○読者の皆様へ

「周年災害」は2005年1月から掲載を開始し、10年単位で過去の大災害や特異災害、防災関連の施策などを記事化してご紹介しております。

そこで、① 記事化して各10年後に再度ご紹介する場合、見出しの変更程度か内容に大きな変更のない場合は、訂正のないものも含め[再録]と表示します。

② 内容が新しい情報に基づき訂正された場合は、目次と本文見出しの後に[改訂]、出典資料が改訂または変更になった場合は、資料紹介の後に[改訂]、追加の場合は[追加]と表示します。

③ 新規に追加した記事は、掲載月より10年前の災害などを除き[追補]と表示します。

また、書き残されている大災害や防災施策などについては“追補版”として掲載月と同じ月のものを選び、基本的には発生の古い災害等の順に補足記事化しております。

なお、各記事末に参照として、記事に関係ある最新の「周年災害」がリンクされ読めるようになっています。

【2018年12月の周年災害】

・幕府、江戸湾口浦賀と三崎に灯明堂(現代の灯台)設置し船舶の安全をはかる(370年前)[改訂]

・文政11年 越後三条地震、家屋全壊1万3000余、1600余人死亡(190年前)[改訂]                                                

江戸神田安政5年相生町の大火、火災旋風が起き避難させた家財道具を巻き上げる(160年前)[再録]                                            

・蝦夷松前城下、城(藩)兵撤退の際放火し烏有に帰す(150年前)[再録]                    

飲食物による中毒、薬物の誤用で死亡者が出た場合届出制に食中毒統計調査始まる(140年前)[改訂]         

・和歌山県太地鯨方、背美鯨漁で遭難「大背美流れ」、欧米の捕鯨船に乱獲されたあげくの悲劇

 -古式捕鯨の衰退と近代的捕鯨への転換(140年前)[改訂]                     

・北海道根室海峡で暴風激浪に遭遇、漁船集団遭難(110年前)[追補]      

・鈴木製薬所“味の素”製造により逗子で初の公害、その後も多摩川汚染問題起こす(110年前)[改訂] 

・昭和13年黒部渓谷志合谷淡雪崩、戦時体制下無謀な越冬作業中に起きた惨劇(80年前)[再録]    

・全国交通安全週間始まる-自動車の普及・交通事故の増加を受け政府主催に(70年前)[改訂]

・奄美大島瀬戸内町昭和33年「古仁屋大火」(60年前)[改訂]                              

・新国民健康保険法公布、世界で最も優れた社会保険制度“国民皆保険体制”確立、           

国の戦時体制維持政策が国民の健康維持欲求とマッチし被保険者拡大(60年前)[改訂]         

・大規模地震対策特別措置法施行-大地震に対する画期的な地震防災対策定まる(40年前)[改訂]

・JR中央線東中野駅列車追突事故、直接の原因は信号無視、しかし背景は業務停止処分逃れか

-新型ATS設置を前倒し(30年前)[再録]                               

・十勝岳昭和63年噴火、国、道、町の一連の火山防災対策が成功し、住民の被災免れる(30年前)[再録]

・尼崎大気汚染公害訴訟提訴、全国初の汚染物質排出差し止め判決(30年前)[再録]

○幕府、江戸湾口浦賀と三崎に灯明堂(現代の灯台)設置し船舶の安全をはかる(370年前)[改訂]

1648年(慶安元年)12月

徳川家康の江戸入府(江戸城入城)より58年、征夷大将軍就任より45年、江戸が実質的な首都機能を備え発展するにつれ、江戸への貨物船の入港は日増しに増えていった。

なかでも、1615年6月(慶長20年5月)大阪夏の陣で廃虚と化した大坂が、天下の台所として見事に蘇り、1620年代(元和6年~寛永6年)以降は、大坂―江戸間を大型の菱垣廻船(ひがきかいせん)が就航するなど、西国から江戸へ船舶での輸送が増えるにつれ、江戸湾(東京湾)の湾口にあたる三浦水道を、特に海難の多発した夜間に事故なく通過出来るようにすることが必要になってきた。そこで幕府は、この年、相模国(神奈川県)三浦半島の南端にある三崎と東の端に位置する浦賀に灯明台を設置する。

三崎については、南端の城ヶ島であろうと推定されるが、その跡ははっきりしない。一方浦賀については、当時、江戸に出入りする船舶の寄港地として大きな役割を果たしており、幕府は石川重勝と能勢頼隆に灯明台の建設を担当させている。  

その場所は、浦賀港入口右岸(西岸)の南端、江戸湾に突出している小規模な岩礁の先端で、現在、灯明崎と呼ばれており周辺が公園として整地され、灯明堂の本体が復元され横須賀市の史跡となっている。

灯明堂の建物は木造二階建てで、一階は番人小屋、二階は四方に障子と金網を張り巡らした灯明部屋で、中央に直径36cm(1尺2寸)の銅製灯明皿を置き、それに菜種油を満たして灯りを灯し、その光は真下の岩礁から対岸1.8里(約7km)先の房総半島まで届いていたという。灯明堂と呼ばれたゆえんである。

建物を載せていた石垣の規模は、下端4.7m(15.5尺)×5m(16.5尺)、上端で3.7m(12.2尺)×3.9m(12.9尺)。高さ1.8m(6尺)~2.1m(7尺)となっていた。使用された石材は、対岸の伊豆半島で産出する安山岩の伊豆石を主に使用し、同国の小田原に近い根府川石や播磨の御影石など、江戸城築城用の石材を使用したものと思われ、石積み工法も江戸城の石垣と共通しているという。

灯明堂は建設後、直轄地担当の勘定奉行が差配する勘定所の所轄となり、番人以下の役職は地元から選び、費用は幕府直轄費でまかなっていたが、1692年(元禄5年)からは、東浦賀の干鰯(ほしか:イワシを乾燥した肥料)を扱う問屋が費用を負担するようになったという。

1868年11月(明治元年9月)、灯明堂の東北、三浦半島の最東端、観音崎に日本初の近代的灯台、観音埼灯台が着工され、翌69年2月10日(明治2年1月1日)点灯。灯明堂は72年(同5年)224年の役割を終え、あとを観音埼灯台に譲った。

(出典:日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1648(正保3・慶安1) 537頁:海難事故多発水域浦賀・三崎に灯台を設置する」、横須賀市編「新横須賀市史 別編 考古>第2節 東京湾外湾域・平作川流域 432 頁~433頁:40 浦賀燈明堂跡」、横須賀市編「浦賀の歴史とふれあう散策ルート2>14.燈明堂跡」、同編「同書>干鰯問屋」。参照:2018年11月の周年災害「日本初の近代的灯台、観音埼灯台着工」) 

○文政11年 越後三条地震、家屋全壊1万3000余、1600余人死亡(190年前)[改訂]
 1828年12月18日(文政11年11月12日)

 卯の下刻(7時ごろ)、越後三条(現・三条市)南西部を震源とするマグニチュード6.9の内陸型の大地震が発生し、三条、燕、見附から長岡に至る信濃川下流域の平野部に大きな被害が出た。

