○読者の皆様へ

「周年災害」は2005年1月から掲載を開始しましたので、2014年12月でちょうど10年となりました。しかし災害は終わってはいません。そこで次の10年をめざして2015年1月から連載を続けております。

また、大災害や防災施策などお伝えしなければならない事項が書き残されておりますので、現在“追補版”としてご提供しております。

その際、記事化される事項は、災害により季節ごとの特徴がありますので、従来通り掲載月と同じものを選び、基本的には発生の古い災害等の順に補足記事化しておりますのでご了承下さい。

16年4月以降の当追補版は毎年(2)(3)……となり、原則として災害等の発生の年が年々新しくなります(4)が、中には新しい情報に基づいて、時代をさかのぼり追補する記事があると思いますのでご了承下さい。また当追補版に掲載された記事は、16年4月以降の該当月の記事中に吸収されますのであわせご了承下さい。

【1月の周年災害・追補版(4)-1500~1700年代・江戸時代 -】

・天正地震。帰雲(かえりぐも)城埋没、各地の城、城下の家屋倒壊・焼失、木曽川の河道にも変化が、

琵琶湖湖畔北東部、長浜城下の西浜、下坂浜千軒も水没[改訂]

・幕府、柴田康長を史上初、首都政庁の火之番組頭に任命、

家康征夷大将軍となり首都政治の拠点江戸城大改築指示を背景に[改訂]     

・江戸城大奥男子禁制となり、奥女中による御火之番組編成される

-家光治世時、大奥の失火で本丸殿舎焼け、奥火之番組編成され、防火体制強化

・江戸町奉行、家持町人に自身番所設置を命じる。後の町火消制度の原動力に

4年半ほど前に家持町人に最初の自身番役すでに指示か[改訂]                            

・江戸町奉行、湯屋、風呂屋で湯を沸かす時間を午後6時までと制限、

8年後茶屋、煮売りの営業時間も制限-とろが逆にそば、うどんなど夜の新規煮売行商現れる[改訂]                    

・江戸正徳6年、2か月間に15日、火元20個所の連続火災

-吉宗の享保の改革で、江戸の防火対策を中心に据える背景となった火災[改訂]                                                          

・幕府、江戸市内武家屋敷の瓦葺き化に資金を貸与、しかし大名屋敷さえも実施難航

-155年経った明治時代でも東京の中心街の7割が板ぶき屋根

○天正地震。帰雲(かえりぐも)城埋没、各地の城、城下の家屋倒壊・焼失、木曽川の河道にも変化が、

琵琶湖湖畔北東部、長浜城下の西浜、下坂浜千軒も水没(430年前)[改訂]
 1586年1月18日(天正13年11月29日)
 岐阜県白川村の御母衣(みほろ)ダムと、合掌造で有名な白川郷との中間の庄川沿いにある白川村保木脇、帰雲山の山麓にあった帰雲城では、豊臣秀吉の佐々成政に対する越中攻めに抗して、成政と同盟し戦った城主内ヶ嶋氏理が、秀吉方の金森長近との講和が成り、無事に帰城したとあって沸き返っていた。

それを祝う領民も参加する祝賀能の催しが、11月30日(新暦・1月19日)に催されることになり、氏理

の娘婿で藤原定家の血を引く和歌の名家・東家の当主常尭や支城の城主・川尻氏信をはじめ一族・家臣も

城内にうち揃い、隣国越前から猿楽芸人も到着して、翌日の祝賀の日を楽しみに寝についていた。

ところが深夜、大地震が突然起きた。背後の帰雲山の山腹が一気に崩れ落ち、大量の岩屑と土砂が前山と庄川を乗り越えて押し寄せ、城下白川谷の人家300余戸と共に帰雲城は倒壊・埋没し、城主内ヶ嶋氏理以下1500余人(宇佐美)が犠牲になったという“帰雲之峰二つに割、前之高山並大川(庄川)打越、内ヶ島打埋申候、人一人も不残、内ヶ島の家断絶(飛騨鑑)”。

大地震前、富山に商売物を納めに出掛け、戻ってきた4人の商人たちは、地形も変わり、自分たちが暮らしていた場所がどこかもわからず、涙ながらに富山に戻ったと伝えられている(古事類苑)。しかし、いまだに城も町の遺構も発見されず、記録に残っているだけで謎に包まれており、埋蔵金伝説は活きている。
 この時の地震は、深夜亥の下刻(午後11時ごろ)に起きたマグニチュード8クラスという巨大地震で,震源を伊勢湾北部(飯田)とする説と美濃国中央部(宇佐美)とする説があるが、内陸(陸域)地震であるという点では一致している。岐阜県から愛知、三重県へと延びる御母衣(みほろ)断層のほか阿寺、養老、桑名、四日市各断層が同時に動いたとされ(宇佐美)“天正地震”と呼ばれている。

主な被害はこのほかに帰雲城より北部の越中(富山県)では、前田利家が佐々成政との戦いで勝利し、ようやく手に入れた礪波(となみ)郡木舟城(砺波市)で起きている。この城も9mほど陥没し崩壊、利家の愛弟で城主の秀継夫妻を喪うとともに城中の大半の家臣も喪った。城下の寺院や街並みも崩潰、その後いったん修復したが、秀継の子・利秀は今石動(いまいするぎ)城(小矢部市城山町)に移り廃城となり、城下の住民たちも移住して石動に城下町を形成、町名に木舟城下の町名を名付けている。なお、高岡市に木舟町という地区があるが、これは木舟城下から移り住んだ人たちが名付けたという。

