○読者の皆様へ

 「周年災害」は2005年1月から掲載を開始し、10年単位で過去の大災害や特異災害、防災関連の施策などを記事化してご紹介しております。

そこで、① 記事化して各10年後に再度ご紹介する場合、見出しの変更程度か内容に大きな変更のない場合は、訂正のないものも含め[再録]と表示します。

② 内容が新しい情報に基づき訂正された場合は、目次と本文見出しの後に[改訂]、出典資料が改訂または変更になった場合は、資料紹介の後に[改訂]、追加の場合は[追加]と表示します。

③ 新規に追加した記事は、掲載月より10年前の災害などを除き[追補]と表示します。

また、書き残されている大災害や防災施策などについては“追補版”として掲載月と同じ月のものを選び、基本的には発生の古い災害等の順に補足記事化しております。

なお、各記事末に参照として、記事に関係ある最新の「周年災害」がリンクされ読めるようになっています。

【2018年11月の周年災害】

・元慶2年相模、武蔵地震「元慶地震」(1140年前)[改訂]

・正嘉2年鎌倉大洪水-正嘉・正元の大飢饉へ(760年前)[再録]

・日本開闢(かいびゃく)以来の正長土一揆起こる、最初の大衆蜂起の勝利。

前年から続く長雨、洪水による凶作、飢饉が背景に(590年前)[改訂]

・幕府、旗下の旗本、御家人に防火の心得を布令。江戸の防火に武家も総出の体制へ(360年前)[再録]

・町内に町奉行与力指揮下の官製・町火消(店火消)“火消組”編成へ-ほとんどの町人は無視(360年前) [改訂]

・高知元禄11年の大火、2100余戸焼く(320年前)[再録]

・江戸町奉行、町火消組合編成を命じる、町人自身による消火活動で江戸を守る体制へ(300年前)[改訂]

・安永7年安芸国暴風雨、広島藩表高の約5割を失う(240年前)[再録]

・日本初の近代的灯台、観音埼灯台着工-灯台記念日に(150年前)[改訂]

・函館明治11年鰪澗(こうかん)町の大火「ヤマショウ火事」(140年前)[再録]

・東京市、市内の水道改良と消火栓設置工事大部分完成(120年前)[再録]

・貨客船大新丸、台風に遭遇し座礁沈没(110年前)[追補]

・日本放送協会、漁業気象放送開始、その日漁船遭難の記事が新聞に(90年前)[追補]

・有馬温泉池之坊満月城火災、防火管理体制の不備で宿泊客など74人死傷(50年前)[改訂]

・東電福島第一原発3号機事故、わが国初の臨界事故起こし、運転日誌も改ざん(40年前)[再録]

○元慶2年相模、武蔵地震「元慶地震」(1140年前)[改訂]

878年11月1日(元慶2年9月29日)

9世紀後半の清和、陽成、光孝各天皇三代の事績を記録した正史「日本三代実録」の巻三十四・元慶二年九月廿九日の条に“關東諸國地大震裂。相模武藏特爲尤甚。其後五六日、振動未止。公私屋舎、一無全者。或地窪陥、往還不通。百姓圧死、不可勝記。”とある。

この地震はマグニチュード7.4と推定される大地震で、三代実録によれば、被災地は関東諸国、特に相模国、武蔵国(神奈川県、東京都、埼玉県)の被害が特に甚だしいとある。また余震が5、6日続き、官庁の建物も個人の家もすべて損壊し、地面は陥没して道路は不通となり、死亡者は数え切れないくらいだ、と記録されている。

またこの地震については、近年のボーリング調査により、神奈川県にある丹沢山塊の東の縁を震源とする伊勢原断層の活動によるものではないかとの説が有力になっている。

ちなみに9世紀後半の日本列島は、大地震が10年足らずの間隔で頻発し、本紙WEB版でご紹介したものだけでも、868年8月(貞観10年7月)マグニチュード7の播磨地震、翌869年7月(貞観11年5月)同M8.3の貞観三陸地震、本稿の878年11月(元慶2年9月)同M7.4の元慶地震、次いでとどめ的に887年8月(仁和3年7月)には、同M8クラスの南海トラフを震源域とする、南海、東海両地震が連動したと見られている仁和地震が起きている。

近年でも、1995年(平成7年)1月に兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)、2004年(平成16年)10月に新潟県中越地震(中越大震災)、2011年(平成23年)3月には東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)と、10年足らずの間に、三つの“大震災”と名付けられた地震災害を体験している。日本の地震は似たようにくり返されるという、その点からも、現在、発生確率が30年以内に70~80%と言われている南海トラフで発生する巨大地震に注意が集まっており、その点からも、特に今後9世紀後半に連続した大地震について注目したい。

 (出典:朝日新聞本「日本三代実録・陽成天皇・巻三十四>元慶二年九月廿九日辛酉」、宇佐見龍夫著「日本被害地震総覧>4 被害地震各論 46頁:022」、平塚市博物館編「博物館アーカイブ>地質>平塚の地形地質>5.平野の地層をさぐる>元慶2年の相模・武蔵地震」、政府・地震調査研究推進本部編「南海トラフで発生する地震」[追加]。参照:2018年8月の周年災害「貞観10年播磨地震」、2009年7月の周年災害「貞観三陸地震」、2017年8月の周年災害「仁和地震」、2015年1月の周年災害「平成7年兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)」、2014年10月の周年災害「平成16年新潟県中越地震」)

○正嘉2年鎌倉大洪水-正嘉・正元の大飢饉へ(760年前)[再録]

1258年11月19日(正嘉2年10月16日)

