【目 次】

幕府、旗本・御家人に防火の心得布令。江戸の防火に武家も総出、不審者に対する捕縛も、

 後に同心たちに逮捕権を与えた夜廻り専任化、更に火付盗賊改役設置へ[改訂]

・江戸町奉行、町中の茶店、煮売りの午後6時以降の営業を禁じる[改訂]

・延宝房総沖地震津波。過去、関東地方で最大規模の地震か[改訂]

元禄14年、彦根城下未曽有の大火、湖畔より東へ彦根道まで延焼

・1855安政江戸地震。軟弱な地盤が被害を大きくした[改訂]

・足尾鉱毒被害民、両岸被害村一致の大集会開き鉱業停止請願運動始まる[改訂]

【本 文】

幕府、旗本・御家人に防火の心得布令。江戸の防火に武家も総出、不審者に対する捕縛も、
 後に同心たちに逮捕権を与えた夜廻り専任化、更に火付盗賊改役設置
へ[改訂]
 1658年11月22日(万治元年10月27日)
 幕府はこれまで江戸町奉行を通じて町人たちに、防火のためのお触れを出していたが、この日、直参の旗本、御家人に対しても防火の心得について布令をした。
 それは、江戸の街を守る武家指揮下の常設火消部隊“定火消”を新設した翌月の事である。江戸の防火に武家も総出の体制となった。
 その内容は“一、風烈之時(風が強く吹いている時は)、公儀御用無之て(幕府の御用ではない場合は)、他所え相越へからす(よそへ出掛けないように)、若不叶用事有之は(もし予定を変えることの出来ない用事であれば)、隣家之面々え申断可罷出事(隣の家の人たちに断ってから出掛けること)”。
 “一、屋舗近所之面々常に申合、火事出来之節は互に出合(もし火事になった時は、お互いに現場に出動することを、屋敷や近所の人たちとは常に申し合わせておき)、火を消へき事(消火にあたるように)”。
 また特に“一、自然火をつくる輩を見出すにおゐては(放火をしている者を見つけたならば)、可捕之(これを捕らえ)、縦火付にて雖無之(たとえ放火犯でなくても)、不審有之族をは留置(怪しげなところのある者であれば逃がさず)、町奉行か又は御目付中え其段可申断事(町奉行か目付のもとへその旨申し出ること)”。
 幕府では町人に対しても、強風の時の外出を控えることや隣近所総出の消火を常に指示していたが、それ以外に、放火犯や不審な者を捕らえる事を指示したのは、当事者が武家ならではだが、江戸の火事のかなりの数が放火によるものだったからであろう。犯人の放火目的は火事のどさくさに紛れての盗みである。中でも1772年4月(明和9年2月)に起きた目黒行人坂の大火はもっとも被害が大きく、934か町焼失と江戸の街がほとんど焼かれ、1万8700人が死亡行方不明になるという大惨事となっている。
 直参の武家に対する防火任務は、古くはこれより30年ほど前の1629年(寛永6年)、将軍の親衛隊の大番、書院番、小姓組番の諸士に、江戸市中を定期的に巡回するよう仰せつけたのが最初だが、これは“防火”がお役目の中心であった。
 今回のように不審者を見つけたら捕らえて町奉行などへ連絡させることも、武士の能力の活用のはじめであるが、次のように任務として、巡回中の不審者に対する逮捕権まで与えたのは、今回の約4年後1663年1月(寛文2年12月)、各役所で庶務や警備の仕事についている下級役人の“同心”たちに対して逮捕権を与えた、市中巡回専任化指示の「覚」であり、これで防火に合わせ警備面も強化した。
 すなわち“諸同心当番之時(同心の者たちが夜勤の時)、二三人充宿に残し置(2,3人は職場に残し)、夜廻り可申付之(夜分の市中巡回を申し付ける)、非番之時風吹候ハゞ(休日の時でも風が強く吹いてきたら)、昼夜共に廻し(昼夜を問わず巡回し)、あやしきものをとらへ候事(不審な者を逮捕すること)”。
 更にこれより約3年後の1665年11月(寛文5年10月)には、幕府はかつて徳川軍の先鋒をつとめた精鋭部隊、当時は江戸城諸門の警備や将軍外出の際の警護に当たっていた“先手組”に命じて、盗賊改役(のちの火付盗賊改役)という特別な捜索隊を誕生させ、放火犯、盗賊団など凶悪犯の捜査、逮捕に専念させることになる。
 (出典:東大史料編纂所・東京都編「東京市史稿>No.4>市街篇 第7・640頁~641頁:旗下士警火心得」、同編「同稿>No.4>市街篇 第8・154頁~156頁:諸同心警火心得」[追加]。高柳真三+石井良助編「御触書寛保集成>二十六>火事并火之元等之部 764頁:一四三六 万治元戌年十月」、同著「同集成>二十六>火事并火之元等之部 768頁:一四四七 寛文二寅年十二月 口上之覚」[追加]、魚谷増男著「消防の歴史四百年>江戸の消防>火災予防のいろいろ 25頁:烈風のときは外出禁止」。参照:2019年2月の周年災害「江戸町奉行、火災シーズンを前に、町方に一連の警火の町触出す」[改訂]、4月の周年災害・追補版(4)「江戸明和9年目黒行人坂の大火」、11月の周年災害・追補版(4)「大番、書院番、小姓組番に初の昼夜廻り(市中巡回)仰せつけ、市中警備(防火)体制を整備」[追加]、2015年11月の周年災害「幕府、火付盗賊改役を設ける」)

