【目 次】

・江戸城茶坊主衆に防火の定め事細かく規定(360年前)[再録]^

・丹波福知山元禄12年の大火、三度目の正直で防火都市として再建(320年前)[再録]

・明和6年インフルエンザ、長崎から東海道を通り江戸から全国へ大流行(240年前)[改訂]

・安永8年東海地方を中心に関東、東北で暴風雨・洪水-尾張庄内川天明の改修へ(230年前)[改訂]

・文化6年関東一帯暴風雨、廻船、漁船集団遭難(200年前)[再録]

・明治32年10月台風。駿河湾、相模湾、東京湾各沿岸部、千葉県を直撃、箒川鉄橋で列車転落事故(120年前)[改訂]

・昭和14年10月台風「低気圧番号12」+秋雨前線、九州南東部と四国南部に被害(80年前)[再録]

・警視庁、青少年のヒロポン中毒取締り開始-「覚醒剤取締法」施行後1980年代にふたたび増加
常習者の一般化と暴力団の関与(70年前)[改訂]3

・省エネ対策法施行-地球温暖化対策の主要な柱に(30年前)[再録]

・昭和54年台風第20号+秋雨前線、釧路沖で漁船集団遭難(30年前)[再録]

【本 文】

江戸城茶坊主衆に防火の定め事細かく規定(360年前)[再録]
 1659年10月20日(万治2年9月5日)
 江戸城では、1639年9月(寛永16年8月)大奥の台所からの出火で、天守閣を残して本丸殿舎を全焼させたことがあるが、台所ほど火は使用していないが、必要上、常に湯を沸かしているところがある。茶坊主が接待用の湯茶を沸かしている“いろり”と“風炉”である。
 茶坊主は、将軍の居住する中奥に部屋を持ち、登城した大名たちへの湯茶の接待や食事時の給仕、来訪者の案内、そのほか城中の掃除など、ありとあらゆる雑用をこなした。武士だが刀を帯びずに頭を丸めていたので“坊主”と呼ばれた。一方、職務上、大奥をのぞく城中のあらゆる場所に出入りし、重要人物らとも接触の機会が多いので、情報に通じ、その言動一つで将軍側近の栄達や失脚、果ては政治体制、政策も左右したという。
 その茶坊主に対するこの日の防火上の指示は、一般的な業務規定の中の一部として指示された。まず奥坊主衆(中奥など将軍の私的な生活の場で御世話をする茶坊主)に対しては“一.御茶部屋之儀ハ勿論、御露地之者在之部屋、并(ならびに)御数寄屋方(ともに茶道、茶室関係の茶坊主)ヨリ支配之所々、火之用心、堅可申付、火之番之坊主、昼夜見廻、油断不可仕事”と規定した。
 また同御広間坊主衆(表の間に出勤した諸大名の世話をする茶坊主)には“一,御茶場所、火之用心、油断不可、湯水等断絶無之様、キレイニ可仕事”“一. 火之用心之事、火之番者二人ニテ、一日一夜充可相勤請取渡之時ハ、囲炉裏(いろり)之儀ハ勿論、屋ネ裏以下迄、念入可改之事”“一.大火ヲ不焼様ニ、堅可申付事”“一.夜中ニモ三度充廻リ、火之用心以下可申付、風吹之時ハ弥油断スヘカラサル事”“風呂焼之儀、朝五時ヨリ晩七時ヲ限ヘシ、ソレヨリ後ハ断有トモタク(焚く)ヘカラス”“一.相定燈之外、チヤウチン(提灯)ホンホリ(ぼんぼり)ニテ用所叶へし、此外は停止之事”“一.万一甚地震火事之時(下略)五人之御留守居番之内有合面々、広敷番頭致同道、奥方ヘ参、諸事見合、可有指図事”“一.御城近所火事出来之時ハ、広敷番頭、同添番、非番タリトイフ共梅林坂下マデ相詰可申事”。
 以上のように特に御広間坊主衆には、一般的な職務上のたしなみから始まり、以下の防火上の規定が並んでいる。 火之番は二人で組んで日中と当夜通しで勤務し、次の日の者達と交代するときは、火を焚くいろりから屋根裏までチェックし引き渡す事。(いろりで)大きな炎を上げることは堅く禁じる。夜中の見廻りは三回行い、特に風が強く吹いている時は油断しない事。茶釜でお湯を沸かす風呂(炉)焼きは五つ時(午前8時ごろ)から七つ時(午後4時ごろ)までとする。
 使用が許可されている照明以外、提灯やぼんぼりは良いがその外は使用しない事。万が一大地震や、大火事が起きた場合は、城中に居合わせた御留守居番(大奥の取締担当役)と御広敷番頭(城の警備責任者)と同道して大奥へ行き、状況を判断し避難の指図に従うこと。城の近くで火事が起きたときは、広敷番頭などと一緒に本丸内の梅林坂下の詰め所でつめること。など日常の決まりごとから大地震、火事の時の処置まで事細かく規定している。
 (出典:東京都編「東京市史稿>No.2>皇城篇 第2・184頁~185頁:奥坊主衆御条目」、同編「同>No.2>皇城篇 第2・186頁~191頁:御広間坊主衆御条目」。)

