【目 次】
・白雉3年難波の大洪水。洪水の被害を述べた最初の記録(1370年前)
・応長から正和へ改元。天変地震によるというが天皇家の両統(家)対立が原因か
利権のため庶民にとって、はた迷惑で被害だけかぶる内乱を招いた後醍醐天皇(710年前)
・梅毒スピロヘータ(細菌)日本へ侵入と記録される。戦国時代終末期に大流行(510年前)
・長崎で乳幼児を中心に天然痘大流行。2000人余死亡(360年前)
・幕府、火事場見廻役を置く。大名火消、各自火消の指揮と調整役(300年前)[改訂]
・幕府基本法典「公事方御定書」編さんされ3奉行褒章。交通事故、失火に対して厳罰(280年前)
・越前府中(現・越前市)宝暦の大火。町家1300軒余焼失(260年前)
・酒田明和9年の大火「片町火事:藤十郎火事」。街のほとんどを焼き尽くす(250年前)
・四月朔地震で眉山崩壊。対岸肥後藩領等にも大津波「島原大変、肥後迷惑」(230年前)[改訂]
・越前府中(現・越前市)嘉永の大火。町家をほとんど喪う(170年前)
・文久2年麻疹(はしか)大流行。江戸だけで24万人が死亡、幕府崩壊の一因に(160年前)
・札幌「御用火事」-道都札幌の都市建設進む(150年前)
・富山県氷見明治の大火-江戸の街が生まれ変わる(140年前)
・旅客船大洋丸魚雷攻撃を受け沈没。日本の南方経営に大打撃(80年前)[改訂]
・オホーツク海沿岸漂着機雷、公開爆破準備中の爆発惨事(80年前)[改訂]
・耐火建築促進法公布・施行。防火建築帯造成事業始まる(70年前)
・国鉄常磐線三河島駅三重衝突事故。自動列車停止装置設置と改良へ(60年前)[改訂]
・サリドマイド薬害事件。大日本製薬出荷停止、回収の遅れと不徹底が被害を拡大(60年前)
・総務省消防庁「消防操法の基準」制定。詳細な消防活動マニュアル(50年前)[追補]
・大阪千日デパートビル火災。戦後最大の死亡者を出す(50年前)
・防災週間を閣議了解。防災の日を含む1週間、防災関係のイベント開催(40年前)
・警察庁「警察災害派遣隊設置要綱」制定。広域緊急援助隊の歴史を引き継ぎ拡充(10年前)[追補]
【本 文】
○白雉3年難波の大洪水。洪水の被害を述べた最初の記録(1370年前)
652年5月27日~6月3日(白雉3年4月20日~28日)
わが国の正史「日本書紀巻二十五・孝徳天皇、夏四月丁末(4月20日)」に“自於此日初、連雨水至于九日、損壤宅屋傷害田苗、人及牛馬溺死者衆”とある。
つまり、4月20日(新暦・5月27日)から9日間にわたって連日雨が降り、(洪水によって)宅屋は損壊し、(イネの)田や苗は傷つけられた。人や牛馬の溺死した者は多い。とある。洪水の被害を述べた最初の記録と言って良いだろう。
当時、孝徳天皇が宮殿を置いた難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)は、現在の大阪市中央区にあり、その北西に瀬戸内海を経由し国内各地へと物資を運ぶ、物流の拠点として難波の津があった。
その点から、この損壊した宅屋とは、農民の家だけでなく、難波の津の物流業者の倉庫や家、港湾関係者の家々、また長柄豊碕宮周辺の官人(役人)の家、役所の諸用品などを扱う店など、上町台地の高台にある宮殿や豪族の館を除けば、それらも損壊したのかも知れない。死亡者の多いのも農民だけでなく、これらの人々も犠牲になったのであろうか。この洪水は、古来よりはん濫をくり返す、淀川によるものであろう。
(出典:seisaku.bz.編「日本書紀 巻25:孝徳天皇「白雉…三年…夏四月…丁未」、荒川秀俊ほか編「日本旱魃霖雨史料>霖雨の部(上古、中世)177頁:白雉三年 連雨 洪水」)
○応長から正和へ改元。天変地震によるというが天皇家の両統(家)対立が原因か、
庶民にとって、はた迷惑で被害だけかぶる内乱を招いた後醍醐天皇(710年前)
1312年5月5日(応長2年3月20日)
天変、地震により改元という。前年ちょうど1年前の1311年5月(延慶4年4月)に応長と改元したばかりである。どんな大地震が起きたのか?
ところが、古今の有感地震を記録した力作、宇佐美龍夫の「日本被害地震総覧」も、災害の記録を集めた池田正一郎の「日本災変通志」もこの頃地震があったことに少しも触れていない。本当に地震を理由に改元したのであろうか?
そこで考えられるのは、当時の人々、特に改元をつかさどる宮廷の官人公家たちが改元したくなるほど“不吉”または“悩みの種”となったものを調べてみた。
実はこの改元の年より40年前の1272年(文永9年)、朝廷の実力者後嵯峨法皇が崩御されたが、その4年前に皇太子に推したのは、法皇の跡を継ぎ天皇となった兄宮の後深草上皇の子ではなく、弟宮の亀山天皇の子の世仁親王だった。
その上、法皇崩御の際に、政務の実権と天皇家の惣領としての地位(治天の君)を誰にするかという遺勅(遺言)を残していなかったので、崩御2年後の1274年(文永11年)、亀山天皇が退位し上皇として実権を把握(院政)すると、子の世仁親王を次の天皇として即位させた。後宇多天皇である。
これに対し、後深草上皇は弟宮の血統(大覚寺統)に天皇が続くことに内心不満を抱いたという。意気消沈した上皇の仏門入りの噂を聞いた幕府は、翌1275年(文永12年)妥協案として同上皇の子、煕仁(ひろひと)親王を亀山上皇の猶子(養子に準じる子)として形を整え、次代の皇太子の位につけた。後の伏見天皇である。
皇統はこのように後深草-伏見の持明院統と亀山-後宇多の大覚寺統に分れ、幕府の仲介によって相互に天皇の位を継ぐこと(両統てい立)になったが、両統(家)の勢力争いはその後も続き、臣下である公家たちを巻き込みそれぞれ両統に分かれて対立した。
なかでも、1300年(正安2年)幕府の将軍であった宗尊親王が膨大な遺領の相続について何も遺言もなく死去され、翌1301年(正安3年)、大覚寺統の後二条天皇が即位すると、幕府は妥協案として宗尊親王の娘・土御門姫に遺領を相続させた。
ところが翌1302年(正安4年)、この傍流の姫に准三宮(皇后などに准じる)という高い位が突然与えられ、天皇の父君の後宇多上皇の后とした。膨大な遺領が大覚寺統のものになったのである。
持明院統に味方する公家たちの怒りは想像に難くない。
持明院統の伏見上皇は早速異議を申し出、幕府の仲介で遺領は両統に折半されたが、その後も天皇家の惣領である法皇や上皇が崩御するごとに、管理していた荘園など遺領の相続を巡って暗闘が続いた。
1308年(延慶元年)後二条天皇の急死により、ルールに基づき持明院統の花園天皇が即位、勢いを取り戻した同統は改元を発議し即位の4年後のこの日改元することになる。
しかし改元によっても両統の対立はなくならず、改元6年後の1318年(文保2年)花園天皇は退位し大覚寺統の後醍醐天皇が誕生したが、この天皇の手によって両統対立は戦乱を生むほど決定的となり、南の吉野に大覚寺統の、北の京都に持明院統の、それぞれ天皇が在位するという南北朝時代を迎え、1336年(建武3年)から1392年(明徳3年)まで56年間も続く、天皇家の利権争いという、庶民にとってはた迷惑で被害だけかぶる、無意味な内乱の時代が来る。
この間、花園上皇は後醍醐天皇によって皇太子に立てられた量仁親王(後の北朝の光厳天皇)の養育に専念され、その教育の書「誡太子の書」のなかで、天皇家の危機を指摘し、後醍醐天皇のような独善的な生き方を戒め、暗に南北朝の内乱時代を予言したという。