江戸町奉行、町中の茶店、煮売りの午後6時以降の営業を禁じる[改訂]
 1661年11月(寛文元年10月)
 江戸時代、“火事と喧嘩は江戸の華”とうたわれたほど、江戸ではその風土上火事が多く発生した。江戸町奉行所はさまざまな防火対策を立てたが、中でも1657年(明暦3年)の“明暦江戸大火”後、防火対策は一層厳しくなり、中には庶民のささやかな生活に影響を与えるものもあった。これもその一つである。
 この月、次のお触れが出た。“一、町中茶屋(茶店)並びに煮売之者、昼之内計商売致(昼間の内に商売を行い)、暮六つより堅商売仕間敷事(午後6時以降は必ず商売しないように)”。(中略)。“一、町中にて夜中火鉢(こんろ)に火をいれ、並びにあんとう(行灯)をとぼし(灯し)、煮売持ちあるき候もの、向後かたくうらせ申間敷事(今後必ず売らないように)”。
 このお触れが出た当時、“煮売り”の業者は、時代劇に出てくるように担いで移動できる“振り売り”形式の屋台をつくり、煮豆、煮魚、煮しめなど煮たおかずを前後の屋台に入れ、担いで売り歩く行商をし“菜屋”とも呼ばれていた。今でいう“お惣菜屋”である。これら“煮売屋”は、明暦の大火後、江戸復興で全国から大工、左官、鳶職、土方など独身の職人たちが集まって来たので、彼らを相手に増えていったという。それがお江戸の防火上問題であると、明暦の大火後の恰好な取締対象であったというのは皮肉なことである。
 禁止のお振れが出た当時、煮売屋の夜のお得意様は、夜食を用意できなかった独身男、町中を夜間、防火巡回する夜番や自身番小屋の番太郎など夜勤者で、食事をさせたり、酒を飲ませるため“夜中火鉢に火をいれ、並びにあんとうをとぼし”て商売をしていたのだろう。
 当時は江戸とはいえ夜の道は闇で閉ざされており、提灯程度では足下も暗くて覚束ない。転倒事故でも起こしたら、担い屋台が焼けそこから家屋に延焼する危険があった。店舗を構えている茶屋でさえも夜間の営業を禁じたくらいである。夜間の行商を町奉行所が防火のため取り締まるのも無理のない話ではある。
 ところが当時の食事は朝と夕方の2食で、1日3食になったのは17世紀末の元禄時代以降であり、おまけに夜になると、ほとんどの家は照明がなくあっても暗い行灯の世界だから、夕食は明るいうちにとなる。夜になると腹が空いてくる。夜番や番太郎など夜勤の者はなおさらであろう。冬の寒い夜など“さっと食って、ちくっと一杯”と思っても無理のない話。この食欲が業者に禁令を破らさせ、その後、1687年(貞享3年)、1689年(元禄2年)、元禄16年(1703年)、1742年(寛保2年)、1754年(宝暦4年)と数年おきに何回も同じ主旨のお触れが出ている。禁止しても、禁止しても、食欲に関するものだけに効果がなかったのであろう。
 その上、江戸は完全な男社会である。当時の町方でも男性約30万人に対し女性約15万人の割合で、それに300諸侯の参勤交代で国元から上がってくる侍が12万人ほどいた。そこでほとんどの世帯では食事の準備は男性がやらねばならず、手っ取り早く食事は外食ともなろう。特に夜ともなると食事の支度をしてくれた女性も帰宅して人数が少なくなり、夜間、飯が食え酒も飲める煮売屋台が流してくれば、禁令ものかわ利用し、町奉行所の役人も腹がすくしで夜間の行商を黙認し、ある期間が来ると禁止するという、いたちごっこが続いたのであろうか。
 なかでも1667年(貞享3年)以降のお触れになると“うどん、そば切りそのほか………”と、お触れの冒頭にうどんとそばが名指しされている。この時代以降、江戸ではうどんやそばを売る振り売りの屋台が増え、特に冬の夜ともなると、食欲と寒さをしのげるという事で、暖かいうどんとそばは冬の夜食の楽しみであり風物詩となっていた。歌舞伎の「夜鷹そば」、落語の「時そば(大坂は時うどん)」の世界である。
 ところがこの商売が一番はやる冬から春先が、江戸では一番火事が多い季節であった。禁止したお役人は腹の虫を抑えての決断か。
 (出典:東京都編「東京市史稿>産業篇 第5・905~906頁:茶店、煮売店、同行商法度(寛文元丑年十月)」、同編「同稿>産業篇 第7・1021頁~1022頁:饂飩其他携火行商禁止(貞享三丙寅年十一月)[追加]、同編「同稿>産業篇 第8・120頁~121頁:携火飲食行商停禁(元禄二己巳年正月)」[追加]、同編「同稿>産業篇 第9・580頁~581頁:武家警火消防令最終項(煮うりいたし候もの、火持あるき不申候様、……、元禄十六癸未年二月」[追加] 、同編「同稿>産業篇 第18・490頁~491頁:夜間火ヲ持行商売禁止(宝暦四甲戌年二月)」[追加]、村岡祥次著「日本食文化の醤油を知る>江戸食文化の定着(1)江戸初期から中期」[改訂]」。参照:2017年3月の周年災害〈上巻〉「1657明暦江戸大火「振袖火事」世界三大大火の一つ起きる」[追加])

