斯くする事によってのみ真の学問は活きるであろう”と説いた。
 そして“大学セツルメントは我々学徒自らの地位と能力とに鑑み現在わが国に於ける、如上の短所を補正することを以て、其の最小限度の任務とすべきものである。即その一つは知識の分与であって其中には自ら社会教育と人事相談と医療が含まれねばならぬ”と活動内容を明確にし“又其二は、社会事業の実地調査であって、我々の定住と右知識の分与の仕事は、自ら此の調査に向かって多大の便宜を与える事になるのである”とした。
 ここに東京帝大セツルメントは、みずから建設したハウスに定住して、託児部、児童部、市民教育部、図書部、調査部、法律相談部、医療部、総務部の各部を置き、それぞれの活動を展開した。その後同セツルメントは、対中国戦争(1937年:昭和12年7月~1945年:昭和20年8月)が泥沼化した1938年(同13年)解散させられた。
 しかし、その伝統は現在の社会福祉、介護、保育、防災、災害時支援、法律相談、医療などのボランティア活動に引き継がれ、1996年(平成7年)1月の阪神・淡路大震災を契機として、同年が“ボランティア元年”として全国的に花開くことになる。

 (註:東京帝大セツルメント誕生をその原点となった学生救護団結成に置き換え、組織化された災害ボランティアの誕生の記事として[改訂]しました)

 (出典:国立映画アーカイブ編「関東大震災映像デジタルアーカイブ>東大学生救護団の活動」[追加]、福島正夫ほか編「回想の東京帝大セツルメント>第一部 東京帝大セツルメントの概要>一 東京帝大セツルメントの前史と創立 3頁~7頁、三 セツルメントの組織と規約 11頁~20頁」、上村康子著「研究ノート:大災害が社会福祉に及ぼす影響について-関東大震災における学生救護団を中心に->1.学生救護団の結成、2.学生救護団の活動と解散」[追加]、赤門ひろば掲載・都市防災研究会代表補佐大間知倫著「今、防災について(16) 関東大震災時に帝大生が活躍」[追加]、(社)岡山博愛会編「岡山博愛会病院のご案内」。参照:2015年1月の周年災害「平成7年兵庫県南部地震・阪神・淡路大震災、現代の大都市を襲った激震」[追加])

◎震災後の防災 その2:
耐震設計法取り入れた世界初の建築物耐震基準登場

〇「市街地建築物法施行規則」耐震基準を盛り込み改正、
 佐野利器の耐震設計法採用される[追補]


 1924年(大正13年)6月


 
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災において住家21万2488棟が倒壊、それにより直接1万1086人が犠牲になり、また倒壊した家屋に挟まれ避難することができず、火災で多くの人が犠牲になったという事実は建築関係者に衝撃を与え、3年ほど前の1920年(同9年)11月に施行されたばかりの「市街地建築物法施行規則」に、地震の建物に与える破壊力に対する“構造強度規定”、今でいう“耐震基準”も規定しておくべきだったという反省があったという。
 しかし本法の「市街地建築物法」は、大震災4年前の1919年(大正8年)4月に第37号として公布され翌1920年(同9年)12月施行されているが、同日第36号として合わせ公布された「都市計画法」とともに、日露戦争(1904年:明治37年~1905年:同38年)以降の急激な工業化と都市への人口の集中化を背景に、都市を計画的に整備する法制度が求められ制定されたものであった。
 両者相まって近代的な都市計画とそれを具体的に表現する市街地建築に法的根拠を与えて現在の市街地建設にかかわる基準を形作り、なかでも「市街地建築物法」において“主務大臣ハ火災予防上必要ト認ムルトキハ防火地区ヲ指定シ其ノ地区内ニ於ケル防火設備又ハ建築物ノ防火構造ニ関シ必要ナル規定ヲ設クルコトヲ得(第13条)”とし、法的にはじめ“防火”を義務化した。
 また「同施行規則」において“三階建木造建物又ハ平屋建ニ非サル木骨石造若は(もしくは)木骨煉瓦(れんが)造建物の壁体ニハ適当ナル筋違(すじかい)ヲ使用スヘシ(第55条)”と、不十分とはいえはじめて建物の構造強度に関し規定していた。
 不足していた耐震基準については、この関東大震災の被害を教訓に、翌1924年(大正13年)6月に「市街地建築物法施行規則」の構造強度規定において、地震の建物に与えるエネルギー(地震力)に対する“構造強度”を規定したが、これは国の法令として世界初、建築物の“耐震基準”として採用したもので、「同施行規則」は、1950年(昭和25年)5月公布の「建築基準法」の前身となっている。
 そしてその作業は、大震災後の復興を担った内務省復興局を中心に進められ、その際必要な被災実態調査に当たったのが、今村明恒を中心とした“震災予防調査会”で、耐震基準の理論的基礎となったのが佐野利器(としたか)が1916年(大正5年)10月に公表した「家屋耐震構造論」であった。

