【目 次】

・正徳3年東海地方暴風雨、家屋被害1万2000戸

・江戸町奉行、江戸中心地の町家の屋根や家屋の防火構造化命じる-4年後には税金も免除、
 しかしそこまでしても進捗せず、150年後の京橋の火災で約7割が板葺きとわかる[改訂]

・享保18年インフルエンザ全国的流行、世界的な大流行の一環か。風神送りも大流行[改訂]

寛政8年中国地方西部、九州中部集中豪雨「辰年の洪水」[改訂]

・享和2年6月末梅雨前線豪雨、摂河両国大洪水237か村が被害に(210年前)[改訂]

・嘉永3年中国地方瀬戸内海沿岸部大洪水、高潮災害、田畑の損害表高の7割に達す[改訂]

・嘉永7年伊賀上野地震、1300人余死亡、家屋・土蔵・寺院全半壊1万9000余[改訂]

土崎湊(秋田市)文化11年の大火、全市域8割が被災

・越中高岡文政4年の大火、城内外とも被害甚大しかし加賀藩の事後処理は見事と

・安政5年、日米不平等条約締結の年、英艦からコレラ長崎に侵入ついに江戸へと拡がり史上最大の流行へ
 長崎でわが国初の感染症専門病院開設、治療経過の調査分析も行う[改訂]

・戊辰戦争、越後長岡の戦い、兵火で城下ほぼ潰滅[改訂]

【本 文】

正徳3年東海地方暴風雨、家屋被害1万2000戸
 1713年7月27日~29日(正徳3年6月6日~8日)
 
東海地方は古来より暴風雨による災害が多く、木曽川を初めとして天竜川、大井川などの河川のはん濫に悩まされてきた。この年正徳3年も記録は少ないながら大きな被害を引き起こしている。
 7月27日(旧歴・6月6日)から29日の3日間吹き荒れた暴風雨による被害である。
 翌28日(旧・7日)、29日にかけて洪水に見舞われたのが、尾張(愛知県)西部というからやはり木曽川の氾らんか。西に木曽、長良、揖斐の木曽3川が流れ、美濃(岐阜県)南西部から尾張(愛知県)北西部にかけて広がる肥沃な穀倉地帯・濃尾平野である。戸数も多く、この年も洪水による家屋の被害が1万2000戸にも達した。それだけではなく、よほどの強風だったのか、木曽川のほとりの小高い山の上に建てられている、尾張徳川藩の付家老・成瀬氏の居城・犬山城、地上24m望楼型三重の天守閣も落ちるという被害が起きている。
 (出典:愛知県編「愛知県災害誌 年表72頁:正徳3年6月6-8日 尾張、暴風雨・洪水」、犬山市編「国宝犬山城」)

江戸町奉行、江戸中心地の町家の屋根や家屋の防火構造化命じる-4年後には税金も免除、
 しかしそこまでしても進捗せず
、150年後の京橋の火災で約7割が板葺きとわかる[改訂]