延宝房総沖地震津波。過去、関東地方で最大規模の地震か[改訂]
 1677年11月4日(延宝5年10月9日)
 この月の上旬から前震と思われる地震がしばしば起きていた。この夜の五つ時(午後8時ごろ)、房総半島太平洋沖の日本海溝沿いで、マグニチュード8.34以上の巨大な海溝型地震が起き、現在の福島県から房総半島にかけた太平洋沿岸一帯の浦々の集落に17mに及ぶ津波が襲来した。この地震は東北学院大学などの研究チームによって、関東地方で過去、最大級規模の地震とわかった。
 被害は陸奥国岩沼藩領(宮城県岩沼市)で家屋流失490余軒、123人死亡。同磐城平藩領(福島県いわき市)では、沿岸部の四倉、薄磯、豊間、江名、中之作、小名浜、各集落が津波に襲われ、家屋の倒潰及び流失487~約550軒、130人余~189人死亡。
 常陸国水戸藩領(茨城県水戸市ほか)では家屋倒潰189軒、36人死亡、船舶の流失及び破損353隻、倉庫にあった干鰯、穀物など9640俵、稲432駄分などが流失した。
 房総上総国大多喜藩領では、外房海岸の浦々がやられ、東浦(浪)見村(とらみ、現・一宮町)で家屋倒潰50軒、97人死亡。現在のいすみ市内の小浜で家屋倒潰25軒、9人死亡。和泉浦で家屋倒潰及び田畑の被害が数知れずあり、13人死亡。岩船浦で家屋倒潰40軒、57人死亡。尾佐志戸村で家屋倒潰25軒、13人が死亡し、領内の家屋倒潰は140軒以上、189人が死亡している。
 その南に隣接する前大多喜藩主阿部正能の隠居領、御宿浦(現・御宿町)では家屋倒潰30軒、63人死亡。その南の勝浦藩領(現・勝浦市)の郡石小村で家屋倒潰6軒、2人死亡、新官村で家屋倒潰17軒、2人死亡、沢倉村で家屋倒潰11軒、2人が死亡し、領内合計で家屋倒潰34軒、6人が死亡した。また現在同じ勝浦市内だが八幡岬の東側の板倉与五右衛門領の川津村で家屋倒潰19軒、3人が死亡している。以上、上総国房総半島太平洋沿岸部の被害合計は家屋倒潰223軒以上、死亡者261人となった。
 以上、わかっている被害だけでも磐城(福島県)、常陸(茨城県)、上総(千葉県)の3か国で1089軒以上の家屋が倒潰、流失し、550人以上が犠牲になっている。大災害である。
 (出典:宇佐見龍夫著「日本被害地震総覧>4 被害地震各論 67頁:131 磐城・常陸・安房・上総・下総」、池田正一郎著「日本災変通志>近世 江戸時代前期>延宝五年 389頁~390頁:十月九日」、朝日新聞2014年7月21日付「房総沖“過去最大”の痕跡か」)