 実はこれには訳があった。被災実態調査の際、不燃化、耐震化の実例として、明治末から大正時代(1910年~1925年)にかけて導入されたアメリカの建築技術に基づいた近代的な鉄筋コンクリートのビルディングの被災調査がなされたが、フランク・ロイドが設計した帝国ホテル以外は、それも完成したばかりの東京会館、日本郵船ビル、丸の内ビルなどは倒壊しなかったものの損壊が激しいことがわかり、施工中の内外ビルは完全に崩壊していた。
 その反面、佐野利器に学んだ建築家による耐震壁を重要視した日本流の耐震配慮を盛り込んだ東京海上ビルは損傷がほとんどなく、施工中の歌舞伎座、日本興業ビルは何事もなく竣工を迎えている。
 わが国の近代的耐震設計の歴史は、1891年(明治24年)10月に起きたマグニチュード8.4の濃尾地震から始まったという。この地震を契機に地震観測が整備され、翌1892年(同25年)6月には天皇の勅命により震災予防調査会が発足、地震防災についての研究推進の出発点となったが、特に本格的な耐震構造についての研究がスタートした。中でも研究の中心は、国内に圧倒的多数ある木造建築物の耐震化研究と、この大地震でもろくも全壊したレンガ造り建築物の耐震化研究だったという。

 1906年4月、アメリカのサンフランシスコでマグニチュード8.3の巨大地震が起こる。当時研究の最前線にいた地震学者の大森房吉、建築学者の中村達太郎、佐野利器の3名が同地へ派遣され現地調査を行った。その報告で鉄骨構造、鉄筋コンクリート構造のラーメン構造(柱や梁で建物を支える構造)が耐震的に優れているとされた。
 佐野利器は、これらの調査研究を基に世界で初めての建築物の耐震設計理論「家屋耐震構造論」を1916年(同5年)10月発行の震災予防調査会報告第83号(甲)の中で一般に公表したが、佐野はこの論文で、耐震設計に必要な地震力(揺れ)の計算に“震度”という概念を提案、建物に作用する地震の時の水平力を、その建物自体の重さ(自重)に係数である震度をかけて定め、建物の各部分が安全であるように設計する方法を“震度法“と名付け、世界で初めての耐震設計法として提案した。
 現在では静的震度法と呼ばれているが、この考え方が「市街地建築物法施行規則」の構造強度に採用され、“耐震基準”の先駆けとなった。

 (出典:原田純孝編「日本の都市法 2 諸相と動態>第6章 東京の都市政策と都市計画>2 明治期から戦前・戦中期までの制度形成と都市計画>(2)大正期-都市計画法の制定と震災復興・160頁~161頁:(b)都市計画法の制定」、欠陥住宅全国ネット編・福本和正著「建築基準法の単体規定の由来と解説」、日本法令索引「都市計画法(大正8年4月5日法律第36号))、同索引「市街地建築物法(大正8年4月5日法律第37号))、中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会報告書「1923関東大震災 第1編>第4章 揺れと被害>第4節 耐震基準誕生史」、国立国会図書館デジタルコレクション・震災予防調査会編・震災予防調査会報告 第83号(甲)掲載:佐野利器著「家屋耐震構造論 上編」。参照:上記「大正関東地震:関東大震災」、2011年10月の周年災害「明治24年濃尾地震」