(出典:池田正一郎編著「日本災変通志>鎌倉時代 243頁:正和元年」、黒田俊雄著「日本の歴史・蒙古襲来 324頁~357頁:分裂する天皇家」。参照:3月の周年災害・追補版(1)「南朝軍、京都へ侵入し幕府軍と戦闘、街は廃虚に」)
○梅毒スピロヘータ(細菌)日本へ侵入と記録される。戦国時代終末期に大流行(510年前)
1512年5月8日(永正9年4月13日)
梅毒。さまざまな性行為によって接触する性器、泌尿器、肛門、口腔など粘膜部分に感染する性感染症(性病)で、いったんペニシリンによって押さえられていたが、近年2022年(令和4年)から急増、同年には年間患者数1万3000人を突破している。病原体は梅毒トレポネーマで、免疫は得られず再発する危険性があるという。
この病気の歴史上の発生源は南北アメリカ大陸と言われている。
1492年~1504年の4回に渡るコロンブスによる新大陸発見の航海で、上陸先でこの風土病に感染した乗組員たちが、母国スペインなどに広めたとされている。その伝播の早さは驚異的で、1493年にスペインで流行、翌1494年にはイタリアに広がり、その翌年1495年のフランス・イタリア戦争でフランス軍将兵に感染者が出るなど、ごく短期間のうちにヨーロッパ中に広がった。
東洋への伝播は、1498年のヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見の旅によるとされる。
まず東南アジアに広がり、明時代の中国大陸へと伝播、1512年(永正9年)に日本へ侵入する。いずこかの明の港のちまたで感染し日本へ持ち込んだ人々は、大陸との交流を生業にしている博多や堺及び琉球国の商人、豊かな大陸を主に略奪の地と狙い定めている倭寇の面々と推定されている。
この日、歌人・三条西実隆は歌日記“再昌草”に、歌仲間の道堅法師(岩山)が梅毒を患ったと聞き、一首詠み送っている“唐瘡(梅毒)をわつらふよし申したりしに(患ったとおっしゃったようだが)、戯にもにすむ(済む)や我から(自分から)かさ(瘡)をかくてたに、口のわろき(悪き)よ世をは(ば)うらみし(恨みし)”。本当に法師が患ったのかどうかわからないが、この問答歌が日付のわかる最初の梅毒に関する記録とされている。
今ひとつ、月日は不明だが同じ年の記録として、医師・竹田秀慶の著した“月海録”に“人民多有瘡(できもの)、似浸淫瘡(性疾患)、是(これ)膿疱(湿疹)、醗花瘡之類(逆さにした花の形の潰瘍)、稀所見也(非常に珍しい)、治之以浸淫瘡之薬、謂之唐瘡,琉球瘡”と当時、梅毒に名付けられた中国大陸伝来という意味の“唐瘡”琉球伝来という意味の“琉球瘡”ではないかと、梅毒患者についての所見を述べている。
また、甲州太田村(現・山梨県河口湖町)の日蓮宗古刹・妙法寺住職が記した“妙法寺記”の翌1513年(永正10年)の記録に“此年麻疹世間ニ流行シ、大半ニ過タリ(中略)此年天下ニタウモ(タウモガサ:唐瘡)ト云フ大ナル瘡出デ平愈スルコト良ス,其形譬ヘバ,癩人ノ如シ”とあるが、皮膚に出る湿疹から“麻疹(はしか)”“癩(ハンセン病)”との類似を記している。
この病は、当時、商人や遊び人だけでなく、有名な武将たちも罹っており、黒田孝高(官兵衛)、加藤清正、前田利長、結城秀康、浅野幸長、徳川忠吉が治療したとする記録を残しているという。戦場を駆使した若い頃の名残だろうか、しかしハンセン病だった大谷吉継ほど、病に関わるエピソードは残していない。いずれにしても、商談や戦いの間での一時の慰みが感染を拡げたと言える。
また、梅毒には人の生き血が効くとの俗説から、築城下の大坂市街で千人を目標とした辻斬りがあったとのエピソードが伝えられている。
ちなみに、抗生剤ペニシリンが発見される前、梅毒の特効薬として使われた“サルバルサン(ヒ素化合物606号))”を、1910年(明治43年)、師事したエールリッヒ博士と共に発見したのは、日本の細菌学者・秦佐八郎である。
(出典:栄研化学株式会社編「モダンメディア62巻5号(2016年5月号):加藤茂孝著「人類と感染症との闘い(続)第6回:梅毒-コロンブスの土産、ペニシリンの恩恵」、花盛屋敷からの花便り「オシロイバナ12 梅毒-日本での蔓延1」、厚生労働省編「梅毒」、北里柴三郎記念博物館編「秦 佐八郎博士の略歴」。参照:2016年4月の周年災害〈上巻〉「大坂で千人斬り事件横行、犯人は梅毒感染者か?」)
○長崎で乳幼児を中心に天然痘大流行。2000人余死亡(360年前)
1662年5月16日(寛文2年3月28日)
北九州地方は古来より諸外国との玄関口であった。古代7世紀後半、太宰府が置かれ我が国の外交と防衛に当たると、その外港として博多(福岡市)が栄えた。
江戸幕府となり、1633年(寛永10年)から始まる鎖国政策により、翌1634年、長崎に出島が築造され、外国貿易の公的な唯一の窓口となると、船員をはじめ貿易商人などさまざまな関係者がそこへ出入し、輸入された文物を全国に広めた。
古代から中世にかけての博多も、江戸時代の長崎も輸入するものが文物だけなら良かったが、感染症までも侵入させてしまった。特に天然痘(ほうそう)の侵入と大流行の歴史は735年(天平7年)から続いている。
この年も天然痘が乳幼児を中心に長崎で大流行し、正月(新暦2月)からこの日までに2318人の死亡者を出した。そして7月15日(新暦・8月28日4)には、死者の冥福を祈って一の瀬街道脇に無縁塔(永代供養塔)が建立されている。
(出典:長崎市編「市指定有形文化財・一の瀬無縁塔」、丹羽漢吉、森永種夫校訂「長崎實録大成 正編 338頁~4339頁:寛文二壬寅年(1662)」)
○幕府、火事場見廻役を置く。大名火消、各自火消の指揮と調整役(300年前)[改訂]
1722年5月25日(享保7年4月11日)
八代将軍吉宗は、一連の享保の改革の一環として江戸の街の防災体制を強化したが、その中の一つに火事場見廻役の創設がある。
当時、江戸城や江戸の街を守る“火消組”は、武家が統括したものとしては、1643年11月(寛永20年9月)に創設された“大名火消”をはじめ、1657年3月(明暦3年1月)の明暦大火後の翌1658年10月(万治元年9月)に創設された“定火消”があり、進んで1681年3月(延宝9年1月)には、各大名家で自衛火消組を持つことが許されて組織された“各自火消”があった。
一方、町人は町人たちで、定火消が創設される1か月前の9月(同年8月)いちはやく自衛的に創った“店火消”が、1718年11月(享保3年10月)に町火消組合として編成され、2年後の1720年9月(享保5年8月)には、いろは48組に再編成された有名な“町火消”となり、それぞれの大店(おおだな:大商店)は、また別に自衛の火消組を持っていた。
火消組それぞれその守備位置は基本的には異なるとはいえ、特に江戸城周辺を外れた地域では、大名の中、下屋敷から武家屋敷、町人の屋敷と店舗や工房、長屋などが混在し、火事の炎はそれらを区別なく焼き落とした。
火消組の組員は、大名火消、各自火消といえども下級武士や屋敷出入りの鳶(とび)職たちである。定火消のがえん、町火消の火消人足と負けじ劣らじの血の気の多い連中だ。持ち場(消火対象地区)を争い、消火より喧嘩の時間の方が多かったという伝説があるほどだ。
これでは“ぼや”が大火になりかねない。そこでこの日「火事場見廻役」が登場する。