 鎌倉幕府の事績を記録した「吾妻鑑」の正嘉二年十月十六日の条に“巳刻以後甚雨洪水。屋宅流失、人溺死。”とある。

簡単な記事だが、幕府のお膝元の鎌倉で、巳刻(午前10時ごろ)以降、降り続いた大雨によって河川が氾らんし大洪水に襲われ、家屋の流失や死亡者が多数のぼったという。

鎌倉は前年1257年10月(正嘉元年8月)に起きた鎌倉地震で大きな被害を受けたうえ、復興のさなかの大洪水であり、特に一般庶民には大打撃となった。またそれだけでなく、関東各地の稲田も夏場の長雨と冷夏によって大凶作となっていた。一方、畿内(京都周辺)でも9月の大風雨で農作物が不作となり、この洪水がとどめとなって、翌年春から始まった全国的な大飢饉“正嘉・正元の大飢饉”へと連なることになる。                

(出典:国立国会図書館デジタルコレクション「吾妻鑑:吉川本 下巻>吾妻鏡 第三>巻 第四十四>正嘉二年戌午 285頁(149コマ):十月十六日辛卯」、参照:2017年10月の周年災害「正嘉元年鎌倉地震」

2018年7月の周年災害「正嘉・正元の飢饉」)

○日本開闢(かいびゃく)以来の正長土一揆起こる、最初の大衆蜂起の勝利。

前年から続く長雨、洪水による凶作、飢饉が背景に(590年前)[改訂]

 1428年11月4日(正長元年9月18日)

 前月、近江(滋賀県)から始まった土一揆(土民一揆)は、津波のように京都付近に押し寄せた。

 この日の明け方、京都の南郊にある山科、醍醐の農民たちが、山城の守護(現・京都府知事)に徳政(債務免除)を要求して、債権者である酒屋や土倉(金融業者、現在の質屋が近い)、寺院などを次々と襲撃し、借金の証文を無理矢理出させて焼いた。中でも農民たちのこの一揆に、馬借(運送者、馬方)たちが参加し連合を組み大勢力となった。興福寺大乗院の門跡(住職)尋尊は“日本開闢(かいびゃく:建国)以来、土民蜂起これ初めなり”と記したという。

 土一揆の背景には、前年の1427年(応永34年)6月から続く大雨によってこの年が凶作となり、飢饉が始まったことによる。その上“三日病”と呼ばれた疫病が蔓延し、当時の歴史書「神明鏡」によれば“当年、飢饉、餓死者幾千万という、鎌倉中は二万人に及ぶと聞こえ”とある。

 土一揆の直接的な原因は、農民たちが凶作のため収入が無く、家屋や農機具などを担保に、生活費や種籾代のために酒屋や土倉、荘園領主でもある寺院などから借金をせざるを得なくなった所にあったという。その金利は年利6割から7割2分という高金利であった。その上、大寺院などは荘園領主として年貢を農民から取り立てる立場にあり、無理矢理に借金を取り立てたという。また土倉などは、凶作で年貢収入が不足した寺院や貴族など荘園領主などに、年貢を担保に金を貸し、取り立てを行っていた。

 馬借の場合はかねてから、朝廷、幕府、荘園領主などがそれぞれ勝手に関所を設け、通行税を徴収していたのを撤廃し、交通路の自由通行などを要求していた。ところが農作物の凶作で、米など主な運搬物が減ることで収入が減り、これも借金せざるを得なくなっていた。ここに同じ要求を持つ農民たちとの連合が生まれ、一揆の口火を切ったのは、9月(旧暦8月)に近江の坂本(現・大津市)や大津辺りの馬借たちで、それが山城(京都府中、南部)に波及し、農民たちも立ち上がった。

 この時の範囲は、近江、山城を超えて伊賀、伊勢(三重県)、宇陀、吉野(奈良県)、紀伊(和歌山県)、河内、堺(大阪府)と畿内全域に拡大し、興福寺では翌1429年1月9日(旧暦・11月25日)徳政の実施に踏み切り、また畿内の守護(現・県知事)の中からも徳政令を発する者も出てきた。

 土一揆の前触れとも見られる農民たちの動きは、すでに14世紀の鎌倉時代から南北朝時代にかけて目立ち始めていたという。しかしその動きが蜂起として、幕府自身にとってもまた荘園領主である貴族や大寺院にとっても恐るべき事態として認識され、社会的に著しい影響を持ち、最初の大衆蜂起の勝利とされているのが、この正長土一揆であり、これ以降、凶作の時や支配者の政治が過酷なときに、農民たちは一揆という形で立ち上がることになる。

 (出典:永原慶二著「日本の歴史 10 下克上の時代>土一揆の蜂起 67頁~73頁」、日本全史編集委員会編「日本全史>室町時代>1425-29 337頁:正長の土一揆、畿内を席巻。徳政を要求し幕府揺さぶる」、池田正一郎著「日本災変通志>中世 室町時代 273頁~274頁:応永三十四年、正長元年」、小倉一徳編、力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>Ⅱ 記録に見る自然災害の歴史>1 上代・中世の災害 63頁:正長1.-諸国飢饉」)

○幕府、旗下の旗本、御家人に防火の心得を布令。江戸の防火に武家も総出の体制へ(360年前)[再録]

1658年11月22日(万治元年10月27日)

 幕府はこれまで江戸町奉行を通じて町人たちに、防火のためのお触れを出していたが、この日、旗下の旗本、御家人に対しても防火の心得について布令をした。

 江戸の街を守る武家指揮下の常設火消部隊“定火消”を新設した翌月の事である。江戸の防火に武家も総出の体制となった。

 その内容は“一、風烈之時(風が強く吹いている時は)、公儀御用無之て(幕府の御用ではない場合は)、他所え相越へからす(よそへ出掛けないように)、若不叶用事有之は(もし変えることの出来ない用事であれば)、隣家之面々え申断可罷出事(隣の家の人たちに断ってから出掛けること)”。

 “一、屋舗近所之面々常に申合、火事出来之節は互に出合(もし火事になった時は、お互いに現場に出動することを、屋敷や近所の人たちとは常に申し合わせておき)、火を消へき事(消火にあたるように)”。