 1723年7月8日(享保8年6月7日)
 映画やテレビの時代劇を見ると、お江戸の町なみは瓦屋根と決まっているが、それは絵空事なのが実情だった。江戸町奉行は60年来、飛び火からの延焼を防ぐため、屋根を蛎殻などで防火構造にするようにとの町触れをたびたび出し、この年の3年前には瓦葺きさえも許可していたが、町人たちがなかなか実行しないので、やむなくこのたび初めて地域を決め、期限も切って実行するようにと命じた。
 1590年8月(天正18年8月)の徳川家康、江戸城入城(江戸開府)以来、続々地方から移住してきた町人たちの家の屋根は、ほとんどが燃えやすいわら葺きか茅葺きだった。1601年12月(慶長6年閏11月2日)、江戸全市が焼亡したといわれた慶長の大火後、幕府では“庶民に令して、屋根を板葺きとなさしむ(当代記)”とした。
 しかしこの板葺きも、わら屋根より燃焼速度が遅いものの、防火対策としては不十分だった。防火上一番良いのは、城郭や大寺院に使用されている瓦葺きだが、屋根を支える建物の構造自体に費用がかかる上、瓦も高価なものなので庶民には手が届かなかった。一方、大火の前年1600年10月(慶長5年9月)の関ヶ原の戦いで徳川家が政権を掌握、江戸に屋敷を構える大名家や店を出す商人も増え、大火後の復興大名屋敷は、いわゆる桃山様式の豪華絢爛の瓦葺きで、富裕な商人の店舗の多くも瓦葺きだったという。
 ところが、1657年3月(明暦3年2月)、10万人が死亡したという明暦の大火が起こる。この時、炎上する大家屋の屋根から落ちてくる瓦のために危険な目に遭った人が多かったので、幕府は翌4月13日(旧暦・2月30日)、倉庫を除き国持大名といえども瓦葺きの家屋を建築することを禁じた。
 しかし、禁令を出した3年後の1660年(万治3年)は、江戸では火事が多く、2月12日(旧・1月2日)から5月3日(旧・3月24日)の間に105回も起きていた。江戸町奉行は、はやくも同年2月27日(旧・1月17日)、火災で焼け出された人々が臨時の小屋がけをする際、わら、茅、板などの燃えやすい素材で屋根を葺くことを禁じ、壁など周囲をしっくいや土で塗り込めた造り(塗家)にし、屋根は蛎殻で葺くか土を塗るようにと町触れを出した。また4月3日(旧・2月23日)には、町家に対する初の防火対策として、復興家屋の屋根でわら及び茅葺きの場合は土を塗ること、板葺きの屋根には蛎殻か芝または土を塗ることを命じた。
 その後、江戸では何回も大火が起こり、そのつど町奉行は屋根の防火対策も含め、さまざまな町方の防火体制強化の町触れを出したが、あまり効果はなく、1720年5月26日(享保5年4月20日)、江戸町奉行は享保の改革の一環として、“江戸市中に土蔵造、塗家、瓦葺き屋根の建築許可”を出すにいたる。
 しかし許可が出たとはいえ、瓦葺きは富裕な商人たちはともかく、庶民たちには高嶺の花である。これは、南北両町奉行の名で、3月(旧・2月)と5月(旧・4月)に、江戸町人代表で町の行政を司っている町名主にこの件につき諮問したところ、瓦葺きにする場合、建物の柱、棟木等も丈夫にしなければならず、費用がかかり建て替えは無理なこと、主旨には賛成だが、実行は不可能とした回答がそれを物語っていた。
 そこで、この日の申し渡し(命令)となる。その内容は屋根を土塗りにすること。その地域は北は神田川にそって両国橋際から筋違橋御門(現・万世橋西側)まで、南は日本橋川にそって永代橋際から江戸橋まで、西はほぼ現在の中央通りから東が隅田川河畔までの範囲。ここは江戸の中心地で、現在でもそうだが、商店や問屋が軒を並べている商業の中心地である。富裕な商人が多く、達成可能と思ったのであろうか。期限は3年以内に実施である。
 また町奉行は、翌1724年9月8日(同9年7月21日)には、東海道沿いの繁華街、日本橋通二丁目から南の地区に対し、塗家か家屋の周囲、建物を瓦葺きも含めた、しっくいや土で塗り固めた土蔵造りに改築するよう命じ、それが経済的に不可能な裏店(裏通の家)の場合は蛎殻葺きだけでも良しとした。
 ところが江戸の中心的な地域には期限を切って家屋の防火構造への改築を命じても、その周辺にはなかなか浸透しないので、その4年後の1727年4月17日(同12年2月26日)には公役銀(江戸市政に当てた税金:都民税)を5年間免除してまでも、江戸城周辺の大名屋敷が建ち並ぶ、麹町、平河町、桜田、芝愛宕下久保町など各町の町家に土蔵造りに改築することを命じ、翌5月30日(旧・4月10日)には、小石川あたりの町家に同様なことを命じるなど、町奉行は江戸の街の防火構造化へ積極的だった。
 ところが実際は、当時、税金免除してまでも進めたのにも係わらず、江戸市中には行き渡らず、その150年後の1874年(明治7年)11月、日本橋に隣接する京橋川口町の火災では、焼失した家屋の7割弱が板葺きの屋根で、瓦葺きの屋根はわずか3割強しかなかった。
 (出典:山本純美著「江戸の火事と火消>江戸の町づくりと防火対策 140頁~143頁:茅葺きか瓦葺きか」、東京都編「東京市史稿>No.4>市街篇 第20・814頁~816頁:屋上土塗令」、同編「東京市史稿>No.2>変災篇 第4・4頁~6頁:慶長六年大火」[追加]、同編「同史稿>No.4>市街篇 第7・153頁~154頁:瓦葺禁制」同編「同史稿>No.4>市街篇第7・919頁:大火(附記二)仮家建築性」、同編「同史稿>No.4>市街篇第7・941頁~942頁:建築制」、日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1660(万治3)558頁:屋根に土や蠣殻、江戸の防火体制に町屋の建築規則を発令」、東京都編「東京市史稿>No.4>市街編第19・897頁~902頁:土蔵造塗家瓦屋根許可」同編「同史稿>No.4>市街編第21・87頁~89頁:日本橋通二丁目南塗屋土蔵造」、同編「同史稿>No.4>市街編第21・821頁~824頁:麹町久保町家屋土蔵造」、同編「同史稿>No.4>市街編第21・839頁~840頁:小石川辺土蔵造蛎殻屋根」、同編「同史稿>No.2>変災篇 第5・1016頁:3 十一月十七日火災」[追加]。参照:2011年12月の周年災害「家康入府後初の江戸慶長の大火」、2017年3月の周年災害「1657明暦江戸大火」[改訂]、2020年5月の周年災害「江戸で80余日間に105回火災-幕府ようやく防火対策に本腰」[改訂]、2020年4月の周年災害「幕府、頻発する火災についに腰を上げ、初の町家防火対策を示達」[改訂]、11月の周年災害・追補版(4)「江戸町奉行、町方の防火体制強化指示」、5月の周年災害・追補版(5)「江戸町奉行、瓦葺き土蔵造、塗家造を許可し防火対策進めるが」[改訂]、2014年11月の周年災害「東京京橋明治7年川口町の大火-焼けた7割が板ぶき屋根の家」)