丹波福知山元禄12年の大火、三度目の正直で防火都市として再建(320年前)[再録]
 1699年10月(元禄12年閏9月)

 “元禄12年閏9月のある日のことである”と、福知山市史に載っている。日にちが伝わっていないが、その後、防火都市として再建されたので、福知山の人たちにとって記憶に残る大火だった。
 菱屋町から出火した火は、城下の町家をことごとく灰にし、更に武家屋敷地区まで広がった。丸の内にある家老屋敷も寺社奉行の屋敷も類焼して廃虚となった。城へも火の粉が降り注ぎ延焼の危険が迫ったが、どうにか持ちこたえた。
 この日のような大火災は、以前にも1677年(延宝5年)及び1686年(貞享8年)と、この日も含め10年程の間隔で三度も引き起こしていたので、福知山藩では、この大火を機に、町家地区の中央を東西に走る下ノ魚ヶ棚通りぞいに建ち並ぶ家々に代替地を与え、道路を拡張しそこへ南北約27m、東西約164mの火除け地をつくり、その中央に防火貯水池を開削した。
 その後は火事が発生しても町が全焼するといった大火はなくなり、広小路と改名したかっての下ノ魚ヶ棚通りで必ず鎮火したという。また1819年5月(文政2年4月)には、従来のわらぶき屋根を禁止し、瓦葺きの屋根を奨励している。 
 (出典:福知山市史編さん委員会編「福知山市史 第3巻 近世編>第11章 災害>第2節 福知山の大火と消防組織 1040頁~1044頁」。参照:2017年5月の周年災害「丹波福知山延宝5年の大火」[改訂]、2016年4月の周年災害〈上巻〉「丹波福知山貞享3年の大火」[改訂])

○明和6年インフルエンザ、長崎から東海道を通り江戸から全国へ大流行(250年前)[改訂]
 1769年10月~11月(明和6年9月~10月)