元禄14年、彦根城下未曽有の大火、湖畔より東へ彦根道まで延焼
 1701年11月6日(元禄14年10月7日)
 「新修彦根市史」に、彦根として“もっとも大きな被害が出たのは、元禄14年の火災であり、城下の西半分が火災の被害にあい”とある。
 原資料となった「彦根市史稿」には“元禄十四年十月七日亥の刻(午後10頃)長曽根より出火し、延焼伝馬町に至る。焼失家屋二千九十六戸、彦根町未曾有の大火なり”とある。
 火元となった長曽根は、彦根城の西方、琵琶湖湖畔にあり「長曽根郷土史」によると、1603年(慶長8年)の彦根城築城以前から湖上交通の要衝として栄えていた地域で、古地図によると同じく城下となった彦根、里根より大きかったという。そこから炎が噴き出し東方へ延焼、伊井藩公用の荷物を積み下ろしをした物流の拠点で城の南側に位置している伝馬町までの街並みを焼失したという。
 当時、彦根城下は中山道より2kmほど西に離れているので、北側の鳥居本宿から彦根城下へと西へ伸ばし、彦根城外堀の切通口御門から伝馬町を通り、久左の辻を経て東へと中山道の高宮宿方面へと戻る道があり彦根道と呼ばれていたが、伝馬町周辺の彦根道には、商人や職人が住み、物流の拠点であるとともに宿場町としての機能を果たしていたという。その通りは、現在でも中央商店街として彦根市の中心街をなしている。
 (出典:彦根市史編集員会編「新修彦根市史 第2巻 通史編 近世>第3章 村の世界>第4節 村の様子と暮らし>災害 336頁:地震火災による被害」。中川泉三編著「彦根市史稿 30 天災地変編>9項 火災:元禄14年10月7日」、DADA joural編「長曽根郷土史」、まち遺産ネットひこね制作「ひこね伝馬町・川原町まっぷ」)