 “一、自然火をつくる輩を見出すにおゐては(放火をしている者を見つけたならば)、可捕之(これを捕らえ)、縦火付にて雖無之(たとえ放火犯でなくても)、不審有之族をは留置(怪しげなところのある者であれば逃がさず)、町奉行か又は御目付中え其段可申断事(町奉行か目付のもとへその旨申し出ること)”。

 幕府では町人に対しても、強風の時の外出を控えることや隣近所総出の消火を常に指示していたが、それ以外に、放火犯を捕らえる事を指示したのは、当事者が武家ならではだが、江戸の火事のかなりの数が放火によるものだったからであろう。犯人の放火目的は火事のどさくさに紛れての盗みである。中でも1772年4月(明和9年2月)に起きた目黒行人坂の大火はもっとも被害が大きく、934か町焼失と江戸の街がほとんど焼かれ、1万8700人が死亡行方不明になるという大惨事となっている。

1665年11月(寛文5年10月)、幕府に火付盗賊改役という特別な捜索隊が生まれ、放火犯を火罪、つまり火あぶりの刑にしたが、効果はどの程度あっただろうか。

(出典:東京都編「東京市史稿>No.4>市街編 第7 640頁~641頁:旗下士警火心得」、高柳真三+石井良助編「御触書寛保集成>二十六>火事并火之元等之部 764頁:一四三六 万治元戌年十月」。魚谷増男著「消防の歴史四百年>江戸の消防>火災予防のいろいろ 25頁:烈風のときは外出禁止」[追加]、山本純美著「江戸の火事と火消>後を絶たない放火事件 249頁~255頁:放火犯の処罰規定、火焙り」。参照:2009年2月の周年災害「江戸町奉行、町方に最初の警火令おふれ」[追加]、4月の周年災害・追補版(4)「江戸明和9年目黒行人坂の大火」、2015年11月の周年災害「幕府、火付盗賊改役を設ける」)

○町内に町奉行与力指揮下の官製・町火消(店火消)“火消組”編成へ-ほとんどの町人は無視(360年前) [改訂]

 1658年11月23日(万治元年10月28日)

 江戸の火消組織には大きく分けて、幕府任命の課役“大名火消”と大名家の自衛組織“各自火消”、町人たちの自衛組織“町火消”及び官製常備組織の“定火消”の4系統があった。

 その内もっとも早く組織化されたのは、江戸城をはじめ武家屋敷地で起きた火事を消す大名家による“大名火消”で、初期形態としては、1629年6月(寛永6年5月)、領地に帰国せず江戸に残っている諸大名(在府大名)10数家に“火の番(大名火の番)”を命じ、江戸城や幕府重要施設の出火の際、老中が将軍の命令書「奉書」をもって出動を命じた、いわゆる“奉書火消”があり、10年後の39年9月(同16年8月)の江戸城本丸全焼を契機に専任化されたが、その1年半後の桶町の大火で、本格的な火消部隊として、43年11月(同20年9月)、6万石以下の大名16家を4家ずつ4隊に分けた“大名火消”として再編成された。

 もちろんこの部隊がみずから“大名火消”と名乗ったわけではなく、これは後に“町火消”と区別するためにつけられた通称である。

ところが、57年3月(明暦3年1月)、史上最大の火災“明暦の大火(振袖火事)”が発生、その後、江戸の消防体制が見直され、設立の目的から”大名火消”は江戸の街全体が守備範囲ではなく、江戸の街を守らなければ江戸城をはじめ武家屋敷地も守りきれないと悟った幕府と、江戸の町政を取り仕切る町名主たちが、官民それぞれの立場で対策を立てることになる。

幕府は、今日の常備消防に通じる常設火消として、58年10月(万治元年9月)、武士が指揮し町人が火消人足(がえん)となる“定火消”を創設する。一方、町人たちは自衛組織の編成を企画し、定火消の創設よりも1か月早い9月4日(旧暦・8月7日)、日本橋23町で各町それぞれが火消担当の人足を用意して合計167名の人足による火消組織を創り上げた。また同じ頃、日本橋や神田あたりの大店(豪商)の家々でも、店の使用人や出入りの鳶(とび)職、大工などを集めて火消担当人足とした自衛組織が編成されたと考えられる。これらが後世、享保の改革で全江戸市中に組織化されることになる“町火消”の原型となった。

火消人足となった者たちは、江戸町人のほとんどを占めている“店借人”または“店子”と呼ばれた借家(店)住まいの職人、建築労働者、小商人たちと、自宅を持つ大店に住み込みの使用人“御店者”と呼ばれている人たちで、これら消防には素人の店子や御店者によって町火消が編成されていた点から、後年、専任の火消人足による“町火消”と区別して“店火消”と呼ばれるようになる。

ところがこの日、幕府が“定火消”の創設に次いで、旗下の旗本、御家人に防火の心得を布令した(上記記事)その翌日、江戸全町方を対象にした、町奉行与力指揮下に町人たちが火消役(人足)になる火消組の編成が江戸中に指示された。官製の町火消(店火消)の編成である。

そのお触れ「覚」によると、まず火事の際の行動について“火事出来候ハヽ(火事が起きた場合は)、早々火元江欠集可申候事(すぐさま火元へ駆けつけること)。勿論近所に火事出来候ハヽ(もちろん近所で火事が起きた場合は)、人足集候ニ延引可申候間(人足:火消役、が集まるのに時間がかかるので、その間)、人足出合次第壱人宛成共(人足が揃うまで一人でも良いから火元に駆けつけ)、追々火本江欠集(追々火元へ駆けつけて来たら)、火を消可申候(消火に当たること)。