◎震災後の防災 その3:
国立地震研究所の設立

○東京帝国大学地震研究所設立-震災予防調査会は廃止、
 震災予防評議会は震災予防協会へ[改訂]


  1925年(大正14年)11月13日


 1923年(大正12年)9月1日11時58分、神奈川県相模湾北西沖を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震が発生した。大正関東地震である。
 この地震により、東京、横浜を中心として埼玉、茨城、千葉県から静岡県東部に至る首都圏全域が甚大な被害をこうむった。10万5385人死亡・行方不明、10万3733人負傷。家屋全潰10万9713棟、同半潰10万2773棟、同焼失21万2353棟、同流失・埋没1301棟(内閣府)。世に関東大震災として記憶に残っている。
 その頃、地震研究の最前線を担っていた震災予防調査会は、各委員がそれぞれの本務とする仕事に追われ、幹事の大森房吉がほぼ一人で会の業務をこなしていたが、巨大地震発生時はオーストラリアのメルボルンで開かれていた汎太平洋学術会議に出席中で、その留守を東京帝国大学理学部助教授の今村明恒が預かっている状態だったという。
 大森は大地震の一報を受けて直ちに帰国の途についたが、船中で病に倒れ、帰国後まもなく亡くなり、会の運営は一人今村が切り回さざるを得ない状態になった。しかし、その苦境の中でも各委員は関東大地震の調査に当たり、調査報告書を刊行している。

 その調査活動の中で、それまでにない斬新な研究が生まれたという。また、それまでの震災予防調査会が行ってきた地震学に対し、まったく別な見地から地震に取り組もうとする流れがあり、東京帝国大学においても、船舶工学科の末広恭二、理学部の寺田寅彦らは、新しい振動論や物理学の立場から地震現象を考査しようとする思いを強く抱いており、今日でいう地球物理学的立場から地震現象を考究しようとする見解を持っていた田中館愛橘、長岡半太郎らもいたので、田中館、長岡と協力し、ひそかに新しい地震研究所の構想を練っていたという。
 また国は、関東大地震から2年2か月の歳月を経た後、勅令(国立の機関なので天皇の命令の形となる)第311号によって、この日、東京帝国大学内に新しい地震研究の拠点を誕生させた。
 東京帝国大学地震研究所と名付けられたこの研究機関の所長及び所員は、同大学の教授、助教授によって構成され講座も担任したが、大学の教務からは大幅に解放され研究に専念できたようだ。事実、所員の気風は大学から独立し、地震研究所は東京帝国大学の構内にあるが、いち同大学の研究所ではなく、日本の地震研究所、世界の地震研究所という気概を持ち研究活動にいそしんだ。
 また、その地震研究は震災予防調査会の単なる継続ではなく、まったく別な観点から地震の研究をしようという姿勢があり、自主独立の気概と、従来の見方等にこだわらない新しい視点で地震に立ち向かう姿勢は、100年ほどたった現在まで引き継がれているという。
 一方、震災予防調査会は廃止され、東京帝国大学地震研究所に研究機関としての席を譲るとともに、文部次官を会長とし内閣が任命する評議員で構成された震災予防に関する文部大臣の諮問機関、震災予防評議会が設けられた。のち、同評議会は審議会・委員会などの整理の対象となり廃止されたが、今村明恒の提唱で、1941年(昭和16年)5月、震災予防協会が発足し地震研究の一翼を担ったが、2010年(平成12年)3月末でその歴史を閉じている。

 (出典:東京大学地震研究所編「地震研究所五十年の歩み>第Ⅱ章 地震研究所五十年史 42頁~46頁:2.地震研究所の創立」。参照:2012年6月の周年災害「菊池大麓の発議により震災予防調査会設立」、防災情報新聞 2010年2月12日号トップニュース「震災予防協会最後の“授業”」

◎震災後の防災 その4:
電話自動交換システムによる119番の登場

○警視庁消防部、電話自動交換システム導入し世界初火災通報専用番号採用、
 但し誤接続発生し119番に変更[改訂]


