【目 次】

・嘉応から承安へ改元。異常気象が続き凶作へのおそれ(840年前)

・文亀-永正の飢饉。干ばつによる飢饉が5年間続き疫病も流行(520年前)

・江戸町奉行、二階で火を使うこと、消し炭の処理について禁止指示ますます具体的に(370年前)

・暴風雨で兵庫、神戸両港に大被害(140年前)

・大正10年筑後川大洪水。三大洪水の一つ、第3期改修の契機となる(100年前)[追補]

・定期旅客機濃霧に巻かれ初の死亡事故(90年前)

・昭和6年北海道・東北地方大冷害-飢餓人口45万人(90年前)

・竣工検査前の北海道幌内ダム決壊事故。劣悪なコンクリート使用が原因か(80年前)

・昭和16年梅雨前線豪雨。北九州から東海地方にかけて襲う(80年前)

・ヒロポン常用者まん延に際し、覚せい剤取締法公布・施行(70年前)

・小児マヒ集団感染で患者の母親たち、ソ連製経口投与生ワクチンの輸入求め集団陳情(60年前)

・昭和36年梅雨前線豪雨。東海・甲信地方中心に襲う(60年前)

・萩野昇医師、イタイイタイ病は三井神岡鉱業所亜鉛精錬過程で産出するカドミウムが原因と発表
(50年前)[改訂]

・イタイイタイ病訴訟。公害病と初めて認定された初の住民側勝利の公害訴訟(40年前)[改訂]

・宮城県沖地震後、建築基準法施行令改正し新耐震基準(設計法)施行(40年前)[改訂]

・雲仙普賢岳大火砕流災害、取材中の火山学者、報道関係者、警備中の消防団員が犠牲に(20年前)

[改訂]

・大阪教育大付属池田小学校、児童殺傷事件(20年前)[追補]

・ネイバージャパン、東日本大震災機に“LINE”開発、サービス開始、
災害時の安否確認、被災者支援に活躍、利用規約に偽情報禁止条項明記(10年前)[追補]

・「津波対策の推進に関する法律」制定、津波の日設けられ津波防災推進(10年前)[追補]

【本 文】

○嘉応から承安へ改元。異常気象が続き凶作へのおそれ(840年前)
1171年6月3日(嘉応3年4月21日)

天変により改元とある。今でいう気象災害があったようだ。

調べてみると「九条家本玉葉」に前年の7月16日(嘉応2年5月24日)“近日雨不降、天下大嘆”とあり、梅雨入りの季節にもかかわらず雨が降らず旱魃(干ばつ)への心配が満ちている。そこで朝廷では4日後の20日(旧28日)“天下有旱魃之訴”なので、東寺の長者僧正禎喜に雨乞いの祈祷を神泉苑で行わせたところ、祈りが通じすぎたのか、翌21日から24日まで降り止まず、“此十余年以来、第一之洪水也”となってしまった。

それ以外にも9月26日(旧8月8日)には“近年之間、未有如此之大風者也”が吹き、この年の1171年1月7日(嘉応2年11月22日)には“近年之間、可謂深雪”が降るなど、近年にない異常気象が続き、改元の日までの4月(旧2月)の大雨と風害、5月(旧4月)にまた大雨と凶作を予想される気象状況が続いている。

(出典:京都歴史災害研究会編「京都歴史災害年表>1101年~1200年112頁:1169年(嘉応2年)~1171年(承安1年)」)

○文亀-永正の飢饉。干ばつによる飢饉が5年間続き疫病も流行(520年前)
 1501年6月〜1505年(文亀元年夏〜永正2年)

 時は戦国時代である。自らの領地の田畑を護ることに力を傾けた領主はもちろんいたが、力及ばず耕作地や用水路を荒らされたり、戦場と化してしまった地域も多く、兵力不足となって農民を戦いに駆り出した例もあり、一度干ばつか洪水が起きると耕作地を回復することが出来ず飢餓に見舞われた。

 1501年夏から1504年夏(文亀元年夏〜永正元年夏)にかけて、全国的に干ばつに見舞われ、飢饉は翌1505年(永正2年)まで5年間続いた。当時の各書は記録する。

 1501年(文亀元年)。讃岐国(香川県)大日記“大干ばつ、人民多く死す”。後鑑“此の年、大旱あり飢饉”。(三条西)実隆公記(日記)“7月22日(新暦・9月14日)晴、炎暑甚だし、近日炎旱諸国衰弊(打ち続く炎の如き大干ばつで、諸国の土地は衰え疲弊している)”。会津塔寺村(福島県会津坂下町)八幡宮長帳“此の年、大かんばつ”。会津旧事土苴考“此の年大旱、八月霜降り、五穀熟さず”。

 1502年(文亀2年)。妙法寺記“此の年世の中、凶。悪風八月吹きて、耕作殊の外なり”。洪水との記録がないので9月の風台風だったのか、収穫期の稲が倒れて茎が折れたりしたのだろう。

 1503年(文亀3年)。日向記“五月廿八日(新・7月2日)より八月(新・9月)迄、大干ばつ、依って五穀皆枯れ失せ、人民多く餓死す”。永禄年代記“文亀三年中、大干ばつ、天下一統な(全国すべて)”。古本九州軍記“天下干ばつ、死者路頭に充満す”。宮城県登米郡史“四、五、六月(新・5〜7月)旱天飢饉”。

 1504年(永正元年)。実隆公記“閏三月六日(新・4月30日)、炎旱近年連続、民間之愁難休”。二条寺主家記抜粋“永正元年天下飢饉、餓死多し、和州(大和:奈良県)特に多く死す”。妙法寺記“大飢饉、百分千分言語及ばず、人馬死すること無限”。(中御門)実胤卿記ほか“此の歳、疫病流行す”

 1505年(永正2年)。公方両将記“永正二年の春、天下大飢饉、(中略)たとえば十人の者九人は死すと云う程也”。塔寺八幡宮長帳“永正二年、日本国大飢饉に入り候。人三千人餓死あり、不思議の年なり”。なおこの年、室町幕府の奉行人(担当)が疫癘(感染症)消滅の祈祷を東寺、松尾社(神社)、北野社(神社)で行っている。飢餓で弱った身体は感染症に倒れやすいのだ。

  (出典:小倉一徳編、力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>記録に見る自然災害の歴史>上代・中世の災害>南北朝・室町時代の災害 66頁:文亀1〜 諸国干ばつ・飢饉、文亀3〜 全国的干ばつ・飢饉」、池田正一郎編著「日本災変通志>中世 戦国時代 300頁〜302頁:文亀元年、文亀二年、文亀三年、永正元年、永正二年」、西村真琴+吉川一郎編「日本凶荒史考 182頁〜185頁:文亀元年、永正元年」、荒川秀俊ほか編「日本旱魃霖雨史料>旱魃の部>上古・中世 90頁〜91頁:文亀元年、文亀三年、永正元年」、京都歴史災害研究会編「京都歴史災害年表>1501年~1600年 179頁〜180頁:明応6年〜永正5年」)

○江戸町奉行、二階で火を使うこと、消し炭の処理について禁止指示ますます具体的に(370年前)
1651年6月27日(慶安4年5月10日)

 都知事であり、東京消防庁+警視庁長官の江戸町奉行は、1649年1月(慶安元年12月)に総括的な防火指示令(警火令)を出して以来、ピンポイント的にさまざまな状況での、防火のお触れを出している。これもその一つだが二階での“火”の使い方や消し炭に関する指示だ。

 その総括的な警火令のお触れの最後にあったのは“二階にて火をたき申間敷事(火を焚かないように)”という単純なものだったが、一律禁止に苦情が殺到したのだろうか。2年半ほど過ぎた今回のお触れでは、はじめに一応“二階に而(て)火をたき申間敷事”と原則を述べた上で、“附”として“用所たし(足し)候は、二階にとほし(灯し)候火、早々けし(消し)可申事”と、火を使う用事が済   んだら早く消すように、と使うことについては基本的に容認。

 また“棚(店)かり(借り)借屋之者に至迄、朝夕之用たし候は、是又火を消可申候、むさと用なくして(必要がないのに)火をたき申間敷事”となった。つまり、店を借りている者や部屋を借りている者は“朝夕之用”とは、朝夕の食事の支度であろうか。それが済んだら、火を消して、必要がないのに火を使わないようにと、町人たちの生活実態に合わせた具体的なお触れに変化した。

