「災害の記憶を伝える文化遺産」
本紙特約リポーター:関町佳寛(防災士)
「法隆寺金堂と文化財防災 ― まもる・なおす・いかす ―」と題したシンポジウムが、2月23日、東京・有楽町マリオン・朝日ホール開催された。主催は朝日新聞社、法隆寺、法隆寺金堂壁画保存活用委員会で、文化庁ほかが共催した。本紙特約リポーター・関町佳寛(防災士)が聴講・リポートする。
開会挨拶は古谷正覚・法隆寺管長が務め、続いて有賀祥隆・法隆寺壁画保存活用委員会委員長が挨拶を行った後、同委員会の活動報告がなされた。講演では、田口かおり・京都大学大学院准教授が、1966年のフィレンツェ大洪水における文化財レスキューが60年後の今でも続く世界的文化遺産の保護活動を紹介、文化財防災の国際的原点について語った。
続いて村上隆・大正大学教授/高岡市美術館館長が「心のインフラを未来へ」と題し、文化財を未来へ継承する意義について講演。最後に両氏と建石隆・皇居三の丸尚蔵館学芸部長による座談会が行われた。

■ 法隆寺金堂火災が伝えるもの
1949年(昭和24年)1月26日、敗戦から復興中の日本に衝撃を与えた法隆寺金堂の火災は、「文化財保護法」と「防火デー」の制定のきっかけとなった”大きな事件”だった。文化財保護法は、日本における文化財の保存・活用、国民の文化的向上を目的とする法律だ。
また出火した1月26日が「文化財防火デー」となったのは文化財保護意識の徹底を図ることを意図し、法隆寺金堂の焼損した日であること、1〜2月のこの時期が最も火災が発生しやすい時期であることから定められた。
■ 奈良の法隆寺(奈良県 斑鳩町)
奈良の法隆寺(奈良県 斑鳩町)は、聖徳太子ゆかりの寺院として知られ、607年頃の創建と伝えられる。国宝観音菩薩立像(百済観音)や玉虫厨子など多くの寺宝を有する。
金堂壁画の来歴と焼損の経緯は次のようだ。
7世紀後半〜8世紀初め 金堂壁画が描かれる、1934年(昭和9年)法隆寺昭和大修理開始、1935年 (昭和10年) 壁画他を写真ガラス原版で撮影、1940年(昭和15年)金堂壁画の模写が始まる。
1942年(昭和17年)以降、模写は戦局の悪化で中断、1945年(昭和20年)金堂の解体修理が始まる、1947年(昭和22年)金堂壁画模写の再開。
1949年(昭和24年)1月26日、金堂で火災炎上。酷寒の壁画模写中の法隆寺金堂で電気座布団の切り忘れとされる火災が発生。仏教美術の白眉と称され世界に誇り得る宗教画の最高傑作と言われ、壁画は仏像同様に信仰の対象でもあった4壁十二面の国宝・金堂壁画の大半が焼損し、42本の黒こげの大柱が残った。
焼損壁画は現在も境内に新設された収蔵庫に保存されており将来的な一般公開が計画されている。焼失ではなく焼損であったことが、その後の保存と研究への可能性を残したと言える。壁画の模写は三日後の1月29日から焼け残った金堂内で再開された。
1950年(昭和25年)5月30日 文化財保護法が公布。1952年(昭和27年)焼損壁画の収蔵庫完成。焼損壁画は現在この収蔵施設において保存されており将来的な一般公開が計画されている。1955年(昭和30年)1月26日を文化財防火デー制定。

1968年(昭和43年)11月7日朝日新聞社の協力のもと、日本画壇の画家たちによって制作された再現模写壁画が完成し再建された金堂に奉納設置。1985年(昭和60年)昭和大修理終了。
1993年(平成5年)「法隆寺地域の仏教建造物」国内最古の木造建築として他の姫路城、白神山地、屋久島とともに日本で最初のユネスコ世界遺産第1号の一つとして登録。2015年(平成27年)戦前に撮影されていた壁画の写真ガラス原板は焼損前の姿を現在に伝えるとして重要文化財に指定されデジタル化も進められた。
本シンポジウムを通して、法隆寺金堂壁画は単なる焼損文化財ではなく、「災害の記憶を伝える文化遺産」であり、未来へと防災意識をつなぐ存在であることを認識させられた。
(会場で配布された朝日新聞 及びシンポジウム資料より一部抜粋転載)
〈2026. 03. 25. by Bosai Plus〉