幕閣では、火事場見廻役を創設するに際し、まず消火活動と被災地の処理など、火事場に関する事項を総括・管理するものとして、旗本、御家人を支配する若年寄の中から、伊勢神戸藩(三重県鈴鹿市)1万7000石・石川近江守総茂と駿河松長藩(静岡県沼津市)1万6000石・大久保長門守教寛を任命。火事場見廻役には無役の旗本の中から、旗本寄合席(3000石以上)の村瀬伊左衛門房矩、竹中主水定矩。小普請組支配下(3000石未満)の水谷彌之助勝比、大島因幡守義全、三島清左衛門政興、赤井圖書直綏の6名を任命した。
同見廻役の任務は消火活動現場での指揮と調整にあり、① 火災の時、風下にある1万石以上の大名邸宅の巡視。② 火災現場では方角火消(方面隊)や増火消(増援隊)を含む大名火消、各自火消などの武家火消人夫を指揮して消防の実際を監察する。③ 炎の勢いが強く、火消人夫が不足していると判断したときは付近の大名屋敷などから人数を徴発する。④ 鎮火後はその後を巡察する。などであった。
しかし、定火消などの大名火消は若年寄支配下、各自火消は各大名支配下、町火消は町奉行支配下ということがあり、定火消のがえんや町火消人夫との争いの制止は出来ても、火消全体の指揮、調整は出来ず、その力には一定の限界があり、よくあったという定火消と町火消の火消人夫同志の持ち場争いや喧嘩の仲裁は権限外であった。
(出典:東京都編「東京市史稿 市街編 第20 447頁~448頁(238コマ~239コマ):火事場見廻」、松平太郎著「江戸時代制度の研究>第六章 幕府消防組織 260頁~262頁:第三節 火事場見廻役」。参照:2013年11月の周年災害「幕府、初の組織的な火消制度“大名火消”創設」、2018年10月の周年災害「幕府、江戸の街を守る常設火消「定火消」を新設」、2021年3月の周年災害「幕府、各自火消・加賀鳶誕生させる」、9月の周年災害・追捕版(5)「民営町火消(店火消)誕生」、2020年9月の周年災害「江戸町奉行、町火消を“いろは48組”に再編成」、2017年3月の周年災害・上巻「幕府、方角火消を初めて任命」、2020年5月の周年災害「幕府、増火消を6大名家に初めて命ず」)
○幕府基本法典「公事方御定書」編さんされ3奉行褒章。交通事故、失火に対して厳罰(280年前)
1742年5月10日(寛保2年4月6日)
この日、幕府の基本法典ともいうべき「公事方御定書」を編さんした寺社奉行・牧野貞通、江戸町奉行・石河政朝、勘定奉行・水野忠伸の3名が労をねぎらわれ褒章された。
同御定書の編さん作業は、享保の改革の一環として、八代将軍・吉宗の命により、老中・松平乗邑を編さん主任として、先の3奉行が中心となり1737年6月(元文2年5月)から始められ、この年の3月末に一応の完成を見たもので、その後も継続的に改訂されていった。
同御定書は上下2巻からなり、上巻には裁判、警察、刑の執行に関する81か条の法令をまとめ、下巻は訴訟手続き、民事規定、刑法規定など103か条を収めており、「御定書百箇条」と呼ばれ内容的には判例集となっている。
たとえば71条の“人殺并(ならびに)疵付等(傷害など)御仕置(刑罰)之事”の中から事例として、事故により殺傷した場合の刑罰規定を見ると、次のように定められている。
まず船の事故だが“1.渡船(に)乗(せ)沈(んで)溺死有之候はゞ(溺死させた場合は)其船の水主(乗組員)遠島(島流し)、享保元年極(決定)”。としている。遠島とは厳しいようだが、古今、船長には人命を預かる義務があり、気象状況や水の流れ、波の動きなどを読み、運行の判断を行っていた。そこを誤るか舵取りを誤って、船を沈め乗客を死亡させたとなると、やはり遠島処分となったのであろう。
次に道路交通事故だが、“1.車を引掛け人を殺(し)候時、殺候方を引候もの(車の引手で人を轢いた側の者)死罪、寛保13年極”“但人々不当方を引候ものは(人を直接引いていない側の引手の者)遠島、車の荷主(は)重き過料(罰金)、車引の家主は過料、享保13年、寛保3年極”。“1.同怪我いたさせ候(させた)もの遠島。享保7年極”その時に“但人々不当方を引候ものは中追放(財産没収、犯罪地、居住地から追放及び近国への立入禁止)、車之荷主重き過料、車引之家主は過料、寛保元年極”。“1.牛馬を牽掛け(牛車や馬車を牽いて)人を殺候もの死罪、寛保元年極”。“1.同怪我致させ候もの中追放、寛保元年極”。と、規定されている。
以上の規定によると、直接、大八車や荷車、牛車や馬車を引いて事故を起こしたとき、直接、人に当てた場合、自動車的に言えば運転手は死刑というのは、意図的ではないとしてもかなり厳しいので、その後、人通りの多い道路を通る場合は、宰領という前触れの人を走らせたという。この事故を防ぐための方法は、実は犬公方と呼ばれた五代将軍綱吉が、動物を愛護する生類憐みの令と後に呼ばれた一連の施策の中で“牛車大八車宰領必添令”という指示を出し、往来の犬や猫を轢き殺さないよう宰領を走らせた前例があり、後年、人を轢かないよう前触れを走らせるようになったという。
また“死罪”という厳しい罰則になったのには背景があって、1728年11月(享保13年10月)のお触れ「荷車通行等取締」によると、“牛車、大八車、地車並びに荷車等引通候儀(引いて通ることについて)、往来の障りに罷りならざるように(通行の邪魔にならないようにと)前々も度々相触候ところ、就中(そのうえ)去る寅年(にも)きっと相触候ところ、近き頃またぞろ猥りに相成(無視するようになり)、往来の人を避け申さず我儘に引通候に付”と、ルール無視となっている状況を説明した上で、空(から)車を飛ばして事故死をさせた事例を出して厳罰にしたと説明、今後このようなことにないように注意をしている。このお触れが交通事故死をさせた加害者に対する厳罰の根拠になっている。
次に喧嘩のあげくの果ての場合だが“1.口論の上、人に疵付片輪(身体障害)にいたし候もの。中追放”“但渡世も難成程の片輪に致候はゞ(日常生活を不自由にさせる障害者にした場合は)、遠島”“1.人に疵付候もの療治代疵之不依多少(治療代の負担は傷の程度による)”“町人百姓は銀一枚。延享元年極追加”(以下略)となっており、これらの刑罰規定については“極”の時点で“御触れ”が出されている。
被害が大きな失火については、69条で“出火に付而之咎事(ついてのとがめごと)”として、焼失面積、類焼被災の多少、将軍外出の有無、火元などによって、それぞれ手鎖(手錠をつけて生活)や押込め(自宅謹慎)など大小の咎(軽い刑罰)を付けている。なかでも重罪なのは放火犯で、これについては70条“火付御仕置之事”としてすべて死刑だが“火を付け候もの、火罪(火あぶりの刑)、但し燃え立ち申さず候はば引き廻しの上死罪(後に追加)”と、既遂、未遂の場合によりその刑罰に差をつけている。
また69条の条文の中で“風上二町風脇左右二町づヽ、(合計)六町の月行事(当月の町内行政担当の五人組の一人)、30日押込”“但、風上風脇のもの共不情之様子次第(遅れた事情によっては)相応之咎可申付候(それに相応した罰を申し付ける)”“格別精出し候はゞ誉可申候”とある。これは火災が起きた町の風上や、その左右の町々の町火消の応援が遅れ、火の手が広がった場合の規定で、逆に早く駆けつけ消火に努力すれば“誉可申候”と、ほめるとしている。
なお、この御定書はなぜか公開されず、業務に関係あり編さんに関わった3奉行のほか、京都所司代、大坂城代のみが閲覧を許されるという秘法扱いだが、個々の事項に関する規定は必要なつど、具体的な“お触れ”となり一般に周知された。しかし後年になると密かに写しがつくられ、諸藩の法令制定の参考になったという。
(出典:日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1742(寛保2) 685頁:幕府の基本法典完成する。訴訟件数の増加に対応」、国立国会図書館デジタルコレクション・日本大学38年度第2学年講義録