 さらにその後のこの手のお触れは、より具体的になっていく。9年後の1660年7月(万治3年6月)になると“二階ニて紙燭(こよりに油を浸した灯火)勿論(もちろん)、油火(灯し油に灯芯を浸した灯火)蝋燭(ろうそく)、自今以来、立申間敷候(今後、使用しないように)”と、二階での紙燭、油火、ろうそくの使用を禁じている。

 その後、1696年3月(元禄9年2月)になると、照明具だけで無く二階で使う火鉢などの消し炭に対し“町中にて消炭を致置候共(使っていても)、二階え堅上ケ置申間敷事(二階には上げないように)、尤随分念を入れ消(充分に念を入れて消して)物陰ニて無之(物陰では無く)、火之用心能所指置可申候(火の用心の良いところに置く)。

 勿論俵筵桶抔(たわら、むしろ、おけなど)えも入置候儀無用可仕候、若致不沙汰”、炭などをくるんでいる俵や筵も、入れて持ち運びする桶(炭桶)にも消し炭を入れてはならない。と、かなり神経質と思えるほど“消し炭”の処理に気を遣って禁止している。

 また1706年11月(宝永3年10月)、10年ぶりの消し炭についての触れでは“町中ニて消炭を四斗樽俵等に入置、度々出火有之(中略)尤消炭二階物乾なと(ど)に一切差置申間敷候”とあり、消し炭を四斗樽(清酒を入れた樽)や俵に入れて置いたことから、たびたび出火したことがあったので、消し炭を二階や屋根上の物干し場に置くなという指示になっており、江戸っ子が炭火起こしに便利な“消し炭”を町奉行所からの再三の禁止令にも関わらず重宝し、狭い一階を避けて、二階や物干し場にそれも大量に置いていたことが禁止となった。

 さらに2年後の1708年(宝永5年)になると9月(旧歴8月)と10月(旧歴11月)に立て続けに消し炭や火鉢などの灰の処理について“消炭又は灰なと溜メ置候儀、俵箱并(ならびに)さる(ざる)なと(ど)に入れ、家之内ニ差置候儀、堅仕間敷候、致消炭候節は、火消壺ニ入置可申候”。ここにくると、現代でも使われている“火消壺”という、消し炭や火鉢などの残り灰を入れておく陶器製などの便利な物が登場し“火消壺ニ入置可申候”と、奉行所も安心して指示を出し防火に一役買うことになる。

 なお1712年12月(正徳2年12)月)には“若(もし)けしつほ(ぼ)調(ととのえ)候事不成輕(軽)き店借體(体)之ものは、家主方より消壺調可申候”と、火消壺を買うことができない借家人がいたら、家主が用意してやるようにとまで指示をしている。

 このようにまず二階での火気を禁じたのは、要はボヤなどが起きたとき直ぐ消せる“水”が手元にないか、手桶程度では少ないからであろう。次に現代でもバーベキューで火をおこし、消したあとに残る“消し炭”は、次に火をおこすときにすぐつくので重宝するが、それだけに火を呼びやすい。そこで何回も具体的にその処理について指示をすることになる。

 この手のお触れをひんぱんにかつ具体的に出すことは、防火のための必要性が充分にあったからと言えよう。現代でも、水利のない所での火気や火を呼びやすい灯油などの処理に、消防署は飽きずに防火の注意をしている。

 (出典:黒木喬著「江戸の火事>第4章 江戸の防火対策>3.警火令と住民 137頁」、国会図書館デジタルコレクション:高柳真三+石井良助編「御触書寛保集成>二十六>火事并火之元等之部 761頁(401コマ):一四二五 慶安元子十二月」(要利用者登録)、同コレクション:近世史料研究会編「江戸町触集成 第1巻>慶安四辛卯年 19頁:五四」、同コレクション:高柳真三+石井良助編「御触書寛保集成>二十六>火事并火之元等之部 766 頁(404コマ):一四三九 萬治三子年六月」(要利用者登録)、同コレクション:同編「同集成>同部776頁(409コマ):一四七九 元禄九子年二月」(要利用者登録)、同コレクション:同編「同集成>二十七>火事并日之元之部 793頁(417コマ):一五三一 寶永五子年八月、一五三三 寶永五子年十月」(要利用者登録)、同コレクション:同編「同集成>同部 796頁(419コマ):一五四二 正徳二辰年十二月」(要利用者登録)。参照:2019年2月の周年災害「江戸町奉行、火災シーズンを前に、町方に一連の“警火の町触”出す」、7月の周年災害・追補版(1)「江戸町奉行、建物二階での紙燭、油火、ローソク使用禁止」)

(註):国立国会図書館デジタルコレクション(以下、国会図書館コレクション)収集の出典資料で、資料名末尾に(要利用者登録)とあるものは、該当個所をクリック後、リンクした資料紹介サイト左上部にある「>利用者登録をする」をクリックし、手続きに従って「登録利用者ID」と「パスワード」を取得した後、資料紹介サイトに戻り「ログイン」をクリック、IDとパスワードを入力、ログインすれば該当資料の全文が自由に閲覧でき、他の同館収集資料も閲覧可能となります(以下各記事同じ)。

○暴風雨で兵庫、神戸両港に大被害(140年前)
 1871年6月27日(明治4年5月10日)

 午後1時ごろから暴風が吹き荒れ大雨となった。夜中の12時になると風雨は一層激しさを増し  “逆浪海岸を侵すこと五尺有余(1m60ほど)”となり、7、8隻の汽船が陸地に吹き上げられた。

  また神戸外人居留地(JR三宮駅、元町駅間の沿岸部)以西の海岸一帯のほとんどの建物が倒壊する      など、兵庫港と隣接の神戸港では24人が死亡し家屋倒壊23戸、荷番所(倉庫警備所)倒壊3棟のほ     か運上所(税関)の建物も倒壊した。一方、船舶の被害はもっとひどく、和船の破壊500余隻、西洋型船では汽船及び帆船の被害が12隻、貨物運搬用の小舟の被害数知れずとなっている。

そのほか、築造中の海岸波止場や外人居留地の波よけの石垣が90%近く破壊され、諸倉庫の波よけ石垣のほとんどすべてと荷揚げ桟橋の石垣が大破損するなど、港湾機能は大きく損なわれた。

(出典:国会図書館コレクション:神戸市文書館提供・神戸市編「神戸市史 別録2>第2編 神戸港の経界(境界)潮汐その他>第4章 神戸港の水深及び風波 172~173頁(156コマ):風波の被害」)

〇大正10年筑後川大洪水。三大洪水の一つ、第3期改修工事の契機となる(100年前)[追補]
 1921年(大正10年)6月17日

関東の利根川太郎、四国の吉野三郎と並び称される、筑紫次郎コト筑後川が大洪水となり、1889年(明治22年)7月、1953年(昭和28年)6月に並ぶ三大洪水の一つとして記録され、1887年(明治20年)から続く、筑後川改修工事の第3期開始への契機となった。

この年は6月5日頃より、中国大陸長江(揚子江)流域に発生した低気圧が、東シナ海に出てほとんど停滞していたため、筑後川流域への降雨は数日にわたって続き、山間部では200mm/時間を超え、土地はすでに水をため込む余裕がないほどの飽和状態で、これ以上降り続けば、山間部では土砂崩れの危険が迫っていた。

16日午前、長江上流に現れた低気圧は、長江に沿って東進するにしたがい発達、翌17日早朝には、東シナ海の上海北方沖に出て雨域も著しく拡大されて九州全域を覆い、九州北部一帯が豪雨に見舞われる。その上、正午頃には対馬海峡に副低気圧が発生、筑後川流域では南西の風が強まり、特に山岳地帯では300mm/時間に達する豪雨となった。

この豪雨により、筑後川流域全体に被害が広がり、上流部の大山川流域の大山村中川原(現・日田市)では、さらに上流の大野川方面の山崩れの土砂が大山川に流れ込み、23戸の部落ほとんどが濁流と土砂に押し流され、死者13人を出す。

大山川と玖珠川の合流点にある三芳村(現・日田市)小淵では、18人が激流に押し流され1人のみ大木につかまり救助されている。

日田市を流れる玖珠川合流点から下流にあたる三隈川は、山間部の山崩れによって17日午前11時の最高水位が5,5mに達し、市内の小淵橋、銭淵橋、庄手橋などを流し、各所の堤防もほとんど決壊流失して、激流は猛烈な勢いで日田市内に進入、目抜き通は60cm~1.2mの深さの河となった。