 インフルエンザ(季節性)が流行するのは近年だけの話ではない。
 富士川游の労作「日本疫病史」によれば、最初に文献に登場するのは、平安時代の862年2月(貞観4年1月)で、平安京をはじめ畿内外(現・近畿地方)で多くの人が“咳逆”を患い死亡したと、正史「三代実録」に記録されている。また翌863年(同5年)の冬も前年に続く大流行があり、中でも朝廷(政府)から宮中で大流行し、大納言や内親王が死去されている。そこで6月(旧暦5月)には、朝廷にたたりをするとされた御霊を慰める“御霊会”が庶民を交えて初めて開かれている。
 この年の大流行は、どうも2年前の1767年に欧米で流行した外来種が長崎へ侵入し、京都経由東海道を江戸を目指したようだ。
 歴史書「続談海」によれば“当七月(新暦8月)紅毛人(ヨーロッパ人)着岸之刻(来航した折)、諸船之異国人(様々な船の外国人が)、洋中ニ而(航海中から)煩(わずらい出し:インフルエンザに罹り)、長崎へ着之刻(長崎へ入港した時には)、皆々相煩申候由(みんなが罹っていたとのこと)”。という状況で、“夫より所々へ流染し(それから国内にひろまり)、9月上旬(新・10月上旬)京都にて風邪多く(京都で流行し)、東海道筋流行(東海道の宿場、宿場で流行し)、駿府交代之時大に流行にて、道中人馬差滞候(ちょうど参勤交代の時期に、駿府:現・静岡市で大いに流行していたので、人馬の動きが滞った)。当府ニ而も(江戸においても)、下町辺別而多く(下町で特に流行し)、両芝居も二三日相止申候(芝居小屋が2、3日休んだほどだ)”とある。
 また江戸では下町だけでなく、諸藩の江戸詰の大名や、旗本たちにも流行し、幕府の日記「柳営日次記」によれば“風邪がはやっているので、長髪(頭のさかやきを剃らない)のまま出勤しても良い、供廻りも少なくしても良い”と、11月1日(旧10月4日)に目付から口上(通知)が出されたと記録されている。
 この年のインフルエンザは、国学者・大野広城が幕末に著した江戸幕府の年代記「泰平年表」によれば“二月上旬(新暦・3月中旬)諸国風邪流行、又八月(新・9月)京、大坂、江戸及び諸国風邪流行、人多く死”とあり、1年の内に2回の全国的な大きな流行の波があって、多くの人が死亡したという。
 特に「蘭学事始」で著名な杉田玄白が同時代に著した「後見草」によれば、実際に見聞した江戸の状況について“九月に至りて、感冒の病行われ、(中略)後々は巷(市中)を往来する人も絶え、将軍家の人々を先(先例)として、大小名の屋形(屋敷)に宿直(居住)する人も稀なる程に、煩ひしかば(病に罹ったので)、家々の御厨(キッチン)にて、その治方の薬おびたゞしく煎じ、或は荷桶又は手桶などに入れ、病者の枕元に持運び酌みあたへて飲ませしとなり”と、江戸市中の様子や病人が出た家庭で多量の煎じ薬を用意し病人に飲ませている様などが記されている。そして“此の病段々にうつり行きて後は佐渡越後の方までに及び、極老の人(高齢者)などはこれがために命を失いぬるも数多(あまた)ありし”と、江戸から北陸路の方まで病が広がり、なかでもお年寄りの多くが死亡したと、医者らしく記録している。
 それでも江戸っ子は負けずに落首を一つ“医者は飛び うどんは売れる世の中に 何とて湯屋はつれなかるらん”
 “こんなに熱があっちゃー好きな風呂もあきらめて、熱いうどんでもすすって早寝とするか。”
 (出典:富士川游著「日本疫病史>流行性感冒>疫史 250頁:貞観四年、255頁~256頁:明和六年」、東京都編「東京市史稿>No.2>変災編 第3>950頁~952頁:明和六年風邪」。参照:2013年6月の周年災害「インフルエンザ流行で、怨霊を鎮める朝廷(官)主催の御霊会初めて行われる」)

○安永8年東海地方を中心に関東、東北で暴風雨・洪水-尾張庄内川天明の治水へ(240年前)[改訂]
 1779年10月3日~4日(安永8年8月24日~25日)