また、遠所之火事之時分ハ其所々江欠集、火之子消可申候(遠方の火事の場合は、その決まった場所へ集まり、火の粉を消すこと)。火消之御衆御出無之前ニ(定火消の出動がある前に)、早速罷出可申候(いち早く現場へ出動すること)。万事町御奉行衆之御与力衆御差図次第ニ可仕候事(万事は奉行所の与力の指示に従うこと)”とされた。

なおその集合場所は江戸市街の中心部で、一、日本橋より中橋までの間の町々は、南からの火事の場合は中橋通り、北からの火事の場合は日本橋川通りへ集まる。一、日本橋より銀(しろがね)町南側の町々は、南からの火事の場合は日本橋舟町、鞘町裏河岸通り。北からの火事の場合は銀町土手通りに集まる。一、銀町土手より連雀町、柳原町までの間の町々は、南からの火事の場合は銀町土手。北からの火事の場合は連雀町、柳原町通りに集まる。一、神田旅篭町、湯島本郷、佐久間町通り、浅草旅篭町までの間の町々は、浅草橋、佐久間町筋違橋通りに集まる。また新開地の、一、飯田町、市ヶ谷船河原町、糀(麹)町、四谷伝馬町、赤坂伝馬町、本赤坂の者共は、最初から火元へ集まる事。と決められた。

次にその役割だが、近所の火事以外は、① 定火消が出動してくるまでに火元に駆けつけて来ること。② 延焼の原因となる火の粉をまず消すという初期消火にあたること。③ 消火活動については町奉行所の与力の指示に従うこと。というわけで、その集合場所から判断しても、この官製・町火消組はいち早く火元の風下に出動して延焼防止にあたるのが主な役割であったようだ。

しかしその程度の役割でも、各町の火消組では、火消役を専任化するどころか当番制にしたり、町奉行所がその後何回もお触れを出して組編成を命じても、なかなか進まず組数も少なく、火事の際の駆けつけが遅く、大火になると役に立たなかったという。

そこは地方の幕府代官領の農民たちと異なり、江戸町人のほとんどは店子たちで家賃は大家に収めても幕府には収める仕組みもなく、店の使用人も無税ということで、家持町人や大店の商人たちは別として、火消人足に指名される立場の町人たちには、大家や商店主に恩を感じても、幕府に支配されているという意識もなく、近所の火事の際の振る舞いについても“いちいち指示を受けなくてもわかってらい”と無視、組編成のお触れが出てもほとんどが知らん顔で火消人足になる気はなかったようだ。

そうこうしている内に61年2月(万治4年1月)万治4年元鷹匠町の大火が起きる。その教訓から、その年の11月(寛文元年9月)、町奉行所では、町人地の消火活動の役割を官製・町火消組から外し、火元及びその周辺の町人自身による自衛消火活動(駆付火消)にゆだねることにした。しかし、自衛消火活動とはいえ、訓練も装備も不足のしろうと集団である。初期消火と延焼防止に役立てば良かったのであろう。

本格的な町人による自衛消火活動は、享保の改革の一貫として1718年11月(享保3年10月)編成の町火消組合(後記記事)に譲ることになる。

註:町火消(店火消)の成立について、官製の組織と町人自衛の店火消と2系統ありますので、11月に官製、9月に町人自衛の店火消について書き分けることにしました。

(出典:西山松之助編「江戸町人の研究 第5巻>池上彰彦著:江戸火消制度の成立と展開>第二章 江戸における自衛消防組織の成立>第二節 町火消制成立の前提 115頁~116頁、近世史料研究会編「江戸町触集成 第1巻>万治1年 86頁:二二五」、東京都編「東京市史稿>No.4>市街篇 第7>641頁~644頁:市民救火制」、黒木喬著「江戸の火事>第三章 町火消の隆盛 68頁~72頁:一 店火消の時代」。参照:7月の周年災害・追補版(3)「諸大名帰国に際し、在府大名たちに火の番仰せつける、奉書火消の文献初出」、2009年11月の周年災害幕「幕府奉書火消、専任化」、2011年3月の周年災害「江戸最初の広域大火・桶町の大火」、11月の周年災害・追補版(3)「幕府、初の組織的な火消制度“大名火消”創設」、2017年3月の周年災害〈上巻〉「1657江戸明暦の大火(振袖火事)」、2018年10月の周年災害「幕府、江戸の街を守る常設火消“定火消”を新設」、2月の周年災害・追補版(1)「江戸神田万治四年元鷹匠町(小川町)の大火」、11月の周年災害・追補版(4)「江戸町奉行、町方の防火体制強化指示、官製・店火消姿なく町人自身の自衛消火(駆付火消)指示」)

○高知元禄11年の大火、2100余戸焼く(320年前)[再録]

 1698年11月8日(元禄11年10月6日)

 午の刻(午後0時ごろ)、高知城下西北にある奉公人町一丁目から出火した。

 出火するまでは、風もなく晴れていたが、出火したころから強い西風が吹きまくり、天地が真っ暗になってきた。そのため炎が勢いよく立ちのぼり、火勢は猛烈な勢いとなった。

 被災したのは火元の奉公人町から東方で、城の郭内では大手門から中島町まで、町方は大鋸屋橋に至るまでの南北両町が全焼した。炎は東農人町から新町に延びたが、日暮れになってようやく鎮火している。被災数は町家1948戸、侍屋敷198戸、寺院15か所と記録されている。

 (出典:高知市史>第二章 沿革>第二節 藩政時代>四 災害>イ 火災 84頁~85頁」)

○江戸町奉行、町火消組合編成を命じる、町人自身による消火活動で江戸を守る体制へ(300年前)[改訂]

 1718年11月10日(享保3年10月18日)

 八代将軍吉宗による享保の改革の担当者として、前年の3月15日(享保2年2月3日)南町奉行に抜擢された大岡忠相は、北町奉行と語らい、江戸の街の消防対策、特に町方(町家地区)の消火体制の強化に乗り出した。