筑後川下流部では、三潴(みずま)郡ですべての町村が浸水、大善寺村(現・久留米市)中津の堤防が決壊、三潴町(現・久留米市)草場水門閉鎖、城島町(現・久留米市)六五郎堰が破壊され。朝倉市、久留米市も水中に浮かんだ。

筑後川流域の被害は全体で、1万1620戸が浸水、3万3200町歩(約329平方km)の田畑が被害を受けている。

この大被害を受け、1887年(明治20年)より始まっていた「筑後川大改修工事」の第3期工事が1924年(大正13年)より着工されることになる。

九州第一の大河、筑後川では古来より治水や利水に関する施策が進んでおり、特に戦国時代から江戸期(16世紀~18世紀)に築造されたと思われる石積みの水刎(みずはね:流路を変えないようにする工作物)が上流部から下流にかけて所々で見受けられる。それと共に筑後川からの稲田に対する取水も盛んで、大石堰(福岡県うきは市)、山田堰(同県朝倉市)、恵利堰(同県大刀洗町)などの大規模な用水取り入れ口がある。

明治に入り、筑後川沿岸住民から根本的な改修が要望されていたが、1877年(明治10年)1月~9月に九州地方を騒乱に巻き込んだ西南戦争の影響もあり、ようやく1884年(明治17年)に入り、河口から日田市隈町に至る流域についてのやや統一された改修計画が福岡、佐賀両県の間で検討された。

改修工事は、筑後、佐賀両平野における産業や文化を発展させることを目的として、中心的存在であった船での物資の運送を支障させないため、河道の乱流や屈曲が大きく土砂の堆積や中洲の形成が著しい河口から下流部を中心に、水の流れを良くする導流堤や放水路の建設及び河道の浚渫(しゅんせつ)にあり、全額国庫負担でおこなわれた。

ところが、1889年(明治22年)7月に起きた70人を死亡させ、5万7368戸の家屋が被害に遭った大洪水によって、河川改修計画は抜本的に見直され、放水路など河道の拡大や堤防の新設、改修を中心とした第2期工事が1898年(明治29年)着工された。

そして今回の大洪水を迎える。

その教訓により第3期工事として行われた改修工事は、①久留米から上流の堤防の増設及び川幅の拡張、②各支流には水門を設け逆流を阻止する、③河川の蛇行部分を掘削し直線的にした4個所ある捷水路(しょうすいろ)を開削して広げ本流とする、④分水路や下流の本川(幹川)は状況により適宜浚渫を行う。といった内容で、1924年(大正13年)着工された。

(出典:建設省九州地方建設局編「筑後川 その治水と利水>第2章 筑後川の洪水と災害>第3節 明治・大正期の洪水 27頁~29頁:4 大正10年6月洪水」、同編「同書>第4章 筑後御川の改修工事>第2節 筑後川の改修計画 53頁~60頁」、同編「同書>同章>第3節 筑後川の改修工事 89頁~84頁」)

○定期旅客機濃霧に巻かれ初の死亡事故(90年前)
 1931(昭和6年)6月22日

 午前11時、福岡県の大刀洗飛行場(大刀洗町−筑前町)を、日本航空輸送(株)の大阪行き上り定期旅客機、フォッカー・スーパー・ユニバーサルBCAO機が離陸した。

ところが同機は梅雨時の濃霧にまかれて視界を失い、30分ほど山中をさまよい午前11時半ごろ、同県冷水峠(筑前町−筑紫野市−飯塚市)付近の山腹に激突した。

 火を噴いて墜落したとの目撃談が残っているが、操縦士、機関士および乗客1人が死亡。多数の郵便物も灰となった。有視界飛行しか方法のない時代の、日本における民間商業定期旅客機の最初の死亡事故と記録されている。

 (出典:国会図書館コレクション:講談社刊「昭和史事典>昭和6年6月 113頁(84コマ)初の旅客機惨事」(要利用者登録))

○昭和6年北海道・東北大冷害-飢餓人口45万人(90年前)
 1931年(昭和6年)6月〜8月

 東北と北海道地方は常に冷害に苦しめられていたが、この年の低温と日照不足は特にひどく、6月の気温は平年より0.6度から2.3度も低かった。7月になっても2.4度から3.6度も低いといった状況で、農作物への影響はますます大きくなった。

秋になり水稲の収穫期を迎え、北海道では全農家18万戸のうち約27%の4万8000戸が三分作(平年の30%の収穫)以下で全道平均50%、青森県でも8万2000戸のうち約26%の2万1000戸が五分作以下で平均60%の収穫しかなかった。そのほか岩手、秋田、山形各県も凶作となり、農業経営に大打撃を与えた。

特にこの年、農村の状態がひどくなったのは、一つに1929年(昭和4年)10月24日アメリカ・ウォール街株価大暴落に始まる世界恐慌に巻き込まれ、農業経営を支えていた“絹糸の原料・まゆ”の値段が大暴落したことと、合わせて米価が暴落したことと言われている。

農民たちは僅かな雑穀で飢えをしのいだが、それもない地域では木の芽や草の葉を食べたといい、その飢餓人口は45万人に上り、昼食弁当のない児童が増え、娘さんは都会へ売られていったという。

このような冷害は翌1932年(昭和7年)、34年(同9年)〜35年(同10年)と続き、1936年2月26日の陸軍青年将校による軍事クーデター(二・二六事件)の背景となっている。

(出典:力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>4 昭和時代前期の主要災害一覧 163頁:昭和6.6~8 東北・北海道地方冷害」、日本全史編集委員会編「日本全史>1931(昭和6)1051頁:北海道・東北地方を冷害・凶作が襲う、広がる飢餓と人身売買」、同編「同書>1936(昭和11)1064~1065頁:2・26事件おこる、雪の帝都に青年将校決起」)

○竣工検査前の北海道幌内ダム決壊事故。劣悪なコンクリート使用が原因か(80年前)
 1941年(昭和16年)6月7日

 当時まだランプ生活を送っていた、道北のオホーツク沿岸部枝幸(えさし)郡枝幸村と紋別郡雄武(おうむ)村に電力を供給しようと、1938年(昭和13年)、幌内(ほろない)送電株式会社が設立された。

 同社では地元の雄武村北部を流れる幌内川に堤の高さ13m、同長さ161m、取水落差10mのコンクリートダムを建設して貯水を行い、ここから発電所に導水し最大200kwを発電する計画を立てた。

 同ダムは、翌1939年(同14年)1月に着工され、その翌1940年(同15年)12月に僅か1年11か月の工事期間で本体が完成した。ところが竣工検査直前に発電所の建屋が火災にあって焼失し検査は延期されたが、翌1941年(同16年)5月、建屋の復旧工事が終え、竣工検査が行われる手はずは整った。

 悲劇の前日の6日夜半、北見地方の幌内川上流域に集中豪雨が襲来し大量の濁流がおびただしい流木を乗せてダムに押し寄せた。

 当時、幌内送電では発電所再建までのつなぎ事業として、川を使った山奥からの木材流送を引き受けていたという。それらの流木がダム中央部のゲートに多量に漂着したためダムは放流機能を失い、行き場を失った濁流が堤を越えて洪水となって流れ出した。翌7日午前9時ごろ、ダム本体の中央部が水圧に耐えきれず大音響とともに崩壊、ダム湖の水は濁流となって下流に流れた。

 下流にあった雄武町幌内集落では突然の洪水で60人が死亡、家屋流失32戸、220名が被災した。

 ダム決壊の背景は、短期間の無理な工事に加えて、中国と戦争中(1931年〜)のため劣悪なコンクリートを使わざるを得なかったことと言われているが、事故は太平洋戦争(1941年〜45年)開始直前であり、未だ真偽は不明のままである。

 なお同ダムは、戦後の1951年(昭和26年)8月から同じ場所で再建工事が進められ、1954年(同29年)12月に完成し発電を初めて行ったが“コスト高”との理由で約20年後の1973年(同48年)3月廃止されている。

  (出典:国立国会図書館保存版:(社)日本土木工業協会編・伊東 孝著「知られざる100年プロジェクト・幌内ダム」、日本ダム協会編「ダム便覧2024>このごろ>ダム随想~幌内ダム」)