帰雲城よりはるか南の美濃(岐阜県)では,大垣城が崩壊して火災が起き、城中残らず焼失、城下町での倒壊家屋が多数あった。一向一揆が籠城したことで有名な伊勢(三重県)長島城(桑名市)は、当時、織田信雄(のぶかつ)が居城としていたが、城の本丸、多聞櫓など矢倉や石垣が倒壊し、城が木曽川河口の中州に築かれていたので津波によるものか、城下の民家が多数、涌(湧)没したという。そのほか木曽川下流域では多数の中州島が没し、伊勢湾では大湊(現・伊勢市)と桑名で3mの津波を記録、津島では1~2mの波高の津波だったが多数の溺死者を出し、田畑は冠水して泥土と化して長く荒れ地のままだったという。

木曽川自体、天正地震の半年後の6月24日(新・8月9日)の大洪水で河道が変わり現在の流路となったが、この原因は直前に発生した天正地震で地盤沈下や断層が現れて地形が変わり、河道に変化を起こしたことによるという。木曽川は史上、数多く大洪水をくり返しているが、河道が変化したと記録があるのは、ほかに神護景雲3年8月(769年9月)の大洪水による事例しか見当たらないという(飯田)。

琵琶湖湖畔では、近江長浜に1000戸を数える城下町があったが,大地震により湖畔の城は倒潰し城下では“大地が割れ、家屋の半ばと多数の人々が呑み込まれてしまい、残りの半分の家屋は、同じ瞬間に炎上し灰燼に帰した(フロイス・日本史)”とあり、城主山内一豊は愛娘とともに、実姉の娘婿である家老・乾彦作夫婦をはじめ数十人の家臣を喪っている。

また長浜城を挟んで北の湖畔にあり栄えていた湊町、西浜千軒と南にあった下坂浜千軒は、大規模な液状化による地すべりにより水没し姿を消したという。これに関する史料として、ルイス・フロイスは「日本史」の第60章の5節で“畿内地方に生じた異常な地震について”とする天正地震に関する記録の中で、前記の長浜城下の記録ともに、この日起きた津波について次のように記述している。

“長浜と称する別の大きい町があった。そこには多数の人々が出入りし、盛んに商売が行われていた。人々の大いなる恐怖と驚愕のうちにその地が数日間揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が、遠くから恐るべき唸りを発しながら猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに破壊してしまった。高潮が引き返す時には、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、その地は塩水の泡だらけとなって、いっさいのものが海に投げ込まれてしまった。”という迫真的な記述だが、フロイス自身が津波を目撃したわけではないので謎の記録とされてきたが、この記述の最初に“若狭の国には海に沿って”とあり、長浜は若狭の高浜の誤りであろうと解釈されていた。

ところが2011年(平成23年)3月に起きた東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)において、東京電力福島第一原子力発電所が津波に襲われ、重大な放射能汚染事故を起こしたことにより、関西電力が以前から指摘されていた若狭湾の地震津波の危険性に反論すべく、天正地震についてのフロイスの「日本史」における前述の記録を取り上げ、若狭湾三方五湖堆積物の実地調査を行った上で津波の痕跡がないことを立証し、フロイスの言う長浜は、若狭の高浜ではなく近江の長浜で、町の壊滅とは西浜や下坂浜千軒の水没を指すものと論を張った。とんだところで裏付けが出てきたものである。

この傍証として、山内公爵家が編さんした「一豊公記」に引用されているドイツ人医師ケンペルの「日本誌」の中に“長浜と殆ど近接して時々多数の商売の群衆せる事ある湖畔のフカタに於いて数日間激烈なる振動を極めたる後、終に土地悉く海水のために吸入されたり”という記録があり、フカタという町がどこを指しているか不明だが、西浜や下坂浜千軒を指しているものと考えられた。

これに関連して1998~2011年にかけて行われた、長浜市内関係地域における伝承や水中考古学調査によって、相撲村(すまいむら:長浜市相撲町)と祇園中村(同祇園町)の近隣に今はない西浜村があったこと、祇園町沖合約150m一帯の1.2~1.5mの湖底から西坂浜千軒と見られる遺構、遺物が発見されたこと。同市下坂浜町沖合約100~130mの湖底に集落の遺構と見られる多数の杭が発見されたこと。両遺跡の湖底で、地すべり特有の地形が広範囲に見られたことなどから、大地震により湖底に水没した大集落がそれぞれにあったことが立証された。

天正地震による全体の被害は、8000~9000人死亡、家屋・寺社などの倒壊9500~1万5000棟と推定されているが(飯田)、琵琶湖湖畔の西浜千軒や下坂浜千軒の被害については、古来から千軒ほどもある大きな町という伝承のみで、実際の規模や人口などはわかっていないので、それらが明確になれば被害値はまだ増えているだろう。