○1855安政江戸地震。軟弱な地盤が被害を大きくした[改訂]
 1855年11月11日(安政2年10月2日)
 夜四つ時ごろ(午後9時半ごろ)、江戸湾(東京湾)北部を震央とするマグニチュード7~7.2の内陸直下の大地震が発生、幕末の騒然とした江戸を直撃した。
 推定震度6以上の揺れがあった地域は、江戸城曲輪内大名小路(丸の内)、四谷、神田小川町、小石川、下谷、浦和(さいたま市)、彦糸(三郷市)と、松戸、本所、深川、浦安に包まれた江戸市街を中心に、対岸の鶴牧(市原市)、袖ヶ浦(習志野市)、木更津。また遠くは利根川沿いの栗橋(久喜市)、幸手、三村(石岡市)、上出島(坂東市)、布佐(我孫子市)、布川(利根町)。江戸の南の三田、鶴見、神奈川(横浜市)、上宮田(三崎市)、材木座(鎌倉市)、藤沢と点在した。
 特に埋立地など軟弱な地盤の地域では、液状化現象が起きるなど被害が大きく、推定震度5を含めると北は水戸から西は網代(伊東市)までと、南関東一帯に被害が及んでいる。
 被害は直下地震だったため江戸に集中し、特に本所、深川の下町一帯や吉原など埋立地に多く、四谷では玉川上水の樋(とい)が崩れて出水、品川二番台場(砲台)で火薬に引火し爆発、20人が死亡している。死亡者は建物の倒壊による圧死者が多く、奉行所の調べによると城内10人、諸役所40人、武家方2609人、町方4741人、寺社18人で合計7418人だが1万人死亡説もある。
 建造物では、江戸城の石垣が崩れ、櫓(やぐら)や門、番所など26棟が全壊。市中の家屋1727棟、1万5294軒が全壊及び焼失、土蔵1736棟、長屋1315棟、寺社165か所が全壊している。
 この大地震で特徴的だったのは、被災地全域で埋立地など軟弱な地盤な地域に被害が広がったが、特に江戸ではそれが顕著で、特に江戸城の東部に位置し、日比谷入江を埋立てた大名小路(現・大手町、丸の内)や、古来、利根川本流(現・隅田川)が氾濫した際、上流から運ばれてきた砂や泥が堆積した地(氾濫原:沖積層)などの軟弱の地盤では地震動が増幅され、本所、深川、吉原などで震度6強(推定)となり、大名屋敷や著名な料亭、遊郭など広壮な建物が倒壊し被害を大きくした。また地震後、大名小路、吉原、本所、深川などで多くの倒壊家屋から火災が発生、京橋にも延焼し、発生か所30か所、その焼失面積は1.5平方kmに及んでいる。
 中でも吉原では“遊び”盛りの夜の四つ時である。大地震のあと火災も発生、遊郭内は大混乱に陥ったが、遊女の逃走を防ぐため周囲に堀をめぐらし唯一の門は大門しかなく、緊急時の反り橋は故障して下すことができず、大群衆が大門に殺到、約1000人が死亡したという。
 一方、埋め立て前の江戸湾に浮かんでいた江戸の前島に位置する日本橋から京橋、新橋では、大きな被害を引き起こしていない。この地域は商家が多く土蔵は崩れたが、立ち並ぶ家々はのきの庇(ひさし)が落ちてやや傾いた程度で済み、震度5弱程度と推定されている。随筆家・城東山人は記す“今度の地震(中略)青山、麻布、四ツ谷、本郷、駒込辺の高地は緩(ゆるく)にて、御曲輪内(大名小路)、小川町、小石川、下谷、浅草、本所、深川辺(の低地)は急(大きな揺れ)なり。其謂(いわれ)、自然の理(ことわり:道理)有べし。”  
 地震後、当時地震の元凶と言われていた、なまずの絵が大流行し、1か月の間に数百種出版されたという。また、浅草茅町の眼鏡屋で、宣伝のため約1mの大きな磁石に吸い付けてあった釘や鉄板が、地震の2時間前に落ちるという不思議な現象があり、それを聞いた蘭学者・佐久間象山が、この現象を元にした地震予知機「人造磁玦(じけつ)」を制作したというエピソードが残っている。
 (出典:中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会編「報告書・1855安政江戸地震」同編「災害史に学ぶ・内陸直下型地震編 18~28頁:1855安政江戸地震」、内閣府防災担当政策統括官室編「広報ぼうさい No33(2006/5) 12~13頁:過去の災害に学ぶ(第7回)安政2年(1855)江戸地震」、東京都編「東京市史稿>No.2>変災篇第1・ 231頁~431頁:安政二年の震災」、宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧>4 被害地震各論 177~188頁:262・江戸地震」、小倉一徳著、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅲ章 地震・津波災害>地震・津波災害の事例 300~302頁:安政江戸地震」、伊藤和明著「災害史探訪・内陸直下地震編 61頁~74頁:第4章 江戸を襲った直下地震」[改訂]、寒川旭著「地震の日本史>第六章 江戸時代末期 188~195頁:安政江戸地震」、北原糸子編「日本災害史>近世の災害>3 近世における災害救済と復興 220~229頁:安政江戸地震の応急対策」、日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1855(安政2) 875頁:江戸にM6.9の直下型地震、江戸全域が被災」、池田正一郎著「日本災変通志>近世 江戸時代後期>安政二年 682頁~685頁:○十月二日、三日朝」)