 台風によるものか、東海地方を中心に、関東、東北にかけて暴風雨になり、尾張では氾濫を繰り返す庄内川治水工事のきっかけとなった。
 歴史書「続日本王代一覧」によれば、8月20日(新暦・9月29日)より大雨が連日降り続き、8月24日、25日(新・10月3日~4日)になると暴風雨となり、奥州(宮城県)仙台、同(岩手県)盛岡、常陸(茨城県)、下野(栃木県)、上総(千葉県)の各地の河川が氾濫し洪水となる。
 関東では25日(新・4日)江戸が大風雨にさらされ、神田川が1尺6、7寸(50cm)程増水して和泉橋、柳橋が破損、目白下の水道の掛樋の堤が20間(約36m)ほど崩れて、小日向水道町の道路が5尺(1.5m)ほど冠水した(武江年表)。
 中でも東海地方の被害は大きく、三河(愛知県)岡崎では大洪水となり“城下近郷民家悉く(ことごとく)漂流”し、道路が冠水して船で往来するなど、領内の損害は表高の8割、40万石余の収穫に相当する田畑が水没したという。ほとんど全滅である。
 尾張(愛知県)では、天白川、庄内川が氾濫、木曽川も氾濫するなど美濃(岐阜県)、尾張一円が洪水に見舞われ各所で橋が落ち交通が途絶した。
 中でも7月下旬(新・9月上旬)の大雨で、庄内川右岸と五条川左岸の堤防がすでに決壊していたが、今回の暴風雨でも庄内川の水量が増し、上條(春日井市)、志段味(名古屋市守山区)、味鋺(同市北区)、比良、大野木(ともに同市西区)の堤防が決壊、東は木津川、西は五条川、南は庄内川小田井(同西区)の堤防、北は小牧辺りに至る地域が一面海となり、民家の棟まで水没した。また二つ杁(清須市)の堤防も決壊し清須から津島に至る道路も全て冠水、天白川の氾濫で、八町畷(名古屋市瑞穂区)の道路が冠水して途絶、鳴海(同市緑区)では多くの人も家も流されたという。現在の名古屋市の大半が水没するという大災害となった。
 尾張藩では度重なる洪水に見舞われ、被災5年後の1784年(天明4年)、氾濫の中心となる庄内川の根本的な治水事業に取り掛かる。
 庄内川は、岐阜県南部に発し、名古屋の市街地を北から西にかけて取り囲み伊勢湾に注ぐ一級河川で、上流の多治見や瀬戸などが、江戸期以降、陶磁器の生産地として発展したため、陶土の採掘や焼成用材の伐採により山地の荒廃が進み、土砂流出が激しく河床へ堆積、1757年(宝暦7年)、1765年(明和2年)、1767年(明和4年)、そしてこの1779年(安永8年)と、ほぼ数年おきに大洪水による被害を出していた。
 頻発する被害により、特に庄内川右岸の村々では尾張藩に対し直訴を展開、また同藩士水野千之右衛門も藩主に「治水建白書」を提出したという。これらを受け、当時藩政改革を進めていた藩主徳川宗睦は、この1779年の大洪水の際、被災地を視察、庄内川治水策として洗堰の築造と新川の開削計画が進められることになったが、4年後の1783年の7月、8月(天明3年6月、7月)の豪雨の際、大野木村の堤防が危機に陥り、村人たちが総出で堤防を強化する“自普請”を始めるなど、紆余曲折を経て、新川の開削を1787年(天明7年)に完成さ、ようやく庄内川の改修は一段落する。
 (出典:国立公文書館デジタルア-カイブ・片山圓然編「続日本王代一覧 巻の三 65頁:安永八年七月十六日~十月朔日、二日」[追加]、東京都編「東京市史稿>No.2>変災篇 第2・417頁~419頁:安永八年水災」[追加]、中央気象台+海洋気象台編「日本の気象史料1>第1編 暴風雨170頁:安永8年8月24日 東海道、関東、奥羽諸国 大風雨、洪水>続王代一覧、名古屋市史」[追加]、 新修 名古屋市史編集委員会編「新修 名古屋市史 第4巻>第6章 名古屋の人々と生活>第3節 災害と施行>1 頻発する災害450頁~454頁:庄内川の洪水、天明の治水工事」、建設省庄内川工事事務所編「庄内川流域史>第2章 庄内川流域を形成する各河川の概観>70頁~71頁:新川の開さく」、同編「庄内川その流域と歴史>3.庄内川の治水 164頁~167頁:-3.1 天明の改修」。参照:2017年8月の周年災害「明和4年尾張の大洪水・明和の洪水」[改訂])

○文化6年関東一帯暴風雨、廻船、漁船集団遭難(210年前)[再録]
 1809年10月2日~3日(文化6年8月23日~24日)