享保18年インフルエンザ全国的流行、世界的な大流行の一環か。風神送りも大流行[改訂]
 1733年7月~8月(享保18年6月~7月)
 江戸時代、享保年間(1716年~1736年)以降のインフルエンザは、世界的な流行と相前後して流行している。
 3年前の1730年(享保15年)の流行は“風気流行、これは異国より渡り。長崎より流行り来たり候由”とあり、当時唯一の貿易港・長崎が侵入窓口と見られているが、1729年から翌1730年にかけてヨーロッパ各国やロシアで大流行しており、日本に来たのは隣国ロシア経由と見られている。
 この年の大流行は1732年から33年にかけてアメリカやヨーロッパ各国で流行したウイルスが侵入したものと見られており、侵入地はオランダ船が寄航する長崎であろうか。そこから7月(旧暦・6月)から8月(旧・7月)にかけて国内で流行し、最近のインフルエンザが冬に集中するのと異なり、明らかに夏型で、これはウイルスの性質の違いによるものなのか。ともあれこの年流行したのは夏で、幕府の公式記録「柳営日次記・七月十四日(新暦・8月23日)」によれば“一昨十二日頃より、世上一統風病(インフルエンザ)流行、家一軒ニ不煩者(患わない者)一人も無之(中略)四五日ニは快気す。江戸中、路途往来人、今明日は漸々(ようやく)一両人ニ不過也(一人か二人しか通り過ぎない)”という状況になった。
 その上、江戸では一か月間に8万人が死亡、人々は棺をあつらえる暇もなく、からの酒樽に亡骸を入れて運んだという。しかし寺から埋葬する場所がないと断られ、当時あまり一般的ではない火葬でなければ受け付けられず。荼毘(だび)に付すのに数日もかかったようだ。
 夏の盛りである、亡骸の腐敗は進み、町中に死臭があふれる。その上、火葬や埋葬料を支払う事ができない貧しい人々の亡骸は捨て置かれ、親族も大家も世話を出来かねたので、近所の人たちが公儀(町奉行所)から出る僅かばかりの埋葬料で回向だけは済ませ、菰(こも)に包んで舟に乗せ、品川沖に流したという。
 この大流行は、侵入口に近い西国でもっとはやり“夏六月頃より秋の半ばに至り、日本国中一統に疫病はやりて、大坂三郷の市中にしてこの風を煩うもの十三万七千四百十五人と点検せしとかや”と、薩摩藩主・島津重豪が1804年(文化元年)に編さん出版させた百科事典「成形図説」に記されている。
 また当時、風邪をもたらすものとして“風神信仰”が中世期からあり、これは空気の流動が農作物や漁業への被害を与え、人間の体内に入って病気の原因をなすとの考えで、暖かさと寒さの隙間をねらって入り込み、人を見れば口から黄色い息を吹きかけ、その息を浴びた者は病気になるという。その黄色い息とは、中国の黄土地帯から西国に飛んでくる黄砂が原型という。なるほど、気象災害の原因、風といい、寒暖差が激しいと風邪をひきやすく、暑さ寒さの隙間という考えといい、黄色い息といい、体験から生まれた説である。絵を見ると“風神”は空気袋を背負って空を飛ぶ鬼だが、とんだ妖精だ。
 この“風神信仰”がこの年では“風神送り”として大流行し、例えば“(江戸では)十三日十四日(新暦・8月22日、23日)大路往来絶えたり、藁(わら)にて疫神の形を造り、これを送るとて鉦太鼓をならし、はやしつれて海辺に至る(武江年表)”とある。海外から侵入した疫病である、その疫神(風神:インフルエンザの神)を海辺まで鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らして送り海上へと返したのである。
 さらにその風神送りの数が多くなり過ぎ“七月十日(新・8月19日)前後より江戸町中、其後国々在々迄風邪はやり、同十八十九日(新・27日・28日)比(この)風神送り夥(おびただしい)数につき同二十日、御触有之(一語一言)”と、とうとう制限されてしまった。ところが制限されればされるほど、ますますはやらせようとする江戸っ子だ、この“風神送り”はその後インフルエンザが流行するたびに行われたという。
 (出典:内務省衛生局編「流行性感冒>第1章 海外諸国ニ於ケル既往ノ流行概況>年表・1729-30(享保15年全国)、1732-33(享保18年6-7月全国)」[追加]、東京都編「東京市史稿>No.2>変災篇 3・935頁~942頁(298コマ):享保十八年風病」、酒井シヅ著「病が語る日本史>第2部 時代を映す病>3 万病のもと風邪148頁~150頁:5 江戸時代のインフルエンザ流行」、富士川游著「日本疾病史>流行性感冒>疫史 255頁:享保十八年」)