○昭和16年梅雨前線豪雨。北九州から東海地方にかけて襲う(80年前)
 1941年(昭和16年)6月中旬〜下旬

 梅雨前線の活動によって豪雨に襲われ、北九州から山陽、近畿、東海地方にかけて各地で水害が発生した。

 特に25日から29日の5日間で福岡市に600mm、下関市に585mm、防府市に684mmの雨を降らせ河川の氾らんや田畑への浸水が相次いだ。

 全体で112人死亡・行方不明、50人負傷、家屋損壊534棟、同浸水5万5166棟、耕地被害446.23平方km。

 (出典:力武常次;竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>4 昭和時代前期の自然災害一覧 176頁:昭和16.6- 東海地方以西風水害」)

○ヒロポン常用者まん延に際し、覚せい剤取締法公布・施行(70年前)
 1951年(昭和26年)6月1日

 わが国の薬物犯罪取締りの歴史は、アヘン及びアヘン生成品の取締りから始まり、国際的な取締りを背景にした1930年(昭和5年)5月の「麻薬取締規則」の公布で法律上の整備は集大成を見る。
ところが、中国との戦争(1931年〜)が深みにはまり込み、その上、1941年(昭和16年)12月に太平洋戦争が始まると、夜間、戦闘員や軍需工場の作業員などの睡眠の誘惑から打ち勝つためとして、『覚せい剤』が登場した。

 当時の覚せい剤の代表は、大日本製薬(現・大日本住友製薬)が同年市販したヒロポン(略称:ポン、薬剤名:フェニルメチルアミノプロパン)で、発売当時、同社は“体力の亢進、倦怠・眠気除去、作業能率の増進”を宣伝文句にうたった。軍部はこれを早速採用したが、政府は1943年(昭和18年)3月公布の「薬事法」により同薬を劇薬に指定し販売規制を行った。

 ところが1945年(昭和20年)8月の終戦とともに、軍部が貯蔵していたヒロポンが一般市場特に闇市に流れた。その時点では同薬が中毒や精神障害を起こすことは一般にまだ知られておらず、闇焼酎より安価に入手できたので、夜間に働き生活も不規則になりがちな、作家、タレント、バンドマンなどが常用し、一般の青少年も興味半分に使い始め、中毒者が目立って来た。

 「覚せい剤取締法」が施行される2年前の1949年(昭和24年)当時、ヒロポン常用者は全国で285万人にのぼり、10月には警視庁が青少年のヒロポン中毒者の一斉取締りを行わなければならない状況になっていた。翌50年(同25年)厚生省(現・厚生労働省)は告示で、覚せい剤を医師の要指示薬品に指定、販売規制を強化したが乱用防止効果が上がらないので、この日「覚せい剤取締法」施行となった。

 (出典:衆議院制定法律「昭和26年法律第252号:覚せい剤取締法」、国会図書館保存版:法務省編「昭和57年版・犯罪白書・わが国における薬物犯罪の取締り」、(財)麻薬・覚せい剤乱用防止センター編「薬物乱用防止のための情報と基礎知識>覚醒剤」、国会図書館コレクション:昭和史研究会編「昭和史事典>1949(昭和24)年10月 411頁(233コマ):ヒロポン禍広がる」(要利用者登録)。参照:2010年5月の周年災害「麻薬取締規則公布」)

○小児マヒ集団感染で患者の母親たち、ソ連製経口投与生ワクチンの輸入求め集団陳情(60年前)
 1961年(昭和36年)6月19日

 小児マヒ(ポリオ:急性灰白髄炎)は19世紀後半ごろから世界各地で流行した感染症で、ポリオウイルスによって発症する。日本では特に乳幼児への感染が多く、後遺症として手足へのマヒを残すことから一般的に“小児マヒ”と呼ばれている。

 この小児マヒを予防するのにはワクチンが効果的であり、特にアメリカでは1916年に6000人が死亡する大流行を経験したことから開発に積極的で、1953年にはいち早くソークワクチンを開発している。一方、日本では戦前、小児マヒの流行はほとんどなく1947年(昭和22年)9月に届出伝染病として規制されても、同感染症の研究もワクチンの開発も行われていなかった。

 ところが、1959年(昭和34年)の後半期から流行しだした。特に翌1960年(同35年)は集団感染によって爆発的に増え、4月下旬に高知県と愛媛県、6月には北海道夕張市に飛び、その後太平洋沿岸全域に広まり、届出患者数は年間5606人と平年の2倍に増え319人が死亡した。

 翌1961年(同36年)は6月までに、九州地方を中心に患者数は1700人に達し100人が死亡していた。2年続きの大流行にソークワクチンが効かなかったので、母親たちは当時アメリカと政治対立し冷たい戦争を起こしていたが、ソビエト連邦(現・ロシア)で開発された経口投与の生ワクチンの輸入を希望した。

4月、患者の母親たちを中心に“東京子供を小児マヒから守る協議会(マヒ協)”が結成され、市民運動として小児マヒ予防に立ち上がった。その要求の中心は生ワクチンの一斉大量経口投与で、署名を集めて厚生省(現・厚生労働省)へ陳情することにした。

この日、マヒ協の呼びかけで母親たちを中心とした1000人を越える陳情団が厚生省に押しかけ、同省に生ワクチンの大量輸入の非常措置を要求したのである。その結果、厚生省は同月21日ソビエト連邦から1300万人分の生ワクチンの緊急輸入を決定し、翌月の7月20日から全国的に投与を開始した。この間の4月、同省では予防接種法を改正してソークワクチンの定期的な接種も始め、それらの相乗効果で翌1962年(同37年)の患者数は前年の11%と急激に減少し、母親たちの願いは実ることになる。

(出典:国会図書館コレクション:厚生省編「厚生白書・昭和36年度版>第2部 各論>第7 章 公衆衛生>第5節 伝染病 381~386頁(210~213コマ):1.急性灰白髄炎(ポリオ)」、医療法人社団健友会編「しんぶん健友・第26号・1面:小児マヒ闘争の真実を語る」)

○昭和36年梅雨前線豪雨。東海・甲信地方中心に襲う(60年前)
 1961年(昭和36年)6月24日〜7月10日

 この年は6月中旬までは雨の少ない地方が多く、水不足となっていたが、23日に熱帯低気圧が北上するとともに南の海上にあった梅雨前線も活動を活発化しながら北上し程なく24日から本州南岸に停滞した。26日には、四国に接近した台風6号に伴い神戸市で511mmなど四国や近畿地方が豪雨となったが、台風の影響はそれまでだった。

 一方、停滞していた梅雨前線は東海、甲信地方を襲い、7月5日にかけて名古屋市、岐阜市で500mm以上と各地に大雨を降らせた。特に伊那谷地域では多数の土砂崩れが発生した上、天竜川が氾らんこの地域だけで107人が死亡、29人行方不明、999人負傷、住家2040棟が流失、全半壊している。また7月に入ると3日から5日にかけて九州から山陰、北陸、東北地方に大雨を降らせ各地を被災させた。

 全体で302人死亡、55人行方不明、1320人負傷。住家流失670棟、同全壊1088棟、同半壊1908棟、同破損4798棟、同床上浸水7万3126棟、同床下浸水34万1236棟など甚大な被害となった。

(出典:気象庁・災害をもたらした気象事例「昭和36年梅雨前線豪雨」、水利科学研究所編・水利科学第5巻4号・畠山久尚+藤田謙吉著「昭和36年梅雨前線豪雨と中部地方の水害」)

萩野昇医師、イタイイタイ病は三井神岡鉱業所亜鉛精錬過程で産出するカドミウムが原因と発表
(60年前)[改訂]
1961年(昭和36年)6月24日

イタイイタイ病という一見奇妙だが病状を的確に表現した病名は、患者が多く発生した地元の開業医・萩野昇の証言による。

萩野は1955年(昭和30年)8月、富山新聞の取材に対し“この病気の患者さんの多くは、婦中町(現・富山市)熊野地区の萩島、添島、蔵島の3集落(現・富山空港対岸)に長年住んでいる31、2才の女性で、男性はわずか3名。それも青少年期での発症はなく、しかも他町村から入籍した女性は罹っていないなど注目すべき点が多い。

この病気の症状は、最初は神経痛のように体の一部分に激しい痛みを覚え、2、3年経つと骨と筋肉が萎縮し、その上骨がもろくなり、わずかの力が加わってもポキリと折れてしまう事もある。しかも骨と筋肉がキリキリと痛むため、患者はその苦しみに耐えられず「いたい、いたい」と叫ぶので、看護婦さんは患者さんを“イタイイタイさん”と呼んでいるほどだ”と述べ、8月4日付けの同紙に記事となるや、記者が見出しで名付けた“イタイイタイ病(見出しはひらがな)”という病名とともに世間に知られるようになった。