 (出典:宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧>4 被害地震各論 54~55頁:078 畿内・東海・東山・北陸諸道」、池田正一郎著「日本災変通志>中世 戦国時代 324~325頁:天正十三年」、岐阜県編「くらし・防災・環境>防災>自然災害等>災害資料・天正地震」、寒川旭著「秀吉を襲った大地震 15~47頁:第一章 天正地震と武将たち」、羽鳥徳太郎著「1586年天正地震の震源域と津波」[追加]、飯田汲事著「天正14年の洪水による木曽川河道の変遷と天正地震の影響について」[追加]、関西電力(株)編「正地震に関する津波堆積物調査の結果について 17頁~19頁:4 天正地震に関する文献調査結果」[追加]、ルイス・フロイス著「日本史 5>第60章>5 畿内地方で生じた異常な地震について」[追加]、長浜城歴史博物館+滋賀県立大学琵琶湖水中考古学研究会編「西浜千軒が語る水没村の世界-天正地震と長浜-」[追加]、林博通+釜井俊孝+原口強著「地震で沈んだ湖底の村/琵琶湖湖底遺跡を科学する>第4章 下坂浜千軒遺跡の調査>1 水没村伝承と考古学学的調査、4 まとめ」[追加]。参照:12月の周年災害・追補版(4)「正中2年近江北部地震、尚江(なおえ)千軒の大半が地すべりで水没、水没したのは“神立集落”か」)

○幕府、柴田康長を史上初、首都政庁の火之番組頭に任命、

家康征夷大将軍となり首都政治の拠点江戸城大改築指示を背景に[改訂]

1605年1月(慶長9年12月)
 “慶長九年十二月、柴田七九郎康長が組頭となりしは、火番の制、寛永年間に於て始て奥、表を区つ(わ

かつ)が故に、是(この)職其全般を総管せしなるべし”。
 これは、江戸幕府の職制について研究をした松平太郎の著作「江戸時代制度の研究」の一節だが、その中で“寛永年間に於いて始て奥、表を区つ”というのは、1639年9月(寛永16年8月)大奥台所からの失火で本丸殿舎が全焼、その再建に当たり火元となった大奥の防火管理体制強化のため、2か月後の同年11月(旧・同年10月)“火之番之内、奥方火之番ニ九人被仰付之旨(寛永日記)”のことを指し、それ以前の江戸城の火之番は一つであったことがわかる。

1590年8月(天正18年8月)徳川家康が豊臣秀吉の命を受け江戸城に入城(江戸入府)、ついで1600年10月(慶長5年9月)の関ヶ原の戦いで勝利し、家康が天下の実権を把握した後の江戸城は、実質的に首都の中心として、現代で言えば、国会議事堂や首相官邸など主要官庁が建ち並ぶ千代田区永田町界隈と同じで、防火体制の強化が最重要な地域となっていた。

03年3月(同8年2月)家康は念願の征夷大将軍に任じられると、まず翌4月(旧暦・3月)首都にふさわしい城下町の建設を諸大名に命じ、翌04年6月(同9年6月)には、将軍が居住し臣下が政治を実行する中枢拠点としての江戸城の大改築を諸大名に命じている。まためでたくも同年8月(旧・7月)には、将軍の三代目世嗣(よつぎ)として竹千代と名付けた家光も誕生した。

江戸城の大改築プロジェクトを迎えるにあたり、警備、特に防火体制を強化する必要が生じてくる。12月(新暦・翌年1月)の火災シーズンを迎えて、この月、組頭を頂く“火之番組”が誕生したのは、そのような経緯があったからであろう。

江戸時代に限らず現在の東京でも同じだが、冬になると北西の季節風が吹き、火事の季節がやってくる。ご存じ“火事と喧嘩は江戸の華”である。

江戸以前の首都、大坂も京都も鎌倉でも、代々の政庁には個々の部署で火之用心に気をつけさせても、“火之番”と呼ばれる防火に専念する職制は存在しなかったようだ。気候風土の違いがあるとしても、戦国時代をくぐり抜け、火事の恐ろしさを熟知している徳川家の用心深さがそこにうかがえる。 

この火之番の勤務は、全体が3組に分かれ、それぞれの組が交代して暮れ6つ時(午後6時)から翌朝の暁7つ時半(午前5時)までの当直勤務を行い、城内を巡回して火の元を警戒した。この時火之番は、無紋の箱提灯(大型の円筒形提灯)を持ち、かみしもを着け刀を帯びて巡回した。その際“火の番○○”と名乗り“火の元念入れよ”と触れ歩いたという。なお城内の宿直者が帰宅の時は火之番に通告、火之番はそれを受け、宿直室を検分し封鎖した。また城内において新しく煮炊きの設備をするときや火を使う時は、必ず火之番に届けたという。

(出典:松平太郎著「江戸時代制度の研究>第13章 宗門鉄砲改と目付所属の官制>第4節 自余の職制>1.表火番と桃燈(ちょうちん)奉行 810~811頁」、東京都編「東京市史稿>No.2>皇城篇 第1・353頁:慶長11年ノ江戸城増築」。参照:11月の周年災害・追補版(2)「幕府、―本丸殿舎全焼を受け、奥方火之番を任命し表火之番と分ける」)

○江戸城大奥男子禁制となり、奥女中による御火之番組編成される

-家光治世時、大奥の失火で本丸殿舎焼け、奥火之番組編成され、防火体制強化

1618年1月27日(元和4年1月1日)

この日江戸城では、「五か条の壁書」と呼ばれた大奥に対する禁令が出された。その第二条に“御つほね(局)よりおく(奥)へ男出入有へ(ベ)からさ(ざ)る事)”とあり、将軍夫人やその子たち奥女中などが居住する大奥へ、将軍以外の男性は出入り禁止となった。