地割れから水や青い砂を噴出するという噴砂現象や、建物が3~4尺(約1m)も地中に揺れ沈み込むという流砂現象が各地で見られ、地割れに落ちて死亡した人もいたという。
 三条で家屋全潰439軒、205人死亡。燕で家屋全潰269軒、221人死亡。見附で家屋全潰545軒、127人死亡。今町(現・見附市)で家屋全潰300軒、60人死亡。与板で家屋全潰263かまど(世帯)、同焼失17

かまど、34人死亡。脇野(現・ともに長岡市)で家屋全潰161軒、5人死亡などの被害が出ている。また長岡では城内の石垣が崩れ、本丸、二之丸などの門や塀、建物が全潰及び大破し、城下と郷中(郊外)も含め家屋全潰3500~3600軒、442人死亡と記録されている。
 同地域より北西に位置する新発田藩領(新発田市、阿賀野市、加茂市など)でも家屋全潰1770軒、同半潰695軒、225人死亡の被害に見舞われた。
 この地震の被害は全体で家屋全潰1万3149軒、同焼失1200軒、同半潰3639軒、同大破6127軒。土蔵全潰309棟、同半潰175棟、同焼損284棟、同大破326棟。寺社全潰91か所、同半潰38か所、同焼損8か所、同大破159か所。1681人死亡、2572人負傷。橋梁の落下55か所、同損潰75か所、道路決壊6200間(約11km)以上、堤防決壊3万8000間(69km)以上、田畑損壊1250町歩(12.4平方km)以上。山崩れ750か所余となっている。
 (出典:宇佐美龍夫著「日本地震被害総覧>4 被害地震各論 136頁~137頁:235」、池田正一郎編著「日本災変通志>近世 江戸時代後期>文政十一年 603頁~605頁」)

○江戸神田安政5年相生町の大火、火災旋風が起き避難させた家財道具を巻き上げる(160年前)[再録]
 1858年12月19日(安政5年11月15日)

 早暁、丑の刻(午前2時ごろ)、神田相生町の北にある若林氏の屋敷から出火した。この日は北風が烈しく吹いており、同屋敷に連なる武家屋敷に次々と延焼した。
 炎は相生町から佐久間町へと広がり、和泉橋も焼き落とし柳原堤を乗り越えて東神田鎌倉横町代地、松下町代地へと広がり、お玉が池の武家地から弁慶橋通り、旅篭町へと飛び火して馬喰町二丁目まで灰にした。
 また明け方には風向きが艮(うしとら:北東)の方向に変わり、堀留町、大伝馬町へと延焼。小伝馬町の牢屋敷を焼いた炎は、同町より小舟町、堀留町、新乗物町へと延び、岩代町から新材木町、葺屋町、境町の半分を灰とした。元大坂町、甚左衛門町、小網町一丁目と容赦なく焼き、荒布橋も焼き落とす勢い。
 その後、東の風に変わり、神田一円つまり須田町、三河町など残らず焼き、日本橋へと炎は足を伸ばし、御堀端鎌倉町、竜閑町、本銀町、本町と進み、室町通りなどでは町並みの半分を焼き、南は具足町、炭町まで勢いを伸ばして、戌の下刻(午後9時ごろ)ようやく鎮火した。
 この火事では多くの倉庫が焼け、火災旋風が起こってお堀端へ運び出していた家財道具などを虚空へ巻き上げたという。この火災による被害は、およそ長さ延べ22町余(約2.5km)、幅は平均して7町(約800m)ほど、町家が町数にして259町、武家屋敷80軒ほどと記録されている。
 (東京都編「東京市史稿>No.2>変災編5・836頁~848頁:5 十一月十五日大火」、池田正一郎編著「日本災変通志>近世 江戸時代後期>安政5年 694頁~695頁」)

○戊辰戦争・蝦夷松前城下、城(藩)兵撤退の際放火し烏有に帰す(150年前)[再録]
 1868年12月18日(明治元年11月5日)
 幕末の松前藩は、1868年(慶応4年)4月、新政府の箱館(函館)府が五稜郭に設立されると、ひたすら恭順歓迎の意を示したが、戊辰戦争が始まると、一方では旧幕府派として奥州諸藩と協力、1868年6月13日(慶応4年閏4月23日)、仙台藩片倉氏の居城白石城で開かれた諸藩による白石会議に参加、白石盟約書に調印した。同月22日(旧暦・5月3日)には奥羽列藩同盟が奥州諸藩25藩によって成立すると、それに参加した。

しかし列藩同盟軍が加盟各藩城下で敗退するに及び、9月14日(旧7月28日)下級武士を中心とした正義派による藩内クーデターによって新政府側につき、箱館府下の警備に当たることになり、戸切地(へきりち:現・北斗市)陣屋で守備についた。
 同年12月3日(明治元年10月20日)、旧幕府海軍副総裁・榎本武揚をトップとする旧幕府軍が、渡島半島鷲の木村(現・森町)に上陸、南下して箱館を目指した。同月5日(旧・22日)茅部峠の上下で両軍が激突、蝦夷地での戊辰戦争が始まった。
 初戦から二日後の7日(旧・24日)歴戦の旧幕府軍に対し、新政府箱館府守備兵は戦闘の経験も無く敗退、松前藩兵155人は戸切地陣屋を撤退し箱館に逃れ、翌日、府知事とともにプロシア汽船で青森に退避した。
 一方、9日(旧・26日)旧幕府軍は、府知事が新政府箱館府軍とともに退去したあとの五稜郭に入城、松前藩福山城(現・松前町)攻撃に向かう。
 14日(旧・11月1日)夜半、小谷石村(現・福島町)からひそかに上陸した松前藩軍は、知内村(しりうち:現・町)で野営中の旧幕府軍を襲撃、不意を突いて若干の勝利を収めたが、翌15日(旧・2日)福島を攻撃されて敗北。しかし、青森に退避していた藩兵も翌16日(旧・3日)から戦闘に加わり旧幕府軍と対峙した。

この日18日(旧5日)旧幕府軍の陸、海からの砲撃に対し藩側も筑島砲台(松前町)から応戦するなど、午前中一杯は福山城近郊各地で銃、砲撃戦が展開された。正午ごろ旧幕府軍は城下へ進入、各門を死守する藩軍と死闘をくり返すが、遂に藩兵は湯殿沢口や寺町から城下に火を放ち江差(現・町)や、旧幕府軍との開戦に備え急きょ築城し、開戦時藩主が避難していた館城(現・厚沢部:あっさぶ町)に退却した。
 藩兵が松前城下を退却する際“脱走(旧幕府軍)が入って来ても困る様にお寺はもちろん、町家から米倉から町中のほとんどを藩の者がかたっぱしから火を放けて歩いた”との懐旧談があるように、城下の放火は、洋の東西を問わない退却時の常とう手段だった。
 一方、家を焼かれた町人たちは、戦闘を避けるべく、とるものもとりあえず家財を残し山間部に避難したので、残してきたもののすべてを失った。城下で焼失した範囲は全市街地の3分の2にのぼり、中心地のほとんどが焼失した。14年前の54年11月(嘉永7年10月)1700軒余を焼き、ようやく復興し旧に倍する生業に励んでいた町人にとっては大被害だった。当時の人口は1万5000人ほどだから、2000軒余りが焼失したことになる。厳寒期を迎え、米倉も焼かれ米価は高騰し、旧幕府軍に占領された精神的な不安もあり、復興に当たる町人たちの生活は絶望的なものがあったという。
 (出典:松前町史編集室編「松前町史 通説編 第1巻 下>第5編 幕末維新期の松前>第2章 維新期の松前 1306頁~1330頁:第1節 幕府の崩壊と藩の内紛>3 箱館裁判所の設置と松前藩、第2節 戊辰の内乱と松前」。参照:2018年1月の周年災害「戊辰戦争始まる、鳥羽・伏見の戦い」[追加]、2014年11月の周年災害「蝦夷松前嘉永7年の大火」)