寛政8年中国地方西部、九州中部集中豪雨「辰年の洪水」[改訂]
1796年7月上旬~中旬(寛政8年6月初旬~中旬)
 7月上旬から中旬(旧歴・6月上旬から中旬)にかけての集中豪雨により、九州中部から中国地方西部にかけて、各地で洪水が発生、大災害となった。発生した年“丙辰”にちなんで「辰年の洪水」と呼ばれている。
 この年の雨は、6月(旧暦・5月)初めごろよりぽちぽちと降り出し、6月下旬(旧歴・5月下旬)になると長雨となった。最初大雨に見舞われたのが中国地方西部で7月上旬のことである。
 まず長門(山口県)萩城下では、7月9日(旧・6月5日)の大雨・洪水により、松本通り心寺路より新道へ行く路の前までが谷となり、沼田が原へ行く辻が1丈6尺(約5m)の深さの渕となった。下級武士の屋敷が多い城下松本村では家屋7軒、世帯にして13かまどが流失するなど、家屋の損害が著しかった(毛利十一代史)。隣国石見(島根県)でも同じ日の大雨により洪水が起こり、浜田藩領では2万石(表石高の36%)の減収となる。そのほか家屋、堤防などに大きな被害が出たという。
 広島藩内でも同じ9日早朝よりにわかに大雨となり、広島城下の諸川が氾らん、城下では猫屋橋、元安橋、小屋橋、神田橋、己斐(こい)橋などが落ち、城下東部では城の下馬門のある松原堤防を決潰させ、西国街道(山陽道)にかかる猿猴橋より東は濁水が民家を水没させた。城下西部では猫屋川が満水となり中島慈仙寺鼻を超して町々に進入、民家が床上浸水となった。そのほか天満町北裏の堤防が決壊、太田川の上流からは木材、家具及び人馬が夥しく漂流し、屋根の上に人々を乗せて流れて来たという。
 藩内全体で家屋流失566軒、同倒壊1204軒、同損傷5512軒。堤防の決潰4万3700余間(約80km)、橋梁流失・崩壊658か所。13万1433石余分の田畑損耗、これは同藩表石高の31%に相当する。169人死亡、牛馬の死亡・行方不明40頭などにのぼる。
 次いで中旬に入ると、肥後(熊本県)で7月15日(旧・6月11日)、雷鳴を伴った雨が一層強くなり、熊本藩領内の河川、特に白川と坪井川が氾らん、古今未曾有の大洪水に見舞われた。
 特に白川の源流である阿蘇根子岳などでは数か所で山崩れが起こり、崩落した土石が谷をふせぎ、川水が溢れて洪水となり各地に大きな被害をもたらした。熊本藩から幕府への報告によると、流失及び倒潰した建物は百姓家2525軒、町家97軒、徒士以下の屋敷314軒、侍屋敷85軒で合計3021軒。土蔵10棟、ほかに番所、神社、寺、辻堂、土蔵など29か所。橋梁流失・崩壊854か所、道路損潰6713か所の4万5393間(82.5km)、田畑の損亡1万5202町余(1508平方km余)、74人死亡などにのぼった。

 筑前佐賀藩では、6月(旧・5月)に続いた7月18日(旧・6月14日)の大雨による洪水で685か所の山崩れを起こし、家屋の流失16軒、同倒潰59軒、同半潰138軒、橋梁の流失・倒潰177か所、道路の損潰2251間(4km)。田畑の損亡4821町(47.8平方km)、2人死亡。久留米藩領では星野山で山崩れがあり、筑後川、矢部川で洪水が起きたと年表にあるが損害の程はわからない。

 今回の災害は中国地方でも出雲、備中に被害がなく、九州では隣国の豊後、豊前、筑前には被害がないなど、初旬に中国地方の西部山地、中旬に九州中央部山地に起きた局部的な集中豪雨による大災害だった。

 (出典:新熊本市史編纂委員会編「新熊本市史 通史編 第4巻>第五編 熊本城下を取りまく村々と農民の社会生活>第五章 崩れゆく農村と農民>第三節 災害と救恤・復興>頻発する自然災害 451頁~453頁:辰年の洪水」、佐賀県立図書館編「佐賀県近世史料 第1編 第9巻>泰國院様御年譜地取>寛政八年 145頁~146頁」、福岡測候所編「福岡県災異誌>年表 12頁、61頁」、山口県編「山口県災異誌 293頁」、島根県消防防災課編「島根県災害年表 3頁」、中央気象台編「日本の気象史料 3>第二編 洪水 78頁~79頁:寛政八年六月五日 安芸国 霖雨 洪水」、国立国会図書館デジタルコレクション・広島市編「広島市史 第2巻>第4期 浅野氏時代(続)>第6章 恭昭院時代>第11節 編年記事 758頁~759頁(419コマ)」、広島市編著「中山村史>第4章 近世の中山>第3節 社会と生活>3 災害と救済178頁~179頁:(二)寛政八年」、中央気象台篇「日本の気象資料3>第2編 洪水 78頁~79頁:寛政八年六月五日 安芸国 霖雨、洪水」)