○足尾鉱毒被害民、両岸被害村一致の大集会開き鉱業停止請願運動始まる(120年前)[改訂]
 1896年(明治29年)11月29日

 
古河電気工業、富士通、日本軽金属、横浜ゴム、朝日生命保険、みずほ銀行など古河グループの基、古河財閥を一代で築いた古河市兵衛が、1877年(明治10年)2月、足尾銅山を買収、家業として経営に乗りだし近代的開発を行い、1891年(同24年)には銅の産出量が全国一となった。
 しかし一方、精煉時の排煙や精製時に発生する亜硫酸ガスなど鉱毒ガスと銅イオンなどの鉱毒により、創業の翌1878年(同11年)ごろから早くも付近の環境に大きな被害を与え、産銅量を急速に増加させた1881年(同14年)ごろからは、近傍の山では森林が全山で枯れて禿げ、山体の崩壊が始まった。
 渡良瀬川の魚類に対する影響は翌1882年(同15年)ごろから、鮎、鱒など魚群の減少として現れたが、1885年(同18年)7月には、アユの大量死という現象となった。しかし当時は原因がわからず、唯一「朝野新聞」が8月12日にその原因を足尾銅山の丹礬(鉱山の坑道等で産出される水溶性鉱物)かも知れないと報道する。
 その3年後の1888年(同21年)には、煙害で足尾村松木の桑畑が全滅し、翌年には養蚕を廃止せざるを得なくなった。渡良瀬川でも豊かな魚類の面影はなくなり、絶滅寸前の状態で漁業は成り立たなくなる。
 翌1889年(同22年)になると栃木県下の農作物に被害が激増、1890年(同23年)8月、足尾銅山の亜硫酸ガスの被害による禿げ山化が原因で、渡良瀬川が大洪水を起こし、被害は栃木、群馬両県に拡大、鉱毒に汚染された土砂が稲田に堆積してイネが立ち枯れた。
 農作物の被害に対して農民たちが古河に請願をしようと思った最初は1885年(同18年)で、この時は示談金で一応決着がついていた。しかしこの大洪水による被害の拡大と激増を背景に、地元選出の衆議院議員・田中正造が、1891年(同24年)12月の第2回帝国議会(現在の衆議院)で鉱毒被害について初めて質問し、操業停止を要求した。
 その後、被害の激増に耐えかねて住民たちは反対運動に立ち上がったが、古河側は住民たちの切り崩しを強化した上、1893年(同26年)には加害行為を否定して和解も拒絶、1895年(同28年)3月の住民側との交渉では、示談要求額の半分を値切ったうえ今後の鉱害請求は認めないなど強硬な態度を貫いた。
 いっぽう田中正造は1896年(明治29年)、議会で再三再四政府を追及しても誠意ある回答を得られずにいたので、ついに意を決し被害民による政府に対する請願運動の組織化に奔走することになり、被害地各所で集会に出席しては演説し、有志に手紙を送り請願運動への参加を呼びかけていた。
 7月に入り天が味方したのか、19日になると雨が降り始めた梅雨前線豪雨である。21日、渡良瀬川が前日の豪雨により1丈7尺(約5m)も増水、大洪水となりイネが鉱毒の汚染水につかった。