○飲食物による中毒、薬物の誤用で死亡者が出た場合届出制に、食中毒統計調査始まる(140年前)[改訂]
 1878年(明治11年)12月20日
 食中毒の統計調査というのが現在厚生労働省で行われているが、それが発生するごとに国へ届出をすることが、この日全国に通達された。
 通達は、当時、地方行政から警察、土木、衛生などの国内行政の根幹を担っていた“内務省”が出した達乙第88で“各地方管内に於いて飲食物之中毒及び薬物之誤用等により死を致す者有之候節(死亡者が出た場合)は、其の毒物之品名中毒之症状並びに死者の住所姓名等詳細に取調、其の都度当省衛生局に通報可致(報告すること)、且つ毒物之成分判然せざる分は現品相添可差出(現品を添えて差し出すこと)、此の旨相達候事”となっている。

 これによると、届出が必要なのは中毒による死亡者が出た場合で、届出先は国の内務省衛生局(現・厚生労働省医薬・生活衛生局)である。国への届出者は明確に規定されていないが、この年は7月に郡区町村編成法が、太政官(現・内閣)から布告され、府県ごとにこの年から翌年にかけて施行されていた。地方行政の編成期なので、各地方管内という言い方をしたのかも知れない、但し内容が内容なので、届出は地方行政の最下部の区、町、村が中毒死について調査し、そこから郡へ上がり、ついで府、県に上がり、最後に国へ届出されたものと思われる。
 次いで1886年(明治19年)9月27日、内務報告例が、内務省令第17号として施行された。その別冊の内容は、内務省が管轄している事項に関する報告を、予報、即報、月報、季報(4か月に1回)、半年報、年報とわけ、報告様式も統一したものである(第3条)。
 “中毒”は、この半年報の第6例として明記され、中毒患者が発生した場合、半年単位に集計して、指定様式にもとづき報告することが法的に規定された。また年報の第37例に“警察上の死傷せし人員”というのがあるので、中毒患者が多量に発生し事件化した場合は、別途報告したのであろう。
 ちなみに中毒に関する国への報告については、戦後(1945年:昭和20年8月~)の48年(同23年)1月に施行された食品衛生法によってより明確に規定された。つまり、第58条において“食品、添加物、器具若しくは容器包装に起因して中毒した患者若しくはその疑いある者を診断し、又はその死体を検案した医師は、直ちに最寄りの保健所長にその旨を届出なければならない”とあり、報告すべき中毒の内容及び診断・検案した医師が届出者であることが明確に規定された。
 また、届出を受けた保健所長は調査を行い都道府県知事に報告をし、報告を受けた都道府県知事は厚生大臣(現・厚生労働大臣)に報告をすることも規定され、手続きも明確になった。ついで、都道府県知事が厚生大臣に報告する範囲だが、それについては同法施行規則第73条で、死亡者、重篤な患者が発生した場合、中毒患者が50人以上、輸入食品による中毒、患者の発生が複数の都道府県にわたる場合などに限定された。しかしこの規定が外されすべての食中毒事件について統計の対象になったのは、翌49年(同24年)4月分からである。
 (出典:総務省統計局編「食中毒情報>4.食中毒統計・調査結果」【変更】、国立国会図書館デジタルコレクション「法令全書.明治11年 258頁(162コマ):内務省乙第88号達・飲食物ノ中毒及薬物等ノ誤用ニヨリ死ヲ致す者通報」、国立国会図書館デジタルコレクション「法令全書.明治19年 下巻629頁~636頁(318コマ~):内務省令第17号・(別冊)内務報告例>半年報・第6例、年報・第37例」【変更】、国立国会図書館日本法令索引>衆議院制定法律「食品衛生法」【変更】、厚生省令「食品衛生法施行規則」)

○和歌山県太地鯨方、背美鯨漁で遭難「大背美流れ」、欧米の捕鯨船に乱獲されたあげくの悲劇
 -古式捕鯨の衰退と近代的捕鯨への転換(140年前)[改訂]
 1878年(明治11年)12月24日~25日
 紀伊半島の南端にある太地(たいじ)では、江戸時代が始まろうという17世紀の始め、土地の豪族・和田氏が組織的で独創的な鯨漁法(古式捕鯨)を創り上げ、それ以降、鯨の村として250年以上の間、鯨と生き、鯨で暮らしをたててきた。
 ところが19世紀半ば以降、アメリカをはじめとする欧米の捕鯨船が、日本近海まで押し寄せ次々と鯨

を乱獲していた。それは当時産業革命を迎えた欧米諸国では、機械用潤滑油やローソク及びランプの灯油の需要が高まり、それらに最適な鯨油の価格が高騰していたからで、捕鯨船団は、はるばる太平洋を越え日本近海まで遠征し、目的の鯨を捕獲すると船内で採油し、肉と骨は海中に投棄していたのである。