「御定書百箇条 54頁~60頁(36コマ~39コマ):69条,70条、71条」、水喜習平編著「江戸と座敷鷹>江戸編>江戸期の庶民の制度 1>前説-公事方御定書の成立」、同編著「同 5>公事方御定書 百箇条 61~80」、黒木喬著「江戸の火事>第4章 江戸の防火対策>2 火の元の掟 131頁」。参照:2015年11月の周年災害「幕府“江戸町中定”を公布し犯罪などを処分」、2016年5月の周年災害「幕府、初の交通事故処罰令公布、わが国交通政策史上画期的な内容」2010年11月の周年災害「幕府、牛車・大八車に生類見張り(宰領)の令」)
○越前府中(武生市→越前市)宝暦の大火。町家をほとんど喪う(260年前)
1762年5月10日(宝暦12年4月17日)
午の刻(午前12時ごろ)過ぎ、竹が花町の忠兵衛宅から出火、折からの強い南風にあおられて次々と延焼した。
実は、去る4月26日(旧暦・4月3日)夜の火災でおよそ200軒を焼失したばかりだったが、残りの町まちに延焼して1234軒を焼失、町家はほとんど喪われたという。また藩主の館も主要な部分が焼け落ちたのをはじめ藩士の屋敷97軒が焼失した。そのほか、米蔵、煙硝蔵(火薬庫)、鉄砲蔵、藩主家族の蔵2か所など5か所が焼失し、藩士と町民の土蔵102棟、寺39か所、神社7か所が失われている。6人死亡。
(出典:武生市史編纂委員会編「武生市史・概説編>近世>(1)府中の大火と火消組 328 頁~329頁:宝暦の大火」、島信次編「武生郷友会誌>史料>記録に残れる府中の二大火 19頁~20頁:(1)寶暦の大火」)
○酒田明和9年の大火「片町火事:藤十郎火事」。街のほとんどを焼き尽くす(250年前)
1772年5月17日~18日(明和9年4月15日~16日)
酒田は庄内平野を流れる最上川の河口部に位置し、米穀の一大集散地として発展“西の堺、東の酒田”ともいわれた出羽国(現・山形県)屈指の港町である。
しかし火災が多く、春の北西及び南東の強風の吹く季節に発生し、特にこの旧暦4月には、江戸時代に10戸以上焼失した火災68件の約2割14件が発生している。この日の大火もその内の一つで、四つ過ぎ(鎮火時間から見て朝四つ:午前10時過ぎか)片町の藤十郎の家宅から出火した。
炎は折からの南東風にあおられ本町通りから川端通りへと進み、日和山下まで延焼し翌18日(旧・16日)暁七つ半(午前5時ごろ)鎮火した。寺町通りと鍛冶町の末だけ残るという具合で、酒田の街のほとんどを焼き尽くしている。
酒田の亀ヶ崎城在番の加藤与助が、当時、酒田を支配していた庄内藩庁(現・鶴岡市内)へ提出した報告によれば、大火の被害は焼失した町家2183軒(酒田市史は2182軒)の内、本家2042軒、名子(使用人)の家138軒、寺社門前の家8軒(合計が5軒すくない、専門調査会報告書のミスプリント?)、寺院1か所、消火のために取り壊した家7軒、切り潰した家17軒となっている。またそのほかに土蔵124棟を焼失したが、その多くは米問屋の蔵々で米穀6~7万俵が灰となってしまったという。
当時、口さがない江戸っ子は目黒の行人坂の大火で、明和九年は“めいわくな年”と呼んだが、酒田にとっても迷惑な年になってしまった。
(出典:内閣府編「中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1976酒田大火>第2編 前近代における北部日本海域の大火>第3章 山形県域>2 酒田湊における主な大火の実態と特徴 53頁:(3)明和9(1772年)の片町火事」、酒田市史編纂委員会編「酒田市史 上巻>第四編 災害との苦闘>第二章 火災と火防>第三節 続発する大火の記録 691頁~692頁」。参照:2012年12月の周年災害「明和から安永へ改元。大火あり、明和九(めいわく:迷惑)で」)
○四月朔地震で眉山大崩壊。対岸肥後藩領等にも大津波「島原大変、肥後迷惑」(230年前)[改訂]
1792年5月21日(寛政4年4月1日:四月朔日)
歴史に残る大災害の発端は、140日ほど前の1791年11月3日(寛政3年10月8日)、雲仙普賢岳山麓での火山性地震に始まる。12月に入ると島原半島西岸小浜村(現・雲仙市)では特にひどくなり、鬢串(びんぐし:小浜温泉公園東方約1.5km)では山崩れが起きる。
翌1792年2月10日(以下新暦)、地震と地鳴りは雷のようにひどくなり、半島東岸の深江(現・南島原市)、安徳(現・島原市)、中古場では特に強かった。
2月11日、普賢岳山頂直下で噴火。普賢祠(現・普賢神社)前のくぼみから泥土、煙、小石が噴出、火山灰が四方に散り島原城下まで降灰。
2月18日、山頂から上がる噴煙を見ようと山に登る人が増え、遊山気分の見物客相手に物売りも登場する騒ぎとなり、島原藩では火の不始末注意の触れを出すほどに。
2月27日午前10時ごろ、普賢岳山頂から北東、穴迫谷(あなさこだに)鳴動。谷の南端、山頂より1kmほど離れた琵琶ノ撥(びわのばち:琵琶の首)から新しい噴火が始まる。
2月29日夜中~3月1日、溶岩が穴迫谷の底から盛り上がり、崩れ落ちて草木に引火し野火を起こす。溶岩はゆっくりと無人の谷を下る。
3月21日、琵琶の撥から南へ200mほど高く離れた蜂の窪で震動、噴煙上がる。溶岩流が琵琶の撥からの流れと合流、勢いを増す。
溶岩が流下した穴迫谷は険しい谷だったが、ちょうど谷を見下ろせる位置に呂木山という小山があり、珍しい溶岩流が見物できるというので、島原藩領はもちろん近隣諸国から大勢の見物客が押し寄せ「武家商家婦人、皆紅粉の色を争い、三弦の妙声あれば、華唄の美音山をとどろかし、呂木山の麓には、茶店酒店を修補、生酔いも絶え間なく……」(西肥島原大変聞録)と、現代の花見の様な盛り上がりとなった。島原藩では当初、火の不始末を注意する程度だったが、酒盛りの果てのけんかでけが人が出る騒ぎとなり、ついに立ち入り禁止の処置をとる。
3月下旬となり、穴迫谷の東山麓、千本木の人家あたりへ溶岩流が迫ったが、火山活動はやや小康状態となる。
ところが、今度は島原半島の東部で地震が群発し始め、4月21日(旧3月1日)から22日にかけて、三月朔(1日のこと)地震と呼ばれる強い地震が起きた。地震は大砲のように響く山鳴りを伴って城下町一帯を揺るがし、各所で山の斜面が崩壊、道路も地割れを生じ、島原城の石垣も崩れた。
特に普賢岳の海よりにある前山と呼ばれた天狗山(眉山)では地下水が急上昇、地滑りによって巨大な岩石が転げ落ち、木々がなぎ倒されたという。その後地震は4、5日間激しく揺れ、藩領内で2人死亡、家屋全壊23棟、半壊34棟、土蔵全半壊4棟の被害が出た。城下の人々は近郷近在の身寄りを頼って避難、藩士の家族は城内に避難した。
そして、地震が小康状態になり人々が戻っていたこの日酉の刻過ぎ(午後8時ごろ)、四月朔地震と呼ばれる強い地震が2回島原を襲い、直後眉山が大崩壊して有明海に突入、約9mの大津波を3回起こした。「島原大変」である。
島原藩領、1万139人死亡、601人負傷、家屋流失3347棟、土蔵流失、破損308棟、神社流失23か所、寺流失16か所、船流失・破損582隻、橋流失56か所、田畑荒廃379町歩(3.8平方km)。