この奇病が知られるや、東京慈恵会医科大学を退職し臨床医学研究所と医院を開設した河村稔が、萩野を訪ねて共同研究に入り、同年10月の第17回日本臨床外科医学会において「所謂イタイイタイ病に関する研究」と題して共同報告をしたが、原因についてはその時点では特定されていなかった。

その後萩野医師は、河村所長とイタイイタイ病の原因解明に入り、同病が集団発生している点から統計的な手法による疫学調査を進め、2年後の1957年(同32年)12月、富山県医学会において、同じ容態の患者の分布が、神通川中流域沿岸に集中していること、その上流域の三井金属鉱業神岡鉱業所(現・神岡鉱業)において鉛や亜鉛を産出していることなどから“イタイイタイ病の原因は、神岡鉱山からの排水による鉱毒にあるのではないか”と発表した。これは、前年1956年(同31年)11月、熊本大学研究班が打ち出した“水俣病、新日本窒素肥料水俣工場排水説”と軌を一にしており、ともに明治時代の“足尾鉱毒事件”の事例を調べていたと思われる。

このイタイイタイ病原因個所として疑念をもたれた三井神岡鉱業所(以下・鉱山)は、1586年(天正4年)豊臣秀吉旗下の金森長近が飛騨入封後、茂住(もずみ)宗貞を金山奉行として招き、茂住銀山・和佐保銀銅山として開発、経営させた。

ところが、江戸時代17世紀となると銀の増産による神通川の水質汚濁が始まり、農業や飲料水に対する被害が増え、流域の村々との間で「悪水証文」を取り交わしている。また1819年(文政2年)には、流域の村々が稼人(茂住銀山側)に悪水処理を義務づけているほど、鉱毒が下流域の農産物などに被害を与え始めていた。

明治時代になると銀山の経営が悪化し、後の大財閥となった三井組から資金援助を受け、1874年(明治7年)9月には蛇腹平抗など4抗を三井組に売却、三井組は近代的な鉱山経営に乗り出し、主力産出物は銀から鉛、さらに亜鉛へと移行する。1889年(同22年)神岡鉱山として統一、1892年(同25年)6月には三井鉱山合資会社(現・三井金属鉱業)が設立され、日露戦争(1904年:同37年2月~1905年:同38年9月)、第一次世界大戦(1914年:大正3年7月~1918年:大正7年11月)では軍需を中心に東洋一の規模を誇る日本有数の亜鉛と鉛の鉱山として発展する。

ところが、増産を続ける神岡鉱山による鉱毒被害の拡大は、婦中町を中心に1911年(明治44年)ごろからと推定されている。

それは三井神岡鉱山の鉱毒について、かつての地元紙・北陸政報が1911年(明治44年)5月3日より上、中、下と3日間にわたり、トップ記事の「政報」で“神通川鉱毒予防、三井鉱山の反省、本県農界の警備”との見出しをつけ、“神通川が恐るべき鑛毒の為に将に侵犯されんとしつゝあるとは、我輩の屡々耳にしたる所なり”と書き出し、神通川上流の三井神岡鉱山の鉱毒により同川沿岸では稲の発育が悪くなり淡水魚も死んでいると述べ、同川の鉱毒は足尾銅山を上回る大災害になる、とレポートしていたのが、イタイイタイ病裁判の資料調査の過程でわかったからである。

この記事は、同社が解散したこともあり忘れられたが、第一次世界大戦以降、特に昭和に入り(1926年~)中国との戦争など軍事色が強まる中で、神岡鉱山は軍需鉱山として支えられ、同鉱山では、1927年(昭和2年)全泥式浮遊選鉱法を導入し生産性の向上をはかる。これにより鉱滓が細粒化し重金属の小粒子が濾過装置をくぐり抜け、排水として下流域へ流れ。神通川沿岸の水田に蓄積され始めたという。

イタイイタイ病を最初に診療したのは、萩野昇の父、萩野茂次郎と伝えられている。当時、昇の先代として婦中村(町→富山市)で医院を開業していたが、1935年(同10年)骨の痛みを訴える女性患者を診察し、住所とその職業から、この奇病の原因は神岡鉱山の鉱毒であろうと考え、当時の村長と相談、村長は内務省衛生局(現・厚生労働省)にこの奇病の調査を依頼したという。ところが相手が軍需に必要な物を産出しており、調査をされることなくうち捨てられ、鉱毒問題を始め、イタイイタイ病は地元の風土病として扱われ、顧みられることはなかった。

しかし、富山新聞のイタイイタイ病レポート記事以降、世間に知られ、研究は進んだが有力な説は細菌感染説、過労説、栄養失調説などで、風土病説から一歩も進まなかった。

そこへ救いの手が現れる。岡山大学小林純教授と農学者の吉岡金市博士である。

小林教授は、萩野医師が1957年(同32年)富山県医学会において“イタイイタイ病の原因は、神岡鉱山からの排水による鉱毒にあるのではないか”と報告したのを受け、1959年(同34年)10月、被災地域の井戸水と神岡鉱山付近の河川水を分析、銅、亜鉛、カドミウムが顕著に含まれていることを確認する。一方吉岡博士は翌1960年(同35年)8月、被災地の水田を視察したところ、稲の根が分結不良であるところから、重金属による汚染を確信する。同年10月、小林教授が富山中央病院の協力で入手したイタイイタイ病患者の遺骨や臓器から大量のカドミウムが含まれていることを初めて分析する。

両専門学者の科学的で具体的な証拠を得て、さらに三者が共同し研究を進めた結果、萩野医師と吉岡博士は、この日の日本整形外科学会において、次のように発表するに至った。

“イタイイタイ病の発生は、神通川中流域にかぎられており、またその地域の飲料水・作物を中心に多量のカドミウムが含まれていること、さらにこのカドミウムが神通川上流にある三井神岡鉱業所の亜鉛精錬過程で大量にでき、それが神通川に放流されて中流域を汚染したこと、従ってイタイイタイ病の直接の原因はカドミウムであり、その責任は三井神岡鉱業所にある”

ちなみに、世界最大の宇宙粒子観測装置“スーパーカミオカンデ”は、この神岡鉱山地下1000mに1995年(平成7年)に設置され、世界約50の大学や研究機関から200名を超える研究者が来日し国際共同研究が行われるなど、かつての公害のシンボルは、世界の平和と協調のシンボルとなっている。

(出典:環境庁編「昭和48年版・環境白書>公害の現況および公害の防止に関して講じた施策>第5章 健康被害の現況と対策>第3節 イタイイタイ病とカドミウム>イタイイタイ病の経緯」、富山新聞「1955年8月4日付:婦中町熊野地区の奇病、いたいいたい病にメス」、北陸政報「明治44年5月3日~5日付:神通川鑛毒豫防(上)(中)(下)三井鑛山の反省、本縣農界の警備」、日本臨床外科医会編「第17回 日本臨床外科医会総会記事 6頁:9 所謂イタイイタイ病に関する研究」、外岡豊著「環境政策-4 イタイイタイ病」、三井金属鉱業編「神岡鉱山って、どんな鉱山(やま)?」, 神岡浪子著「日本の公害史>第4章 高度経済成長と公害>4 イタイイタイ病と裁判126頁」、東京大学宇宙線研究所編「スーパーカミオカンデ」。参照:2016年5月の周年災害〈下巻〉「水俣病公式確認−原因は新日窒水俣工場の工場排水とわかる」、2011年12月の周年災害「田中正造、足尾鉱毒問題で政府に質問書提出し議会でも追及」)

○イタイイタイ病訴訟。公害病と初めて認定された初の住民側勝利の公害訴訟(50年前)[改訂]
 1971年(昭和46年)6月30日

 1961年(昭和36年)6月、萩野医師と吉岡博士がイタイイタイ病の原因は三井金属鉱業神岡鉱業所から排出されるカドミウムにあると日本整形外科学会で発表をした後、厚生省(現・厚生労働省)研究班も6年後の1967年(同42年)12月、ようやく同じ結論を中間発表として下した。