目的の魚を捕獲するために他国の近海まで侵入し乱獲する漁船集団の図式は、現代になっても相変わらず横行している。一方、かつて鯨油目的のために他国の近海まで押し寄せ乱獲していた国々が、近年、環境保護を名目に、捕鯨反対運動の先陣を切り、他国の排他的経済水域どころか領海まで侵入して漁獲妨害活動を繰り広げているという、ご都合主義的、欧米的上から目線の歴史の皮肉もある。なにはともあれ、1853年7月(嘉永6年6月)、ペリーを司令長官とするアメリ海軍東インド艦隊は、捕鯨船が薪炭や水、食料を積み込むための寄港地として、日本の開国を必要とし、その交渉に訪れたのであった。
 そのような状況を少しも知らない太地の漁民たちは、日本沿岸へ回遊してくるはずの鯨を、欧米の捕鯨船によって根こそぎ捕獲され、幕末以来不漁に見舞われていた。また、太地鯨方の宰領(経営者)太地角右衛門(覚吾)も、明治維新の変動で藩の支援を失い、さまざま奔走したが資金難などで一時期、捕鯨業の権利さえも他に譲らざるを得なかった。しかしこの明治11年の春、ようやく権利を取り戻し復興に燃えていたが、不漁の状況はつき崩せないでいた。漁民たちもこのままでは正月も迎えられない、といった焦りと不安が高まっていた。そこへ今まで見たこともない子連れの大きな背美鯨(セミクジラ)の発見!の知らせである。
 漁師たちはこの日、早朝から小雨まじり北東の風が強く吹く荒れ模様の海へ、総勢180人余が船団を組み、沖に出て鯨を待ちかまえていた。その矢先の八つ時(午後2時)ごろ、背子(勢子:鯨を網に追い込む)船から山見(鯨漁の見張りと指令役)へ知らせが入ったのである。ところが問題は“背美の児持ちは夢にも視るな”と昔から伝えられていた伝承だった。
 背美鯨は日本沿岸の鯨の中でも、体長13mから18mとかなり大きく、中でも子連れで回遊している場合は、子どもを守ろうとして、母鯨の気性が烈しくなり、かなり強烈に反撃するという。そこで古来よりの伝承が生まれたのであろう。その上、当時の鯨漁船は小さく漁法的にも大きな鯨の捕獲には危険が多かった。
 山見をしていた山旦那(山見役総支配人)和田金右衛門は、悪天候であり捕獲に時間がかかれば夜に入ることなど危険性を考慮し、漁の中止を考えたが、そこへやって来た鯨方宰領の太地角右衛門が、不漁続きによる経営の不振や漁民の生活苦を主張して意見が対立した。結局、中止論は折れ午後4時ごろ、遂に“ただちに捕獲にかかるべし”と決断が下った。
 手ぐすね引いて待ちかまえていた鯨漁船の船が、網を二度、三度張ったところ母鯨に僅かだが網がかかった。母鯨は驚いてすさまじい勢いで暴れた後、東南の沖へ逃げ出したという。鯨船団も必死に跡を追う。冬の日はすでに落ち、早朝からの風雨は夜に入り激しさを増していたが、巨鯨との激闘は夜を徹して続けられ、翌朝の早朝、遂にしとめることが出来たという。
 翌朝は穏やかな海だったが、食料も水もなくなり漁師たちは精魂を使い果たしていた。しかし激闘の末の収穫である、巨鯨を2隻の持双船(もっそうせん)に固定して挟み、港を目指した。ところが、見上げるばかりの大きさの巨鯨のため、力の限り漕いでも少しも前に進まず、逆に潮流に引かれついには黒潮の流れに入ってしまった。体力の限界を超えていた漁師たちは、このままでは助からないと思い、協議の末、苦労して得た巨鯨を放したという。
 そしてお互いの船をつなぎ合わせて漕ぎ帰ろうとしたが、すでに櫓(ろ:和船のオール)を持つ力さえ失

われていた上、洋上をわたる冬の風は肌を刺し、日暮れになるにつれ波のうねりが強くなり、つなぎ合わせた船どうしが衝突し浸水する船も出はじめた。午後4時ごろ、仕方なく遂に船をつなぎ合わせていた綱を断ち切ると、力のない老人や少年たちが多い船は次々と海中に沈んでいったという。

30日、出港して7日目、九死に一生を得た漁師8人が、伊豆諸島神津島に漂着、その他の島に漂着した人も含め生存者は72人、111人が死亡及び行方不明となっていた。
 突然、100余名の働き手を失ったこの小さな漁村は、主な産業の捕鯨も細々としか出来なくなり、捕鯨業としては2年後の80年(同13年)休業せざるを得なかった。また他の地域の捕鯨も欧米の捕鯨船による乱獲の影響を受け、漁獲高が減少、沿岸に回遊してくる鯨を待ち受けて捕獲する古式捕鯨は完全に衰退した。
 この状況に対し鯨漁師たちは積極的にノルウェーなど欧米の漁法を学び、この悲劇から25年ほど経った20世紀初頭の明治時代末には、捕鯨銃を使う沿岸捕鯨が非常に盛んになった。太地町もそのころから捕鯨の町としての活気を取り戻し、捕鯨基地として鯨処理工場の町として賑わいを取り戻したという。一方、アメリカでは同じ頃、1859年ペンシルベニアで石油が発見され、石油から機械用潤滑油や灯油などが安価に大量に生産されるようになると、鯨油の需要は一挙に減少、捕鯨業も衰退した。
 (出典:太地町編「歴史文化を探る>太地にある捕鯨史跡」、同編「大背美流れ」、太地亮編著「太地角右衛門と熊野捕鯨>明治11年鯨船漂流事故」、熊野太地浦捕鯨史編纂委員会編「熊野太地浦捕鯨史>第1編 序説>第4章 南氷洋における国際捕鯨協定条項>(26) 世界における捕鯨の沿革と現況 127頁~128頁:アメリカ式捕鯨」、同編「同書>第2編 総説>第5章 太地浦における明治期の捕鯨とその終焉 341頁~353頁:第1節 太地捕鯨方末期の苦悩、第2節 明治十一年の大遭難、第3節 太地浦鯨方の終焉と立ち上がった太地漁人」)

○北海道根室海峡で暴風激浪に遭遇、漁船集団遭難(110年前) [追補]

1908年(明治41年)12月15日~16日

「北海道地域防災計画(資料編)」の災害事例(10-1 災害発生記録)の頁に、明治41年12月15日~16日に起きた事例として、原因種別“暴風”地域“根室地方”被害状況“漁船34隻転覆、行方不明140名”との簡単な記載がある。

当時この遭難を報じたのは北海タイムス(現・北海道新聞)で、マイクロフィッシュに収められた当時の記事を見ると、まず12月17日付けの第一報として、目梨郡植別村(現・羅臼町)の漁船13隻が時化で行方不明になっていたが、漁夫32名が対岸の国後島へ漂着していた。とある。次いで翌18日には“漁船三十四艘の遭難 乗組漁夫百四十六名の行方不明”として“十五日根室国目梨郡植別村で暴風激浪のため、出漁中の漁船三十四艘が転覆し、漁夫百四十六名が行方不明で目下捜索中”という、より正確になった記事が掲載されている。

羅臼町のある知床半島は、世界三大漁場に数えられているオホーツク海に突き出しており、なかでも同町沖の根室海峡はとりわけ豊かな漁場で、秋のサケ、冬のスケトウダラ(卵巣がタラコ)、春のニシンが有名だが、1月になるとほとんどの海域が流氷によって閉ざされるので、遭難した時期は最後のチャンスだったのだろうか。

なお、根室地方での漁船の遭難は12月22日付けの同紙によると、ほかにも“花咲郡花咲村(現・根室市)で漁船3隻が遭難し乗組員1名が凍死”“同郡友知村(現・根室市)で漁船4艘が難破、乗組員7名が行方不明”とあり、当時の「気象要覧」に記載がない程度の暴風だったが、北海道の東端にある根室地方での真冬の出漁は厳しい結果となっていた。

(出典:北海道編「北海道地域防災計画(資料編)>10 災害事例(10-1 災害発生記録>12頁」、北海道立図書館編「北方資料室調査資料」) 