一方大津波は対岸の肥後藩領(熊本県)や南方の天草諸島を襲った。「肥後迷惑」である。有明海沿岸部の人々は“よもや”と思ったことだろう。不意を突かれた肥後では4653人が死亡、811人負傷、家屋流失2252棟、寺社流失各1か所、船流失・破損1000隻以上、田畑荒廃2130町歩(21平方km)となり、天草諸島では343人死亡、家屋流失373棟、土蔵流失2棟、船流失・破損67隻、橋流失11か所、田畑荒廃171町歩(1.7平方km)。肥前佐賀藩領18人死亡、25人負傷、家屋流失59棟、橋流失5か所、田畑荒廃106町歩(1.1平方km)などの大被害を負った。
大災害後、僧侶が語る説教節「肥前温泉災記」が生まれこの悲劇を長く伝えたという。
(出典:伊藤和明著「地震と噴火の日本史>第2章 歴史に残る火山の噴火 48頁~60頁:4 島原大変肥後迷惑」、宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧>4 被害地震各論 121頁~122頁:213 雲仙岳」、長崎県編「長崎県温泉誌」>長崎県衛生公害研究所+県立島原温泉病院編「長崎県温泉誌3-4 島原温泉と雲仙普賢岳噴火災害>雲仙・普賢岳の噴火と災害>雲仙岳の噴火史 406頁~411頁:1792年(寛政4年)の噴火、島原藩の財政」、砂防フロンティア整備推進機構編「島原大変記」)
○越前府中(武生市→越前市)嘉永の大火。町家1300軒余焼失(170年前)
1852年5月11日~12日(嘉永5年3月23日~24日)
暮れ六つ過ぎ(午後7時ごろ)、内西裏庚申町上の端の農家岩佐屋甚助方から出火、この季節、北陸特有のフェーン現象と思われる、折からの辰巳(東南)の風にあおられて一気に延焼した。
被災地の間口が狭く奥行きの深い板葺きや藁(わら)葺きの家々は、炎の勢いにひとたまりもなくほとんど全町域をなめ尽くされ、その6割以上を灰にして翌12日朝五つ(午前8時ごろ)ようやく鎮火した。
町家全焼1365軒、半焼72軒、土蔵全焼409棟、半焼74棟。藩士屋敷7軒、寺27か所、堂14か所、塔頭2か所、神社5か所、平出村32軒を焼失。3人死亡、5人負傷。
(出典:武生市史編纂委員会編「武生市史・概説編>近世>(1)府中の大火と火消組 333頁~334頁:嘉永の大火」、武生風土記編さん委員会編「武生風土記・続編 129頁~134頁:嘉永の大火」)
○文久2年麻疹(はしか)大流行、江戸だけで24万人が死亡、幕府崩壊の一因に(160年前)
1862年5月~(文久2年4月~)
コレラの流行地、清国(現・中国)香港に寄港し、感染した乗組員を乗せたアメリカ軍艦ミシシッピが長崎に寄港、わが国に史上最大のコレラ大流行をもたらしたが、そのわずか4年後のこの年、今度は史上最大級の麻疹(はしか)の大流行があり、幕府崩壊の一因になったという。
斎藤月岑は年史「武江年表」で記す。江戸で“夏の半ば(新暦・6月ごろ)より、麻疹、世に行われ(流行し)、七月の半ば(新・8月中旬)に至りては、弥蔓延(まんえん)し、良賎(上流下流)男女この病痾(長わずらい)に罹らざる家なし、此の病、夙齢の輩に多く(天保七年の麻疹にかからざる輩なり:1836年の流行年の翌年以降に生まれた若い者)、強年の人(中高年)には稀なり(中略)。後に聞けば、二月の頃(新・3月ごろ)、西洋の船崎陽(長崎)に泊して、この病を伝え、次第に京、大坂に弘まり、三四月の頃(新・4、5月ごろ)より行われけるよし”という状況と経路で、江戸を始め全国に広まった。
ちなみに、江戸の各寺が受け付けた麻疹で死亡した人の新墓は、23万9862基と報告されている。全国の死亡者数は不明だが、数十万人が死亡したといわれた1858年(安政5年)のコレラの大流行の時よりも死亡者が多いと「武江年表」は記している。
現代では“はしか”には、ほとんどの人が幼年期にかかり、その時免疫を得てそれ以降はかからなくなる。
江戸時代では流行期にかかり、免疫を得て生き延びた人はその次の流行期にかからずにすみ、達者でいるので年齢がわかったという川柳がある。“麻疹で知れる傾城(遊女)の歳”というやつ。26年前の天保7年に大流行したが、その時かかり今回は達者でいるので、遊客にそれより年を若くいっていた嘘がばれたという話。
これなどは川柳のネタで済むが、済まなかったのは、この年の大流行の原因が、長崎に来た西洋船の乗組員が上陸して麻疹ウイルスを置きみやげにしていった事実であった。4年前のコレラ大流行もアメリカ軍艦の乗組員からである。これらのことは、うわさ話や当時の新聞“かわら版”で、庶民のほとんどの人が正確に知っていた。
コレラが大流行した年の1858年7月(安政5年6月)アメリカと修好通商条約を締結、日本は220年余にわたる鎖国を解いた。その後オランダ、ロシア、イギリス、フランスと次々と修好通商条約を締結したが、それにより日本の金や銀の貨幣は海外へ流出、国内では物価が暴騰し庶民の生活は苦しくなる一方、そこへもってきて、西洋からもたらされたコレラや麻疹の大流行である。幕府に対する不信の念が庶民の中に芽生えたとしても不思議ではない。
この4年後の1866年9月(慶応2年8月)ほぼ全国的な寅年の大洪水が起こり、慶応大凶作となり、ついに民衆は各地で蜂起するか、討幕派の武士たちを支援する道を選び、ついに幕府は崩壊する。
(出典:東京都編「東京市史稿>No.2>変災編 第3>第四章 疫癘史>二.覇都時代の疫癘 1043頁~1050頁:文久二年麻疹」、栄研化学株式会社編「モダンメディア 第56巻7号(2010年7月号)加藤茂孝著「人類と感染症との闘い 第7回『麻疹(はしか)』-天然痘と並ぶ2大感染症だった-」、富士川游著「日本疾病史>麻疹>疫史 187頁~188頁:文久二年(一八六二)」、坂井シヅ著「病が語る日本史>第二部 時代を映す病>十一 かつては「命定め」の麻疹 238頁~243頁:1 江戸時代の麻疹、2 文久二年の麻疹流行」。参照:7月の周年災害・追補版(5)「安政5年コレラ長崎に上陸ついに江戸へと拡がり、史上最大の流行へ」、2016年9月の周年災害〈上巻〉「慶応2年8月四国・近畿・関東・奥羽諸国暴風雨“寅年の大洪水”幕府崩壊へ」、2016年12月の周年災害「物価騰貴と慶応大凶作-全国で民衆が一斉蜂起、幕府ついに崩壊」)
○札幌「御用火事」-道都札幌の都市建設進む(150年前)
1872年5月3日(明治5年3月26日)
明治時代初期の北海道開拓の有名なエピソードとして、札幌での「御用火事」というのがある。
御用とついているところから分かるように、札幌の都市建設を進めるため、当時の北海道開拓の実際上の責任者、判官・岩村通俊の命令一下起こした放火火事である。
北海道開拓使(現・北海道庁)の開墾掛の記録「細大日誌」に、山火事を予防するため、開拓使庁の職員一同が参加して、ガラス邸と呼ばれていた家の前あたりから、脇本陣(開拓使長官等が来札の時の宿舎)近くの本願寺から薄野(すすきの)あたりにある明治4年の移民の空き小屋を残らず焼いた。という記録が残っている。
御用火事が起きた前年の1871年(明治4年)5月、開拓使庁が札幌に置かれ、道都としての札幌の都市計画が実行されつつあったが、移民たちを移住先に送り込む前に一時的に札幌へ集めて住まわせていた仮設の小屋が、燃えやすい茅づくりの小屋だったため、野火(開墾のため枯れ草を焼く火)や放火で焼かれ、延焼して大火事の原因となったり、都市計画を実施する上でもじゃまだったという。中には開拓移住やよその土地へ移転し本普請をすることなどを拒否し、その仮設の茅小屋に住み続けた人もいたようだ。
そこで御用火事となる。この日焼き払われた地域は官庁街を建設する予定の土地だったという。放火という強硬手段をとって現在の札幌の繁華街すすき野が生まれたということ。