 それでも患者や遺族たちは長年にわたる病苦の上、病気の原因は栄養失調だとか過労のせいではないかとか生活習慣まで持ち出されて責められてきた。しかし患者や遺族たちは、萩野医師に励まされ島林弁護士をはじめとする弁護士有志に支援されて、1966年(同41年)11月にはイタイイタイ病対策協議会(イ対協)を結成し、神岡鉱業所へ損害賠償を求め直接交渉におもむいた。すると、鉱業所から“公的機関が三井に責任があるというなら補償する”と言われたという(NHK「その時歴史が動いた」より)。

 そこで患者、遺族14名は翌1968年(同43年)3月9日、その原因は神通川上流の神岡鉱業所から排出されるカドミウムにあるとして、三井金属鉱業を相手取った損害賠償請求の訴訟を富山地方裁判所に提起した。これは国内初の“公害病訴訟”であったので、周囲の目は暗く“どうせ勝てないのに、金目当てだろう”との声が聞こえてきたという。しかし、訴訟から5か月後の同年8月8日、自由民主党鈴木内閣園田厚生大臣が“イタイイタイ病は三井金属鉱業神岡鉱業所(現・神岡鉱業)が排出したカドミウムによる公害疾患”と、全国に国内初の公害病認定の談話をテレビ放映した。これにより、周囲の批判の声はようやく収まり、それまで様子見だった残りの患者や遺族たちが、裁判に参加するようになったという。

 三井金属鉱業に対する訴訟上の争点は、① 因果関係とその立証、② 被告会社の責任、③ 損害とその立証の3点にあり中でもポイントはカドミウムとイタイイタイ病との因果関係にあった。これに対し被告の三井金属鉱業は、カドミウムの体内侵入経路や摂取量などから体内における機序(しくみ)を因果関係確定の要件として鑑定を申請したが、裁判所は問題とすべきは法的な因果関係にあるとしてこれを全面的に却下した。

 この日、富山地方裁判所に於いて判決が下され原告側が全面勝訴した。これは公害訴訟における最初の原告(被害者住民)側の歴史的な勝利判決だった。

  被告側は名古屋高等裁判所に控訴したが、翌1972年(同47年)8月この第二審でも原告側の全面勝訴となり被告側は再控訴を断念せざるを得なかった。

  これにより被害者住民たちは三井金属鉱業側と次の誓約書を結ぶという成果を得たのである。それは、① イタイイタイ病の賠償に関する契約、② 土壌汚染問題に関する誓約、③ 被害者住民と公害防止協定を結び同社神岡鉱業所への立ち入り調査権を認めるという誓約だった。

 その後、被害者住民たちは、弁護士や科学者とともに鉱山への立ち入り調査を続け、排水処理などの改善提案も行ってきたが、最初の交渉では、鉱山側はけんか腰だったという。ところが渋々提案を採用してみると、問題のカドミウムの排出量が減少し、被害者住民側と鉱山側両者の関係も改善され、その後は鉱山側で自主的に公害対策を取るようになったという。

 (出典:神岡浪子著「日本の公害史>第4章 高度経済成長と公害>Ⅰ 四大公害裁判>4 イタイイタイ病と裁判」、NHK2007年3月7日放映「その時 歴史が動いた:苦しむ患者を救いたい-イタイイタイ病裁判・弁護士たちの闘い-」、イタイイタイ病対策協議会編「イタイイタイ病のあゆみ」、同協議会編「イタイイタイ病闘いの顕彰碑・碑文」、朝日新聞・2018年8月22日付「1968年(昭和43年)イタイイタイ病 初の公害病認定、潮目一変 患者勝訴の追い風に」)

宮城県沖地震後、建築基準法施行令改正し新耐震基準(設計法)施行(40年前)[改訂]
 1981年(昭和56年)6月1日

 わが国で初めて建築について規定した法律は、1919年(大正8年)4月に公布された「市街地建築物法」だが、翌1920年(同9年)11月の「市街地建築物法施行規則 第3章 建築物の構造設備」の「第2節」として、初めて建物の「構造強度」に関する規定が設けられた。しかし、耐震基準の規定までには至っていない。

 1923年(同12年)9月、震度7を記録し住家約11万棟が全壊した関東地震(関東大震災)が起きる。

 この大地震で、アメリカ流設計の鉄筋コンクリート造のビルが大きな被害を受けたのに対し、地震学者の佐野利器(としかた)の“耐震理論”を取り入れて“耐震計算”を行ったビルにはほとんど被害がなかった。この実績を政府が評価し、翌1924年(同13年)6月、「市街地建築物法施行規則」が改正され世界に先駆けた“耐震基準”が設けられたのである。

  このときの改正では、強度計算を適用する場合の各種材料の最小限重量を定めた「第101条」に、「第101条ノ2」として“強度計算二於ケル地震ノ水平震度ハ0.1以上ト為スべシ”とする建築設計上の“地震力規定”が初めて設けられ、耐震計算が義務づけられた。これは佐野が提唱した“水平震度(建物の揺れ÷重力加速度)”の概念を採用したもので、単純な計算で建物の安全性の確認が可能となった。

 1950年(昭和25年)5月「市街地建築物法」を廃止し、新たに同年5月24日「建築基準法」が制定され、「第20条 構造耐力」で“建築物は、自重、積載荷重、積雪、風圧、土圧及び水圧並びに地震その他の震動及び衝撃に対して安全な構造でなければならない”と規定され、具体的な技術的基準は同年11月16日の「建築基準法施行令 第3章 構造強度」で規定された。これが現在「旧耐震基準(設計法)」と呼ばれているものである。

 1978年(同53年)6月、マグニチュード7.4を記録した宮城県沖地震が起き、震度では5程度ではあったが、家屋の被害は全壊1183棟、半壊5574棟、一部損壊6万124戸に達した。

  この教訓から旧耐震基準を大幅に見直し、“震度5強程度の中規模地震では軽微な損傷、震度6強~7に達する程度の大規模地震でも倒壊は免れる”を目標とする“耐震基準”を規定し、1980年(同55年)7月14日「政令196号 建築基準法施行令」を改正、この日、新しい新耐震設計法が施行された。これを“新耐震基準”と呼び“旧耐震基準”との違いは、新しく二次設計での“保有水平耐力計算”が、「第8節 構造計算 第1款の2 第82条」として規定に取り入れられた。

 大規模地震の時に建物にかかる水平力(震度)に対し、建築物の柱や梁がどの程度の力まで耐えられるのかを検証することで、大規模地震動に対しても安全が確保されるよう規定が強化され、その後の建築確認申請の審査基準となり、“耐震基準”のいわゆる“宮城沖前、後”と呼ばれるようになった。

 (出典:大橋雄二著「建築物の耐震基準の変遷」、国会図書館デジタルコレクション「官報・2482号:大正9年11月9日:市街地建築物法施行規則>第3章 建築物の構造設備 159~163頁(2~4コマ):第2節 構造強度」、足利工業大学刑部研究室編・ゼミの資料>基礎関連法規「大正13年6月12日改正 内務省令第125号:市街地建築物法施行規則 第3章 第2節>第7 強度計算 第101条ノ2」、国会図書館デジタルコレクション「官報・第7007号・昭和25年5月24日 321頁~332頁(1~7コマ):法律第201号:建築基準法」、同コレクション「官報・号外 第121 号:昭和25年11月16日 政令第338号・建築基準法施行令 4~14頁(12~17コマ):第3章 構造強度」、同コレクション・大島巌著「新耐震設計マニュアル・改正建築基準法施行令による 14~32頁(15~24コマ);政令第196号」(要利用者登録)、ナカジン編「新耐震基準とは?旧耐震基準との違いや確認方法などを解説」。参照:2013年9月の周年災害「大正12年関東地震:関東大震災」、2016年10月の周年災害「佐野利器、世界で初めて“水平震度”概念に基づく耐震設計法を提案」、2010年5月の周年災害「建築基準法、文化財保護法公布」、2018年6月の周年災害「1978年宮城県沖地震−建築基準法改正され新耐震基準で“宮城沖前、後”」)

○雲仙普賢岳大火砕流災害。取材中の火山学者、報道関係者、警備中の消防団員が犠牲に(20年前)
 1991年(平成3年)6月3日

 雲仙普賢岳は1792年5月21日(寛政4年4月1日)に大噴火を起こし、その後の眉山の山体崩壊による有明海の大津波で対岸の肥後国(現・熊本県)に大被害を与えたことから“島原大変肥後迷惑”と言われた歴史を持つ。1990年(平成2年)11月17日の同岳九十九火口、地獄跡火口からの噴火が198年ぶりと言われたのにはそのような背景がある。