○鈴木製薬所“味の素”製造により逗子で初の公害、その後も多摩川汚染問題起こす(110年前)[改訂]
 1908年(明治41年)12月
 化学調味料(うまみ調味料)の代名詞“味の素”。これは商品名で、化学製品としての名称は“グルタミン酸ソーダ”その成分“L-グルタミン酸ナトリウム”の発見者は池田菊苗ということはほとんどの人が知っている。
 京都生まれの池田は、子どもの頃より、料理に使われる昆布だしに興味を持っていたという。長じて東京帝国大学理科大学化学科教授となった池田は、昆布だしの秘密を知るために、湯豆腐のだし汁昆布を対象とした研究に着手、1907年(明治40年)、昆布の煮汁からうまみの素であるL-グルタミン酸ナトリウムを得ることに成功した。
 翌1908年(明治41年)4月「グルタミン酸を主要成分とせる調味料製造法」に関する特許を出願、同年7月特許登録された。この特許の実施契約を得たのが、当時、神奈川県葉山に鈴木製薬所を設立し、ヨード製造に成功していた鈴木三朗助で、早くも同年12月上旬には葉山に隣接する逗子工場の設備を改修、グルタミン酸ソーダの製造に乗り出した。
 ところが実験室での小規模な試作とは異なり、原料の小麦タンパク質の主成分・麩質(グルテン)を分解するのに塩酸を多量に使用したので、不完全な処理設備とあいまって塩酸ガスが大量に発生、さらにデンプンの廃液を近くの田越川に流したので、近隣の農家や漁師はては住民からの苦情が殺到、今で言う公害を引き起こした。
 新製品のうまみ調味料・味の素は、翌1909年5月20日から発売され、この日が味の素(株)の創業日となっている。新発売後、工場の味の素生産量も増えていったが、それと同時に塩酸ガスの発生もデンプンの廃液も増え、住民からは作業の中止や工場の移転を要望する声が大きくなった。
 工場の移転先として、東京府下の六郷村(現・大田区六郷町)が候補にあがったが、ここでも地元の農民や漁師から反対運動が起き、結局、川崎町(現・市)の町長の斡旋で、現在の川崎事業所の場所に新工場を建て操業を始めることになった。
 その後、塩酸ガス発生の問題は耐酸装置の完成によってなくなったが、デンプンの廃液問題は解決がつかず、味の素の販売量の拡大に比例して増産による排水の増大となり、ついに、川崎町の大師漁業組合から、多摩川の汚染によって下流で養殖中の海苔が腐敗し、海苔ヒビから全部脱落した、との苦情の申し入れを受けた。
 9月1日、関東大震災発生、被害を受けた味の素工場は、復興工事の際、排水を中和して無害化する設備を完成させた。ところが、1926年(大正15年)11月、32年(昭和7年)、36年(同11年)、42年(同17年)にも同じような苦情申し入れを関係漁業組合から受けている。
 これに対し、味の素側は、排水は中和して無害化しているとの主張を繰り返し、漁業組合側の要求はのまなかったが、そのつど業者の窮状を理解するとして見舞金の支払いには応じていた。その後、川崎、東

京蒲田地区に大工場が進出、廃水による多摩川の汚染が進み、皮肉にも海苔に対する加害者が味の素とす

る特定化が不可能となり、いつしか苦情を受けることはなくなったという。皮肉な結果である。

(出典:東京大学大学院理学系研究科・理学部編「うま味の発見と池田菊苗教授」、味の素株式会社社史編纂室編「味の素株式会社社史・50~51頁:製造開始当時の困難 67~69頁:工場の新設と製法の転換、331~335頁:工場廃水と河川問題」)

○昭和13年黒部渓谷志合谷泡(ほう)雪崩、戦時体制下無謀な越冬作業中に起きた惨劇(80年前)[再録]
 1938年(昭和13年)12月27日
 豪雪地帯の富山県にある黒部渓谷は、高く急傾斜な崖が連なり雪崩が起きやすく、大正時代の1910年代頃までは“帰らずの谷”と呼ばれ、足を踏み入れる者はいなかったという。
 ところが工業の発展により電力需要が増大するにつれ、黒部渓谷は発電用ダム建設地として注目を浴びた。しかし惨劇は起こる。この日、温泉地宇奈月から24km奥にある日本電力(株)黒部川第三発電所仙人谷ダム建設にともなう、黒部渓谷志合谷(現・黒部市)のトンネル工事建設現場の共同宿舎が、雪崩に襲われたのだ。
 冬期の黒部渓谷は、特有の大旋風とわが国有数の雪崩の発生地帯で、越冬作業は不可能とする意見が多かったが、前年の1937年(昭和12年)7月、中国との全面戦争に突入し、軍需工場を中心に電力需要が急増していた。そのためダム建設を早める必要があり、越冬作業を行うことになり、惨劇の場、志合谷には雪崩の実験も行い安全を確かめた上で、工夫を凝らした冬期永久宿舎が建築されていた。しかし-、
 前日の26日、能登半島沖の日本海海上に発生した低気圧は、北海道を通りオホーツク海で発達した。雪崩が起きたこの日は、冬型の気圧配置で、北陸地方各地は豪雪に見舞われていた。
 午前3時20分ごろ、志合谷の工事現場付近で大旋風が起こり、一部鉄筋コンクリート4階建ての冬期永久共同宿舎の屋根を吹き飛ばした。次いで大規模な爆風をともなった泡(ほう)雪崩が発生、残った建物の上に高さ25mの工事運搬用エレベーターが倒れかかり、損壊した同宿舎は1階のコンクリート部分だけを残して、2階から上部すべてが谷間の彼方へ吹き飛ばされた。
 当夜、越冬作業員のうち49人がトンネル内で夜間作業に従事し、宿舎には90人が就寝していた。トンネル内にいた人たちは大音響に驚き飛び出したが、暗闇の中、ただ無数の雪片が舞っているだけで、なんの音だったのかわからなかったが、程なくいつも目の前にある4階建ての宿舎が見えないことに気づき、大騒ぎとなった。
 現場は一面荒れた雪におおわれ、建物の木片も布きれ一枚もなく、4階建てもの建物が吹き飛んだとは信じられなく、それが判るまでかなりの時間がかかったという。
 この事故で65人が即死し、そのうち18人はその日のうちに発掘されたが、残りの47人は、建物や荷物とともに爆風雪崩に飛ばされて、直下の志合谷から対岸の40mの高さの尾根を超えた黒部川本流まで600mに渡って遺体が散乱していたという。当夜宿舎で就寝していたうち18人が重傷、7人が軽傷で発見された。
 この泡雪崩というのは学名で爆風型雪崩と言い、新潟県や富山県の豪雪地帯で多く発生する。雪の固まりが時速200km以上の速度で落下、その衝撃力が4階建ての建物を破壊したのである。この地域では、江戸時代から「ほふら(ホウラ)」と呼ばれ恐れられていた。 
 戦時体制化、古来より冬場の危険が伝えられてきた地帯に、現場で実験を行い当時の人智を尽くした宿                                                                    舎を建てたとは言え、それを上まわる雪崩に見舞われたわけで、国策故の犠牲と言わざるを得ない。
 (出典:宮澤清治著「日本気象災害史>第4章 冬 291頁~295頁:爆風型雪崩の恐怖」)