(出典:札幌市教育委員会編「新札幌市史・第2巻 通史2>第5編 札幌本府の形成>第2章 開拓使本庁と札幌>第4節 札幌都市計画の進展>2 札幌での本格的建設の準備と御用火事 159頁~160頁:御用火事」北海道経済産業新聞・船橋正浩著「うきうきして候-御用火事」、札幌市編「広報さっぽろ2001年②>区民のページ中央 8>歴史の散歩道 第75回 開拓使の放火がきっかけとなった消防事始」
○富山県氷見明治の大火-江戸の街が生まれ変わる(140年前)
1882年(明治15年)5月15日
氷見町(現・市)の中心、仕切町の上田屋から出火、南の風にあおられて北へと延焼、氷見町から郊外の窪村(現・氷見市)まで焼き尽くし1600余戸を焼失させた。
当時の氷見町の中心街は大町と呼ばれていたが、道幅は3間(約5.4m)しかなく、それが南北に走り商店街を形成していた。その東側の海沿いが裏町で、主に漁業従事者、日稼労働者、各種の職人の狭い家屋が密集し、大町に張り付くように街をつくっていたという。この大火による町の再建は当時の不景気と重なり容易ではなかったが、この大火で江戸の街が明治の街へと生まれ変わったという。
(出典:氷見市史編さん委員会編「氷見市史・通史編2>第4章 氷見の近代産業>第3節 明治の商工業>1.氷見町の産業的景観 161頁~162頁:明治の大火と氷見の町並み)
○旅客船大洋丸魚雷攻撃を受け沈没。日本の南方経営に大打撃(80年前)[改訂]
1942年(昭和17年)5月8日
太平洋戦争中(1941年12月~1945年8月)、アメリカ軍など敵軍からの攻撃及び機雷への接触などにより喪われた船舶は3603隻、904万6816トンにのぼっている。
またそれによって喪われた人命は、当該沈没船舶の船員3万6640人、沈没船舶に同乗していた、隊員と呼ばれていた将校や兵隊10万9908人、便乗者と呼ばれていた一般民間人及び徴用(強制的な軍の雇用)された民間人(軍属)5万6478人、合計20万3026人の多きにのぼっているが、陸軍が徴用した船舶や、敗戦間近の1945年(昭和20年)4月以降の喪失船の記録は、混乱のまま残されていないので、その実数はもっと多いとされている。
その失われた船舶の中でも大洋丸は日本郵船所属で、かつて第1次世界大戦(1914年~1918年)後、敗戦国ドイツから日本が賠償船として受領した船だが、1932年(昭和7年)にはロサンゼルス・オリンピックに出場する日本選手団を載せるなど、全長171m、1万4457トンを誇る我が国を代表する旅客船だった。
1942年(昭和17年)5月5日、同船は一般民間人1010人、軍人34人のほか、燃化剤のカーバイド150トンなどの軍および民需品2300トンを載せ、宇品港をフィリッピンのリンガエン湾に向かい出港した。
翌7日正午、門司港で大洋丸を先頭に6隻の船団を組み出発。19時ごろ、護衛艦の特設砲艦北京丸から「潜水艦出没の怖れあり」との信号を受け取ったが、五島列島の南、男女群島・女島灯台南々西255kmを航行中、19時45分、突如アメリカ潜水艦の放った魚雷第1弾が船尾左舷に命中。続いて第2弾が二番艙左舷側に命中し積載していたカーバイドが燃え、船体前部はたちまち火の海となった。炎は近くに積載していた手りゅう弾に引火して爆発、渦を巻いて高く舞い上がった。
20時40分、同船は大きな渦巻きを残して海面から姿を消した。船長以下乗組員157人および 乗客660人死亡、543人が救助されている。
同船に乗り犠牲となった多くの人たちは、当時日本軍が占領していた南方地域の産業開発を進めるため、特に各界から選抜されたかけがえのない技術者や企業経営の専門家たちであった。国民の戦勝気分に水を差し、日本の南方経営が大打撃を受けたことは言うまでもない。
大洋丸沈没の一報を受け、軍部は直ちに報道を差し止め、遺族たちは集められて、口外してはならないと命令されたという。
(出典:宮本三夫著「太平洋戦争喪われた日本船舶の記録」、日本郵船(株)日本郵船戦時船史編纂委員会編「日本郵船戦時船史>昭和17年 68頁~ 大洋丸」、テンミニッツTV・浦 環 講述「1942年に米潜水艦の魚雷で沈没した大洋丸の数奇な運命」)
○オホーツク海沿岸漂着機雷、公開爆破準備中の爆発惨事(80年前)[改訂]
1942年(昭和17年)5月26日
本来は重要な港湾や海峡を封鎖し、敵の攻撃から守るために敷設された機雷が、誤って海流に乗り浮流することがあり、我が国でもそれによる触雷事故で多くの艦船を失っているが、浮流機雷が海岸に漂着し大事故を起こしたケースはあまりない。
大事故のあった1週間前の5月19日、オホーツク海を漂流する機雷を最初に見つけたのは、ニシン漁の漁師たちだった。定置網に引っかかったふた抱えもありそうな大きなそれに手網を慎重にかぶせ近くの三里番屋の浜(ポント浜)に運んだ。何事もなく上陸したので最初は不発弾と思ったという。
届けを受けた下湧別村(現・湧別町)の派出所では本署の遠軽警察署に通報、遠軽署署長は直ちに本庁の北海道庁警察部に報告した。この日、隣接するサロマ湖内にも別の浮遊機雷が漂着していた。
同署長は本庁へ報告をしたものの、係官の派遣は断り遠軽署管内の人員だけで単独処理することにし、下湧別村ポンド浜で26日午後1時に爆破処理をすると決めた。また、敵国のものと思われる機雷を爆破することは、戦意高揚の絶好の機会と考え、遠軽から湧別にかけての近隣の村々に命じて可能な限り見学させること。地域を守る警防団員(消防団を戦時体制に合わせ改組)は漁師が多く、ニシンの好漁期であったが全員に出動を命じ、下湧別村の団員は警察の指揮の下、機雷の処理に当たらせるとした。一方、サロマ湖に浮かんでいた機雷は、警防団員の手で2km先のポンド浜まで海上輸送され、準備は整った。
事故当時、近隣の村々から集まった見学者と全員参加を命じられた青年学校(勤労青少年に実務の補習教育と軍事教練を行った)生徒たちなど砂浜は3~400人の人で埋め尽くされ、それでもまだ惨事のあとも、臨時列車に乗ってはるばる見学に来る人たちを含めれば、1000人ほどに上っていたという。
当初爆発は海中で行うと決められたが、漁師でもある警防団員が水中の魚が全滅するとして猛反対し、さすがの署長も陸地でやると変更、二つの機雷を適当な間隔にあけるよう命じた。
サロマ湖に漂着した機雷はうまく砂浜を引きずることができたが、ニシン網に引っかかった方は不安定に見えたので胴体にロープを巻き砂浜の横を走っている小道に引っ張り上げようとした。機雷は転がりながら硬い土の道に来たとき、大爆発した。
機雷のそばにいた警防団員と警察署員がほぼ全員死亡するなど112人が死亡、130人が負傷した。
(出典:昭和の小漁師編「湧別町百年史>第4編 行政・戦前>第4章 苦難の戦争体験>(5)悪夢の機雷事故」)
○「耐火建築促進法」公布・施行。防火建築帯造成事業始まる(70年前)
1952年(昭和27年)5月31日
1952年4月に発生した鳥取昭和の大火の教訓を基に、この日「耐火建築促進法」が公布・施行された。
この法律の目的は、もちろん“都市における耐火建築物の建築を促進し”ではあるが、個々ばらばらではなく“防火建築帯の造成を図り”“火災その他の災害の防止”(第一条)にあった。これにより、防火建築帯造成事業が開始され、都市の中心部に地上3階以上、高さ11m以上の耐火建築物が帯状に建設されることになり、その最初として、大火後の鳥取市が同年8月2日指定された。
1953年(昭和28年)4月、秋田県大館市で官公庁街を焼失させた大火があり、この法律に基づいて防火建築帯を造成するなど復興再建され、3年後の1956年(同31年)8月の大火の際には延焼を食い止めるなど効果を発揮している。
