【目 次】
・熊本享保14年の大火(籔の内火事)。火薬製造中のたばこの火の不始末
・江戸町奉行、防火には鳶人足、店人足は大火の時にのみ使うことと指示。町火消の鳶人足化
・佐野常民、長与專齋ら大日本私立衛生会設立、民間からの医療行政充実を図る[改訂]
【本 文】
〇熊本享保14年の大火(籔の内火事)。火薬製造中のたばこの火の不始末
1729年5月25日(享保14年4月28日)
九つ時(12時ごろ)、熊本藩家臣たちが居住している、藪の内の塙善左衛門屋敷から出火した。
見る間に炎は伸びて、熊本城内の御賄(まかない)所、音信所、竹小屋および近隣の上林、坪井米屋町は全焼。広丁の半分、八百屋町、内坪井も全焼した。
武家屋敷では、内膳屋敷、朽木内匠屋敷、持法院屋敷、藤崎作左衛門屋敷など大屋敷が焼失、町家では、寺原、京町、御座打町、向寺原、京町が小笠原備前殿屋敷のところまで焼失。その後、城下町近隣の牧崎村へ飛び火し3、4カ所ほど焼いたのち、炎は京町筋岩立田畑まで進み、夜五つ時(20時ごろ)鎮火。
火災の原因は、煙硝をついて火薬を作っていた荒仕子(使用人)のたばこの火が引火し、出火当時強い風が吹いており、それが吹き抜けて火の粉が飛び散り延焼範囲が広がったという。
侍屋敷1380か所、町家2584軒焼失、火事名は出火場所にちなみ「藪の内火事」と呼ばれた。
(出典:「熊本市史>第1編 熊本城と近世政治の展開>第5章 城下町の発展と政庁>第3節 城・城南町の警備と防火>2 城下町の火災と防災>熊本における大火の記録 431頁」)
〇江戸町奉行、防火には鳶人足、店人足は大火の時にのみ使うことと指示。町火消の鳶人足化
1787年5月14日(天明7年3月27日)
この日、江戸町奉行所は、江戸城の西側から南および大川(隅田川)対岸の本所、深川地域の町火消と二番組(日本橋、京橋、銀座、築地)、三番組(目黒、白銀、三田、芝)、五番組(四谷、青山、赤坂、麻布)、本所深川南組(木場、深川、永代、清澄)、同中組(常盤、森下、住吉、猿江)、同北組(両国、本所、石原、横川)各町の町名主(町政の担当者)を奉行所に召し出し、本鳶人足(鳶職の火消人足)をもって防火にあたらせ、店借人(店子)や店(商家)勤めの店人足(店火消)は、大火の時にのみ使用するよう指示した。
もともと町火消は、1657年3月(明暦3年1月)の明暦の大火の教訓から、幕府が定火消を新設するよりも1か月早い1658年9月(万治元年8月)、町人による自衛消防組織として、京橋寄りの南天満町1、2、3丁目と南槙町、桶町、鍛冶町、畳町など23町が共同して結成したものが始まりで、その後この地域の組は、1720年9月(享保5年8月)当時の町奉行により“いろは48組町火消”に再編成された際、二番組せ組を名乗った。
自衛消防組織結成当時、火消人足として集められたのは、裏長屋住まいや表通りに店借りをしている職人、小商人と商家へ勤める店奉公人であったので、彼らは“店火消”と呼ばれた。
またこの奉公人たちとともに、建屋管理などで同じ商家や町内に出入りしていた鳶人足や鳶職を家業としている店借たちが混じっていた。
結成当初、店火消はボヤや飛び火などに対する初期消火にあたっていたが、それだけでは燃えさかる火勢に追いつかず、当時最善の消火方法が、出火元の家屋や風下で火元に近い家屋を破壊して延焼を防ぐ“破壊消防(消火)”であったので、建物の木組みを承知している建築職人としての鳶職人の能力が火災時にも発揮されるようになり、火消人足の主力となっていった。
この日の町奉行の指示は、鳶職人が火災時に火消人足として発揮している実力を公式に認めたもので、町火消組の主力は、その後鳶職人たちが担うようになり、ボランティアの店人足たちは初期消火を分担することになる。また当日召し出された各組は、江戸中心部の二番組をはじめ、その町の職業構成から大店(大商店)や出入りしている職人たちが多いので、すでに鳶人足たちが火消の主力になっていたかもしれない。