1590年8月(天正18年8月)、徳川家康が入府した当時の江戸城本丸の殿舎は、茅葺きの屋根に簀掻床(すがきゆか:細い木板を寄せ集めた床)という粗末なもので、1606年4月(慶長11年3月)起工した江戸城大改築の際に本丸殿舎も新築され、同年10月(旧暦・9月)二代将軍秀忠が入居したが、それでも10棟程度の小規模なものだったという。

その当時、重臣が詰める政務の間(表)と、将軍家族が暮らす奥とは一応の区別はあったが、その境はさほど厳重なものではなく、奥の女中年寄役の人たちなどは用向きがある時は表に出て、若年寄と打ち合わせをしていたという。秀忠夫人は戦国の世をくぐり抜けてきた浅井長政三女の江(ごう:織田信長のめい)である、戦国時代のならいで重要な政務の場には夫とともに参画していたのかもしれない。

当然、柴田康長以降の火之番組も、奥の台所はもちろんのこと、部屋の中までは遠慮したかもしれないが庭先を巡回し、火之用心を呼びかけていた。

ところが、“男性立入禁止”である。この時点で、奥女中たちによる大奥専任の火之番、御火之番組が必要になってきたのであろう。これらの禁令には、当時、大奥惣取締役で世嗣家光の乳母・春日局(明智光秀の重臣、斎藤利三の息女・福)の考えが入っていたものと思われる。

新設された“(御)火之番”は、昼夜を通して各局(個室)や女中部屋を巡回し火の元の注意をして廻った。立場的には御目見得以下で、雑用掛の女中職“御末(おすえ)”の直ぐ上の程度だが、希望者には遊芸の稽古が許されたという。これが御暇(おいとま:退職)を認められた後、嫁入りの時の箔付けや生活の糧になっていたようだ。

20年5月(元和6年4月)本丸の修築工事が開始され、22年3月(同8年2月)からは本丸殿舎と天守台の工事が始まり、同年12月(旧暦・11月)殿舎が完成し秀忠はふたたび新居に移ったが、この時、その規模は広くなり大奥は別棟となって、将軍が暮らす中奥、政務の間の表とに区切られたようだが、詳細はわからない。

次いで江戸幕府は三代家光の治世となり、本丸殿舎が37年10月(寛永14年8月)みたび新築されたが、室内装飾が“あまりにも華美である取り外せ”と叱責されたほど壮大なものであった。ところが僅か2年経った39年9月(寛永16年8月)、天守閣を残して本丸殿舎が大奥台所の火の不始末により焼失してしまった。

幕府は火災の翌10月(旧暦・9月)から再建に取りかかったが、まず11月(旧暦・10月)になると城内の警備強化とともに、29年11月(寛永6年10月)以来、市中の見廻りを続けている将軍の親衛隊小姓組など番衆の中から担当地域を決めて、江戸城内郭を巡回する“夜廻之衆”を臨時に編成、市街地を警戒させた。

またそれまで城内の防火体制が“火之番組”一本から、留守居が支配し譜代の御家人29人が交代して、火元となった大奥の外郭を中心に防火を担当する“奥(方)火之番組”と、目付が支配しこれも譜代御家人30人が10人ずつ3組交代で、表御殿、将軍公舎の中奥及びそのほか城内の防火を担当する“表火之番組”の二組体制となった。

(出典:日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1618(元和4) 488頁:大奥へ法度くだる、男子禁制、夕刻六つが門限」、法制史学会編「徳川禁令考 第3 武家・幕府>徳川禁令考 巻21 法制禁令の部>第25章 奥長官昵近諸士并後房女部定則>1244 壁書」、東京都編「東京市史稿>No.2>皇城篇 第1>城池修築の状況 332頁」、大石学編「江戸幕府大事典>第3部 江戸城編 476~478頁:大奥」、同編「同事典>第2部 職制編 363~364頁:火之番」、竹内誠+深井雅海+松尾美恵子編「徳川大奥事典>第1章 大奥の制度>法令の制定 3~4頁:元和の壁紙・御台所法度」、細川潤次郞ほか編「古事類苑 第12巻:官位部3>官位部63>徳川氏職員12>女中職 812頁:御火之番」、東京都編「東京市史稿>No.2>皇城篇 第1>将軍家代替>慶長十一年の江戸城増築 355~357頁:起工、将軍移徒」、同編「同>皇城篇 第1>神田台の城濠疏鑿 767~768頁:元和八年の江戸城修築」、日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1637(寛永14) 520頁:華美に過ぎる取り壊せ!将軍家光、再建あった本丸に苦言」、東京都編「東京市史稿>No.2>皇城篇 第1>本丸殿舎及天守台改造 1070頁:11.移徒式」。参照:11月の周年災害・追補版(2)「幕府、本丸殿舎全焼を受け、奥方火之番を任命し表火之番と分ける」)

○江戸町奉行、家持町人に自身番所設置を命じる、後の町火消制度の原動力に。

4年半ほど前に家持町人に最初の自身番役すでに指示か[改訂]                            

1652年1月11日(慶安4年12月1日)

江戸の町で防災や治安を担い現在の交番につながる施設に、武家屋敷地での“辻番所”町人居住地での“自身番所”があり、それぞれ番人が詰めていた。 

辻番所は1629年4月(寛永6年3月)“府内街巷路人ヲ刃傷スル者多シ。乃チ命シテ辻番所を設ケテ之ヲ取締ラシメ”と、戦国時代が終わり、江戸市中特に大名屋敷街などに横行した、盗賊化した浪人や無頼の御家人たちによる辻斬りを防ぐため、幕府が命じて、武家屋敷街小路の辻(四つ角)に番所(辻番所)を設けさせ、辻に沿った屋敷の家来たちに警備(辻番)させたもの。