○全国交通安全週間始まる-自動車の普及・交通事故の増加を受け政府主催に(70年前)[改訂]
 1948年(昭和23年)12月10日~16日
 現在、原則として春季は4月6日から、秋季は9月21日から各10日間、実施されている“全国交通安全週間”が、この年はじめて開催された。
 同週間の記念すべき最初の重点目標は、① 道路交通取締令の趣旨徹底 ② とくに対面交通と自動車の右小回りの徹底 ③ 交通事故防止。で、当時、交通事故なかでも自動車事故が増加傾向にあり、何らかの対策を講じなければならない状況が重点目標の背景にあった。
 最初の主催者は国家地方警察本部(現・警察庁)で、この年の11月15日、各警察管区本部(現・管区警察局)及び各都道府県警察隊(現・各道府県警察本部、警視庁)あてに通達され実施された。
 実施内容はほぼ現在と変わらないが、中央が主催するイベントとして、① ラジオで講演、交通安全の夕べなど放送 ② 新聞に交通安全標語、安全週間イベント記事掲載 ③ 民間交通功労者の表彰 ④ 警察官の交通取締訓練並びに競技 ⑤ 学生、生徒、児童に対する交通安全に関する教育活動 ⑥ 国鉄(現・JR)、私鉄におけるポスターなどの掲載、をあげている。
 また各地方で主催するイベントについては、それぞれの実情に即した運動を展開するとし、実施内容はほぼ中央のイベントの地方版だが、中央にないイベントとして、① 住民も参加した街頭訓練 ② 展覧会 ③ 講話、座談会 ④ 交通事故物故者の慰霊祭 ⑤ 児童に対する交通カードの交付 ⑥ 優良自動車運転者の表彰 ⑦ 運転者技能訓練並びに競技。の実施を推奨しており、基本的には地域住民を主体としたイベントを開催するという方向付けだった。
 なお、この運動はその後の自動車の急速な普及にともなう交通事故の増加を受けて、4年後の1952年(昭和27年)から、現在のように春季と秋季の1年に2回実施されるようになった。また62年(同37年)からは、政府の重要施策の一つとして取り上げられ、その2年前の60年(同35年)12月の閣議決定により設置された総理府交通対策本部(現・中央交通安全対策会議・交通対策本部)が、それまでの警察庁に替わり、実施要綱を定めることになり、現在まで毎年定期的に実施されている。
 (出典:内閣府編「全国交通安全運動について」[追加]、道路交通問題研究会編「道路交通政策史概観 資料編>第8 交通安全関係 450頁~451頁:1.全国交通安全運動 最初の実施通達、2.全国交通安全運動の重点目標」、内閣府編「国・自治体の交通安全対策推進体制」[変更]、同編「令和2年春の全国交通安全運動推進要綱」[追加])

○奄美大島瀬戸内町昭和33年「古仁屋大火」(60年前)[改訂]
 1958年(昭和33年)12月27日~28日

 奄美大島の南端、大島海峡を挟んで加計呂麻(かけろま)島と相対する瀬戸内町の中心地、古仁屋で午後11時半ごろ、港に注ぐ仲金久川の橋上に商店が建ち並ぶ市場通りから出火した。
 古仁屋の街は、1545年(昭和20年)3月26日のアメリカ軍による沖縄・座間味島上陸作戦開始前、艦載機(航空母艦搭載機)による焼夷弾攻撃を受けていた。

その復興が、都市計画もできないままに行われたので、公園などの広場もなく道幅が狭い上、1階建て

の木造、それも最悪の板壁に平木かトタン葺き屋根の当時バラック建てと呼ばれた家屋が密集していた上、

不幸なことに、火元下の川も干潮で干上がっており、付近に防火水槽も少ないという悪条件が重なっていた。
 市場通りから出火した炎は、おりからの15mほどの西風にあおられ、またたく間に燃え広がり、翌朝まで燃え続けた。市街地の8割に及ぶ1357世帯5929名が被災し、1628棟が全焼、官公署も税関と奄美支庁土木出張所が免れただけで、ほとんど全焼した。
 寝入りばなを起こされた住民たちは、着のみ着のままで家を飛び出し、衣類や食料などを持ち出す余裕も無く、県道や海岸付近、埋立地などにうずくまり、一夜を明かした。
 (出典:瀬戸内町立図書館・郷土館紀要第3号所収:徳永茂二著「『古仁屋大火』の教訓」)

○新国民健康保険法公布、世界で最も優れた社会保険制度“国民皆保険体制”確立、
 国の戦時体制維持政策が国民の健康維持欲求とマッチし被保険者拡大(60年前)[改訂]
 1958年(昭和33年)12月27日
 21世紀になってようやくアメリカでは、民主党オバマ政権により2014年1月から医療保険の国民皆保険への試み(オバマ・ケア)が実施された。しかし、国家予算を抑えかつ保険会社の利益を守ろうとする共和党などの反対勢力の勢いが強く、共和党トランプ大統領候補は、選挙公約でオバマ・ケアの廃止を掲げて当選、17年1月に就任した最初の大統領令で同ケアの見直しを指示、共和党からは代替案が下院へ提出されるなど、国民の福祉政策が政争の具にされている。
 しかしわが国ではこの日、新しい国民健康保険法が公布され、1961年(昭和36年)4月から、全国の市町村で国民健康保険事業が始まり、日本国籍の人はもちろんのこと、外国籍でも3か月以上日本に滞在する人であれば、健康保険に加入し医療機関による診療が“だれでも”“どこでも”“いつでも”受けられる“国民皆保険”体制が確立した。
 国の制度として社会保険制度を世界で初めて創設したのは、ビスマルク政権下のドイツ帝国で、1883年に疾病保険法を制定したのが最初とされている。わが国ではそれに遅れること40年、1922年(大正11年)4月健康保険法が公布されたが、施行されたのはその5年後の27年(昭和2年)1月で、その対象(被保険者)も工場の工員、鉱山の鉱夫など現場労働者で、かつ常時雇用され年収1200円(現在の貨幣価値で約200万円)以下の者となっており、被保険者は全人口の3%程度に止まっていたという。
 その後、38年(同13年)4月、国民健康保険法が公布、7月に施行され、農山漁村の住民や自営業者なども対象にすることになった。この制度の特徴は、市町村や職業を単位として任意に設立される保険組合が運営し、それに任意加入し被保険者になるという点で、制度が実施された翌39年(同14年)の調査では、被保険者は、まだ全国民の10%に達する程度だったという。
 しかし保険組合が健康保険を運営するというのは、わが国独特のものだが、この背景には、35年(同10年)12月、埼玉県越ヶ谷町において、町民みずからが初の医療相互扶助制度・越ヶ谷順正会を設立するなど、全国各地で住民みずからが同様な組織を設立していた実績があった。ちなみにこれらは国民健康保険法公布に際し、同法による保険組合として認可申請し認められている。
 国民健康保険法が公布施行された38年(同13年)には、健康・医療面で今ひとつの大きな動きがあった。それはこの年の1月の、軍部の強い提唱による、厚生省(現・厚生労働省)の内務省からの独立である。これら時の政府による一連の施策の背景には、前年の37年(同12年)7月の中国との全面戦争突入があり、