それまで町方の消防は、1657年3月(明暦3年1月)に発生した明暦の大火(振袖火事)後、翌58年10月(万治元年9月)に創設された官製の常備消防組織“定火消”と、その前月の9月(旧暦・8月)に日本橋地区などの町内、またはその頃に大店(豪商)で自主的に結成された自衛の消火組織や、翌11月(旧暦・10月)に町奉行所がお触れによる指示で、町人たちに編成させた官製の“火消組”など、いわゆる“店火消”が主力だった。

その上もともと“店火消”の役割は、自分たちの町内や店舗などの初期消火と、火の粉の消火や飛び火防止など延焼防止活動、また鎮火の見通しが立ち“定火消”が撤去した後の消火(跡火消)などなので、活動範囲も限定されまた編成組数も少なく、その上それほど消火訓練を必要としない役割だったので、広い江戸の街の消火をまかせるほどの存在ではなかった。(上記:官製・町火消(店火消)編成へ。参照)

その点から、大岡忠相など町奉行衆の考えでは、江戸の街が発展して町人が増え人家が空き地を埋めてくると、そのような“店火消”や“定火消”だけでは、大火を防ぐことが出来ないとの結論になったようだ。

なおこの間、61年2月(万治4年1月)の“万治四年元鷹匠町の大火”の教訓から、町奉行所では町人たちに、消火以前の防火体制の強化についてのお触れを出し、その年の11月~12月(寛文元年9月~10月)にかけて、4回にわたるシリーズでかなり具体的な防火の指示を与えているが、あまり効果がなかったようだ。なかでも、11月9日(寛文元年9月18日)のお触れでは、出火の際に駆けつけて消火する町内の範囲も示し“駆付火消”なる言葉も生まれるほど、町方の防火、消火については手を尽くしていた。

1716年6月20日(正徳6年5月1日)徳川吉宗が八代将軍に就任したが、江戸ではその年の1月1日(新暦1月25日)から火災が続き、1か月の内4回も大火に見舞われていた。特に翌17年3月4日(享保2年1月22日)に起きた“小石川馬場の火事”では、江戸城も火の粉をかぶり、大名屋敷など武家屋敷421軒、町家200町余が焼失し117人が死亡するという、江戸火災史上屈指の大火が起きていた。

将軍吉宗は江戸の街の防火、消火が大きな政策課題であると考え、大火の11日後に町奉行に起用した大岡忠相に対策を強く指示したという。そこで大岡忠相ら町奉行は各町の惣名主(名主の代表者)から消防の実情について諮問、この年の9月24日(旧暦9月1日)回答を得たので、これらを参考にしてこの日、7か条の規定を申し渡した。

なかでも消火体制と権限については、① 町方で出火した場合、風上2町、風脇左右2町ずつ合計6町、各30人ずつ合計180人が火元に駆け付け消火に当たること。小さな家の場合は引き壊して延焼を食い止めて良い。② 消火活動の際、定火消が駆けつけてきても、そのまま活動を続け、両者ともども協力して大火にならないようにする(火消参候は、右人数上げさせ、町人も其の儘罷在、ともども消し、大火に不成仕候)とし、残りの3か条で、ともども消す以上必要な、定火消との消し口、はしご、水の手(消防水利)などの調整について詳細に規定しており、これは店火消の場合“其所立退き”と取り決めていたのとは大違いである。また、③ 出動した町の目印として昼は小さなのぼり、夜は提灯を用意する。④ 消火活動の監督のため、月行事(当番)の名主が出動する。などとした。

さらに2か月後には、⑤ 2~30町単位に“火消組合”を編成し担当地域を決め、組の目印(火消まとい)も決めることを命じた。これが2年後の20年9月(同5年8月)に有名な“町火消48組”として一層強化されることになる。

上記の官製・店火消“火消組”に非協力的だった町人たちが、今回の“町火消組合”編成になぜ協力的だったのか、そこには60年間の町人自身の被災体験が背景にあると思われるが、やはり爛熟したと言われ経済成長の著しい元禄期(1688年~1704年)を経て、① 経済的に力を蓄えた豪商を中心とした町人たちが、自分たちが築きあげた財産を守る防火意識を強めたこと、波及効果で生活の安定感が芽生えた店の使用人の御店者、店出入りの鳶職、大工、植木職など職人、小商人、その周辺の人々など、町人の大多数を占める人々にも防火意識が普及したこと。② 町奉行が日本橋地区などの自衛消火組織の体験を含めた防火に関する答申を受け、防火対策の中心に据えたこと。③ 店火消が消火訓練も装備もなく初期消火、延焼防止、消火の後始末だけに動員されていたのとは異なり、出動範囲を明確にし、初期から鎮火まで火災被害を最少にとどめる活動を一切まかしたこと。などにあると思われる。

(出典:西山松之助編「江戸町人の研究>池上彰彦著:江戸火消し制度の成立と展開>第二章 江戸における自衛消防組織の成立>第三節 町火消制の成立 120頁~123頁」、魚谷増男著「消防の歴史四百年>町火消の芽生えと発展 65頁~67頁:江戸町火消の創設」、狭山市消防団編「狭山市消防団50年のあゆみ>第1編 火消制度の誕生>第1章 江戸時代の火消部隊>町火消の誕生」)、東京都編「東京市史稿>No.4>市街篇第7>1191頁~1193頁:警火町觸」、同編「同>市街篇第19>253頁~256頁:防火方法復申」、同編「同>同市街篇第19>263頁~278頁:町火消」。参照:11月の周年災害・追補版(3)「江戸町奉行、町方の防火体制強化を続けて命じる」、2017年3月の周年災害〈上巻〉 「江戸享保2年の大火(小石川馬場の火事)」、2018年10月の周年災害「江戸町奉行、防火方法について町名主に諮問しこの日答申」、2010年9月の周年災害「江戸町奉行、町火消を“いろは48組”に再編成」)