 風台風であろう、江戸を始め関東一円、伊豆、房総の海で大風が吹きまくり多数の船が遭難している。
 まず「続日本王代一覧後記」によれば、2日(旧暦・8月23日)午前12時ごろ(午の刻)江戸に大雨が降り、夜中より翌明け方にかけて烈しく西北西の風が吹いた。その大風で神社、仏閣、武家屋敷から町家、江戸近郷の民家の多くが破損した。大木も多く吹き倒された。東海道筋の松並木も上総、下総(千葉県)、相模(神奈川県)の民家も樹木も吹き倒され、多くの人が死亡した。江戸へと向かう諸国の廻船も大風のため沈没や座礁した。と記録している。
 また「武江年表」は2日(旧23日)午後10時ごろ(夜半亥の刻)から翌日にかけて大風が吹いたとし、江戸の家屋の多くが破損、中には火の見櫓の半鐘も吹き落とされたという。そして伊豆や房総の漁船の多くが転覆し、大勢の漁師が死亡したと記録している。
 (出典:中央気象台+海洋気象台編「日本の気象史料1>第1編 暴風雨 188頁~189頁:文化六年八月二十三日 紀伊並関東諸国 大風雨」[追加]、東京都編「東京市史稿>No.2>変災編 第2>583頁~585頁:文化六年風水災」)