結核がまん延していた当時、この戦時体制を迎えて、国民特に若者たちの健康維持、体力の向上並びに国

民全体の体位の向上と生活の安定が、“建兵建民策”として、緊急かつ最重要課題の一つとなっていたのであった。
 国のこの目的は、翌39年(同14年)、国民健康保険制度上二つの画期的改正となって現れる。4月6日、船員保険法、職員健康保険法が制定公布され、また国民健康保険法も改正された。つまり二つの新法の制定で、まず対象者(被保険者)が、船員及び職員(ホワイトカラー)へと拡大され、ほぼ全労働者が保険受給可能となり、また国保法の改正により、任意ではあるが医療保険の家族給付が始まった。ちなみに同時に任意での結核性疾患の給付期間も延長されている。
 こうしたさまざまな手を国が打ち、関係各機関や団体が普及活動を行った結果、翌40年(同15年)の医療保険適用者(被保険者)は全人口の13.6%に上昇した。また41年(同16年)12月の太平洋戦争突入を迎え、2か月後の42年(同17年)2月、再び健康保険法が改正され、職員健康保険を統合、任意であった家族給付の法定化を行い、現在の形の保健医療制度の導入と診療報酬の統一化が図られ、都道府県知事には健康保険組合の強制設立指示権、強制加入指示権が与えられた。現在の強制加入制度の始まりである。これらの改正により、42年(同17年)には全町村の98%、全市の63%で国民健康保険制度が実施され、被保険者は2000万人を超えた。
 国の戦時体制維持のための施策が、国民の生活の安定及び健康維持の欲求とマッチしたのである。そしてこの日の新国民健康保険法公布の日を迎えることになる。
 (出典:国立国会図書館・日本法令索引・衆議院制定法律「国民健康保険法」、国民健康保険七十年史編集委員会編「国民健康保険七十年史>第1章 国民健康保険制度の創設と制度の再建 」、種村剛編著「福祉と公共政策 資料>健康保険法(戦前)」、厚生省編「厚生白書(平成3年版)>第1編・第2部・第1章・第1節 国民皆保険の30年と今後の展望>2 皆保険30年の歩み」。参照:2012年4月の周年災害「健康保険法公布、社会保険制度始まる」、2018年4月の周年災害「国民健康保険法公布、国民皆保険制へ第一歩」、2015年12月の周年災害「埼玉県越ヶ谷町で初の医療相互扶助組織・越ヶ谷順正会発足」、2018年1月の周年災害「厚生省、軍部の強い提唱で内務省から分離独立」、2015年12月の周年災害「結核死亡率、この年から人口10万人あたり200人を超え、以降19年間も続く」)

○大規模地震対策特別措置法施行-大地震に対する画期的な地震防災対策定まる(40年前)[改訂]
 1978年(昭和53年)12月14日
 この日、大規模地震対策特別措置法(略称・大震法)が制定された。
 この大震法では、特定の場所で起こるマグニチュード8クラスの大地震に対応した措置として、第1条で大規模な地震による災害から国民の生命、身体及び財産を保護するため、地震観測体制の整備など地震防災体制の整備に関する事項を定めるとし、第3条で大規模地震による災害が予測される地域を、地震防災対策強化地域として中央防災会議の諮問に基づき、内閣総理大臣が指定するとしている。
 第5条ではそれに基づき、中央防災会議が地震防災基本計画を策定・実施し、第6条で国や地方の指定行政機関、関係都道府県知事や関係市町村長(各防災会議)などは、地域地震防災強化計画を策定・実施することなどが決められている。
 この大震法制定の背景となったのは、2年前の1976年(昭和51年)8月に開かれた地震予知連絡会に、当時、東京大学理学部の助手だった石橋克彦(現・神戸大学名誉教授)が、“駿河湾を震源とするマグニチ 

ュード8クラスの大地震発生の恐れ(駿河湾地震説)”と題する論文を発表、それをマスメディアが“東海

地震説”と大きく報じたのがきっかけと言われている。
 この論文に対しもっとも早く反応したのは、大地震発生を予測された地元の静岡県で、論文発表わずか2か月後の76年10月、県消防防災課に地震対策班を発足させ、翌月には地震対策ワーキンググループを組織した。中央でも翌77年(同52年)4月、論文発表の舞台となった地震予知連絡会では東海地域判定会を設置、地震関係研究機関などでは裏付け的研究が盛んになった。
 これらの動きを背景に、国においても大地震防災に関する法的、体制的整備が進められ、この年、大震法を国会で審議、6月15日可決され公布された。またこれにより、翌78年10月、自治省(現・総務省)消防庁に震災対策指導室(現・応急対策室)が新設され、震災対策の企画、立案、推進、指導及び連絡調整事務に当たることになった。そして施行の翌79年(同54年)8月には、東海地震防災対策強化地域として静岡県を始め、神奈川、山梨、長野県など6県167市町村がはじめて指定され、気象庁に地震防災対策強化地域判定会が設置され、同地域で大規模地震が発生するおそれに関する判定が行われている。
 (出典:国立国会図書館・日本法令索引・衆議院制定法律「大規模地震対策措置法」、内閣府編「大規模地震対策措置法について」、石橋克彦著「東海地方に予想される大地震の再検討-駿河湾地震の可能性-」[追加]、予防時報2003年213号:川端信正著「東海・東南海・南海地震-震源域拡大と今後の展開-」、昭和史研究会編「昭和史事典>1978年 782頁:大規模地震対策法」、近代消防臨時増刊・日本の消防)1948~2003「年表 2.消防組織・制度・法令改正編>昭和53年(1978)224頁:6月15日→大規模地震特別措置法の制定」[追加]、同誌「同年表>同年、同頁 10月1日→自治省消防庁 震災対策指導室の新設」[追加]、総務省消防庁「消防庁の組織および所掌業務>応急対策室」[追加]、気象庁「審議会・判定会>地震防災対策強化地域判定会」[追加]。参照:2014年12月の周年災害の「昭和東南海地震、報道管制で隠された地震災害、残された断層破壊空白域存在が東海地震説生む」、2016年8月の周年災害〈下巻〉「東大理学部石橋助手、東海地震説発表-大規模地震対策特別措置法制定へ」[改訂]、2009年8月の周年災害「予測される巨大地震に対する地震防災対策強化地域、初の指定」)

○JR中央線東中野駅列車追突事故、直接の原因は信号無視、しかし背景は業務停止処分逃れか
 -新型ATS設置を前倒し(30年前)[再録]
 1988年(昭和63年)12月5日
 午前9時36分頃、東京都中野区のJR中央線東中野駅構内で、後続の千葉発中野行き下り電車が、時速約60kmの早さで、同駅に停車中の津田沼発中野行き下り電車に追突した。
 この事故で、先行電車の後2両と後続電車の前4両が脱線し、後続の先頭車両は先行電車の最後部に食い込んだ。追突した後続電車の運転士と乗客の合計2名が死亡、116人が負傷した。
 この少し前、先発の下り電車は約4分遅れで東中野駅に到着し、場内信号機は赤色になっていた。ところが、後続の下り電車は、場内信号機が赤色になっていた約500m手前でATS(自動列車停止装置)が作動し、運転席に警報が鳴ったが、死亡した運転士は確認ボタンを押してATSを解除、ブレーキ操作を手動に切り替えた。
 その後、運転士が先行電車を視認、黄色、赤色の場内信号機を確認し、マニュアル通り減速して赤信号の50m手前で停止していれば、事故は防げたはずだった。ところが減速せず追突してしまったのだ。
 直接の原因は後続運転士による信号無視だが、現場が下り勾配で左に急カーブしているため、停車している先行電車の発見が遅れ、ブレーキが間に合わなかったとの考察もある。また当時、運転士間では、電