 1926年(大正15年)1月20日

 1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で、東京のそれまでの交換手による手動取り次ぎ方式の電話システムは完全に壊滅した。
 警視庁消防部が火災報知用専用電話制度を発足させたのは、大震災6年前の1917年(大正6年)4月で、このころはまだ、通報者が電話局の交換手を呼び出し“火事!”と叫び場所をいうと、交換手が最寄りの消防署に優先的に接続するという方式だったが、同部では、復興を期に新しい自動交換システムを取り入れ、消防機関に直接電話が接続できるダイヤル式即時通話とし、この日から開始した。
 そこで同部では火災時の緊急通報専用電話番号に当初“112番”を採用した。ところが、誤った接続が数多く発生して、電話局を悩ませたという。
 それは通報者の多くが特に火事の通報という緊急事態なので、手動式の時と同じように、受話器をフックからはずし、ダイヤルを回す前にフックを数回上下させて交換台のランプを点滅させ、交換手の注意を引こうとしたわけだが、自動交換式ではフックを1回押すと“1”2回押すと“2”とダイヤルを回したのと同じ結果になり、次に緊急通報番号の“112”をダイヤルするので誤った接続となってしまったのだ。
 そこで電話局では112番の可否について検討し、末尾の“2”を改めてそれまで局番号としては使用されていなかった“9”を採用し警視庁消防部に照会、1927年(昭和2年)10月1日から “119”と改め、火災と救急の緊急通報専用電話番号として現在に至っている。
 この緊急通報専用電話番号の使用は、当初、誤った接続に悩まされたが、実は世界でもっとも早い採用で、次いでイギリスのロンドンで10年後の1937年6月に999の番号で使用を開始したという。しかしこれは単に電話交換手に注意を促すベルが鳴るだけで、直接消防機関に接続するわけではなく自動化とは言えない。
 ちなみに警察の緊急通報専用電話番号の110番は、太平洋戦争(1941年:昭和16年12月~45年:同20年8月)後の1948年(同23年)10月1日から、消防より遅れること22年余で使用開始されている。

 (出典:東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の消防百年の歩み>昭和前期>119番の開始と消防電話一斉通報機の設置 200頁:119番の開始」、東京消防庁編・消防雑学事典「火事があると電話局が困る」。参照:2017年4月の周年災害「電話での火災報知“119番”のはじめ、火災報知用専用電話始まる」、2017年10月の周年災害「東京で消防緊急通報ナンバー119番誕生」)

◎震災後の防災 その5:総合防災訓練の開始

○初の総合防災訓練「非常時火災警防演習」実施、
 市民による初期消火組織の充実が緊急課題に[再録]


 1930年(昭和5年)9月1日


 1923年(大正12年)9月の関東大震災の教訓と1927年(昭和2年)3月の北丹後地震及び第一次世界大戦(1914年~18年)の欧州戦線での空襲被害などから、東京市(現・都内23区内)では1930年(昭和5年)7月、大震災や防空対策を背景にした「非常時火災警防規定」を制定した。
 この規定に基づいて実施された初めての総合的な防災訓練がこの日の非常時火災警防演習で、警視庁消防部(現・東京消防庁)の職員と消防組員(現・消防団員)が参加して行われている。
 演習は、関東大震災発生と同じ日時に当時と同じ状況を想定して行われたが、火災情報伝達の遅さや不備及び人員不足が明らかになり、市民の手を借りた早急な初期消火組織の充実が緊急の課題となったという。
 この教訓から、市民の自衛防火組織として2年後の1932年(昭和7年)4月から「防護団」の設立が始まった。また火災警防演習は、演習が行われた翌1931年(昭和6年)8月の中国との開戦(満州事変)を背景にした防空問題を主要な課題として、その2年後の1933年(昭和8年)8月、関東地方防空大演習として実施され、消防部職員、消防組員のほか防護団員、青年団員など一般市民も参加した総合的な各市合同の防災訓練へと変化する。