○明治32年10月台風。駿河湾、相模湾、東京湾各沿岸部、千葉県を直撃、箒川鉄橋で列車転落事故(120年前)[改訂]
 1899年(明治32年)10月7日

 西太平洋カロリン諸島付近で発生した熱帯性低気圧は、九州の南西方海上で台風に成長して北北西に進み、4日午後2時には沖縄諸島付近に到達。5日夕刻には、大東島の南西方向で針路を北東に転じ、7日早朝、和歌山県潮岬南方約60里(235km)海上にあり、同日正午過ぎには静岡県御前崎を通過、駿河湾を横断した。沼津測候所の観測では、この時東風から北西風に急変、午後3時30分に平均風速22m/秒と記録されたが、最大瞬間風速は30~40m/秒と推定される勢いで、同県伊豆半島に上陸した。
 これにより、台風が通過した駿河湾東岸中央に位置する焼津村(現・市)では、高波により住家全潰31軒、同流失15軒、同半潰42軒、同床上浸水190軒、同床下浸水514軒と合計792軒の被害を出した。同村は当時1782戸あったので(焼津町誌)4割強が被災している。村内には農村部もあり、沿岸部はほぼ全戸が被災したとみてよいだろう。
 また同湾湾頭の田子の浦では午後3時20分ごろ高潮が起き、入道川(現・河口は樋門公園)と潤井川の河口(現・田子の浦港)や川筋に近い集落の住家など61軒が全潰、243軒流失、死亡55人、行方不明2人の犠牲者を出し、東海道線は鈴川停車場(現・吉原駅)周辺が水中に没した。
 台風は神奈川県横浜市付近で最も風速が強く午後3時30分に20.4m/秒を記録、同市をかすめて北東に進んだが、相模湾に面した湘南海岸から三浦半島の三崎海岸に至る各地で、小田原の6mを最高に平均3m以上の高波と高潮により、堤防433間(約0.8km)が決壊、324間(0.6km)が破損して、住家全潰51戸、同流失60戸、同半潰144戸、同床上浸水182戸、同床下浸水196戸、道路破損639間(約1.16km)の被害を受け、なかでも葉山村(現・町)など台風進行方向に突き出た三浦半島西岸部の被害が最も激しい。
 台風の中心部は東京湾から房総半島を通過して7日夕刻、福島県いわき市沖に抜け、三陸海岸沿いに進み北海道中央部を抜けオホーツク海に去ったが、東京湾沿岸部では、5日朝から雨が降り出し、中央気象台では7日午後2時風速17.9m/秒を観測、3時55分には最大瞬間風速39m/秒を観測し、台風の中心は東京を通過した。これにより、東京東部の浅草、本所、深川を中心に、住家全潰30戸、同半潰12戸、同破損2106戸、同床上浸水703戸、同床下浸水1万7395戸と東京の下町一帯は水浸しとなった。
 一方、7日午後5時ごろ、明治鉄道史上最大の惨事と伝えられている、栃木県の箒川(ほうきがわ)鉄橋で列車転落事故を引き起こした。そのころ、同台風は福島県平町(現・いわき市)沖海上を通過中で、現場の鉄橋付近では、地形上鉄橋の西側よりが最も強い風が吹く範囲にあった上、列車転落時は、台風自体の強い北西風に“那須おろし”と呼ばれる局地風が加わり、最大瞬間風速が50~60mはあったものと推定されている。
 当時、現在の東北本線は民営の日本鉄道が経営していたが、事故にあった列車は、機関車2両と貨車11両の後ろに客車7両を連結し福島駅を目指していた。同列車が午後4時、栃木県宇都宮駅に到着した際、同時刻に宇都宮測候所で観測された風速は、台風下ではやや穏やかな樹木の小枝を動かす程度の9m/秒で、列車の運行には差し支えなかったという。
 ところが、矢板駅を午後4時40分ごろ出発した同列車が箒川鉄橋の中間地点に差し掛かった午後5時頃、突然、猛烈な北西風に左側面があおられて列車が脱線転覆した。
 機関車2両と重量のあった貨車10両は線路上に残ったが、最後尾の貨車は連結器が外れ、客車7両とともに川の下流方向に転落、客車1両が中州に逆立ちとなり、他の客車は木造のためばらばらに打ち砕かれて激流に押し流された。
 当日の乗客数は車掌の証言によると、約100人とされているが、19人の遺体が発見され、川に押し流された行方不明の遺体もあったようだという。重軽傷者36人。人為的な事故原因として、悪天候の中、軽い客車を後部に配置した編成が問題となり、また機関士が早く渡ろうとしたのだろうか、通常は鉄橋を渡るとき速度をゆるめるが、この日に限って速度を強めたので、車体が風力で浮き上がった点もあったというが、裁判では会社側の責任は認められないとされ、主な事故原因は“台風下の気象の急変による”とされた。
 (出典:宮澤清治著「近・現代日本気象災害史>第三章 秋 185頁~192頁:猛台風、列車を激流へ突き落とす」、小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>3.明治・大正時代の災害>明治時代の主要災害一覧 135頁:明治32.10.5~7 近畿・東海・東日本・北海道風水害」[追加]、静岡県編「静岡県史 別編2自然災害史>第2章 静岡県の自然災害史>第2節 近世・近現代>5 高潮浪害等海岸災害 226頁~228頁:明治32年の高潮」[追加]、神奈川県防災消防課編「神奈川県災害史>Ⅰ 台風の部 83頁~84頁:6.台風 明治32年10月7日」[追加]、東京都編「東京市史稿>変災編 第3>305頁~312頁:明治丗二年風水災」、佐々木富泰+網谷りょう著「事故の鉄道史・続 1頁~16頁:第1話 汽車の転落大事件」[追加]、久保田博著「鉄道重大事故の歴史>2-2 鉄道伸長期の重大事故 24頁~25頁:(5)日本鉄道の台風による列車脱線転落事故」[追加])