一方、自身番所は町人自身に防火活動と治安維持を担わせようと、町奉行がこの日出した消防活動に関する五か条のお触れの第一条で“町中家持自身番可仕事”として各町内に設置させたもので、土地家屋を持ち住んでいる、幕府が本来認めた町人(家持町人)たちに、自身ですべき仕事(自身番)として番所に勤務させようとした。ところが後になると、番人を家持町人の持ち家を借家している者が勤めたり、さらに月1両ほどの安い賃金で他人を雇い維持するようになった。

実は自身番所が設置される以前、4年半ほど前の48年6月(慶安元年4月)、時の三代将軍家光の日光東照宮参詣に際し、町奉行が町人たちに町の防火・警備について出したお触れの中に“御城近辺ニ火事候ハヽ”と江戸城周辺で火事が起きた時、“其町之者火消人足支度仕置”と火元周辺の町々に消火にあたる者たちを用意させ、“月行事自身罷出”“町々番所ニ附置可申事”その月の町行政の事務当番にあたっている家持町人を町の番所に詰めさせ、防火の指揮に当たらせようとした事例がある。

これはあくまでも江戸城周辺で火事が起きた時という、変事の際の臨時の処置で常時の対応を求めたものではなく、ここでいう“町々番所”とは、辻番所が設置されたほぼ同時期に設置され各町内にあった木戸番所(小屋)を使用させたものであろう。その点で、専用の番所はないが町奉行が町人たちに命じた自身番(当番)の最初と言える。

この日常置が命じられた自身番の主な仕事は防火だが、このお触れでは続けて、水を入れた手桶やはしごを家ごとに設置すること。名主や月行事当番の町人は、町の者たちへ油断なく火の用心を申しわたすこと。大風が吹いているときは、自身番当番の者と月行事がともに昼夜とも番所に詰めていること。火事が起きたときは火元を確かめ、町内の五人組(地主・家持町人で組織された互助組織)はもとより、町中の者たちが欠けることなく集まり、気持ちを入れて消火にあたること。などを命じている。

自身番屋はよく町の木戸ぎわに木戸番小屋と対に建てられていたが、町奉行所の町方見廻役人や目明か

しなどが番屋に立ち寄った際、町の様子を報告したり、捕まえた不審な者を引き渡していたという。また月番の家持町人が詰めたことなどから、町の行政事務の処理や寄合いにも使われ、屋根に梯子を立て半鐘を吊しただけの簡潔な“枠火の見”と呼ばれた火の見梯子が設けられ、屋内には火消道具を揃え、半鐘の合図とともに消火にあたる者たちや後になると町火消が駆け付け勢揃いして火災現場に出動した。

この自身番屋の維持費や番人を雇った場合の給金は、すべて町内の地主が間口の広さに応じて負担した“町入用”の経費で支払われていた。番屋内に用意している火消道具などもこの町入用で購入されていたので、自身番制度は町奉行の命によりつくられたとはいえ、その内容は町人による町人のための自衛の防火・治安制度で、この積み重ねが後の“町火消”を生んだ原動力となったと言っても差し支えないだろう。

ちなみに、この日の2日前の1月9日(旧・11月28日)、町奉行から家持町人に対する防火に関する指示があった。それは“棚(店)借、借家之者、手あやまちにて火事出かし候ハヽ、家持は一倍可為曲事”というもので、家持町人から店や家を借りている者が誤って失火した場合、人一倍の責任が家持にあるとし充分に注意するよう命じている。

(出典:東京都編「東京市史稿>NO.4>市街篇 第4・680~687頁:辻番設置」、近世史料研究会編「江戸町触集成>慶安四辛卯年 22~23頁:66 定、67 定」、東京都編「東京市史稿>NO.4>市街篇 第6>留守警備及市人心得 453~454頁」、白井和雄著「江戸時代の消防事情⑨>○辻番・木戸番・自身番>3 自身番」[追加]、黒木喬著「江戸の火事>第4 章 江戸の防火対策 123~131頁:1 自身番と木戸番」。参照:2009年5月の周年災害「幕府、江戸に辻番所を設置」、2018年6月の周年災害「将軍日光社参に際し、町人たちに町の防火・警備について初のお触れ」、5月の周年災害・追補版(4)「幕府、町木戸設置させ辻番と後の自身番と共に治安強化はかる」)

○江戸町奉行、湯屋、風呂屋で湯を沸かす時間を午後6時までと制限、

8年後茶屋、煮売りの営業時間も制限-とろが逆にそば、うどんなど夜間新規煮売行商現れる[改訂]
1654年1月9日(承応2年11月21日)
この日江戸町奉行は、家風呂がほとんど無く肉体労働者の多い江戸っ子が大いに利用していた“湯屋”と“風呂屋”に対して、暮れ六つ時(午後6時ごろ)以降の夜間に“湯風呂焼(湯沸かし)”をすることを禁じた。もちろん防火対策である。当時、江戸の人口増加に伴い湯屋や風呂屋が次々と普及していたが、火事も多発していたようだ。 