その後、静岡県沼津市では防火建築帯の沼津アーケード街を1957年(同32年)に完成させたが、その際我が国でもまれな市条例で美観地区の指定をするなど、単に不燃化を超えた街づくりにこの法律が活用された。
以降、防火建築帯は全国83都市で造成されたが、1961年(同36年)6月の「防災建築街区造成法」に引き継がれた。そして防災街区造成事業が始められ、それまでの帯状の線的な防火再開発から面的な再開発へと発展する。その後、関連法とともに1969年(同44年)6月の「都市再開発法」へ統合され現在に至っている。一方、かつて防火建築帯として整備された地区も50年余の歳月を経て、現在では再開発の対象となっているという。
(出典:衆議院制定法律 「耐火建築促進法」、同法「防災建築街区造成法」、同法「都市再開発法」、鳥取県立公文書館歴史編さん室西村芳将編「鳥取大火後の防火建築帯について」、梶の目トランシス編「大館市の防火連鎖店舗を見に行く」、角 哲、越澤 明著「秋田県大館市の防火建築帯を中心とした大火復興による都市形成」、沼津市教育委員会編「本通りに防火建築で全国初のアーケード街が完成」、参照:2022年4月の周年災害「鳥取昭和の大火-耐火建築法制定へ」)
○国鉄常磐線三河島駅三重衝突事故。自動列車停止装置設置と改良へ(60年前)
1962年(昭和37年)5月3日
ゴールデンウイークで混雑する国鉄(現・JR)常磐線三河島駅構内で、貨物列車と旅客電車2本が三重衝突し、160人が死亡、325人が負傷する大事故となった。
21時36分、田端操車場発水戸行き下り貨物列車が、常磐線下り本線に入るところにある赤信号を見落としてオーバーラン、線路脇の砂利山に接触し安全側線だったが脱線、30秒後、機関車を傾斜させて停止した。
貨物列車と並行する上野発取手行き下り電車が、定刻より4分遅れて21時36分三河島駅を発車。40秒後、時速約40kmで本線側に傾いてきた貨物列車の機関車後部と衝突、前2両が脱線し上り線側に傾いて停車した。乗客は非常用ドアコックを回して扉を開け上り線側の線路に降り、三河島駅目指して歩き出した。
第二事故発生から5分50秒後、事故の連絡を受けていない上野行き上り電車が、三河島駅を目指して急接近し、線路上を歩いていた乗客を次々とはね、上り線側に脱線していた下り電車と正面衝突、先頭車両は大破、2両目から4両目の車両が線路下数メートルに転落した。
この大事故の原因として指摘されたのは、貨物列車の信号無視と第一の衝突後、入構を目指している上り電車を止めることを怠ったことなので、国鉄では当時全線に設置中の車内警報装置に非常制動タイマーを加えた“自動列車停止装置(ATS)”とし、その後改良を加えていくことになる。
(出典:失敗学会編「失敗知識データベース・失敗事例>常磐線三河島での列車三重衝突」、日本全史編集委員会編「日本全史>昭和時代>1962(昭和37)1123頁:常磐線三河島駅で2重衝突事故、死者160人の惨事に」
○サリドマイド薬害事件。大日本製薬出荷停止、回収の遅れと不徹底が被害を拡大(60年前)
1962年(昭和37年)5月17日
この日、大日本製薬(現・大日本住友製薬)が、サリドマイド製剤のイソミンとプロバンMの出荷を停止し厚生省に報告した。
サリドマイドは1957年10月、当時西ドイツのグリュネンタール社で開発され睡眠薬として販売された。我が国では、大日本製薬が独自な製法を開発し、1958年(昭和33年)1月イソミンの名称で睡眠薬として市販を開始、翌1959年(同34年)8月には胃腸薬プロバンMに配合して市販するようになり、妊婦のつわりに良く効くとして服薬されるようになった。
ところが同年から1961年(同36年)までの間に、東京都立築地産院で3例の四肢に障害を持った嬰児の出産が報告されるなど、全国で被害の報告が相次いだが、大日本製薬ではグリュネンタール社に研究員を派遣したのにもかかわらず、催奇形性(肉体に障害を発生させる薬物の性質)についての情報は無視、販売を継続した。
一方、ドイツでは1961年11月18日、ハンブルグ大学のW.レンツが小児科学会で“あざらし状障害児”の原因は、初期の妊婦が服薬したサリドマイドにあると発表、グリュネンタール社に警告したがいったんは拒否された。ところが同月26日、ヴェルト・アム・ゾンダーク紙がこの事実を報道したことによって同社は同日、市場からサリドマイド剤を回収することを決定、他のヨーロッパ諸国でも同剤は次々と回収された。
同年12月5日、グリュネンタール社からの警告が大日本製薬に届き、翌日、同社は厚生省(現・厚生労働省)と協議したが“有用な薬品を回収すれば社会不安を起こす”とし、販売は継続されることになった。それだけではなく、翌1962年(同37年)2月、厚生省は亜細亜製薬のサリドマイド剤パングルの製造を許可している。
同年3月、製造販売を止めない大日本製薬に対しグリュネンタール社は再度警告。2か月後のこの日、大日本製薬はついに出荷を停止するが回収に踏み切らないので、各薬局では在庫の販売を継続、妊婦たちも服薬を止めることはなかった。
翌5月18日、朝日新聞がドイツでサリドマイド剤と先天性障害児との因果関係が論争になっていることを報道、他のメディアも一斉にこの事実を報道した。同月24日“報道による混乱を避けるため”とし、他のサリドマイド剤メーカー5社も出荷停止を追随した。ところがようやく市場から同剤が回収されはじめたのは約4か月後の9月13日からで、厚生省がサリドマイドの被害調査を東大に依頼したのが翌14日ということであり、この回収の遅れと回収の不徹底のため被害はいっそう拡大し、7年後の1969年(同44年)までの間、先天性障害児が誕生し続けた。
日本のサリドマイドによる被害児309人、そのうち上肢、腕、指の障害児246人、聴覚障害児82人、障害重複児19人。死産児を含めると被害は数千人にのぼると言われている。製薬会社と厚生省による薬害事件の始まりである。
(出典:(財)いしずえ(サリドマイド福祉センター)編「サリドマイド事件-事件の概要/被害の実態」、医薬品医療機器レギュラトリーサイエンス財団編「薬事温故知新 第78回 サリドマイド事件」、
日本全史編集委員会編「日本全史>1962(昭和47)1124頁:広がるサリドマイド禍、ずさんな薬事行政、遅まきながら出荷中止」)
〇総務省消防庁「消防操法の基準」制定。詳細な消防活動マニュアル(50年前)[追補]
1872年(昭和47年)5月11日
総務省消防庁は、消防活動の総括的なマニュアルとして、1953年(昭和28年)に告示した「消防操法の準則」と1957年(同32年)告示の「消防用器具操法の準則」を整備統合した「消防操法の基準」を、この日告示した。
この新基準告示の目的は、もちろん“消防吏員及び消防団員の訓練における消防用機械器具の取扱い及び操作(以下「操法」)の基本を定め、もつて火災防ぎよの万全を期する(第1条)”ところにあるが、昭和40年代(1965年~1974年)に多発した大型ビル火災やトンネル内火災、地下鉄工事現場ガス爆発事故など大型災害に対応して開発が進んだ、“ボンベ型空気呼吸器”や“大型屈折はしご車”に対する操法も新たに定め、それらの習熟により、大都会だけでなく全国各地方においても操法の応用が利くこと、消防用新しい器具、車両などに対する付加的な操法にも対応できるようにする目的があった。
この基準の内容は相当細かく具体的である。