 田中はこの機を逸せず、8月被害民大会を開き足尾銅山鉱業停止運動を開始する。
 翌9月3日から16日にかけて、ほぼ全国的に秋雨前線の豪雨が降り注いだ。特に関東地方では11、12日の大暴風雨を中心として、8日から16日にかけた大雨により、渡良瀬川が8日ふたたび大洪水を起こし、鉱毒を含んだ多量の水が利根川本流に注ぎ込み、本流をはじめ下流の江戸川や中川の堤防も12日から15日にかけて決壊するなど、鉱毒被害は栃木、群馬をはじめ埼玉、茨城、千葉各県及び東京府と下流域も含めた1府5県の10万453町(約996平方km)という広大な農地に広がった。
 田中は二度目の大洪水直後から鉱業停止請願書の草案を起草、被害地各地で示談契約の破棄と鉱業停止請願運動への参加を呼びかける。翌10月、被災地の中心に位置する群馬県渡瀬村(現・館林市)の雲龍寺に活動の拠点として事務所を設け、5日には群馬県と栃木県の10町村の代表が集まり今後の活動方針を協議。田中ら有志たちは、翌日から連日、被害地各地で請願運動への参加を呼びかけた。
 10月15日、群馬県西谷田村(現・板倉町)南光院で鉱毒演説会が開かれ、11月2日、雲龍寺で被害地各地の有志による大集会が開かれる。同月27日、群馬県議会が「足尾銅山鉱毒の義に付き建議」を満場一致で採択。そしてついにこの日、渡良瀬川両岸被害38町村の有志代表による大集会が雲龍寺で開かれ、田中が起草した請願運動貫徹のため一致し共同して闘うことを誓う「精神的契約之事」に各代表が連署、組織化された大衆運動が始まった。以降、田中正造はこれら行動の中心になるとともに、帝国議会でも繰り返し政府に質問を続けることになる。
 (出典:東海林吉郎著「足尾銅山鉱毒事件」[追加]、Kawakiyo Project著「田中正造と足尾鉱毒事件(詳細年表)」、藤城かおる編著「足尾鉱毒事件略年表」。参照:12月の周年災害・追補版(3)「田中正造、足尾鉱毒問題で政府に初の質問書提出し議会でも追及」[改訂]、7月の周年災害・追補版(3)「明治29年梅雨前線豪雨・信濃川横田切れ、東日本大水害・足尾鉱毒土砂流れ稲に被害-田中正造反対運動の組織化に着手」[改訂]、8月の周年災害・追補版(3)「足尾鉱毒被害民、大会を開き鉱業停止運動始まる」[改訂]、2016年9月の周年災害〈上巻〉「明治29年9月秋雨前線+台風」、3月の周年災害・追補版(4)「足尾銅山鉱毒被害者、初の大挙押し出し(集団請願行動)敢行」[改訂]、2020年2月の周年災害「川俣事件、足尾銅山鉱毒被害民が警官隊と衝突」[改訂]、2017年6月の周年災害「足尾鉱毒拡散防止遊水池建設で谷中村住居強制破壊。政府、鉱毒問題を治水問題にすり替え解決図る」[改訂])

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