また8年後の1661年11月(寛文元年10月)には、同じ防火対策のひとつとして、町中の茶屋(茶店)や煮売り(お惣菜屋、簡単な食事や酒も出した)の営業も、同じ暮れ六つ時以降の夜間に行うことが禁じられた。しかし台所にごく簡単なかまど(現代のレンジ)しかない江戸っ子庶民にとって外食は必要だった。

特に菜種油が安く手に入るようになり、行灯(あんどん)などの夜間の灯りが普及してくると、手仕事なども可能になり、一日に使う時間が増え、夜になると腹が空いてくる。それまで1日、朝と夕方の2食だった生活が、昼も含めた3食になった。その上、暮れ六つ時の日没前の“夕食”が、1時間ほど遅くなって暮れ六つ時後の“晩飯”になり、この食欲が煮売業者の夜間営業を蘇らせ、時代が進んだ1667年(貞享3年)以降になると、何回も同じ主旨の禁止の御触れが出ることになるが、逆にうどん、そばなど夜間の新しい煮売行商が現れ、次々と増えていった。

一方、湯屋の場合は、湯沸かしを止めた残り湯でよければ入浴は禁止されていなかったので、夜間の営業は続けられていた上、大岡忠相(ただすけ)が町奉行であった享保時代(1716~36年)になると、逆に翌朝まで湯屋の湯は落とすなと命じられている。これは湯屋の近所などで出火した際、この大量の留め置きの湯水を消火に使用できて重宝だったからという。
 ところでここに出てくる“湯屋”とは、湯に入る方式の現在の公衆浴場(洗湯:銭湯)と同じもので、“風呂屋”とは蒸し風呂屋の略称で、蒸気浴を行うサウナスタイルのものを指し、中世からあったがともに湯を沸かすのに大量の火を使用し夜間は危険とされたのである。 

江戸の風呂屋は、徳川家康が江戸に入府し、江戸城の建設をはじめた翌1591年(天正19年)の夏ごろ、伊勢与一という者が同城の内濠にかかる銭瓶橋の近く(現・大手町二丁目)で営業を始め、当時、江戸城や江戸の街々を建設するのに全国から集まった労働者たちの汗を流すのに重宝され、その後急速に江戸中に広まり、その風呂屋から慶長年間(1596~1614年)になると、浴槽の湯に入る方式の湯屋が生まれたという。
 (出典:東京都編「東京市史稿>NO.4>市街篇 第6・988頁:附記 湯屋時刻制限」、黒木喬著「江戸の火事>第4章 江戸の防火対策>3 警火令と住民 137~138頁」、東京都編「東京市史稿>産業編 第3・313~318頁:銭湯風呂濫觴」、村岡祥次著「日本食文化の醤油を知る>江戸時代の外食と醤油文化>江戸の外食文化 資料>江戸庶民の食事処(1)」[追加]、同著「同書>江戸時代の外食と醤油文化>江戸時代の食事情/長屋に住む庶民の食事」[追加]、近代消防04年9月号・白井和雄著「江戸の歴史・風俗㉝―江戸消防雑学>江戸の湯屋」[追加]、千代田区編「東京都千代田区の歴史>銭瓶橋跡」。参照:11月の周年災害追補版(3)「江戸町奉行、町中の茶店、煮売りの午後6時以降の営業を禁じる」)

○江戸正徳6年、2か月間に15日、火元20個所の連続火災、

-吉宗の享保の改革で、江戸の防火対策を中心に据える背景となった火災 [改訂]
 1716年1月25日~3月22日(正徳6年1月1日~2月22日)
 江戸では火災シーズンに入ると、あちらこちらで火事が起こり、“火事と喧嘩は江戸の華”とうたわれたくらいで、江戸の街を管轄する町奉行所では、それまでも数々の防火対策を立てて来た。
 ところが数々の連続火災が江戸の空を彩っている。たとえば“享保6年春の連続火災(1721年2月8日~3月31日:享保6年1月8日~3月4日)”の6回連続。10年後の“享保16年の一日三度の連続火災(1731年5月20日:享保16年4月15日)”。次の翌“享保17年1日連続六番出火(1732年4月22日:享保17年3月28日)”と、1日に何回も連続して出火した事例をご紹介しているが、いずれも町奉行大岡忠相が肝いりで強化した“町火消”が活躍し始め、町家の防火構造化などを命じるなど、防火対策を尽くした享保年間であることは、ますます防火政策を推進させて行くきっかけになっている。
 今回の連続火災も、それらに劣らぬどころかそれ以上の規模のもので、6月22日(新暦・8月9日)に享保と改元した正徳6年に起きた、2か月間に15日、火元20個所の連続火災で、八代将軍吉宗が同年5月1日(新暦6月20日)に就任する直前の災禍であり、吉宗が享保の改革政策の中心に江戸の防火対策を取り上げるきっかけとなった大火災である。
 まずこの年の火事はなんと正月元日(新暦1月25日)から始まる。大みそかの除夜の鐘を聞き、ようやく寝静まった真夜中の丑の刻(午前2時ごろ)、城内呉服橋門内大名小路の下総(茨城県)古河藩本多忠良の上屋敷から出火、炎は北風にあおられ鍛冶橋周辺の大名屋敷をなめ、城外に出て京橋から木挽町、芝口門外まで焼失し翌2日未刻(新・26日、午後4時ごろ)鎮火した。