時代が進むにつれ、幕府が結成した定火消の火消人足(臥煙:がえん)が、火消役の旗本に雇用され組織化された者だったように、鳶職人たちは、商家や町の個人ごとの抱え(雇用)鳶から、親方(頭:かしら)の下に組織化され、平時は鳶職として建築に携わり、火災時には火消人足として活躍するようになる。
(出典:東京都編「東京市史稿>市街篇 第30 192頁~200頁:本鳶人足防火」、近世史研究会「江戸町触集成 第8巻>天明七丁未年 250頁~253頁:九二一九」。参照:2020年(令和2年)9月の周年災害「江戸町奉行、町火消を“いろは48組”に再編成」、2017年3月の周年災害(上巻)「明暦江戸大火:振袖火事」、9月の周年再議・追捕版(5)「江戸日本橋で自衛消防組織“民営町火消組(店火消)”誕生」、2018年10月の周年災害「幕府、江戸の街を守る常設火消・定火消を新設」)
○佐野常民、長与專齋ら大日本私立衛生会設立、民間からの医療行政充実を図る[改訂]
1883年(明治16年)5月27日
日本赤十字社の創立者・佐野常民を会頭に、初代文部省医務局長で初代東京医学校(現・東京大学医学部)校長でもある長与專齋を副会頭に推した大日本私立衛生会が誕生した。
同会には民間を中心とした医療関係者1250人余が参加、会頭に推された佐野常民は祝辞の中で、“一国は一家の積なり、一家は一人の積なり、吾人各自の健否はわが国貧富強弱の関するところなり”と、一人一人の健康が国の貧富や強弱の基であると健康の重要性をのべ、さらに“能く衛生の道を講じて疾病の患(わずらい)を防がば、彼(欧米人のこと)に下らざる健康の民と為り開明富強の国を成すべきは複く疑いを容れず”と、開明富強の国となるための医療の大事さを説いた。また同会の設立趣旨として“衛生の事たる各人の急務にして、之を政府に放任すべきものに非ず”と、人々の衛生(健康を守ること)は、民間の医療関係者の急務で、政府にまかせきりにすることではないことを訴えている。
当時、明治政府の厚生行政は、コレラなどの外来感染症からの防疫が重要な部分を占めていただけに、広く民間の協力を得ることが行政効果を挙げるために必要であるとの認識で一致していた。大日本私立(民間での創立という意味)衛生会の創立はこのような状況の中で行われた。
同会は主な事業として、まず機関紙を発行し医療に関する広報活動を積極的に行った。医療関係の事業としては、政府の牛痘種継所の事業を継承し、天然痘ワクチンを作るための痘苗製造事業を経営。ついで、1892年(明治25年)12月には、北里柴三郎を所長に迎えた国内初の伝染病研究所を設立、1895年(同28年)には、地方の衛生機関で活動する公衆衛生職員(医師以外)の訓練を目的とした衛生事務講習所を開設し、年2回講習会を東京で開催するなど、草の根からの医療・衛生従事者を育てることに専念した。
同会はその後、1931年(昭和6年)12月、日本衛生会に改組され、戦後の1951年(同26年)1月には、同会を母体として、日本公衆衛生学会、日本保健協会と合併し、(財)日本公衆衛生協会となり現在にいたっている。
(出典:大日本私立衛生会編「大日本私立衛生会雑誌第1号・祝詞会頭佐野常民」、(財)日本公衆衛生協会編「一般財団法人日本公衆衛生協会の歩み」[追加]。参照:2012年12月の周年災害「北里柴三郎を迎え大日本私立衛生会が初の伝染病研究所を設立」)
▼以下の「日本の災害・防災年表」各編に進む
・WEB防災情報新聞「周年災害」トップに戻る
(2024年4月・更新)