「第1編 総則」では、「操法」そのものの基準に入る前に、器具、車両などの“操作活動”上の基本的な事項として、用語(第2条)、操法上の留意事項(第3条)、指揮者が隊員を指揮する場合の留意事項(第4条)、指揮者、隊員間の意図の伝達方法(第5条)、隊員の集合、点呼、想定(指揮者が隊員に与える仮想災害における器具等操作上の位置)、定位(定められた器具等操作上の位置)、点検、解散、休憩に対する号令および隊列(第6条)などを具体的に定めている。
次の各編は、消防用器具(第2編)、消防ポンプ(第3編)、はしご自動車(第4編)、消防艇(第5編)と分かれており、それぞれにおける「操法」が定められている。
たとえば、第2編の「消防用器具操法」では、第1章「通則」として、消防用器具操法の種別(第7条)、器具動作の姿勢(第8条)とこれも具体的で、次章第2章より、火災防ぎょ用器具操法(第2章)、はしご操法(第3章)、空気呼吸器操法(第4章)、ロープの結索操法(第5章)と、さまざまな場合の器具操法に入っていく。
たとえば、第2章の“火災防ぎょ用器具”とは、消防ホースのことだが、第1節の「筒先操作」では、筒先を背負う要領(第10条)、筒先をおろす要領(第11条)、筒先の結合要領(第12条)、筒先の離脱要領(第13条)、基本注水姿勢(第14条)、注水補助(第15条)、注水姿勢の変換(第16条)、注水方向の変換(第17条)、注水位置の変換(第18条)、注水形状の変換(第19条)、筒先の収納(第20条)と、消防ホースを使用する消火活動について、その行動要領を細かく定めている。
生産工場で規定されている「作業マニュアル」でも、これほど細かく規定しているものはないかもしれない。生命、財産を火災から守る消防ならではマニュアルではないか。
(出典:総務省消防庁「告示・消防操法の基準」、近代消防臨時増刊号「日本の消防1948~2003>年表2消防組織・制度・法令改正編>昭和47年 219頁:5月11日 消防操法の基準の制定」)
○大阪千日デパートビル火災。戦後最大の死亡者を出す(50年前)
1972年(昭和47年)5月13日
22時27分頃、大阪市南区(現・中央区)の繁華街難波新地の雑居ビル・千日デパートビルで、電気配管改装中の3階にあるスーパー・ニチイ千日前店婦人服売り場付近から出火した。出火フロアーには、衣料品しかも大量の化学繊維製品が陳列されており、有毒なガスを含む猛煙が立ちのぼった。
出火当時、7階のアルバイトサロン・プレイタウンは営業中で、客、ホステス、バンドマンなど179人が更けゆく夜を楽しんでいた。22時40分~43分頃、有害な猛煙は、エレベーターシャフトやダクトを伝わって、プレイタウン内部に侵入し始めた。
管理区間が異なっていたため、ビルの保安係員はプレイタウンに火災通報をしていなかった。何も知らされていない客やホステスたちも煙や異様な臭いで火事!と知り、エレベーターへ殺到したがそこは煙で充満していた。店の避難階段前はクロークとなっておりカーテンを下ろしていたため、大部分のホステスはその存在を知らなかったという。
22時43分~46分頃、人々は避難路を求め閉鎖性が良いと感じたトイレ、厨房、控室などに逃げ込んだ。また、シャッターを開け回り階段へと向かった人々はそこも煙が充満し、屋上へのドアーには鍵がかかっているのを知る。
22時46分~50分頃、パニック状態となった人々は窓へ殺到した。しかし救助隊のはしご車で救助されたのは60人ほど、22人が救助を待ちきれずに墜落、96人がフロアーなどで煙による中毒で死亡するなど合計118人が犠牲となった。ビル全体で81人が負傷、避難階段で無事脱出できたのはわずか2人だった。
(出典:消防防災博物館編「特異火災事例(昭和37年~平成3年)>千日デパート」、近代消防臨時増刊号「日本の消防1948~2003>年表1.災害編>昭和47年・大阪千日前デパートビル火災」)
○防災週間を閣議了解。防災の日を含む1週間、防災関係のイベント開催(40年前)
1982年(昭和57年)5月11日
防災の日は、1959年(昭和34年)9月の伊勢湾台風を契機に、台風が多いと言われている“二百十日”の日で関東大震災(1923年:大正12年)の発生日である9月1日が、安保闘争デモのさなかの1960年(昭和35年)6月に閣議了解されていたが、防災の日を含む1週間を防災週間として閣議了解されたのがこの日である。
防災週間では、防災知識普及のための講演会や展示会などの開催、防災訓練の実施、防災功労者の表彰などの行事を実施するとされ全国的に展開されており、同週間の期間は翌1983年(同58年)5月の中央防災会議において、同年以降毎年8月30日から9月5日までの期間とすると決定された。
(出典:内閣府編「防災情報のページ・防災の日及び防災週間について」、東京消防庁「消防雑学事典>防災の日と二百十日」。参照:2020年6月の周年災害「防災の日を閣議了解」)
〇警察庁「警察災害派遣隊設置要綱」制定。広域緊急援助隊の歴史を引き継ぎ拡充(10年前)[追補]
2012年(平成24年)5月31日
警察庁では、1995年(平成7年)1月に起きた阪神・淡路大震災の教訓から、大規模災害時には都道府県の枠を超えて、広域的に迅速な、警察法第2条に基づく“災害警察活動”を行う必要性があるとし、大震災の年の6月、全国の都道府県警察に「広域緊急援助隊」を創設している。
その後、2004年(平成16年)10月の新潟県中越地震における教訓を基に高度な救出救助能力を持つ「特別救助班」を設置するなど活動体制の拡充につとめたが、このたび、2011年(同23年)3月の東日本大震災における活動の反省と教訓を踏まえ、災害に対する体制を見直した「警察災害派遣隊」を新設することとし、この日、同設置要綱およびその編成、運用などについて、各都道府県警察長官へ通達した。
新設された警察災害派遣隊は、次のように編成され、それぞれの役割が決められている。
1,即応部隊と新設の一般部隊との2部隊編成。
2.即応部隊は“広域緊急援助隊”として、被災者の救出活動を行う警備部隊、緊急交通路の確保を行う交通部隊、犠牲者の検視、身元確認を行う刑事部隊の3部隊編成と、ほかに広域警察航空隊、機動警察通信隊、緊急災害警備隊があり、全4隊編成で災害警察活動を行う。
3.一般部隊は、災害発生から一定期間経過後に、被災地の警察の機能を補完・復旧するために、捜索、警戒・警らなどの警察活動を長期間にわたり実施する。
その編成は、まず警察庁支援対策室と被災地へ派遣される支援対策部隊があり、その任務は、被災地派遣各部隊の宿泊所手配、装備・資機材・燃料その他物資の調達など支援業務となっている。
被災地へ派遣される部隊は、捜索、警戒・警らを行う特別警備部隊、交通整理・規制を行う特別交通部隊、パトロールを行う特別自動車警ら部隊、被災者の相談に対応する特別生活安全部隊、犯罪の初動捜査を行う特別機動捜査部隊、被災者への補給や援助受け対策を行う支援対策部隊の6隊編成で被災地警察への支援活動を実施する。
(出典:衆議院制定法律「昭和29年6月8日、法律第1262号:警察法」、警察庁「警察災害派遣隊設置要綱の制定について(依命通達)」「別添 警察災害派遣隊設置要綱」、警察庁「災害に係る今後の危機管理体制について」。参照:2015年6月の周年災害(下巻)「警察庁、各都道府県警察に広域緊急援助隊創設−警察災害派遣隊へ拡充」)
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(2025年5月・更新)