次いで9日後の10日(新・2月3日)、小石川、大塚、内藤新宿、赤坂で出火し、続いて翌11日夜酉下刻(新・4日午後7時ごろ)には、池ノ端の播磨(兵庫県)姫路藩榊原政邦屋敷の表門脇から出火して湯島天神を焼き、炎は進んで神田明神前から下谷へ、神田から日本橋へと広がる大火となり、折からの強い西風に乗って茅場町から八丁堀、霊厳島まで延焼し、翌12日卯刻(新・5日午前6時過ぎ)一旦鎮火した。ところが、巳刻(午前10時ごろ)になり、榊原屋敷の焼け残った小屋から再び出火、未刻(午後2時ごろ)までに同屋敷内を全焼させた。なおこの日は本郷二丁目からも出火して下谷の焼け跡まで延焼。翌13日(新・6日)も下谷、四谷門外、千住で火事があるなど江戸城の城北部が灰となっている。

その5日後の18日(新・11日)は、北風吹きすさぶ真夜中の丑刻(午前2時ごろ)、鉄砲州の越後(新潟県)村上藩松平輝貞の屋敷から出火、築地へ延焼し海岸で鎮火。さらに正午近くになり、隅田川沿いの浅草黒船町からも出火し、北西風にあおられた炎は本所、深川あたりに飛び火、回向院や諸大名の下屋敷を焼き、申刻(午後4時ごろ)木場あたりで海に突き当たり鎮火した。

火事はその後も続き、20日(新・13日)権田原、翌21日(新・14日)品川、23日(新・16日)の雪の夜には本郷追分で出火している。その6日後1月29日(新・2月22日)真夜中の子刻(午前0時ごろ)、神田柳原土手下の豊島町から出火、炎は強い北西風に乗って南は橋本町から横山町まで、西は岩井町、小伝馬町から大川端(隅田川岸)まで焼き、新大橋が残らず焼けたという。この火災で老中の下総(茨城県)土浦藩土屋正直、武蔵(埼玉県)川越藩秋元喬房の屋敷は正月以来2回目の被災となっている。また権勢を誇った上野(群馬県)高崎藩の側用人間部詮房の屋敷も炎の洗礼を脱がれなかった。 

月がかわって2月7日(新・2月29日)、12日目の火災は丑下刻(午前3時ごろ)、元旦と同じ本多忠良の今度は本郷六丁目にある下屋敷から出火したが、寅中刻(午前4時ごろ)には本郷五丁目あたりまで焼いて鎮火した。

13日目は、7日後の14日(新・3月7日)、巳刻(午前10時ごろ)日本橋通二丁目から出火、平松町、左内町の西側など24、5町ほどを残らず焼いて八丁堀の越後(新潟県)高田藩松平定達の上屋敷で焼け止まる。この日は日本橋鎌倉河岸でも火事があり、日本橋は焼け残ったが、焼けた橋板を踏み抜いて河に転落し泥まみれになった避難する人がいたという。翌15日(新・3月8日)の丑刻(午前2時ごろ)上さや町の湯屋か

ら出火したが、町火消2組が駆け付け消火している。

最後の15日目は2月22日(新・3月15日)、申下刻(午後5時ごろ)京橋五郎兵衛町の傘屋から出火、炎は京橋川を越えて酉上刻(午後6時ごろ)現在の銀座一丁目あたりで鎮火した。

約2か月間に15日、江戸の街が燃えた。四日に一回である、火元は20個所。1月11日(新・2月4日)の火災を除きさほどの大火ではないが、大名小路から江戸の街の中心部と江戸のほぼ全域にわたる被害の大きな連続火災であった。
 (出典:東京都編「東京市史稿>No.2>変災篇 第4・584頁~607頁:享保元年火災」、黒木喬著「江戸の火事>第1章 火災都市江戸>1 火災多発の実態 4 ~6頁」。参照:2011年3月の周年災害「江戸享保6年春の連続火災」、2011年5月の周年災害「江戸享保16年の一日三度の連続火災」、2012年4月の周年災害「江戸享保17年一日連続六番出火」、2018年11月の周年災害「江戸町奉行、町火消組合編成を命じる」、2010年5月の周年災害「江戸町奉行、土蔵造りや瓦屋根を許可」、2010年9月の周年災害「江戸町奉行、町火消を“いろは48組”に再編成」、7月の周年災害・追補版(1)「江戸町奉行、江戸中心地の町家の屋根や家屋の防火構造命じる」[改訂]、2013年9月の周年災害「幕府(江戸町奉行)、火の見やぐら設置規準定め建設を推進させる」)

○幕府、江戸市内武家屋敷の瓦葺き化に資金を貸与、しかし大名屋敷さえも実施難航

 -155年経った明治時代でも東京の中心街の7割が板ぶき屋根

1724年1月13日(享保8年12月18日)

時代劇を観ると、江戸の町々では立派な瓦葺きの屋根が建ち並んでいるが、あのような光景は、城内の大名小路か、豪商の大店が建ち並ぶ日本橋の一部くらいで、18世紀末半ばまでは、大名屋敷や幕府の役所さえも、ほとんどの屋根は板葺き屋根かその上に蛎殻(かきがら)や土を載せ、耐火制を持たしている程度であった。

この年から155年経った1879年(明治12年)12月26日、年末の買い物や集金などで賑わっていた日本橋の中心にある箔屋町(現・日本橋三丁目)より出火し、京橋から築地一帯をなめて佃島まで飛び火した焼損面積24万4972平方m、1万613戸が焼失したという明治期屈指の大火があった。