享和2年6月末梅雨前線豪雨、摂河両国大洪水237か村が被害に(210年前)[改訂]
 1802年7月26日~8月1日(享和2年6月27日~7月4日)
 近畿から関東にかけて7月(旧歴・6月)以降、停滞していた梅雨前線が、月末、西国を襲った台風の刺激を受けて大雨となり、近畿を中心に関東地方の河川が氾らん随所で洪水を起こした。
 “六月この月、江戸近郊霖雨(続徳川実紀)”とある。関東地方では7月に入って霖雨(長雨)が続いていた。洪水をもたらした大雨は“六月廿七日山城、近江、美濃別テ攝河大洪水(三貨図彙:さんかずい)”とあり、新暦7月26日に降り、京都、滋賀、岐阜特に大阪府が大洪水となり、関東では1日遅れの“廿八日より廿九日夜迄大雨(続日本王代一覧)”が降り“江戸近郷大水、田畠大ニ損ズ(同書)”となった。
 「三貨図彙」で記録された、攝河(摂津と河内)の大洪水だが、「門真市史」によると、翌7月27日(旧暦・6月28日)から“白雨篠をつく如く”襲いかかった大風雨は、7月29日(旧・7月1日)朝まで続き、その夜、淀川左岸(東側)の点野(しめの)村では約130間(約240m)、仁和寺村(ともに寝屋川市)で約100間(約180m)の堤防が決潰、東は生駒山麓まで南は八尾、久宝寺(ともに八尾市)、平野(大阪市平野区)までの北河内(大阪府北東部)から中河内(大阪府東部)一帯が水につかった。一方、淀川右岸では摂津国島上郡(高槻市)で約280間(約500m)、同西成郡(現・大阪市西成区)で11か所の合計約250間(約450m)の堤防が切れ、高槻城内の殿舎が浸水した。
 翌30日(旧・2日)には水勢は一段と激しさを増し、淀川左右両岸大阪平野一帯の家屋や蔵、田畑を押し流し、多量の家具や樹木が橋に激突して引っかかり、下流の野田橋から備前島橋、天神橋、天満橋、葭屋(あしや)橋まで落ち、大坂は堂島、中之島付近が約7m水没したという。摂津、河内両国の被害は237か村に及んでいる。
 また近江では、同じ7月27、28日(旧・6月28、29日)の大雨で、草津川と田上川が洪水を起こし“村屋悉く流失(粟田郡史”。信濃ではこれも25日から28日(旧・6月26日~29日)まで降り続いた大雨で千曲川が洪水を起こしている。
 更に関東では同じごろの大雨で、8月(旧・7月)に入り7月31日(旧・7月3日)、氾らんした利根川の水が権現堂堤防(幸手市)を150間(約270m)ほど決潰させ“田畠大ニ損”させただけでなく、8月1日(旧・7月4日)には濁水が本所、深川辺りまで押し寄せて橋を落とし、大川(隅田川)で通行可能な橋は両国橋だけになったという。箱根温泉が流失したのはこの大雨の時という。遠く出羽庄内地方(山形県)でも大きな洪水が起きていた。
 (出典:小倉一徳編著、力武常次+武田厚監修「日本の自然災害>Ⅱ 記録に見る自然災害の歷史>近世の災害>江戸時代の主要災害一覧102頁:享和2.6.28~7.近畿・関東・出羽国 大雨洪水」、門真市編「門真市史・第4巻>第3章 江戸後期の門真>第2節 水利慣行と「悪水」問題>4.水害の実態と対応 386頁~388頁:享和二年洪水」、松愛会枚方南支部編「ふるさと枚方発見>枚方の名勝>第11回 枚方の母なる川・淀川>享和2年の大洪水」、畑市次郎著「東京災害史>第5章 風水災 136頁137頁:享和二年の水災」、荒川秀俊ほか編「日本旱魃霖雨史料>霖雨の部 350頁~351頁:享和二年 諸国 霖雨、洪水」、中央気象台編「日本の気象資料 3>第1編 暴風雨 9 頁:享和二年六月二十七日 近畿、東海道、関東諸国 風雨、洪水」)

○嘉永3年中国地方瀬戸内海沿岸部大洪水、高潮災害、田畑の損害表高の7割に達す[改訂]
 1850年7月上旬、9月中旬(嘉永3年5月末、8月上旬)
 中国地方瀬戸内海沿岸部ではこの年、7月から9月の間に2度の大風雨が襲来、洪水や高潮によって大災害となった。
 まず7月8日(旧・5月29日)からの大雨により、翌9日(旧・6月1日)安芸国(広島県)の太田川が決壊して広島城下の橋の多くが落ち、10日(旧・2日)には城下近在の村々の堤防が決壊して洪水となり、武家の住家をはじめ町・農民の家など172戸が流失または損壊する。備中国(岡山県)では、同じ2日に東高梁川の水かさが増し、翌11日(旧・3日)夜に安江村(現・倉敷市)の堤防が200間(約360m)に渡り決壊、同村古庄屋の住宅ほか民家14軒、住民や牛などがおびただしく流された。また倉敷代官陣屋内に水が入り、周囲の村々の民家は軒端までも水につかり、人々は最寄りの山手の高台へと避難し、山腹はアリが群れたようになったという。
 そして9月12日(旧・8月7日)再び襲った暴風雨によって洪水や高潮が起こり、広島藩領だけでも7月とあわせ60人死亡、家屋全壊・流失4425軒、同損壊3558軒、社寺破損134ヵ所、田畑の損害29万8000石と表高(額面上の米の収穫高)の7割に及ぶ大災害となった。
(出典:池田正一郎著「日本災変通志>近世・江戸時代後期 662頁:嘉永三年六月」、内閣府編「過去の災害一覧:21頁・風水害[1/11]1850.6 安芸国大水」、広島県編「広島県史 別編 近世資料編>Ⅴ 災害と農民戦争>1 災害と飢饉>Ⅲ.旱魃・風水害 896頁:表342 広島藩の主な風水害・旱魃等による被害状況>嘉永3.8.7」)