 前年1989年(同元年)11月の橘湾群発地震から始まった地震活動で、噴火の兆しは把握できたが、前兆現象は噴火4か月前の7月より観測され始めたという。

 噴火はまもなく活動が低下したが、翌1991年(同3年)3月再び噴火が始まり、5月20日には山頂部の東端から東斜面にかけて溶岩ドームを形成した。ところがこの溶岩ドームは翌日から砕けだし次第に火口を埋め尽くすまでに体積を増した。5月24日朝火口からあふれ出した溶岩の固まりは火砕流となって火口の東側水無川源流部を下った。

 溶岩の噴出は1日30万立方mを上回るペースで進み、溶岩ドームは崩壊を繰り返して火砕流は徐々にその規模を増していった。そしてこの日の午後4時8分、それまで最大規模の大火砕流が雨で水かさが増していた水無川流域を襲った。安全地帯と思われていた個所で、噴火の状況を取材中の火山学者や、報道機関各社の人々、警備中の地元消防団員などが火砕流に襲われ43人が死亡、9人が負傷し家屋179棟が焼失した。

 噴火全体による被害は44人死亡、12人負傷、土石流、火砕流、噴石による家屋被害は住家1399戸、非住家は旧大野木場小学校など1112戸。

  (出典:内閣府編「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書:平成19年3月1990-1995 雲仙普賢岳噴火」、九州大学大学院理学研究院附属火山観測研究センター編「1990−1995雲仙普賢岳噴火の概要」、同研究センター編「インターネット博物館・雲仙普賢岳の噴火とその背景」)

〇大阪教育大学付属池田小学校、児童殺傷事件(20年前)[追補]
 2001年(平成13年)6月8日

 学びの舎で児童が殺傷されるという、痛ましくも残酷な事件がこの日起きた。大阪教育大学付属池田小学校での事件である。

午前10時過ぎごろ、二時間目が終わり、休み時間に入る直前だった。

その頃、同校の前に車を止めた一人の男が、鍵をかけていない自動車専用門から侵入。体育館の前を歩いていたが、児童たちを連れて花壇の方に向かっていた一人の教員とすれ違う。しかし、その教員は児童の父兄と思い特別不信に思わず、会釈しただけで声をかけなかったという。

男は10時10分過ぎごろ、手に包丁を持ち、南校舎テラス側入り口から一階に入り、事務室より一番遠く担任教師がいなかった二年南組教室に侵入、そこにいた女子児童5名を無言で刺した。続いてテラス側出入り口から隣の二年西組に移る。

この組では担任教員がいたが男の侵入に気づかず、男は侵入と同時に居合わせた3名の児童を次々と襲う。突然の事で動転した教員は、児童への避難誘導まで気が回らず、警察へ通報するため事務室に向かって廊下を走リ、10時18分警察へ通報したが、事件の全容がわからず対応に約8分間もかかり、警察が救急車の要請をしたのは通報から約5分後だった。

一方、男は二年西組後方出入口から廊下に出て、その隣の二年東組教室に入リ、即座に2名の児童を突き刺す。この様子を見た担任の教員から椅子を持って追いかけられたので、テラス側出入り口に逃げその途中、ふたたび別の児童2名を襲う。

男は二年東組から外に出たところで、急を知ってタックルをかけてきた一年南組の担任教員の胸を刺して重傷を負わせ、中庭の方へ逃げていく児童たちを追いかけた。

しばらく追いかけた男は再び教室に引き返し、10時20分ごろ、今度は1年南組教室内に児童がいるのを見つけたので、テラス側出入り口から担任教員のいない同教室に入り、黒板の近くにいた3名の児童に切りつけ、別の児童を同教室テラス側に追い詰め突き刺した。その際、駆けつけた二年南組の担任教員に背後から刃物を持っている右腕を掴まえられたが、同教員めがけて切りつけたうえ、先ほど刺して倒れている児童めがけて再び突き刺した。

その直後ようやく、駆けつけた二人の教員に取り押さえられ警察官に引き渡された。

学校の管理職や教務主任たちは、思いがけない凶行に遭い、学校全体の状況把握ができず、何名の児童が切りつけられどこに倒れているかもすぐにわからず、救急活動の指示ができなかったので、刺された児童は失血で死亡してしまった。また負傷した児童に対する救護活動や病院への付き添い、保護者への連絡も大きく遅れた。

この凶行はわずか10分ほどの出来事であった。男は最初の2年南組で5人全員を死亡させ、その隣の西組で2人を死亡させ、6人に負傷。2年東組で4人に負傷、取り押さえられた1年南組で1人を死亡させ、3人に負傷させた。あわせて児童8名(うち女子7名)が死亡、13名(うち女子5名)が負傷し、男に立ち向かった教員2名が重傷を負っている。

逮捕された男は、池田市内に住む無職の宅間守で、東門前に止めてあった車の中から、アイスピック2本のほか包丁や鉈(なた)も見つかり、計画的な犯行とわかった。

事件直後、関係校の大阪教育大学、大阪大学、府立こころの健康総合センター、大阪被害者相談室などの専門家で構成されたメンタルサポートチームが発足する。

翌2002年(平成14年)同チームの調査によると、池田小学校全児童680人のうち、心的外傷ストレス障害(PTSD)の症状が現れている児童は、襲われた2年生を中心に10数人から20人ほどで、保護者や教職員などにもこの病気に苦しんだ人がおり、20数年後の現在でも、拭いきれないでいる人がいるであろう。またPTSDに近い、怖くて教室に入れない児童や、原因不明の頭痛を訴える児童たちが約100人にもあがったという。

その後、池田小学校では、教諭たちの間で不審者が侵入して暴れる事を想定した訓練が開始され、全国の学校へも広がっていったという。一方、文部科学省では「学校への不審者侵入時の危機管理マニュアル」を作成、全国の学校へ配布すると同時にネットでも公開している。

(出典:大阪教育大学編「付属池田小学校事件の概要」、国立国会図書館デジタルコレクション「日本児童青年精神医学会誌 45巻2号―児童青年精神医学とその近接領域山下仰著「児童期のPTSD-特に単回性の心的外傷によるPTSDの治療についてー 56頁~58頁(37~38コマ):Ⅲ 児童期のPTSDの実例」(要利用者登録)、文部科学省編「学校への不審者侵入時の危機管理マニュアル」)

〇ネイバージャパン、東日本大震災機に“LINE”を開発、サービス開始、
 災害時の安否確認、被災者支援に活躍、利用規約に偽情報禁止条項明記(10年前)[追補]
 2011年(平成23年)6月23日

 日本を始め東アジア各国で利用者が多い、国際的なネットワークSNS(ソーシャル・ネットワーキング・システム)の一つ、“LINE(ライン)”がこの日サービスを開始した。

 古来より情報の伝達手段(メディア:媒体)として発達した新聞、雑誌、書籍などの“印刷媒体”やテレビ、ラジオなどの“電波媒体”は、新聞社、出版社、放送局などの経営体において“原稿”が精査され、不特定多数の人々(マス)へ有料で情報を送り出していた。

 ところが、2010年代以降利用が進んだと言われる“SNS”は、コンピュータによる情報伝達“インターネット”と同じく個人間のコミュニケーションを主な目的とした“通信媒体”なので、情報伝達が早い上、通信者同士の双方向通信が可能なこと、動画も送信できること、などの点から特定な問題に対する具体性、説得性が高いなど、それまでのマスメディアにはない優れた面を持っている。

 また情報を投稿する利用者(投稿者)としては、安価な“スマートフォン(スマホ)”により通信(投稿)が可能なことや、全世界の不特定多数の人々もその情報を受信でき、それを他人へ流すこと(拡散)も可能なため、企業が広告媒体として利用するケースが増えている。

 その点から、投稿した情報を比較的長時間、熟読・視聴する人が多く、かつそれを定期的に収集しているフォロワーが多ければ多いほど、投稿者に対し企業広告に対する成功報酬としての支払額や支援金の“投げ銭”が多くなるので、それを目的として、人の目を引く目新しい情報を投稿するケースが増える可能性を持っている。

 これらの仕組みの上、投稿者は匿名で情報を提供できるので、使い方や管理の仕方によっては、人々が興味を持ちやすい、根拠のないフェイクニュース(偽情報、デマ)の投稿や個人に対する誹謗中傷などがスキャンダルとして拡散されるなど、多くの問題点を抱えている。