当時の消防本署(現・東京消防庁)がまとめた火災報告を見ると、焼失家屋の中に東京の中心街らしく、耐火制のある土蔵造、石造、レンガ造、家屋外側を銅板で覆った金属造、また白壁で塗り込めた塗屋造などが並ぶ中で、さすが瓦屋根の建物が2590戸(24%)とあるが、一番多いのが板葺き屋根の杮造(こけらづくり)の建物で7581戸(71%)と瓦屋根の約3倍、全体の7割強を占めていた。

江戸―東京を通じての中心街でもこの事例のとおり、150年余たっても市街地の瓦屋根化、耐火造化への道は進んでいなかった。

その理由の主なものが二つある。まず一つは高価な瓦屋根に葺き替えることは財政事情が許さない。つ

まり重たい瓦屋根にするためには、屋根を支える柱や棟木を太いものに取り替え強度を上げなければならず、瓦自体が高価な上に建物も改築しなければならない、ということにあった。その二つ目は、火事が起きた時、当時の消火活動は破壊消火だったので、家屋が簡単に取り壊せるよう、柱なども細く屋根も軽くしていた。なにせ“火事と喧嘩は江戸の華”である。

当時の家屋では、たとえ瓦屋根にして飛び火による延焼は防げても、隣の家まで迫った炎には耐火制がなかった。あるのは漆喰で塗り固めた土蔵だけで、その土蔵さえ炎の侵入を許すことさえあった。江戸っ子としては無理に瓦屋根にする必要性はなく、1720年5月(享保5年4月) 町奉行が瓦葺きを許可するに

あたり、町名主たちに3月(旧暦2月)と5月(旧・4月)に諮問した際、以上の理由を答申としている。とはいえ、幕府としては飛び火による延焼だけでも防いで、首都の江戸城や江戸の街を火事から守る義務があった。

1657年3月(明暦3年1月)の明暦の大火で、炎上する大家屋の屋根から落ちてくる瓦のため多くの死傷者を出したがため禁止されていた“瓦葺き”を、1720年5月(享保5年4月)に防火対策の目玉の一つとして解禁したが、上記の理由で瓦葺き化がなかなか進まなかった。そこでやむを得ず、町方には前年の23年7月(同8年6月)、屋根の土塗と外壁を土や漆喰による塗屋造や土蔵造などにすることを命じている。

その翌年の今回、資金を貸すから瓦葺きを!という政策になるのだが、その手はじめに対象にしたのが、この日の13日前の12月31日(旧暦12月5日)、赤城明神下牛込天神町の組屋敷から出火し、お堀端まで延焼した際、類焼した350戸の旗本、御家人の復興屋敷に対するもので、この日から資金が貸与された。ついで、3年後の27年5月(同12年3月)からは、城北、小石川筋、小日向筋の武士屋敷街を手はじめに、復興家屋以外にも資金を貸与しての瓦葺き化を進めている。なお、資金貸与による瓦葺き化が一段落とみた10年後の34年1月(同18年12月)には、幕府は自らの役所を瓦葺きとした。

一方、町方に対しては、その間の27年4月(同12年2月)、公役銀(税金)を免除するからと土蔵造を命じ、37年6月(元文2年5月)には、瓦葺きと塗屋に対し公役銀免除の申し渡しをするほど、この耐火政策は進捗していなかった。

また諸大名の屋敷はどうかというと、これもほとんど進んでおらず、業を煮やした幕府は、40年6月(同5年5月)、32諸侯に対して、蛎殻葺きの各屋敷の屋根を瓦葺きにするよう命じている。命じられた諸侯の名前を見ると、松平(山内)土佐守、松平(池田)相模守、細川越中守、上杉民部大輔、松平(蜂須賀)阿波守、松平(鍋島)丹後守、酒井雅楽頭(うたのかみ)などそうそうたる諸侯がいる。外様大名が多いが、当時はほとんどの大名家の財政が危機的状況にあったので、安い蛎殻葺きのままにしておいたのかも知れない。

(出典:山本純美著「江戸の火事と火消>江戸の町づくりと防火対策>茅葺きか瓦葺きか141~143頁」、日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1720(享保5) 650頁:町名主の反対をおして土蔵造り・瓦屋根を奨励、防災建築のすすめ」、東京都編「東京市史稿>変災編 第5>明治十二年火災>十四、十二月廿六日大火」、同編「東京市史稿>No.4>市街篇 第19・897~903頁:土蔵造塗屋瓦屋根許可」、同編「同>No.4>市街篇 第20・814 ~816頁:屋上土塗令」、同編「同>変災篇 第4>享保八年火災 741 頁:4,十二月五日火災」、同編「市街篇>No.4>市街篇 第20・893~895頁:城下士家屋瓦葺」、同編「同>No.4>市街篇 第21・831~833頁:小石川小日向辺瓦葺」、同編「同>No.4>市街篇 第23・103~104頁:庁舎其他瓦葺」、同編「同>No.4>市街篇 第21・821 ~824頁:麹町久保町刻土蔵造」、同編「同>No.4>市街篇 第23・604頁:[附記一]瓦葺塗家」、同編「同>No.4>市街篇 第24・49頁~51頁:(諸侯屋敷)瓦葺」。参照:2017年3月の周年災害〈上巻〉「1657明暦江戸大火:振袖火事」、2010年5月の周年災害「幕府、土蔵造りや瓦屋根を許可」、7月の周年災害・追補版(1)「江戸町奉行、江戸中心地の町家の屋根や家屋の防火構造命じる」)

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