 (出典:東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の消防百年の歩み>昭和初期>非常時火災警防規程の制定 206頁~209頁:第1回非常時火災警防演習」)

◎震災後の防災 その6:
戦争に協力させられた市民自衛防災組織の悲劇

○東京市連合防護団が結団され防空消防の時代へ[再録]


 1932年(昭和7年)9月1日

 1923年(大正12年)9月1日の関東大震災から復興した東京市(現・東京23区内)では、1930年(昭和5年)3月に帝都復興祭を開き、7月には、大震災の教訓や戦争時での防空対策も背景にした「非常時火災警防規定」を、警視庁(当時警察と消防を所管)が制定、9月にはこの規定に基づいて初めての総合的な防災訓練、非常時火災警防演習を実施したが、その時市民の手を借りた早急な初期消火組織の充実が課題となった。
 それとともに、陸軍の東京警備司令部は“関東大震災惨害の一員が、当時市民の団体的訓練の不足に在りしに鑑み”と、東京府、同市、警視庁に対し、東京市民を災害警備や防護のために組織化することを呼びかけた。これを受け府、市、警視庁は同司令部及び陸軍東京憲兵隊と合同で「東京非常変災要務規約」を7月に成立させ、9月の施行により市民の自衛組織“防護団”を結成するとした。
 防護団結成へ主導したのは陸軍だが、前年1931年9月に指揮下の関東軍が起こした柳条湖事件以来、自然災害だけでなく戦争を想定して敵からの空襲に対処できる組織を目指していた。
 同規約施行2年後のこの年の7月から、区単位の防護団の設立が始まり、この日、東京市連合防護団の発団式を迎えた。
 同団は第一大隊として警護班、警報班、防火班からなり、第二大隊として交通整理班、避難所管理班、工作班が、第三大隊として防毒班、救護班、配給班が編成され、要所要所に陸軍の将校が配属されており、班員の中核は在郷軍人(平時定員外の予備役及び退役軍人等)と青年団員だった。編成は東京市内の区と府下の町村単位とし、東京市連合防護団の下に区防護団→防護分団→各班というピラミッド型組織になっていた。

 東京で誕生した防護団は、その後各地方での防空演習実施に伴い各地で防護団が結成され、1937年(昭和12年)7月の日中戦争(~1945年)開戦時には全国で団員は400万人を数えるまでになっていた。
 しかし、同団は法令に基づくものではなく、地方ではほとんど消防組員(現・消防団員)が兼務し、組織としては実質的に消防組と一緒だった。また、防護団の任務が災害や空襲という非常災変時とはいえ、それらのほとんどは平常時の警察行政に含まれるものであったため、防空演習時、常に陸軍と警察が対立するなど組織的な矛盾を含んでいた。
 そこでついに1937年(昭和12年)4月の「防空法」制定を機に、内務省(現・総務省ほか)は、自らの所管下の警察及び消防組を主力に“防空”を担わせる方針を採用、それまでの消防組の任務に防護団の任務をかぶせた新しい統一組織・警防団が、2年後の1939年(同14年)4月、勅令(天皇の命令法)によって誕生することになる。

 (出典:土田宏成著「近代日本の『国民防空』体制」、東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の消防百年の歩み>戦時期 266頁~269頁:警防団の設置」。参考:上記「初の総合防災訓練“非常時火災警防演習”実施、市民による初期消火組織の充実が緊急課題に」

○警防団発足、防護団、消防組と統一した住民による自衛防空・防火組織。
 滅私奉公の教えの下、住民を戦争に協力するよう指導、
 劣悪な装備で空襲に立ち向かい殉職者多数出す[再録]