 このような問題も抱えるSNSの世界に、韓国系資本のソフトウエア開発IT企業・日本法人ネイバージャパン(株)が飛び込んだ背景に、2011年(平成23年)3月に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)がある。当時、固定電話だけでなく、携帯電話もつながりにくくなり、大事な安否確認が取れない日々が続き、救援活動に支障を来したという状況があった。

 この状況を把握したネイバージャパンのスタッフは“災害時だからこそ、大切な人とつながる通信手段を開発しよう”と決意したという。目的は“電話回線ではなく、インターネット回線に接続できるスマートフォンに特化した災害に強い通信手段”ということで、新しいSNSの開発を進め、大震災から104日後のこの日“LINE”と名付けてサービスを開始する。

 LINEの特徴の一つに“親しい人同士のコミュニケーション”を掲げ、投稿したメッセージを受信した人が読むと“既読”と示す機能をつけ、“返信がしにくい災害時でも既読と示されることで投稿した送信側も安心できるという狙いがあった”という。

 2016年(平成28年)4月、震度7を記録した熊本地震の際、SNSのツイッター(現・X)に地震が発生した“14日夜ライオンが逃亡した”という画像も張られた悪質な偽情報が投稿されたが、一方LINEでは、その開発した目的通り、熊本県立大学に避難した被災者の支援活動に活用されていた。

 その後、2024年(令和6年)1月の能登半島地震の際、LINEはそのホーム(トップ)画面に、震度6弱以上の大地震の時に提供する“安否確認ページ”を表示、閲覧数は2億回を超え、震災後の総務省の調査によれば、被災時の安否確認にLINEが67.1%、携帯電話が40.1%、SNSのXが19%、インスタグラムが12.3%使用されたという。

 しかし、そのLINEといえども、この能登半島地震の際、偽情報として投稿を削除した件数は1800件を超えており、現在LINEを運営するLINEヤフー(株)では、その利用規約「第18条禁止行為の9項」で“意図的に虚偽の情報を流布させる行為”を上げ、「第18条の禁止行為に抵触する等、本規約に違反した場合」は、「利用停止・解除」とすると、第19条1項(2)で明確に定義している。

 また2024年(令和6年)2月に公表した「情報空間の健全性確保の取組について」では、「偽・誤情報の範囲」について“政府機関・ファクトチェック機関など信頼できる機関によるファクトチェック結果に基づき明らかな偽・誤情報と判断されるものについて対応”とし、具体的な禁止行為をサービスの性質に応じ設定、違反に対しては投稿削除・アカウント(使用権)の停止などを行うと警告している。

 (出典:朝日新聞2025年1月9日号「ネットと災害③:LINEがつなぐ命と人、安否確認も避難所支援も」、LINEヤフー(株)編「LINE公式アカウント 利用規約」、同編「LINEヤフーにおける情報空間の健全性確保の取組について>偽・誤情報の範囲、能登半島地震関連の投稿削除の状況」)

〇「津波対策の推進に関する法律」制定され、津波の日を設け防災活動推進(10年前)[追補]
 2011年(平成23年6月24日)

 同年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)は、未曾有の津波による被害をもたらしたことで、記憶に新しい。死因を特定できた犠牲者の内、その92.4%が“溺死”つまり津波による犠牲者と報告されている(平成23年4月11日内閣府)。

 国では中央防災会議を開き「東北地方太平洋沖地震を教訓とした地震・津波対策に関する専門調査会」を4月27日設置、6月26日には「中間とりまとめに伴う提言」として「今後の津波防災対策の基本的考え方について」を公表、全12回の審議を経て、9月28日「報告書」をとりまとめた。

その間、衆・参両院では「津波対策の推進に関する法律(案)」を審議の上全会一致で可決し、この日の6月24日公布、同日制定させている。

同法では前文で“津波は(中略)一度発生すると、広域にわたり、国民の生命、身体及び財産に甚大な被害を及ぼすとともに、我が国の経済社会の健全な発展に深刻な影響を及ぼすおそれがある災害である。我が国は、過去幾度となく津波により甚大な被害を受け、また、東日本大震災により多くの尊い命を失ったことは、痛恨の極みである。さらに、東日本大震災では、原子力発電所の事故による災害の発生により、地域住民の生活及び我が国の経済社会に深刻な影響を及ぼしている”と明確に津波被害について定義し、そこには東日本大震災の教訓があると明記している。

その上で法の目的を“津波による被害から国民の生命、身体及び財産を保護するため、津波対策を推進するに当たっての基本的認識を明らかにするとともに、津波の観測体制の強化及び調査研究の推進、津波に関する防災上必要な教育及び訓練の実施、津波対策のために必要な施設の整備その他の津波対策を推進するために必要な事項を定めることにより、津波対策を総合的かつ効果的に推進し、もって社会の秩序の維持と公共の福祉の確保に資する”としている。

また、具体的な施策として“① 防潮堤、水門等津波からの防護のための施設の整備と併せて、津波避難施設の整備”とするハード面の整備に加え、ソフト面として“② 津波に関する防災上必要な教育及び訓練の実施、防災思想の普及等を推進することにより津波及び津波による被害の特性、津波に備える必要性等に関する国民の理解と関心を深める”とした(第2条2項)。

 さらに“③ 観測体制の充実、過去の津波及び将来発生することが予測される津波並びにこれらによる被害等に関する調査研究”“④ 津波は、国境を越えて広域にわたり伝ぱ播する特性を有していること”などから“観測及び調査研究に係る国際協力の推進(同条4項)としている”

以下、各条文において、それまで述べた各施策の国及び地方公共団体(自冶体等)における役割を規定し、“国民の間に広く津波対策についての理解と関心を深めるようにするため、津波防災の日を設ける(第15条)”とした。

ちなみに「津波防災の日」とされた11月5日は、名作「いなむらの火」のモデルとなった、嘉永7年11月5日の安政南海地震の際、大地震と津波に遭遇した浜口梧陵が、とっさに村人を避難させるために道ばたの稲むらに火を放ったという防災活動を象徴する逸話にもとづいている。

(出典:内閣府編「平成23年版 防災白書>第1部 東日本大震災>図1-1-4東日本大震災における死因(岩手県・宮城県・福島県)」、内閣府編「中央防災会議・東北地方太平洋沖地震を教訓とした地震・津波対策に関する専門調査会」、中央防災会議編「専門調査会中間とりまとめに伴う提言:今後の津波防災対策の基本的考え方について」、中央防災会議編「東北地方太平洋沖地震を教訓とした 地震・津波対策に関する専門調査会 報告」、衆議院制定法律「平成23年法律第77号・津波対策の推進に関する法律」、内閣府編「津波防災の日とは」。参照:2014年12月の周年災害「安政南海地震、名作「稲むらの火」の原点となった逸話を生む」)

▼読者の皆様へ
ここに掲載した大災害以外に、永く銘記すべき災害について掲載のご提案がございましたら、下記へご一報ください。

 防災情報新聞社 担当者:山田征男 Eメール:yama@88.catv-yokohama.ne.jp
FAX :045-391-7246

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気象災害(中世・江戸時代編)

気象災害(戦前・戦中編)

気象災害(戦後編)

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火災・戦災・爆発事故(江戸時代編)

火災・戦災・爆発事故(戦前・戦中編)

火災・戦災・爆発事故(戦後編)

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▼一時「休載」のおしらせ

  「周年災害」を断続的ながら月ごとに連載して参りましたが、記事内容の月と発行月が、現在のところ10か月もずれております。

  歴史的に災害の実態を見ますと、初春に“火災”が多く、初夏から秋にかけての“気象災害”と災害に季節性があります。また読者の方もご自分の関係する地域の災害を読まれて、その内容を知り、二度と災害を起こさないよう“防災”について心がけていただくのも、この記事の目的の一つでありますので、発行がずれているということは、記事の目的を全うしていないことになりますので、今回一時「休載」させていただき、来年2026年7月より再開させていただきたく、勝手ながらお願い申し上げます。

  なお、「年表」の方も当方が意図しない事情により、現在8割ほどが該当する本文(の掲載されている月)とリンクしておりませんが、幸いにも原文が国立国会図書館においてファイル化されておりましたので、それと再リンクさせ年表と該当本文を連携して読んでいただけるよう、休載中に作業を進めたく思いますので、よろしくご理解いただきたくお願い申し上げます。

(2025年8月発行)

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