○昭和14年10月台風「低気圧番号12」+秋雨前線、九州南東部と四国南部に被害(80年前)[再録]
 1939年(昭和14年)10月15日~17日

 9日、西部太平洋トラック(チューク)諸島の西方で発生した台風は、西北西に進み、15日には石垣島の南東250kmの洋上で半径300km以内は暴風雨圏内となっていた。
 その後、八丈島東方にあった高気圧の東進につれて北に方向を変え、15日夜半には宮古島、沖縄本島間を通過し東シナ海に入る。これにより、宮古島、沖縄諸島では暴風雨となった。その後、強力なシベリア高気圧が南下し、日本列島の太平洋岸に停滞する秋雨前線を発生させた。台風はそれを刺激しながら東北東に方向を変え、16日夕方には屋久島を襲い、四国沖200kmの洋上で更に針路を東に取り、四国、紀州、東海道沿岸部各地を襲い、17日夕刻八丈島100kmの洋上に達した。
 その影響で、宮崎県では期間降水量590.6mmを観測するなど宮崎市を中心に未曾有の豪雨となり、清武川、広渡川が氾濫、両川沿岸部に大きな被害を与えた。
 そのほか潮岬では同降水量585.5mm、室戸岬で337.6mm、屋久島で297.9mmを観測するなど、沿岸部で極端に多く、山岳部では相対的に少ない降水量で、まさに沿岸集中豪雨である。
 これにより、宮崎県を中心に沖縄県、鹿児県、大分県など九州南東部と徳島県、高知県など四国南部に被害が集中した。被災地全体の被害は、74人死亡、25人行方不明、31人負傷。住家全潰675棟、同流失114棟、同半潰1791棟、同床上浸水3502棟、同床下浸水1万296棟。被災世帯1万8364。橋梁流失181か所、同破損75か所、堤防決壊219か所、同破損130か所、道路流失・損壊1767か所、船舶沈没・流失118隻、同破損203隻、がけ崩壊402か所+0.5平方km、田畑浸水1849町歩(18.3平方km)。
 (出典:気象庁編「気象要覧 昭和14年8月~12月(480号~484号)>気象要覧 9月(481号) 1200頁~1202頁:9日より19日に至る颱風(低気圧番号12)」、小倉一徳編、力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ 記録に見る自然災害の歷史>4 昭和時代前期の災害 174頁:西日本風水害」)

警視庁、青少年のヒロポン中毒取締り開始-「覚醒剤取締法」施行後1980年代にふたたび増加
 常習者の一般化と暴力団の関与(70年前)[改訂]

 1949年(昭和24年)10月18日
 
現在でも覚醒剤に係わる事件がいまだ跡を絶たないが、同剤の乱用が人体に危険なものとして、警視庁は初めてこの日、青少年の中毒患者を対象に取締りを開始した。
 当時の覚醒剤の代表は、大日本製薬(現・大日本住友製薬)が1941年(昭和16年)市販した“ヒロポン(略称・ポン)”薬剤名“フエニルメチルアミノプロパン”一般名“メタンフェタミン”で、発売当時、同社は“頭脳の明晰化、体力の亢進(高進)、倦怠除去、眠気一掃”を宣伝文句にうたった。当時は太平洋戦争中(1941年:同16年12月~1945年:同20年8月)であり、軍当局はこれを採用、夜間監視の戦闘員や夜間戦闘機搭乗員などに支給、徹夜で働く軍需工場の作業員に配布した。
 やがて終戦を迎え、軍部が貯蔵していたヒロポンが、一般市場特に闇市(非合法なマーケット)に流れた。中毒性があり精神障害を起こすことはまだ知られておらず、闇焼酎より安価に入手できたので、夜間も働き生活が不規則になりがちな作家、タレント、ミュージシャンなどが常用、また一般青少年も興味半分に使い始め、中毒者が目立ってきていた。取締りのあった1949年(同24年)当時のヒロポン常用者は、全国で285万人にのぼり、その内28%が中毒患者だった。
 ヒロポンの効用といわれている“覚醒作用及び身体活動の増加”は、薬物の摂取によって、人の脳内のドーパミンの量を一時的に増加させることで生じるが、効用が長続きしないので反復して摂取するようになり、常習化(ヒロポン中毒)することによって、逆に精神的な不安や混乱、被害妄想に陥り、幻覚に悩まされるようになり、HIV/エイズウイルスやB型・C型肝炎など感染症にかかりやすくなる。
 そこで、この日の2年後の1951年(昭和26年)6月30日「覚せい剤取締法」が公布された。その後、同法違反の検挙人数が1954年(同29年)には5万5664人/年と最多となったが、翌年から減少に転じ、1960年代は三桁の範囲で推移、取締りが功を奏したとみられたが、同時期の高度成長期を過ぎた1970年代から覚せい剤常用者が一般化し急激に違反者が増加、1980年代の検挙者は2万人台を推移、暴力団の資金源として関与が増加するに及び取締りを強化、その後漸減、2010年代以降は1万人前後で推移している。
 (出典:昭和史研究会編「昭和史事典>1949年 411頁:ヒロポン禍広がる」、麻薬覚せい剤乱用防止センター編「薬物乱用防止のための基礎知識>乱用される薬物の種類と影響>覚醒剤」二〇世紀ひみつ基地編「覚醒剤“ヒロポン”の時代」、衆議院制定法律「昭和26年 法律第252号 覚せい剤取締法」[追加]、法務省編「令和2年版・犯罪白書>第7編/第4章/第1節 薬物犯罪の動向>7-4-1-2図・覚せい剤取締法違反・検挙人員の推移(昭和26年~令和2年) Excel形式のファイル」[追加]、同編「昭和60年版・犯罪白書>第1編/第2章/第3節>2 覚せい剤事犯」[追加]。参照:2014年3月の周年災害「横浜市でヒロポン密造工場摘発、この年違反件数・検挙者最多」)