○安永7年安芸国暴風雨、広島藩表高の約5割を失う(240年前)[再録]

 1778年11月28日~29日(安永7年10月10日~11日)

 安芸国(広島県)が、28日(旧暦10日)から29日(旧・11日)にかけて暴風雨に襲われ、広島城下の大半が洪水により浸水した。

 被害も大きく広島藩内で12人が死亡。家屋全潰・流失1871戸、同損潰5132戸、田畑の損害は同藩の表石高の約5割、21万3578石余、堤防の決壊5万2070間余(約95km)、森林の倒木6939本という大災害だった。

 (出典:広島県編「広島県史 別編(年表) 366頁:1778(安永7年)>社会文化10-11>暴風雨・洪水」)

○日本初の近代的灯台、観音埼灯台着工-灯台記念日に(150年前)[改訂]

 1868年11月1日(明治元年9月17日)

 この日、日本で初めての西洋式近代的灯台が、神奈川県横須賀市の三浦半島東南端観音崎に着工された。1949年(昭和24年)この日を海上保安庁は、灯台記念日とした。

 観音埼灯台は、1648年(慶安元年)に同じ三浦半島の浦賀港の入口に築造されて220年余、江戸(東京)湾の入口である浦賀水道を照らし続けていた“灯明堂”に代わるもので、1866年6月(慶応2年5月)、幕府がイギリス、アメリカ、フランス、オランダと締結した「改税約書(江戸協約)」により建設することになった8つの灯台の内の一つ。当時、横須賀製鉄所(造船所)御雇いのフランス人技師・F.L.ヴェルニーによってこの日着工され、もっとも早く完成、翌69年2月10日(明治2年1月1日)初点灯し、同年12月に本牧沖に設置された灯台船戒礁丸と共に東京湾を通航する船舶を守ることになる。

 灯台建設を条文に入れた「改税約書」とは、58年7月29日(安政5年6月19日)、アメリカと締結した「日米修好通商条約」の貿易章程の規定にある、神奈川開港5年目に日本の輸入関税の税率を見直すとの規定に基づいたもので、締結当日、4か国は連合艦隊を兵庫(神戸)沖に集結、幕府はその威力に押されて調印したという。これにより、わが国の輸入関税の税率が、修好条約における税率にくらべ大幅に軽減され、締結国4か国の製品がそれまでより安く輸入されることになった。そのため日本産の同一製品の販売が圧迫され、明治時代の民衆運動における“不平等条約改正”の大きな目標となった。

 この時、建設されることになった灯台は“条約灯台”と呼ばれたが、観音埼灯台のほかに、鹿児島県大隅半島南端の佐多岬灯台、長崎県伊王島北端の伊王島灯台、和歌山県紀伊半島南端の潮岬灯台、同半島先端にある紀伊大島東端の樫野埼灯台、静岡県伊豆半島南端沖の神子元島灯台、神奈川県三浦半島南東端の剣埼灯台、千葉県房総半島最南端の野島埼灯台である。ちなみに灯台記念日の回数の数え方は、着工のこの年を初回と数えている。 

(出典:燈光会編「観音埼灯台 神奈川県横須賀市」、日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1866 902頁:欧米4か国と輸入税軽減の協約、貿易の不平等強まる」。参照:2009年12月の周年災害「本牧沖に初の近代的灯台船」)

○函館明治11年鰪澗(こうかん)町の大火「ヤマショウ火事」(140年前)[再録]

 1878年(明治11年)11月16日

 午前2時20分頃、鰪澗(こうかん)町(現・入舟町:函館山西北、函館湾沿岸)一番地の大工職小針由松(屋号・ヤマショウ)の細工小屋から出火した。

 燃え上がった炎は、おりからの西風に乗って火元の町を焼き払い、そこから二手に分かれ函館山の山裾を東へと街並みに沿って延び、上の方は鍛冶町まで焼け上がり、下の方は鰭横町から神明町、仲町などを残らず灰にした。そこより弁天町に延焼、ここも15、6戸ほどを残して丸焼けにし、幸町から大黒町も残らず焼き、宮岡町も大半が灰となり、そこから炎は大町に延び、ここも大方灰にした後、西浜町に移り中浜町をほとんど焼き尽くして午前11時半ごろ、大町で鎮火した。

 焼失数は住家954戸、土蔵10棟、板庫41棟、神社2か所、実行寺内の鐘撞き堂など、同寺と称名寺の寺門など。負傷者60人。当時この火事を火元の屋号からヤマショウ火事と称したという。

 また、焼失区域の道幅も狭く曲がりくねっていたので、この火災を機会に街区を整備することになり、被災2日後の18日、当時の函館支庁長(現・函館市長)は市街道路改正委員を選定、20日には北海道開拓使(現・北海道庁)からの担当者も到着して整備案を取りまとめ、翌21日、被災地元住民の会議にかけられるなど、街区整備は早急に着手された。

 (出典:冨原章著「函館の火災誌>開拓使時代の火災>明治11年 62頁~66頁: 11月の火事(鰪澗町の大火)」)

○東京市、市内の水道改良と消火栓設置工事大部分完成(120年前)[再録]

 1898年(明治31年)11月

 近代的水道と消火栓を1887年(明治20年)10月に誕生させた横浜に遅れること11年、ようやく東京でも、新しい防火と衛生上の武器を手に入れた。

 東京の飲料用上水道の歴史は、1590年8月12日(天正18年7月13日)、徳川家康が小田原の北条討伐の功績によって豊臣秀吉から関東8か国を与えられ、同月30日(同年8月1日)江戸城に入城し、新しい領国の経営に着手したが、その土地が江戸湾沿岸部のため井戸水の水質が悪く、家臣の大久保忠行に命じて、近郊の河川の流れを利用した水道事業を調査企画させたのが始まりで、最初の上水道は目白台周辺の流れを利用して造った小石川上水という。