嘉永7年伊賀上野地震、1300人余死亡、家屋・土蔵・寺院全半壊1万9000余(160年前)[改訂]
 1854年7月9日(嘉永7年6月15日)
 暁、丑の刻(午前2時ごろ)、伊賀、伊勢(三重県)から大和(奈良県)、近江国(滋賀県)にわたり、マグニチュード7クラスの地震が起きた。震源断層は木津川断層系と比定されている。
 被害は震源に近い伊賀国から奈良、大和郡山にかけての地域で特に大きく、伊賀上野とその付近で625人死亡、994人負傷、家屋全潰2270軒、同半潰3883軒、土蔵全壊306棟、同半潰654棟、寺社全潰144か所、同半潰140か所、山崩れ471か所、伊賀上野城内も大破した。
 奈良では280人死亡、300人負傷、家屋全潰700~800軒、奉行所も損壊。大和郡山では48人死亡、21人負傷、家屋全潰143軒、同半潰388軒、土蔵半壊272棟、寺社全潰63か所、同半潰22か所。
 伊勢四日市では198人以上負傷、家屋全潰371軒、同全焼62軒、土蔵全壊69棟(小屋も含む)、同全焼63棟(小屋も含む)、同半潰及び損傷69棟、寺社全潰10か所など。そのほか奈良の古市(奈良市)では、山麓に数段に及び築造されていた溜め池の一段目の堤防が激しい揺れで決壊、あふれた水が下の池に流れ込むなど連鎖的に決潰し集落を襲い、濁流にのまれて68人が死亡したという。また木曽川、町屋川、朝明川、鈴鹿川などの土堤で裂け目が生じ、沈下したところが多かった。
 全体の被害は、1308人死亡(一部負傷者含む)、1664人負傷。家屋全潰5787軒、同全焼62軒、同半潰9138軒、同一部破損4334軒。土蔵全潰1246棟、同半潰1848棟、同一部破損847棟(一部小屋含む)、同損潰(全潰、半潰、破損の区別なし)572棟、同半潰と破損含む34棟。寺社全潰570か所、同半潰433か所、同破損159か所、同損潰212か所。堤防破壊622か所、約53万間(964km)、山崩れ4506か所。
 (出典:宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧>4 被害地震各論 154頁~156頁:254」、小倉一徳編、力武常次、武田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歷史>2 近世の災害 109頁:伊賀上野地震」、磯田道史著「天災から日本司を読み直す>第4章 災害が変えた幕末史>3.忍者で防災 144頁:ため池にも耐震診断が必要」[追加])

土崎湊(秋田市) 文化11年の大火、全市域8割が被災
1814年7月3日(文化11年5月16日)
 
大火のあった土崎湊は、戦国時代秋田氏(安東氏)の居城湊城があり海運港としても発展した。1600年10月(慶長5年9月)の関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍に加担したとして、常陸(茨城県)から転封された佐竹氏が一時入城したが、手狭なため居城を程野村窪田の神明山に築き久保田城とした後も、雄物川を介した同城の外港として北前船が入出港する日本海海運の拠点港として栄えていた。
 その土崎湊では大火当時1300軒余の家々が軒を並べていたが、1000軒余が被災するという大火災となった。
 発端は夜の四つ時過ぎ(午後10時ごろ)湊の中心部、上酒田町(土崎中央一丁目周辺)の小納屋久右衛門宅の裏小屋から出火したのに始まる。無人の小屋から立ち上がった炎はまたたく間に湊町全域に拡がり、本家249軒、長屋535軒、借家12軒、土蔵54軒、穴蔵7軒、室3軒が全焼。本家3軒半焼、長屋11軒全潰、本家11軒、長屋67軒、借家1軒が半潰、そのほか湊の駅馬(馬の乗り継ぎ所)役場が全焼している。また土崎湊への船舶の入出港を管理する出入役場が全焼したとの記録もある。
(出典:秋田市編「土崎湊の繁栄」、内閣府編「中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会報告書・1976酒田大火>第2編 前近代における北部日本海域の大火>第2章 秋田県域>2 久保田、土崎湊における主な大火の実態と特徴 42頁:(3)文化年間の土崎湊大火」、秋田市史 第3巻 近世>第1章 近世あきたの都市問題>第2節 災害>1 火災と飢饉>火災562頁:文化11年)

越中高岡文政4年の大火、城内外とも被害甚大しかし加賀藩の事後処理は見事と
 1821年7月23日(文政4年6月24日)
 
越中(富山県)高岡城は、1605年(慶長10年)6月、富山城に隠居した初代加賀藩主・前田利長が、4年後の1609年(同14年)、城下の火災による類焼で城内の大半の建築物を焼失したので、急きょ当時、関野と呼ばれていた高岡に城下町も含めた築城を行い、同年9月には早くも入城したもので、いわゆる隠居城として使われた。しかし5年後の1614年(同19年)5月、利長が死去した後、翌1615年(元和元年)、豊臣氏滅亡により各地の城は不要とする江戸幕府の一国一城制度により、居城としては使用されなくなったが、防衛拠点としては残され“古御城”と呼ばれていたという。
 その高岡城の城下町で、午の下刻過ぎ(午後1時過ぎ)上川原町の立野屋善四郎と安川屋多兵衛、両家の間から出火した。
 ちょうどその頃、烈風が吹き荒れており、炎はたちまちの内に城下全体に広がった。56か町のうち29か町が全焼、8町が半焼するという高岡城下未曾有の大火となり、4600余戸の内2300余戸が全焼した。被災した主な建物は、町の行政を取り仕切る町会所、御貸家(町奉行官舎)2棟、時を報せる時鐘堂、寺院18か所、古御城内では本丸御門、御収納米蔵2棟、御詰塩蔵などが被災している。検視を受けた犠牲者は34人、実数は60人死亡と伝えられている。城内、城下とも被害は大きかったが、加賀藩の被災後の対応は素早く、被災した町人への緊急手当の御貸米など、城下町の再建も含め、的確な事後処理をしたという。
 (出典:高岡市史編纂委員会編「高岡市史 下巻>第2章 災害と警備>1.火災 1060頁:明治三三年の大火」、高岡市立博物館編「国指定史跡・高岡城址>1.城絵図>8.高岡古御城之図」)

安政5年、日米不平等条約締結の年、英艦からコレラ長崎に侵入ついに江戸へと拡がり史上最大の流行へ
 長崎でわが国初の感染症専門病院開設、治療経過の調査分析も行う[改訂]