車が遅れると、状況によっては業務停止処分が下されるので、遅れを取り戻そうと、ATSを解除しブレ

ーキ操作を手動に切り替えることが常態化していたとの指摘もあった。
 そこでJR東日本では、翌1989年(平成元年)12月、事故防止のため、列車の進入が許されない信号機の直前にセンサーを置き、そこを通過しようとすると、運転士の操作に関係なく強制的に非常ブレーキが掛かり、列車を停止させる新型のATSの前倒し導入を開始した。
 国鉄民営化最初の大事故として記録されている。
 (出典:災害情報センター+日外アソシエーツ編集部編「鉄道・航空機事故全史>第1章 大事故の系譜 CASE39 東中野駅に停車中の電車に後続電車追突」)

○十勝岳昭和63年噴火、国、道、町の一連の火山防災対策が成功し、住民の被災免れる(30年前)[再録]
 1988年(昭和63年)12月16日~89年(平成2年)3月5日
 当日早朝5時24分、十勝岳で26年ぶりに小さな噴火が発生した。
 3日後の19日午後9時48分頃、火砕サージを伴う本格的な噴火が発生、北海道美瑛町では、泥流危険区域にある同町白金、美沢両地区の住民など234人に避難準備を指示、ただちに職員を現地に派遣、午後11時50分には美瑛町十勝岳火山噴火災害対策本部を設置、1926年(大正15年)5月の教訓から、泥流への警戒のため監視と観測体制を強化した。
 24日、陸上自衛隊の応援のもと、上富良野町と共同でワイヤーセンサーによる泥流監視装置を、活動中の火口直下、深雪の中で作業を行い設置した。その直後の午後10時12分、本格的な噴火が起きる。爆発にともない火砕サージが発生して雪を溶かし、小規模ながら泥流が発生した。
 この噴火に際し、町では白金地区の住民、ホテル、旅館の宿泊客や従業員176人に避難命令を発し、待機中だった町のスクールバスや各ホテルのバスで、国立大雪青年の家へ収容した。
 翌25日、午前1時半ごろ爆発的な噴火が起き、再び火砕流が発生、岩塊が花火のように炸裂しながら、望岳台(ぼうがくだい)中腹の避難小屋にあと100mと迫った。この噴火の観測結果から、国の火山噴火予知連絡会では、十勝岳噴火の長期化を予測した。それを受けた町では、避難している白金地区住民と話し合いを行い、避難命令を当分の間、解除しないことを決めた。そのため住民たちは127日間に渡る避難生活を送ることになり、避難命令が解除されたのは5月1日であった。
 その間、噴火が続き翌年1月16日には、美沢地区の住民に避難準備を伝えたこともあったが、特に災害には至らず、3月5日の噴火終息を迎えることになる。
 この噴火で被害が出なかった背景として、まず1961年(昭和36年)11月の災害対策基本法の制定を受け、気象庁が翌62年(同37年)から全国の主な活火山を対象にした火山観測の基本整備計画を進め、同年6月、十勝岳が噴火したことを受け、北海道では最初に十勝岳で整備計画を実施することにし、64年(同39年)4月、白金温泉地区に十勝岳火山観測所を建設、連続監視をはじめたことがある。
 ついで、68年(同43年)になると、5月に起きた十勝沖地震に誘発され、十勝岳が火山活動を活発化させたが、北海道庁では、北海道防災会議地震対策部会に、火山対策専門委員をおき、5か年計画で事前防災対策の検討をはじめた。その最初に取り上げたのが十勝岳で、同岳を含む北海道5火山の防災対策など報告書を取りまとめた。これは都道府県段階で行った最初の報告書であった。
 十勝岳山麓地域では、美瑛町と上富良野町が、85年に起きたコロンビア・ネバデドルルイス火山の噴火の際、ハザードマップの予測通りに泥流が起きたことを教訓として汲み、86年から87年(同61年から62

年)にかけて、地域防災計画を見直し、ハザードマップを防災緊急避難図として全戸に配布したのである。  

これら国、道、町、各レベルでそれぞれに本格的な火山防災対策を実施したのが、被災を免れた成功教訓として記録されている。
 (出典:美瑛町編「十勝岳噴火の記録>昭和63年(1988年)~平成元年の噴火」、内閣府編・中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会報告書「1926十勝岳噴火>第4章1962年、1988-89年の噴火>第2節 1988-1989年十勝岳噴火までの26年間に何がなされたか」。参照:2011年11月の周年災害「初の総合防災対策法、災害対策基本法公布」)

○尼崎大気汚染公害訴訟提訴、全国初の汚染物質排出差し止め判決(30年前)[再録]
 1988年(昭和63年)12月26日
 江戸時代、尼崎は中国街道を要する城下町として、また商都大坂の近郊の商品農作物の産地として発展していた。
 その尼崎が、阪神工業地帯の中核を担うのは、1889年(明治22年)6月、尼崎紡績(現・ユニチカ)が、この地に工場を設立したのから始まると言われている。その後昭和に入り、浅野財閥の浅野総一郎が1929年(昭和4年)尼崎築港株式会社(現・アマチク)を設立し、同市臨港部を開発、火力発電所や鉄鋼産業などを中心とした重化学工業地帯として発展させた。特に電力消費量は全国の3割を占め“鉄のまち尼崎”と呼ばれた。
 45年(同20年)6月の空襲で受けた傷は、50年(同25年)6月に開戦した朝鮮戦争による特需(戦争特別需要)景気により息を吹き返し、やがて55年(同30年)から始まった高度経済成長の波に乗り、大きく発展した。しかし、60年代(同35年から44年)に工場の燃料が、石炭から石油に転換されると、従来からの工場用水の汲み上げによる地盤沈下に加え、工場の煙による大気汚染がひどくなり、ぜんそくや慢性気管支炎などの患者が多発してきた。また、70年代(同45年~54年)には、阪神高速道路などによる自動車排気ガスの大気汚染が加わった。
 1988年のこの年になると尼崎市では、自動車の排気ガスを中心とした二酸化窒素や浮遊粒子状物資の測定値は悪化、大気汚染はますますひどさを増した。
 そこでこの日、公害認定患者とその遺族が、国及び高速道路を運営する阪神高速道路公団(現・阪神高速道路株式会社)、電力、鉄鋼など企業9社を被告として、大気汚染物質の排出差し止めと損害賠償を求めて提訴に踏み切ったのである。
 その後、電力、鉄鋼などの被告企業とは、99年(平成11年)2月、解決金の支払いと今後の公害防止対策などを条件に和解が成立。国、高速道路公団に対する訴訟については、翌2000年(同12年)1月、神戸地裁が道路公害による健康被害を認め、全国で初めて汚染物質の排出差し止めの判決を下し、同年12月和解が成立している。
 (出典:尼崎市編「尼崎の歷史>近代の尼崎」、同編「同史>現代の尼崎」(独)環境再生保全機構編「記録で見る大気汚染と裁判>尼崎大気汚染公害訴訟」)

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気象災害(中世・江戸時代編)

気象災害(戦前・戦中編)

気象災害(戦後編)

広域汚染編

火災・戦災・爆発事故(中世編)

火災・戦災・爆発事故(江戸時代編)

火災・戦災・爆発事故(戦前・戦中編)

火災・戦災・爆発事故(戦後編)

感染症流行・飲食中毒・防疫・災害時医療編

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災異改元編 

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(2020.7.5.更新)

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