 明治時代に入ると、300年近く経た江戸上水は、給水の木管が年月を経て腐食し、人口の増加により水源の河川の汚染も進み、保健衛生上の問題が生じていた。そこで東京府は1876年(明治9年)12月、水道改良についての委員会を設けて調査研究に着手、同委員会は80年(同13年)4月、水道改良設計書を府に提出した。

 これを受けた東京府は90年(同23年)7月、東京市水道設計案を作成、これに基づき92年(同25年)12月21日、江戸水道の改良工事と、これと並行した消火栓設置工事に着手した。この間、90年(同23年)2月12日、明治政府は全国各市町村における水道の普及及び消火栓の設置などを目的とした「水道条令」を制定している。

 改良水道工事のポイントは、河川の原水を濾過して浄水池に貯水し、給水に鉄管を使うところにあった。その工事は、この月で大部分が終了し、消火栓が誕生した。給水は、翌12月から神田区(現・千代田区)及び日本橋区(現・中央区)で開始されている。なお、東京市水道設計案によれば、消火栓は平均450尺(136m)おきに4150か所設置と決められていた。

 (出典:東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の消防百年の歩み>明治後期>消火栓の設置と水利調査 90頁~91頁:水道の歴史、消火栓の誕生」、日本全史編集委員会編「日本全史>織豊時代>1590-91 437頁:風雲去り、家康、関東8か国を得る。ここが天下だ!」、東京都水道局編「水道事業紹介>東京の水道・その歴史と将来>江戸時代の水道」、東京消防庁編「消防雑学事典>消火に使った水道料は?」。参照:2017年10月の周年災害「横浜でわが国初の近代水道完成、消火栓も初めて設置」)

○貨客船大新丸、台風に遭遇し座礁沈没(110年前)[追補]

 1908年(明治41年)11月5日

 1908年(明治41年)11月10日付け朝日新聞は、5日前の悲劇を次のように報じた。

 “大新丸沈没 詳報”“大阪山岡千太郎所有にて函館区仲濱町飯岡回漕店取扱の汽船大新丸(六百四十二トン)は、十月十九日擇捉(エトロフ島:現ロシア領イトゥルップ)に向け函館を出発し千島より帰還する出稼人百余名を収容し、なお園田商会その他の鱒、鮭等を満載し帰航の途中、本月五日午前九時、千島国振別郡老門村(ふれべつ郡おいと村)沖合にて暗礁に乗揚げ船体大破の上、間もなく沈没せり。船客百十四名、船員三十名、合計百四十四名(或いは百三十九名ともいう)の内船客二十二名、船員七名、合計二十九名は生存し、他は尽く行方不明となれり”。

 “函館の取扱店にてはこの報に接し、救助船を特派すべく日本郵船会社に交渉したるに、風浪激しき択捉島のこととて郵船会社は之に応ぜず、依って留別に停泊中の錦龍丸、国見丸二船の内を避難地に急航せしめたる筈なり。遭難の状況は未だ詳報なし。船長・山口勝藏、機関長・杉原祐松、事務長・野村吉之助等いずれも行方不明なり”。

 当時、船舶の無線通信は、この年の5月27日、銚子無線電信局と日本郵船所属の丹後丸との間で、はじめて海上公衆通信として成功した時代である、海軍でも大新丸遭難の8日前に海軍省から「無線電報取扱規約」が通達されたばかりで、果たして大新丸は遭難の報せ、救助を求める信号を発信出来たのか、無線でなければ、信号はのろしや霧笛或いは信号旗だったのか。詳細はわからない。また被災した船客の大半を占めていた100余名の“出稼人”というのは、大新丸が鮭や鱒を満載していたという所から推定すると、地方から千島にはるばる来島し、土地の鮭・鱒漁船に乗り込んで操業した季節雇いの漁師たちであろう。大漁の喜びは悲劇で終わっている。さらに当時は船舶の波浪に対する備えも弱く、当時からわが国を代表する船舶会社・日本郵船でさえも救助船派遣を断ったほどの激しい海上の状況であったのか、海難救助が困難な時代であった。(出典:明治41年11月10日付け東京朝日新聞)

○日本放送協会、漁業気象放送開始、その日漁船遭難の記事が新聞に(90年前)[追補]

 1928年(昭和3年)11月5日

 1925年(大正14年)3月22日、日本放送協会(現・NHK)東京中央放送局(JOAK)が、午前10時から番組表に基づいたラジオ放送を開始した。

 翌23日からは中央気象台が提供する東京地方天気予報と全国天気概況を9時、15時40分と放送終了時の21時40分に放送した。これは、アメリカ電機会社最大手のウエスティングハウスが、1920年11月に世界で初めての放送局KDKAを開局してから遅れること4年半ほどのことであった。

 中でも船舶遭難でもっとも多かった漁船に対して大きな助けとなる“漁業気象放送”は、放送開始から3年半後のこの日からはじまり、その時間は開局時からと同じ、1日3回の9時、15時40分、21時40分で“気象通報”の時間帯の中で放送された。

 ちなみに記念すべき11月5日のこの日、同じ新聞の紙面に“各地に海の大受難、朝鮮では漁民三百名行方不明、北海道は大時化襲来”と、操業中の漁船の遭難を報せる記事が掲載されており、この悲劇をなくすため、この記事を読んだ読者、なかでも漁業関係者はこの日からはじまった漁業気象放送に大きな期待を込めたに違いない。