 1858年7月1日~11月初旬(安政5年5月21日~9月末)
 日本では幕末から大正時代(1822年~1920年)にかけて100年間、猛威を振るったコレラは、インドのガンジス河流域の風土病だったという。
 日本での最初の大流行は1822年(文政5年)で、その時は2年前の1820年、オランダ領東インドのジャワ島バタビア(現・インドネシア)から清国(現・中国)の広東、寧波(ニンポー)にかけて流行していたコレラ菌が、南京を経て首都北京へ侵入、朝鮮半島を経て対馬から長門(山口県)の赤間関(下関)へ上陸したようだ。バタビアでの流行の様子や治療法などについての情報は、同年2月にオランダ医師から、幕府のお抱え医師や蘭学者大槻玄沢などに届いていたが、侵入の速さは予想以上だったようで、対策を建てる間もなく西国一円に大流行し、1か月間ほどで10数万人が死亡したと推定されている。民間ではこの疫病に感染すると急速に脱水症状が進み死亡するので“三日ころり”と名付け恐れた。
 その後、1826年以降、軍隊の移動や商船による物資の移動にあわせて、流行はヨーロッパから南北アメリカまで及んだ。欧米列強による東アジア侵略が、コレラの世界的な侵出を手助けしたのであり、日本の場合もその例外ではなかった。この年の7月29日(旧歴・6月19日)は、幕府がアメリカの軍事力と清国(現・中国)を侵略したイギリス、フランスの大艦隊が日本へ襲来するというアメリカ総領事ハリスの偽情報による威圧の下、やむを得ず日米修好通商条約を締結した日である。江戸では西国からコレラが侵入し始めていた。
 1858年7月1日(安政5年5月21日)、清国に寄港してコレラに感染した乗組員を乗せたアメリカ軍艦ミシシッピが長崎に入港し、コレラ菌が長崎に上陸侵入した。
 このミシシッピは、4年前の1854年3月(安政元年3月)、幕府を武力で威嚇し日米和親条約を締結させたペリー艦隊の1隻で、その後、当時の清国(現・中国)上海に派遣され同港に寄港、上陸した乗組員がコレラに感染し艦内で発病していたが、そのまま長崎へ寄港したものであった。当時、幕府が海軍士官の養成を目指して長崎に設立した長崎海軍伝習所の医学教官としてオランダから派遣されていたポンペが、このときの状況について“1858年7月にアメリカ軍艦ミシシッピが清国から日本にコレラを持ち込んだ。1822年(文政5年)以来、日本ではこの恐るべき疾病についてはまったく聞くところがなかったが、今回はたくさんの犠牲者が出た”と記している。
事実、ミシシッピの長崎寄港より10日ほどすぎた同年7月12日(旧暦・6月2日)には、この日だけで患者30人が発生、9月下旬(旧・8月中旬)までに1583人が発症、767人が死亡した(死亡率48%)。しかし、ポンペが長崎奉行所に食品衛生面、治療体制などさまざまな対策を進言、8月21日(旧・7月12日)、当時の奉行・岡部駿河守長常が全面的に進言を受け入れて治療法及び予防法を示した訓令を作成、市内及び代官領に布告、翌22日(旧・13日)には、わが国最初の食品の販売禁止措置を行うなど、貧富の差なく努めたので、9月(旧・7月下旬)になると患者は減少、9月下旬(旧・8月中旬)には流行は収束した。
 この間、岡部奉行は、ポンペの進言の一つである治療病院の設立について、当時長崎に滞在していた蘭学医・松本順に相談、松本が自宅を病院として提供、松本と奉行がそれぞれ100両ずつ拠金して施療費にあて、市内の開業医10名と伝習所の生徒10名を一日おきの当直として昼夜を分担し患者の治療にあたらせた。こうして、わが国で最初の感染症専門病院が開設され治療だけでなく治療経過も分析している。
 それは、開設1か月たった頃、流行が収束したので、あらかじめ記録してあった患者の治療経過を調査分析したところ、治癒23%、死亡51.5%、腎臓麻痺などを併発して死亡した患者25.5%だったが、治療法による死亡率の違いがわかるなど、さまざまな経験を得ることができ、その後のコレラ治療に大きく貢献をしたという。またこの時、市内の有志から金銭や薬品をはじめ人までも提供を受け、清算してみたところ、松本の支出は最初の100両の拠金のほか、20両あまり出しただけで済んでいた。
 コレラ菌の長崎上陸後、流行は急速に進み、8月上旬(旧・6月下旬)には東海道に侵出、同月中旬(旧・7月上旬)には、初めて箱根を越え江戸まで達するという全国的な大流行となった。大坂では9月下旬(旧・8月中旬)から流行が激しくなったという。
 江戸での流行について、江戸時代の記録誌「武江年表」によると“七月末の頃(新暦・9月上旬)より都下に、時疾(流行中の病気:コレラ)行われて、芝の海辺、鉄砲州、佃島、霊巌島の畔(ほとり:周辺)に始まり、家毎に此の病痾(あ)に罹(かか)らざるはなし、八月の始め(新暦・9月上旬)より、次第に熾ん(さかん)にして、江戸並びに近在に蔓り(ひろがり)、即時に病みて即時に終われり(死亡する)、貴人(上流階級の人)には少なし、始めの程は一町(一町内)に、五人七人次第に殖て(ふえて)、檐(のき:軒)を並べひとつ家に枕を並べ臥(ふ)したるものあり、路頭に匍匐(横になる)して死に就けるものあり”という大流行の状況になった。
 また“此の頃魚類を食へば、これにあたりて速やかに死ぬると云うて、魚類を求むる人甚鮮し(少なし)、故に漁者魚舗(漁師と魚屋)活業(なりわい)を失い、貨食舗(料理屋)もこれに亜げり(次げり:同じようになった)”というわけで鮮魚関係の生業も成り立たなくなっていた。そして“八月朔日より九月末(旧・9月7日~11月5日)迄、武家市中(町人)寺社の男女、この病に終われる者凡そ(およそ)二万八千余人”またコレラは“奥羽のあたりにも至りしと聞けり”と、全国的な大流行となり“九月初(旧・10月中旬)より些しく(少しく)遠ざかり、十月(旧・11月)に至り漸く(ようやく)此の噂止みたり”と結んでいる。
 コレラによる死亡者数は、武江年表も含め、当時人口100万人の江戸で3万~4万人が死亡したと記録は一致しているが、僅か2か月間の事である。全国の死亡者は数十万人にのぼったと伝えられているが、確かな資料はない、しかし史上最大の流行だったのは確かである。
 コレラによって江戸の市民はパニック状態になったという。それに対し、当時の幕府寺社奉行は9月(旧・8月)、わが国最初の「コレラ防疫触令(お触れ)」を出している。また大坂では、当時、適塾を開き、蘭学を教えていた医師・緒方洪庵が「虎狼痢(コロリ)治準」と題した治療手引き書を翻訳して医師たちに配布、流行阻止のために活躍した。
 (出典:山本俊一著「日本コレラ史>Ⅰ 発生および対策編 14頁~24頁:第2章 安政時代」、同著「同書>Ⅱ 防疫編>第4章 避病院 423頁~424頁:第1節 長崎コレラ病院」、東京都編「東京市史稿>No.2>変災篇3・1012頁~1040頁(375コマ):安政五年虎列刺」、国立国会図書館デジタルコレクション・斎藤月岑著「武江年表>巻の10>安政五年 310頁~312頁(161コマ)」[追加]、池田正一郎編著「日本災変通志>近世 江戸時代後期>安政五年 693頁~694頁」、白山童著「江戸のコロリとコレラの差異」。参照:2012年10月の周年災害「コレラ初めて日本へ侵入、西日本に広まる」)