 1939年(昭和14年)1月25日

 1930年(昭和5年)7月、東京で警察と消防を所管していた警視庁は、1923年(大正12年)9月の関東大震災の教訓を受け、非常時火災警防規定を制定した。
 一方陸軍は、1928年(昭和3年)6月に中国奉天で、同国軍閥張作霖を爆殺した満州(現、中国東北地方にかつて存在した日本軍が建てた国)駐在の関東軍を中心に、中国侵略計画を密かに進めていたが、戦争の際の日本本土空襲を警戒していた。
 そこで陸軍東京警備司令部は、関東大震災を引き合いに出し“関東大震災惨害の一因が、当時市民の団体的訓練の不足に在り”として、東京府、同市、警視庁に働きかけ、東京市民を災害警備や防護のために組織化することを呼びかけた。これを受けた府、市、警視庁は、同警備司令部及び陸軍東京憲兵隊と合同で、東京非常変災要務規約を同じ7月に制定し、市民の自衛防空組織の準備を進めた。
 翌1931年(同6年)9月、関東軍は柳条湖で線路爆破事件を起こし、中国軍の仕業としてこれを攻撃、満州事変となって中国と全面的な戦争状態に入った。これにより陸軍東京警備司令部は、防空のための市民自衛組織結成を急ぎ、翌1932年(同7年)4月から区単位の自衛組織の編成を行い“防護団”と名付け、9月には東京市連合防護団を結成、全国に波及させた。
 しかし、今ひとつ江戸時代から住民の自衛防火組織として町火消があり、1872年(明治5年)5月に東京では消防組に編成替えし、1894年(同27年)2月制定の消防組規則によって、全国的な統一が図られていた。特に地方では、この消防組員のほとんどが防護団団員を兼務したので、1937年(昭和12年)の防空法制定を機に、両者は統一することとなり、この日の勅令(天皇の命令)によって“警防団”として再発足することになった。

 この警防団は、同団令第一条でその目的を“防空、水火消防その他の警防に従事す”と規定され、その組織は警護部、交通整理部、灯火管理部、消防部、防毒部、救護部、工作配給部の7部が設けられていたが、特に敵機空襲時の灯火管制、つまり灯火・消灯の有無の管理を行う灯火管理部や、毒ガス弾投下に対応する防毒部があるように、空襲に対応することを中心とした市民自衛組織だった。
 その活動は警察の指揮下にあり、政府、特に軍部の意向に沿ったもので“警防精神は令旨(皇太子時代の昭和天皇が下した命令)に示されるごとく忠君愛国、滅私奉公(私事を捨て政府の命令に服す)の至誠を基とす”とされ、行政機関、特に警察の下部組織として住民を指導し戦争への協力を強制、それを渋る住民を“非国民”“スパイ”あるいは“国賊”と罵倒した団員が多かったという。
 また空襲の際、住民は居住地からの避難を禁じられ防火に努めることになっていた(昭和16年11月改正防空法第8条ノ3、5)、しかし実際は、警防団員は住民を避難させても、自らは職務上、初期消火用の軽可搬ポンプ消火器で消火に勤め、戦時後半期には燃料のガソリンの供給が途絶えたので、火叩き(竹の棒先に縄などを集めて結んだもの)とバケツの水でもって、強力な焼夷弾(放火し広範囲を焼き尽くす油性の投下弾、ナパーム弾も同じ)の猛火に立ち向かい、東京では1327人が殉職している。
 太平洋戦争終戦後(1945年8月~)の1947年4月、同団は戦時色が強いとして廃止され、本来の住民による防火・消防組織、現在の“消防団”として復活した。

 (註:上記「東京市連合防護団が結団され防空消防の時代へ」と記述がダブっておりますが、もともとは別に収録されいる記事ですからご了承ください)

 (出典:東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の消防百年の歩み>戦時期 266頁~269頁:警防団の配置」、昭和史研究会編「昭和史事典>1939年 239頁:警防団公布令」、同委員会編「同書>戦時期 259頁~61頁:家庭防火軍の設置」、日本法令索引「警防団令(昭和14年1月25日勅令第20号))、同索引「防空法中改正法律(昭和16年11月26日法律第91号)」。参照:上記「東京市連合防護団が結団され防空消防の時代へ」、2017年4月の周年災害〈下巻〉「防空法公布+家庭防空群設置で民間の戦時防空体制整備―避難を禁じられ無差別爆撃に遭う」)

◎参照:関東大震災と日本の災害対策(内閣府編)

(2023.8月)

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