 (出典:気象庁編「気象百年史>第7章 情報・通信>1.通報>1.1 大正期 359頁: (2) ラジオによる漁業気象放送の開始」、昭和ニュース事典編纂委員会+毎日コミュニケーションズ編「昭和ニュース事典 第1巻>東京放送局 503頁:いよいよ仮放送を開始(大正14年3月23日 時事)」、朝日新聞社編「朝日新聞縮刷版 昭和3年11月 復刻版>11月5日」、坂元洋幸編「電気の歴史イラスト館>無線通信の歴史>無線放送の歴史>ラジオ放送の大衆化>最初の放送局」。参照:2015年6月の周年災害〈上巻〉「東京気象台観測開始-天気図作成、天気予報の開始から台風調査報告書も」、2013年3月の周年災害「東京気象台、天気図の印刷配布開始-念願の暴風警報も発表へ」、2014年6月の周年災害「東京気象台、1日3回の各地気象情報入手で全国の天気予報ようやく開始」)

○有馬温泉池之坊満月城火災、防火管理体制の不備で宿泊客など74人死傷(50年前)[改訂]

 1968年(昭和43年)11月2日

 午前2時半ごろ、神戸市有馬温泉の観光旅館・池乃坊満月城、別館吟松閣の地下1階調理室(近代消防)或いは仁王殿2階宴会場サービスルーム(消防防災博物館)から出火し、本館、別館本丸の計6950平方mを焼いて鎮火した。宿泊客27人、従業員3人が死亡、44人負傷。

 同館は本館、別館など数棟の建物を連結し1棟の建造物とした“鉄筋コンクリート造一部軽量鉄骨モルタル塗、地上3階一部4階地下2階建”という複雑な重層構造の上、内装が可燃材料だった。また出火場所が地下1階だったため、ドラフト現象の熱で熱くなった空気が急速に上昇して炎を運び、上階への開放部分から延焼が急速に進んだという。

 同館の自衛消防隊の編成は昼間だけで、夜間は宿直者が数名しかいなかったため火災に気づくのが遅く、初期消火は若干のバケツによるのみで屋内消火栓などは使用されず、宿泊客に対する避難誘導も不徹底だったという。

 なお、同館は神戸市消防局の10数回に及ぶ警告も無視、自動火災報知装置の全館設置も行わず、消防署への緊急通報も火災に気づいた28分後の遅さで、消防隊が到着した時はすでに手がつけられない状況だった。

 この火災を教訓に翌年3月「消防法施工令」が改正され、この月の月末に既存、新築、増改築、移転もしくは模様替えなど工事中の旅館・ホテル、病院・診療所などに自動火災報知設備などの設置が義務づけられた。

註:出火場所について近代消防とWEB消防防災博物館の記述は異なるが、同消防防災博物館資料の図面を見ると、実際の出火場所として印が付いている大広間(宴会場としても利用されていた)付近と調理場が共に地下1階にあり、廊下でつながっておりほぼ隣接している。その点から出火場所が地下1階調理場付近というのが正しく、同消防防災博物館館資料本文中の2階説は誤りと思われ、2階に宴会場があるので、それと大広間を取り違えたのではないだろうか

  (出典:近代消防臨時増刊「日本の消防1948~2003>年表1・災害編>昭和43年 105頁:有馬温泉・旅館池之坊満月城火災」、消防防災科学センター編「消防防災博物館>調べる>消防専門知識の提供>特異火災事例>池之坊満月城」

○東電福島第一原発3号機事故、わが国初の臨界事故起こし、運転日誌も改ざん(40年前)[再録]

 1978年(昭和53年)11月2日

 東京電力福島第一原子力発電所といえば、2011年(平成23年)3月11日の東北地方太平洋沖地震により、全電源を喪失して核燃料への冷却水の送水が不能になり、炉心核燃料の溶融を発生し爆発、多量の放射性物質を屋外へ放出するという、最悪レベル7(深刻な事故)を起こしたが、わが国初の臨界事故(核分裂連鎖反応による放射線発生事故)を起こしたうえ、証拠となる運転日誌の改ざんも行っていた。

 この日、同発電所3号機の定期検査中、原子炉圧力容器耐圧の試験準備をした。そのため制御棒駆動水系の水圧制御ユニットの隔離作業を行っていたが、その際、制御棒が5本、戻り弁操作のミスで、部分的に引き抜けたことにより原子炉が臨界になり、炉内の中性子を測定するモニタの指示値が上昇した。

 ところが、その時の当直者は、モニタの指示値が高いことは認識したが、制御棒の引き抜けにより原子炉内で臨界が発生しているとの認識には至らず、特別の対応はとらなかった。

 翌日、別の当直者が出勤し、モニタの異常値と制御棒が引き抜けていることを確認し、臨界の発生を考え、引き抜けていた制御棒を再び挿入し、臨界は収束したが、この間、最長7時間半臨界状態は続いていた。しかし最悪の事態にはならなかった。

 ところが、臨界となった当日夜の当直者が後日、モニタの数値や制御棒の位置について、実際の数値ではなく、通常の値となるよう運転日誌などの記録を改ざんした事がわかったのである。

 この種の事故は沸騰水型の原子炉の本質的弱点とされ、この事故が正確に公表されていれば、1999年(平成11年)6月に起きた、北陸電力志賀原子力発電所の臨界事故も起きなかったと言われている。わが国の原子力事業界の隠ぺい体質が、歯止めのきかない原発事故を起こし、復旧のためのコストも国民が電気代として支払われている。普通の民間企業では考えられない、総原価方式による甘え体質と言える。

 (出典:東京電力編「TEPCO REPORT バックナンバー>特別号(2007年5月)>・原子力発電設備におけるデータ改ざん事案(評価区分A・B)の概要 23頁:昭和53年11月・定期検査停止中の制御棒引き抜けに伴う原子力臨界と運転日誌改ざん」。参照:6月の周年災害・追補版(1)「北陸電力志賀原子力発電所、臨界事故隠し」)

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気象災害(中世・江戸時代編)

気象災害(戦前・戦中編)

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火災・戦災・爆発事故(中世編)

火災・戦災・爆発事故(江戸時代編)

火災・戦災・爆発事故(戦前・戦中編)

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(2018.11.5.更新)

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