○戊辰戦争、越後長岡の戦い、兵火で城下ほぼ潰滅(150年前)[改訂]
 1868年7月8日(慶応4年5月19日)
 鳥羽伏見の戦いで勝利した新政府軍の北陸道鎮撫隊は、6月21日(旧暦・慶応4年5月2日)局外中立主義を取ろうとする越後長岡藩の家老・軍事総督河井継之助と小千谷で会談したが、あくまでも旧幕府方を壊滅させようとする新政府軍側は、長岡藩主の嘆願書も事態収拾の提案も拒否した。同月23日(旧・同月4日)同藩はやむを得ず反新政府の奥羽列藩同盟に参加、北越戦争が開かれることになる。
 6月29日午後2時ごろ(旧・5月10日未の刻)、榎峠で最初の戦闘が開かれる。7月2日(旧・5月13日)浦柄集落(新潟県)を挟んで榎峠の反対側にある朝日山で新政府軍が敗退。翌3日(旧・14日)同軍は信濃川を隔てて西へおよそ6km離れた関原村に布陣、翌4日(旧・15日)信濃川の対岸、本大島村へ進出、翌5日(旧・16日)長岡城下に向かって砲撃開始、この日午前4時、援護射撃に守られて長州藩兵など新政府軍が、濃霧に紛れ信濃川を渡河、寺島村へ上陸すると二手に分かれて城下へ進み民家に火を放つ、長岡藩兵は支えきれず敗走。これを見て槙下村にいた新政府軍薩摩藩兵も渡河して、北側から城下に迫り民家に火を放った。
 このため藩主の牧野忠訓はたまらず城に火を放ち、家族とともに脱出、城を守る武士たちがいなくなって、城下の町人たちはただ逃げまどうばかりだったという。
 この日の戦いで、城下の町家1497軒、家中の武家屋敷492軒、同足軽屋敷522軒、あわせて2511軒が全焼。そのほか土蔵21棟、物置19棟、長屋25軒、寺院などが全焼。町家32軒が半焼となった。藩の建物では、長岡城の17の城門、13の隅櫓、本丸御殿、藩役所、兵学所、藩校が焼失、藩の主要な建物のほとんどが失われ、越後長岡はほぼ潰滅した。また近傍の村々でも、同年6月29日(旧・同年5月10日)から9月15日(旧・7月29日)までの間に戦場となった上組、北組など村々では、27人が死亡、1082軒の民家が焼失するなど、大きな被害が出ている。
 北越戦争は長岡城の落城以降も続き、城の奪回作戦も行われたが、9月20日(旧・8月16日)、河井継之助が戦傷から感染した破傷風で死亡して間もなく、新政府軍は越後全域を支配下におさめ、同軍は引き続き会津若松の攻防戦へ参加することとなる。
 (出典:長岡市編「長岡市史 通史編 上巻>第5章 維新の激動>第5節 戊辰戦争>2 長岡藩の戦争・752頁~755頁」、同編「同書>第5章 維新の激動>第5節 戊辰戦争>3 戦争下の領民 760頁~761頁:戦場の町と村」)

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