○省エネ対策法施行-地球温暖化対策の主要な柱に(40年前)[再録]
 1979年(昭和54年)10月1日

 「省エネ対策法(エネルギーの使用の合理化に関する法律)」が施行された目的は、法律名にあるとおり“エネルギーの使用の合理化”で、言い換えれば“燃料資源の有効な利用に資する”(同法第一条)であった。
 “省エネ(エネルギーの省力化)”の必要性が言われ始めたのは、1973年(昭和48年)10月6日に勃発した第四次中東戦争を背景に、同月17日アラブ石油輸出国機構会議がイスラエル支援国家に対する原油の割り当ての減少を決定、それによる原油高を理由に同月23日、エクソンとシェルの両社が日本に対し原油30%値上げを通告したのが契機となった。いわゆる“石油ショック”である。
 政府は直ちに企業への石油・電力の供給削減を行い、国民にもマイカー自粛、暖房の温度低下などいわゆる“省エネ”を呼びかけた。同法の成立はそれから6年後で、現在では省エネは、いわゆる原油の節約問題から地球温暖化防止対策の主要な柱の一つに発展、変貌した。
 (出典:日本全史編集委員会編「日本全史>昭和時代>1979・1162頁:第2次石油危機おこる、中東情勢背景にOPECの動き活発化、1163頁:東京サミット開催、エネルギー問題に論議集中」、昭和史研究会編「昭和史事典>1979年 795頁:省エネ対策」、衆議院制定法律「昭和54年 法律第49 号 エネルギーの使用の合理化に関する法律」、資源エネルギー庁編「省エネ法の概要」。参照:2018年10月の周年災害「地球温暖化対策の推進に関する法律公布」)

○昭和54年台風第20号+秋雨前線、釧路沖で漁船集団遭難(40年前)[再録]
 1979年(昭和54年)10月10日~20日
 10月6日トラック島南東海上に発生した台風は、12日、沖の鳥島付近で中心気圧870ヘクトパスカルと観測史上、世界でもっとも低い気圧になるなど猛烈に発達した。
 その後、非常に強い勢力を保ったまま西日本に接近、19日午前9時40分、和歌山県白浜町付近に上陸、近畿、中部、関東と本州を縦断し、東北地方から海上に出て分裂後、本体部分が北海道釧路付近に再上陸し、温帯低気圧に変わり再び発達した。
 この台風は大型で暴風域が広く、秋雨前線を刺激して豪雨を伴いながらほぼ全国を巻き込み、東京では過去10年間で2番目の38.2m/秒、千葉県館山で50.5m/秒、網走で37.4m/秒の最大瞬間風速を観測するなど、全国各地で暴風が吹き荒れた。
 その結果、釧路沖で漁船の遭難が相次ぎ、67人が死亡行方不明となった。被災地全体の被害は、110人死亡、5人行方不明、543人負傷。住家全壊139棟、同半壊1287棟、同床上浸水8156棟、床下浸水4万7943棟。田畑の被害254.5平方km。
 (出典:気象庁編「災害をもたらした気象事例>台風第20号」、小倉一徳編、力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ 記録に見る自然災害の歷史>5 昭和時代後期・平成の災害>昭和時代後期の主要災害一覧・253頁:昭和54.10.19 全国各地風水害」、宮澤清治+日外アソシエーツ編集部編「台風・気象災害全史>第Ⅱ部 気象災害一覧 377頁:1941 台風20号」)

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(2022.4.5.更新)

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